2024年11月12日火曜日

今皇帝:桓武天皇(18) 〔701〕

今皇帝:桓武天皇(18)


延暦七(西暦788年)七月の記事からである。原文(青字)はこちらのサイトから入手、訓読続日本紀(今泉忠義著)、続日本紀4(直木考次郎他著)を参照。

秋七月己酉。大宰府言。去三月四日戌時。當大隅國贈於郡曾乃峯上。火炎大熾。響如雷動。及亥時。火光稍止唯見黒烟。然後雨沙。峯下五六里。沙石委積可二尺。其色黒焉。辛亥。以參議左大弁正四位下兼春宮大夫中衛中將紀朝臣古佐美爲征東大使。庚午。以從五位下正月王爲少納言。中納言正三位藤原朝臣小黒麻呂爲兼皇后宮大夫。中務卿美作守如故。從五位下大秦公忌寸宅守爲主計助。從三位多治比眞人長野爲兵部卿。近江守如故。從五位下爲奈眞人豊人爲造兵正。從五位下多治比眞人屋嗣爲主鷹正。外從五位下忍海原連魚養爲典藥頭。播磨大掾如故。兵部大輔從四位下藤原朝臣雄友爲兼左京大夫。左衛士督如故。從五位下藤原朝臣繩主爲近衛少將。少納言如故。從五位上阿倍朝臣廣津麻呂爲中衛少將。式部少輔春宮亮如故。春宮少進從五位下多治比眞人豊長爲兼右衛士佐。春宮大夫中衛中將正四位下紀朝臣古佐美爲兼大和守。從五位下三嶋眞人大湯坐爲駿河守。癸酉。前右大臣正二位大中臣朝臣清麻呂薨。曾祖國子小治田朝小徳冠。父意美麻呂中納言正四位上。清麻呂天平末授從五位下。補神祇大副。歴左中弁文部大輔尾張守。寳字中。至從四位上參議左大弁兼神祇伯。歴居顯要。見稱勤恪。神護元年。仲滿平後。加勳四等。其年十一月。高野天皇更行大甞之事。清麻呂時爲神祇伯。供奉其事。天皇嘉其累任神祇官。清愼自守。特授從三位。景雲二年拜中納言。優詔賜姓大中臣。天宗高紹天皇踐祚。授正三位。轉大納言兼東宮傅。寳龜二年拜右大臣。授從二位。尋加正二位。清麻呂歴事數朝。爲國舊老。朝儀國典多所諳練。在位視事。雖年老而精勤匪怠。年及七十上表致仕。優詔弗許。今上即位。重乞骸骨。詔許之。薨時年八十七。

七月四日に大宰府が以下のように言上している・・・去る三月四日の戌の時(午後八時前後)、「大隅國贈於郡」の曾の峰の頂上辺りで「火炎」(物が燃える時に光や熱を出している様)が盛んに起こり、音響は雷が鳴っているようであった。---≪続≫---

亥の時(午後十時前後)になって「火光」(炎が放つ光)がやや止んで、黒煙だけが見えた。その後、細かい砂が降り、峰の麓五、六里は砂や石が降り積もって約二尺になった。その色は黒色であった・・・。

六日に参議・左大弁で春宮大夫・中衛中将を兼任する紀朝臣古佐美を征東大使に任じている。

二十五日に正月王(牟都岐王)を少納言、中納言の藤原朝臣小黒麻呂を中務卿・美作守のまま兼務で皇后宮大夫、大秦公忌寸宅守を主計助、多治比眞人長野を近江守のままで兵部卿、爲奈眞人豊人(東麻呂に併記)を造兵正、多治比眞人屋嗣を主鷹正、忍海原連魚養を播磨大掾ままで典藥頭、兵部大輔の藤原朝臣雄友()を左衛士督のまま兼務で左京大夫、藤原朝臣繩主()を少納言のままで近衛少將、阿倍朝臣廣津麻呂を式部少輔・春宮亮のままで中衛少將、春宮少進の多治比眞人豊長(豊濱。乙安に併記)を兼務で右衛士佐、春宮大夫・中衛中將の紀朝臣古佐美を兼務で大和守、三嶋眞人大湯坐(大湯坐王)を駿河守に任じている。

二十八日に前右大臣の大中臣朝臣清麻呂が薨じている。曽祖父の「國子」は小治田朝(推古天皇)の小德冠で、父の「意美麻呂」は中納言・正四位上であった(こちら参照)。「清麻呂」は天平の末年に従五位下を授けられ、神祇大副に任じられた。左中弁・文武(式部)大輔・尾張守を歴任し、天平寶字年間に従四位上・参議・左大弁で神祇伯を兼任した。重要な役職を歴任して、その忠勤な勤めぶりを賞賛された。

天平神護元(765)年、「仲満の叛乱」が収まった後、勲四等を更に授けられた。その年の十一月、高野天皇(称徳天皇)が重祚後あらためて大嘗祭を行ったが、「清麻呂」はその時、神祇伯として大嘗祭の事に奉仕した。高野天皇は、彼が神祇官の役人に何度も任用され、潔白で慎み深く、自分の職をよく守っていることを褒めて、特に従三位を授けた。

神護景雲二(768)年に中納言を拝命し、手厚い詔を下されて大中臣の姓を賜った。天宗高紹天皇(光仁天皇)が践祚した時、正三位を授けられ、大納言兼東宮傳に転任し、寶龜二(771)年に右大臣を拝命し、従二位を授けられ、ついで正二位に昇進した。

「清麻呂」は数代の天皇に仕えて國の旧い事をよく知っている老臣であった。朝廷の儀式や國のしきたりをたくさん記憶し、熟練していた。席で執務する時は、高齢になったとはいえ、精勤で怠るようなことはなかった。

年齢が七十歳になった時、上表文を奉って辞職を願い出たが、懇ろな詔が下されて許されなかった。今上(桓武天皇)が即位した際に再度辞職を願い出た。詔して許した。薨じた時、八十七歳であった。

<大隅國贈於郡・曾之峰>
大隅國贈於郡

元明天皇紀の和銅六(713)年四月に「割日向國肝坏。贈於。大隅。姶羅四郡。始置大隅國」と記載され、通説では、日向國の贈於郡等を割いて大隅國の名称とした、と解釈されている。

通説に従えば、今回登場の贈於郡は、元は日向國に属していた郡となる。高千穂峰の東側に広がる郡となる。一方、本著は、「日向國郡割」とは別途に「大隅國」を設置したとした。現地名は遠賀郡遠賀町・芦屋町である(こちら参照)。

時が経って淳仁天皇紀に、薩摩國・大隅國の堺にある麑嶋信尓村の海で海底火山活動によって三つの島ができたと記載されていた。薩摩國が筑紫南海…現在の博多湾…に面する國であるならば、大隅國はそれに並ぶ位置にあったことを示している。

既に述べたように、續紀編者等は「大隅」の文字を固有の地名としては扱わず、それが示す地形の場所の名称としているのである。大隅隼人も大隅國に限った名称ではない。

あらためて贈於郡贈於=谷間の奥に谷間がある地から旗がたなびくように延びているところと解釈すると、図に示した地域を表していることが解る。この「贈於」も日向國の「贈於」に酷似しているのである。称徳天皇紀に登場した大住忌寸の居処を含む場所である。

曾之峰は、現在の金山小学校辺りを表していると思われる。当時は、”金山”の地形をしていたのであろう。勿論、火山帯が延びる山稜だったと推測される。”曾の峰”と解釈するのではなく、曾之=積み重なった地が蛇行するように曲がって延びているところと解釈される。それらしく見えるが、地形変形が大きく確認することが叶わないようである。

八月戊子。對馬嶋守正六位上穴咋呰麻呂賜姓秦忌寸。以誤從母姓也。

八月十三日に對馬嶋守の「穴咋呰麻呂」に「秦忌寸」の氏姓を賜っている。誤って母の姓に従っていたためである。

<穴咋呰麻呂>
● 穴咋呰麻呂

對馬嶋守」は、記紀・續紀を通じて初見の文字列であろう。書紀の天武天皇紀に對馬國司守忍海造大國の表記があったが、その後に”國守”としての任命が記載されていなかった。

また、元正天皇紀及び聖武天皇紀に”對馬司”とあるが、具体的な人物名は記載されてはいなかった。”對馬國”の表記は見られないようである。

更にまた、遣新羅使の副使對馬連堅石が後に「津嶋朝臣」の氏姓を賜り、その後幾人かの人物が登場して来ているが(こちら参照)、國守に任命されたわけではなかった。

そんな背景であるが、現地の母親の姓名である穴咋=穴のような谷間の口がギザギザとしているところと解釈すると、図に示した場所が見出せる。現地名の対馬市厳原町宮谷である。名前の呰麻呂呰=此+囗=谷間を挟む山稜が折れ曲がって延びている様と解釈すると、出自の場所を求めることができる。

賜った秦忌寸は、谷間を挟む山稜の形を表していて、妥当な名称であるが、父親の氏姓なのかは定かではない。関連する情報も皆無であり、これ以上の詮索は止めることにする。

九月丁未。美濃國厚見郡人羿鹵濱倉賜姓羹見造。庚午。詔曰。朕以眇身。忝承鴻業。水陸有便。建都長岡。而宮室未就。興作稍多。徴發之苦。頗在百姓。是以優其功貨。欲無勞煩。今聞。造宮役夫短褐不完。類多羸弱。靜言於此。深軫于懷。宜諸進役夫之國。今年出擧者不論正税公廨。一切減其息利。縦貸十束其利五束。二束還民。三束入公。其勅前徴納者。亦宜還給焉。

九月三日に「美濃國厚見郡」の人である「羿鹵濱倉」に「美見造」の氏姓を賜っている。二十六日に次のように詔されている・・・朕は微小な身でありながら、もったいなくも大きな事業を受け継ぎ、水陸に便利な長岡に都を建設いている。しかしながら皇居は未だ完成していない。建設はますます多くなり、人民は徴発されて大そう苦しんでいる。---≪続≫---

そのため差し出した労力や物資に手厚い恵みを与え、労苦の煩いが甚だしくないように願っている。現在聞くところでは、都を造営する役夫は粗末な着物を着て、それらの者の殆どが疲れ弱っているという。このことに静かに思いを致し、深く心を傷めている。---≪続≫---

そこで役夫を提供している諸國の今年の出挙は、正税・公廨を区別することなく、全てその利息を減ずることとせよ。例えば稲十束を貸し付ければ、その利息は五束であるが、そのうちの二束は人民に返還し、三束を國に納入せよ。この勅の前に徴収し納入された場合も返還するように・・・。

<美濃國厚見郡・羿鹵濱倉>
美濃國厚見郡

「美濃國厚見郡」は、記紀・續紀を通じて初見であろう。美濃國に関しては、既に多くの郡名が記載されていた。

なかでも岐蘇山道に関わる礪杵郡や吉蘇路に関わる多伎(藝)郡が気記載されていたが、肝心の美濃の中心地はすっぽりと抜け落ちていたのである。

厚見郡の「厚見」の文字列は、既に幾度か登場し、厚見=大きく広がっている山稜がある谷間が長く延びているところと解釈した。その地形を、その中心地が示していることが解る。

どうやら、この地域は山深く、人々が住み着く場所ではなかったようである。勿論、重要な他國との連絡道であったことには違いなかったが・・・。

● 羿鹵濱倉 初見の文字が並んでいるが、「羿」=「羽+廾(両手)」=「羽のような形と両手のような山稜が並んでいる様」、「鹵」=「小高い地が突き出ている様」と解釈する。「鹵」は、”塩(鹽)”に含まれ、”鹽田”の”鹽”ではなく、”岩鹽”を表すと解説されている。

纏めると羿鹵=羽のような形と両手のような山稜が並んでいる先に小高い地が突き出ている地があるところと読み解ける。名前の濱倉=四角く広がる谷間が水辺の近くにあるところと解釈される。これらの地形要素を満足する、図に示した場所が出自と推定される。賜姓された美見造は、濃國の厚郡を短縮したものであろう。

冬十月丙子。雷雨暴風。壞百姓廬舍。

十月二日に雷雨と暴風のため、人民の家が壊れている。

十一月丁未。參議正四位下大中臣朝臣子老爲宮内卿。神祇伯如故。庚戌。播磨國揖保郡人外從五位下佐伯直諸成。延暦元年籍冐注連姓。至是事露改正焉。戊辰。宴五位已上。」從五位上中臣朝臣常。大伴宿祢弟麻呂並授正五位下。從五位下紀朝臣田長從五位上。正六位上大中臣朝臣弟成。小野朝臣澤守。田中朝臣淨人。並從五位下。

十一月四日に參議の大中臣朝臣子老を神祇伯のままで宮内卿に任じている。七日に播磨國揖保郡の人である佐伯直諸成は、延暦元(782)年の戸籍には、偽って連姓と記載された。この時点になって、その事実が露顕し、元の姓に改めている。

二十五日に五位以上と宴を催している。また、中臣朝臣常(宅守に併記)大伴宿祢弟麻呂(益立に併記)に正五位下、紀朝臣田長(船守に併記)に從五位上、大中臣朝臣弟成(今麻呂に併記)・小野朝臣澤守(小野虫賣に併記)・田中朝臣淨人(廣根に併記)に從五位下を授けている。

十二月庚辰。征東大將軍紀朝臣古佐美辞見。詔召昇殿上賜節刀。因賜勅書曰。夫擇日拜將。良由綸言。推轂分閫專任將軍。如聞。承前別將等。不愼軍令。逗闕猶多。尋其所由。方在輕法。宜副將軍有犯死罪。禁身奏上。軍監以下依法斬决。坂東安危在此一擧。將軍宜勉之。因賜御被二領。采帛卅疋。綿三百屯。

十二月七日に征東大将軍の紀朝臣古佐美が別れの挨拶をしている。詔を下されて、殿上に呼び寄せ節刀を与えている。そこで勅書を与えて、次のように宣べている・・・そもそも日を選んで将軍を任命するのは、まことに天皇の命令による。しかし出陣して遠征の途にのぼれば、一切を将軍に任せる。---≪続≫---

ところが聞くところによると、これまで別将等は軍令を守らず、恐れて留まったり落度があったりする者が多かった。その理由を尋ねてみると、実は処罰の法を軽減したことに原因があることが分った。もし、副将軍が死罪に値する罪を犯すようなことがあれば、拘禁して奏上せよ。軍監以下の者が法を犯した場合は、法に準拠して斬罪を執行せよ。---≪続≫---

坂東(八國。常陸國を除く)が安泰かどうかはこの一事にかかっている。将軍はこのことに努力するように・・・。そこで天皇の夜具二領、色染めの絹三十疋、真綿三百屯を賜っている。

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『続日本紀』巻卅九巻尾