今皇帝:桓武天皇(20)
延暦八年(西暦789年)六月の記事からである。原文(青字)はこちらのサイトから入手、訓読続日本紀(今泉忠義著)、続日本紀4(直木考次郎他著)を参照。
六月甲戌。征東將軍奏。副將軍外從五位下入間宿祢廣成。左中軍別將從五位下池田朝臣眞枚。与前軍別將外從五位下安倍猿嶋臣墨繩等議。三軍同謀并力。渡河討賊。約期已畢。由是抽出中後軍各二千人。同共凌渡。比至賊帥夷阿弖流爲之居。有賊徒三百許人。迎逢相戰。官軍勢強。賊衆引遁。官軍且戰且燒至巣伏村。將与前軍合勢。而前軍爲賊被拒不得進渡。於是。賊衆八百許人。更來拒戰。其力太強。官軍稍退。賊徒直衝。更有賊四百許人。出自東山絶官軍後。前後受敵。賊衆奮撃。官軍被排。別將丈部善理。進士高田道成。會津壯麻呂。安宿戸吉足。大伴五百繼等並戰死。惣燒亡賊居。十四村。宅八百許烟。器械雜物如別。官軍戰死廿五人。中矢二百卌五人。投河溺死一千卅六人。裸身游來一千二百五十七人。別將出雲諸上。道嶋御楯等。引餘衆還來。於是勅征東將軍曰。省比來奏云。膽澤之賊惣集河東。先征此地後謀深入者。然則軍監已上率兵。張其形勢。嚴其威容。前後相續。可以薄伐。而軍少將卑。還致敗績。是則其道嶋副將等計策之所失也。至於善理等戰亡及士衆溺死者。惻怛之情。有切于懷。庚辰。征東將軍奏稱。膽澤之地。賊奴奧區。方今大軍征討。剪除村邑。餘黨伏竄。殺畧人物。又子波。和我。僻在深奧。臣等遠欲薄伐。粮運有艱。其從玉造塞。至衣川營四日。輜重受納二箇日。然則往還十日。從衣川至子波地。行程假令六日。輜重往還十四日。惣從玉造塞至子波地。往還廿四日程廢。途中逢賊相戰。及妨雨不進之日不入程内。河陸兩道輜重一万二千四百卌人。一度所運糒六千二百十五斛。征軍二万七千四百七十人。一日所食五百卌九斛。以此支度。一度所運。僅支十一日。臣等商量。指子波地。支度交闕。割征兵加輜重。則征軍數少不足征討。加以。軍入以來。經渉春夏。征軍輜重。並是疲弊。進之有危。持之則無利。久屯賊地。運粮百里之外。非良策也。雖蠢尓小冦。且逋天誅。而水陸之田。不得耕種。既失農時。不滅何待。臣等所議。莫若解軍遺粮。支擬非常。軍士所食。日二千斛。若上奏聽裁。恐更多糜費。故今月十日以前解出之状。牒知諸軍。臣等愚議。且奏且行。勅報曰。今省先後奏状曰。賊集河東。抗拒官軍。先征此地。後謀深入者。然則不利深入。應以解軍者。具状奏上。然後解出。未之晩也。而曾不進入。一旦罷兵。將軍等策。其理安在。的知。將軍等畏憚兇賊。逗留所爲也。巧餝浮詞。規避罪過。不忠之甚。莫先於斯。又廣成。墨繩。久在賊地。兼經戰塲。故委以副將之任。佇其力戰之効。而靜處營中。坐見成敗。差入裨將。還致敗績。事君之道。何其如此。夫師出無功。良將所恥。今損軍費粮。爲國家大害。閫外之寄。豈其然乎。」甲斐國山梨郡人外正八位下要部上麻呂等改本姓爲田井。古尓等爲玉井。鞠部等爲大井。解礼等爲中井。並以其情願也。
六月三日に征東将軍(紀朝臣古佐美)は、以下のように奏上している・・・副将軍の入間宿祢廣成(物部直廣成)と左中軍別将の池田朝臣眞枚(足繼に併記)は、前軍別将の安倍猿嶋朝臣墨繩等と前・中・後の三軍が共謀し力を合せ河を渡って賊を討とうと相談し、その期限も既に決めていた。そこで中軍と後軍からそれぞれ二千人を選び出し、纏まって共に渡った。賊の首領「阿弖流爲」の居処に近付いた時、賊徒が三百人ばかりいて、官軍を迎え討って合戦をした。---≪続≫---
しかし官軍の勢いが強く、賊衆は退却した。そこで官軍は、戦いながら彼等の居処を焼き払いつつ、「巣伏村」に至り、別途進撃して来た前軍の軍勢と合流しようとした。ところが、前軍は賊のため進路を阻まれ河を進み渡ることができず、その村には至っていなかった。そこへ賊軍が八百人ばかりが次々とやって来て、官軍を遮って戦った。その力は大変強く、官軍が少し後退した時に、賊徒は直ちに攻め寄せて来た。---≪続≫---
更に賊が「東山」から現れ、官軍の背後を絶ってしまった。結果官軍は前後を敵に挟まれ、賊軍の方は益々奮い立って攻撃を仕掛け、官軍は押し戻されて、別将の丈部善理(於保磐城臣御炊に併記)、進士の高田道成(川人部廣井に併記)・「会津壮麻呂」・安宿戸吉足(飛鳥戸造弟見に併記)・「大伴五百繼」等がいずれも戦死した。戦績を総計すると、焼き滅ぼした賊の集落は十四ヶ村で、家屋は八百戸ばかり、武器や種々の物については別に示した通りである。---≪続≫---
官軍では戦死した者が二十五人、矢に当たった者が二百四十五人、河に飛び込んで溺死した者が千三十六人、裸で泳ぎ逃げて来た者が千二百五十七人である。なお、別将の出雲諸上(嶋成に併記)・道嶋御楯(牡鹿連猪手に併記)等は、残った人々を率いて多賀城(柵)に還って来た・・・。
征東将軍に次のように詔されている・・・最近の上奏を見ると、[「膽澤」にいる賊は全て河の東側に集まっているので、まずこの地を討ち、その後で深く入ろうと計画している]とある。もし、これを実行するならば、軍監以上の者が、兵を率いて攻撃の態勢を作り、その威容を厳重にして、前軍と後軍が続いて、迫って伐つべきである。---≪続≫---
ところが、動員した軍勢は少なく、指揮官の地位も低く、返って敗戦するという結果になった。これはその方面の副将等の計画が間違っていたからである。「善理」等の戦死と多数の兵士の溺死に至っては、悼み悲しむ思いの心に迫るものがある・・・。
九日に征東将軍(紀朝臣古佐美)は、以下のように奏上している・・・「膽澤」の地は賊どもの中心地である。まさに今大軍を送って征討し、村落を滅ぼしたが、なお残党が潜伏していて、人を殺したり物を奪ったりしている。また、「子波」や「和我」の地は、遠く離れた奥深いところにある。そのため私達が遠く進んで迫って伐とうと思っても、食糧の運搬が大変困難である。---≪続≫---
玉造塞(柵)から「衣川」の営に至るまで四日、食糧や軍用品の受け渡しに二日掛かかり、往復で十日である。「衣川」の営から「子波」の地に到達するまで、その行程を仮に六日とすると、往復十四日である。つまり、玉造塞(柵)から「子波」の地まで往復で二十四日の行程になる。途中で賊に会って合戦したり、雨に妨げられたりして進めない日は、行程に入っていない。---≪続≫---
また、河と陸路で食糧・軍用品を運搬する者は、一万二千四百四十人、彼等が一度に食べる糒は六千二百十五石である。これに対して、征討軍の兵士は二万七千四百七十人、一日に彼等が食べる量は五百四十九石である。これをもとに補給すと消費を計算すると、一度に運ぶものでは、僅か十一日の食糧しか支えることができない。---≪続≫---
私達が量り考えると、「子波」の地を指して進むならば、補給も消費もそれぞれ不足し、征討軍の兵士を割いて食糧・軍用品の運搬に加えれば、征討軍の数が少なくなり、征討するのに不足する。そればかりでなく、軍が賊地に入ってから春が過ぎて夏にわたっており、兵士及び運搬人は共に疲れ弱っている。進攻しても危うく、持久戦を行うにも有利ではない。長らく賊地に駐屯して、食糧を百里以上も離れた場所に運ぶのは良策ではない。---≪続≫---
虫がうごめいているような小さな敵どもも、ひとまず天の誅罰を逃れたと言えるが、今となっては水田や陸田を耕し種を播くこともできず、既に農作業の時期を失っている。滅ぶ以外に何があろうか。私達は相談して、現段階では征討軍を解散脱出させ、食糧を残して非常時の支えとする以上はないとの結論に達した。---≪続≫---
軍の兵士は、一日二千石の糒を食べる。もし解散を上奏して御裁定を聴こうとすれば、更に無駄な費えが増えることを心配する。それ故、この月の十日以前に、軍を解散し賊地外に出すようにとの書状をそれぞれの軍に送り、この旨を知らせる。私達の討議の結果を奏上する一方で、並行してこれを実行しようと思う・・・。
これに対して次のように勅されている・・・今、先の奏状と後の奏状を見ると、[賊は河の東に集まり、官軍に抵抗して防いでいる。そのため先ずこの地を征してから後に賊地に深く入ろうと計画している]と言っている。そのように深く入るのが有利でなく、軍を解散すべきであるならば、詳しく事情を記して奏上し、許可されてから後に解散脱出しても遅くはない。---≪続≫---
ところが少しも進入せず、俄かに軍事行動を中止してしまうという将軍等の策には、どのような道理があるのか。将軍等が凶悪な賊を恐れて避け、止まっているためであるとはっきり分かった。浮ついた言葉でうわべを飾り、罪や過ちを巧みに逃れようとしている。これ以上の不誠実はない。---≪続≫---
「廣成」と「墨繩」は、長らく賊地にいて、その間戦場の経験もあるので、副将の任を委ね、その二人が力を尽くして戦い、功績を待っていた。ところが、静かに陣営の中に居て、居ながらにして勝敗を見て、部下の指揮官を派遣し、返って敗戦という結果になってしまった。---≪続≫---
君主に仕える道が、どうしてこのようなことでよかろうか。そもそも戦に出て功績がないのは、良い将軍が恥じとするところである。今、軍を損ない食糧を費やし、大きな損害を与えた。出征将軍の任務は、どうしてこのようなことでよかろうか・・・。
この日、「甲斐國山梨郡」の人である「要部上麻呂」等の本の姓を改め「田井」としている。「古爾」等を「玉井」、「鞠部」等を「大井」、「解札」等を「中井」にしている。いずれも願い出があったからである。
巣伏村・東山
前記で”衣川”の畔で"鼎足"のごとくに万全の態勢で陣を引いたが、進軍せずに呑気な報告をしたら、天皇が激怒した、と記載されていた。
なんだか、渋々進軍した挙句に悲惨な結果を迎えることになったようである。官軍の前・中・後軍の配置は、図に示したように、官軍から見て最も前、即ち北側が前軍で、南側が後軍であろう。
当初の戦略は、中・後軍は前方の山陵(現在の打越山山塊)を図に示した場所で越えて「巣伏村」に向かい、前軍は谷間の北側へ迂回して山越えし、その村で合流する手筈だったと述べている。ところが前軍は、山越えどころか渡渉(現地名の山中川)するところで賊に壊滅されてしまっていたのである。
巣伏村の巣伏=谷間にある平らな頂の山稜の前「巢」のように取り囲まれて窪んでいるところと解釈される。打越山の東北麓にその地形を見出せる。今昔マップより、当時の地形を伺うことができそうである(こちら参照)。東山=[山]の形の山陵を突き通すようなところと解釈すると、図に示した場所から賊が現れたのである。
袋の鼠となった官軍は、退路も絶たれて、なす術もなく壊滅させられたと記載している。無残な結果を招いてしまったようである。勿論、これは偶々そうなったのではないであろう。
● 阿弖流爲 賊の首領として登場しているが、古風な名称である。阿弖=台地が弓を引いたように曲がっているところと解釈される。打越山の東麓に延びる山稜の形を表していることが解る。流=氵+𠫓+川=谷間にある小高い地の脇から川が流れ出ている様、爲=山稜が手のような山稜の麓で象のように広がっている様と解釈される。若干地形変形が見られるが、図に示した山稜がその地形を表していることが解る。
纏めると阿弖流爲=[阿弖]の台地の脇から流れ出る川の畔に[爲]の山稜があるところと読み解ける。即ち、「巣伏村」に向かう谷間の入口付近を居処としていたことが解る。上記本文で、中・後軍が「阿弖流爲」の居処の手前で一戦を交えたと記載している。追い散らかしたようなのだが、それを深追いして弓なりの谷間を遡って「巣伏村」に入り込んでしまったのである。
紛うことなく、「阿弖流爲」等の陽動作戦に引っ掛ったのである。「惣燒亡賊居。十四村。宅八百許烟。器械雜物如別」と成果を述べているが、空っぽになった場所を意気揚々と進軍したのではなかろうか。これも作戦の一部だったであろう。「阿弖流爲」の居処は、極めて重要な意味を有していたのである。
尚、書紀の斉明天皇紀に・・・勒軍陳船於齶田浦、齶田蝦夷恩荷進而誓曰「不爲官軍故持弓矢、但奴等性食肉故持。若爲官軍以儲弓失、齶田浦神知矣。將淸白心仕官朝矣。」仍授恩荷以小乙上、定渟代・津輕二郡々領・・・と、あっさりと降伏したと記載されていた。
推定した齶田蝦夷恩荷の近隣に「阿弖流爲」の居処があり、”齶田蝦夷”の一族であったと推測される。”齶田=秋田”と解釈してしまっては、「阿弖流爲」の出自は見えて来ないであろう。通説の『巣伏の戦い』の場所を解説されているサイトがこちら。一網打尽で壊滅的敗戦となった場所の地形であろうか。歴史学の”傲慢さ”を感じるところである。
膽澤 賊の中心地とされている。ところで「膽澤」の地名は既に登場していた。光仁天皇紀に出羽國の谷奥に住まう蝦夷であり、時に侵出して来て損害を与えていた。覺鼈城を造営してその谷間を塞いだと記載されていた。
膽澤=大きく広がった山稜が延びている谷間の水辺に丸く小高い地が並んでいるところと解釈したが、類似の地形の場所を表していることが解る。海道蝦夷の居処の一部を示す別表記であることが解る。造城した谷間の地と同一と解釈しては、全く辻褄が合わないことになろう。
子波・和我 更に奥地の名称とされている。子波=生え出た山稜が覆い被さるように延び広がっているところ、和我=いなやかに曲がって延びる稲穂のような山稜の麓がギザギザとしているところと解釈される。図に示した場所を表していることが解る。決してそう遠くはないのだが、「古佐美」としては、そう言わざるを得ない状況だったのであろう。
日上湊 少し後に鎮守副将軍の池田朝臣眞枚が敗走して溺死しそうになった兵士を救けたことから罪を減ぜられている。その場所が日上湊と記載されている。日上=[太陽]のような山稜の麓が盛り上がっているところと解釈すると、図に示した殿様川河口付近を表していると思われる。実に悲惨な敗戦だったようである。
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書紀の斉明天皇紀に津輕郡として大領を置いたりしたのだが(こちら、こちら参照)、実態は殆ど統治圏外の地域だったようである。朝鮮半島との間における流動的な人の流れが、様々に影響し合っていたのである。未解決のままであるアイヌ人、あるいは辺境の和人との確執では、決してない。中国大陸の争乱の波が朝鮮半島を経由して日本に押し寄せていたのである。
續紀の記述外であるが、後に坂上大宿祢田村麻呂によって征討されて「阿弖流爲・母禮(上図参照)」は降伏し、その後二人は河内國で処刑されている。「田村麻呂」は、彼等蝦夷による統治を進言したが、聞き入れられなかったようである。これで蝦夷の存在は抹消されたとのことである。古事記の熊曾(後に肅愼)から始まる日本に住まう新羅人との戦いが終焉したことを意味する。
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● 會津壮麻呂
『巣伏の戦い』の戦死者の一人として名前が挙げられている。称徳天皇紀に、一挙に陸奥國住人に対して賜姓を行ったのだが、その中に會津郡の人である「丈部庭虫」に「阿倍會津臣」の賜ったと記載されていた(こちら参照)。
無姓表記であり、簡略化されているが、おそらく、「庭虫」と同族の人物だったと推測される。居処の現地名は、北九州市門司区今津と推定した。壮麻呂に含まれる「壮(壯)」=「爿+士」と分解される。「爿」=「ベッドの形」と解説される。
地形象形的には、壯=台地が四角く長く延びている様と解釈される。図に示した「庭虫」の東側の谷間の出口辺りが出自と推定される。
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<大伴五百繼-大伴直余良麻呂> |
● 大伴五百繼
上記と同様に無姓表記である。「大伴」には高名な宿祢姓があるが、聖武天皇紀に、私穀を陸奧國の鎭所に献上したとして、外従五位下を叙爵された大伴直一族が記載されていた。
食糧貢進を行い、更に後の征伐隊の一員として参加をしていたのではなかろうか。居処は、書紀に記載された三河大伴直であり、現地名は北九州市小倉南区湯川と推定した。
五百繼=小高い山稜が連なっている地が交差するように繋がっているところと解釈される。出自の場所は、図に示した「南淵麻呂」の淵を挟んだ向かい側に当たる場所と推定される。戦死した彼等の無念が晴れるには、二十数年を待たねばならなかったようである。
少し後に大伴直余良麻呂が外従五位下を叙爵されて登場する。何らかの血縁関係があった人物ではなかろうか。余良=山稜の端が延びてなだらかに広がっているところと解釈すると図に示した場所が出自と推定される。
現在は県名となっている「山梨」が表す地形を求めてみよう。既出の文字列である山梨=切り分けるように延びた山稜の前が[山]の形をしているところと解釈される。
地形変形が見られるが、国土地理院航空写真から確認され(こちら参照)、図に示した場所の地形を表していることが解る。鳶ヶ巣山の北西麓であり、「八代郡」の北隣に当たる地域である。
● 要部上麻呂・古爾・鞠部・解札 その地の住人からの申し出で、無姓の氏名を賜っている。「上麻呂」は和風であるが、「要部」も含めて他は渡来系の人々の名称のようである。書紀の斉明天皇紀に「渡嶋蝦夷」と記載され、渡来達が住まっていた場所と推測した(こちら参照)。彼等を祖としていたのではなかろうか。
要部の「要」が人名に用いられたのは初めてであろう。要=[腰]のように山稜が縊れている様と解釈する。些か地形確認が難しいが、山稜の形を表しているように思われる。上=盛り上がった様であり、図に示した辺りが出自と推定される。
古爾=丸く小高い地の麓が平らに広がっているところと解釈される。「上麻呂」の北側の地が出自と思われる。鞠部の鞠=革+勹+米=山稜の端が牛の頭部のようになって「勹」の形に延びているところと解釈される。図に示した山稜の形を表し、出自は図に示した場所と推定される。
解札の「解」=「角+刀+牛」と分解される。これも初見の文字であろう。地形象形的には解=牛の角ような山稜が細切れになっている様と解釈される。札=木+乙=山稜が[乙]の形に延びている様と解釈される。これらの地形要素を図に示した場世に見出せる。
田井・玉井・大井・中井の氏名を賜ったと記載されている。各々の場所の別表記として受け入れられるものであろう。この後の續紀中に登場されることはないようである。
秋七月丁未。尚掃從四位上美作女王。散事正四位下藤原朝臣春蓮並卒。甲寅。勅伊勢。美濃。越前等國曰。置關之設。本備非常。今正朔所施。區宇無外。徒設關險。勿用防禦。遂使中外隔絶。既失通利之便。公私往來。毎致稽留之苦。無益時務。有切民憂。思革前弊。以適變通。宜其三國之關一切停癈。所有兵器粮糒運收於國府。自外舘舍移建於便郡矣。乙夘。伊勢。志摩兩國飢。賑給之。丁巳。勅持節征東大將軍紀朝臣古佐美等曰。得今月十日奏状稱。所謂膽澤者。水陸万頃。蝦虜存生。大兵一擧。忽爲荒墟。餘燼縱息。危若朝露。至如軍船解纜。舳艫百里。天兵所加。前無強敵。海浦窟宅。非復人烟。山谷巣穴。唯見鬼火。不勝慶快。飛驛上奏者。今兼先後奏状。斬獲賊首八十九級。官軍死亡千有餘人。其被傷害者。殆將二千。夫斬賊之首未滿百級。官軍之損亡及三千。以此言之。何足慶快。又大軍還出之日。兇賊追侵。非唯一度。而云大兵一擧。忽爲荒墟。准量事勢。欲似虚餝。又眞枚墨繩等遣裨將於河東。則敗軍而逃還。溺死之軍一千餘人。而云一時凌渡。且戰且焚。攫賊巣穴。還持本營。是溺死之軍弃而不論。又濱成等掃賊略地。差勝他道。但至於天兵所加前無強敵。山谷巣穴唯見鬼火。此之浮詞。良爲過實。凡獻凱表者。平賊立功。然後可奏。今不究其奧地。稱其種落。馳驛稱慶。不亦愧乎。乙丑。下野。美作兩國飢。賑給之。」命婦正四位上藤原朝臣教貴卒。丁夘。備後國飢。賑給之。
十四日に伊勢・美濃・越前等の國に次のように勅されている・・・關を設置しているのは、元は非常に備えるためであった。今は、内外の区別なく統治は行渡っている。いたずらに険阻な關を設置しているだけで、防御に使用することもなく、内と外を隔てて、利益を通じ合う便利を失ってしまっており、公私の通行は、いつも足止めされて苦しむ結果になっている。---≪続≫---
今の施政に利益となるところはなく、人民の憂いは痛切である。以前からの弊害を改め、臨機応変に対応したく思う。三國の關は全て廃止し、保有していた兵器や食糧・糒は、それぞれの國府に運んで収め、その他の館舎は適当に郡に移建してせよ・・・。
十五日に伊勢・志摩両國が飢饉になったので物を恵み与えている。十七日に持節征東大将軍の紀朝臣古佐美等に次のように勅されている・・・今月十日に得た奏状では、[いわゆる膽澤は、河と原野が極めて広範囲にわたり、蝦夷はそれによって生活している。多数の兵が一たび挙って攻撃すれば、たちまち荒廃の地となった。たとえ生き残りがいるとしても、そのはかなさは朝露のようなものである。---≪続≫---
そればかりかでなく、軍船が出航し、その船は百里ものあいだ艫と舳先が連なるほど多く、天子の兵が加われば、向かうところ手強い敵などない。賊等の海辺の浦にある窟の住処には、二度と人家の煙がたつこともなく、山谷の住処には、ただ鬼火が見えるに過ぎない。この戦勝の喜びに耐えず、至急の驛便を遣わし上奏する]とある。
今、先の奏状と後の奏状を調べると、切り取った賊の首は八十九級で、官軍の死亡者は千人余り、負傷した者はほぼ二千人に及ぶという。いったい賊から切り取った首は百級にも満たないのに、官軍の被害者は三千人に及んでいる。このような有様でどうして喜ぶに足ろうか。---≪続≫---
また、味方の大軍が賊地から出て還る日に、凶悪な賊が追い打ちをかけたことは一度ならずあった。ところが奏状では[多数の兵が一たび挙って攻撃すれば、たちまち荒廃の地となった]と述べている。事の成り行きに従って考えると、虚飾といってよい。また、眞枚と墨繩等は、部下の指揮官を河東に遣わしたが、その結果官軍は敗れて逃げ帰り、溺死した兵は千人余りになっている。---≪続≫---
ところが、奏状では一度に渡り越え、戦いながら村落を焼き、賊の住処を打ち取り、引き揚げて本営を維持したという。ここでは、溺死した軍兵のことは無視して言及していない。また、「濱成」(多治比眞人濱成:征東副使の一人)等が賊を討ち払い、賊地を侵略したことは、少しではあるが、他の方面よりは優れている。---≪続≫---
但し、奏状に[天子の兵が加われば、向かうところ手強い敵などなく、山谷の住処には、ただ鬼火が見えるに過ぎない]というに至っては、それは根拠のない浮ついた言葉であり、事実と掛け離れているとしなければならない。全て戦勝報告を奉る者は、賊を平定し功績を立ててからその後に奉るべきである。---≪続≫---
ところが今、奥地にある賊の本拠を極めず、その集落を攻撃したと称して至急の驛便を遣わし、祝賀している。また、恥ずかしいとは思わないのであろうか・・・。
二十五日に下野・美作両國が飢饉になったので、物を恵み与えている。命婦の藤原朝臣教貴(綿手に併記)が亡くなっている。二十七日に備後國が飢饉になったので、物を恵み与えている。