2024年3月30日土曜日

天宗高紹天皇:光仁天皇(19) 〔670〕

天宗高紹天皇:光仁天皇(19)


寶龜八(西暦777年)四月の記事からである。原文(青字)はこちらのサイトから入手、訓読続日本紀(今泉忠義著)、続日本紀4(直木考次郎他著)を参照。

夏四月甲申。從五位上日置造蓑麻呂等八人賜姓榮井宿祢。從六位上日置造雄三成等四人鳥井宿祢。正八位下日置造飯麻呂等二人吉井宿祢。丙戌。雨雹。庚寅。渤海使史都蒙等入京。辛夘。太政官遣使慰問史都蒙等。甲午。雨氷。震太政官内裏之廳。乙未。右京人從六位上赤染國持等四人。河内國大縣郡人正六位上赤染人足等十三人。遠江國蓁原郡人外從八位下赤染長濱。因幡國八上郡人外從六位下赤染帶繩等十九人賜姓常世連。戊戌。遣唐大使佐伯宿祢今毛人等辞見。但大使今毛人到羅城門。稱病而留。癸夘。渤海使史都蒙等貢方物。奏曰。渤海國王。始自遠世供奉不絶。又國使壹萬福歸來。承聞。聖皇新臨天下。不勝歡慶。登時遣獻可大夫司賓少令開國男史都蒙入朝。并戴荷國信。拜奉天闕。詔曰。現神〈止〉大八洲國所知〈須〉天皇大命〈良麻止〉詔大命〈乎〉聞食〈止〉宣。遠天皇御世御世年緒不落間〈牟〉事無〈久〉仕奉來〈流〉業〈止奈毛〉所念行〈須〉。又天津日嗣受賜〈礼流〉事〈乎左閇〉歡奉出〈礼波〉。辱〈奈美〉歡〈之美奈毛〉所聞行〈須〉。故是以今〈毛〉今〈毛〉遠長〈久〉平〈久〉惠賜〈比〉安賜〈牟止〉。彼國〈乃〉王〈尓波〉語〈部止〉詔天皇大命〈乎〉聞食〈止〉宣。是日。遣唐大使佐伯宿祢今毛人輿病進途。到攝津職。積日不損。勅副使石根。持節先發。行大使事。即得順風。不可相待。遣右中弁從四位下石川朝臣豊人。宣詔使下曰。判官已下犯死罪者。聽持節使頭專恣科决。丁未。散位從四位下豊野眞人出雲卒。戊申。天皇臨軒。授渤海大使獻可大夫司賓少令開國男史都蒙正三位。大判官高祿思。少判官高鬱琳並正五位上。大録事史遒仙正五位下。少録事高珪宣從五位下。餘皆有差。賜國王祿。具載勅書。史都蒙已下亦各有差。 

四月三日に「日置造蓑麻呂」等八人に「榮井宿祢」(こちら参照)、「日置造雄三成」等四人に「鳥井宿祢」、「日置造飯麻呂」等二人に「吉井宿祢」の氏姓を賜っている。五日に雹が降っている。九日に渤海使の史都蒙等が入京している。十日に太政官は使を遣わして史都蒙等を慰問させている。十三日に氷が降っている。太政官・内裏の建物に落雷している。

十四日に右京の人である赤染國持(廣足に併記)等四人、河内國大縣郡の人である「赤染人足」等十三人、遠江國蓁原郡の人である赤染長濱、「因幡國八上郡」の人である「赤染帶繩」(國造寶頭に併記)等十九人に「常世連」の氏姓を与えている。十七日に遣唐大使の佐伯宿祢今毛人等が暇乞いのために謁見して出発したが、大使の「今毛人」は羅城門まで来た時病気と称して留まっている。

二十二日に渤海使の史都蒙等が産物を貢し、以下のように奏上している・・・渤海國王は遠い時代から絶えることなくお仕えして来た。また、國使の壹萬福が帰り、聖の天皇が新しく即位されたことを承り、喜びに堪えない。そこですぐさま献可大夫・司賓少令で開國男の史都蒙を派遣して入朝させることにした。それに併せて進物を携え持たせて朝廷に奉らせる・・・。

これに対して次のように詔されている(以下宣命体)・・・現神として大八洲國をお治めになる天皇の御言葉として仰せになる御言葉を承れと申し渡す。遠い昔の天皇の御世から、長い年月の間絶えることなく間を置くことなく、奉仕して来た行いであると思わっている。また、天つ日嗣を受け継いだことに対してまで、歓び申し上げてのことなので、忝く喜ばしいことであると思っている。それゆえ今また遠く長く変わりなく、恵みを与え安心させてやるとかの國の王に語れ、と仰せになる天皇の御言葉を承れと申し渡す・・・。

この日、遣唐大使の佐伯宿祢今毛人は病の身を輿に載せて出発している。攝津職まで到着したが、日を過ごしても回復しなかった。そこで、副使の小野朝臣石根に[節のしるしを持って先発し、大使の職務を代行せよ。順風が吹いたなら、大使を待ってはいけない]と勅されている。また右中弁の石川朝臣豊人を派遣して、遣唐使の一行に[判官以下で死罪を犯した者は、節を持つ首席の使者が独断で判決を下すことを許す]と詔されている。

二十六日に散位の豊野眞人出雲(出雲王)が亡くなっている。二十七日に宮殿の端近くに出御されて、渤海大使の献可大夫・司賓少令・開國男の史都蒙に正三位、大判官の高禄思と少判官の高鬱琳にそれぞれ正五位上、大録事の史遒仙に正五位下、少録事の高珪宣に従五位下を授けている。それ以下の者にもそれぞれ位階を授けている。渤海國王に禄を賜うことについては、詳しく勅書に記されている。史都蒙以下にも、それぞれ物を賜っている。

<日置造雄三成-飯麻呂>
● 日置造雄三成・日置造飯麻呂

称徳天皇紀に通(道)形が外従五位下を叙爵された時に、既に登場していた蓑麻呂も含めて、彼等が後に「榮井宿祢」を賜わることになると述べた。谷間の最奥、現在の金辺峠直下付近であるが、その地形を「榮」の文字が表していることが解った。

今回は、その一族にあらたな人物が加わったようである。既に最奥部は埋まってしまったようなので、谷を下るしかないのだが、果たして如何なることになるのであろうか・・・。

雄三成の文字列も、既出の組合せであり、読み下してみよう。雄三成=羽を広げた鳥のような山稜の麓に整えられた小高い地が三つ並んでいるところと解釈される。また、飯麻呂飯=手を延ばしたような山稜の麓がなだらかに広がっているところと解釈される。それぞれの出自の場所を図に示した場所と推定される。

賜った鳥井宿祢は、「雄」の麓で四角く取り囲まれた地を表現し、吉井宿祢は「飯」の山稜が蓋をするように延びている様と見做したものであろう。同族なら「榮井」とするのではなく、大きく地形が変わっている場所に蔓延った一族であったことを示唆する賜姓だったようである。

<赤染人足>
● 赤染人足

「赤染(造)」の氏姓は、書紀の天武天皇紀に登場していた。續紀では聖武天皇紀に「廣足」等が「常世連」の氏姓を賜ったと記載されていた(こちら参照)。

現在の香春三ノ岳の北麓に蔓延った一族と推定され、上記の「國持」の出自は、その地として求めることができた。ここで登場の人物は、河内國大縣郡の住人と記載されている。

赤染=平らな頂の麓で山稜が交差するように延びている地に山稜が水辺で[く]の字形に曲がっているところと解釈した。その地形を図に示した場所に見出せる。智識寺の北側に当たる場所である。名前の人足=谷間ある山稜が足のように延びているところと解釈すると、この人物の出自場所を求めることができる。

図に示したように「赤染」の山稜が、既出の常世=北向きに延びる山稜が途切れずに連なっているところと解釈すると賜った常世連に繋がっていることが解る。多くの「常世連」が誕生したのであるが、この後に登場されることはないようである。

<赤染帶繩>
● 赤染帶繩

ここに来て「八上郡」の名称が記載され、その地を出自とする人物が登場している(こちら参照)。称徳天皇紀の春日戸村主人足・大田も当郡の親子だったようである。

上記の「河内國大縣郡」の「赤染」一族と同様に今回登場の人物も記載された「八上郡」にある「赤染」の地を出自としていたものと思われる。

すると「赤染」の地形を図に示した場所に見出せる。今回も見事に「赤」と「染」の地形が寄り集まっていることが解る。名前の帶繩=縄のような地に帯のような山稜が延びているところと解釈される。

賜った常世連の「常世」の地形を確認することができる。ここで登場した人物達が同祖であろうとなかろうとも、彼等の居処の地形をそのまま表現していることになる。續紀も、地形象形表記に徹してると、言えるであろう。

五月癸丑。授正五位下巨勢朝臣巨勢野從四位下。丁巳。天皇御重閣門。觀射騎。召渤海使史都蒙等。亦會射場。令五位已上進裝馬及走馬。作田舞於舞臺。蕃客亦奏本國之樂。事畢賜大使都蒙已下綵帛各有差。庚申。先是渤海判官高淑源及少録事一人。比着我岸。船漂溺死。至是贈淑源正五位上。少録事從五位下。並賻物如令。癸亥。勅旨少録正六位上丹比新家連稻長。大膳膳部大初位下東麻呂賜姓丹比宿祢。」奉白馬於丹生川上神。霖雨也。乙丑。授无位春日朝臣方名從五位下。己巳。自寳字八年乱以來。太政官印收於内裏。毎日請進。至是復置太政官。癸酉。渤海使史都蒙等歸蕃。以大學少允正六位上高麗朝臣殿繼爲送使。賜渤海王書曰。天皇敬問渤海國王。使史都蒙等。遠渡滄溟。來賀踐祚。顧慙寡徳叨嗣洪基。若渉大川。罔知攸濟。王修朝聘於典故。慶寳暦於惟新。懃懇之誠。實有嘉尚。但都蒙等比及此岸。忽遇悪風。有損人物。無船駕去。想彼聞此。復以傷懷。言念越郷。倍加軫悼。故造舟差使。送至本郷。并附絹五十疋。絁五十疋。絲二百絇。綿三百屯。又縁都蒙請。加附黄金小一百兩。水銀大一百兩。金漆一缶。漆一缶。海石榴油一缶。水精念珠四貫。檳榔扇十枝。至宜領之。夏景炎熱。想平安和。又弔彼國王后喪曰。禍故無常。賢室殞逝。聞以惻怛。不淑如何。雖松檟未茂。而居諸稍改。吉凶有制。存之而已。今因還使。贈絹二十疋。絁二十疋。綿二百屯。宜領之。乙亥。仰相摸。武藏。下総。下野。越後國。送甲二百領于出羽國鎭戍。丁亥。陸奥守正五位下紀朝臣廣純爲兼按察使。戊寅。典侍從三位飯高宿祢諸高薨。伊勢國飯高郡人也。性甚廉謹。志慕貞潔。葬奈保山天皇御世。直内教坊。遂補本郡采女。飯高氏貢采女者。自此始矣。歴仕四代。終始無失。薨時年八十。

五月三日に巨勢朝臣巨勢野に従四位下を授けている。七日に重閣門に出御されて馬上からの弓射を観覧されている。渤海使の史都蒙等を召して、彼等もまた射場に参会させている。五位以上に装飾を付けた馬と競走の馬を奉らせ、舞台で田舞を舞わせている。蕃客もまた本國の音楽を演奏している。それらが終わってから、大使の「都蒙」以下にそれぞれ色染めの絹を賜っている。

十日、これ以前、渤海使の判官である高淑源と少録事一人は、岸に到着する頃になって、船が漂流して溺死した。ここに至って「淑源」に正五位上、少録事に従五位下を追贈し、それぞれ令の規定に従って物を贈り弔っている。十三日に勅旨少録の「丹比新家連稻長」と大膳職膳部の「東麻呂」に「丹比宿祢」の氏姓を与えている。この日、白馬を丹生川上神(芳野水分峰神)に奉っている。長雨のためである。

十五日に春日朝臣方名(常麻呂に併記)に従五位下を授けている。十九日に天平字八年の乱『仲麻呂の乱』以来、太政官の印は内裏に収納し、毎日太政官の請いを受けて運んでいた。この時になって太政官に戻している。

二十三日に渤海使の史都蒙等が帰っている。大学少允の「高麗朝臣殿繼」を送使に任じている。渤海王に次のような書を賜っている・・・天皇は敬んで渤海國王に尋ねる。使者の史都蒙等は、遠方から大海を渡って来て、践祚(皇位継承)を祝ってくれた。顧みて徳が少ないのに、みだりに大いなる皇位を嗣いだことを恥じている。まるで大河を渡るのに渡る場所が分からないように、どのように政治を執ったら良いのか分からない。王は故実に従って我が朝廷に平安を問う使者を進め、新たに即位したことを慶賀してくれた。懇ろな誠意は、真に褒め称えるべきものがある。

但し、「都蒙」等は我が海岸に到着する頃になって、急に暴風に遭い、人や物を失ってしまい、乗って帰えるべき船がない。これらのことを聞いたり思ったりすると、また心が傷むが、彼等が故郷を遠く離れていることを思うと、益々悼む気持ちが増して来る。そこで船を造り、使者を任じて送らせることにし、併せて絹五十匹・絁五十匹・絹糸二百絇・真綿三百屯を託する。また「都蒙」の申し出によって、黄金小百両・水銀大百両・金漆一缶・水精(水晶)念珠四連・檳榔扇十本を加えた。着いたら受け取るように。今は夏の日ざしが燃えるように暑いが、王は平安に和やかであろう・・・。

また、渤海國王の后の喪を弔って次のように述べている・・・災いや事故は定めがなく、賢夫人が亡くなったと聞いて悼み悲しんでいる。この不幸は如何ともし難い。松や檟など(墓上の木)はまだ茂らないが、月日はだんだんと過ぎてゆく。吉事凶事については古来の礼制があるので、それに従うだけである。今帰る使者に託して、絹二十疋・絁二十疋・真綿二百屯を贈る。宜敷く受け取るように・・・。

二十五日に相摸・武藏・下総・下野・越後の國に命じて、甲二百領を出羽國の砦や兵営に送らせている。二十七日に陸奥守の紀朝臣廣純に按察使を兼任させている。二十八日に典侍の飯高宿祢諸高(笠目)が亡くなっている。伊勢國飯高郡の出身である。たいへん欲が少なく慎み深い性質で、正しく潔いように心掛けていた。奈保山に埋葬された天皇(元正天皇)の御世に、内教坊に勤務し始め、ついに本郡の采女に任じられた。飯高氏が采女を貢上することは、ここから始まった。四代の天皇に相次いで仕えたが、その間失敗ということがなかった。薨じた時八十歳であった。

<丹比新家連稻長-東麻呂>
● 丹比新家連稻長・東麻呂

「丹比連(宿祢)」は河内國丹比郡に蔓延った一族であって、既に多くの人物が登場している(直近ではこちら参照)。現地名は京都郡みやこ町勝山大久保、御所ヶ岳北麓と推定した。

高位の官人を輩出した「多治比眞人」一族の南側に当たる場所である。称徳天皇紀に、『八色之姓』による賜姓に外れたのであろうか、丹比連大倉が私財を献上して外従五位下を叙爵されいた。

「丹比宿祢」とは、些か異なる地が出自と推測されるが、宿祢姓の一派とは、少々掛け離れた場所と推定した。現地名では勝山大久保の東側となる行橋市津積と推定した。

今回登場の丹比新家連新家=切り分けられた山稜の端が豚の口のようになっているところと解釈すると、図に示した場所がその地形を表していると思われる。名前の稻長=長く延びた山稜の前が稲穂のようになっているところと解釈すると、この人物の出自場所を求めることができる。もう一人の東麻呂東=突き通すような様として、図に示した場所が出自と推定される。

上図から伺えるように、賜姓された丹比宿祢一族の東の端となる。さて、今後に更なる一族が登場するのであろうか?…図上では、既に満杯の状況なのであるが・・・。

<高麗朝臣殿繼>
● 高麗朝臣殿繼

「高麗朝臣」は、武藏國高麗郡を出自とする一族であり、高麗出身の人々を当郡に移住させたという経緯が記載されていた。現地名は北九州市小倉南区沼本町辺りと推定した(こちら参照)。

渤海國への送使に任じられ、正に先祖の地に向かうことになったようである。と言うことで、名前の殿繼が示す地形を読み解いてみよう。

既出の文字列である殿繼=丸く突き出た山稜の端が連なっているところとすると、図に示した場所が、その地形を表していることが解る。駿河國との境に位置する場所である。前出の乘潴驛が設置されていた近隣と思われる。

渤海國への道中、遭難するが何とか切り抜けて送使の任務を果たして帰朝したようである。續紀中では、後に高倉朝臣に改名され、もう一度登場している。その後最終従五位上に昇進されたそうである。

六月辛巳朔。勅遣唐副使從五位上小野朝臣石根。從五位下大神朝臣末足等。大使今毛人。身病弥重。不堪進途。宜知此状到唐下牒之日。如借問無大使者。量事分疏。其石根者著紫。猶稱副使。其持節行事一如前勅。乙酉。武藏國入間郡人大伴部直赤男。以神護景雲三年。獻西大寺商布一千五百段。稻七万四千束。墾田卌町。林六十町。至是其身已亡。追贈外從五位下。壬辰。參議從四位下美濃守紀朝臣廣庭卒。戊戌。楊梅宮南池生蓮。一莖二花。癸夘。隱伎國飢。賑給之。丙午。授外從五位下栗原宿祢弟妹從五位下。

六月一日に遣唐副使の小野朝臣石根大神朝臣末足等に次のように勅されている・・・大使の佐伯宿祢今毛人は、病気がいよいよ重く、出発することができない。そこでこの状態を承知し、唐に到着して牒を唐の役人に渡す時、もし大使がいないことを問われたならば、状況を判断して申し開きせよ。「石根」には紫の衣服を着けることを許すが、なお副使と称せよ。節を持って行動することは、前の勅のようにせよ・・・。

五日、武藏國入間郡の人である「大伴部直赤男」は、神護景雲三(769)年に西大寺に商布一千五百段・稲七万四千束・墾田四十町・林六十町を献上した。現在、既に死亡しているので外従五位下を追贈している。十二日に参議・美濃守の紀朝臣廣庭(宇美に併記)が亡くなっている。十八日に楊梅宮の南池に蓮が生え、一本の茎に花が二つ咲いている。二十三日に隠岐國が飢饉になったので物を恵み与えている。二十六日に栗原宿祢弟妹(柴原勝乙妹)に内位の従五位下を授けている。

<大伴部直赤尾>
● 大伴部直赤男

全くの遅ればせながらの褒賞であるが、素性を調べるのに時間を要したのであろうか。入間郡の奥地に住まっていた人物と推測される。直近では同郡の人である矢田部黒麻呂の孝行を顕彰したと記載されていた。

以前にも述べたように、武藏國の南部は高麗からの渡来人達の入植地としたが、北部の谷間は元来の人々が住まっていた國なのである(上記の「高麗朝臣」等)。

大伴部直に含まれる頻出の大伴=平らな頂の山稜が谷間で二つに岐れているところであり、図に示した場所にその地形を見出せる。部=近辺であることを表している。

名前の赤男の赤は上記赤染と同様に解釈すると、大伴の麓の谷間を示していることが解る。赤男=平らな頂から山稜が交差するように延びている麓に突き出た地があるところと解釈される。紀伊國名草郡にも大伴部直の氏姓を持つ人物名が記載されていたが、類似の地形であろう(こちら参照)。

秋七月辛亥。左京人正六位上小塞連弓張等五人賜姓宿祢。甲寅。伯耆國飢。賑給之。癸亥。震但馬國國分寺塔。甲子。左京人從六位下楢日佐河内等三人賜姓長岡忌寸。正六位上山村許智大足等四人山村忌寸。乙丑。内大臣從二位藤原朝臣良繼病。叙其氏神鹿嶋社正三位。香取神正四位上。

七月二日に左京の人である「小塞連弓張」等五人に宿祢姓を与えている。五日、伯耆國に飢饉が起こったので物を恵み与えている。十四日に但馬國の國分寺の塔が被雷している。十五日に左京の人である「楢曰佐河内」等三人に「長岡忌寸」の氏姓を、「山村許智大足」等四人に「山村忌寸」の氏姓を与えている。

十六日に内大臣の藤原朝臣良繼が病気になったので、その氏神である「鹿嶋社」(常陸國鹿嶋郡)を正三位、「香取神」(下総國香取郡)を正四位上としている。

<小塞連弓張[小塞宿祢]>
● 小塞連弓張

左京人の「小塞連(宿祢)」に関する情報を求めて、續紀の記述を調べると、延暦元(782)年十二月二日に「内掃部正外從五位下小塞宿祢弓張言。弓張等二世祖近之里。庚寅歳以降。因居地名。從小塞姓。望請。依庚午年籍。改換小塞。蒙賜尾張姓」と記載されている。

この後に宿祢を賜姓され、更に後に「尾張宿祢」の氏姓を賜っていることが分かった。尾張國の地で、更に詳細を調べると中嶋郡が本来の出自場所だったようである。

この「中嶋郡」については、直近で裳咋臣足嶋に関する記述があった。この一族は元は「伊賀國敢朝臣」同祖(詳細は後日)であり、「敢臣」の氏姓が賜れている。人々の移動が活発に行われていたことが伺える。

小塞連塞=宀+㠭(工+工+工+工)+廾=山稜の端で小高い地が寄り集まって広がっている様と解釈される。小=三角に尖っている様と併せて図に示した場所の地形を表していることが解る。更に弓張=弓を張っているようなところと読むと、出自の場所を求めることができる。

上記されているように、近之里の子孫と述べている。近=[斤]の文字形の様とすると、図に示した場所にそれらしき山稜の起伏が確認される。海辺の極限られた地域であり、左京に移り住んでいたのであろう。目出度く「尾張宿祢」の氏姓を賜れたようである。

<楢曰佐河内・山村許智大足>
● 楢曰佐河内・山村許智大足

「山村許智」については、称徳天皇紀に人足が外従五位下を叙爵されて登場していたが、「楢曰佐」も同族であることが知られているようである。現地名の田川郡添田町落合辺りで、その名称が表す地形を捜すことにする。

楢=木+八+酉=山稜が二つに岐れた麓に酒樽のような地がある様と解釈される。楢原造東人(伊蘇志臣)で用いられていた文字である。既出の文字列である曰佐=谷間の奥から延び出ている山稜が左手のような形をしているところと読み解いた。

纏めると楢曰佐=[楢]の山稜の後で[曰佐]の地形をしているところと解釈される。その地形を図に示した場所に見出せる。名前の河内=谷間の出口を入ったところと読み下すことができる。現在の落合小学校辺りが出自と推定される。

山村許智大足は、大足=平らな頂の山稜が足のように延びているところとすると、類似の地形が多く見られるが、恐らく図に示した場所が出自だったと思われる。「人足」との関係は定かではないようである。

「河内」は長岡忌寸を賜っている。背後の山稜を表しているのであろう。別名に「奈良(羅)譯語」があったとのことである。「大足」は、山村忌寸を賜姓されている。百濟からの渡来系一族であったと伝えられている。




2024年3月21日木曜日

天宗高紹天皇:光仁天皇(18) 〔669〕

天宗高紹天皇:光仁天皇(18)


寶龜八(西暦777年)正月の記事からである。原文(青字)はこちらのサイトから入手、訓読続日本紀(今泉忠義著)、続日本紀4(直木考次郎他著)を参照。

八年春正月甲寅朔。宴五位已上於前殿。賜祿有差。丙辰。以内臣從二位藤原朝臣良繼爲内大臣。遣唐副使左中弁從五位上小野朝臣石根爲兼播磨守。丁巳。授正三位藤原朝臣魚名從二位。正六位上藤原朝臣長河。紀朝臣宮人並從五位下。戊午。左京人從七位上田邊史廣本等五十四人賜姓上毛野公。庚申。授從四位下鴨王從四位上。從五位上三方王正五位下。從五位下東方王。山邊王。田中王並從五位上。正四位下藤原朝臣是公正四位上。從四位下大伴宿祢家持。石上朝臣息嗣並從四位上。正五位上藤原朝臣雄依。大中臣朝臣子老並從四位下。正五位下甘南備眞人伊香。榎井朝臣子祖並正五位上。從五位上大原眞人繼麻呂。大伴宿祢不破麻呂並正五位下。從五位下田口朝臣大戸。上毛野朝臣馬長。石川朝臣人麻呂並從五位上。外從五位下大和宿祢西麻呂。正六位上文室眞人久賀麻呂。爲奈眞人豊人。田口朝臣祖人。百濟王仁貞。紀朝臣豊庭。佐味朝臣山守。下毛野朝臣船足。波多朝臣百足。車持朝臣諸成。笠朝臣望足。縣犬養宿祢伯。當麻眞人枚人。高橋朝臣祖麻呂並從五位下。正六位上膳臣大丘外從五位下。癸亥。授從五位上藤原朝臣種繼正五位下。正六位上大伴宿祢眞綱。外正六位上中臣丸朝臣馬主並從五位下。正四位上藤原朝臣曹子從三位。從四位上伊福部女王正四位上。正五位下紀朝臣宮子。從五位上平群朝臣邑刀自。藤原朝臣産子。藤原朝臣教貴。藤原朝臣諸姉並從四位下。正五位下文室眞人布止伎。藤原朝臣人數並正五位上。從五位下和氣朝臣廣虫。大野朝臣姉並從五位上。外從五位下足羽臣黒葛。金刺舍人連若嶋。水海連淨成並從五位下。正六位上紀臣眞吉。岡上連綱。從七位上中臣葛野連廣江。正六位上忍海倉連甑。從六位下豊田造信女並外從五位下。己巳。宴次侍從巳上於前殿。其餘者於朝堂賜饗。癸酉。遣使問渤海使史都蒙等曰。去寳龜四年。烏須弗歸本蕃日。太政官處分。渤海入朝使。自今以後。宜依古例向大宰府。不得取北路來。而今違此約束。其事如何。對曰。烏須弗來歸之日。實承此旨。由是。都蒙等發自弊邑南海府吐号浦。西指對馬嶋竹室之津。而海中遭風。著此禁境。失約之罪。更無所避。甲戌。從三位飯高宿祢諸高。年登八十。勅賜絁八十疋。絲八十絇。調布八十端。庸布八十段。戊寅。以從四位下大中臣朝臣子老爲神祗伯。從五位下藤原朝臣大繼爲少納言。從五位下池田朝臣眞枚爲員外少納言。主計頭從五位下池原公禾守爲兼大外記。正五位上大伴宿祢益立爲權左中弁。從五位上菅生王爲中務大輔。從五位下文室眞人忍坂麻呂爲少輔。從五位下賀茂朝臣麻呂爲員外少輔。從五位上文室眞人高嶋爲内匠頭。正五位下田口朝臣祖人爲内礼正。從五位下藤原朝臣眞葛爲大學頭。外從五位下膳臣大丘爲博士。從五位下美和眞人土生爲散位頭。從五位下宍人朝臣繼麻呂爲主税頭。從五位下藤原朝臣菅繼爲兵部少輔。從五位下下毛野朝臣船足爲鼓吹正。正五位上淡海眞人三船爲大判事。正五位下大伴宿祢不破麻呂爲大藏大輔。從五位下紀朝臣犬養爲少輔。外從五位下陽侯忌寸人麻呂爲東市正。從四位下石川朝臣垣守爲右京大夫。從五位下多治比眞人歳主爲攝津亮。從五位上藤原朝臣鷲取爲造宮大輔。從五位下文室眞人子老爲少輔。從五位下大野朝臣石主爲和泉守。從五位上石川朝臣人麻呂爲伊豆守。從五位下藤原朝臣黒麻呂爲上総守。從五位下大伴宿祢眞綱爲陸奥介。從五位下文室眞人於保爲若狹守。内藥佑外從五位下吉田連斐太麻呂爲兼伯耆介。從五位下大原眞人美氣爲美作介。外從五位下堅部使主人主爲備前介。外從五位下橘戸高志麻呂爲備後介。從五位下多治比眞人黒麻呂爲周防守。從五位下大中臣朝臣宿奈麻呂爲阿波守。近衛少將從五位上紀朝臣船守爲兼土左守。從五位下藤原朝臣仲繼爲大宰少貳。己夘。從五位下紀朝臣眞乙爲左兵衛員外佐。庚辰。從五位上美和眞人土生爲員外左少弁。從五位下當麻眞人枚人爲右大舍人助。正五位上船井王爲縫殿頭。從五位下安倍朝臣常嶋爲治部少輔。正五位下石城王爲造酒正。從五位下百濟王玄鏡爲石見守。 

正月一日に五位以上の官人と前殿で宴会を行い、それぞれに禄を賜っている。三日に内臣の藤原朝臣良繼を内大臣に任じ、遣唐副使・左中弁の小野朝臣石根に播磨守を兼任させている。四日、藤原朝臣魚名(鳥養に併記)に従二位、藤原朝臣長河()・紀朝臣宮人(宮子に併記)に従五位下を授けている。五日に左京の人である田邊史廣本(息麻呂に併記)等五十四人に「上毛野公」の氏姓を与えている。

七日に鴨王()に從四位上、三方王(三形王)に正五位下、東方王()・山邊王()・田中王()に從五位上、藤原朝臣是公(黒麻呂)に正四位上、大伴宿祢家持石上朝臣息嗣(奥繼。宅嗣に併記)に從四位上、藤原朝臣雄依(小依。家依に併記)大中臣朝臣子老に從四位下、甘南備眞人伊香(伊香王)榎井朝臣子祖(小祖父)に正五位上、大原眞人繼麻呂(今木に併記)大伴宿祢不破麻呂に正五位下、田口朝臣大戸上毛野朝臣馬長石川朝臣人麻呂に從五位上、大和宿祢西麻呂(弟守に併記)・「文室眞人久賀麻呂」・爲奈眞人豊人(東麻呂に併記)・「田口朝臣祖人」・百濟王仁貞(①-)・紀朝臣豊庭(豊賣に併記)・佐味朝臣山守(眞宮に併記)・下毛野朝臣船足(足麻呂に併記)・波多朝臣百足(八多朝臣百嶋に併記)・「車持朝臣諸成」・笠朝臣望足(始に併記)・縣犬養宿祢伯(酒女に併記)・「當麻眞人枚人・高橋朝臣祖麻呂」に從五位下、膳臣大丘に外從五位下を授けている。

十日に藤原朝臣種繼(藥子に併記)に正五位下、「大伴宿祢眞綱・中臣丸朝臣馬主」に從五位下、藤原朝臣曹子(巨曾子)に從三位、伊福部女王(元明天皇紀に卒された女王とは別人)に正四位上、紀朝臣宮子平群朝臣邑刀自藤原朝臣産子藤原朝臣教貴(綿手に併記)・藤原朝臣諸姉(乙刀自に併記)に從四位下、文室眞人布止伎(布登吉。長谷眞人於保に併記)・藤原朝臣人數に正五位上、和氣朝臣廣虫大野朝臣姉(石主に併記)に從五位上、足羽臣黒葛(眞橋に併記)・金刺舍人連若嶋水海連淨成に從五位下、紀臣眞吉(紀朝臣大純に併記)・岡上連綱(刀利甲斐麻呂に併記)・中臣葛野連廣江(飯麻呂に併記)・「忍海倉連甑」・豊田造信女(調阿氣麻呂に併記)に外從五位下を授けている。

十六日に次侍従以上と前殿で宴会を行っている。それ以外の者には朝堂で酒食を賜っている。二十日に使者を派遣して渤海使の史都蒙等に以下のように質問させている・・・去る寶龜四年、烏須弗が帰るに際して、太政官は[渤海から入朝する使者は、今後は昔の例に依って、先ず大宰府に向かうようにせよ。「北路」経由で来日してはいけない]という処分を下した。ところが今回はこの約束と違っている。これはどういう事情によるのか・・・。

これに対して以下のように答えている・・・烏須弗等が帰った時、確かにその旨を承った。そこで都蒙等は我が國の南海府吐号浦から出帆して、西方に向かい對馬嶋の「竹室之津」を目指した。しかし、海上で暴風に遭い、この禁じられた地域に着いてしまった。約束を破った罪は、少しも避けようとは思わない・・・。

二十一日に飯高宿祢諸高(笠目)は、年齢が八十歳に達している。勅されて、絁八十匹・絹糸八十絇・調の麻布八十端・庸の麻布八十段を賜っている。

二十五日に大中臣朝臣子老を神祗伯、「藤原朝臣大繼」を少納言、池田朝臣眞枚(足繼に併記)を員外少納言、主計頭の池原公禾守を兼務で大外記、大伴宿祢益立を權左中弁、菅生王を中務大輔、文室眞人忍坂麻呂(文屋眞人。水通に併記)を少輔、賀茂朝臣麻呂(人麻呂)を員外少輔、文室眞人高嶋(高嶋王)を内匠頭、「田口朝臣祖人」を内礼正、藤原朝臣眞葛()を大學頭、膳臣大丘を博士、美和眞人土生(壬生王)を散位頭、宍人朝臣繼麻呂(倭麻呂に併記)を主税頭、藤原朝臣菅繼を兵部少輔、「下毛野朝臣船足」を鼓吹正、淡海眞人三船を大判事、大伴宿祢不破麻呂を大藏大輔、紀朝臣犬養(馬主に併記)を少輔、陽侯忌寸人麻呂(陽侯史)を東市正、石川朝臣垣守を右京大夫、多治比眞人歳主を攝津亮、藤原朝臣鷲取()を造宮大輔、文室眞人子老(於保に併記)を少輔、大野朝臣石主を和泉守、石川朝臣人麻呂を伊豆守、藤原朝臣黒麻呂()を上総守、「大伴宿祢眞綱」を陸奥介、文室眞人於保(長谷眞人)を若狹守、内藥佑の吉田連斐太麻呂を兼務で伯耆介、大原眞人美氣を美作介、堅部使主人主(田邊公吉女に併記)を備前介、橘戸高志麻呂(橘部越麻呂)を備後介、多治比眞人黒麻呂を周防守、大中臣朝臣宿奈麻呂(子老に併記)を阿波守、近衛少將の紀朝臣船守を兼務で土左守、藤原朝臣仲繼(藥子に併記)を大宰少貳に任じている。

二十六日に紀朝臣眞乙を左兵衛員外佐に任じている。二十七日に美和眞人土生(壬生王)を員外左少弁、「當麻眞人枚人」を右大舍人助、船井王を縫殿頭、安倍朝臣常嶋を治部少輔、石城王()を造酒正、百濟王玄鏡(①-)を石見守に任じている。 

<文室眞人久賀麻呂-八嶋>
● 文室眞人久賀麻呂

恒例の元日叙位で多くの新人が登場している。その一人に文室眞人大市(大市王、長皇子の子)の係累が含まれていた。それにしても実に多くの子に恵まれたようである。

Wikipediaによると、生母不詳の子が多く、大概が異母兄弟姉妹だったのであろう。末っ子の「八嶋」は、未だ登場されていないが、併せて出自場所を求めることにする。

久賀麻呂久賀=[く]の字形に曲がって延びる山稜が谷間を押し開いているところと解釈される。図に示した場所の地形を表していることが解る。「布登吉」と「於保」の間に収まっている。

文室眞人八嶋は、寶龜九(778)年正月に従五位下を叙爵されて登場する。兄より一年遅れである。八嶋=山稜が大きく岐れた谷間に鳥の形の地があるところと解釈される。少し南に寄った場所が出自と思われる。「八嶋」は、古事記の八嶋士奴美神に用いられた文字列である。

<田口朝臣祖人-大立-清麻呂>
● 田口朝臣祖人

「田口朝臣」一族も途切れることなく、新人を登用されている。紛れもなく蘇我臣を祖とする系列である。上記で従五位上に叙爵されている大戸は、その奔流に属する人物だったように思われる。

今回登場の祖人に含まれる祖(祖)=示+且=高台が積み重ねられている様であり、紛うことなく上流域、即ち山側の地域を出自としていたものと思われる。

その地形を図に示した場所に見出せる。既出の三田次の北側に位置する場所である。「三田次」は初見で外従五位下であったが、聖武天皇紀における叱咤激励の外位であったと推測される。後に二度ばかり任官の記述があって登場されるが、その後の消息は不明である。

後(桓武天皇紀)に田口朝臣大立田口朝臣清麻呂が従五位下を叙爵されて登場する。大立=平らな頂の山稜が並んで延びているところ淸=水辺で四角く取り囲まれた様と解釈すると、図に示した場所が各々の出自と推定される。「大立」はその場限り、「清麻呂」はその後京官に任官されたと記載されているが、以後の消息は不明である。

<車持朝臣諸成>
● 車持朝臣諸成

「車持朝臣」一族は、「上毛野朝臣」と同じく、古事記の豐木入日子命が祖となった「上毛野君」が遠祖であることが知られている(例えばこちら参照)。

いつの時か不明であるが、「車持」の一派が、その出自の地形に、より忠実な名称を名乗るようになったのであろう(右図参照)。

それぞれの系列が”上毛野”の地を分け合って居処していたと思われる。直近では淳仁天皇に塩清が登場していたが、決して頻繁な登用はなかったようである。

名前に含まれる頻出の諸成=耕地が交差するように広がっている地で平らに整えられたところと解釈すると、図に示した辺りが、この人物の出自と推定される。この後、續紀に登場されることはないようである。

<當麻眞人枚人-弟麻呂-千嶋>
● 當麻眞人枚人

「當麻眞人」一族も連綿と人材輩出である。直近では得足・永嗣等が昇位や任官の記述が見受けられる。彼等は當麻の地の東端に位置する場所を出自としていたと推定した。

おそらく今回の人物も、その地域を居処としていたのではなかろうか。現地名は田川郡福智町上野辺りである。

名前の枚人は頻出の文字列であり、枚人=山稜が岐れて延びた端に[人]の形の地があるところと解釈すると、図に示した場所、「得足」の西側に、その地形を見出せる。この後に一度登場されるが、その後の消息は不明である。

少し後に當麻眞人弟麻呂當麻眞人千嶋が従五位下を叙爵されて登場する。弟=ギザギザとしている様であり、「枚人」の北側にその地形を見出せる。その後にこの人物に関する記述はなく、同じく消息不明である。

千嶋=山稜が[鳥]の形をしている前で谷間が束ねられているところと解釈すると、図に示した場所、「枚人」の西側が出自場所と推定される。同様にその後に登場されることはないようである。

<高橋朝臣祖麻呂-船麻呂-三坂>
● 高橋朝臣祖麻呂

古豪の「高橋朝臣」(元は膳臣)も途切れることなくであるが、廣人が淳仁天皇紀に従五位下を叙爵されて登場して以来となる。

一時のような多くの人材が登用されている様子ではなくなって来ている。右図に過去登場人物の出自場所(一部を除く)を示したが、既に”膳”の谷間を埋め尽くした感がある。

今回の祖麻呂に含まれる祖(祖)=示+且=高台が積み重なっている様であり、山稜が段々になっている地形を表していると思われる。既出の三綱の出自場所は三段になった地形であり、その周辺を探すと、図に示した場所が見出せる。

内膳奉膳職に任官されたりしているが、後に伊豫國介の時に白雀献上の功績で従五位上を授けられている。最終正五位下・大膳大夫だったようである。

後(桓武天皇紀)に高橋朝臣船麻呂が従五位下を叙爵されて登場する。「船」の形の山陵の麓が出自と思われるが、国土地理院航空写真1961~9年を参照して、その地形を図に示した場所に確認できる。その後の消息は不詳のようである。

続いて、高橋朝臣三坂が従五位下を叙爵されて登場する。三坂=山麓に山稜が三つ並んでいるところと解釈される。図に示した場所が出自と推定される。その後に別名御坂で登場する。頻出の御=束ねる様であって、三つの山稜が寄り集まっている地形を表している。

<大伴宿祢眞綱-蓑麻呂>
● 大伴宿祢眞綱

流石に「大伴宿祢」一族の新人登用を外すわけには行かず、引き続いて多くの人物名が記載されている。光仁天皇紀に入っても村上が従五位下を叙爵されて登場している。

直近では、”大伴”の谷間から出て、東へとその領域が広がっている様子が伺える。現在は山口ダムとなっている地域であり、国土地理院航空写真を参照して、出自場所を特定して来た。

今回の人物名が眞綱であり、間違いなく山稜の形がすっきりとしている場所と推測される。眞綱=筋張った山稜の端が寄り集まって窪んでいるところと解釈すると、図に示した辺りが出自と推定される。

この後、叙位の記述は見られないが、陸奥鎮守副将軍に任じられているようである。流石に「大伴一族」の面目躍如と言ったところであろうか。しかしながら、大変な苦戦を強いられたようである。

後(桓武天皇紀)に大伴宿祢蓑麻呂が従五位下を叙爵されて登場する。蓑=[蓑]のような形をした山稜の麓にある様と解釈すると、図に示した場所が出自と推定される。その後に幾度かの任官が記載されている。

<中臣丸朝臣馬主>
<中臣丸連淨兄>
● 中臣丸朝臣馬主

「中臣丸朝臣」は、称徳天皇紀に中臣丸連張弓等が賜った氏姓であった。この時、彼等は左京人と記載されていて、既に本貫の地を離れていたようである。

今回登場の人物である「馬主」も彼等の一員であったと思われ、本貫の”中臣”の地に基づく名称だったのであろう。系譜不詳のようであり、親族ではあるが、「張弓」の子ではなかったと推測される。

馬主=[馬]の形の山稜の先が真っ直ぐに延びているところと解釈すると、「張弓」の南隣が出自と推定される。図に示したように縣造一族…その一派は飯高君(後に宿祢)を賜姓されている…が蔓延っていた地域では、「中臣丸宿祢」の居場所を見出すことが叶わなかったのであろう。左京への転出は、至極当然の結果だったように思われる。

後(桓武天皇紀)に中臣丸連淨兄が罪を犯して発覚し、自死をしたと記載されている。そんなことで歴史に名を残したようである。淨兄=水辺で両腕のような山稜が取り囲んでいる谷間の奥が広がっているところと解釈すると、図に示した場所が出自と推定される。

<忍海倉連甑・道田連桑田>
● 忍海倉連甑

「忍海倉連」は、記紀・續紀を通じて初見であろう。「忍海」は、大和國忍海郡の地と推測される。かつては忍海造の一族が蔓延っていた地であり、直近では道田連の居処として推定したところである。

「忍海倉連」の倉=四角く取り囲まれている様と解釈したが、その地形を図に示した場所に見出せる。谷間の様相を表現したものであろう。

名前の「甑」=「曾+瓦」と分解される。それをそのまま地形象形表記として用いているものと思われる。甑=[瓦]のような形の地が積み重なっている様と読み解ける。その地形を「倉」の上に確認することができる。

現在は些か地形変形が見られるが、基本の地形を伺うことが可能と思われる。忍海近辺の住人であり、また、興味ある名称なのであるが、續紀にこの後登場されることはないようである。

後(桓武天皇紀)に道田連桑田が外従五位下を叙爵されて登場する。桑田=山稜の端が三つに岐れた麓に田が広がっているところと解釈すると、図に示した場所が出自と推定される。「甑」の谷間の出口辺りの場所である。この人物もその場限りで、後に記載されることはないようである。

<對馬嶋竹室之津>
對馬嶋竹室之津

渤海國の使者が自國の「南海府吐号浦」(現在の朝鮮民主主義人民共和国咸鏡北道鏡城郡にあったとされている)から朝鮮半島の東岸を南下して向かった場所と述べている。

上記本文は、極めて曖昧な表現を行っているが、太政官の指摘に従って、初めてこの行程を採用したのではなく、定型だったと思われる。

日本に着岸する場所は、通説では現在の秋田県能代辺りに向かうのだから、朝鮮半島の南下、ましてや対馬経由の行程は、あり得ないことになる。

即ち、朝鮮半島と対馬との往来は、「津嶋」の由来と思われる現在の浅茅湾と理解して来たが、「竹室之津」も重要な拠点の一つだったと推測される。書紀の天智天皇紀に設置された金田城は、浅茅湾に侵入する船を見張るためであり、言い換えると”倭國”の支配する領域だったことになる。

その地を避けた行程上に「竹室之津」が存在していたのであろう。「竹室」は、勿論地形象形表記として、その場所を求めてみよう。竹室=谷間の奥に至るまで竹のような形をしているところと解釈すると、図に示した場所が見出せる。その谷間の出口辺りにあった津を表していると思われる。

現地名は対馬市厳原町豆酘瀬・佐須瀬となっている。もう少し南側が同町豆酘で、対馬の南西端に位置している。古代より交通の要所だったようである(例えばこちら参照)。ところで「豆酘(ツツ)」と読むとか、由来は様々であるが、”筒”とすると「竹室」の地形であろう。

上記本文で大宰府ではなく、直接出羽國に向かう航路を北路と表現している。確かに北側を走行することになって、そのまま読み飛ばしてしまいそうだが、「七道」に含まれる”東西南北”は、方位であると同時に各道を差別化する地点の地形を表しているのである。

「北陸道」とは?…「最も北方に至る」と同時に「陸奥に背を向けて通る路」のことである。即ち、北路=背を向けて通過する路と解読される。九州島の遥か北側、日本海の真ん中を通る路ではなく、大宰府(勿論、現在の北九州市小倉北区足原)に背を向けて、関門海峡を通る路のことを述べているのである。

<藤原朝臣大繼-繼彦-法壹>
● 藤原朝臣大繼

京家濱成(濱足)の子と知られているが、従五位下の叙爵の記事はなく、いきなりの少納言に任命である。如何にも別格の扱いのようなのだが、単に叙位の記録が欠落していたのかもしれない。

大繼=平らな頂の山稜が連なっているところと解釈すると、図に示した辺りが出自と推定される。この後、續紀中に幾度か任官の記事があるが、昇位はされなかったようである。

少し後に兄の藤原朝臣繼彦が従五位下を叙爵されて登場する。繼彦=山麓が交差するようになった地に連なるところと解釈すると、図に示した場所が出自と推定される。地形が平坦で名付けに苦労されたのではなかろうか。「麻呂」の真ん前に当たる場所である。なかなかに優秀な人物だったようで、最終従三位・刑部卿を務められたとのことである。

「濱成」の多くの子等が伝えられているが、上記の二人以外では藤原朝臣法壹が登場する。氷上眞人川繼(河繼)の室となり、事件に連坐して遠流されている。法壹=水辺で四角く窪んだ谷間を蓋をするように山稜が延びているところと解釈される。図に示した場所が出自と推定される。

二月戊子。遣唐使拜天神地祇於春日山下。去年風波不調。不得渡海。使人亦復頻以相替。至是副使小野朝臣石根重脩祭祀也。庚寅。授正六位上縣犬養宿祢庸子從五位下。丙申。從五位上田中王爲右大舍人頭。從五位上伊刀王爲諸陵頭。庚子。授正六位上百濟王仙宗從五位下。壬寅。召渤海使史都蒙等卅人入朝。時都蒙言曰。都蒙等一百六十餘人。遠賀皇祚。航海來朝。忽被風漂。致死一百廿。幸得存活。纔卌六人。既是險浪之下。万死一生。自非聖朝至徳。何以獨得存生。况復殊蒙進入。將拜天闕。天下幸民。何處亦有。然死餘都蒙等卌餘人心同骨完。期共苦樂。今承。十六人別被處置。分留海岸。譬猶割一身而分背。失四體而匍匐。仰望。宸輝曲照。聽同入朝。許之。癸夘。讃岐國飢。賑給之。甲辰。授无位大野朝臣乎婆婆從五位下。庚戌。遣使祭疫神於五畿内。壬子晦。日有蝕之。

二月六日に遣唐使が「春日山」(春日烽が設けられた山)の麓で天地の神を礼拝している。去年は風波が思わしくなく、渡海することができなかったし、使者の顔ぶれも、また頻りに変更になった。ここに至って、副使の小野朝臣石根が重ねて祭祀の執行をしたのである。八日に縣犬養宿祢庸子(酒女に併記)に従五位下を授けている。十四日に田中王()を右大舎人頭、伊刀王(道守王に併記)を諸陵頭に任じている。十八日に百濟王仙宗(②-)に従五位下を授けている。

二十日に渤海使の史都蒙等三十人を召して朝廷に参内させている。この時、「都蒙」は以下のように言上している・・・「都蒙」等百六十余人は、ご即位をお祝いする為に遠方より航海して来朝した。ところが俄かの暴風のために漂流し、死亡した者百二十人、幸いにして命を保ちえた者は、僅かに四十六人である。檄浪の下で万死に一生を得たようである。聖なる朝廷の限りない德がなければ、私どもだけでどうして生きながらえることができたであろうか。そればかりではなく、特別に都へ進み入ることを許され、宮廷を拝そうとしている。このような幸せ者が天下のどのような場所にいるであろうか。---≪続≫---

しかしながら、生き残った「都蒙」等四十人余りは、一心同体で苦楽をともにしようと期しているのに、今承るところによると十六人だけを分けて別の処置を受け、「海岸」<難破した出雲國の海岸、例えばこちら。現地名:関門海峡に面する北九州市門司区大里>に留まるようにということである。これは例えるならば、一つの身体を割いて背中を分断され、手足を失って這い進むようなものである。天子の輝きが隈なく照らし、共に揃って朝廷に参内することを許されるよう、仰ぎ見て希望する・・・。これを許可している。

二十一日に讃岐國に飢饉が起こったので、物を恵み与えている。二十二日に「大野朝臣乎婆婆」に従五位下を授けている。二十八日に使者を派遣して、畿内五ヶ國で疫神(疫病神)を祭らせている。三十日に日蝕が起こっている。

<大野朝臣乎婆婆・大網公廣道>
● 大野朝臣乎婆婆

上記で(石本に併記)が従五位上を叙爵されたと記載されていた。系譜が知られている「石本」の近隣が出自と推定した。

今回登場の人物も、「姉」と同様に女官として登用されたのではなかろうか。女性に古事記風の名前が多く見られるが、地形象形表記として出自場所を求めるには、真に都良し、である。

既出の文字である「乎」=「口を開いて息を吹き出す様」、及び「婆」=「氵+波+女」=「嫋やかに曲がる山稜の端が水辺で覆い被さるように延び出ている様」と解釈した。二つの「婆」は、並んでいる様を表現していると思われる。

纏めると乎婆婆=口を開いて息を吹き出すような地に[婆]が二つ並んでいるところと読み解ける。その地形を図に示した場所に見出せる。「乎婆」とする写本もあるそうなのだが、二つの「婆」は意味ある表記なのである。後に登場されることはないようである。

少し後に大網公廣道送高麗客使に任じられている。「大網公」は初見の氏姓であり、少し調べると上毛野朝臣と同族、即ち古事記の豐木入日子命を遠祖とする一族であったと分かった。大網=平らな頂の山稜が覆われて見えなくなっているところと解釈される。図に示したように山稜の端が大河に挟まれている場所と推定される。廣道=首の付け根のような窪んだ地が広がっているところとして、出自の場所を求めることができる。

三月癸丑朔。置酒田村舊宮。賜祿有差。授外從五位下内藏忌寸全成從五位下。乙夘。宴次侍從已上於内嶋院。令文人賦曲水。賜祿有差。壬戌。紀伊國名草郡人直乙麻呂等廿八人賜姓紀神直。直諸弟等廿三人紀名草直。直秋人等百九人紀忌垣直。戊辰。幸大納言藤原朝臣魚名曹司。賜從官物有差。授其男從六位上藤原朝臣末茂從五位下。百濟箜篌師正六位上難金信外從五位下。辛未。大祓。爲宮中頻有妖恠也。癸酉。屈僧六百口。沙弥一百口。轉讀大般若經於宮中。乙亥。外從五位下志我閇造東人賜姓連。辛巳。從四位下藤原朝臣小黒麻呂爲出雲守。是月。陸奥夷俘來降者。相望於道。

三月一日に田村旧宮(元は田村第)で酒盛りをし、それぞれに禄を賜っている。内藏忌寸全成(黒人に併記)に内位の従五位下を授けている。三日、次侍従以上と内嶋院(内裏にある庭園を備えた建屋)で宴会を行い、文人たちに曲水の詩を作らせている。それぞれに禄を賜っている。十日に紀伊國名草郡の人である「直乙麻呂」等二十八人に「紀神直」、「直諸弟」等二十三人には「紀名草直」、「直秋人」等百九人には「紀忌垣直」の氏姓を与えている。

十六日に大納言の藤原朝臣魚名(鳥養に併記)の曹司に行幸され、これに従った官人それぞれに物を賜っている。子息の藤原朝臣末茂()に従五位下、百濟の箜篌師<琴や竪琴のような弦楽器奏者・指導者。「箜」は原文では[竹+軍]であるが、フォントが存在しないので代用>難金信(許平等に併記)に外従五位下を授けている。十九日に大祓を行っている。宮中で頻りに怪しいことが起きるためである。二十一日に僧六百人・沙弥百人を招いて、宮中で『大般若経』を転読させている。二十三日に「志我閇造東人」に連姓を与えている。二十九日に藤原朝臣小黒麻呂を出雲守に任じている。この月、陸奥の蝦夷が次から次と投降して来ている。

<直乙麻呂-諸弟-秋人>
● 直乙麻呂・直諸弟・直秋人

紀伊國名草郡の住人に賜姓したと記載されている。この地については、「紀直」一族が蔓延っていて、摩祖豊嶋が國造に任じられていた。

また、他の登場人物としては大伴櫟津連子人紀直國栖・榎木連千嶋が登場し、狭隘な土地にしては、頻繁に多くの人々が記載されて来ている。

一方で、激しく地形変形している地でもあり、国土地理院航空写真1961~9年を参照せざるを得ない有様でもある(今昔マップの地形図も併せて参照)。

頻出の乙麻呂の乙=[乙]の字形に曲がっている様から、図に示した場所がこの人物の出自と推定される。かつてはもう少し谷間が広がっていたと推測される。同様に諸弟=耕地が交差するような地がギザギザとしているところと解釈すると、「乙麻呂」の南西側の谷間を表していると思われる。

最後の人物も同様に秋人=谷間に山稜が[火]の形に延びているところと解釈すると図に示した場所が出自と思われる。「豊嶋」の北側に当たる場所となる。求められた三名の居処は、「紀直」一族の北側の谷奥であったと推定される。

賜姓については、「乙麻呂」の背後の山稜を「神(神)」と見做して紀神直、「諸弟」は郡名の「名草」の由来に基づいて紀名草直、「秋人」の谷間を取り囲む山稜「垣」が「忌」=「己+心」=「谷間の奥深く[己]字形に曲がっている様」から紀忌垣直と名付けられたと思われる。

ところで、本紀になって「直」の氏姓を持つ人物に壹岐嶋壹岐郡人の直玉主女が登場していた。「壹岐郡」も含めて記紀・續紀を通じて初見であり、「直」が表す地は、古事記の神世二世代:二柱神の豐雲野神及び三貴神の月讀神に挟まれた場所と推定した。

<志我閇造東人>
ここで登場の人々の”本貫”の場所が、壹岐嶋の「直」であることを暗示しているのではなかろうか。日前國縣神に関する記述も、そんな背景を伺わせているように思われる。

● 志我閇造東人

賜姓された「志我閇連」の氏姓の人物は、元正天皇紀に陰陽の大家として阿弥陀が登場していた。出自の場所を「春日」、現地名の田川郡赤村内田山の内と推定した。

山田御井宿祢と同祖で周の霊王の子孫と伝えられているようである。中国本土から、勿論百濟経由で、渡来した一族だったのであろう。頻出の東人=谷間を突き通すようなところであり、図に示した「閇」の谷間近隣を出自としていたと推定される。この後に登場されることはないようである。