2018年8月30日木曜日

木梨之輕王・輕大郎女 〔252〕

木梨之輕王・輕大郎女


大雀命(仁徳天皇)の四男、男淺津間若子宿禰命(後の允恭天皇)の治世に進む。長兄、三男と皇位を継ぐという「乱れ」が生じ、更に四男が続くという、一体何があったのか?…と懸念するところである。勿論古事記は無口で、背景を推し量るのも難しいのであるが、この「乱れ」が更に増幅されることになる。

大国倭国、「倭国連邦言向和国」の建国と同時に、その内にある崩壊への兆しが見え隠れする時期に差し掛かったことを伺わせる記述へと進んで行くようである。
 
<意富袁・佐袁袁>
そんな時代の流れの中で少々特異な事件が勃発する。

同母兄妹の悲恋物語、最後は共に自死する二人、「木梨之輕王」と「輕大郎女」、島流しの刑の場所「伊余湯」が登場する。

既に詳細を述べたのでそちらを参照願う。「伊豫」「伊余」の文字解釈も追記しているので併せて参照願う。

繰り返すが、四国伊予の物語では、決して、ない。

この物語の主人公については、おおよその居場所を求めてはいたが、あらためて詳細を述べてみようかと思う。安萬侶コードのフル活用である。先ずは、彼等の出自から・・・。
 
古事記原文…、
 
品陀天皇之御子、若野毛二俣王、娶其母弟・百師木伊呂辨・亦名弟日賣眞若比賣命、生子、大郎子・亦名意富富杼王、次忍坂之大中津比賣命、次田井之中比賣、次田宮之中比賣、次藤原之琴節郎女、次取賣王、次沙禰王。七王。
 

忍坂之大中津比賣命
 
応神天皇の御子、若野毛二俣王が百師木伊呂辨を娶って誕生した多くの御子の中に「忍坂之大中津比賣命」がいる。彼女が上記主人公の母親となる。景行天皇、倭建命そして息長一族に絡む由緒ある出自と言える。また彼女が誕生させた御子の二人が後の天皇となる。古事記、クライマックスへ後少しのところに辿り着いたようである。

<忍坂之大中津比賣命>
既に述べたところではあるが、概略を記す。「忍坂」(目立たない坂)は神倭伊波禮毘古命(神武天皇)が通ったところである(神武天皇紀を参照)。

その長い坂の真ん中辺りにある大きな津を意味する命名と思われる。現在の金辺川と鮎返川が合流する田川郡香春町採銅所二辺りと比定した

忍坂大室で生尾土雲と戦闘した近隣と思われる。比賣の在処は傍らの高台にあったのではなかろうか。

神武天皇が当初に侵出したところであり、景行天皇がこの地の南に当たる纏向之日代宮に坐し、その御子の倭建命が伊勢、尾張に向かう度に通った道筋にある。

谷合の土地も徐々に開けて来たのであろう。詳細な繋がりは不明だが比賣が坐することになっても決して不思議な場所ではないようである。

この比賣を遠飛鳥宮に座していた男淺津間若子宿禰命(允恭天皇)が娶ることになる。遠飛鳥とは目と鼻の先、足繁く通われたのであろうか・・・。

古事記原文…、

弟、男淺津間若子宿禰命、坐遠飛鳥宮、治天下也。此天皇、娶意富本杼王之妹・忍坂之大中津比賣命、生御子、木梨之輕王、次長田大郎女、次境之黑日子王、次穴穗命、次輕大郎女・亦名衣通郎女御名所以負衣通王者、其身之光自衣通出也、次八瓜之白日子王、次大長谷命、次橘大郎女、次酒見郎女。九柱。凡天皇之御子等、九柱。男王五、女王四。此九王之中、穴穗命者、治天下也、次大長谷命、治天下也。

九人の御子の中に主人公「木梨之輕王」と「輕大郎女・亦名衣通郎女」が登場する。他の御子達が何処に居たのか、言い換えると遠飛鳥及び忍坂では到底無理な「食い扶持」を得るために何処に散らばって行ったのか、についてはこちらを参照願う。

<木梨之輕王①>
木梨之輕王

後の古事記中最も悲しい物語の主人公である。それは後に述べるとして、この名前は何処を指すのであろうか?…「梨」=「無」ではない。

「梨」=「利+木(山稜)」と分解し、更に「利」=「禾+刃」と分解される。すると「梨」=「山稜を切り取る(稲のように)」と紐解ける。「木梨」は…、
 
木(山稜)|梨(山稜を切り取る)

…「山稜が山稜を切り取ったところ」と解釈される。図に示したように山稜の端の先に小高くなったところがあり、まるで横切る山稜で切り取られたように見えるところである。

真に良くできた地形、それを「木梨」と名付けるとは・・・母親の西側の地である。安萬侶コード木(山稜)」のオンパレードである。

続く軽王の「軽」は幾度か登場したように「戦車が敵陣に突っ込んで行く様」で、「真っ直ぐに延びる縦糸の象形と解説される。

<木梨之輕王②>
これを地形象形に用いると、川の合流点の三角州のような地形を示すと解釈して来た。

図に示したように母親の近隣に細長く延びた丘陵は大河ではないが、谷川に挟まれていることが判る。三角州の地形である。

掲載した画像の大きさではやや不鮮明かと思われるが、画像クリックで拡大表示される。

王の坐した場所を求めるには情報不足であり、最も北側にある(現人神社)辺りかもしれないが、母親の近隣と表示した。

それにしても「木(山稜)」が徹底されているようである。ここまで来ると、実に爽快な気分になってくるが、果たして最終章まで持ち堪えられるのか・・・。現住所は田川郡香春町採銅所高原辺りである。
 
輕大郎女(衣通郎女)

<境之黒日子王・輕大郎女>
名前の最初にある無修飾の「輕」は、大倭日子鉏友命(懿徳天皇)の「軽之境岡宮」で登場した地を示すと思われる。彦山川と遠賀川の合流地点近傍である。

現在の地名も直方市上・下境として「境」の文字を残しているところと比定した。それだけで終わるかと思いきや、「衣通」がその居場所を示していたのである。

わざわざ「其身之光自衣通出」と謂れを注記されているが、些か戯れの臭いがする、と受け取る。

勿論、その通り(シースルーって、どんな美女?)、輕太子(この王は太子であった)が目が眩むほどの光を発していたのであろうが・・・。

ともあれ、そんな注記に因われず、解釈してみると…、
 
衣(山麓の端にある三角州)|通(広がりわたる)
 
…「山稜の端にある三角州が広がり渡る」ところと紐解ける。「三川之衣」「許呂母」と全く同じ解釈となる。凄まじいばかりに重ねられた表現と思い知らされる。が、これが古事記であろう。

因みに兄弟の「境之黑日子王」の「黑」=「里+灬(炎)」から山稜の端が「炎」の地形で、その傍らにある田が作られた場所と紐解ける。この地は大きな山稜の端にあり、現在の水田となっている場所の大半は水面下の状況であったかと推測される。

その中で「黑」の地形に合致し、当時も水田とできたであろう場所は図に示したところ、十分な標高があり、川が流れている場所と思われる。台地の上の池、河川の治水がなされて初めて現在のような広大な稲作地帯へと変貌できたのであろう。まだまだ時期尚早の時であったのではなかろうか。同時に「別」をその時点で継続することの難しさも示しているのである。

彼等二人に含まれる「輕」の文字は、突進して行く様を暗示しているようでもある。同母兄妹間の姻戚は禁じられていたとのことであるが、それなりの理由があるからで、皇位継承の荷が課せられた身分としては、難しい選択、と言うか早くに皇位を弟に譲るべきだったのであろう。

いずれにしても、揺らぎ始めた皇位継承、と思われる。仁徳天皇紀以降、末子相続を採用しなくなるが、同時に倭国の拡大膨張戦略から外れ、内向きになって来る。大きな次代の変換期であったことは確かであろう。
 
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<伊豫国・伊余国の文字解釈について>

「豫」=「杼を横に通して向こうに糸を押しやること」であり、「余」=「農具で土を押し退けること」を意味する文字であると解説される。後者は押し退けたものが余りの意味に通じ、前者は横糸を通して布(平坦な地形を意味する)を作ることに通じる。


<伊豫・伊余>
即ち「二名嶋」は西側の山稜を押し退けて東側に集めた、として見た象形と結論付けることができる。

見方は違うが同じ意味を示していることになる。だから両方の文字使いをしたものと思われる。

東側(讃岐・粟、後の若木・高木)の方に「余」を使う方が適しているように感じられる。他方、西側の伊豫国・土左国(後の五百木・沼名木)に「伊豫」が使われるように押しやられた方は「豫」であろう。

古事記の文字使いは真に正確で、後に登場する伊余湯の「湯=飛び撥ねる水」が生じる急流の川があるのは「余」の地である。まかり間違っても「伊予湯」はあり得ないことなのである。「湯=温泉」として事なきを得た歴史学、であろうか…罪は重いが・・・近年ではこの説には人気がなく、と言って代案も今一つのようだが・・・いずれにしても解は見当たらない。

「伊」=「人+尹」で「尹」=「治める、正す、整える」の意味を持つことから(「伊伎嶋」と同様)、「伊豫()国」は…、
 
人がしたように一方に寄せて整えられた

…国という解釈になる。
 

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