天宗高紹天皇:光仁天皇(9)
寶龜三年(西暦772年)九月の記事からである。原文(青字)はこちらのサイトから入手、訓読続日本紀(今泉忠義著)、続日本紀4(直木考次郎他著)を参照。
九月庚辰。山背國言。木連理。乙酉。正三位中納言兼宮内卿右京大夫石川朝臣豊成薨。左大弁從三位石足之子也。遣使弔賻之。戊戌。尾張國飢。賑給之。」送渤海客使武生鳥守等解纜入海。忽遭暴風。漂著能登國。客主僅得免死。便於福良津安置。庚子。以從五位上大原眞人今城爲駿河守。從五位下紀朝臣犬養爲伊豆守。從五位下笠朝臣乙麻呂爲上総介。從五位下多治比眞人豊濱爲信濃守。雅樂頭從五位上當麻眞人得足爲兼播磨員外介。癸夘。遣從五位下藤原朝臣鷹取於東海道。正五位下佐伯宿祢國益於東山道。外從五位下日置造道形於北陸道。外從五位下内藏忌寸全成於山陰道。正五位下大伴宿祢潔足於山陽道。從五位上石上朝臣家成於南海道。分頭覆検。毎道判官一人。主典一人。但西海道者便委大宰府勘検。丙午。以正五位下佐伯宿祢眞守。爲兵部少輔。從四位下佐伯宿祢三野爲右京大夫。從五位上上毛野朝臣稻人爲亮。從四位下大伴宿祢駿河麻呂爲陸奥按察使。仍勅。今聞。汝駿河麻呂宿祢辞。年老身衰。不堪仕奉。然此國者。元來擇人。以授其任。駿河麻呂宿祢。唯稱朕心。是以任爲按察使。宜知之。即日授正四位下。
九月三日に山背國が「木連理」があると言上している。八日に中納言兼宮内卿・右京大夫の「石川朝臣豊成」が亡くなっている。左大弁・従三位の「石足」の子であった(こちら参照)。使者を遣わして物を贈って弔っている。二十一日に尾張國に飢饉が起こったので物を恵み与えている。また、送渤海客使の「武生連鳥守」等が纜を解いて海洋に出たが、忽ち暴風にあい能登國に漂着してしまった。大使は辛うじて死を免れることができ、「福良津」に安置している。
二十三日に大原眞人今城(今木)を駿河守、紀朝臣犬養(馬主に併記)を伊豆守、笠朝臣乙麻呂(不破麻呂に併記)を上総介、多治比眞人豊濱(乙安に併記)を信濃守、雅楽頭の當麻眞人得足を兼務で播磨員外介に任じている。二十六日に藤原朝臣鷹取(❶)を東海道、佐伯宿祢國益(美濃麻呂に併記)を東山道、日置造道形(通形)を北陸道、内藏忌寸全成(黒人に併記)を山陰道、大伴宿祢潔足(池主に併記)を山陽道、石上朝臣家成(宅嗣に併記)を南海道に派遣し、政情を詳細に調査させている。道ごとに判官一人、主典一人を付けている。但し、西海道については便宜上大宰府に委ねて調査させている。
二十九日に佐伯宿祢眞守を兵部少輔、佐伯宿祢三野(今毛人に併記)を右京大夫、上毛野朝臣稻人(馬長に併記)を亮に任じている。また、大伴宿祢駿河麻呂(三中に併記)を陸奥按察使に任じ、次のように勅されている・・・今聞くところによると、汝「駿河麻呂宿祢」は年老い身衰え、仕えることができないとして、辞退している。しかし、陸奥國には、元々有能な人材を択んでその任務を授けて来た。汝「駿河麻呂宿祢」は、ひとり朕の心に適っている。それ故に按察使に任命したのである。どうか理解するように・・・。即日、正四位下を授けている。
山背國:木連理
「木連理」は、既に多くの献上があった瑞祥である・・・としてしまっては、勿体ない・・・なんて幾度か述べたが、勿論、これも木連理=連なっている[木]のような山稜が区分けされているところの麓を開拓したのであろう。
聖武天皇紀に但馬國・安藝國・長門國が献上して以来久々の登場である。これも既に述べたことであるが、各地の開拓状況を表す記述であり、それぞれの未開の地の場所を示唆しているのである。
言い換えると、既に登場した人物がいない地であり、それが「木連理」の探索にとって重要な情報でもある。些か広範囲の山背國、まだまだ未開の地は多くあるのだが、「木連理」の地形を表す地を探索してみよう。
図に示した現地名の田川郡みやこ町犀川崎山にその地形を見出せる。相樂郡の東側、犀川(現今川)が流れる谷間である。その谷間の奥は鳥取連一族が住まっていたと推定した場所でもある。彼等が開拓したのかもしれない。
「武生連」は、称徳天皇紀に馬毘登國人・益人等が賜った氏姓と記載されている。前者は右京の人、後者は河内國古市郡の人とされ、「國人」の現住所が右京だったようである。
「馬毘登(史)」一族は、その他にも夷人・中成等が登場し、彼等は「厚見連」を賜姓されている。古市郡に広く蔓延った一族だったようである。勿論、”武生”も”厚見”も各々の居処の地形象形表記に基づくものである。
今回登場の鳥守=鳥の形の山稜の麓で両肘を張ったようなところと解釈すると、図に示した辺りが出自の人物と思われる。尚、送渤海客使として、渤海に赴き、およそ一年後に帰還したと記載されている。
それにしても、古市郡の大半は渡来系の人々によって開拓されたように思われる。彼等の東隣は樂浪河内及びその後裔の高丘連の居処である。有能な渡来人達を巧みに登用していたことが伺える。
漂着した場所が「能登國」と記載されている。それが分かれば、「福良津」の所在は容易に見出せるであろう。何となれば、「能登國」の海辺は、陸奥國栗原郡伊治城の北側の谷間が唯一と推定したからである。
と、「福良津」の所在地は求められるのであるが、渤海使一行の帰還ルートは?・・・前記の「渤海國使青綬大夫壹萬福等三百廿五人。駕船十七隻。着出羽國賊地野代湊。於常陸國安置供給」に基づいて、通説は、出羽國賊地野代湊(現在の秋田県能代市辺り)から来朝した時の船で還ろうとして遭難、漂着したのが能登半島羽咋辺り(現在の石川県羽咋市)と解釈されている。
雑駁に読めば、なるほど!、であるが、これは全く怪しい解釈であろう。上記本文では「送渤海客使武生鳥守等解纜入海。忽遭暴風。漂著能登國」と記載されている。纜を解いて海に出たら、すぐさま漂流したと告げているのである。”能代”と”羽咋”の直線距離でも460kmを越える。”羽咋”は、対馬海流の中を漂ったことも合わせて、漂着する場所とは到底思えない状況となろう。
續紀は、全く省略しているが、上記に引用した通り、渤海使一行は常陸國に滞在していたのであって、その地から野代湊(現在の北九州市門司港)へと向かったのである。おそらく常陸國から陸路で陸奥國に向かい、多賀(柵)辺りから船出したものと推測される。神話の解釈ではない。時空を考慮したものでなければ、解読したことにはならないであろう。
冬十月壬子。中務大輔從五位上検少納言信濃守菅生王。坐姦小家内親王除名。内親王削属籍。丁巳。大宰府言上。去年五月廿三日。豊後國速見郡歒見郷。山崩填澗。水爲不流。積十餘日。忽决漂沒百姓卌七人。被埋家卌三區。詔免其調庸。加之賑給。戊午。肥後國葦北郡家部嶋吉。八代郡高分部福那理。各献白龜。賜絁十疋。綿廿屯。布卅端。下野國言。管内百姓。逃入陸奥國者。彼國被官符。隨至隨附。因茲。姦僞之徒。爭避課役。前後逃入者惣八百七十人。國司禁之。終不能止。遣使令認。彼土近夷。民情險惡。遞相容隱。猶不肯出。於是官判。陸奥國司共下野國使。存意検括。還却本郷。辛酉。先是。天平寳字五年三月十日格。別聽諸國郡司少領已上嫡子出身。」又天平神護元年。禁斷除前墾外天下開田。至是並停此制。庚午。左大舍人從六位下石川朝臣長繼等。僞造外印行用。並依法配流。
十月五日に中務大輔兼少納言・信濃守の菅生王が「小家内親王」を犯した罪により除名されている。内親王は皇籍を削除されている。
十日に大宰府が以下のように言上している・・・去年五月二十三日に「豊後國速見郡歒見郷」では、山崩れで谷川が埋もれたため水が流れず、十余日を経て突然に決壊し、人民四十七人が押し流され、家屋四十三軒を埋没してしまった・・・。詔されて、調・庸を免除し、物を恵み与えている。
十一日に肥後國葦北郡の「家部嶋吉」、八代郡の「高分部福那理」が、それぞれ白龜を献上している。二人に絁十疋・真綿二十屯・麻布三十端を与えている。また下野國が以下のように言上している・・・管内の人民で陸奥國に逃亡した者に対しては、かの國は太政官符を得て、逃亡者が来ればそのまま戸籍に編入している。このため奸偽の徒は競って課役を避け、この間に逃げて行った者は、全部で八百七十人になる。國司はこれを禁止しているが、止めることができない。使者を遣わして確認させたが、かの地方は蝦夷に地に近く、民情も嫌悪で、お互いに逃亡者を隠匿して出さない・・・。そこで太政官が判定し、陸奥國司は下野國の使者と共に、注意して取調べを行い、元の郷里に還らせている。
十四日、これより先、天平寶字五(761)年三月十日の格では、特別に諸國の郡司の少領以上の嫡子は出仕することを許すとしている。また、天平神護元(765)年には、以前に開墾した田地を除く他は、新たに開発することを禁断している。ここに至って、この制度を共に廃止している。二十三日に左大舎人の石川朝臣長繼(眞永に併記)等が外印(太政官印)を偽造し、使用していた。いずれも法に依って配流している。
内親王でありながら出自不詳のようである。しかしながら、系譜が抹消されただけであって、間違いなく光仁天皇(白壁王)の皇女であったと思われる。
上記本文に記載されている通り、密通が発覚して皇籍剥奪されているのである。と言うことで、施基皇子の谷間(現地名北九州市門司区伊川)で小家=三角になった山稜の端で豚の口のようになっているところの地形を求めることにする。
すると図に示した場所にその地形を見出せる。春日王(天平十七[745]年卒去)の南側に当たる地である。光仁天皇皇女では酒人内親王(❶。母親は皇后井上内親王)が既に登場していたが、その西側、少々離れた場所となる。憶測するに、実父は「春日王」であって、「白壁王」が養女としていたのかもしれない。この後に登場されることもなく、委細は定かではない。
「豊後國」に関する記述は、極めて少なく、文武天皇紀に眞朱を献上したとの記載が記紀・續紀を通じての初見であろう。その後『廣嗣の乱』で登場するが、その地に関する具体的な情報は提供されないままであった。
速見郡の速見=長く延びる谷間(見)を束ねた(速)ようなところと解釈される。祓川上流の深い谷間が寄り集まった場所を表していることが解る。現在は伊良原ダム(平成30[2018]年完成)となっているが、当時の地形を推測することができるであろう。
歒見郷の「歒」=「帝+口+欠」と分解される。「帝」は、全てを束ねる様を意味する文字である。「欠」=「大きく口を開いている様」であり、地形象形的には「歒」=「多くの山稜を束ねた谷間の口が大きく開いている様」と読み解ける。「見」は上記と同じとすると、歒見=長く延びる谷間の前に多くの山稜を束ねた谷間の口が大きく開いているところと解釈される。図に示した場所がその地形であることが解る。
参考にしている資料などでは”歒”→”敵”に置換えられているが、同一の音を理由にしては、誤りとなろう。別名に朝見郷の表記があるとされている。「朝」=「山稜に挟まれて丸く小高くなった様」の地形を図に示した場所に見出せる。これは許容範囲の置換えのようである。今では湖底に沈んだ郷であった。
勿論、”白い亀”ではなく、白龜=龜(の頭部)のような形をした地がくっ付いて並んでいるところと解釈した。現在の福津市内殿・本木辺りと、その場所を推定した。
龜だらけの地であるが、更に「白龜」の献上があったと記載されている。広い葦北郡と雖も、もう残すところは僅か、その場所に「白龜」が棲息しているのであろうか?…図に示したように、些か崩れた姿になっているが、立派な龜が二匹頭をくっ付けた様子が見出せる。その間の谷間を開拓したことを告げているのである。
● 家部嶋吉 献上者名であり、この地の近隣を居処とする人物と思われる。家部=谷間に延びる山稜の端が豚の口のような形をしている近隣のところと解釈する。名前の嶋吉=山稜が鳥のような形をして蓋をするように延びているところと読み解ける。それらの地形を全て確認でき、出自の場所は、図に示した辺りと推定される。
「肥後國八代郡」は、上記の「葦北郡」の南側に接する郡として推定した。その地の情報として、正倉院があり、その北畔に「蝦蟇」が列を成していた、と記載されていた。勿論、「蝦蟇」も立派な地形象形表記であったが、瑞祥ではないようである。
今回初めて瑞祥らしき物が献上されたとのことである。ならば、早々に「白龜」探索を行ってみよう。どうやら、上記と同じく、少々崩れかかっているような感じではあるが・・・。
何とか、それらしき「白龜」を図に示した場所に見出せるようである。現地名では福津市薦野辺りである。城の山の西麓に広がる山稜の端を龜が並んでいる様子と見做したものと思われる。
● 高分部福那理 献上者の名前に含まれる高分部=皺が寄ったような地が切り分けられた近隣のところと読み解ける。福那理=酒樽のような高台がしなやかに曲がり延びた山稜の端が区分けされているところと解釈される。図に示した場所にこれ等の地形から成る場所を確認できる。居処はその高台の端であったと思われる。
十一月丁丑朔。以外從五位下堅部使主人主爲大外記。外從五位下日下部直安提麻呂爲内匠員外助。正五位下佐伯宿祢眞守爲兵部大輔兼造東大寺次官。從五位下安倍朝臣家麻呂爲少輔。從四位上藤原朝臣濱成爲大藏卿。從三位藤原朝臣繼繩爲宮内卿。從五位下清原王爲大膳亮。外從五位下葛井連河守爲木工助。從五位下大中臣朝臣繼麻呂爲攝津亮。從五位上粟田朝臣公足爲造西大寺員外次官。外從五位下輕間連鳥麻呂爲修理次官。從五位下粟田朝臣人成爲越後守。正五位上豊野眞人奄智爲出雲守。從五位下山口忌寸沙弥麻呂爲備後介。從五位下大原眞人清貞爲周防守。庚辰。以僧永嚴爲大律師。善榮爲中律師。乙酉。以從五位上安倍朝臣東人爲大藏大輔。從五位上掃守王爲宮内大輔。丙戌。詔曰。頃者風雨不調。頻年飢荒。欲救此禍。唯憑冥助。宜於天下諸國國分寺。毎年正月一七日之間。行吉祥悔過。以爲恒例。丁亥。去八月大風。産業損壞。率土百姓。被害者衆。詔免京畿七道田租。己丑。以酒人内親王爲伊勢齋。權居春日齋宮。癸巳。參議從四位上阿倍朝臣毛人卒。辛丑。罷筑紫營大津城監。丙午。无位安倍朝臣弥夫人。寳字八年告元凶伏誅。以慰衆情。因授從四位下。景雲三年坐縣犬養姉女配流。至是恩原罪降授從五位下。
十一月一日に堅部使主人主(田邊公吉女に併記)を大外記、日下部直安提麻呂(伊豆直乎美奈に併記)を内匠員外助、兵部大輔の佐伯宿祢眞守を兼務で造東大寺次官、安倍朝臣家麻呂を少輔、藤原朝臣濱成(濱足)を大藏卿、藤原朝臣繼繩(繩麻呂に併記)を宮内卿、清原王(長嶋王に併記)を大膳亮、葛井連河守(立足に併記)を木工助、大中臣朝臣繼麻呂(子老に併記)を攝津亮、粟田朝臣公足を造西大寺員外次官、輕間連鳥麻呂を修理次官、粟田朝臣人成(馬養に併記)を越後守、豊野眞人奄智(奄智王)を出雲守、山口忌寸沙弥麻呂(佐美麻呂。田主に併記)を備後介、大原眞人清貞(都良麻呂)を周防守に任じている。
四日に僧永嚴を大律師、善榮を中律師に任じている。九日に安倍朝臣東人(廣人に併記)を大藏大輔、掃守王を宮内大輔に任じている。十日に次のように詔されている・・・この頃風雨が不順で、連年飢饉が続いている。この災いを救おうと思うが、天下諸國の國分寺において、正月の七日間、吉祥天に対する悔過を行っているが、今後は恒例とせよ・・・。
十一日、去る八月に大風が吹き、生業が破壊され、全國の人民で被害を被った者が多かった。詔されて、京畿・七道諸國の田租を免除している。十三日に酒人内親王(❶)を伊勢齋に任じている。赴くに先立って仮に「春日齋宮」に住むこととしている。十七日に参議の阿倍朝臣毛人(粳虫に併記)が亡くなっている。
二十五日、筑紫の営大津城監を廃止している<大津城:椽城(別名基肄城)と推定>。三十日に安倍朝臣弥夫人は、天平寶字八(764)年、元凶(恵美押勝)が誅せられたことを告げ知らせ、人々の心情を安堵させた。それで従四位下を授けられたが、神護景雲三(769)年、縣犬養姉女(八重に併記)の配流事件(氷上志計志麻呂[氷上河繼]を即位させようとした巫蠱事件)に連座した。ここに至って罪を赦し、位を下して従五位下を授けている。
酒人内親王が伊勢齋に任じられたが、それに赴く前に”潔齋”した場所を「春日齋宮」と記載されている。思い起こされるのが、書紀の天武天皇紀に”潔齋”のために使用する齋宮於倉梯河上を造ったとあり、伊勢に赴任する前に身を浄める習わしだったのであろう。
多分、赴任者の居処周辺であったと推測される。この齋宮も施基皇子の谷間にあったのではなかろうか。
春日の文字列は、施基皇子の子の春日王に用いられている。その「春日」の地に齋宮が造られたのであろう。既に、「齋宮」は立派な地形象形表記である、と述べた(こちら、こちら参照)。勿論、この齋宮もそうであろう。
「齋」=「齊+示」と分解して、齋宮=同じような山稜が等しく揃っている高台にある宮と解釈される。その地形を図に示した場所、「春日」の地に見出すことができる。人里離れた谷間の奥の小高い地で”潔齋”されたのであろう。
十二月壬子。武藏國入間郡人矢田部黒麻呂。事父母至孝。生盡色養。死極哀毀。齋食十六月。終始不闕。免其戸徭。以旌孝行。又壹岐嶋壹岐郡人直玉主賣。年十五夫亡。自誓遂不改嫁者卅餘年。供承夫墓。一如平生。賜爵二級。并免田租以終其身。戊午。復厨眞人厨女属籍。己未。星隕如雨。」大宰府言。壹岐嶋掾從六位上上村主墨繩等。送年糧於對馬嶋。急遭逆風。船破人沒。所載之穀。隨復漂失。謹検天平寳字四年格。漂失之物。以部領使公廨填備。而墨繩等款云。漕送之期不違常例。但風波之災。非力能制。船破人沒足爲明證。府量所申。實難黙止。望請。自今以後。評定虚實徴免。許之。己巳。彗星見南方。屈僧一百口。設齋於楊梅宮。辛未。幸山背國水雄岡。授國司介正六位上大宅眞人眞木從五位下。乙亥。有狂馬。喫破的門土牛偶人。及弁官曹司南門限。
十二月六日に武藏國入間郡の人である「矢田部黒麻呂」は、父母に仕え大変孝行であった。生前はその心を察して孝養に勤め、死んだ時には哀しみで痩せ衰えた。正午を過ぎても食事をしないことが十六ヶ月に及び、終始欠けることがなかった。そこでその戸の雑徭を免除し、孝行を顕彰している。また、「壹岐嶋壹岐郡」の人である「直玉主女」は、十五歳で夫が死亡したが、自ら貞節を守る誓いを立て、再婚せずに三十余年を経て、夫の墓に仕える様子は、全く夫の在世中と変わらないでいる。そこで位階二級を与え、併せて終世田租を免除した。
十二日に厨眞人厨女(不破内親王)の属籍を復している。十三日に星が雨のように降っている。また、大宰府が以下のように言上している・・・壹岐嶋の掾の「上村主墨繩」等は、年間の食料を對馬嶋に輸送する時、急に逆風に遭い、船は難破し人々は波に呑まれ、従って載せていた米穀は漂失してしまった。そこで謹んで天平寶字四(760)年の格を調べると、漂失した物資は輸送責任者の公廨で補填することになっている。---≪続≫---
しかし「墨繩」等は[廻漕の時期は常例に反していない。ただ、風波の災難は人の力では制御することができないものである。船が難破し人々が溺死したのは、不正をはたらいていない明証になると思う]と申し立てている。大宰府として、彼等の申し所を検討すると、まことに黙止できないものがある。申し立ての虚実や代償物を徴収するか否かを評議して定めたい・・・。これを許している。
二十三日に彗星が南方に出現している。僧百人を招いて「楊梅宮」で齋會を設けている。二十五日に「山背國水雄岡」に行幸されている。國司介の大宅眞人眞木(國見眞人眞城。天平十九[747]年正月に改姓)に従五位下を授けている。二十九日に狂い馬があって、的門の土牛と人形と弁官の官舎の南門の敷居を喰い破っている。
古事記の无邪志國造の子孫であり、即ち天照大御神と速須佐之男命の宇氣比で誕生した神々の子孫と言うことになる。「物部」だから邇藝速日命の子孫としては、混乱するのみであろう。名称は地形象形表記である。
それは兎も角として、矢田部=矢のような山稜の麓の平らに整えられた地に近いところと読むと、図に示した「入間郡」の入口に当たる場所と推定される。黒麻呂の黑=囗+※+灬(炎)=谷間に炎のような山稜が延び出ている様であり、この人物の出自の場所を求めることができる。
「壹岐嶋壹岐郡」は記紀・續紀を通じて初見であろう。調べるともう一つは「石田郡」であり、二郡に郡建てされていたようである。「石田郡」は壹岐嶋南部、現在の石田町周辺を郡域としていたとのことである。
何度か述べたように、記紀・續紀は、壹岐嶋の”南部”を語ることはない。勿論、續紀に「石田郡」に関する記述は見られないのである。
壹岐嶋については、伊吉連一族以外の人物が登場するのは今回が初めてではなかろうか。天神族は、この壹岐郡から竺紫日向へと渡り、更に飛鳥の麓に移り住んだのである。抜け殻になったわけでもなかろう・・・と思いつつも、登場人物にお目に掛かることはなかった。
そんな思いを浮かべながら、名前が示す地形を求めてみよう・・・がしかし、些か広範囲である。果たして・・・直玉主女の「直玉主」を後ろから読むと、直玉主=直立するような山稜の上にある玉のような地の前で山稜が真っ直ぐに延びているところと読み解ける。”直”の地形は極めて希少であって、ほぼ一に特定することが可能であった。
この地に住まっていた人(神)は、神世二世代:二柱神の豐雲野神が鎮座した場所と推定した。”雲”と”直”の山稜が並ぶ、実に特徴的な地形である。そして、東側は伊邪那岐神に命じられた夜之食國、月讀神が治めた場所である。
● 上村主墨繩
「壹岐嶋掾」と記載されていることから、地元採用として出自の場所を求めることにする。勿論、「壹岐郡」の住人であろう。上記と同様に、広範囲の場所から見つかるか?…今回は、名前に含まれる「繩」が決め手となったようである。
墨繩=縄のような山稜の前に谷間に炎のような盛り上がった地が延びているところと読み解ける。極めて特徴的な地形を図に示した場所に見出せる。現在のタンス浦の近傍である。
既に何処かで述べたように、当時の壹岐嶋と對馬嶋間の往来において、壹岐嶋の玄関は、このタンス浦であったと推測した。古事記が大國主神の後裔を延々と記述している。その後裔達の名前を追跡すると、新羅に渡り、その後に壹岐嶋に舞い戻るという経過を辿ったと解読した。その戻った場所が図に示した若盡女神の居処なのである。
その後に幾代かの後裔達が続き、現地名の勝本町坂本触辺りに広がったと伝えている。壹岐郡の西側は大國主神の末裔が蔓延っていたのである。新羅⇔對馬嶋⇔壹岐嶋間の行程の一部を古事記らしく饒舌に記載したものであろう。おっと、上村主の上=盛り上がっている様であり、現在の本宮山の場所を表していると思われる。危うく失念するところであった。
「墨繩」の役目が對馬嶋への”漕送”と記載されている。タンス浦で育った彼としては、打って付けの役目だったであろう。事故責任、その後の判定が気に掛かるが・・・上記の直玉主女と同様に、今回は、別天神:二柱神の一人、天之常立神の鎮座した場所と推定した。歴史の表舞台から遠のいても、人々の生業は途切れることなく続いているのである。
少し後に上村主虫麻呂が外従五位下を叙爵されて登場する。頻出の虫(蟲)=山稜の端が三つに細かく岐れている様と解釈すると図に示した場所が出自と推定される。その後に幾度かの叙任が記載されている。
楊梅宮
初見の宮であり、これから暫くの間に数度登場する。それらの記述から、この宮の南側に池があったこと、太師押勝(藤原仲麻呂)の大邸宅があったことが分かる。即ち、田村第の北側に位置する場所に「楊梅宮」が建てられていたのである。
既に、この近辺に幾人かの登場人物があって、何度も目にした地形なのである。ただ、現在、と言っても国土地理院航空写真を参照すると、1960年代以前に池が造られていて、詳細な地形が不詳な場所でもあった。
「楊梅宮」の「楊」=「木+昜」と分解される。更に「昜」=「日+丂+彡」から成る文字であり、太陽が空高く上がる様を象形していると解説されている。幾度も登場している「湯」=「氵+昜」=「水が飛び跳ね上がる様」と同じように解釈される。
地形象形的には楊=山稜が見上げるように聳えている様と読み解ける。逆に表現すると山稜が垂直に垂れている様であり、柳の枝垂れる様に通じる。幾度か用いられた梅=木+每=山稜が母が子を抱くように延びている様であり、これらの地形を満たす場所、図に示した辺りに楊梅宮があったと推定される。
これも初見である。ずっと後になるが、「行幸水雄岡遊獵」と記載されているのでそれらしき地形のところかと思われる。
「獵」については、書紀の天智天皇紀に山背國で「獵於山科野」の記述があり、同じような場所だったのであろう。
水雄岡=川辺で鳥が羽を広げたような地が岡になっているところと解釈すると、「山科野」の東側に、そのものずばりの地形を見出すことができる。
行幸の目的は不詳であるが、「平城宮」から「水雄岡」への行程で、山背國を横断することになる。國情視察だった?・・・狩猟されるほどの体力は、年齢的になかったのかもしれない。