2017年10月19日木曜日

犬上君:稲依別王 〔113〕

犬上君:稻依別王




まさかの出来事、固有の姓ではなかったことが判った、というか気付かされた。滋賀県犬上郡という地名がある。個人名を土地に付けるなら精々、町・村の単位であろう。郡であることもかんがえられなくもないが、ここは地名が個人名になったと推測される

「犬上」の姓を持つ人物が後に登場する。といっても古事記ではなく日本書紀など、古事記が筆を置く直前か、その後の人物である。日本武尊の御子・稲依別王の子孫で「近江国犬上郡」発祥の豪族である。その内の一人に犬上御田鍬がおり、遣隋使(最後)及び遣唐使(最初)の二度にわたって中国に出向いたと記録されている。

古事記が語らないところではあるが、祖先として登場する「稲依別王」は倭建命が近淡海之安國造之祖意富多牟和氣之女・布多遲比賣を娶って誕生した稻依別王そのものであろう。更に「近淡海国⇒近江」である。近淡海国に「犬上」を見つけないと、近江に持って行かれてしまう…そんな話ではないのだが・・・。

不純な動機で始まったこの探索は、かなり難度の高いものであることを、やり始めて感じさせられた。いつもの地形象形とは一味違っているようである。古事記原文…「稻依別王者、犬上君、建部君等之祖」と記述される。「建部君」は武将の頭のような意味であろう。倭建命の跡目を引継いだのかもしれない。

「犬上君」を紐解いた経緯も含めて、やや冗長に記述すると・・・、

「犬」はどんな意味を示すのであろうか?…通常の使われ方はあまり芳しくない…犬のように飼い馴らされている…ことが多い。名前には使われないであろう。勇猛な感じでは犬に勝るものが多く、迫力に欠ける。では、やはりこれも地形象形か?

と言っても、何処の地形を?…母親が住んでいた場所は近淡海之安国である。「安(ヤス)」=「ヤ(谷)・ス(州)」と紐解いて、谷の出入口に州があるところ、現在の福岡県京都郡苅田町片島辺り、小波瀬川(古事記:吉野河)河口付近である。建内宿禰の子、蘇賀石河宿禰が開いたところで、その東端に安国がある。

それ以前には神倭伊波礼比古が八咫烏に道案内されて通ったところでもある。古事記に度々登場する近淡海国北辺の重要な地点である。この地に関連する地名は、八田八瓜八咫烏もそうであろう。現地名でも八田山がある・・・ここで気付いた。「蘇賀石河」の地を「犬」の文字で表したのであろう。



更に、
干支で使われる「戌」がより適切である。大きな扇形の地形を犬、戌の文字で表したと読み解いた。

蘇賀石河=戌=犬

犬上=蘇賀石河の上にあるところ

現地名は京都郡苅田町山口北谷・等覚寺辺りである。更にこの地は蘇賀石河の西北西に当たる。「戌」の方位である。語源としては「作物を刃物で刈取り一纏めにすること」を表した文字とある。この地に相応しい表現と思われる。文字遊びもここまでくればアートである。




通説は滋賀県犬上郡多賀町、そこにある多賀神社(旧官幣大社)が犬上一族の祖神を祀ったという伝承が残っているそうである。苅田町にある近接の白山多賀神社(上図中央)と併せて「犬上」との密接な関連があることが伺える。

犬上御田鍬の祖先は蘇賀石河を眺める北谷に、間違いなく、居た。時が流れて古事記の舞台は日本全土に拡大されて行く。そのプロセスは如何なるルールを用いたのであろうか、端からそんなものはなかったのであろうか…極めて興味深いところである。が、それは後日としよう・・・。



少し余談になるが…近淡海之安國造之祖意富多牟和氣は出雲系である。河内之美努村には意富多多泥古が住んでいた。更には山代国と出雲との繋がりは深いことを既に考察した。歴史の表舞台には出ないが数多くの人々が出雲から大倭豊秋津嶋に移り住んだことが伺える。

不確かではあるが渡来の一つのルートを示しているようである。異なる表現では、そのルートを辿った人々が生き永らえたとも言える。古代における生きるために費やすエネルギーの大きさを思うと命懸けの選択をした彼らに敬意を表する。

…背景等詳細は「古事記新釈」の倭建命の項を参照願う。