2024年7月30日火曜日

今皇帝:桓武天皇(4) 〔687〕

今皇帝:桓武天皇(4)


延暦二(西暦783年)三月の記事からである。原文(青字)はこちらのサイトから入手、訓読続日本紀(今泉忠義著)、続日本紀4(直木考次郎他著)を参照。

三月戊寅朔。授正六位上下毛野朝臣年繼從五位下。己丑。以從四位下豊野眞人奄智爲中務大輔。從五位下伊賀香王爲雅樂頭。正五位上當麻王爲大膳大夫。外從五位下忌部宿祢人上爲主油正。從五位下紀朝臣安提爲左京亮。從四位下和氣朝臣清麻呂爲攝津大夫。從五位下文室眞人忍坂麻呂爲造東大寺次官。從五位上當麻眞人得足爲和泉守。庚寅。丹後國丹波郡人正六位上丹波直眞養任國造。丙申。右大臣從二位兼行近衛大將皇太子傅藤原朝臣田麻呂薨。田麻呂。參議式部卿兼大宰帥正三位宇合之第五子也。性恭謙無竸於物。天平十二年。坐兄廣嗣事。流於隱伎。十四年宥罪徴還隱居蜷淵山中。不預時事。敦志釋典。脩行爲務。寳字中授從五位下。爲南海道節度使副。歴美濃守。陸奧按察使。稍遷。神護初授從四位下。拜參議。歴外衛大將。大宰大貳。兵部卿。寳龜初授從三位。拜中納言。轉大納言兼近衛大將。延暦元年。進爲右大臣。授從二位。尋加正二位。薨時年六十二。戊戌。從五位下吉弥侯横刀。正八位下吉弥侯夜須麻呂。並賜姓下毛野朝臣。外正八位上吉弥侯間人。同姓総麻呂。並賜下毛野公。

三月一日に「下毛野朝臣年繼」に従五位下を授けている。十二日に豊野眞人奄智(奄智王)を中務大輔、伊賀香王(置始女王に併記)を雅樂頭、當麻王()を大膳大夫、忌部宿祢人上(止美に併記)を主油正、紀朝臣安提(本に併記)を左京亮、和氣朝臣清麻呂を攝津大夫、文室眞人忍坂麻呂(文屋眞人。水通に併記)を造東大寺次官、當麻眞人得足を和泉守に任じている。

十三日に「丹後國丹波郡」の人である「丹波直眞養」を國造に任じている。十九日に右大臣で近衛大将・皇太子傳を兼任する藤原朝臣田麻呂(廣嗣に併記)が薨じている。「田麻呂」は参議・式部卿で大宰帥を兼任した宇合の第五子であった。性格が慎み深く謙譲で、何事にも競争することがなかった。天平十二(740)年に兄の「廣嗣」の事に連坐して隠岐に流された。

十四年に罪を許されて呼び返されたが、「蜷淵」の山中に隠居して時の政治に関係しなかった。仏教への志が熱心で、修行を務めとした。天平寶字年間に従五位下を授けられ、南海道節度使の副となり、美濃守・陸奥按察使を歴任し、次第に地位が遷って、天平神護の初めに従四位下を授けられて参議に任ぜられ、外衛大将・大宰大貳・兵部卿を歴任した。

寶龜の初めに従三位を授けられて中納言に任ぜられ、大納言に転任し、近衛大将を兼任した。延暦元年に進んで右大臣となり、従二位を授けられた。薨じた時、六十二歳であった。

二十一日に吉弥侯横刀・吉弥侯夜須麻呂(吉弥侯根麻呂に併記)に下毛野朝臣の氏姓を賜っている。「吉弥侯間人」・「同姓総麻呂」には下毛野公の氏姓を賜っている。

<下毛野朝臣年繼・大野朝臣仲男>
● 下毛野朝臣年繼

「下毛野朝臣」の氏姓は、些か混乱気味なのであるが、初見で内位か、あるいは外位であるかも帰属の判断とすることになる。

何かの意図があるのか、定かではないが、出来得るならば複姓にして貰いたいところである。

愚痴るのはこれくらいにして、この人物は、正真正銘の「下毛野朝臣」一族であろう。系譜不詳故に名前が表す地形から出自場所を求めることになる。

名前の年繼に含まれる「年」=「禾+人」と分解される。するとこの人物は「禾」の地形、言い換えると「禾」を要素とする文字を用いた人物に関わっていたと推測される。そう高くない頻度で登場する一族であるが、稻麻呂…光仁天皇紀に散位・従四位下でなくなっている…が思い当たる。

年繼=谷間ある稲穂のような山稜を引き継いでいるところと解釈すると、図に示した場所が出自と推定される。この後に幾度か登場されているが、昇進した記述は見当たらないようである。

後に大野朝臣仲男が従五位下を叙爵されて登場する。系譜不詳であり、上記と同様に名前が表す地形、仲男=[男]のような山稜の端が谷間を突き通すように延びているところと解釈すると、図に示した場所が出自と推定される。その後に安房守を任じられたと記載されている。

<丹後國丹波郡:丹波直眞養>
丹後國丹波郡

「丹後國」の郡名については、光仁天皇紀に与謝郡が記載されていた。「丹波郡」は初見であり、また、續紀中に更なる郡名は現れないことから、どうやらこの二郡のみが存在していたようである。

些か錯綜としているが、丹=谷間から延び出た山稜の端が小高く広がっている様の地形の背後を””と表現した結果、やはり”丹波”の地形を含んでいることになる。

図に示した通り、「与謝郡」の北隣であり、現在の行政区分でも行橋市と京都郡みやこ町との端境となっている。また、東南部は築上郡築上町に接するという入組んだ場所である。

● 丹波直眞養 地形の標高差が極めて少なく、判別が難しいのであるが、眞養=なだらかな谷間が寄り集まって窪んでいるところの地形を図に示した場所に見出せる。古事記の丹波比古多多須美知能宇斯王の娘である阿邪美能伊理毘売命の出自場所近隣であり、「國造」任命は妥当なところであろう。

<南淵山・細川山>
蜷淵山

初見の山名であるが、「南淵」の別表記に「蜷淵」があった(こちら参照)。ならば書紀の天武天皇紀に禁足地とされた南淵山のことではなかろうか(右図を再掲)。

何と言っても、その麓は額田姫王の出自場所であり、万葉歌に何度か登場するほどの有名山だったのである。

禁足地とされていれば、訪れる人もない人里離れた場所ではある。しかしながら、その場所は「飛鳥」近隣であり(こちら参照)、京からそう遠くはない場所でもある。右大臣「田麻呂」は、隠居しながら京の情報を得ていたのかもしれない。深謀遠慮の人柄だったのであろう。

● 吉弥侯間人・総麻呂 既に吉弥侯根麻呂が「下毛野朝臣」の氏姓を賜っている。また、「吉弥侯横刀・吉弥侯夜須麻呂」は無姓で登場して、その出自の場所を推定した(こちら参照)。いずれにせよ、大きく地形変形していて、古地図を参照しながら当時の地形を推測するのであるが、曖昧さは大きくなっている。

今回の人物も同様であり、参照図(こちら)として、引用するだけに留める。各々の出自場所は、地形象形表記としては、既出の間人=門のような谷間に山稜の端が延びているところ上・下総國で用いられる總=山稜が細かく岐れて延びている様と解釈して求められるように思われる。尚、彼等の居処は遠江國蓁原郡、現地名は遠賀郡水巻町吉田である。

夏四月戊申。右京人從八位上大石村主男足等賜姓大山忌寸。庚申。勅改小殿親王名。爲安殿親王。辛酉。勅曰。如聞。比年坂東八國。運穀鎭所。而將吏等。以稻相換。其穀代者。輕物送京。苟得無恥。又濫役鎭兵。多營私田。因茲。鎭兵疲弊。不任干戈。稽之憲典。深合罪罸。而會恩蕩。且從寛宥。自今以後。不得更然。如有違犯。以軍法罪之。宜加捉搦。勿令侵漁之徒肆濁濫。甲子。詔。立正三位藤原夫人爲皇后。是日引侍臣宴飮。賜祿有差。授正四位下藤原朝臣種繼從三位。從五位下葛井連根主從五位上。正六位上飛鳥戸造弟見外從五位下。命婦從五位下藤原朝臣綿手從五位上。乙丑。勅坂東諸國曰。蠻夷猾夏。自古有之。非資干戈。何除民害。是知。加徂征於有苗。奮薄伐於獫狁。前王用兵。良有以也。自頃年夷俘猖狂。邊垂失守。事不獲已。頻動軍旅。遂使坂東之境恒疲調發。播殖之輩久倦轉輸。念茲勞弊。朕甚愍之。今遣使存慰。開倉優給。悦而使之者。寔惟哲王之愛民乎。凡厥東土。悉知朕意焉。丙寅。授正六位上贄田物部首年足外從五位下。以築越智池也。」左大弁從三位佐伯宿祢今毛人爲兼皇后宮大夫。大和守如故。近衛少將從五位下笠朝臣名麻呂爲兼亮。」左京人外從五位下和史國守等卅五人賜姓朝臣。壬申。從五位下大伴宿祢繼人爲左少弁。從五位下路眞人玉守爲大監物。從五位上海上眞人三狩爲兵部大輔。從五位下巨勢朝臣総成爲遠江介。正五位下布勢朝臣清直爲上総守。甲戌。授正六位上藤原朝臣繩主從五位下。先是。去天平十三年二月。勅處分。毎國造僧寺。必合有廿僧者。仍取精進練行。操履可稱者度之。必須數歳之間。觀彼志性始終無變。乃聽入道。而國司等不精試練。毎有死闕。妄令得度。至是勅。國分寺僧。死闕之替。宜以當士之僧堪爲法師者補之。自今以後。不得新度。仍先申闕状。待報施行。但尼依舊。 

四月二日に右京の人である「大石村主男足」等に「大山忌寸」の氏姓を賜っている。十四日に勅して、「小殿親王」の名を改めて「安殿親王」としている。

十五日に次のように勅されている・・・聞くところによると、近年坂東八國(九國。常陸國を除く)では籾米を陸奥國の鎮所に運んでいるが、指揮官や役人等は稲をもって籾米に換え、軽物に代えて京に送っている。その場限りに利益を得て恥じることがない。また、勝手に鎮兵を使役して多くは自分の田を経営している。これによって鎮兵は疲れ切って、戦闘に堪えることができない。これを法律で考えると、深刻な罪科に相当している。しかるに恩赦に会って、なんとか寛大に見逃してもらっている。今後は二度とそういうことがあってはならない。もし違反する者があったら、軍法をもって罪し逮捕して、侵し漁る者が恣に悪事を働き乱すことがないようにせよ・・・。

十八日に詔して藤原夫人(藤原朝臣乙牟漏)を立てて皇后としている。この日、侍臣を内裏に引き入れ酒宴し、それぞれに禄を賜っている。藤原朝臣種繼(藥子に併記)に従三位、葛井連根主(惠文に併記)に従五位上、「飛鳥戸造弟見」に外従五位下、命婦の藤原朝臣綿手に従五位上を授けている。

十九日に坂東諸國に次のように勅されている・・・蛮夷が中華の國を侵略することは昔よりある。武力によるのでなければ、どうして民の害となる蛮夷を追い払うことができようか。そこで、有苗を征討したり、獫狁に攻め入るなど、昔の優れた王が兵を用いたことは、まことに理由のあることであると納得する。近年蝦夷は狂ったように乱暴を働き、辺境の守りを失った。それ以来事情止むを得ず、度々軍を動かし、ついに坂東の地方を、常に徴発に疲れさせ、農業に従事する人々を輸送に長期間くたびれさせた。この疲れと苦しみを思いやって、朕は大変哀れに思う。今、使を遣わして慰問し、倉を開いて手厚く支給する。喜ばせて使うということがあるが、まことにこれは、優れた王が民を愛していることの表れであろう。およそ東國の地方には、悉く朕の意のあるところを知らせよ・・・。

二十日に「贄田物部首年足」に外従五位下を授けている。「越智池」を築いたからである。左大弁の佐伯宿祢今毛人に大和守のままで皇后宮大夫、近衛少将の笠朝臣名麻呂(名末呂。賀古に併記)に亮を兼任させている。左京の人である和史國守(和連諸乙に併記)等三十五人に朝臣姓を賜っている。

二十六日に大伴宿祢繼人を左少弁、路眞人玉守(鷹養に併記)を大監物、海上眞人三狩(三狩王)を兵部大輔、巨勢朝臣総成(馬主に併記)を遠江介、布勢朝臣清直(清道)を上総守に任じている。二十八日に藤原朝臣繩主()に従五位下を授けている。

これより先、去る天平十三(741)年二月に、勅して[國毎に僧寺を造り、必ず二十人の僧を置け]と処分した。そこで、よく努力して厳しく修行し、心身両面の優れた者を取って得度し、必ず数年間、その者の意志と性格が終始変わらないことを見極めて、それから入道を聴すことにした。しかるに國司等は試験を厳しく行わず、死亡や欠員があるごとに、よいかげんに得度させている。ここに至って、次のように勅されている・・・國分寺の僧に死亡や欠員が生じた時の替りは、その土地の僧で法師となるにふさわしい者をもって任命するようにせよ。今後は、新たに得度してはいけない。まず欠員の生じた事情を申告して、返報を待ってから補充を実施せよ。但し、尼はもとのやり方によって補充せよ・・・。

<大石村主男足>
● 大石村主男足

「大石村主」は、聖武天皇紀に「廣嶋」、孝謙天皇紀に「眞人」が外従五位下を叙爵されて登場していた(こちら参照)。それぞれ叙位の記述以外では記載されることもなく、情報は極めて限られた一族のようである。

応神天皇紀に渡来した阿智使主の後裔とされている一族には違いないであろうが、その居処に関して、殆ど伝えられていないようである。そんな背景ではあり、また、大石=平らな山稜の麓に小高い地があるところから、現地名の田川郡川崎町池尻辺りと推定した。

残念ながら、汎用的な名称であり、一に特定するのは難しいが、今回登場人物を含めて確度が高まることを期待したい。男足=突き出た山稜の先が[足]のように岐れているところと解釈すると、図に示した場所が出自と推定される。

賜った大山忌寸大山=平らな頂の山稜が[山]の形に延びているところと解釈すると、書紀の皇極天皇紀に記載された菟田山の形を表していると思われる。彼等の居処がある山稜の中元寺川下流域に…彦山川との合流域の大和國高市郡…同族である阿智使主後裔の桧前忌寸・民忌寸等が蔓延っていた。配置として無理のないように思われる。

<小殿親王(安殿親王)>
● 小殿親王(安殿親王)

桓武天皇の第一皇子であり、後の平城天皇となる。初名を変更したと、わざわざ記載されているが、後に乳母であった「安倍小殿朝臣堺」に従五位下を叙爵している。

乳母の”小殿”、及び改名後の「安殿」は”倍小殿”の略称なんていう解釈が実しやかに述べられているようである。同じく乳母であって従五位下を叙爵された「武生連朔」名前は何処に?・・・二人の乳母については、こちらこちら参照。詳細はご登場の時に・・・。

小殿=山稜の端にある臀部の形が三角になっているところと解釈される。「山部王」の東隣の地形を表している。そして、そこに谷間があり、安殿=山稜の端にある臀部の形になっている地に嫋やかに曲がる谷間があるところと解釈される。現在は高速道路によって大きく地形変形している場所であり、国土地理院航空写真1974~8年を参照した。

改名の理由は定かではないが、「安」の谷間が開拓されて広がり延びたのではなかろうか。山稜の端が二つに岐れたようになって、「小」らしくなくなった、のかもしれない。さて、桓武天皇は多くの子女をもうけたのだが、果たして、周辺を居処としたのか?…後日としよう。

<飛鳥戸造弟見・安宿戸吉足>
● 飛鳥戸造弟見

「飛鳥戸造」の氏姓については、孝謙天皇紀に登場した戸憶志等の一族を表していると推測した。左図に示したように、「飛鳥」の形の山稜が谷間の出入口にある場所なのである。

河内國安宿郡、現地名は行橋市入覚にあたる。河内國に渡来した一族の一つであり、百濟人を遠祖とすると知られている。

名前の頻出の文字列である弟見=ギザギザとした山稜の端の麓で谷間が長く延びているところと解釈される。図に示した辺りが出自と推定される。省略しているが、古事記の大長谷若建命(雄略天皇)の河内之多治比高鸇陵の近隣が渡来人達によって開拓されたのであろう。

「弟見」は、この後にもう一度だけ登場し、飛騨守を任じられたと述べている。「憶志」、「奈登麻呂」も一度の記載であり、関連する情報は希薄である。

後の『巣伏の戦い』で戦死した一人に安宿戸吉足の名前が記載されている。おそらく「弟見」等の一族だったかと思われる。吉足=蓋をするように延びた山稜で[足]の形になっているところと解釈されるが、この地の変形が凄まじく、国土地理院航空写真を参照して、図に示した辺りが出自と推定した。

<越智池:贄田物部首年足>
越智池

「越智」の地名は、幾度か登場している。元正天皇紀に明經第一博士の越智直廣江、称徳天皇紀に伊豫國越智郡が思い出せるが、池の名称とするには些か不似合いの感じであろう。

そもそも書紀の天智天皇紀に斉明天皇・間人皇女の陵墓が小市岡上陵と名付けられていた。更に天武天皇紀にそれを越智にある御陵と記載していた。

現在も幾つかの池が地図上で見られるが、そのうちの一つだったのではなかろうか。これを築造した人物の出自場所を求めてから、池の場所を推定しようかと思う。

● 贄田物部首年足 「贄田」の「贄」は小野朝臣小贄などに用いられた文字であり、贄=執+貝=谷間が両手を合わせて差し延べるような山稜で挟まれている様と解釈した。すると図に示した谷間を表していることが解り、その谷間が物部の地形をしていることも確認される。

年足=稲穂のように延びた山稜の端に[足]の形の地があるところと解釈すると、この人物の出自場所を図に示した辺りと推定することができる。「越智池」は、この人物の眼前に造られたのではなかろうか。

五月丁亥。太政官奏稱。外記之官。職務繁多。詔勅格令。自此而出。至於官品。實合昇進。其大外記二人。元正七位上官。今爲正六位上官。少外記二人元從七位上官。今爲正七位上官。臣等商量改張。伏聽天裁。奏可之。是日。勅。大宰帥正二位藤原朝臣魚名老病相仍。留滯中路。宜令還京詫其郷親。己丑。授從五位下多治比眞人三上從五位上。辛夘。授正五位上石川朝臣眞守從四位下。以正五位上巨勢朝臣苗麻呂爲左中弁。從四位下紀朝臣古佐美爲式部大輔。左兵衛督但馬守如故。正五位上大伴宿祢益立爲兵部大輔。從四位下石上朝臣家成爲造東大寺長官。從五位下橘朝臣入居爲近江介。右衛士少尉外從五位下津連眞道爲兼大掾。從四位下石川朝臣眞守爲大宰大貳。從五位下賀茂朝臣人麻呂爲筑後守。

五月十一日に太政官が以下のように奏している・・・外記の官は職務が繁多で、詔・勅・格・令はここより出る。官職の相当位階については実に昇進させるべきである。大外記二人は、もと正七位上の官であるが、今、正六位上の官とし、少外記二人は、もと従七位上の官であるが、今、正七位上の官と致したい。臣等は協議して制度を改めたいと思う。伏して天皇の判断をお聴きしたい・・・。奏上は許可されている。

この日、次のように勅されている・・・大宰帥の藤原朝臣魚名(鳥養に併記)は、老いと病いとが重なって、途中に留まって滞在している。京に還らせ、郷里の親戚に依託させよ・・・。

十三日に多治比眞人三上(歳主に併記)に従五位上を授けている。十五日に石川朝臣眞守に従四位下を授けている。巨勢朝臣苗麻呂(堺麻呂に併記)を左中弁、紀朝臣古佐美を左兵衛督・但馬守のままで式部大輔、大伴宿祢益立を兵部大輔、石上朝臣家成(宅嗣に併記)を造東大寺長官、橘朝臣入居()を近江介、右衛士少尉の津連眞道(眞麻呂に併記)を兼務で大掾、石川朝臣眞守を大宰大貳、賀茂朝臣人麻呂を筑後守に任じている。

六月丙午朔。出羽國言。寳龜十一年雄勝平鹿二郡百姓。爲賊所略。各失本業。彫弊殊甚。更建郡府。招集散民。雖給口田。未得休息。因茲不堪備進調庸。望請。蒙給優復。將息弊民。勅給復三年。辛亥。勅曰。夷虜乱常。爲梗未已。追則鳥散。捨則蟻結。事須練兵教。卒備其寇掠。今聞。坂東諸國。属有軍役毎。多尫弱全不堪戰。即有雜色之輩。浮宕之類。或便弓馬。或堪戰陣。毎有徴發。未甞差點。同曰皇民。豈合如此。宜仰坂東八國。簡取所有散位子。郡司子弟。及浮宕等類。身堪軍士者隨國大小。一千已下。五百已上。專習用兵之道。並備身装。即入色之人。便考當國白丁。免徭。仍勒堪事國司一人。專知勾當。如有非常。便即押領奔赴。可告事機。乙夘。勅曰。京畿定額諸寺。其數有限。私自營作。先既立制。比來。所司寛縱。曾不糺察。如經年代。無地不寺。宜嚴加禁斷。自今以後。私立道場。及將田宅園地捨施。并賣易与寺。主典已上解却見任。自餘不論蔭贖。决杖八十。官司知而不禁者。亦与同罪。乙丑。右京人外從五位下佐伯部三國等賜姓佐伯沼田連。丙寅。從五位上中臣朝臣鷹主爲神祇大副。從五位上文室眞人波多麻呂爲雅樂頭。從五位上多治比眞人宇美爲民部大輔。從五位下紀朝臣豊庭爲少輔。從四位下多治比眞人長野爲刑部卿。從五位下賀茂朝臣大川爲大藏少輔。從五位下藤原朝臣繩主爲中衛少將。彈正尹從三位高倉朝臣福信爲兼武藏守。從五位下伊賀香王爲若狹守。從五位下大中臣朝臣安遊麻呂爲播磨介。從五位上百濟王仁貞爲備前介。」授外從五位下尾張連豊人從五位下。

六月一日に出羽國が以下のように言上している・・・寶龜十一(780)年に雄勝郡・平鹿郡の人民は、賊に略奪されて、各自の本業を営むことができなくなり、ことに甚だしく疲れ衰えている。改めて郡役所を建てて、散り散りになった民を呼び集め、口分田を支給しているが、まだ休養することができない。このため調・庸を準備・進上する余裕がない。どうか租税負担を免除して頂き、疲れ切った人民を休ませるよう、お願いする・・・。勅して三年間の租税負担を免除している。

六日に次のように勅されている・・・蝦夷は平常の世を乱して服従しないことがまだ止まない。追いかけると鳥のように散り、捨てておくと蟻のように集結する。これに対応するには、兵卒を訓練し、教育して、その侵略に備えるべきである。今、聞くところでは、坂東諸國の民は、軍役がある場合、つねに多くは虚弱であって、まったく戦闘に堪えることができない。ところで、役人として出身できる資格をもつ各種の者たちや、浮浪人の類には、あるいは弓や乗馬に慣れ、あるいは戦闘能力のある者があるが、徴発することのある場合、今まで一度も指名していない。彼等も同じ皇民である。どうしてこのようなことがあってよかろう。

坂東八國に命じて、居住している散位の子、郡司の子弟、及び浮浪人の類で、身体が軍士たるに堪える者を選び取って、國の大小に従って一千以下、五百以上の者に専ら武器の使い方を習わせ、それぞれに装備を準備させよ。その上で役人となる資格のある人は、便宜として毎年の勤務評定を与え、その國の無位の公民は徭を免ぜよ。そこで職務に堪能な國司一人に命じて、専門にこれを担当させ、もし非常のことがあれば、すぐさま彼等を率いて急行し、事の次第を報告せよ・・・。

十日に次のように勅されている・・・京・畿内の定額の諸寺はその数に制限があり、自ら営み作ることについては、先に既に制度を立てた。ところが此の頃担当の役所は緩やかでしまりがなく、少しも取調べをしない。もし年代が経ったら、寺でない土地はなくなるであろう。厳しく禁断の処置をするべきである。今後は、自分で道場を建てたり、また田や家や園地を喜捨したり、またそれらを売却・交換して寺に与えたりしたならば、主典以上の官人ならば現職を解任し、それ以外の者は蔭や贖を論ぜず、杖八十の罪と定める。役人が知りながら禁止しなかった場合も、また同罪とする・・・。

二十日に右京の人である「佐伯部三國」等に「佐伯沼田連」の氏姓を賜っている(こちら参照)。二十一日に中臣朝臣鷹主(伊加麻呂に併記)を神祇大副、文室眞人波多麻呂を雅楽頭、多治比眞人宇美(海。歳主に併記)を民部大輔、紀朝臣豊庭(豊賣に併記)を少輔、多治比眞人長野を刑部卿、賀茂朝臣大川を大藏少輔、藤原朝臣繩主()を中衛少將、彈正尹の高倉朝臣福信(高麗朝臣)を兼務で武藏守、伊賀香王(置始女王に併記)を若狹守、大中臣朝臣安遊麻呂(今麻呂に併記)を播磨介、百濟王仁貞(①-)を備前介に任じている。また、尾張連豊人に内位の從五位下を授けている。
























2024年7月23日火曜日

今皇帝:桓武天皇(3) 〔686〕

今皇帝:桓武天皇(3)


延暦二(西暦783年)正月の記事からである。原文(青字)はこちらのサイトから入手、訓読続日本紀(今泉忠義著)、続日本紀4(直木考次郎他著)を参照。

二年春正月戊寅朔。廢朝也。授正六位上阿倍朝臣眞黒麻呂從五位下。是日。勅。内親王及内外命婦。服色有限。不得僣差。比來所司寛容。曾不禁制。至于閭閻肆廛。恣着禁色。既無貴賎之殊。亦虧等差之序。自今以後。宜嚴禁斷。如有違越。寘以常科。事具別式。辛巳。陰陽頭正五位下榮井宿祢蓑麻呂。今年始登八十。詔。賜絁布米塩。蓑麻呂。經明行修。清愼夙着。後進之輩所推挹也。故有此賞。乙酉。正四位上道嶋宿祢嶋足卒。嶋足本姓牡鹿連。陸奥國牡鹿郡人也。體貌雄壯。志氣驍武。素善馳射。寳字中。任授刀將曹。八年惠美訓儒麻呂之劫勅使也。嶋足与將監坂上苅田麻呂。奉詔疾馳。射而殺之。以功擢授從四位下勳二等。賜姓宿祢。補授刀少將兼相摸守。轉中將。改本姓賜道嶋宿祢。尋加正四位上。歴内廐頭下総播磨等守。戊子。授女孺无位和史家吉外從五位下。癸巳。天皇御大極殿閤門。賜宴於五位已上。」授從五位下廣川王從五位上。正六位上伊香賀王從五位下。正五位上大伴宿祢潔足。佐伯宿祢眞守並從四位下。正五位下石川朝臣眞守。巨勢朝臣苗麻呂並正五位上。從五位下藤原朝臣菅繼。文室眞人与企。中臣朝臣鷹主。紀朝臣家繼並從五位上。正六位上大伴宿祢眞麻呂。藤原朝臣雄友。紀朝臣男仲。石川朝臣淨繼。高橋朝臣船麻呂。佐伯宿祢弟人。上毛野朝臣鷹養。田口朝臣大立。紀朝臣田長。穗積朝臣賀祜並從五位下。正六位上土師宿祢公足。吉田連季元。麻田連眞淨並外從五位下。」宴訖賜祿有差。丁酉。紀朝臣木津魚。吉弥侯横刀等八人。夙夜在公。恪勤匪懈。於是。有詔。並進其爵。授從五位下紀朝臣木津魚從五位上。外從五位下吉弥侯横刀。正六位上橘朝臣入居。三嶋眞人名繼並從五位下。正六位上出雲臣嶋成。嶋田臣宮成。筑紫史廣嶋。津連眞道並外從五位下。庚子。授正六位上紀朝臣安提從五位下。是日。地震。甲辰。授正六位上大村直池麻呂外從五位下。乙巳。饗大隅薩摩隼人等於朝堂。其儀如常。天皇御閤門而臨觀。詔進階賜物各有差。

正月一日、朝賀を廃止している。「阿倍朝臣眞黒麻呂」に従五位下を授けている。この日、次のように勅されている・・・内親王及び内外の命婦の服色には限定があって、それぞれの身分以上の色を使用することはできない。ところが此の頃、担当の役人は寛容で少しも禁制しない。そのため民間の人達や商人に至るまで、自由勝手に禁じられた色を着て、貴賤の区別がなくなってしまっており、また上下の差の秩序を欠いている。今後は厳しく禁断せよ。もし違反する者があったら、通常の罪科を適用して処分せよ。事は別式に詳細に定めてある・・・。

四日、陰陽頭の榮井宿祢蓑麻呂は、今年八十歳になり、詔されて絁・麻布・米・塩を与えている。「蓑麻呂」は古典によく通じ行いにも励み、清廉で慎み深いことは早くから世に知られていた。後進の輩が重んじて推すところであり、この褒賞となっている。

八日に道嶋宿祢嶋足(牡鹿連嶋足)が亡くなっている。「嶋足」は、本姓は牡鹿連で、陸奥國牡鹿郡の人であった。体格や容貌は雄壮で、意気込みが武く勇ましく、生まれつき騎射が上手であった。天平寶字年間に授刀将曹に任じられ、その八(764)年『仲麻呂の乱』の時に恵美(藤原)訓儒麻呂(久須麻呂。眞從に併記)が勅使を劫やかした際、「嶋足」と授刀将監である坂上苅田麻呂(坂上忌寸苅田麻呂)とが、詔を承って早く駆けつけ、射殺した。この功をもって抜擢されて授刀少将兼相摸守に任じられた。その後に中将に転じ、本姓を改めて道嶋宿祢を賜った。次いで正四位上を加えられ、内廐頭、下総・播磨等の國守を歴任した。

十一日に女孺の和史家吉(和連諸乙に併記)に外従五位下を授けている。十六日に大極殿の閤門に出御されて、宴を五位以上に賜っている。廣川王(廣河王。)に從五位上、伊香賀王(置始女王に併記)に從五位下、大伴宿祢潔足(池主に併記)佐伯宿祢眞守に從四位下、石川朝臣眞守巨勢朝臣苗麻呂(堺麻呂に併記)に正五位上、藤原朝臣菅繼文室眞人与企(与伎)中臣朝臣鷹主(伊加麻呂に併記)紀朝臣家繼(家守に併記)に從五位上、「大伴宿祢眞麻呂」・藤原朝臣雄友()・「紀朝臣男仲・石川朝臣淨繼」・高橋朝臣船麻呂(祖麻呂に併記)・佐伯宿祢弟人(老に併記)・「上毛野朝臣鷹養」・田口朝臣大立(祖人に併記)・紀朝臣田長(船守に併記)・穗積朝臣賀祜(老人に併記)に從五位下、「土師宿祢公足」・吉田連季元(斐太麻呂に併記)・麻田連眞淨(金生に併記)に外從五位下を授けている。宴が終わって、それぞれに禄を賜っている。

二十日、紀朝臣木津魚(馬借に併記)吉弥侯横刀(吉弥侯根麻呂に併記)等は八人は、朝早くから夜遅くまで朝廷にいて、忠実に勤めておこたらなかった、この時になって詔があって、それぞれ位を昇進させている。紀朝臣木津魚に従五位上、吉弥侯横刀・「橘朝臣入居・三嶋眞人名繼」に従五位下、「出雲臣嶋成・嶋田臣宮成・筑紫史廣嶋」・津連眞道(眞麻呂に併記。後に菅野朝臣を賜姓)にそれぞれ外従五位下を授けている。

二十三日に紀朝臣安提(本に併記)従五位下を授けている。この日、地震が起こっている。二十七日に「大村直池麻呂」に外従五位下を授けている。二十八日に大隅・薩摩の隼人等を朝堂で饗応している。その儀式はいつもの通りで、天皇は閤門に出御して、その場に臨んで観ている。詔されて隼人等にそれぞれ位階を進め物を与えている。

<阿倍朝臣眞黒麻呂-枚麻呂-人成>
● 阿倍朝臣眞黒麻呂

本紀に入って最初の「阿(安)倍朝臣」一族の新人である。途切れることなく”阿(安)倍”の谷間を埋め尽くしている様子である。

とは言え、殆どが系譜不詳であり、名前が表す地形から出自場所を求めることになる。今回の人物も全く同様であろう。

眞黒麻呂眞黑=谷間に延び出た炎のような山稜が寄り集まって窪んだところと解釈すると、図に示した場所が出自と推定される。豆余理の南隣の地である。この後に再登場することはないようである。

少し後に阿倍朝臣枚麻呂が従五位下を叙爵されて登場する。頻出の枚=木+攴=山稜が二つに岐れて延びている様であり、その地形を図に示した場所に見出せる。現在の鹿喰峠に向かう谷間もほぼ満杯の感じである。「眞黒麻呂」と同様に再登場は見られないようである。

更に後に安倍朝臣人成が従五位下を叙爵されて登場する。人成=[人]の形の谷間の麓が平らに整えられているところと解釈すると、図に示した場所が出自と推定される。その後に春宮大進や能登守に任じられている。

<大伴宿祢眞麻呂>
● 大伴宿祢眞麻呂

系譜不詳であり、名前が表す地形から出自場所を求めることになるが、叙位から二年後の『藤原種繼暗殺事件』に関わったとして、斬刑に処せられている(事後の赦免で復位)。

そんな背景からも系譜が抹消されたのかもしれない。かなり頻度高く任官の記述があるが、将来を嘱望された人物だったようである。

幾度か用いられている名前の眞麻呂については、「麻」=「萬」として、眞萬=[萬]の頭部のように延びた山稜が寄り集まって窪んだところと解釈した。その地形を図に示した場所…「吹負」の子、「牛養」の西側の谷間…に見出せる(こちら参照)。

場所的に「牛養」の子、もしくは孫のようでもあるが、上記したように抹消されたのではなかろうか。それにしても死後二十年余経っての復位とは、現代からすると親族にとって悔やまれるところであっただろう。

<紀朝臣男仲>
● 紀朝臣男仲

調べても関連する情報は皆無であり、勿論、系譜不詳の人物のようである。大臣クラスが登場しないと記録は残らない、当然ではあるが・・・。

名前の男仲=[男]のような山稜が谷間を突き通すように延びているところと解釈される。それらしき地形の場所は散見され、一に特定することが難しい状況である。

聖武天皇紀に従五位下を叙爵された小楫、その後幾度か地方官に任じられたと記載されていた。同様に系譜不詳であって、求めた出自は他の一族とは隔たった地であったが、その後に周辺に多くの人物が登場して来たようである。

別名に男楫とも記載されていて、多分、今回の人物に繋がるのではなかろうか。上図の配置からすると、「男仲」は息子であったように思われる。續紀中ではこの場限りの登場である。

<石川朝臣淨繼-魚麻呂-清濱-清成>
● 石川朝臣淨繼

決して高位の叙位を賜るわけではないが、連綿と人材輩出の一族であろう。系譜不詳であり、名前が示す地形から出自の場所を求めることになる。

称徳天皇紀に清麻呂(眞守に併記)が登場し、光仁天皇紀に入って「淨麻呂」の名称で従五位上・少納言に任じられている。

称徳天皇紀に従五位下を叙爵された名繼(眞守に併記)について、名人にの「名」に連なる場所を表すとして出自場所を推定した。

淨繼に対して、類似の解釈を行うと、淨繼=[淨]に連なるところとすると、図に示した場所が出自と推定される。図に示した谷間に多くの子孫を蔓延らせた蘇賀臣安麻侶の出自場所の北隣となる。ほぼほぼ、谷間が埋め尽くされたように見える有様であろう。後にもう一度登場され、讃岐介に任じられたと記載されている。

少し後に石川朝臣魚麻呂が従五位下を叙爵されて登場する。「魚」の地形を見出すのは至難であったが、国土地理院航空写真1961~9年を参照して、図に示した場所が出自と推定される。その後に昇進はないが、幾度か地方官・京官の任命が記載されいている。

更に後に石川朝臣清濱石川朝臣清成が従五位下を叙爵されて登場する。清濱=[清]の傍らで水辺に接しているところと、清成=[清]の傍らで平らに整えられたところと解釈すると、図に示した場所が各々の出自と推定される。二人は「清麻呂」に関わる人物のようであるが、その後に「清濱」が一度の任官が記されるのみである。

<上毛野朝臣鷹養>
● 上毛野朝臣鷹養

「上毛野朝臣」一族については、淳仁天皇及び称徳天皇紀に馬長・稻人が種々任官されている。爵位も従五位上と順調に昇進、一時期表舞台から遠ざかっていたのが、息を吹き返した様相である。

「鷹養」は、おそらく彼等の周辺を出自とする人物だったと推測してみると、図に示した場所が見出せる。既出の文字列である。鷹養=山麓で二羽の鳥が並んでいる間の谷間がなだらかに延びているところと解釈される。

何とも広大な地形を表現したものである。直近では実に希少な地形象形表記と思われる。「上毛野朝臣」一族の”過疎化”が進捗していたのかもしれない。残念ながら、この後に登場されることもなく、消息不明である。

<土師宿祢公足-諸士-菅麻呂>
● 土師宿祢公足

調べると、「富杼」系列と知られているようである。即ち、父親が「和麻呂」、祖父が「祖麻呂」である(こちら参照)。桓武天皇の母方の祖母である眞妹と同じ系列であったことになる。

公足=谷間で小高く区切られた地の麓にある[足]の形をしているところと解釈すると図に示した場所が出自と推定される。残念ながら地形変形が凄まじく、国土地理院航空写真1961~9年を参照して推測した。

延暦九(790)年十二月に「辛酉。勅外從五位下菅原宿祢道⾧。秋篠宿祢安人等。並賜姓朝臣。又正六位上土師宿祢諸士等賜姓大枝朝臣。其土師氏惣有四腹。中宮母家者是毛受腹也。故毛受腹者賜大枝朝臣。自餘三腹者。或從秋篠朝臣。或属菅原朝臣矣」と記載されている。

兄弟の土師宿祢諸士が登場し、前記の菅原宿祢・秋篠宿祢に朝臣賜姓と併せて大枝朝臣を賜ったと記載される。諸士=突き出た山稜のまで耕地が交差するように連なっているところと解釈され、出自の場所を図に示した。尚、後に「大枝」は「大江」と表記されるようであるが、大枝=平らな頂の山稜が岐れて延び出ているところと解釈される。「富杼」の地形の別表記であり、「江」ではない。枝から鳥が飛び立ったのであろう。

また土師宿祢菅麻呂大枝朝臣の氏姓を賜ったと記載されている。菅=艸+官=山稜に挟まれて管のような谷間になっている様であり、出自は図に示した場所と推定される。

余談だが、引用文の「毛受腹」、通説は”百舌鳥原”(古事記の毛受野)として、河内國に求めている。全くの見当違いであろう。地名は固有ではないのである。高野新笠の母親である土師宿祢眞妹(父親:富杼)の出自場所の別表記(毛受鱗のような山稜が寄り集まっているところ)である。

<橘朝臣入居及び兄等>
● 橘朝臣入居

「橘朝臣」は、橘諸兄(葛木王が臣籍降下して賜姓)から始まる氏姓であるが、『奈良麻呂の乱』を経て些か曲折があったようである。

これまでに登場の多くは橘佐爲(佐爲王)の系列であり、「葛木王・奈良麻呂」系列の具体的な人物は初見と思われる(こちらこちら参照)。

地形変形が大きく、国土地理院航空写真1961~9年を用いて、今回登場の「奈良麻呂」の末っ子である「入居」及びその兄等の出自場所を求めることにする。

❶入居入居=山稜が延びた端にある丸く小高い地が谷間にすっぽりと入っているところ 名称に用いられた初めての例である「居」=「尸+古」と分解する。
❷安麻呂安=谷間が嫋やかに曲がって延びている様
❸嶋田麻呂嶋田=[鳥]の形をした山稜の麓で平らに整えられたところ
❹清野清野=水辺で四角く区切れた野があるところ
❺清友清友=揃って並んで延びている山稜の前の水辺で四角く区切られているところ

・・・と解釈される。各々の出自は図に示した場所と推定される。後に續紀中に登場するのは「橘朝臣安麻呂」のみである。「清友」は天皇の外祖父となったようである。

<三嶋眞人名繼>
● 三嶋眞人名繼

「三嶋眞人」は舒明天皇の蚊屋皇子の後裔が臣籍降下した一族と知られている(こちら参照)。夥しい数の王等が居処としていた河内國の三嶋、現地名京都郡みやこ町勝山箕田である。

これだけの人数がいながら歴史の表舞台に登場しなかったのは、かなりの屈折した理由があったと推測されるが、明らかではないようである。

名前の名繼は、上記と同様に名繼=[名]に連なるところと解釈すると、「名邊」の東隣辺りが出自と推定される。別名に奈繼があったと知られているようで、「奈」の高台の場所であることを表している。

「名邊」の子のようでもあるが、定かではない。この後に幾度か登場し、長岡宮造営に関わる等、最終正四位下・左京大夫を任じられたことが知られている。

<出雲臣嶋成-國成-人長-祖人-諸上>
● 出雲臣嶋成

この時点での出雲國造は「國上」であり、その前が「益方」であった(こちら参照)。少し先走りになるが、この後は「國成」そして「人長」が國造に任じられることになる。

今回登場の「嶋成」については、関連する情報がなく、少し後に侍医に任じられていることから、彼等とは異なる系列であったように思われる。

そんな背景を念頭にしながら、名前が表す地形を探すと、嶋成=[鳥]の形をした山稜の麓が平らに整えられているところと解釈される。その場所は図に示した、「國上」の南隣であることが解る。

後の蝦夷征伐に関わる記述に別将を務めた出雲諸上が登場する。敗残兵を率いて多賀城に辿り着いたと記載されている。無姓の表記であるが、出雲臣一族であろう。諸上=盛り上がった地の前で耕地が交差するようなところと解釈すると、図に示した場所が出自と推定される。その後の消息は不明である。

更に後の延暦十(791)年九月に「丁丑。近衛將監正六位下出雲臣祖人言。臣等本系。出自天穗日命。其天穗日命十四世孫曰野見宿祢。野見宿祢之後。土師氏人等。或爲宿祢。或賜朝臣。臣等同爲一祖之後。獨漏均養之仁。伏望与彼宿祢之族」

・・・と願い出て許可されている。その後に「出雲國出雲臣」が登場する機会がなく委細は不明である。「國成・人長・祖人」の出自の場所は図に示した通りであるが、地形象形表記としての読み解きは省略する。

<嶋田臣宮成>
● 嶋田臣宮成

「嶋田臣」は、續紀中初見の氏姓である。関連する名称を思い起こせば、古事記の神八井耳命が祖となった氏族名に含まれていた。「・・・尾張丹羽臣、嶋田臣等之祖也」と記載され、尾張國の地を居処とする一族であったと思われる。

嶋田=[鳥]のような形をした山稜の麓に田が広がっているところと解釈して、現在の北九州市小倉南区長野本町辺りと推定した(こちら参照)。

そして續紀で尾張國愛知郡と名付けられた地域であることが解る。何とも古めかしい一族からの人物を引っ張り出してきたものである。宮成=谷間が奥まで積み重なって広がった地が平らに整えられているところと解釈すると、図に示した場所が出自と推定される。

外従五位下を叙位されているが、立派な皇別氏族となるのだが、系譜等を含めての確認が難しかったのであろう。この後幾度か登場し、内位の従五位下となり、周防守に任じられている。

<筑紫史廣嶋>
● 筑紫史廣嶋

「筑紫史」の氏姓は、續紀中では初見であるが、書紀の持統天皇紀に、一度だけ記載されていた。筑紫史益が大宰府典として長く怠りなく勤めを果たしたとして褒賞したとのことであった。

大宰府に毎日通える場所が居処と推測し、現地名の北九州市小倉北区寿山町の山麓辺りに求めた。三輪君(續紀では大神朝臣の氏姓)一族が蔓延った地に隣接した場所である。

今回登場の「廣嶋」も、その勤勉さを褒められており、相通じるところであろう。廣嶋=[鳥]の形をした山稜の前が広がっているところと解釈される。図に示した場所が出自と推定される。現在は広大な公園になっている。

この後幾度か任官の記載があり、最後に野上連の氏姓を賜っている。野上=盛り上がった地の前に野が広がっているところと解釈される。「鳥」を「上」で置き換えた表記であろう。

<大村直池麻呂>
● 大村直池麻呂

「大村直」の氏姓は、記紀・續紀を通じて初見であろう。無姓や他の姓としても記載されたことはなく、関連する情報を調べると、和泉國大鳥郡に関わる一族だったようである。

極めて一般的な表記である大村=平らな頂の山陵が手を広げたように延びているところと解釈すると、図に示した場所が、その地形であることが解る。

池麻呂池=川が曲がりくねって流れている様であり、出自の場所を求めることができる。周辺は既に多くの人物が登場しているが、この地を居処としていなかった。

この後に幾度か任官の記載が見られるが、昇進することはなく、消息は不明である。「大村直」の氏姓の人物も登場することはなく、関連する情報は極めて少ない状況のようである。

二月壬子。天皇御大極殿。詔贈故式部卿藤原朝臣百川右大臣。又授正五位下當麻王正五位上。无位若江王從五位下。從五位下百濟王仁貞。安倍朝臣謂奈麻呂並從五位上。正六位上忌部宿祢人上外從五位下。從三位藤原朝臣曹子。无位藤原朝臣乙牟漏並正三位。无位藤原朝臣吉子從三位。從四位下飽浪王。尾張王並從四位上。无位八上王。犬甘王並從五位下。正四位下藤原朝臣教基。紀朝臣宮子。平群朝臣邑刀自。藤原朝臣彦子並正四位上。從四位上藤原朝臣諸姉正四位下。正五位下大原眞人室子從四位下。從五位下武藏宿祢家刀自。大宅朝臣宅女並正五位下。從五位下草鹿酒人宿祢水女。美努宿祢宅良。足羽臣眞橋並從五位上。外從五位下平群豊原朝臣靜女。若湯坐宿祢子虫。无位藤原朝臣甘刀自。紀朝臣須惠女。安倍朝臣黒女。藤原朝臣兄倉。坂上大忌寸又子。三嶋宿祢廣宅。山宿祢子虫並從五位下。正七位上他田舍人眞枚女外從五位下。甲寅。正三位藤原朝臣乙牟漏。從三位藤原朝臣吉子並爲夫人。丙辰。授正五位下紀朝臣犬養正五位上。癸亥。授无位安倍朝臣安倍刀自從五位下。庚午。復丈部大麻呂本位從五位下。辛未。授從七位下小治田朝臣古刀自從五位下。壬申。以從五位下春階王。藤原朝臣園人。並爲少納言。外從五位下物部多藝宿祢國足爲中宮大進。外從五位下上毛野公薩摩爲内藏助。從五位下巨勢朝臣廣山爲縫殿頭。從五位上多治比眞人宇美爲民部少輔。從五位下紀朝臣田長爲主計頭。從五位下穗積朝臣賀兼爲主税頭。正四位下紀朝臣船守爲近衛中將。内廐頭常陸守如故。從五位下紀朝臣千世爲中衛少將。外從五位下尾張宿祢弓張爲伊賀守。從五位上文室眞人与企爲相摸介。從五位下吉弥侯横刀爲上野介。從五位上調使王爲越中守。從五位上上毛野朝臣稻人爲越後守。從五位下積殖王爲丹後守。從五位上桑原公足床爲伯耆介。右大弁正四位下石川朝臣名足爲兼播磨守。近衛將曹外從五位下筑紫史廣嶋爲兼大掾。從五位下藤原朝臣雄友爲美作守。東宮學士外從五位下林忌寸稻麻呂爲兼介。從五位下甘南備眞人豊次爲備前介。從五位下榮井宿祢道形爲備中守。從五位下陽侯王爲安藝守。從五位下大伴宿祢眞麻呂爲大宰少貳。從五位下爲奈眞人豊人爲筑後守。丙子。授從五位下宗形王從五位上。 

二月五日に大極殿に出御されて、詔して、故式部卿の藤原朝臣百川に右大臣を贈っている。また、當麻王()に正五位上、若江王(。三度の登場、同一人物か否かは不明)に從五位下、百濟王仁貞(①-)安倍朝臣謂奈麻呂(こちら参照)に從五位上、忌部宿祢人上(止美に併記)に外從五位下、藤原朝臣曹子(巨曾子)・藤原朝臣乙牟漏(安倍朝臣子美奈に併記)に正三位、藤原朝臣吉子()に從三位、飽浪王(飽波女王)・尾張王(尾張女王)に從四位上、八上王(八上女王。近隣)・犬甘王(女王。山上王に併記)に從五位下、藤原朝臣教基(教貴。綿手に併記)・紀朝臣宮子平群朝臣邑刀自藤原朝臣彦子(産子)に正四位上、藤原朝臣諸姉(乙刀自に併記)に正四位下、大原眞人室子(年繼に併記)に從四位下、武藏宿祢家刀自(丈部直刀自)・大宅朝臣宅女(廣麻呂に併記)に正五位下、草鹿酒人宿祢水女美努宿祢宅良(奥麻呂に併記)・足羽臣眞橋に從五位上、平群豊原朝臣靜女(佐和良臣)・若湯坐宿祢子虫(子人に併記)・藤原朝臣甘刀自(明子に併記)・「紀朝臣須惠女・安倍朝臣黒女・藤原朝臣兄倉・坂上大忌寸又子」・三嶋宿祢廣宅(三嶋縣主廣調に併記)・「山宿祢子虫」に從五位下、他田舍人眞枚女(千世賣に併記)に外從五位下を授けている。

七日に藤原朝臣乙牟漏(安倍朝臣子美奈に併記)・藤原朝臣吉子()を夫人としている。九日に紀朝臣犬養(馬主に併記)に正五位上を授けている。十六日に「安倍朝臣安倍刀自」に從五位下を授けている。二十三日に丈部大麻呂を本位の從五位下に復している。二十四日に小治田朝臣古刀自(水内に併記)に從五位下を授けている。

二十五日に春階王藤原朝臣園人(勤子に併記)を少納言、物部多藝宿祢國足を中宮大進、上毛野公薩摩(大川に併記)を内藏助、巨勢朝臣廣山(馬主に併記)を縫殿頭、多治比眞人宇美(海。歳主に併記)を民部少輔、紀朝臣田長(船守に併記)を主計頭、穗積朝臣賀祜(老人に併記)を兼務で主税頭、紀朝臣船守を内廐頭・常陸守のままで近衛中將、紀朝臣千世(大宅に併記)を中衛少將、尾張宿祢弓張(小塞連)を伊賀守、文室眞人与企(与伎)を相摸介、吉弥侯横刀(吉弥侯根麻呂に併記)を上野介、調使王()を越中守、上毛野朝臣稻人(馬長に併記)を越後守、積殖王を丹後守、桑原公足床(桑原連足床)を伯耆介、右大弁の石川朝臣名足を兼務で播磨守、近衛將曹の筑紫史廣嶋を兼務で大掾、藤原朝臣雄友()を美作守、東宮學士の林忌寸稻麻呂を兼務で介、甘南備眞人豊次(清野に併記)を備前介、榮井宿祢道形を備中守、陽侯王(楊胡王。陽胡女王近隣)を安藝守、大伴宿祢眞麻呂を大宰少貳、爲奈眞人豊人(東麻呂に併記)を筑後守に任じている。

<紀朝臣須惠女-伯-登万理>
二十九日に宗形王に從五位上を授けている。 

● 紀朝臣須惠女

多くの女官が従五位下に叙位された、その中の一人である。橡姫が光仁天皇の母親であり、皇族に繋がる一族として、とりわけ女性は注目されるところであったろう。

残念ながら系譜は伝わっていなく、名前が表す地形から出自の場所を求めることになる。

既出の文字列である須惠女須惠=州が丸く取り囲まれようなところと解釈すると、図に示した場所が出自と推定される。「麻路」等の居処とは遠く離れており、別系列であったには違いない(こちら参照)。聖武天皇紀に登場した牟良自」の南隣の場所と思われる。この後に登場することはなく、消息不明である。

後に紀朝臣伯紀朝臣登万理が従五位下を叙爵されて登場する。既出の伯麻呂と混同しかけるが、別人と思われる。伯=谷間がくっ付いて様と解釈される。ただ、これでは一に特定し辛い表記であり、伯=人+白=谷間に丸く小高い地があるところとも読める。両意に重ねられているのではなかろうか。

登萬理=切り分けられた山稜にある小高い地から山稜が[萬]の形に岐れているところと読み解ける。図に示した場所が出自と推定される。前者は、その後にもう一度登場されるが、後者は見られず消息不明である。

<安倍朝臣安倍刀自-黒女>
● 安倍朝臣安倍刀自・安倍朝臣黒女

直近では傍流系の人物(例えば長田朝臣)が多く登場しているが、今回登場の人物名からすると本流系に属するように推測される。

あらためて解釈すると安倍=嫋やかに曲がる谷間が二つに岐れて延びているところと読み解いた。名前の安倍刀自=[安倍]の地に山稜の端が[刀]の形をしているところと解釈される。

その地形から図に示した場所が出自と推定される。図では省略しているが、かつては阿倍引田臣比羅夫が居処とした地である。虫麻呂ゆかりの人物だったのかもしれない。

黒女は、多分黒麻呂に関わる人物と推測される。『廣嗣の乱』の際に登場したが、鎮圧将軍である「虫麻呂」の下で功績を上げたと記載されていた。なんだか、過去の事件を思い起こさせる人事考課のようである。

<藤原朝臣兄倉-延福>
● 藤原朝臣兄倉

凄まじいばかりの「藤原朝臣」一族の女官が記載されているが、この人物もその一人であろう。例によって系譜不詳であり、”藤原”の地で出自場所を求めることになる。

聖武天皇紀に同じく女官として従五位下を叙爵された弟兄子が登場していた。おそらく、「兄倉」の「兄」の谷間を共有した表記と推測される。

兄倉=奥が広がっている谷間で四角く取り囲まれたところと解釈される。その地形を図に示した場所に見出せる。續紀中にこれ以後登場することはないようである。

少し後に藤原朝臣延福が初見で従四位上を叙爵されて登場する。後に女官として正四位下、續紀には記載されないが、最終従三位で薨じたと伝えられている。延福=酒樽の形をした高台が引き延ばされたようなところと解釈される。図に示した場所が出自と推定される。

<坂上大忌寸又子-田村麻呂>
● 坂上大忌寸又子

「坂上大忌寸」は、淳仁天皇紀に苅田麻呂が賜った姓と記載されていた。その後の称徳天皇紀に坂上忌寸子老が登場しているが、「大」は不可されず、更に内位ではなく外従五位下の叙位となっていた。

そんな背景で、「苅田麻呂」系列では初めて登場した人物であり、調べるとその娘と知られているようである。

又子=生え出た山稜の前が手のような形をしているところと解釈すると、図に示した場所が出自と推定される。別称の全子=谷間にすっぽりと玉のような地が嵌っているところと解釈される。その地形も満足する名称であろう。後に桓武天皇夫人となったようである。

延暦四(785)年十一月に坂上大宿祢田村麻呂が従五位下を叙爵されて登場する。平安時代を代表する武将となる人物であり、「又子」の兄である。ご登場の際に詳細を述べるとして、出自場所は「又子」の西隣と推定される。既出の文字列である田村=開いた手のように延びている地の前が田になっているところと解釈される。

<山宿祢子虫>
● 山宿祢子虫

「山宿祢」の氏姓は記紀・續紀を通じて初見と思われる。関連するところでは、書紀の『八色之姓』で「山部連」が宿祢姓を賜ったと記載されていた。

「山部連」については、古事記に登場する山部連小楯・大楯等の氏姓と推測された。また、仁徳天皇紀に登場する「袁陀弖夜麻登」の”袁陀弖=小楯”に繋がる名称が含まれている。

おそらく、”山部”は恐れ多くて用いることが憚れ、「部」を省略したのであろう。今回登場の人物は、極めて希少な夜麻登の住人だったと思われる。

子蟲=延び出た山稜の端が細かく三つに岐れているところと解釈すると、図に示した場所が出自と推定される。この後に登場することはないようである。

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余談になるが、夜麻登(ヤマト)は訓であり、本来の表記は如何なるものであろうか?…上記の「山部連・山宿祢」の山=[山]の字形に山稜が延びている様が関わっていることが解る。即ち…、

夜麻登=山戸(門)

…となる。山戸(門)=[山]の字形の山稜が谷間の出入口にあるところと解釈される。天石屋戸や天孫降臨に随行した天石戸(門)別神石屋戸石戸(門)を連想させる表現と思われる。ましてや、”大倭(和)”の訓では、決してあり得ないのである。

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