今皇帝:桓武天皇(17)
延暦七年(西暦788年)正月の記事からである。原文(青字)はこちらのサイトから入手、訓読続日本紀(今泉忠義著)、続日本紀4(直木考次郎他著)を参照。
七年春正月癸亥。從五位下巨勢朝臣家成爲和泉守。甲子。皇太子加元服。其儀。天皇皇后並御前殿。令大納言從二位兼皇太子傅藤原朝臣繼繩。中納言從三位紀朝臣船守兩人。手加其冠。了即執笏而拜。有勅令皇太子參中宮。乃赦天下。詔在京諸司及高年僧尼。并神祝等。賜祿各有差。又諸老人年百歳已上賜穀五斛。九十已上三斛。八十已上一斛。孝子順孫。義夫節婦。表其門閭。終身勿事。鰥寡孤獨篤疾不能自存者。並加賑恤焉。是日。引群臣宴飮殿上。賜祿有差。
正月十四日に巨勢朝臣家成(宮人に併記)を和泉守に任じている。十五日、皇太子(安殿親王)が元服を行っている。その儀式は天皇・皇后が共に前殿に出御して、大納言で皇太子傳を兼務する藤原朝臣繼繩(繩麻呂に併記)と中納言の紀朝臣船守の両人の手で冠を皇太子に被らせている。終了した後、両人は笏を持って拝している。勅が出されて皇太子を中宮(高野朝臣)のところへ参上させている。よって、天下に恩赦を行い、詔されて、京内の諸官司と高齢の僧尼や神社の祝等に地位に応じて禄を賜っている。
また諸々の老人で年が百歳以上には籾米五石、九十歳以上には三石、八十歳以上には一石を賜っている。孝子・順孫・義夫・節婦は家の門と村里の門にその旨を標示し、終身の租税負担を免除している。鰥・寡・孤・獨や篤疾のため自活できない者には、物を恵み与えている。この日、群臣を引き入れて殿上で酒宴を催し、それぞれに禄を賜っている。
二月辛巳。授從五位下錦部連姉繼從五位上。无位安倍小殿朝臣堺。武生連朔並從五位下。並皇太子乳母也。甲申。以中納言兵部卿從三位石川朝臣名足爲兼大和守。從五位下高倉朝臣殿嗣爲介。從五位下大伴宿祢蓑麻呂爲河内守。從五位下百濟王善貞爲介。正四位下伊勢朝臣老人爲遠江守。從五位下縣犬養宿祢繼麻呂爲伊豆守。從五位下紀朝臣眞人爲相摸守。從五位下藤原朝臣縵麻呂爲介。中宮大夫從四位上石川朝臣豊人爲兼武藏守。中衛少將正五位下藤原朝臣乙叡爲兼下総守。從五位下中臣丸朝臣馬主爲上野介。從五位下淺井王爲丹波守。從五位上大中臣朝臣繼麻呂爲但馬守。式部大輔左兵衛督從四位下大中臣朝臣諸魚爲兼播磨守。從五位下笠朝臣江人爲介。外從五位下忍海原連魚養爲大掾。正五位上當麻王爲備前守。少納言從五位下藤原朝臣繩主爲兼介。右衛士佐如故。從五位下下毛野朝臣年繼爲備中介。外從五位下忌部宿祢人上爲安藝介。東宮學士左兵衛佐從五位下津連眞道爲兼伊豫介。從五位上紀朝臣伯麻呂爲大宰少貳。從五位下石川朝臣多祢爲肥前守。壬辰。外從五位下入間宿祢廣成爲近衛將監。庚子。授正六位上紀朝臣永名從五位下。丙午。從五位下多治比眞人繼兄爲右少弁。正五位下藤原朝臣眞友爲中務大輔。從五位上山口王爲大監物。從四位上和氣朝臣清麻呂爲中宮大夫。民部大輔攝津大夫如故。左中弁從五位上大伴宿祢弟麻呂爲兼皇后宮亮。外從五位下阿閇間人臣人足爲大進。從五位下川村王爲右大舍人頭。從五位下廣田王爲縫殿頭。主税助外從五位下麻田連眞淨爲兼大學博士。從五位下大原眞人長濱爲散位助。外從五位下中臣栗原連子公爲大炊助。從五位下大宅朝臣廣江爲主殿頭。從五位下和朝臣家麻呂爲造酒正。從五位下長津王爲鍛冶正。從五位下百濟王教徳爲右兵庫頭。外從五位下林連浦海爲安藝介。陸奥按察使守正五位下多治比眞人宇美爲兼鎭守將軍。外從五位下安倍猿嶋臣墨繩爲副將軍。
中納言・兵部卿の石川朝臣名足を兼務で大和守、高倉朝臣殿嗣(高麗朝臣殿繼)を介、大伴宿祢蓑麻呂(眞綱に併記)を河内守、百濟王善貞(②-⓬)を介、伊勢朝臣老人を遠江守、縣犬養宿祢繼麻呂(堅魚麻呂に併記)を伊豆守、紀朝臣眞人(大宅に併記)を相摸守、藤原朝臣縵麻呂(藥子に併記)を介、中宮大夫の石川朝臣豊人を兼務で武藏守、中衛少將の藤原朝臣乙叡(❻)を兼務で下総守、中臣丸朝臣馬主を上野介、淺井王(❺)を丹波守、大中臣朝臣繼麻呂(子老に併記)を但馬守、式部大輔・左兵衛督の大中臣朝臣諸魚(子老に併記)を兼務で播磨守、笠朝臣江人(眞足に併記)を介、忍海原連魚養を大掾、當麻王(❻)を備前守、少納言の藤原朝臣繩主(❷)を右衛士佐のまま兼務で介、下毛野朝臣年繼を備中介、忌部宿祢人上(止美に併記)を安藝介、東宮學士・左兵衛佐の津連眞道(眞麻呂に併記)を兼務で伊豫介、紀朝臣伯麻呂を大宰少貳、石川朝臣多祢(太祢)を肥前守に任じている。
二十八日に多治比眞人繼兄を右少弁、藤原朝臣眞友(❶)を中務大輔、山口王(❺)を大監物、和氣朝臣清麻呂を民部大輔・攝津大夫のままで中宮大夫、左中弁の大伴宿祢弟麻呂(益立に併記)を兼務で皇后宮亮、阿閇間人臣人足を大進、川村王(❶)を右大舍人頭、廣田王(❽)を縫殿頭、主税助の麻田連眞淨(金生に併記)を兼務で大學博士、大原眞人長濱(年繼に併記)を散位助、中臣栗原連子公(栗原勝)を大炊助、大宅朝臣廣江(吉成に併記)を主殿頭、和朝臣家麻呂(三具足に併記)を造酒正、長津王(❻。三長眞人)を鍛冶正、百濟王教徳(俊哲の子。②-❷)を右兵庫頭、林連浦海(雑物に併記)を安藝介、陸奥按察使守の多治比眞人宇美(海。歳主に併記)を兼務で鎭守將軍、安倍猿嶋臣墨繩(日下部淨人に併記)を副將軍に任じている。
称徳天皇紀に伊豫國人の秦毘登淨足等が、彼等の祖先は安倍小殿小鎌であり、伊豫國に赴任した時に現地の娘を娶って子孫が生まれ、母親の氏姓である秦首(毘登)を名乗って来たと言上し、本来の氏姓である「阿陪小殿朝臣」を賜ったと記載されていた。
その後、同紀に阿倍小殿朝臣人麻呂が従五位下を叙爵されて登場し、阿(安)倍朝臣の氏姓を持つ一族が蔓延って行ったことが伺える。系譜は定かではないが、今回登場の女性も同族であったと思われる。
名前の堺=土+界=谷間で延び出た山稜に挟まれている様と解釈すると、図に示した場所が出自と推定される。「人麻呂」の南側に接するところと思われる。この後に登場することはないが、安殿親王の名付けが、この乳母の名前(安倍小殿)からと言われているようだが・・・。
三月庚戌。軍粮三万五千餘斛仰下陸奥國。運收多賀城。又糒二万三千餘斛并塩。仰東海。東山。北陸等國。限七月以前。轉運陸奥國。並爲來年征蝦夷也。辛亥。下勅。調發東海。東山。坂東諸國歩騎五万二千八百餘人。限來年三月。會於陸奥國多賀城。其點兵者。先盡前般入軍經戰叙勲者。及常陸國神賎。然後簡點餘人堪弓馬者。仍勅。比年國司等無心奉公。毎事闕怠。屡沮成謀。苟曰司存。豈應如此。若有更然。必以乏軍興從事矣。甲子。中宮大夫從四位上兼民部大輔攝津大夫和氣朝臣清麻呂言。河内攝津兩國之堺。堀川築堤。自荒陵南。導河内川西通於海。然則沃壤益廣。可以墾闢矣。於是。便遣清麻呂勾當其事。應須單功廿三万餘人給粮從事矣。己巳。外從五位下嶋田臣宮成授從五位下。從五位下藤原朝臣末茂爲内匠頭。正五位下粟田朝臣鷹守爲治部大輔。從五位下紀朝臣永名爲兵部少輔。從四位上石川朝臣豊人爲大藏卿。中宮大夫武藏守如故。從五位下大宅朝臣廣江爲少輔。從五位下岡田王爲主殿頭。從五位上羽栗臣翼爲左京亮。内藥正侍醫如故。外從五位下麻田連畋賦爲右京亮。從四位上大伴宿祢潔足爲衛門督。從四位下石上朝臣家成爲右衛士督。從五位上紀朝臣作良爲上野守。從五位下嶋田臣宮成爲周防守。從五位上多治比眞人濱成。從五位下紀朝臣眞人。佐伯宿祢葛城。外從五位下入間宿祢廣成並爲征東副使。
三月二日に兵糧三万五千石余りを陸奥國に命じて多賀城に運び収めさせている。また、糒二万三千石余りと塩を東海・東山・北陸の諸國に命じて、七月までに陸奥國に運送させている。いずれも来年蝦夷を征討するためである。
三日に勅されて、東海・東山・坂東の諸國(坂東八國:常陸國を除く。周辺の東海・東山道諸國を加えている)の歩兵と騎兵五万二千八百人余りを徴発して、来年三月までに陸奥國多賀城(柵)に集結させ、その兵士の指名には、まず前回従軍して実戦を経験し、勲位に叙せられた者と、常陸國の「神賎」(鹿嶋神宮の雑役に従事した奴婢。こちら参照)を全て徴発し、その後に他の人々うちで弓射や乗馬に堪能な者を選び指名させることにする。
そこで次のように勅されている・・・近年國司等は公務に熱心ではなく、事々に手抜きをしたり怠けたりして、しばしば計画が失敗してしまっている。いやしくも官人という以上は、このようなことがあってはならない。もし二度とこのようなことが生じた場合は、律に定める「軍用物資の準備不足」を適用して処置する・・・。
十六日に中宮大夫で民部大輔・攝津大夫を兼任する和氣朝臣清麻呂が以下のように言上している・・・河内・攝津両國の國境に川を掘り堤を築いて、「荒陵」の南から「河内川」を西方に導き、海まで通そうと思う・・・。そこで「清麻呂」を派遣してこの事業を担当させ、延べ二十三万人余りに食料を支給してこの事業に従事させている。
二十一日に嶋田臣宮成に内位の從五位下を授けている。藤原朝臣末茂(❸)を内匠頭、粟田朝臣鷹守を治部大輔、紀朝臣永名(本に併記)を兵部少輔、石川朝臣豊人を中宮大夫・武藏守のままで大藏卿、大宅朝臣廣江(吉成に併記)を少輔、岡田王を主殿頭、羽栗臣翼を内藥正・侍醫のままで左京亮、麻田連畋賦を右京亮、大伴宿祢潔足(池主に併記)を衛門督、石上朝臣家成(宅嗣に併記)を右衛士督、紀朝臣作良を上野守、嶋田臣宮成を周防守、多治比眞人濱成(歳主に併記)・紀朝臣眞人(大宅に併記)・佐伯宿祢葛城(瓜作に併記)・入間宿祢廣成(物部直廣成)を征東副使に任じている。
河内國と攝津國の國境を流れる川と記載されている。既に求めたように、現地名で述べると、前者京都郡みやこ町勝山大久保、後者は行橋市津積であり、國境を流れる川は井尻川となる。
前記で三國川と記載された川であるが、被った名称ではなく、その下流域を示していると思われる。即ち、「三國」の地形に連なる場所を流れている川を河内川と名付けていたのであろう。
「河内」を地形象形として解約すると、河内川=谷間の出口を出て小高い地が並んでいる隙間を流れている川と読み解ける。その小高い地を荒陵=水辺で山稜の端が小高くなって途切れているところで表していることが解る。現地名の宝山及びその周辺である。
「清麻呂」の言上は、その南側で流路を西側に移して、海に繋げようとする企画である。現在の井尻川の流路に類似するように思われる。確かに現在のような重機のない時代では大事業であったと推測される。
「河内川」の河口は、古事記の大雀命(仁徳天皇)紀に記載された難波之堀江付近であったと思われる。「堀江」は、水深が不足し船の航行に支障をきたすことを避けるための、やはり大事業であった。「清麻呂」が西側に河口を設けようとしたのは、水深の確保であったと推測される。要するに、大型船の着岸をも容易にする新しい”難波津”を造ることを企画したのである。
更に河内川・三國川を遡り、古事記の波邇賦坂(現みやこトンネル東側)を越えると山背國乙訓郡の長岡宮に通じる道が出来上がることになる。聖武天皇や桓武天皇のような元気な天皇にとっては、心躍る言上であったのではなかろうか。この企画は実現することは叶わなかったようであるが、工事困難な理由ではなく、不要となる経緯があったからであろう。
夏四月庚辰。遣使畿内祈雨焉。丁亥。奉黒馬於丹生川上神。祈雨也。戊子。勅五畿内。頃者亢旱累月。溝池乏水。百姓之間不得耕種。宜仰所司不問王臣。家田有水之處。恣任百姓。擁令播種。勿失農時。癸巳。自去冬不雨。既經五箇月。潅漑已竭。公私望斷。是日早朝。天皇沐浴。出庭親祈焉。有頃。天闇雲合。雨降滂沱。群臣莫不舞踏稱万歳。因賜五位以上御衾及衣。咸以爲。聖徳至誠。祈請所感焉。
四月三日に使者を畿内に派遣して雨乞いをさせている。十日に黒馬を丹生川上神(芳野水分峰神)に奉納している。雨乞いのためである。
十二日に畿内五ヶ國に次のように勅されている・・・この頃日照りが何か月も続き、溝や池の水が欠乏して、人民の間では田を耕して種蒔きをすることができないでいる。所轄の官司に命じて、皇族・臣下を問わず、その家の田で水があるところは、人民に自由に塞き止めさせて水を引かせ、種蒔きをさせ、農業の時期を逸しないようにせよ・・・。
十六日、去年の冬から雨が降らず既に五ヶ月が経過し、灌漑の水は既に涸れてしまい、全ての人々は望みを失っていた。この日の早朝に天皇は沐浴して、庭に出て自ら祈ったら、すると空が暗くなり雲が集まって来て大雨が止めどもなく降っている。群臣等は舞い踊る挙措をし、万歳を叫ばない者はいなかった。そこで五位以上に夜具と衣を賜っている。皆は、天皇に立派な德とこの上ない真心があり、祈りを請うたのに天が感応したためであろう、と感じている。
五月己酉。詔群臣曰。宜差使祈雨於伊勢神宮及七道名神。是夕大雨。其後雨多。遠近周匝。遂得耕殖矣。辛亥。夫人從三位藤原朝臣旅子薨。詔遣中納言正三位兼中務卿藤原朝臣小黒麻呂。參議治部卿正四位下壹志濃王等。監護喪事。又遣中納言從三位兼兵部卿皇后宮大夫石川朝臣名足。參議左大弁正四位下兼春宮大夫中衛中將紀朝臣古佐美。就第宣詔。贈妃并正一位。妃贈右大臣從二位藤原朝臣百川之女也。延暦初納於後宮。尋授從三位。五年進爲夫人。生大伴親王。薨時年卅。丁巳。唐人馬清朝賜姓新長忌寸。庚午。中務大録正六位下中臣丸連淨兄。詐作印書。請受庫物。前後非一。事已發露。欲加推勘。聞而自經矣。
五月二日に群臣に次のように詔されている・・・使者を派遣して、降雨を伊勢神宮や七道の名神に祈らせよ・・・。この日の夕方、雨がたくさん降っている。その後、雨が多く降り、遠國も近國も全てに行き渡って、ついに田植えを行なうことができている。
四日に夫人の藤原朝臣旅子(産子に併記)が薨じている。詔して、中納言で中務卿を兼任する藤原朝臣小黒麻呂、参議・治部卿の壹志濃王(❷)等を派遣して、葬儀を監督・護衛させている。また中納言で兵部卿・皇后宮大夫を兼任する石川朝臣名足、参議・左大弁で春宮大夫・中衛中将を兼任する紀朝臣古佐美を派遣して、邸に赴かせて詔を宣べさせ、妃の地位と正一位の位を贈っている。
十日に唐人の「馬清朝」に「新長忌寸」の氏姓を賜っている(こちら参照)。二十三日に中務大録の中臣丸連淨兄(中臣丸朝臣馬主に併記)は、詐って官司の印を捺した公文書を作成し、官庫の物品を請求し受け取る事を一度ならず行っていた。そのことが発覚して尋問を開始しようとした矢先に頸をくくり自殺している。
六月癸未。美作備前二國國造中宮大夫從四位上兼攝津大夫民部大輔和氣朝臣清麻呂言。備前國和氣郡河西百姓一百七十餘人款曰。己等元是赤坂上道二郡東邊之民也。去天平神護二年。割隷和氣郡。今是郡治在藤野郷。中有大河。毎遭雨水。公私難通。因茲河西百姓屡闕公務。請河東依舊爲和氣郡。河西建磐梨郡。其藤野驛家遷置河西。以避水難。兼均勞逸。許之。甲申。從五位下藤原朝臣根麻呂爲左大舍人助。東宮學士左兵衞佐從五位下津連眞道爲兼圖書助。從五位上藤原朝臣刷雄爲大學頭。乙酉。下総越前二國封各五十戸施入梵釋寺。丙戌。中納言從三位兼兵部卿皇后宮左京大夫大和守石川朝臣名足薨。名足御史大夫正三位年足之子也。寳字中授從五位下。除伊勢守。稍遷。寳龜初任兵部大輔。遷民部大輔。授從四位下。出爲大宰大貳。居二年徴入歴左右大弁。尋爲參議兼右京大夫。名足耳目所渉。多記於心。加以利口剖斷無滯。然性頗偏急。好詰人之過。官人申政。或不合旨。即對其人極口而罵。因此諸司候官曹者。値名足聽事。多跼蹐而避。延暦初。授從三位。拜中納言。兼兵部卿皇后宮左京大夫。薨時年六十一。辛丑。外從六位下武藏宿祢弟総。外正八位上多米連福雄並授外從五位下。以貢獻也。壬寅。正四位下伊勢朝臣老人爲木工頭。從五位下橘朝臣入居爲遠江守。近衛少將從五位下坂上大宿祢田村麻呂爲兼越後介。内匠助如故。從五位下紀朝臣兄原爲出雲守。
六月七日に美作・備中両國の國造で中宮大夫の攝津大夫・民部大輔を兼任する和氣朝臣清麻呂が以下のように言上している・・・備前國和氣郡「河西」の人民百七十人余りが、[我々は元々赤坂・上道二郡の東の端の住民であった。去る天平神護二(766)年に分割された和氣郡に所属することになった。---≪続≫---
しかし郡の役所は「藤野郷」にあり、その中間に大河があるので、雨で増水すると公私共に通行できなくなり、そのため「河西」の人民はしばしば公務を果たせないでいる]との実情を訴えている。---≪続≫---
そこで以下のように申請する。「河東」は旧来通り和氣郡とし、河の西は新たに「磐梨郡」を建てる。また、その藤野驛家は、「河西」に移して設置し、これによって水難を避けると共に、併せて人民の負担は不公平がないようにしたい・・・。これを許可している。
八日に藤原朝臣根麻呂(今女に併記)を左大舍人助、東宮學士・左兵衞佐の津連眞道(眞麻呂に併記)を兼務で圖書助、藤原朝臣刷雄(眞從に併記)を大學頭に任じている。九日に下総・越前二國の封戸各五十戸を梵釋寺に施入している。
十日に中納言で兵部卿・皇后宮大夫・左京大夫・大和守を兼任する「石川朝臣名足」が薨じている。「名足」は御史大夫の「年足」の子であった(こちら参照)。天平寶字年間に従五位下を授けられ、伊勢守に任ぜられた。暫くして転任し、寶龜初年に兵部大輔に任ぜられ、次いで民部大輔に転任し、従四位下を授けられ、転出して大宰大貳となった。
二年間在任して呼び戻され、左右大弁を歴任し、次いで参議兼右京大夫に任じられた。「名足」は見聞きしたことの多くを記憶しており、その上弁説が巧で、事の是非曲直を直ちに区別し判断することができた。しかし性格は頗る狭量であり、好んで他人の過失を問い詰め、官人が政務を報告する際に考えに合わないと、直ちにその人に向かって口を極めて罵倒した。
このため諸司で太政官の庁舎に伺候する者は、「名足」が政務を聴取しているところに出会うと、たいていは身を縮め、小さくなって避けた。延暦初年に従三位を授けられ中納言を拝命し、兵部卿・皇后宮大夫・左京大夫を兼任した。薨じた時、六十一歳であった。
二十五日に「武藏宿祢弟総・多米連福雄」に外従五位下を授けている。貢献することがあったためである。二十六日に伊勢朝臣老人を木工頭、朝臣入居(❶)を遠江守、近衛少將の坂上大宿祢田村麻呂(又子に併記)を内匠助のまま兼務で越後介、紀朝臣兄原(眞子に併記)を出雲守に任じている。
本文にも記載されているように称徳天皇紀の天平神護二(766)年五月に大規模な藤野郡再編が行われ、周辺の他郡から幾つかの郷を藤野郡(和氣郡に改名)に統合していた。
そもそも和氣郡は、元正天皇紀に「邑久郡・赤坂郡」の幾つかの郷を割いて建てた「藤原郡」(藤野郡に改名)が中心となる地であり(こちら参照)、再編によって郡家に近くなることを目論んではいるが、思惑が外れることもあったであろう。
今回は、距離的には遠くはないが、途中にある川が障害となったようである。当時の再編では赤坂郡からは佐伯郷・珂磨郷、上道郡からは沙石郷・物理郷・肩背郷が和氣郡に編入されている。即ち、上記本文で和氣郡河西と記載された場所は、後者の上道郡(物理郷の一部を除く)の各郷を示していることが分る。
河西を”川の西側にある地”と解釈しては、意味不明となろう。河西=谷間の出口から出た川が笊のような地を流れているところと解釈される。同じく和氣朝臣清麻呂の言上である上記の河内(川)に類似する。同様に河東=谷間の出口から出た川が突き通すように流れているところと解釈される。
新たに磐梨郡を建てることを提案しているが、既出の文字列である磐梨=麓で大きく広がっている山稜が切り分けられているところと解釈すると、図に示したように「河西」地域を含めた郡域を表していることが解る。それにしても、備前國の郡割が揺れ動いているが、勿論、発展途上の地であったからであろう。
称徳天皇紀の神護景雲元(767)年十二月に「丈部直不破麻呂」等が「武藏宿祢」の氏姓を賜ったと記載され、續紀中に登場するのは「家刀自」と併せて二人の具体的な人物名が挙げられていた(こちら参照)。
國造を任じられ、武藏國の中心地が大きく南西側に移ったことを伺わせる記述であった。元は古事記の「无邪志國造」の谷間から離れた地となったのである(こちら参照)。
勿論、今回登場の弟総は、その一族であったと思われる。弟總=山稜の端がギザギザとしているように細かく生え出ているところと解釈すると、図に示した辺りが出自と推定される。
何らかの物を献上したことへの褒賞叙位であって、この後に任官に関連する記述は見られないようである。續紀以降の史書にも記載された例がなく、國造を引き継いだかも不明である。
「多米連」の氏姓は、記紀・續紀を通じて初見である。連姓を持つことから古豪の一族と推測されるのだが、関連する情報も極めて限られているようである。
そんな中で現地名の愛知県豊橋辺りに多米の地名があることが分った。国譲り以前の所謂三川之穗に該当する地域かと思われる。
近隣に関しては、『仲麻呂の乱』で功績をあげた石村村主(後に坂上忌寸の氏姓を賜う)一族の居処となっていた。彼等は三川之衣の地であり、三川之穗の地には、唯一、多産で褒賞された海直玉依賣が登場していた。勿論、古事記の豐玉毘賣・玉依毘賣の出自の場所である。
多米=山稜の端の三角州が細かく岐れて米粒のように並んでいるところと解釈すると、見事にその地形を見出すことができる。福雄=羽を広げた鳥の形をした山稜の前に酒樽のような地があるところと解釈され、図に示した場所が出自と推定される。上記と同様にこの後に登場されることはなく、消息は不明である。