2024年7月1日月曜日

天宗高紹天皇:光仁天皇(32) 〔683〕

天宗高紹天皇:光仁天皇(32)


天應元(西暦781年)九月の記事からである。原文(青字)はこちらのサイトから入手、訓読続日本紀(今泉忠義著)、続日本紀4(直木考次郎他著)を参照。

九月戊午。宴五位已上於内裏。授從三位藤原朝臣繼繩正三位。正三位藤原朝臣是公拜中納言。宴訖賜祿有差。己未。授无位忍坂女王從五位下。庚申。正五位下粟田朝臣鷹守爲左兵衛佐。癸亥。正五位下内藏忌寸全成爲陸奥守。」左京人正七位下善麻呂等三人賜姓吉水連。從七位下善三野麻呂等三人吉水造。丁夘。授无位百濟王清刀自從五位下。丁丑。詔授從五位上紀朝臣古佐美從四位下勳四等。從五位上百濟王俊哲正五位上勲四等。正五位下内藏忌寸全成正五位上勲五等。從五位下多朝臣犬養從五位上勳五等。從五位下多治比眞人海從五位上。正六位上紀朝臣木津魚。日下部宿祢雄道。百濟王英孫並從五位下。正六位上阿倍猿嶋朝臣墨繩外從五位下勳五等。入間宿祢廣成外從五位下。並賞征夷之勞也。」又授送唐客使從五位下布勢朝臣清直正五位下。判官正六位上多治比眞人濱成。甘南備眞人淨野並從五位下。辛巳。初征東副使大伴宿祢益立。臨發授從四位下。而益立至軍。數愆征期。逗留不進。徒費軍粮。延引日月。由是。更遣大使藤原朝臣小黒麻呂。到即進軍。復所亡諸塞。於是。詔責益立之不進。奪其從四位下。甲申。授從四位上伊勢朝臣老人正四位下。

九月三日に五位以上と内裏で宴を催し、藤原朝臣繼繩(繩麻呂に併記)に正三位を授け、藤原朝臣是公(黒麻呂)を中納言に任じている。宴が終わって地位に応じて禄を賜っている。四日に忍坂女王に従五位下を授けている(誣告からの復位)。五日、粟田朝臣鷹守を左兵衛佐、八日に内藏忌寸全成(黒人に併記)を陸奥守に任じている。また、左京の人である「善麻呂」等三人に「吉水連」、「善三野麻呂」等三人に「吉水造」の氏姓を賜っている。十二日に百濟王清刀自()に従五位下を授けている。

二十二日に紀朝臣古佐美に從四位下・勳四等、百濟王俊哲()に正五位上・勲四等、内藏忌寸全成(黒人に併記)に正五位上・勲五等、多朝臣犬養に從五位上・勳五等、多治比眞人海(宇美。歳主に併記)に從五位上、紀朝臣木津魚(馬借に併記)・「日下部宿祢雄道」・百濟王英孫()に從五位下、阿倍猿嶋朝臣墨繩(日下部淨人に併記)に外從五位下・勳五等、入間宿祢廣成(物部直廣成)に外從五位下を授けている。征夷の労への褒賞である。又、送唐客使の布勢朝臣清直(清道)に正五位下、判官の多治比眞人濱成(歳主に併記)甘南備眞人淨野(清野)に從五位下を授けている。

二十六日、初め征東副使の大伴宿祢益立が出発するに際して従四位下を授けた。それなのに「益立」は軍中にあってしばしば征討の時期を誤り、ぐずぐずして前進せず、いたずらに兵粮を費消し、月日が経ってしまった。そのために改めて征東大使として藤原朝臣小黒麻呂を派遣した。到着するや、早速軍隊を出動させて、先に奪われた諸々の城塞を回復した。詔されて、「益立」が進軍しなかったのを責めて、従四位下を剥奪している。二十九日に伊勢朝臣老人に正四位下を授けている。

<善麻呂・善三野麻呂>
● 善麻呂・善三野麻呂

左京の地で「善」と表記される人物は初見であろう。既出の文字である善=羊+言+言=山稜に挟まれた谷間に二つの耕地が延びている様と解釈した。膳臣などに用いられた文字要素である。

また、賜った「吉水連・吉水造」の吉水=池を蓋するように山稜が延びているところと解釈される。この名称が重要な情報を提供してくれたようである。

これらの文字が表す地形を満足する場所を図に示したところに見出せる。少し前に楊梅宮南池に珍しい蓮が生えたと記載されていた。この池を塞ぐように山稜が延びている様子を表現したのであろう。

麻呂三野麻呂の出自の場所は、図に示した通りとしたが、共に特定するには些か難しい状況である。尚、通説では聖武天皇紀に外従五位下を叙爵された蓋高麻呂の一族のように解釈されている。「蓋」の異体字である「盖」の文字形が似ていることが根拠らしいのであるが、全く異なる地形を表す文字である。「吉」=「蓋+囗」であり、錯綜とした名称が並んでいるには違いない。

<日下部宿祢雄道>
● 日下部宿祢雄道

「日下部宿祢」は三つの氏族に賜った氏姓と思われる。一つ目は所謂「日下」の近隣(部)、書紀では”草壁”と表記される地を居処とする阿倍老等、現地名の田川郡香春町宮原辺りである。

二つ目は攝津國武庫郡大領の淨方の居処、現地名の行橋市矢留辺りである。最後に日下部連の氏姓の一族が後に宿祢姓を賜っている。居処は河内國河内郡、現地名の京都郡みやこ町勝山浦河内辺りである。

その他「日下部」の氏名は、各地に散らばっていることが伺える。”日下”は由緒ある名称とされていたのであろう。「日下(クサカ)」の訓することは、古事記序文に記載されている。

そんな背景で初見で内位の従五位下を叙爵されていることから、一つ目の一族と推測し、雄道の名前が表す地形を求めると、図に示した場所が出自と推定される。雄道=鳥が羽を広げたような山稜の麓に首の付けのような地があるところと解釈する。直近で従四位下・勲二等の子麻呂が亡くなっている。跡継ぎのような出現であろう。

冬十月戊子。授无位山口王從五位下。己丑。從四位下五百枝王爲侍從。從四位下淡海眞人三船爲大學頭。正五位下布勢朝臣清直爲兵部大輔。從五位下紀朝臣千世爲少輔。從五位下多治比眞人三上爲左京亮。從五位下紀朝臣眞人爲右京亮。從五位下健部朝臣人上爲勅旨少輔。外從五位下和史國守爲造法華寺次官。乙未。地震。戊戌。授正四位上藤原朝臣家依從三位。无位朝原首眞糸女外從五位下。辛丑。尾張。相摸。越後。甲斐。常陸等國人。総十二人。以私力運輸軍粮於陸奥。隨其所運多少。加授位階。又軍功人殊等授勳六等一等。勳八等二等。勳九等三等。勳十等四等。戊申。授正六位上藤原朝臣内麻呂從五位下。庚戌。下総國葛餝郡人孔王部美努久咩一産三兒。賜乳母一人并粮。 

十月三日、山口王(。御原王の子。『仲麻呂の乱』に絡んで丹後國に配流後に復籍)に従五位下を授けている。四日に五百枝王を侍從、淡海眞人三船を大學頭、布勢朝臣清直(清道)を兵部大輔、紀朝臣千世(大宅に併記)を少輔、多治比眞人三上(歳主に併記)を左京亮、紀朝臣眞人(大宅に併記)を右京亮、健部朝臣人上(建部公人上)を勅旨少輔、和史國守(和連諸乙に併記)を造法華寺次官に任じている。

十日に地震が起こっている。十三日に藤原朝臣家依に従三位、朝原首眞糸女(朝原忌寸箕造に併記)に外従五位下を授けている。十六日に尾張・相摸・越後・甲斐・常陸などの國の人達総計十二人は、個人の力で兵粮を陸奥に輸送したので、その輸送した量の多寡によって位階を加え授けている。また、従軍して功績のあった蝦夷の人には等級に差を付けて、相当する勲六等には一等を、勲八等には二等を、勲九等には三等を、勲十等には四等を授けている。

二十三日に藤原朝臣内麻呂(。眞楯の子)に従五位下を授けている。二十五日に「下総國葛餝郡」の人である「孔王部美努久咩」が一度に三人の子を産んだ。乳母一人と食料を賜っている。

<下総國葛餝郡:孔王部美努久咩>
下総國葛餝郡

「下総國葛餝郡」は初見である。少し前に印幡郡が登場し、残る空地は、ここしかあり得ない状況での登場である。勿論、現在は広大な住宅地に変貌しているので、過去の国土地理院航空写真を参照することになる。

「葛餝」に含まれる頻出の「葛」=「艸+曰+兦+勹」=「遮られて閉じ込められたような様」、また、「餝」=「食+艸+方」=「山稜がなだらかに延びる耜のような形をしている様」と解釈される。

纏めると葛餝=なだらかに延びる耜のような形をしている山稜が閉じ込められたようなところと読み解ける。図に示した香取郡と猿嶋郡に挟まれた地域と推定される。”空地”の地形を申し分なく表記していることが解る。さて、いよいよ下総國の郡割が完成したのだが、この後は?・・・。

● 孔王部美努久咩 久々に多産の褒賞である。「葛餝郡」の住人として出自の場所を求めることになる。「孔」=「子+乚」と分解される。子が産道から出て来る様を表した文字と知られている。部首の「乚(乙部)」=「ジグザグになって隠された様」と解釈される。

「王」=「[鉞]のように大きく広がった様」として、纏めると孔王部=隠された谷奥から生え出た[鉞]のように大きく広がった地に近いところと読み解ける。「咩」=「口+羊」=「谷間の口」とするが、「羊の口のような様」と解釈することもできる。すると、美努久咩=広がった谷間で嫋やかに曲がる山稜と[く]の形に曲がる山稜の麓にある[羊]の口のようなところと読み解ける。

錯綜としているようで、実は周囲全ての地形を盛り込んだ名前であることが解る。いつものように多産の女性の名前は、地形情報満載なのである。無視しては、勿体ない、であろう。尚、今昔マップ(1948~56年)も参照(こちら)。

十一月丁巳。地震。壬戌。近江國言。木連理。丁夘。御太政官院。行大甞之事。以越前國爲由機。備前國爲須機。兩國獻種種翫好之物。奏土風歌舞於庭。五位已上賜祿有差。己巳。宴五位已上奏雅樂寮樂。及大歌於庭。授正四位上大伴宿祢家持從三位。從五位上當麻王正五位下。從五位下調使王。淨原王並從五位上。无位大伴王從五位下。正五位下石上朝臣家成從四位下。正五位下佐伯宿祢眞守正五位上。從五位下多治比眞人年主。紀朝臣難波麻呂並從五位上。正六位上中臣朝臣必登。藤原朝臣眞鷲。藤原朝臣淨岡並從五位下。宴訖賜祿各有差。庚午。授三品不破内親王二品。從四位下淨橋女王從四位上。從五位下垂水女王從五位上。无位小縵女王從五位下。正四位下安倍朝臣古美奈正四位上。從四位下藤原朝臣諸姉從四位上。正五位上和氣朝臣廣虫從四位下。從五位下安曇宿祢刀自正五位下。從五位下神服宿祢毛人女從五位上。无位藤原朝臣明子從五位下。正六位上嶋名古刀自外從五位下。」又授正五位下山邊王正五位上。從四位上藤原朝臣鷹取正四位下。從五位下藤原朝臣眞葛。紀朝臣伯麻呂並從五位上。並由機須機國司也。」正六位上林忌寸稻麻呂。凡直黒鯛。朝原忌寸道永並外從五位下。辛未。饗諸司主典已上。賜祿有差。壬申。授從五位下和氣朝臣清麻呂從四位下。明經紀傳及陰陽醫家。諸才能之士。賜絲各十絇。癸酉。授正六位上藤原朝臣根麻呂從五位下。從七位下酒人忌寸刀自古。无位佐和良臣靜女並外從五位下。甲戌。授正四位上安倍朝臣古美奈從三位。從四位下橘朝臣眞都賀。百濟王明信並從四位上。從五位下藤原朝臣勤子從五位上。丙子。授无位藤原朝臣春蓮從五位下。辛巳。地震。

十一月三日に地震が起こっている。八日に近江國が「木連理」を言上している。十三日に太政官のある一郭に出御して、大嘗祭の神事を執り行っている。越前國を由機、備前國を須機とし、両國は種々のもてあそび物を献上して、それぞれの地方独特の歌や舞を庭で演奏している。五位以上に地位に応じて禄を賜っている。

十五日に五位以上と宴を催し、雅楽寮の音楽と大歌を庭で演奏させている。大伴宿祢家持に從三位、當麻王()に正五位下、調使王()・淨原王(長嶋王に併記)に從五位上、大伴王(『仲麻呂の乱』に関わる復位?)に從五位下、石上朝臣家成(宅嗣に併記)に從四位下、佐伯宿祢眞守に正五位上、多治比眞人年主(歳主)・紀朝臣難波麻呂に從五位上、中臣朝臣必登(藤原朝臣夜志芳古に併記)・藤原朝臣眞鷲()・「藤原朝臣淨岡」に從五位下を授けている。宴が終わって、それぞれに禄を賜っている。

十六日に不破内親王に二品、淨橋女王に從四位上、垂水女王(垂水王近隣)に從五位上、小縵女王(加豆良女王。『仲麻呂の乱』に関わる復位?)に從五位下、安倍朝臣古美奈(阿倍朝臣古弥奈)に正四位上、藤原朝臣諸姉(乙刀自に併記)に從四位上、和氣朝臣廣虫に從四位下、安曇宿祢刀自(諸繼に併記)に正五位下、神服宿祢毛人女(神服連)に從五位上、「藤原朝臣明子」に從五位下、「嶋名古刀自」に外從五位下を授けている。また、山邊王()に正五位上、藤原朝臣鷹取()に正四位下、藤原朝臣眞葛紀朝臣伯麻呂に從五位上を授けている。いずれも由機・須機の國司である。また、「林忌寸稻麻呂」・凡直黒鯛(繼人に併記)・朝原忌寸道永(箕造に併記)に外從五位下を授けている。

十七日に諸官司の主典以上の者を饗応して、それぞれに禄を賜っている。十八日に和氣朝臣清麻呂に従四位下を授けている。明經・紀伝及び陰陽・医家など、諸々の才能ある人物に各々絹糸十絇を賜っている。十九日に藤原朝臣根麻呂(今女に併記)に従五位下、「酒人忌寸刀自古・佐和良臣靜女」に外従五位下を授けている。

二十日、安倍朝臣古美奈に従三位、橘朝臣眞都賀(眞都我、眞束。古那加智に併記)・百濟王明信()に従四位上、藤原朝臣勤子に従五位上を授けている。二十三日に「藤原朝臣春蓮」に従五位下を授けている。二十七日に地震が起こっている。

<近江國:木連理>
近江國:木連理

寶龜四(773)年十二月に備前國が言上していた(こちら参照)。既に何度も述べたように、”瑞祥”と解釈しては勿体ないのである。[木]が連なったような地を開拓したのである。

近江國は元明天皇紀に木連理十二株を献上したと記載されていた。近江國淺井郡、現地名は京都郡苅田町集と推定した。

その背面(北側)も立派な”並木”となっていることが分かる。古事記では熊野之高倉下、書紀では倉歷道と記載された谷間である。神武天皇が彷徨い徘徊した場所も遂に公開されたのであろう。記紀・續紀が伝える”倭國”と”東國”を結ぶ要所であった。

「歷」=「厤(厂+秝)+止」と分解される。「秝」=「禾+禾」=「稲穂のような山稜が並んでいる様」と解釈される。既に「木連理」の地形が記載されていたのである。尚、續紀中に登場するのは、これが最後となっているようである。

● 藤原朝臣淨岡 乙繩の子と知られているが、地図上での地形の確認が困難であり、「乙繩」の近隣を出自としておこう。後に事件に連座し、流罪されたが赦免されて復帰している。「乙繩」は、「仲麻呂」によって「豊成」を陥れる謀略の際に登場し、政争の渦中を漂った人物であった。親の因果を引き継いだのかもしれない。

<藤原朝臣明子-春蓮-甘刀自>
● 藤原朝臣明子・藤原朝臣春蓮

系譜不詳の「藤原朝臣」である。例によって名前が表す地形から出自場所を求めるのであるが、直近に友子(仲男麻呂に併記)が従五位下を叙爵されて登場していた。

明子=生え出た山稜の端が[炎]のように細かく岐ている前に[三日月]の形をしている地があるところと解釈すると、「友子」の西隣が出自と推定される。

春蓮=細かく岐れた山稜が平らに延び出て連なっているところと解釈されるが、平らな地は確認が難しい。辛うじて凹凸がある場所として図に示した辺りが出自ではなかろうか。「友子」の南隣の配置となる。

後に二人とも幾度か登場し、「明子」は正五位上に昇進、その後は消息不明。一方の「春蓮」は、延暦八(789)年七月に正四位下・散事で亡くなったと記載されている。

後(桓武天皇紀)に藤原朝臣甘刀自が従五位下を叙爵されて登場する。甘刀自=[刀]の形をしている山稜の端に[舌]のような地があるところと解釈すると、図に示した場所が出自と推定される。「殿刀自」の麓となる。その場限りの登場で、消息は不明である。

<嶋名古刀自>
● 嶋名古刀自

「嶋名」の氏名は、記紀・續紀を通じて初見であろう。勿論”嶋の名前”としての文字列は散見されるのだが・・・調べると、上野國群馬郡嶋名郷の地名があったことが知られているようである。

この群馬郡は、本紀で妙見寺へ、その五十戸が喜捨されたと記載されていた。耕地開拓が進捗した地域だったのであろう。元正天皇紀に赤烏献上があり、着実な開拓が伺われる。

嶋名=[鳥]の形をした山稜が山稜の端にあるところと解釈すると、図に示した場所を表していることが解る。「赤烏」の別表記である。古刀自=山稜の端が[刀]の形をして丸く小高くなっているところと読み解ける。これもまた、別表記と思われる。

ここで外従五位下を叙爵されるが、賜姓や任官に関する記述は見られず、この後に登場されることはないようである。おそらく喜捨に対しての叙位だったのであろう。

<林忌寸稻麻呂>
● 林忌寸稻麻呂

「林」の氏名を名乗っていた一族は、応神天皇紀に渡来して来た漢人の後裔に当たると言われている。その一つが孝謙天皇紀に登場した林連久麻、後に息子等も登場し、宿祢姓を賜っている。

「忌寸」姓の人物は初見であり、おそらく同祖であるが系列の異なる一族に属していたのであろう。そんな背景から、同族の東漢一族の居処周辺を出自とする人物だったのではなかろうか。

林=木+木=小高い山稜の端が並んでいる様と解釈した。その地形では居処を一に特定することは叶わないが、名前に含まれる稻=禾+爪+臼=稲穂のような三つに岐れた山稜が窪んだ地に延びている様と解釈して、図に示した場所が出自と推定される。

現地名は京都郡みやこ町彦徳であり、前出の三嶋宿祢一族の居処に接する地域となっている。「稻麻呂」は、この後に幾度か登場し、造東大寺次官などを任じられている。

<酒人忌寸刀自古>
● 酒人忌寸刀自古

「酒人忌寸」の「酒人」の文字列は、既出であるが、忌寸姓の一族は、記紀・續紀を通じて初見である。調べると、上記の「林忌寸」と同祖、即ち東漢一族と異なる系列だったのではなかろうか。

と言うことで、酒人=谷間(の前)にある水辺で酒樽のような形をしたところの地形を探すと、図に示した場所が見出せる。「林忌寸」が北端、こちらは南端となっていることが解る。

書紀の崇峻天皇紀に登場している東漢直磐井子の西側に当たる場所、現地名は京都郡みやこ町犀川久富である。名前の刀自古=山稜の端で[刀]の形になった地が丸く小高くなっているところと解釈すると、図に示した場所が出自と推定される。

續紀中、この後に登場することはなく、「酒人忌寸」も記載されることがないようである。この地を示す、実に貴重な記述と思われる。

<佐和良臣靜女>
● 佐和良臣靜女

「佐和良臣」は、古事記の平群都久宿禰が祖となった氏族と思われるが、古事記では、その記述以外には見られず、書紀では全く登場することはない。

同族である平群臣(朝臣)には、直近では「邑刀自」等が内位の従五位下以上を叙爵されて登場していた(こちら参照)。中でも「邑刀自」は従四位下まで昇進している。

古の「佐和良臣」の出自場所ではあるが、元祖の平群都久宿禰の「平群」を名乗っていたのであろう。今回の人物は、どうやら取り残されたような位置付けのままでここに至ったようである。別系列であり、系譜が定かでないことから外位とされたのではなかろうか。

名前の靜=靑(生+井)+爪+又+ノ=生え出た四角く区切られた地が両腕のような山稜で取り囲まれている様と解釈される。その地形を現在の大浦池の北辺に見出せる。大きく地形変形が見られるが、国土地理院航空写真1961~9年(こちら)で確認することができる。

十二月乙酉朔。陸奥守正五位上内藏忌寸全成爲兼鎭守副將軍。辛夘。授從五位下紀朝臣宮人正五位下。丙申。地震。辛丑。三品薭田親王薨。遣從四位上壹志濃王。從四位下紀朝臣古佐美。石川朝臣垣守等。監護喪事。親王天宗高紹天皇之第三皇子也。薨時年卅一。甲辰。詔曰。朕以不徳。忝承洪基。夙興夜寐。思求政道。尅己勞心。志在孝敬。而精誠徒切。未能感天。頃者。太上天皇聖體不豫。宗社盡祷。珪幣相尋。頻移晦朔。未見効顯。顧惟虚薄責在朕躬。撫事思愆。載懷慙惕。有靈之類。莫重於人。刑罸或差。乃致寃感。思降惠澤。式資聖躬。可大赦天下。自天應元年十二月廿日昧爽以前大辟以下。罪無輕重。已發覺。未發覺。已結正。未結正。繋囚見徒。私鑄錢。八虐。故殺。強竊二盜常赦所不免者咸皆赦除。丁未。太上天皇崩。春秋七十有三。天皇哀號。摧咽不能自止。百寮中外。慟哭累日。詔曰。朕精誠無感。奄及凶閔。痛酷之情纏懷。終身之憂永結。方欲諒闇三年以申罔極。而群公卿士咸倶執奏。宗廟不輕。万機是重。不可一日而曠官也。伏乞准後奈保山朝廷。総斷万機一同平日者。朕以。霜露未變。荼毒尚深。一旦從吉甚非臣子。宜天下著服六月乃釋。仍從今月廿五日始。諸國郡司於廳前擧哀三日。若遠道之處者以符到日爲始施行。礼日三度。初日再拜兩段。但神郡者不在此限。是日。以正三位藤原朝臣小黒麻呂。從三位藤原朝臣家依。正四位上大伴宿祢伯麻呂。從四位上石川朝臣名足。從四位下淡海眞人三船。豊野眞人奄智。正五位下葛井連道依。紀朝臣鯖麻呂。從五位下文室眞人眞老。文室眞人与企。文室眞人於保。紀朝臣作良。紀朝臣本。外從五位下上毛野公大川。爲御裝束司。六位已下八人。從三位大伴宿祢家持。高倉朝臣福信。從四位下吉備朝臣泉。石川朝臣豊人。正五位下大神朝臣末足。紀朝臣犬養。從五位上文室眞人高嶋。從五位下文室眞人子老。紀朝臣繼成。多治比眞人濱成。爲山作司。六位已下九人。從五位下縣犬養宿祢堅魚麻呂。外從五位下榮井宿祢道形。爲養役夫司。六位已下六人。從四位下石川朝臣垣守。從五位下文室眞人八嶋爲作方相司。六位已下二人。從五位下文室眞人忍坂麻呂。從五位下多治比眞人乙安爲作路司。六位已下三人。」又遣使固守三關。戊申。地震。庚戌。兵庫南院東庫鳴。辛亥。勅曰。昨縁群卿來奏。天下着服。以六月爲限。但朕孝誠無効。慈蔭長違。結慕霜葉。無復承顏之日。緬懷風枝。終虧侍謁之期。終身之痛毎深。罔極之懷弥切。宜改前服期。以一年爲限。自餘行事。一依前勅。癸丑。當太行天皇初七。於七大寺誦經。自是之後。毎値七日。於京師諸寺誦經焉。」又勅天下諸國。七七之日。令國分二寺見僧尼奉爲設齋以追福焉。(附載)明年正月己未。正三位藤原朝臣小黒麻呂率誄人奉誄。上尊謚曰天宗高紹天皇。庚申。葬於廣岡山陵。天皇龍潜之日。与物和光。及正位南面臨馭億兆。擧其大綱不在苛察。官省無用。化崇清簡。是以寳龜之中。四海晏如。刑罸罕用。遐邇欣戴。既而不豫。漸久慮怠万機。遂譲寳位。傳之元儲。知子之明載遠。貽孫之業弥固。可謂寛仁大度有君人之徳者矣。

十二月一日に陸奥守の内藏忌寸全成(黒人に併記)に鎮守副将軍を兼任させている。七日に紀朝臣宮人(宮子に併記)に正五位下を授けている。十二日、地震が起こっている。十七日に薭田親王()が亡くなっている。壹志濃王()・紀朝臣古佐美石川朝臣垣守等を派遣して葬儀を監督・護衛させている。親王は天宗高紹天皇の第三皇子であった。薨じた時、三十一歳であった。

二十日に次のように詔されている・・・朕は徳が足りない身でありながら、忝くも重大な天皇の地位を受け継いだ。朝は早く起き夜は遅く寝て、政治の在り方求めることを思っている。己に打ち勝ち心を砕いて、親に孝を尽くし敬うことを志している。しかるに真心を尽くしているが、その甲斐なく、未だに天を感応させることができない。---≪続≫---

最近、太上天皇(光仁天皇)の御身体が不調なので、先祖の神々や國土の神々悉くに祈り、祭祀のための幣帛を次々と奉る間に、しきりに月日が経つが、未だに効き目が現れない。我が身の虚しく薄いことを顧み思えば、この責任は偏に朕にある。事を執り行って過ちがなかったかと思い致す時、心に慙じおそれるものがある。霊あるものの中で人間より大切なものはない。従って万一刑罰を誤って科した時には、直ちに天は冤罪に感応する。---≪続≫---

そこで恩恵を降ろして、御身体に役立てたいと思い、大赦を行なうこととする。天應元年十二月二十日の夜明け以前の死罪以下、罪の軽重に関わりなく、既に発覚した罪、また発覚していない罪、既に罪名の定まった者、また罪名の定まっていない者、現在獄につながれ服役している者、贋金造り、八虐を犯した者、故意の殺人、強盗・窃盗など、通常の赦では免されないものも全て赦免する・・・。

二十三日に太上天皇が崩御した。七十三歳であった。天皇の悲しみ叫ぶ声は咽を破るほどで、自分でも止めることもできず、多くの中央・地方の官人も大声で泣いて日を重ねている。次のように詔されている・・・朕の真心にも天は感応することなく、俄かに死別する不幸にみまわれた。はなはだ辛い思いが心にまとまりつき、一生消えることのない憂いが永久にわだかまることになった。---≪続≫---

そこで諒闇の期間を中国の例に倣って三年として、極まりのない父の恩を明らかにしたいと思うが、多くの身分の高い官人達が皆意見を奏上して、[祖先の霊を軽んじてはならないが、万般の政務も重大であり、一日として職務を離れるべきではない。どうか後奈保山朝廷(元正天皇)の時、元明太上天皇が遺言として詔されたように政務万般を執り行うことは全く通常の日と同じようにしたく思う]と言っている。---≪続≫---

朕が思うには、父を悲しむ思いは未だ変わることなく、苦痛はなお深い。一朝にして吉礼に従うのは、臣下として子として、甚だあるまじきことである。そこで喪服を着る期間は六ヶ月とし、それが過ぎれば脱ぐようにせよ。そのために今月二十五日から始めて、諸國の郡司は三日間、役所の建物の前で泣く声を放つ礼を行なえ。もし遠方の地域の場合は、符が到着した日を開始日として、実施せよ。礼は一日に三度行い、初日は特に二度拝礼することを二回行え。ただ神部はこの対象とはしない・・・。

この日、藤原朝臣小黒麻呂大伴宿祢伯麻呂(小室に併記)石川朝臣名足淡海眞人三船豊野眞人奄智(奄智王)葛井連道依(立足に併記)紀朝臣鯖麻呂文室眞人眞老(長嶋王に併記)・文室眞人与企(与伎)・文室眞人於保(長谷眞人)・紀朝臣作良紀朝臣本上毛野公大川を御装束司に、及び六位以下の官人八名を任じている。大伴宿祢家持高倉朝臣福信(高麗朝臣)・吉備朝臣泉(眞備に併記)石川朝臣豊人大神朝臣末足紀朝臣犬養(馬主に併記)文室眞人高嶋(高嶋王)文室眞人子老(於保に併記)・紀朝臣繼成(大純に併記)・多治比眞人濱成(歳主に併記)を山作司に、及び六位以下の官人九人を任じている。縣犬養宿祢堅魚麻呂榮井宿祢道形を養役夫司に、及び六位以下の官人六人を任じている。石川朝臣垣守文室眞人八嶋(久賀麻呂に併記)を作方相司に、及び六位以下の官人二人を任じている。文室眞人忍坂麻呂(文屋眞人。水通に併記)・多治比眞人乙安を作路司に、及び六位以下の官人三名を任じている。また、使者を派遣して三關を固め守らせている。

二十四日に地震が起こっている。二十六日に兵庫の南の区画にある東の庫が鳴っている<下記参照>。二十七日に次のように勅されている・・・先に公卿達が奏上したので、喪服を着る期間を六ヶ月に限った。ただ朕は孝の真心を尽くすことができず、慈しみ深い恩には永久に背くことになってしまった。気持ちがふさぐほど父を慕ってみても、再びお会いする日はない。はるかに亡くなられた父に孝養を尽くしたいと思っても、遂におそば近くまみえる時は失われてしまった。一生の痛恨は常に深く、極まりない父の恩に対する思いはいよいよ切なるものがある。そこで前に定めた服喪の期間を改めて、一年とする。これ以外の事柄は全て前の勅によって実施せよ。

二十九日に大行天皇(諡号を贈られていない間の尊称)の初七日に当たるので、七大寺で誦経させている。この後、七日目ごとに京内の諸寺で誦経させることにしている。また、天下の諸國に次のように勅されている・・・七七日に國分寺と國分尼寺に現にいる僧尼に命じて、太上天皇のために斎会を営み冥福を祈らせるように・・・。

<廣岡山陵>
<付記>天應二年正月六日に藤原朝臣小黒麻呂が誅を奏上する人を率いて奉り、諡を呈上して「天宗高紹天皇」としている。七日に「廣岡山陵」に葬っている。

廣岡山陵

天皇が即位する以前は、人々の中にあってその才智を顕わにすることはなかった。けれども天子として即位し、人民を統治するようになると、根本になることを行い、微細な点まで厳しく取り調べることはなかった。

官職の無用なものはこれを廃し、教化するにあたっては清らかに導くことを大切にした。このため寶龜年間は世の中が安定し、刑罰を用いることも極まれであったので、人々はよろこんで上に頂いた。

やがて身体の不調が次第に長引くようになると、天皇としての政務を十分に果たすことができなくなることを考慮して、遂に位を皇太子に譲り伝えた。子の賢明さをよく見通しており、子孫に残す基はいよいよ固まった。寛大で情け深く、度量も大きく、人民の君主となるべき德をもった天皇であったと言うべきである。

――――✯――――✯――――✯――――

上記の諡である「天宗高紹天皇」の天宗高紹=擦り潰されたように平らな(天)谷間の高台(宗)が皺が寄ったように(高)小高くしなやかに曲がっている(紹)ところと解釈される。白壁王(こちらこちら参照)の出自の場所の別表記であろう。

また、御陵に関しては、後の延暦五(786)年十月に「甲申。改葬太上天皇於大和國田原陵」と記載されている。詳細は後日となるが、田原陵は大和國添下郡佐貴郷に造られた高野山陵の東南に当たるこちらに改葬されたのではなかろうか。

<兵庫南院東庫鳴>
「兵庫」シリーズは、なかなか終わりそうにない雰囲気であるが、さて今回も地形象形表記であろうか、確かめてみよう(こちら参照)。

上記本文の「兵庫南院東庫鳴」を以下のように分けて読み解くと・・・

①兵庫:切り分けられた山稜の麓に車のような丸い小高い地があり
②南院:段差のある山稜に囲まれた谷間に延び出た丸く小高い地のある山稜が
③東庫鳴:丸く小高い地がある鳥の口のような隙間を突き通すようなところ

・・・と解釈される。平城宮のある丸く小高い地が谷間を突き通すような配置になっていることを表している。普通に読めば上記に記載したようであるが、やはりしっかりと地形を表していることが解る。

記紀・續紀を通じて用いられている「東」=「突き通す様」、「南」=「大きく開いた谷間が延び出た山稜で二つに岐れている様」である。”七道”に含まれる”東西南北”、勿論、同じ地形象形表記である。

――――✯――――✯――――✯――――
『続日本紀』巻卅六巻尾