2018年6月19日火曜日

菅原之御立野中・狹木之寺間 〔223〕

菅原之御立野中・狹木之寺間


垂仁天皇は二つの和風諡号「伊玖米入日子伊沙知命」「伊久米伊理毘古伊佐知命」を持ち、この天皇についての情報を豊かにしている。説話も含め賢帝であり、歴代の天皇の中でも、したたかさは群を抜いている感じである。登岐士玖能迦玖能木實=橘」で記述されたように人材確保が急務の発展途上国の様相を物語っているものと思われる。

彼らの必需品、稲に加わる「丹」の確保、それは天皇の権威を知らしめ、この世に彩りを与える魔法のようなものであったろう。その生産の確保も彼が果たした役割が大きいと伝えている。いよいよ倭国は大国への船出を果たしたのである。坐した地は現在の福岡県田川市伊田辺りと比定した。豊かな鉱物資源が埋もれる土地である。

大きな足跡を残した天皇及び后の眠れる場所を紐解いておこう。陵墓の場所は尚更難解な表現が使われている、いつものことながら…盗掘防止かな?・・・。

古事記原文[武田祐吉訳]…此天皇御年、壹佰伍拾參歲。御陵在菅原之御立野中也。又其大后比婆須比賣命之時、定石祝作、又定土師部。此后者、葬狹木之寺間陵也。[この天皇は御年百五十三歳、御陵は菅原の御立野の中にあります。 またその皇后ヒバス姫の命の時に、石棺作りをお定めになり、また土師部をお定めになりました。この皇后は狹木の寺間の陵にお葬り申しあげました]…と記載されている。


菅原之御立野中

<菅原之御立野中>
「菅原」は後の安康天皇の陵の場所「菅原之伏見岡」で出現する。

キーワードの「伏見=伏水」から鍾乳洞が多く集まる現在の福岡県田川郡福智町伊方の東長浦辺りと読み解いた。

この近隣と推定し、「御立野中」の意味するところを探してみよう。

「立野」は一段と高くなっている野原を示すであろう。図に大きな池
で挟まれた地形が見出だせる。

水面から立ち上がる野のイメージであろう。山稜の端が三つに分かれた尾を持っているように見られる。その中の真中の山稜が該当すると思われる。どうやら…、


御立野中=三つの立野がある内の中

…を表し、更に小高くなっているところではなかろうか。当該の墓所を一に特定することは難しいようである。 

狹木之寺間

太后氷羽州比賣命の陵「狹木之寺間」は何処を指し示しているのであろうか?…「寺間」の「寺」は通常のお寺を意味しない。仏教の隆盛に伴ってこの文字が宛がわれたものと解説されている。


<狭木之寺間>

狭木=狭(狭い)|(山稜)

…と解釈できるが、狭い山稜が特徴になるなら、垂仁天皇の陵墓の近隣に特徴的な地形が見出だせる。

やはり「寺間」は何を意味しているのであろうか?…「寺」の文字に関連するところでは、伊邪那岐の御祓で誕生した「時量師神」で解釈した「時」を思い出す。


時=蛇行する川

…が紐解き結果であった。この「時」→「寺」で簡略表記していると思われる。一気に解決となる。図に示した「狭木」の両側を複数の川が蛇行していることが判る。

流石に鍾乳洞の巣の近隣である。豊かな水に溢れている場所であろう。現在の田川市夏吉にある細く延びた山稜が複数の蛇行する川に囲まれている。真に難解な表記である。場所が特定されることを防ぐためなのかもしれない。太后の陵墓が記載されるのは限られている。事績は不詳であるが、存在感のある后でだったかも。

又其大后比婆須比賣命之時、定石祝作、又定土師部」と記される。何故、后の時に?…唐突に登場する文言に戸惑う解釈・・・それが従来であった。前記した「登岐士玖能迦玖能木實=橘=人柱」の理解に従えば、その風習を目の当たりにした后が差し止めた、と実に自然に受け止めることができる。

何故、后の陵墓を?…そんな疑問も吹っ飛んで行く。彼女が人柱ではなく埴輪で代用するという埋葬の様式を変えたのである。その根拠もしっかりと「登岐士玖能迦玖能木實」という表現に含めていた。不老不死、長寿などの解釈を続ける限り、石祝の闇の中であろう。氷羽州比賣命という漢字表記に感謝すると共にご冥福を祈る。

――――✯――――✯――――✯――――

垂仁天皇紀の修正・加筆が漸く終了。全体通して【后・子】【説話】を参照願う。