奧津余曾之妹・余曾多本毘賣命:天押帶日子命
御眞津日子訶惠志泥命(孝昭天皇)の娶りの記述は、実に簡明なのだが、誕生した御子がトンデモナク活躍される。既に投稿済みだが、訂正・加筆を行うことにした。関連するところを全文見直しである。何度も述べるように、決して欠史の天皇ではない。
古事記原文…、
御眞津日子訶惠志泥命、坐葛城掖上宮、治天下也。此天皇、娶尾張連之祖奧津余曾之妹・名余曾多本毘賣命、生御子、天押帶日子命、次大倭帶日子國押人命。二柱。故、弟帶日子國忍人命者、治天下也。兄天押帶日子命者、春日臣、大宅臣、粟田臣、小野臣、柿本臣、壹比韋臣、大坂臣、阿那臣、多紀臣、羽栗臣、知多臣、牟邪臣、都怒山臣、伊勢飯高君、壹師君、近淡海國造之祖也。天皇御年、玖拾參歲、御陵在掖上博多山上也。
御眞津日子訶惠志泥命、坐葛城掖上宮、治天下也。此天皇、娶尾張連之祖奧津余曾之妹・名余曾多本毘賣命、生御子、天押帶日子命、次大倭帶日子國押人命。二柱。故、弟帶日子國忍人命者、治天下也。兄天押帶日子命者、春日臣、大宅臣、粟田臣、小野臣、柿本臣、壹比韋臣、大坂臣、阿那臣、多紀臣、羽栗臣、知多臣、牟邪臣、都怒山臣、伊勢飯高君、壹師君、近淡海國造之祖也。天皇御年、玖拾參歲、御陵在掖上博多山上也。
文字解釈を順次行うことにして、尾張国の「奥津」=「奥まった場所の川が合流するところ」は問題ないようであるが、やはり「余曾」は簡単には解釈できないようである。
「曾」=「重な(ね)る」で既に幾つか登場した文字である。後の倭建命の活躍場面に登場する「熊曾国」=「隅が重なった(山)」の解釈で現在の北九州市門司区にある古城山が特徴の国であると紐解いた。これもほぼ確実に今回に適用できると思われる。残りは「余」である。
いろいろ辞書を紐解いてみると、「あまり、よぶん」などなどであるが、尾根が延びた残りの場所を意味すると考えると…「余曾」は…、
余([尾根の]残り)|曾(積み重なる)
…「尾根の残りが積み重なって高くなったところ」と紐解ける。「奥津」があって「余曾」の地形を探すと…現在の北九州市小倉南区堀越近傍と推定される。山の稜線の特徴を捉えて表現する、古事記の主要なパターンに含まれる例であろう。
「余」は神倭伊波禮毘古命の后、伊須氣余理比賣などと全く同様の解釈であり、また伊余國の「余」=「片方に寄せ集められたところ」と解釈する。山稜の形状を上手く捉えた表現と思われる。
多(山稜の端の三角州)|本(麓)|
…「山麓で山稜の端の三角州が並ぶところ」の毘賣(田を並べて生み出す)命と解釈される。「多」=「月+月」(三角州が並ぶ)の象形である。神阿多都比賣の表現に通じるものと思われる。
<奥津余曾・余曾多本毘賣命・天押帶日子命> |
父親は尾張連の祖となったと記述される。「連」(山稜の端が長く延びたところ)を示すと解釈する。現在の常磐高校(住所は志井)辺りと推定される。
「奥津」は、やはり内陸側に奥深く入り込んだところを表していることが解る。
「余曾」から求められる場所が確定的なら「奥」の解釈も確定する。古事記記述における重要な文字が示す意味が明瞭になったようである。
また邇藝速日命の息がかかっていたところでもあろう。徐々にその地に根を張って行ったものと推測される。御子の活躍が記される重要な展開である。
天押帶日子命
天押帶日子命の「天押帶」とは何を意味するのであろうか?…「帯=多羅斯」と古事記序文にある。元々は「結び垂らす」なのか「足らす」から来るのか、思い巡らすことは複数である。
「天」は壱岐島を示すのではなく、「阿麻」=「擦り潰されたような台地」の地形そのものを表していると思われる。「押」=「扌(手)+甲(覆い被せる)」=「押し付ける、押し拡げる」と解釈する。「帶(多良斯)」=「山稜の端のなだらかな三角州が切り分けられたところ」とすると「天押帶」は…、
…「擦り潰されたように押し拡げられた山稜の端でなだらかに切り分けられた三角州」と紐解ける。「日子」=「[炎]の地形から生え出たところ」であって、三角州の先にある小高いところに坐していたのではなかろうか。残念ながら九州自動車道の北九州JCT付近となっていて詳細を読取ることは不可であるが・・・。
また、天照大御神の読み解きの一つである「天照」=「遍く(あまねく)照らす」に類似する表記でもあろう。
…と読めなくもない。下記の膨大な祖の地を暗示する命名であろうか?・・・。天押帶日子命が祖となった地名を探してみよう。
「天」は壱岐島を示すのではなく、「阿麻」=「擦り潰されたような台地」の地形そのものを表していると思われる。「押」=「扌(手)+甲(覆い被せる)」=「押し付ける、押し拡げる」と解釈する。「帶(多良斯)」=「山稜の端のなだらかな三角州が切り分けられたところ」とすると「天押帶」は…、
天(擦り潰されたような)|押(押し拡げる)
帯(山稜の端でなだらかに切り分けられた三角州)
帯(山稜の端でなだらかに切り分けられた三角州)
また、天照大御神の読み解きの一つである「天照」=「遍く(あまねく)照らす」に類似する表記でもあろう。
天(あまねく)|押(押し拡げる)|帶(足らす)
…と読めなくもない。下記の膨大な祖の地を暗示する命名であろうか?・・・。天押帶日子命が祖となった地名を探してみよう。
春日・大宅・粟田・小野・柿本・壹比韋・大坂
邇藝速日命の居所への進出である。埋没した邇藝速日命一族、しかし彼らが築いた地には財力を生み出す力が眠っていただろう。そして何と言ってもその地は師木に隣接するところである。様々な情報を得るにも最適な場所と思われる。少し高台に上がればその地を一望にできるところである。結論を先に記すと…全て福岡県田川郡赤村に属する現在の地名である(但し柿下は田川郡香春町)。
春日:中村 大宅:大内田 粟田:小内田 小野:小柳
柿本:柿下 壹比韋:山ノ内 大坂:大坂
柿本:柿下 壹比韋:山ノ内 大坂:大坂
春日臣
<春日臣・大宅臣・壹比韋臣・大坂臣> |
「春日」の文字列はそれを示しているのであろうか?・・・。
「春」は「屯+艸(草)+日」から成る文字と解説される。
「屯」=「寄り集まる」、「艸(草)」=「小ぶりな山稜」及び「日」=「炎」と解釈する。
すると「春」=「[炎]のような山稜が寄り集まった様」を表していると紐解ける。
「春日」の「日」も同様に「炎」を示すとすると、[炎]の地形が寄り集まったところとそうでないところが混在する地形を表していると解読される。
「春日」は…、
寄り集まったところがある山稜の端が[炎]のように延びた地
…と読み解ける。図に示したように戸城山の北西麓一帯を表していると思われる。中心となる地は現地名田川郡赤村内田の中村辺りであろう。「臣」は谷間に坐していたことを告げていると解釈される。
尚、「春日(ハルヒ、シュンジツ)」が本来の読みであろうが通常「カスガ」と読まれる。何故?…別途でその由来を解き明かすことにする。
大宅臣
「大宅」の「宅」=「宀(山麓)+乇」に分解する。「乇」は『説文解字』によると「艸葉也。从垂穗、上貫一、下有根。象形。凡乇之屬皆从乇」と記されている。これを地形象形に用いたと思われる。「乇」=「山稜の端が[根]のように延びた様」と読み解ける。
大(平らな頂の山稜)|宅(山麓で[根]のように延びたところ)
…と紐解ける。下図に大坂山の位置を示すが、その山麓が長く延びた先端に当たるところと推定される。
壹比韋臣
後の応神天皇紀の「蟹の歌」に含まれる「伊知比韋」に該当するものであろう。既にこの孝昭天皇紀で登場する。天皇家の隆盛期における最重要な地の一つであるが、通説は「櫟井(イチイ)」とされ、その文字が示す意味を全く理解されていないのである。それは兎も角、文字列の解釈をおこなってみよう。
「壹」は「一つ」ではなく「専ら、総て」と解釈する。「比」は簡略には「並ぶ」であろうが、前出の「佐比持神」と同様に「並ぶ」の意味よりも「ぴったりとくっつく様」が強調された解釈とする。「韋」=「囲(圍)」であろう。「壹比韋」は…、
「壹」は「一つ」ではなく「専ら、総て」と解釈する。「比」は簡略には「並ぶ」であろうが、前出の「佐比持神」と同様に「並ぶ」の意味よりも「ぴったりとくっつく様」が強調された解釈とする。「韋」=「囲(圍)」であろう。「壹比韋」は…、
壹(総て)|比(くっついて並ぶ)|韋(囲われたところ)
…「総てくっついて並んで囲われたところ」と読み解ける。周囲を小高い山で取り囲まれたところを示していると思われる。
田川郡赤村内田の山の内と呼ばれるところと推定される。国土地理院の色別標高図から中心地「中村」に隣接するが隔絶した、おそらく当時は狭い谷間をくぐり抜けて漸く辿り着ける場所であっただろう。
後には大倭根子日子國玖琉命(孝元天皇)が娶る穗積臣等之祖・內色許男命の妹・內色許賣命が坐した場所と推定したところである。更に若倭根子日子大毘毘命(開化天皇)が春日之伊邪河宮に坐すことになる。天押帶日子命が果たした役割は極めて重要な位置付けであったと告げている。
応神天皇紀には「丹=辰砂」の話題が頻出する。その採掘場所を「伊知比韋」(伊知:小ぶりな鏃)と詠う。地形象形だけでなく「一つになって他を寄せ付けない」と言う意味も含まれているかもしれない。古事記全体を通じて…、
…と記述されているのである。いや、水銀はその後も有用な素材として君臨する歴史を辿る。その毒性が取り上げられるのは、近年になってからである。あらためて真に貴重な記述を我々は有していることに気付かされる。このことだけでも古事記の評価を見直すべきではなかろうか・・・。
応神天皇紀には「丹=辰砂」の話題が頻出する。その採掘場所を「伊知比韋」(伊知:小ぶりな鏃)と詠う。地形象形だけでなく「一つになって他を寄せ付けない」と言う意味も含まれているかもしれない。古事記全体を通じて…、
丹=極めて貴重な資源
…と記述されているのである。いや、水銀はその後も有用な素材として君臨する歴史を辿る。その毒性が取り上げられるのは、近年になってからである。あらためて真に貴重な記述を我々は有していることに気付かされる。このことだけでも古事記の評価を見直すべきではなかろうか・・・。
<粟田臣> |
粟田臣
「粟田」の「粟」の解釈は伊豫之二名嶋の粟国に類すると思われる。「粟」=「たわわな様」を示す場所と思われる。
現在の赤村内田の小内田辺りではなかろうか。粟国の山稜の形とは異なり田の連なる様を模したものと思われる。
柿本臣・小野臣
ところで「柿本」の由来は何であろうか?…ほぼ間違いなく現在地名「柿下」と思われる。「柿」は消すに消せない重要なキーワードなのであろう。
<柿本臣・小野臣> |
尾根と山稜が作る地形が「市」の字形を表していると見做したのである。すると「柿本(下)」は…、
山稜が作る[市]の字形の麓
…と紐解ける。
山頂(愛宕山)が約500mほぼ平坦な形状を示すことと尾根から真っ直ぐに降りる稜線が際立つ山容である。
大坂山~愛宕山~伊波禮の山容を象った表記がこの後幾度となく登場する。神倭伊波禮毘古命の命名由来でもあり、やはり極めて重要な地であったことが伺える。
ともあれ現在の地名、また万葉歌で著名な柿本人麻呂に繋がる由来としたが、果たして?・・・。
「小野」は現在の小柳という地名のところと推定した。山稜の端が「小」の形をしていることに由来すると思われる。左図を拡大して参照。
<大坂山> |
大坂山の山陵が作る稜線を結んだら…少し間延びした「大」だが…長く平坦な主稜線の峰と延びた枝稜線が描く文字が浮かんで来る。
間延びの稜線が「坂」を示す。「大坂山」は…、
[大]の字の地形が坂になった山
…と紐解ける。ありふれた文字の地形象形ほど難しいものはない、であろう。「大きな坂」何処にでも転がっているような解釈では一に特定は不可であった。
<天押帶日子命(祖)①> |
この地の山稜の端は、穂のように細く延びていることから必然的に谷間の住まっていたのであろう。「連」、「(國)造」と表記されないのである。
この地域における祖となった場所を纏めて示した。また各々の「臣」のそれらしき場所を併せて示した。
阿那・多紀・壹師・伊勢飯高
さて、「宇遅」を後にした天押帶日子命は何処に向かったのであろうか?…結果を先に示すと、北九州市小倉南区に属する地名が並ぶ。
阿那:平尾台 多紀:新道寺 壹師:志井 伊勢飯高:高野
<多紀臣> |
阿那臣・多紀臣
「阿那」=「豊かな台地」カルスト台地、洞穴だらけの「平尾台」とする。勿論…、
阿(台地)|那(ゆったりとした)
…である。
「阿那」=「穴」の方がピッタリ、という感じもするが…勿論掛けている筈。「多紀」は…、
「紀」=「糸+己(畝る、曲がりくねる)」地形を象形していると紐解いた。金辺峠からの東谷は殆ど水田ができない地形であって、それが始まるところである。
<壹師君> |
当時はどうであったのか?…ともかくも明解な地形象形なのは確かである。
「臣」が示す場所は些か曖昧さがあるが、現在の石原町駅の東側の谷間辺り、新道寺公民館の近隣ではなかろうか。
東は平尾台、西は道原に通じる交差路がある。人々の行き交うところでもあったと思われる。母原の少し南側に位置するところである。
壹師君
「壹師」は上記の北方に「志井」という現地名がある。語順を捩って残存する地名ではなかろうか・・・とこれで終わってしまうと通説の域を脱せない?・・・。
「壹師」は…、
壹(専ら、総て)|師(凹凸の地形)
…「専ら、総て凹凸の地形」と読み解ける。「師」は「師木」など山稜の端で無数の凹凸が見られる場所、当時の主要地点で用いられる文字である。「壹師君」は上図の恵比須神社辺りに坐していたのではなかろうか。
伊勢飯高君
「伊勢飯高」については「伊勢」という情報から、現地名の「高野」が該当するように思われる。既出の「飯(なだらかな山稜)」、「高(皺が寄ったようなところ)」として…、
…「なだらかな山稜の麓にある皺が寄ったようなところ」と読み解ける。
谷の奥にそれらしきところが見出せる。大国主命の御子、阿遲鉏高日子根神の場合と比べて鮮明な「皺」が伺える。
更にその地が区切られて「君」(歪さがない形に整えられたところ)の地形を示していることが解る。
「伊勢神宮」に近接する現在の三重県の多気・一志・志摩など「国譲り」の痕跡が・・・内宮と外宮が渡って合う「度会」もあった。現地名の由来が怪しいのも頷ける筈であろう。
古事記は律令制後の地名を付けるのに、格好の書物であっただろう。それぞれの地名の配置を些かではあるが…地形の相違は致し方なく…考慮して、加えて文字を代えて行われた結果であろう。
いや、文字から地形が解っては困るから、変えたのが実際であろう。現在の地名の由来が不確かにしたのは、その大半の理由が「国譲り」と言える。
それはさて置き、引き続き祖の地を求めてみよう。
羽栗・知多・牟邪・都怒山
母親の出自に関連するところ、尾張の詳細地名のお出ましである。
羽栗:横代葉山 知多:田原 牟邪:長野 都怒山:貫
羽栗臣・知多臣
全て北九州市小倉南区の地名である。「栗」は甲骨文字を象ったとして…「羽栗」は…、
羽(羽の様な)|栗([栗]の形の山稜)
<天押帶日子命(祖)②> |
この地は神倭伊波禮毘古命の段で日下之蓼津と記述されたところである。「蓼」に「羽」が含まれている。繋がった表記であろう。
山稜は見事に宅地開発されて当時を偲ぶことはできないが、「羽栗」の紐解きに何ら支障はなかったようである。
貫山山塊の北西の端(隅)に当たるところである。
「知多」は…、
知(鏃の形)|多(山稜の端の三角州)
…「知=矢+口」=「鏃」と解釈する。例えば大倭日子鉏友命(懿徳天皇)の孫、和知都美命に含まれる「知」を同様に紐解いた。
牟邪臣・都怒山臣
<牟邪臣・都怒山臣> |
これは「小ぶりでねじ曲がる」であるが…現地名長野を流れる長野川の様子を象形したのであろう。
現在の川も極めて蛇行の激しい様子を示していて、この長野川に比定できる。「牟」の甲骨文字の形、「牛」の形が、この川の上流部の特徴を捉えているように思われる。
図に示したように二つの深い谷間から流れて出て合流している。また、白色破線で示したのは、推定した当時の海岸線である。実に「牟」と「邪」が近接した形を成していることが解る。
「都怒山」の「都」=「集まる」、「怒」=「女+又+心」と分解解される。「女」=「嫋やかに曲がる」、「又」=「[手]の形」、「心」=「中心」とすれば…、
都(集まる)|怒(嫋やかに曲がる[手]の形の中心)|山
…山稜の端で凹凸のある丘陵地帯を示していると解釈される。「又(手)」=「幾つかに分かれた山稜の端」の地形を表していると解釈する。「怒」と同様に「奴」、「取」、「坂」など多くの文字に含まれるが、全て同じ解釈である。
少々錯綜としてて面白いのが「知多」である。現在の知多半島の隣、渥美半島は田原市に属する。
「知多」を譲って「田原」を残したのに、その「田原」まで持って行かれた…失礼ながら笑いがこぼれる出来事である。
総てに「臣」(隙間の地形)が付加される。小ぶりな谷間の場所を表すものと読み解いた。
図に「臣」の古文字で示したが、多数の入江のような地形があり、一に特定は難しいが、それぞれの中心地であることも加味した。詳細は図を拡大して参照。
近淡海國造
最後は「近淡海國造」…近江ではありません。淡海と近淡海を区別しない日本書紀は、真面(まとも)な紐解きに値しない書物と断定できるのであるが、まぁ、参考に目通しするに止めよう・・・。
「近淡海國造」は些か広範囲で情報も少ない状況なのだが、「造」(二俣に分かれた谷間)が実に有効であったことに気付かされた。
「二俣に分かれた谷間」それなりに存在しているように思えるが、「近淡海國」に限れば一に特定されるのである。その上にこれ以上ないくらいに鮮明な地形・・・吉野河(現小波瀬川)が吉野(現平尾台)から流れ出る谷間、である。
極めて明確な故に何の修飾も無く記述されたものと思われる。「造」を地形象形と紐解けなければ到達し得なかったのである。
そしてこの地は後の若帶日子命(成務天皇)が坐す近淡海之志賀高穴穗宮の近隣を示すことが解る。おそらく現在の貴船神社辺りかと推定される。
成務天皇紀に唐突に登場する地は、天押帶日子命の子孫によって開拓されていたころが解る。
またそれが「近淡海國」の中心の地であることも伝えているのである。
さて、「天押帶日子命」が祖となった地を纏めて図に示した。一見してなかなかの”布陣”であろう。
「春日」の隅々までに浸透したことは後に大きな効果を生み出すことになる。反転攻勢の第一歩と見做して良いのではなかろうか…。
「二俣に分かれた谷間」それなりに存在しているように思えるが、「近淡海國」に限れば一に特定されるのである。その上にこれ以上ないくらいに鮮明な地形・・・吉野河(現小波瀬川)が吉野(現平尾台)から流れ出る谷間、である。
<天押帶日子命(祖)全> |
そしてこの地は後の若帶日子命(成務天皇)が坐す近淡海之志賀高穴穗宮の近隣を示すことが解る。おそらく現在の貴船神社辺りかと推定される。
成務天皇紀に唐突に登場する地は、天押帶日子命の子孫によって開拓されていたころが解る。
またそれが「近淡海國」の中心の地であることも伝えているのである。
さて、「天押帶日子命」が祖となった地を纏めて図に示した。一見してなかなかの”布陣”であろう。
「春日」の隅々までに浸透したことは後に大きな効果を生み出すことになる。反転攻勢の第一歩と見做して良いのではなかろうか…。
が、まだまだ時間を要する作業なのである。孝昭天皇はこれまでの天皇と比べ長生きをした。じっくりと先のことを考えられたであろう。これでも欠史と言えるか?・・・である。
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