今皇帝:桓武天皇(19)
延暦八年(西暦789年)正月の記事からである。原文(青字)はこちらのサイトから入手、訓読続日本紀(今泉忠義著)、続日本紀4(直木考次郎他著)を参照。
延暦八年春正月甲辰朔。日有蝕之。己酉。宴五位已上於南院。」授從五位上笠王正五位下。從五位下廣田王從五位上。无位葛井王從五位下。從四位下佐伯宿祢眞守從四位上。正五位下藤原朝臣菅繼從四位下。正五位下百濟王玄鏡正五位上。從五位上文室眞人与企。紀朝臣作良並正五位下。從五位下賀茂朝臣人麻呂。藤原朝臣園人。伊勢朝臣水通。津連眞道並從五位上。正六位上平群朝臣國人。紀朝臣伯。紀朝臣登万理。榎井朝臣靺鞨。田中朝臣大魚。安倍朝臣人成。巨勢朝臣道成。石川朝臣清濱。石川朝臣清成。大春日朝臣清足。藤原朝臣岡繼。石上朝臣乙名。大野朝臣仲男。角朝臣筑紫麻呂並從五位下。正六位上大網公廣道。韓國連源。秋篠宿祢安人並外從五位下。以兵部卿從三位兼近江守多治比眞人長野爲參議。壬子。參議大宰帥正三位佐伯宿祢今毛人上表乞骸骨。詔許之。丁巳。以律師玄憐法師爲少僧都。戊辰。參議宮内卿正四位下兼神祇伯大中臣朝臣子老卒。右大臣正二位清麻呂之第二子也。己巳。授從四位上藤原朝臣延福正四位下。正五位上藤原朝臣春蓮。藤原朝臣勤子並從四位下。正五位下伴田朝臣仲刀自正五位上。從五位上藤原朝臣慈雲。安倍朝臣黒女並正五位下。從五位下藤原朝臣眞貞。平群朝臣炊女。大原眞人明。无位多治比眞人邑刀自。藤原朝臣數子。紀朝臣若子並從五位上。外從五位下豊田造信女。岡上連綱。无位藤原朝臣惠子。正六位上菅生朝臣恩日。從六位上石上朝臣眞家。從六位下角朝臣廣江並從五位下。正六位上物部韓國連眞成。山代忌寸越足。從六位下采女臣阿古女並外從五位下。
正月一日に日蝕が起こっている。六日に五位以上と南院で宴を催している。笠王に正五位下、廣田王(❽)に從五位上、葛井王(❼)に從五位下、佐伯宿祢眞守に從四位上、藤原朝臣菅繼に從四位下、百濟王玄鏡(①-⓯)に正五位上、文室眞人与企(与伎)・紀朝臣作良に正五位下、賀茂朝臣人麻呂・藤原朝臣園人(勤子に併記)・伊勢朝臣水通(諸人に併記)・津連眞道(眞麻呂に併記)に從五位上、平群朝臣國人(炊女に併記)・紀朝臣伯・紀朝臣登万理(須惠女に併記)・「榎井朝臣靺鞨・田中朝臣大魚」・安倍朝臣人成(眞黒麻呂に併記)・巨勢朝臣道成(馬主に併記)・石川朝臣清濱・石川朝臣清成(淨繼に併記)・大春日朝臣清足(五百世に併記)・藤原朝臣岡繼(⓫)・石上朝臣乙名(等能古に併記)・大野朝臣仲男(下毛野朝臣年繼に併記)・角朝臣筑紫麻呂(道守に併記)に從五位下、大網公廣道(大野朝臣乎婆婆に併記)・韓國連源・秋篠宿祢安人(土師宿祢)に外從五位下を授けている。兵部卿兼近江守の多治比眞人長野を參議に任じている。
九日に参議・大宰帥の佐伯宿祢今毛人は上奏して辞職を願い出ている。詔してこれを許している。十四日に律師の玄憐法師を少僧都に任じている。二十五日に参議・宮内卿で神祇伯を兼任する「大中臣朝臣子老」が亡くなっている。右大臣の「清麻呂」の第二子であった(こちら参照)。
二十六日に藤原朝臣延福(兄倉に併記)に正四位下、藤原朝臣春蓮・藤原朝臣勤子に從四位下、伴田朝臣仲刀自に正五位上、藤原朝臣慈雲・安倍朝臣黒女に正五位下、藤原朝臣眞貞(眞男女。綿手に併記)・平群朝臣炊女(邑刀自に併記)・大原眞人明(年繼に併記)・「多治比眞人邑刀自」・藤原朝臣數子(雄友の子。❹近隣)・紀朝臣若子(船守に併記)に從五位上、豊田造信女(調阿氣麻呂に併記)・岡上連綱(刀利甲斐麻呂に併記)・藤原朝臣惠子(明子に併記)・菅生朝臣恩日(嶋足に併記)・石上朝臣眞家(眞足に併記)・角朝臣廣江(道守に併記)に從五位下、「物部韓國連眞成」・山代忌寸越足(金城史山守に併記)・采女臣阿古女(采女朝臣首名に併記)に外從五位下を授けている。
● 榎井朝臣靺鞨・物部韓國連眞成
「榎井朝臣」一族の新人登場は、光仁天皇紀に種人が最後であったが、『壬申の乱』の功臣であり、連綿と人材輩出が続いている。
現地名の北九州市小倉南区市丸の谷間に蔓延っていたと推測した。勿論、紛うことなく物部派生氏族である。天武天皇の吉野脱出の最初の関門である迷路のように入り組む谷間の通過を手助けしたのである。
靺鞨の文字列は、既に幾度か人名に用いられていた。七世紀前後の中国東北部に存在した名称などと解釈したのでは、全く意味不明となろう。靺鞨=角のような山稜の端で閉じ込められているところと解釈すると、図に示した場所が出自と推定される。
物部韓國連、「韓國連」と省略されることもあるようだが、上記の「榎井朝臣」の南隣の谷間と推定した。直近では韓國連源が登場していた。眞成=平らに整えられた高台が寄り集まって窪んでいるところと解釈すると、「源」の近隣にその地形を見出せる。
延暦九(790)年十一月に「源」等が、我々は物部大連の子孫であるが、父祖が遣わされた國名を姓として「韓國連」を名乗り、まるで「三韓之新來」の者のようになってしまい、「韓國」を改めて「物部高原連」の氏姓に変えたい、と申し出て許可されている。
「以父祖奉使國名」と記載されているが、史書には”韓國”という記載は、百濟・新羅・高麗であって、國名として一切見られない。”三韓”の表現を持ち出して、何となく”韓國”と関連付けたような記述である。全くの戯れた表記であろう。韓國=山稜に取り囲まれているところである。
● 田中朝臣大魚
「田中朝臣」は、古事記の天津日子根命が祖となった倭田中直の地を本貫とする一族とし、現地名は田川郡香春町五徳、五徳川の東岸である香春岳西麓と推定した。
『壬申の乱』の功臣となり、その後も多くの人材が登用されて来ている。直近では淨人(廣根に併記)が従五位下を叙爵されて登場していた。但し、高位者は極めて少なく、鎮守将軍として活躍した多太麻呂の正四位下が最高位のようである。
今回登場の大魚=[魚]の形の山稜の前で平らになっているところと解釈すると、図に示した場所が出自と推定される。五徳川の下流域へと蔓延って来たが、この人物は元の場所へと遡っている。「足麻呂」等の系統だったのかもしれない。
勿論、系譜不詳であり、名前が示す地形から出自場所を求めることになる。「刀自」が付いているので、山稜の端の形状を頼りとする。
邑刀自のかなり頻度で用いられている邑=囗+巴=渦巻くように小高くなった様と解釈した。「邑」の麓に「刀自」の地形がある場所を表していると思われる。
図に示した場所、乎婆賣の南側、やや狭い谷間がその地形を示していることが解る。現在はゴルフ場となっているが、当時の地形が伺えるように思われる。『續日本紀』の末尾に従四位下に昇進されたと記載されている。
別名大刀自は、大=山稜の頂が平らになっている様であり、「邑」から少々離れた「刀自」の地形をあらわしている。別名でより確からしさが増したようである。
二月丁丑。以從五位下大原眞人美氣爲尾張守。正五位下高賀茂朝臣諸雄爲參河守。從五位上文室眞人子老爲安房守。正五位上百濟王玄鏡爲上総守。從五位下石川朝臣清濱爲介。近衛將監外從五位上池原公綱主爲兼下総大掾。式部大輔從四位下大中臣朝臣諸魚爲兼近江守。左兵衛督如故。從五位下紀朝臣長名爲越前介。大判事從五位上橘朝臣綿裳爲兼越中介。正五位上安倍朝臣家麻呂爲石見守。兵部大輔左京大夫從四位下藤原朝臣雄友爲兼播磨守。左衛士督如故。從五位下高倉朝臣石麻呂爲美作介。從五位上藤原朝臣園人爲備後守。從五位下百濟王教徳爲讃岐介。癸未。以從五位下橘朝臣安麻呂爲中務少輔。内藥正侍醫從五位上葉栗臣翼爲兼内藏助。從五位下巨勢朝臣総成爲造酒正。從五位上弓削宿祢塩麻呂爲左京亮。庚子。移自西宮。始御東宮。
二月四日、大原眞人美氣を尾張守、高賀茂朝臣諸雄を參河守、文室眞人子老(於保に併記)を安房守、百濟王玄鏡(①-⓯)を上総守、石川朝臣清濱(淨繼に併記)を介、近衛將監の池原公綱主(繩主)を兼務で下総大掾、式部大輔の大中臣朝臣諸魚(子老に併記)を左兵衛督のまま兼務で近江守、紀朝臣長名(永名。本に併記)を越前介、大判事の橘朝臣綿裳を兼務で越中介、安倍朝臣家麻呂を石見守、兵部大輔・左京大夫の藤原朝臣雄友(❷)を左衛士督のまま兼務で播磨守、高倉朝臣石麻呂(高麗朝臣)を美作介、藤原朝臣園人(勤子に併記)を備後守、百濟王教徳(②-❷)を讃岐介に任じている。
十日に橘朝臣安麻呂(❷)を中務少輔、内藥正・侍醫の葉栗臣翼を(羽栗臣)兼務で内藏助、巨勢朝臣総成(馬主に併記)を造酒正、弓削宿祢塩麻呂(❽)を左京亮に任じている。二十七日に天皇は西宮より移り、初めて東宮に居している。
三月癸夘朔。造宮使獻酒食并種種玩好之物。辛亥。諸國之軍會於陸奥多賀城。分道入賊地。壬子。遣使奉幣帛於伊勢神宮。告征蝦夷之由也。戊午。以從四位下大中臣朝臣諸魚爲神祇伯。式部大輔左兵衛督近江守如故。從五位下大中臣朝臣弟成爲少納言。從四位下紀朝臣犬養爲左大舍人頭。從五位下百濟王仁貞爲中宮亮。從五位上津連眞道爲圖書頭。東宮學士左兵衛佐伊豫介如故。外從五位下大網公廣道爲主計助。從五位下安倍朝臣枚麻呂爲兵部少輔。從五位上藤原朝臣黒麻呂爲刑部大輔。從五位下藤原朝臣大繼爲大判事。從四位下石上朝臣家成爲宮内卿。從五位下矢庭王爲正親正。從五位上文室眞人八嶋爲彈正弼。從四位下藤原朝臣菅繼爲左京大夫。從五位下角朝臣筑紫麻呂爲衛門大尉。從四位下藤原朝臣内麻呂爲右衛士督。越前守如故。從五位下大秦公忌寸宅守爲左兵庫助。從五位下爲奈眞人豊人爲右兵庫頭。從五位下小野朝臣澤守爲攝津亮。外從五位下麻田連畋賦爲山背介。從五位下大伴王爲甲斐守。從五位上文室眞人久賀麻呂爲但馬介。從五位下石川朝臣公足爲安藝守。正五位下粟田朝臣鷹守爲長門守。從五位上藤原朝臣園人爲大宰少貳。」廢造東大寺司。辛酉。以從五位下石上朝臣乙名爲大監物。正五位下中臣朝臣常爲治部大輔。從五位下清海宿祢惟岳爲美作權掾。
三月一日に造(東)宮使は、酒食と様々な慰みの品を献じている。九日に諸國派遣軍は陸奥多賀城(柵)に会集し、道を分けて賊地に攻め入っている。十日に使を遣わして幣帛を伊勢神宮に奉っている。蝦夷征討のことを告げるためである。
十六日、大中臣朝臣諸魚(子老に併記)を式部大輔・左兵衛督・近江守のままで神祇伯、大中臣朝臣弟成(今麻呂に併記)を少納言、紀朝臣犬養(馬主に併記)を左大舍人頭、百濟王仁貞(①-⓰)を中宮亮、津連眞道(眞麻呂に併記)を東宮學士・左兵衛佐・伊豫介のままで圖書頭、大網公廣道(大野朝臣乎婆婆に併記)を主計助、安倍朝臣枚麻呂(眞黒麻呂に併記)を兵部少輔、藤原朝臣黒麻呂(❶)を刑部大輔、藤原朝臣大繼を大判事、石上朝臣家成(宅嗣に併記)を宮内卿、矢庭王を正親正、文室眞人八嶋(久賀麻呂に併記)を彈正弼、藤原朝臣菅繼を左京大夫、角朝臣筑紫麻呂(道守に併記)を衛門大尉、藤原朝臣内麻呂(❻)を越前守のままで右衛士督、大秦公忌寸宅守を左兵庫助、爲奈眞人豊人(東麻呂に併記)を右兵庫頭、小野朝臣澤守(小野虫賣に併記)を攝津亮、麻田連畋賦を山背介、大伴王(❾)を甲斐守、文室眞人久賀麻呂を但馬介、石川朝臣公足(眞人に併記)を安藝守、粟田朝臣鷹守を長門守、藤原朝臣園人(勤子に併記)を大宰少貳に任じている。また、造東大寺司を廃している。
夏四月庚辰。木工頭正四位下伊勢朝臣老人卒。乙酉。先是。伊勢。美濃等關。例上下飛驛凾。關司必開見。至是。勅自今以後。不得輙開焉。丙戌。以從五位下安曇宿祢廣吉爲和泉守。從五位下田中朝臣淨人爲伊勢介。從五位下大野朝臣仲男爲安房權守。從五位下川村王爲備後守。辛酉。美濃。尾張。參河等國。去年五穀不稔。饑餒者衆。雖加賑恤。不堪自存。於是。遣使開倉廩。准賎時價糶与百姓。其價物者收貯國庫。至於秋收。貿成穎稻。名曰救急。使其國郡司及殷富之民不得交易。如有違犯。科違勅罪矣。庚子。伊賀國飢。賑給之。
四月八日に木工頭の伊勢朝臣老人が亡くなっている。十三日、これより以前、伊勢・美濃などの關では、通例として諸國から都に上り、都から諸國に下る飛驛使の文書の函を、必ず關司が開き見ることになっている。しかし、この日になって勅され、今後はたやすく函を開けさせないようにしている。
<辛卯(十九日)?>美濃・尾張・參河などの國では去年五穀が稔らず、飢える者が多く、物を恵み与えたが、自活することができない状態である。そこで使を遣わして倉を開き、安い時の価格で人民に米を売り与え、その代価の物は國庫に貯え置き、米の値の安い秋の収穫時に、代価の物を穗首刈りの稲に代えることし、この稲を救急稲と名付ける。國司・郡司や富裕な人民に、米を買い占めさせてはいけない。もし、違反すれば、違勅の罪に処することにしている。
二十八日に伊賀國に飢饉が起こり、物を恵み与えている。
五月癸丑。勅征東將軍曰。省比來奏状。知官軍不進。猶滯衣川。以去四月六日奏稱。三月廿八日。官軍渡河置營三處。其勢如鼎足者。自尓以還。經卅餘日。未審。縁何事故致此留連。居而不進。未見其理。夫兵貴拙速。未聞巧遲。又六七月者計應極熱。如今不入。恐失其時。已失其時。悔何所及。將軍等應機進退。更無間然。但久留一處。積日費粮。朕之所恠。唯在此耳。宜具滯由及賊軍消息。附驛奏來。丙辰。先是諸國司等。奉使入京。無返抄歸任者。不預釐務。奪其公廨。而在國之司。偏執此格。曾不催領。專煩使人。於是。始制。如此之類。不問入京与在國。共奪目已上之料。但遥附便使。不在奪限。己未。太政官奏言。謹案令條。良賎通婚。明立禁制。而天下士女。及冠蓋子弟等。或貪艶色而姦婢。或挾淫奔而通奴。遂使氏族之胤沒爲賎隷。公民之後變作奴婢。不革其弊。何導迷方。臣等所望。自今以後。婢之通良。良之嫁奴。所生之子。並聽從良。其寺社之賎如有此類。亦准上例。放爲良人。伏望。布此寛恩。拯彼泥滓。臣等愚管。不敢不奏。伏聽天裁。奏可之。庚申。播磨國揖保郡大興寺賎若女。本是讃岐國多度郡藤原郷女也。而以慶雲元年歳次甲辰。揖保郡百姓佐伯君麻呂。詐稱己婢。賣与大興寺。而若女之孫小庭等申訴日久。至是始得雪。若女子孫。奴五人婢十人。免賎從良。」安房。紀伊等國飢。賑給之。丁夘。詔贈征東副將軍民部少輔兼下野守從五位下勳八等佐伯宿祢葛城正五位下。葛城率軍入征。中途而卒。故有此贈也。己巳。以從五位下賀茂朝臣大川爲神祇大副。從五位上調使王爲右大舍人頭。從五位下藤原朝臣繼彦爲主計頭。從五位下和朝臣家麻呂爲造兵正。正五位下中臣朝臣常爲宮内大輔。庚午。信濃國筑摩郡人外少初位下後部牛養。无位宗守豊人等賜姓田河造。
五月十二日に征東将軍(紀朝臣古佐美)に次のように勅されている・・・この頃の奏状を見ると、官軍は先へ進まず、なお「衣川」に留まっていることがわかる。去る四月六日の奏には[三月二十八日に官軍は河を渡って三ヶ所に陣営を置いた。その態勢は「鼎足」のようである]とあるが、それ以来、三十日余りも経っている。不審に思うのは、どのような原因があってこのように留まり続けて進まないのか、ということである。---≪続≫---
その理由が未だに分からない。いったい兵というのは、拙くても早いのを尊ぶものであり、巧みであっても遅いのがよいとは聞かない。また、六、七月は、思うに最も暑い時期であろう。もし、今賊地に入らなければ、恐らくその時機を失うであろう。一旦、時機を失ってしまえば、後悔しても何のかいがあろうか。---≪続≫---
将軍等は臨機応変に進んだり退いたりして、隙を見せないようにせよ。ただ長い間一ヶ所に留まって日を重ね、兵糧を費やしていること、これだけは朕は訝しく思う。そこで留まっている理由と賊軍の有様を詳しく書き留め、驛使に付けて奏上して来るようにせよ・・・。
十五日、これより以前、諸國の國司等が調・庸を貢進する使となって入京したが、不足しているため受領書を受け取れず、任國に帰った場合は、職務に関与させず、その給与の公廨稲を奪うと格に定められている。ところが、國にいる國司は、ひたすらこの格に拘って、輸送を一度も掌らず、もっぱら使人になるのをいやがっている。ここに初めて制を定めて、このような責任を回避する者どもは、入京するか國にいるかを問わず、共に目以上の公廨料を奪うことにする。但し、便宜な使者に委託した場合は、奪わないことにしている。
十八日に太政官が以下のように奏上している・・・謹んで令の条文を調べると、良民と賤民が結婚することに対しては、明らかに禁制が立られている。ところが、天下の良民の男女及び高位高官の子弟等は、美女を求めて婢を犯す男性や、淫らな心を抱いて奴と姦通する女性がいて、その結果生まれた子供達は賤民の身分に沈められ、公民の子孫であるのに奴婢とされているありさまである。この弊害を改めなければ、どうして方向を誤っている者を導くことができるであろうか。---≪続≫---
私共が希望するのは、今後、婢が良民の男子と姦通し、良民の女子が奴に嫁いで生んだ子は、どちらも良民の身分に従うのを聴すことである。また、寺院・神社の賤民について、もしこのような者があれば、上の例に准じて賤民の身分から解放して良民にしたいと思う。こうした寛大な恩恵を広く施し、この泥と滓のような者達を救うよう伏してお願いする。私共の愚かな考えを奏しないわけにはいかない。謹んでご判断を伺いたく思う・・・。この奏上は許可されている。
十九日に播磨國揖保郡の「大興寺」の賤民である「若女」は、もと「讃岐國多度郡藤原郷」出身の良民の女であった。ところが、慶雲元(704)年甲辰の年に、揖保郡の民である「佐伯君麻呂」が自分の婢と偽り、大興寺に売り与えてしまった。そのため、「若女」の孫に当たる「小庭」等が、訴えて久しくなる。ここに初めてその誤りを晴らすことができた。「若女」の子や孫である奴五人と婢十人は、賤民から解放され良民とされている。また、安房・紀伊などの國が飢饉になったので、物を恵み与えている。
二十九日に信濃國「筑摩郡」の人である「後部牛養」と「宗守豊人」等に「田河造」の氏姓を賜っている。
三月一日に陸奥國多賀城に集結した諸國派遣軍、総指揮は紀朝臣古佐美として、進軍し、二十八日に前線部隊を「衣川」辺に展開したと記載している。
いよいよ合戦の口火が開かれるのかと思いきや、全く音沙汰無しで天皇が業を煮やして檄を飛ばされたようである。待機しているのは、紛うことなく、かつて磐舟柵等が設置された場所であろう。
部隊を展開したら鼎足のようになったと奏上している。何ともどっしりとした戦列を組めたのだが、それで落ち着いてしまって動かず、天皇の檄を真面に受ける羽目になったようである。
「鼎足」は、勿論、その場の地形を表しているのであろう。図に示したように「衣」の山稜の側面と、そこから三つの山稜が生え出ていることが解る。戦いを前にして、何とも洒落た文言の奏状であったわけである。これも天皇が気に障ったところかもしれない。
さて、図を更に眺めると、官軍の眼前には高く聳える山稜が横たわっている。僅かな隙間を通り抜けねばならないのだが、その背後には海道蝦夷がここぞとばかりに潜んでいるように見える。これでは、動こうにも動けない情勢だったことが伺える。
迎え撃つのならばこの態勢も善し、だが攻め入るには、良い戦略だったかは心許ないところであろう。戦いは、これからである。ところで三月二十八日の出来事を天皇は四月六日に把握していた。実質一週間程度で「衣川」から長岡宮に届いていることになる。通説の推定地は800km以上離れているが、”高速通信網”が敷かれていたのであろうか・・・。
何とも悪い奴がいたもので、先ずは哀れな女性が売り飛ばされていた播磨國揖保郡にあるという「大興寺」の場所を求めてみよう。
その地形を図に示した場所に見出せる。長く延びた山稜の端に当たる場所である。現地名は築上郡築上町上ノ河内である。揖保郡の東端となる。
● 佐伯君麻呂 「揖保郡」では、既に佐伯直諸成が登場していた。私稲を造船瀬所に貢進し外従五位下を叙位されていた。今回登場の君麻呂とは真逆の人格だったようである。君=開いた手のような山稜が延びた麓に小高い地があるところと解釈すると図に示した場所が出自と推定される。「直」姓が省略されるくらいの罪科だったのであろうか。
先ずは「多度郡」に含まれる幾度か登場した多度=山稜の端を跨ぐように山稜が延びているところと解釈した。すると、那賀郡の谷間の奥に当たる地が、その地形をしていることが解る。美濃國多度山などの地形に酷似している。
更にその郡内に藤原郷があったと記載されている。”藤原”に憚ることは希薄になったのであろう。藤原=谷間で水溜まりが積み上がっている麓で野原が広がっているところと解釈すると、現在の地図上に段々になった溜池が記載されている。
当時のままであるとは思えないが、やはり同じような配置をいていたのではなかろうか。藤原郷の名称は、実に貴重である。これによって多度郡の場所は、ほぼ確定的になったように思われる。
● 若女・小庭 些か地形確認が難しいが、若=幾つもの細かく岐れた山稜が延び出ている様、小庭=山麓で三角に尖って平らに広がっているところと解釈すると、図に示した場所が各々の出自の場所と推定される。復権できて、目出度しだったようである。
今回登場の筑摩郡の筑摩=[凡]の形の谷間で延びた山稜が細切れに小高くなっているところと解釈される。「伊那郡」の奥の地域を表していることが解る。かつて登場の丸子大國の居処を含む場所と思われる。尚、須波神・水内神は、龍田風神と繋がり、これら二神は”風の谷間”にあったと推測した。「風」=「凡+虫」の地形である。
● 後部牛養・宗守豊人 「後部」は、高麗系渡来人達の氏名のように錯覚しかけるが、そうではなく地形象形表記として読み解いてみよう。「部」=「咅+邑」=「分かれた地が寄り集まっている様」であり、簡略に「近隣(周辺」を表す文字と解釈した。「邑」に着目すると、部=山稜が寄り集まって小高くなっている様と解釈される。纏めると後部=小高い地の背後にあるところと読み解ける。
図に示したように「丸子大國」の”丸”、筑摩に含まれる小高くなった地を「部」と表しているのであろう。牛養=牛の頭部のような山稜の麓で谷間がなだらかに延びているところとして、図に示した場所が出自と推定される。
宗守=高台の麓で肘を張ったように曲がる山稜に囲まれているところ、豐人=谷間が段々になっているところと解釈すると図に示した場所に、その地形を見出せる。賜った田河造の氏姓については、田河=谷間の出口の前の水辺で田が広がっているところと解釈される。「造」姓であるのは古来の人々だったのかもしれない。