2024年11月26日火曜日

今皇帝:桓武天皇(20) 〔703〕

今皇帝:桓武天皇(20)


延暦八(西暦789年)六月の記事からである。原文(青字)はこちらのサイトから入手、訓読続日本紀(今泉忠義著)、続日本紀4(直木考次郎他著)を参照。

六月甲戌。征東將軍奏。副將軍外從五位下入間宿祢廣成。左中軍別將從五位下池田朝臣眞枚。与前軍別將外從五位下安倍猿嶋臣墨繩等議。三軍同謀并力。渡河討賊。約期已畢。由是抽出中後軍各二千人。同共凌渡。比至賊帥夷阿弖流爲之居。有賊徒三百許人。迎逢相戰。官軍勢強。賊衆引遁。官軍且戰且燒至巣伏村。將与前軍合勢。而前軍爲賊被拒不得進渡。於是。賊衆八百許人。更來拒戰。其力太強。官軍稍退。賊徒直衝。更有賊四百許人。出自東山絶官軍後。前後受敵。賊衆奮撃。官軍被排。別將丈部善理。進士高田道成。會津壯麻呂。安宿戸吉足。大伴五百繼等並戰死。惣燒亡賊居。十四村。宅八百許烟。器械雜物如別。官軍戰死廿五人。中矢二百卌五人。投河溺死一千卅六人。裸身游來一千二百五十七人。別將出雲諸上。道嶋御楯等。引餘衆還來。於是勅征東將軍曰。省比來奏云。膽澤之賊惣集河東。先征此地後謀深入者。然則軍監已上率兵。張其形勢。嚴其威容。前後相續。可以薄伐。而軍少將卑。還致敗績。是則其道嶋副將等計策之所失也。至於善理等戰亡及士衆溺死者。惻怛之情。有切于懷。庚辰。征東將軍奏稱。膽澤之地。賊奴奧區。方今大軍征討。剪除村邑。餘黨伏竄。殺畧人物。又子波。和我。僻在深奧。臣等遠欲薄伐。粮運有艱。其從玉造塞。至衣川營四日。輜重受納二箇日。然則往還十日。從衣川至子波地。行程假令六日。輜重往還十四日。惣從玉造塞至子波地。往還廿四日程廢。途中逢賊相戰。及妨雨不進之日不入程内。河陸兩道輜重一万二千四百卌人。一度所運糒六千二百十五斛。征軍二万七千四百七十人。一日所食五百卌九斛。以此支度。一度所運。僅支十一日。臣等商量。指子波地。支度交闕。割征兵加輜重。則征軍數少不足征討。加以。軍入以來。經渉春夏。征軍輜重。並是疲弊。進之有危。持之則無利。久屯賊地。運粮百里之外。非良策也。雖蠢尓小冦。且逋天誅。而水陸之田。不得耕種。既失農時。不滅何待。臣等所議。莫若解軍遺粮。支擬非常。軍士所食。日二千斛。若上奏聽裁。恐更多糜費。故今月十日以前解出之状。牒知諸軍。臣等愚議。且奏且行。勅報曰。今省先後奏状曰。賊集河東。抗拒官軍。先征此地。後謀深入者。然則不利深入。應以解軍者。具状奏上。然後解出。未之晩也。而曾不進入。一旦罷兵。將軍等策。其理安在。的知。將軍等畏憚兇賊。逗留所爲也。巧餝浮詞。規避罪過。不忠之甚。莫先於斯。又廣成。墨繩。久在賊地。兼經戰塲。故委以副將之任。佇其力戰之効。而靜處營中。坐見成敗。差入裨將。還致敗績。事君之道。何其如此。夫師出無功。良將所恥。今損軍費粮。爲國家大害。閫外之寄。豈其然乎。」甲斐國山梨郡人外正八位下要部上麻呂等改本姓爲田井。古尓等爲玉井。鞠部等爲大井。解礼等爲中井。並以其情願也。

六月三日に征東将軍(紀朝臣古佐美)は、以下のように奏上している・・・副将軍の入間宿祢廣成(物部直廣成)と左中軍別将の池田朝臣眞枚(足繼に併記)は、前軍別将の安倍猿嶋朝臣墨繩等と前・中・後の三軍が共謀し力を合せ河を渡って賊を討とうと相談し、その期限も既に決めていた。そこで中軍と後軍からそれぞれ二千人を選び出し、纏まって共に渡った。賊の首領「阿弖流爲」の居処に近付いた時、賊徒が三百人ばかりいて、官軍を迎え討って合戦をした。---≪続≫---

しかし官軍の勢いが強く、賊衆は退却した。そこで官軍は、戦いながら彼等の居処を焼き払いつつ、「巣伏村」に至り、別途進撃して来た前軍の軍勢と合流しようとした。ところが、前軍は賊のため進路を阻まれ河を進み渡ることができず、その村には至っていなかった。そこへ賊軍が八百人ばかりが次々とやって来て、官軍を遮って戦った。その力は大変強く、官軍が少し後退した時に、賊徒は直ちに攻め寄せて来た。---≪続≫---

更に賊が「東山」から現れ、官軍の背後を絶ってしまった。結果官軍は前後を敵に挟まれ、賊軍の方は益々奮い立って攻撃を仕掛け、官軍は押し戻されて、別将の丈部善理(於保磐城臣御炊に併記)、進士の高田道成(川人部廣井に併記)・「会津壮麻呂」・安宿戸吉足(飛鳥戸造弟見に併記)・「大伴五百繼」等がいずれも戦死した。戦績を総計すると、焼き滅ぼした賊の集落は十四ヶ村で、家屋は八百戸ばかり、武器や種々の物については別に示した通りである。---≪続≫---

官軍では戦死した者が二十五人、矢に当たった者が二百四十五人、河に飛び込んで溺死した者が千三十六人、裸で泳ぎ逃げて来た者が千二百五十七人である。なお、別将の出雲諸上(嶋成に併記)・道嶋御楯(牡鹿連猪手に併記)等は、残った人々を率いて多賀城(柵)に還って来た・・・。

征東将軍に次のように詔されている・・・最近の上奏を見ると、[「膽澤」にいる賊は全て河の東側に集まっているので、まずこの地を討ち、その後で深く入ろうと計画している]とある。もし、これを実行するならば、軍監以上の者が、兵を率いて攻撃の態勢を作り、その威容を厳重にして、前軍と後軍が続いて、迫って伐つべきである。---≪続≫---

ところが、動員した軍勢は少なく、指揮官の地位も低く、返って敗戦するという結果になった。これはその方面の副将等の計画が間違っていたからである。「善理」等の戦死と多数の兵士の溺死に至っては、悼み悲しむ思いの心に迫るものがある・・・。

九日に征東将軍(紀朝臣古佐美)は、以下のように奏上している・・・「膽澤」の地は賊どもの中心地である。まさに今大軍を送って征討し、村落を滅ぼしたが、なお残党が潜伏していて、人を殺したり物を奪ったりしている。また、「子波」や「和我」の地は、遠く離れた奥深いところにある。そのため私達が遠く進んで迫って伐とうと思っても、食糧の運搬が大変困難である。---≪続≫---

玉造塞(柵)から「衣川」の営に至るまで四日、食糧や軍用品の受け渡しに二日掛かかり、往復で十日である。「衣川」の営から「子波」の地に到達するまで、その行程を仮に六日とすると、往復十四日である。つまり、玉造塞(柵)から「子波」の地まで往復で二十四日の行程になる。途中で賊に会って合戦したり、雨に妨げられたりして進めない日は、行程に入っていない。---≪続≫---

また、河と陸路で食糧・軍用品を運搬する者は、一万二千四百四十人、彼等が一度に食べる糒は六千二百十五石である。これに対して、征討軍の兵士は二万七千四百七十人、一日に彼等が食べる量は五百四十九石である。これをもとに補給すと消費を計算すると、一度に運ぶものでは、僅か十一日の食糧しか支えることができない。---≪続≫---

私達が量り考えると、「子波」の地を指して進むならば、補給も消費もそれぞれ不足し、征討軍の兵士を割いて食糧・軍用品の運搬に加えれば、征討軍の数が少なくなり、征討するのに不足する。そればかりでなく、軍が賊地に入ってから春が過ぎて夏にわたっており、兵士及び運搬人は共に疲れ弱っている。進攻しても危うく、持久戦を行うにも有利ではない。長らく賊地に駐屯して、食糧を百里以上も離れた場所に運ぶのは良策ではない。---≪続≫---

虫がうごめいているような小さな敵どもも、ひとまず天の誅罰を逃れたと言えるが、今となっては水田や陸田を耕し種を播くこともできず、既に農作業の時期を失っている。滅ぶ以外に何があろうか。私達は相談して、現段階では征討軍を解散脱出させ、食糧を残して非常時の支えとする以上はないとの結論に達した。---≪続≫---

軍の兵士は、一日二千石の糒を食べる。もし解散を上奏して御裁定を聴こうとすれば、更に無駄な費えが増えることを心配する。それ故、この月の十日以前に、軍を解散し賊地外に出すようにとの書状をそれぞれの軍に送り、この旨を知らせる。私達の討議の結果を奏上する一方で、並行してこれを実行しようと思う・・・。

これに対して次のように勅されている・・・今、先の奏状と後の奏状を見ると、[賊は河の東に集まり、官軍に抵抗して防いでいる。そのため先ずこの地を征してから後に賊地に深く入ろうと計画している]と言っている。そのように深く入るのが有利でなく、軍を解散すべきであるならば、詳しく事情を記して奏上し、許可されてから後に解散脱出しても遅くはない。---≪続≫---

ところが少しも進入せず、俄かに軍事行動を中止してしまうという将軍等の策には、どのような道理があるのか。将軍等が凶悪な賊を恐れて避け、止まっているためであるとはっきり分かった。浮ついた言葉でうわべを飾り、罪や過ちを巧みに逃れようとしている。これ以上の不誠実はない。---≪続≫---

「廣成」と「墨繩」は、長らく賊地にいて、その間戦場の経験もあるので、副将の任を委ね、その二人が力を尽くして戦い、功績を待っていた。ところが、静かに陣営の中に居て、居ながらにして勝敗を見て、部下の指揮官を派遣し、返って敗戦という結果になってしまった。---≪続≫---

君主に仕える道が、どうしてこのようなことでよかろうか。そもそも戦に出て功績がないのは、良い将軍が恥じとするところである。今、軍を損ない食糧を費やし、大きな損害を与えた。出征将軍の任務は、どうしてこのようなことでよかろうか・・・。

この日、「甲斐國山梨郡」の人である「要部上麻呂」等の本の姓を改め「田井」としている。「古爾」等を「玉井」、「鞠部」等を「大井」、「解札」等を「中井」にしている。いずれも願い出があったからである。

<巣伏村・東山:阿弖流爲>
巣伏村・東山

前記で”衣川”の畔で"鼎足"のごとくに万全の態勢で陣を引いたが、進軍せずに呑気な報告をしたら、天皇が激怒した、と記載されていた。

なんだか、渋々進軍した挙句に悲惨な結果を迎えることになったようである。官軍の前・中・後軍の配置は、図に示したように、官軍から見て最も前、即ち北側が前軍で、南側が後軍であろう。

当初の戦略は、中・後軍は前方の山陵(現在の打越山山塊)を図に示した場所で越えて「巣伏村」に向かい、前軍は谷間の北側へ迂回して山越えし、その村で合流する手筈だったと述べている。ところが前軍は、山越えどころか渡渉(現地名の山中川)するところで賊に壊滅されてしまっていたのである。

巣伏村巣伏=谷間にある平らな頂の山稜の前「巢」のように取り囲まれて窪んでいるところと解釈される。打越山の東北麓にその地形を見出せる。今昔マップより、当時の地形を伺うことができそうである(こちら参照)。東山=[山]の形の山陵を突き通すようなところと解釈すると、図に示した場所から賊が現れたのである。

袋の鼠となった官軍は、退路も絶たれて、なす術もなく壊滅させられたと記載している。無残な結果を招いてしまったようである。勿論、これは偶々そうなったのではないであろう。

● 阿弖流爲 賊の首領として登場しているが、古風な名称である。阿弖=台地が弓を引いたように曲がっているところと解釈される。打越山の東麓に延びる山稜の形を表していることが解る。流=氵+𠫓+川=谷間にある小高い地の脇から川が流れ出ている様爲=山稜が手のような山稜の麓で象のように広がっている様と解釈される。若干地形変形が見られるが、図に示した山稜がその地形を表していることが解る。

纏めると阿弖流爲=[阿弖]の台地の脇から流れ出る川の畔に[爲]の山稜があるところと読み解ける。即ち、「巣伏村」に向かう谷間の入口付近を居処としていたことが解る。上記本文で、中・後軍が「阿弖流爲」の居処の手前で一戦を交えたと記載している。追い散らかしたようなのだが、それを深追いして弓なりの谷間を遡って「巣伏村」に入り込んでしまったのである。

紛うことなく、「阿弖流爲」等の陽動作戦に引っ掛ったのである。「惣燒亡賊居。十四村。宅八百許烟。器械雜物如別」と成果を述べているが、空っぽになった場所を意気揚々と進軍したのではなかろうか。これも作戦の一部だったであろう。「阿弖流爲」の居処は、極めて重要な意味を有していたのである。

尚、書紀の斉明天皇紀に・・・勒軍陳船於齶田浦、齶田蝦夷恩荷進而誓曰「不爲官軍故持弓矢、但奴等性食肉故持。若爲官軍以儲弓失、齶田浦神知矣。將淸白心仕官朝矣。」仍授恩荷以小乙上、定渟代・津輕二郡々領・・・と、あっさりと降伏したと記載されていた。

推定した齶田蝦夷恩荷の近隣に「阿弖流爲」の居処があり、”齶田蝦夷”の一族であったと推測される。”齶田=秋田”と解釈してしまっては、「阿弖流爲」の出自は見えて来ないであろう。通説の『巣伏の戦い』の場所を解説されているサイトがこちら。一網打尽で壊滅的敗戦となった場所の地形であろうか。歴史学の”傲慢さ”を感じるところである。

膽澤 賊の中心地とされている。ところで「膽澤」の地名は既に登場していた。光仁天皇紀に出羽國の谷奥に住まう蝦夷であり、時に侵出して来て損害を与えていた。覺鼈城を造営してその谷間を塞いだと記載されていた。

膽澤=大きく広がった山稜が延びている谷間の水辺に丸く小高い地が並んでいるところと解釈したが、類似の地形の場所を表していることが解る。海道蝦夷の居処の一部を示す別表記であることが解る。造城した谷間の地と同一と解釈しては、全く辻褄が合わないことになろう。

子波・和我 更に奥地の名称とされている。子波=生え出た山稜が覆い被さるように延び広がっているところ和我=いなやかに曲がって延びる稲穂のような山稜の麓がギザギザとしているところと解釈される。図に示した場所を表していることが解る。決してそう遠くはないのだが、「古佐美」としては、そう言わざるを得ない状況だったのであろう。

日上湊 少し後に鎮守副将軍の池田朝臣眞枚が敗走して溺死しそうになった兵士を救けたことから罪を減ぜられている。その場所が日上湊と記載されている。日上=[太陽]のような山稜の麓が盛り上がっているところと解釈すると、図に示した殿様川河口付近を表していると思われる。実に悲惨な敗戦だったようである。

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書紀の斉明天皇紀に津輕郡として大領を置いたりしたのだが(こちらこちら参照)、実態は殆ど統治圏外の地域だったようである。朝鮮半島との間における流動的な人の流れが、様々に影響し合っていたのである。未解決のままであるアイヌ人、あるいは辺境の和人との確執では、決してない。中国大陸の争乱の波が朝鮮半島を経由して日本に押し寄せていたのである。

續紀の記述外であるが、後に坂上大宿祢田村麻呂によって征討されて「阿弖流爲・母禮(上図参照)」は降伏し、その後二人は河内國で処刑されている。「田村麻呂」は、彼等蝦夷による統治を進言したが、聞き入れられなかったようである。これで蝦夷の存在は抹消されたとのことである。古事記の熊曾(後に肅愼)から始まる日本に住まう新羅人との戦いが終焉したことを意味する。

<會津壮麻呂>
歴史上、最大のターニングポイントを迎えることになろう。後顧に憂いがなくなったのである。詳細は『日本後記』となるが、さて、いつになることやら・・・。

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● 會津壮麻呂

『巣伏の戦い』の戦死者の一人として名前が挙げられている。称徳天皇紀に、一挙に陸奥國住人に対して賜姓を行ったのだが、その中に會津郡の人である「丈部庭虫」に「阿倍會津臣」の賜ったと記載されていた(こちら参照)。

無姓表記であり、簡略化されているが、おそらく、「庭虫」と同族の人物だったと推測される。居処の現地名は、北九州市門司区今津と推定した。壮麻呂に含まれる「壮(壯)」=「爿+士」と分解される。「爿」=「ベッドの形」と解説される。

地形象形的には、壯=台地が四角く長く延びている様と解釈される。図に示した「庭虫」の東側の谷間の出口辺りが出自と推定される。

<大伴五百繼-大伴直余良麻呂>
● 大伴五百繼

上記と同様に無姓表記である。「大伴」には高名な宿祢姓があるが、聖武天皇紀に、私穀を陸奧國の鎭所に献上したとして、外従五位下を叙爵された大伴直一族が記載されていた。

食糧貢進を行い、更に後の征伐隊の一員として参加をしていたのではなかろうか。居処は、書紀に記載された三河大伴直であり、現地名は北九州市小倉南区湯川と推定した。

五百繼=小高い山稜が連なっている地が交差するように繋がっているところと解釈される。出自の場所は、図に示した「南淵麻呂」の淵を挟んだ向かい側に当たる場所と推定される。戦死した彼等の無念が晴れるには、二十数年を待たねばならなかったようである。

少し後に大伴直余良麻呂が外従五位下を叙爵されて登場する。何らかの血縁関係があった人物ではなかろうか。余良=山稜の端が延びてなだらかに広がっているところと解釈すると図に示した場所が出自と推定される。

<甲斐國山梨郡:要部上麻呂-古爾-鞠部-解札>
甲斐國山梨郡

甲斐國の郡割については、前出の八代郡のみであり、今回が二郡目である。白狐神馬の献上が先行するような未開拓の地域であったに違いない。

現在は県名となっている「山梨」が表す地形を求めてみよう。既出の文字列である山梨=切り分けるように延びた山稜の前が[山]の形をしているところと解釈される。

地形変形が見られるが、国土地理院航空写真から確認され(こちら参照)、図に示した場所の地形を表していることが解る。鳶ヶ巣山の北西麓であり、「八代郡」の北隣に当たる地域である。

● 要部上麻呂・古爾・鞠部・解札 その地の住人からの申し出で、無姓の氏名を賜っている。「上麻呂」は和風であるが、「要部」も含めて他は渡来系の人々の名称のようである。書紀の斉明天皇紀に「渡嶋蝦夷」と記載され、渡来達が住まっていた場所と推測した(こちら参照)。彼等を祖としていたのではなかろうか。

要部の「要」が人名に用いられたのは初めてであろう。要=[腰]のように山稜が縊れている様と解釈する。些か地形確認が難しいが、山稜の形を表しているように思われる。上=盛り上がった様であり、図に示した辺りが出自と推定される。

古爾=丸く小高い地の麓が平らに広がっているところと解釈される。「上麻呂」の北側の地が出自と思われる。鞠部鞠=革+勹+米=山稜の端が牛の頭部のようになって「勹」の形に延びているところと解釈される。図に示した山稜の形を表し、出自は図に示した場所と推定される。

解札の「解」=「角+刀+牛」と分解される。これも初見の文字であろう。地形象形的には解=牛の角ような山稜が細切れになっている様と解釈される。札=木+乙=山稜が[乙]の形に延びている様と解釈される。これらの地形要素を図に示した場世に見出せる。

田井玉井大井中井の氏名を賜ったと記載されている。各々の場所の別表記として受け入れられるものであろう。この後の續紀中に登場されることはないようである。

秋七月丁未。尚掃從四位上美作女王。散事正四位下藤原朝臣春蓮並卒。甲寅。勅伊勢。美濃。越前等國曰。置關之設。本備非常。今正朔所施。區宇無外。徒設關險。勿用防禦。遂使中外隔絶。既失通利之便。公私往來。毎致稽留之苦。無益時務。有切民憂。思革前弊。以適變通。宜其三國之關一切停癈。所有兵器粮糒運收於國府。自外舘舍移建於便郡矣。乙夘。伊勢。志摩兩國飢。賑給之。丁巳。勅持節征東大將軍紀朝臣古佐美等曰。得今月十日奏状稱。所謂膽澤者。水陸万頃。蝦虜存生。大兵一擧。忽爲荒墟。餘燼縱息。危若朝露。至如軍船解纜。舳艫百里。天兵所加。前無強敵。海浦窟宅。非復人烟。山谷巣穴。唯見鬼火。不勝慶快。飛驛上奏者。今兼先後奏状。斬獲賊首八十九級。官軍死亡千有餘人。其被傷害者。殆將二千。夫斬賊之首未滿百級。官軍之損亡及三千。以此言之。何足慶快。又大軍還出之日。兇賊追侵。非唯一度。而云大兵一擧。忽爲荒墟。准量事勢。欲似虚餝。又眞枚墨繩等遣裨將於河東。則敗軍而逃還。溺死之軍一千餘人。而云一時凌渡。且戰且焚。攫賊巣穴。還持本營。是溺死之軍弃而不論。又濱成等掃賊略地。差勝他道。但至於天兵所加前無強敵。山谷巣穴唯見鬼火。此之浮詞。良爲過實。凡獻凱表者。平賊立功。然後可奏。今不究其奧地。稱其種落。馳驛稱慶。不亦愧乎。乙丑。下野。美作兩國飢。賑給之。」命婦正四位上藤原朝臣教貴卒。丁夘。備後國飢。賑給之。

七月七日に尚掃の美作女王(美作王。秋野王に併記)と散事の藤原朝臣春蓮が亡くなっている。

十四日に伊勢・美濃・越前等の國に次のように勅されている・・・關を設置しているのは、元は非常に備えるためであった。今は、内外の区別なく統治は行渡っている。いたずらに険阻な關を設置しているだけで、防御に使用することもなく、内と外を隔てて、利益を通じ合う便利を失ってしまっており、公私の通行は、いつも足止めされて苦しむ結果になっている。---≪続≫---

今の施政に利益となるところはなく、人民の憂いは痛切である。以前からの弊害を改め、臨機応変に対応したく思う。三國の關は全て廃止し、保有していた兵器や食糧・糒は、それぞれの國府に運んで収め、その他の館舎は適当に郡に移建してせよ・・・。

十五日に伊勢・志摩両國が飢饉になったので物を恵み与えている。十七日に持節征東大将軍の紀朝臣古佐美等に次のように勅されている・・・今月十日に得た奏状では、[いわゆる膽澤は、河と原野が極めて広範囲にわたり、蝦夷はそれによって生活している。多数の兵が一たび挙って攻撃すれば、たちまち荒廃の地となった。たとえ生き残りがいるとしても、そのはかなさは朝露のようなものである。---≪続≫---

そればかりかでなく、軍船が出航し、その船は百里ものあいだ艫と舳先が連なるほど多く、天子の兵が加われば、向かうところ手強い敵などない。賊等の海辺の浦にある窟の住処には、二度と人家の煙がたつこともなく、山谷の住処には、ただ鬼火が見えるに過ぎない。この戦勝の喜びに耐えず、至急の驛便を遣わし上奏する]とある。

今、先の奏状と後の奏状を調べると、切り取った賊の首は八十九級で、官軍の死亡者は千人余り、負傷した者はほぼ二千人に及ぶという。いったい賊から切り取った首は百級にも満たないのに、官軍の被害者は三千人に及んでいる。このような有様でどうして喜ぶに足ろうか。---≪続≫---

また、味方の大軍が賊地から出て還る日に、凶悪な賊が追い打ちをかけたことは一度ならずあった。ところが奏状では[多数の兵が一たび挙って攻撃すれば、たちまち荒廃の地となった]と述べている。事の成り行きに従って考えると、虚飾といってよい。また、眞枚墨繩等は、部下の指揮官を河東に遣わしたが、その結果官軍は敗れて逃げ帰り、溺死した兵は千人余りになっている。---≪続≫---

ところが、奏状では一度に渡り越え、戦いながら村落を焼き、賊の住処を打ち取り、引き揚げて本営を維持したという。ここでは、溺死した軍兵のことは無視して言及していない。また、「濱成」(多治比眞人濱成征東副使の一人)等が賊を討ち払い、賊地を侵略したことは、少しではあるが、他の方面よりは優れている。---≪続≫---

但し、奏状に[天子の兵が加われば、向かうところ手強い敵などなく、山谷の住処には、ただ鬼火が見えるに過ぎない]というに至っては、それは根拠のない浮ついた言葉であり、事実と掛け離れているとしなければならない。全て戦勝報告を奉る者は、賊を平定し功績を立ててからその後に奉るべきである。---≪続≫---

ところが今、奥地にある賊の本拠を極めず、その集落を攻撃したと称して至急の驛便を遣わし、祝賀している。また、恥ずかしいとは思わないのであろうか・・・。

二十五日に下野・美作両國が飢饉になったので、物を恵み与えている。命婦の藤原朝臣教貴(綿手に併記)が亡くなっている。二十七日に備後國が飢饉になったので、物を恵み与えている。


2024年11月19日火曜日

今皇帝:桓武天皇(19) 〔702〕

今皇帝:桓武天皇(19)


延暦八(西暦789年)正月の記事からである。原文(青字)はこちらのサイトから入手、訓読続日本紀(今泉忠義著)、続日本紀4(直木考次郎他著)を参照。

延暦八年春正月甲辰朔。日有蝕之。己酉。宴五位已上於南院。」授從五位上笠王正五位下。從五位下廣田王從五位上。无位葛井王從五位下。從四位下佐伯宿祢眞守從四位上。正五位下藤原朝臣菅繼從四位下。正五位下百濟王玄鏡正五位上。從五位上文室眞人与企。紀朝臣作良並正五位下。從五位下賀茂朝臣人麻呂。藤原朝臣園人。伊勢朝臣水通。津連眞道並從五位上。正六位上平群朝臣國人。紀朝臣伯。紀朝臣登万理。榎井朝臣靺鞨。田中朝臣大魚。安倍朝臣人成。巨勢朝臣道成。石川朝臣清濱。石川朝臣清成。大春日朝臣清足。藤原朝臣岡繼。石上朝臣乙名。大野朝臣仲男。角朝臣筑紫麻呂並從五位下。正六位上大網公廣道。韓國連源。秋篠宿祢安人並外從五位下。以兵部卿從三位兼近江守多治比眞人長野爲參議。壬子。參議大宰帥正三位佐伯宿祢今毛人上表乞骸骨。詔許之。丁巳。以律師玄憐法師爲少僧都。戊辰。參議宮内卿正四位下兼神祇伯大中臣朝臣子老卒。右大臣正二位清麻呂之第二子也。己巳。授從四位上藤原朝臣延福正四位下。正五位上藤原朝臣春蓮。藤原朝臣勤子並從四位下。正五位下伴田朝臣仲刀自正五位上。從五位上藤原朝臣慈雲。安倍朝臣黒女並正五位下。從五位下藤原朝臣眞貞。平群朝臣炊女。大原眞人明。无位多治比眞人邑刀自。藤原朝臣數子。紀朝臣若子並從五位上。外從五位下豊田造信女。岡上連綱。无位藤原朝臣惠子。正六位上菅生朝臣恩日。從六位上石上朝臣眞家。從六位下角朝臣廣江並從五位下。正六位上物部韓國連眞成。山代忌寸越足。從六位下采女臣阿古女並外從五位下。

正月一日に日蝕が起こっている。六日に五位以上と南院で宴を催している。笠王に正五位下、廣田王()に從五位上、葛井王()に從五位下、佐伯宿祢眞守に從四位上、藤原朝臣菅繼に從四位下、百濟王玄鏡(①-)に正五位上、文室眞人与企(与伎)紀朝臣作良に正五位下、賀茂朝臣人麻呂藤原朝臣園人(勤子に併記)伊勢朝臣水通(諸人に併記)津連眞道(眞麻呂に併記)に從五位上、平群朝臣國人(炊女に併記)・紀朝臣伯・紀朝臣登万理(須惠女に併記)・「榎井朝臣靺鞨・田中朝臣大魚」・安倍朝臣人成(眞黒麻呂に併記)・巨勢朝臣道成(馬主に併記)・石川朝臣清濱・石川朝臣清成(淨繼に併記)・大春日朝臣清足(五百世に併記)・藤原朝臣岡繼()・石上朝臣乙名(等能古に併記)・大野朝臣仲男(下毛野朝臣年繼に併記)・角朝臣筑紫麻呂(道守に併記)に從五位下、大網公廣道(大野朝臣乎婆婆に併記)韓國連源秋篠宿祢安人(土師宿祢)に外從五位下を授けている。兵部卿兼近江守の多治比眞人長野を參議に任じている。

九日に参議・大宰帥の佐伯宿祢今毛人は上奏して辞職を願い出ている。詔してこれを許している。十四日に律師の玄憐法師を少僧都に任じている。二十五日に参議・宮内卿で神祇伯を兼任する「大中臣朝臣子老」が亡くなっている。右大臣の「清麻呂」の第二子であった(こちら参照)。

二十六日に藤原朝臣延福(兄倉に併記)に正四位下、藤原朝臣春蓮藤原朝臣勤子に從四位下、伴田朝臣仲刀自に正五位上、藤原朝臣慈雲安倍朝臣黒女に正五位下、藤原朝臣眞貞(眞男女。綿手に併記)・平群朝臣炊女大原眞人明(年繼に併記)・「多治比眞人邑刀自」・藤原朝臣數子(雄友の子。近隣)・紀朝臣若子(船守に併記)に從五位上、豊田造信女(調阿氣麻呂に併記)・岡上連綱(刀利甲斐麻呂に併記)・藤原朝臣惠子(甘刀自に併記)・菅生朝臣恩日(嶋足に併記)・石上朝臣眞家(眞足に併記)・角朝臣廣江(道守に併記)に從五位下、「物部韓國連眞成」・山代忌寸越足(金城史山守に併記)・采女臣阿古女(采女朝臣首名に併記)に外從五位下を授けている。

榎井朝臣靺鞨・物部韓國連眞成
● 榎井朝臣靺鞨・物部韓國連眞成

「榎井朝臣」一族の新人登場は、光仁天皇紀に種人が最後であったが、『壬申の乱』の功臣であり、連綿と人材輩出が続いている。

現地名の北九州市小倉南区市丸の谷間に蔓延っていたと推測した。勿論、紛うことなく物部派生氏族である。天武天皇の吉野脱出の最初の関門である迷路のように入り組む谷間の通過を手助けしたのである。

靺鞨の文字列は、既に幾度か人名に用いられていた。七世紀前後の中国東北部に存在した名称などと解釈したのでは、全く意味不明となろう。靺鞨=角のような山稜の端で閉じ込められているところと解釈すると、図に示した場所が出自と推定される。

物部韓國連、「韓國連」と省略されることもあるようだが、上記の「榎井朝臣」の南隣の谷間と推定した。直近では韓國連源が登場していた。眞成=平らに整えられた高台が寄り集まって窪んでいるところと解釈すると、「源」の近隣にその地形を見出せる。

延暦九(790)年十一月に「源」等が、我々は物部大連の子孫であるが、父祖が遣わされた國名を姓として「韓國連」を名乗り、まるで「三韓之新來」の者のようになってしまい、「韓國」を改めて「物部高原連」の氏姓に変えたい、と申し出て許可されている。

「以父祖奉使國名」と記載されているが、史書には”韓國”という記載は、百濟・新羅・高麗であって、國名として一切見られない。”三韓”の表現を持ち出して、何となく”韓國”と関連付けたような記述である。全くの戯れた表記であろう。韓國=山稜に取り囲まれているところである。

<田中朝臣大魚>
高原=皺が寄ったような山稜の麓で野原が広がっているところであり、支障のない名称であるが、何ともぼやけた地形象形表記となる。そういう時代に差掛ったのであろうか・・・。

● 田中朝臣大魚

「田中朝臣」は、古事記の天津日子根命が祖となった倭田中直の地を本貫とする一族とし、現地名は田川郡香春町五徳、五徳川の東岸である香春岳西麓と推定した。

『壬申の乱』の功臣となり、その後も多くの人材が登用されて来ている。直近では淨人(廣根に併記)が従五位下を叙爵されて登場していた。但し、高位者は極めて少なく、鎮守将軍として活躍した多太麻呂の正四位下が最高位のようである。

今回登場の大魚=[魚]の形の山稜の前で平らになっているところと解釈すると、図に示した場所が出自と推定される。五徳川の下流域へと蔓延って来たが、この人物は元の場所へと遡っている。「足麻呂」等の系統だったのかもしれない。

<多治比眞人邑刀自>
● 多治比眞人邑刀自

「多治比眞人」一族の女官では、古奈祢が正四位下を叙爵されている。また、少し前に従四位下・散事の若日賣が亡くなったと記載されていた。決して多くはないが、高位に就く女性が登場していた。

勿論、系譜不詳であり、名前が示す地形から出自場所を求めることになる。「刀自」が付いているので、山稜の端の形状を頼りとする。

邑刀自のかなり頻度で用いられている邑=囗+巴=渦巻くように小高くなった様と解釈した。「邑」の麓に「刀自」の地形がある場所を表していると思われる。

図に示した場所、乎婆賣の南側、やや狭い谷間がその地形を示していることが解る。現在はゴルフ場となっているが、当時の地形が伺えるように思われる。『續日本紀』の末尾に従四位下に昇進されたと記載されている。

別名大刀自は、大=山稜の頂が平らになっている様であり、「邑」から少々離れた「刀自」の地形をあらわしている。別名でより確からしさが増したようである。

二月丁丑。以從五位下大原眞人美氣爲尾張守。正五位下高賀茂朝臣諸雄爲參河守。從五位上文室眞人子老爲安房守。正五位上百濟王玄鏡爲上総守。從五位下石川朝臣清濱爲介。近衛將監外從五位上池原公綱主爲兼下総大掾。式部大輔從四位下大中臣朝臣諸魚爲兼近江守。左兵衛督如故。從五位下紀朝臣長名爲越前介。大判事從五位上橘朝臣綿裳爲兼越中介。正五位上安倍朝臣家麻呂爲石見守。兵部大輔左京大夫從四位下藤原朝臣雄友爲兼播磨守。左衛士督如故。從五位下高倉朝臣石麻呂爲美作介。從五位上藤原朝臣園人爲備後守。從五位下百濟王教徳爲讃岐介。癸未。以從五位下橘朝臣安麻呂爲中務少輔。内藥正侍醫從五位上葉栗臣翼爲兼内藏助。從五位下巨勢朝臣総成爲造酒正。從五位上弓削宿祢塩麻呂爲左京亮。庚子。移自西宮。始御東宮。 

二月四日、大原眞人美氣を尾張守、高賀茂朝臣諸雄を參河守、文室眞人子老(於保に併記)を安房守、百濟王玄鏡(①-)を上総守、石川朝臣清濱(淨繼に併記)を介、近衛將監の池原公綱主(繩主)を兼務で下総大掾、式部大輔の大中臣朝臣諸魚(子老に併記)を左兵衛督のまま兼務で近江守、紀朝臣長名(永名。本に併記)を越前介、大判事の橘朝臣綿裳を兼務で越中介、安倍朝臣家麻呂を石見守、兵部大輔・左京大夫の藤原朝臣雄友()を左衛士督のまま兼務で播磨守、高倉朝臣石麻呂(高麗朝臣)を美作介、藤原朝臣園人(勤子に併記)を備後守、百濟王教徳(②-)を讃岐介に任じている。

十日に橘朝臣安麻呂()を中務少輔、内藥正・侍醫の葉栗臣翼を(羽栗臣)兼務で内藏助、巨勢朝臣総成(馬主に併記)を造酒正、弓削宿祢塩麻呂()を左京亮に任じている。二十七日に天皇は西宮より移り、初めて東宮に居している。

三月癸夘朔。造宮使獻酒食并種種玩好之物。辛亥。諸國之軍會於陸奥多賀城。分道入賊地。壬子。遣使奉幣帛於伊勢神宮。告征蝦夷之由也。戊午。以從四位下大中臣朝臣諸魚爲神祇伯。式部大輔左兵衛督近江守如故。從五位下大中臣朝臣弟成爲少納言。從四位下紀朝臣犬養爲左大舍人頭。從五位下百濟王仁貞爲中宮亮。從五位上津連眞道爲圖書頭。東宮學士左兵衛佐伊豫介如故。外從五位下大網公廣道爲主計助。從五位下安倍朝臣枚麻呂爲兵部少輔。從五位上藤原朝臣黒麻呂爲刑部大輔。從五位下藤原朝臣大繼爲大判事。從四位下石上朝臣家成爲宮内卿。從五位下矢庭王爲正親正。從五位上文室眞人八嶋爲彈正弼。從四位下藤原朝臣菅繼爲左京大夫。從五位下角朝臣筑紫麻呂爲衛門大尉。從四位下藤原朝臣内麻呂爲右衛士督。越前守如故。從五位下大秦公忌寸宅守爲左兵庫助。從五位下爲奈眞人豊人爲右兵庫頭。從五位下小野朝臣澤守爲攝津亮。外從五位下麻田連畋賦爲山背介。從五位下大伴王爲甲斐守。從五位上文室眞人久賀麻呂爲但馬介。從五位下石川朝臣公足爲安藝守。正五位下粟田朝臣鷹守爲長門守。從五位上藤原朝臣園人爲大宰少貳。」廢造東大寺司。辛酉。以從五位下石上朝臣乙名爲大監物。正五位下中臣朝臣常爲治部大輔。從五位下清海宿祢惟岳爲美作權掾。

三月一日に造(東)宮使は、酒食と様々な慰みの品を献じている。九日に諸國派遣軍は陸奥多賀城(柵)に会集し、道を分けて賊地に攻め入っている。十日に使を遣わして幣帛を伊勢神宮に奉っている。蝦夷征討のことを告げるためである。

十六日、大中臣朝臣諸魚(子老に併記)を式部大輔・左兵衛督・近江守のままで神祇伯、大中臣朝臣弟成(今麻呂に併記)を少納言、紀朝臣犬養(馬主に併記)を左大舍人頭、百濟王仁貞(①-)を中宮亮、津連眞道(眞麻呂に併記)を東宮學士・左兵衛佐・伊豫介のままで圖書頭、大網公廣道(大野朝臣乎婆婆に併記)を主計助、安倍朝臣枚麻呂(眞黒麻呂に併記)を兵部少輔、藤原朝臣黒麻呂()を刑部大輔、藤原朝臣大繼を大判事、石上朝臣家成(宅嗣に併記)を宮内卿、矢庭王を正親正、文室眞人八嶋(久賀麻呂に併記)を彈正弼、藤原朝臣菅繼を左京大夫、角朝臣筑紫麻呂(道守に併記)を衛門大尉、藤原朝臣内麻呂()を越前守のままで右衛士督、大秦公忌寸宅守を左兵庫助、爲奈眞人豊人(東麻呂に併記)を右兵庫頭、小野朝臣澤守(小野虫賣に併記)を攝津亮、麻田連畋賦を山背介、大伴王()を甲斐守、文室眞人久賀麻呂を但馬介、石川朝臣公足(眞人に併記)を安藝守、粟田朝臣鷹守を長門守、藤原朝臣園人(勤子に併記)を大宰少貳に任じている。また、造東大寺司を廃している。

十九日に石上朝臣乙名(等能古に併記)を大監物、中臣朝臣常(宅守に併記)を治部大輔、清海宿祢惟岳(沈惟岳。戸淨道に併記)を美作權掾に任じている。

夏四月庚辰。木工頭正四位下伊勢朝臣老人卒。乙酉。先是。伊勢。美濃等關。例上下飛驛凾。關司必開見。至是。勅自今以後。不得輙開焉。丙戌。以從五位下安曇宿祢廣吉爲和泉守。從五位下田中朝臣淨人爲伊勢介。從五位下大野朝臣仲男爲安房權守。從五位下川村王爲備後守。辛酉。美濃。尾張。參河等國。去年五穀不稔。饑餒者衆。雖加賑恤。不堪自存。於是。遣使開倉廩。准賎時價糶与百姓。其價物者收貯國庫。至於秋收。貿成穎稻。名曰救急。使其國郡司及殷富之民不得交易。如有違犯。科違勅罪矣。庚子。伊賀國飢。賑給之。

四月八日に木工頭の伊勢朝臣老人が亡くなっている。十三日、これより以前、伊勢・美濃などの關では、通例として諸國から都に上り、都から諸國に下る飛驛使の文書の函を、必ず關司が開き見ることになっている。しかし、この日になって勅され、今後はたやすく函を開けさせないようにしている。

十四日に安曇宿祢廣吉(諸繼に併記)を和泉守、田中朝臣淨人(廣根に併記)を伊勢介、大野朝臣仲男(下毛野朝臣年繼に併記)を安房權守、川村王()を備後守に任じている。

<辛卯(十九日)?>美濃・尾張・參河などの國では去年五穀が稔らず、飢える者が多く、物を恵み与えたが、自活することができない状態である。そこで使を遣わして倉を開き、安い時の価格で人民に米を売り与え、その代価の物は國庫に貯え置き、米の値の安い秋の収穫時に、代価の物を穗首刈りの稲に代えることし、この稲を救急稲と名付ける。國司・郡司や富裕な人民に、米を買い占めさせてはいけない。もし、違反すれば、違勅の罪に処することにしている。

二十八日に伊賀國に飢饉が起こり、物を恵み与えている。

五月癸丑。勅征東將軍曰。省比來奏状。知官軍不進。猶滯衣川。以去四月六日奏稱。三月廿八日。官軍渡河置營三處。其勢如鼎足者。自尓以還。經卅餘日。未審。縁何事故致此留連。居而不進。未見其理。夫兵貴拙速。未聞巧遲。又六七月者計應極熱。如今不入。恐失其時。已失其時。悔何所及。將軍等應機進退。更無間然。但久留一處。積日費粮。朕之所恠。唯在此耳。宜具滯由及賊軍消息。附驛奏來。丙辰。先是諸國司等。奉使入京。無返抄歸任者。不預釐務。奪其公廨。而在國之司。偏執此格。曾不催領。專煩使人。於是。始制。如此之類。不問入京与在國。共奪目已上之料。但遥附便使。不在奪限。己未。太政官奏言。謹案令條。良賎通婚。明立禁制。而天下士女。及冠蓋子弟等。或貪艶色而姦婢。或挾淫奔而通奴。遂使氏族之胤沒爲賎隷。公民之後變作奴婢。不革其弊。何導迷方。臣等所望。自今以後。婢之通良。良之嫁奴。所生之子。並聽從良。其寺社之賎如有此類。亦准上例。放爲良人。伏望。布此寛恩。拯彼泥滓。臣等愚管。不敢不奏。伏聽天裁。奏可之。庚申。播磨國揖保郡大興寺賎若女。本是讃岐國多度郡藤原郷女也。而以慶雲元年歳次甲辰。揖保郡百姓佐伯君麻呂。詐稱己婢。賣与大興寺。而若女之孫小庭等申訴日久。至是始得雪。若女子孫。奴五人婢十人。免賎從良。」安房。紀伊等國飢。賑給之。丁夘。詔贈征東副將軍民部少輔兼下野守從五位下勳八等佐伯宿祢葛城正五位下。葛城率軍入征。中途而卒。故有此贈也。己巳。以從五位下賀茂朝臣大川爲神祇大副。從五位上調使王爲右大舍人頭。從五位下藤原朝臣繼彦爲主計頭。從五位下和朝臣家麻呂爲造兵正。正五位下中臣朝臣常爲宮内大輔。庚午。信濃國筑摩郡人外少初位下後部牛養。无位宗守豊人等賜姓田河造。

五月十二日に征東将軍(紀朝臣古佐美)に次のように勅されている・・・この頃の奏状を見ると、官軍は先へ進まず、なお「衣川」に留まっていることがわかる。去る四月六日の奏には[三月二十八日に官軍は河を渡って三ヶ所に陣営を置いた。その態勢は「鼎足」のようである]とあるが、それ以来、三十日余りも経っている。不審に思うのは、どのような原因があってこのように留まり続けて進まないのか、ということである。---≪続≫---

その理由が未だに分からない。いったい兵というのは、拙くても早いのを尊ぶものであり、巧みであっても遅いのがよいとは聞かない。また、六、七月は、思うに最も暑い時期であろう。もし、今賊地に入らなければ、恐らくその時機を失うであろう。一旦、時機を失ってしまえば、後悔しても何のかいがあろうか。---≪続≫---

将軍等は臨機応変に進んだり退いたりして、隙を見せないようにせよ。ただ長い間一ヶ所に留まって日を重ね、兵糧を費やしていること、これだけは朕は訝しく思う。そこで留まっている理由と賊軍の有様を詳しく書き留め、驛使に付けて奏上して来るようにせよ・・・。

十五日、これより以前、諸國の國司等が調・庸を貢進する使となって入京したが、不足しているため受領書を受け取れず、任國に帰った場合は、職務に関与させず、その給与の公廨稲を奪うと格に定められている。ところが、國にいる國司は、ひたすらこの格に拘って、輸送を一度も掌らず、もっぱら使人になるのをいやがっている。ここに初めて制を定めて、このような責任を回避する者どもは、入京するか國にいるかを問わず、共に目以上の公廨料を奪うことにする。但し、便宜な使者に委託した場合は、奪わないことにしている。

十八日に太政官が以下のように奏上している・・・謹んで令の条文を調べると、良民と賤民が結婚することに対しては、明らかに禁制が立られている。ところが、天下の良民の男女及び高位高官の子弟等は、美女を求めて婢を犯す男性や、淫らな心を抱いて奴と姦通する女性がいて、その結果生まれた子供達は賤民の身分に沈められ、公民の子孫であるのに奴婢とされているありさまである。この弊害を改めなければ、どうして方向を誤っている者を導くことができるであろうか。---≪続≫---

私共が希望するのは、今後、婢が良民の男子と姦通し、良民の女子が奴に嫁いで生んだ子は、どちらも良民の身分に従うのを聴すことである。また、寺院・神社の賤民について、もしこのような者があれば、上の例に准じて賤民の身分から解放して良民にしたいと思う。こうした寛大な恩恵を広く施し、この泥と滓のような者達を救うよう伏してお願いする。私共の愚かな考えを奏しないわけにはいかない。謹んでご判断を伺いたく思う・・・。この奏上は許可されている。

十九日に播磨國揖保郡の「大興寺」の賤民である「若女」は、もと「讃岐國多度郡藤原郷」出身の良民の女であった。ところが、慶雲元(704)年甲辰の年に、揖保郡の民である「佐伯君麻呂」が自分の婢と偽り、大興寺に売り与えてしまった。そのため、「若女」の孫に当たる「小庭」等が、訴えて久しくなる。ここに初めてその誤りを晴らすことができた。「若女」の子や孫である奴五人と婢十人は、賤民から解放され良民とされている。また、安房・紀伊などの國が飢饉になったので、物を恵み与えている。

二十六日に詔されて、征東副将軍・民部少輔で下野守を兼任する勲八等の佐伯宿祢葛城(瓜作に併記)に正五位下を贈っている。「葛城」は軍を率いて賊地に入り征討に当たったが、その途中で亡くなったからである。二十八日に賀茂朝臣大川を神祇大副、調使王()を右大舍人頭、藤原朝臣繼彦(大繼に併記)を主計頭、和朝臣家麻呂(三具足に併記)を造兵正、中臣朝臣常(宅守に併記)を宮内大輔に任じている。

二十九日に信濃國「筑摩郡」の人である「後部牛養」と「宗守豊人」等に「田河造」の氏姓を賜っている。

<衣川>
衣川

三月一日に陸奥國多賀城に集結した諸國派遣軍、総指揮は紀朝臣古佐美として、進軍し、二十八日に前線部隊を「衣川」辺に展開したと記載している。

いよいよ合戦の口火が開かれるのかと思いきや、全く音沙汰無しで天皇が業を煮やして檄を飛ばされたようである。待機しているのは、紛うことなく、かつて磐舟柵等が設置された場所であろう。

越蝦夷の東南の隅の地形を衣=衣を被せたようになっている様と見做し、その麓を流れる川を衣川と名付けたと思われる。この地は、書紀の天武・持統天皇紀に帰順した越蝦夷の伊高岐那八釣魚等の居処となっていた。

部隊を展開したら鼎足のようになったと奏上している。何ともどっしりとした戦列を組めたのだが、それで落ち着いてしまって動かず、天皇の檄を真面に受ける羽目になったようである。

「鼎足」は、勿論、その場の地形を表しているのであろう。図に示したように「衣」の山稜の側面と、そこから三つの山稜が生え出ていることが解る。戦いを前にして、何とも洒落た文言の奏状であったわけである。これも天皇が気に障ったところかもしれない。

さて、図を更に眺めると、官軍の眼前には高く聳える山稜が横たわっている。僅かな隙間を通り抜けねばならないのだが、その背後には海道蝦夷がここぞとばかりに潜んでいるように見える。これでは、動こうにも動けない情勢だったことが伺える。

迎え撃つのならばこの態勢も善し、だが攻め入るには、良い戦略だったかは心許ないところであろう。戦いは、これからである。ところで三月二十八日の出来事を天皇は四月六日に把握していた。実質一週間程度で「衣川」から長岡宮に届いていることになる。通説の推定地は800km以上離れているが、”高速通信網”が敷かれていたのであろうか・・・。

<大興寺・佐伯君麻呂>
大興寺

何とも悪い奴がいたもので、先ずは哀れな女性が売り飛ばされていた播磨國揖保郡にあるという「大興寺」の場所を求めてみよう。

既出の文字列である大興=平らな頂の山稜の麓にある両手のような山稜に挟まれて谷間が筒状になっているところと解釈される。「興」は、法興寺など(例えばこちら参照)で用いられている。

その地形を図に示した場所に見出せる。長く延びた山稜の端に当たる場所である。現地名は築上郡築上町上ノ河内である。揖保郡の東端となる。

● 佐伯君麻呂 「揖保郡」では、既に佐伯直諸成が登場していた。私稲を造船瀬所に貢進し外従五位下を叙位されていた。今回登場の君麻呂とは真逆の人格だったようである。君=開いた手のような山稜が延びた麓に小高い地があるところと解釈すると図に示した場所が出自と推定される。「直」姓が省略されるくらいの罪科だったのであろうか。

<讃岐國多度郡:藤原郷・若女-小庭>
讃岐國多度郡

讃岐國の郡割については、古くは山田郡那賀郡寒川郡香川郡三野郡が登場していた。現在の北九州市若松区の狭い土地あり、これ以上の郡はあるのか?…杞憂する有様である。

先ずは「多度郡」に含まれる幾度か登場した多度=山稜の端を跨ぐように山稜が延びているところと解釈した。すると、那賀郡の谷間の奥に当たる地が、その地形をしていることが解る。美濃國多度山などの地形に酷似している。

更にその郡内に藤原郷があったと記載されている。”藤原”に憚ることは希薄になったのであろう。藤原=谷間で水溜まりが積み上がっている麓で野原が広がっているところと解釈すると、現在の地図上に段々になった溜池が記載されている。

当時のままであるとは思えないが、やはり同じような配置をいていたのではなかろうか。藤原郷の名称は、実に貴重である。これによって多度郡の場所は、ほぼ確定的になったように思われる。

● 若女・小庭 些か地形確認が難しいが、若=幾つもの細かく岐れた山稜が延び出ている様小庭=山麓で三角に尖って平らに広がっているところと解釈すると、図に示した場所が各々の出自の場所と推定される。復権できて、目出度しだったようである。

<信濃國筑摩郡:後部牛養・宗守豊人>
信濃國筑摩郡

信濃國の郡割は、決して早期ではなく、一時は須波神が鎮座する地域を諏方國として分離して、その後併合という曲折が記載されていた。

明確に郡建てが記述されるのが、聖武天皇紀以降に更級郡水内郡伊那郡であり、それぞれの地を出自とする人物が登場していた。

今回登場の筑摩郡筑摩=[凡]の形の谷間で延びた山稜が細切れに小高くなっているところと解釈される。「伊那郡」の奥の地域を表していることが解る。かつて登場の丸子大國の居処を含む場所と思われる。尚、須波神・水内神は、龍田風神と繋がり、これら二神は”風の谷間”にあったと推測した。「風」=「凡+虫」の地形である。

● 後部牛養・宗守豊人 「後部」は、高麗系渡来人達の氏名のように錯覚しかけるが、そうではなく地形象形表記として読み解いてみよう。「部」=「咅+邑」=「分かれた地が寄り集まっている様」であり、簡略に「近隣(周辺」を表す文字と解釈した。「邑」に着目すると、部=山稜が寄り集まって小高くなっている様と解釈される。纏めると後部=小高い地の背後にあるところと読み解ける。

図に示したように「丸子大國」の”丸”、筑摩に含まれる小高くなった地を「部」と表しているのであろう。牛養=牛の頭部のような山稜の麓で谷間がなだらかに延びているところとして、図に示した場所が出自と推定される。

宗守=高台の麓で肘を張ったように曲がる山稜に囲まれているところ豐人=谷間が段々になっているところと解釈すると図に示した場所に、その地形を見出せる。賜った田河造の氏姓については、田河=谷間の出口の前の水辺で田が広がっているところと解釈される。「造」姓であるのは古来の人々だったのかもしれない。