2024年1月21日日曜日

天宗高紹天皇:光仁天皇(10) 〔661〕

天宗高紹天皇:光仁天皇(10)


寶龜四(西暦773年)正月の記事からである。原文(青字)はこちらのサイトから入手、訓読続日本紀(今泉忠義著)、続日本紀4(直木考次郎他著)を参照。

四年春正月丁丑朔。御大極殿。受朝。文武百官。及陸奥出羽夷俘。各依儀拜賀。宴五位已上於内裏賜被。」授无位不破内親王本位四品。无位河内女王本位正三位。戊辰。授從五位上掃守王正五位下。己巳。授正五位上奈癸王從四位下。從五位下大中臣朝臣子老從五位上。癸未。勅曰。朕以寡薄忝承洪基。風化未洽。恒深納隍之懷。災祥屡臻。弥軫臨淵之念。今者初陽啓暦。和風扇物。天地施仁。動植仰澤。思順時令。式覃寛宥。宜可大赦天下。自寳龜四年正月七日昧爽已前大辟已下。罪無輕重。已發覺。未發覺。已結正。未結正。繋囚見徒。咸皆赦除。但八虐。強竊二盜。私鑄錢。常赦所不免者。不在赦限。是日。御重閤中院。授從五位上依智王正五位下。從五位下矢口王從五位上。從四位上藤原朝臣是公正四位下。正五位下紀朝臣廣庭從四位下。從五位下文室眞人高嶋。紀朝臣廣純。美和眞人土生。中臣朝臣常。當麻眞人永繼並從五位上。從六位上紀朝臣眞乙。從六位下藤原朝臣菅繼。正六位上石川朝臣在麻呂。多治比眞人林。田中朝臣廣根。安倍朝臣弟當並從五位下。正六位上志我戸造東人。上毛野公息麻呂並外從五位下。礼畢宴於五位已上。賜物有差。癸酉。授外從五位下上毛野坂本朝臣男嶋從五位下。戊寅。立中務卿四品諱爲皇太子。詔曰。明神大八洲所知〈須〉和根子天皇詔旨勅命〈乎〉親王諸王諸臣百官人等天下公民衆聞食〈止〉宣。隨法〈尓〉可有〈伎〉政〈止志弖〉山部親王立而皇太子〈止〉定賜〈布〉。故此之状悟〈天〉百官人等仕奉〈礼止〉詔天皇勅命〈乎〉衆聞食宣。大赦天下。但謀殺故殺。私鑄錢。強竊二盜。及常赦所不免者。並不在赦限。又一二人等〈仁〉冠位上賜。高年窮乏孝義人等養給〈久止〉勅天皇命〈乎〉衆聞食宣。庚辰。陸奥出羽蝦夷俘囚歸郷。叙位賜祿有差。辛夘。授出羽國人正六位上吉弥侯部大町外從五位下。以助軍粮也。 

正月一日に大極殿に出御されて朝賀を受けている。文武の百官、更に陸奥・出羽國の蝦夷は、それぞれ儀式に従って拝賀している。五位以上の官人を内裏に召して宴を催し、夜具を賜っている。また、無位の不破内親王に本位の四品、無位の河内女王に本位の正三位を授けている。(戊辰?)、掃守王に正五位下、(己巳?)、奈癸王(奈貴王。石津王に併記)に從四位下、大中臣朝臣子老に從五位上を授けている。

七日に次のように勅されている・・・朕は徳が薄く少ない身でありながら、忝くも皇位を継承し、教化がまだあまねく行き渡らず、常に人民に辛苦を強いているのではないかという懸念が深い。災厄の兆しはしばしば現われ、いよいよ危機に直面する思いが去来する。今日は、新年で暦日も改まり、和やかな春風が万物を吹き、天地は仁を施し、動植物は恩沢を仰いでいる。朕は時節の運行に応じた政令に従って、寛大な宥しを施そうと思う。---≪続≫---

そこで天下に大赦を行う。罪の軽重を問わず、既に発覚した罪、まだ発覚していない罪、既に罪名の定まったもの、まだ罪名の定まらないもの、捕らわれて現に囚人となっているものは、皆全て赦免する。但し、八虐、強盗・窃盗、贋金造りなど、通常の赦では免されない者は、赦免の範囲に入れない・・・。

この日、重層の中院に出御されて、依智王()に正五位下、矢口王()に從五位上、藤原朝臣是公(黒麻呂)に正四位下、紀朝臣廣庭(宇美に併記)に從四位下、文室眞人高嶋(高嶋王)紀朝臣廣純美和眞人土生(壬生王)中臣朝臣常(宅守に併記)當麻眞人永繼(永嗣。得足に併記)に從五位上、「紀朝臣眞乙・藤原朝臣菅繼・石川朝臣在麻呂」・多治比眞人林(乙安に併記)・「田中朝臣廣根」・安倍朝臣弟當(帶麻呂の子。詳細はこちら参照)に從五位下、志我戸造東人(小野社に併記)・「上毛野公息麻呂」に外從五位下を授けている。儀式が終わって、五位以上の官人と宴を催し、それぞれに物を賜っている。(癸酉?)、上毛野坂本朝臣男嶋(石上部男嶋、上毛野坂本公、更に朝臣賜姓)に内位の從五位下を授けている。

二日、中務卿の諱(山部親王、後の桓武天皇)を皇太子に立て、次のように詔されている(以下宣命体、一部漢文)・・・明つ神として大八洲を統治する和根子天皇の御言葉として仰せられる御言葉を、親王・諸王・諸臣・百官達、天下の公民達、皆承れと申し渡す。法に従って行わるべき政務として、山部親王を立てて皇太子と定めた。それ故にこの事情を理解して、百官達は仕えるように、と仰せになる天皇の御言葉を、皆承れと申し渡す。また、天下に大赦する。但し、謀議による殺人、故意による殺人、贋金造り、強盗・窃盗など、通常の罪では免されない者は、いずれも赦免の範囲に入れない。また、一人、二人の人達の冠位を上げる。高齢者。困窮している人達を養い、優遇する、と仰せになる天皇の御言葉を、皆承れと申し渡す・・・。

四日(?)、陸奥・出羽國の蝦夷と帰順した蝦夷が郷里に帰っている。それぞれに官位を授け、物を賜っている。十五日に出羽國の人である「吉弥侯部大町」に外従五位下を授けている。兵粮を援助したためである。

<紀朝臣眞乙-虫女>
● 紀朝臣眞乙

全く途切れることなく登場する「紀朝臣」一族であるが、この人物も系譜不詳である。名前を頼りに出自の場所を求めることになるが、なかなかに骨の折れる作業である。

既出の文字列である眞乙=[乙]の字形に曲がった地が寄り集まった窪んだところと読み解ける。その地形を図に示した場所に見出せる。

戸籍改訂の際に誤って奴婢にされてしまったのを、淳仁天皇紀に訴えがあって回復されたという記述があった。彼等の地は”木國”なのだが、續紀には國司・郡司任命の記載はなく、國としての正式に認知されていなく、戸籍の管理も杜撰だったかもしれない。

勿論、「木國・紀國・紀伊國」の関係上、あからさまに出来ない事情もある。いずれにせよ、垣間見せるだけで委細は闇の中である。通説の混乱は当然ながら、書紀・續紀の編者等も甚く頭を悩ましたことであろう。ところで、この人物は、この後数回登場されているようである(従五位上・上総守)。

少し後に紀朝臣虫女が従五位下を叙爵されて登場する。同様に系譜不詳であり、蟲=山稜の端が細かく三つに岐れている様の地形を探すと、「眞乙」の谷間の出口辺りに、その地形を見出せる。関連する情報も、この後に登場されることもなく、取り敢えずの出自場所としておこう。

<藤原朝臣菅繼>
● 藤原朝臣菅繼

調べると、この人物は式家の綱手の子であったことが分かった。この系列では初見の人物である。しかしながら、式家の地形は変形が大きく、殆ど詳細な出自の場所を求めることは叶わなかった。

前出の良繼の子達で人數・諸姉・宅美は、父親の近傍としたに止めた。早期に開拓されたこともあるが、そもそも標高差が少なく、極めて判別し辛い場所のように思われる(今昔マップ1922~6参照)。

そんな背景の中で、菅繼=管のような山稜が連なっているところと解釈すると、図に示した場所が出自と推定される。種繼の西側、何だか名前に用いられる”繼”の文字が多くなっているようである。後に従四位下・右京大夫で亡くなられたと記載されている。

<石川朝臣在麻呂-永成>
● 石川朝臣在麻呂

「石川朝臣」一族も途切れることを知らないようである。こちらは地形変形が少なく、その上起伏が明瞭な地であることから、些か判別が容易になるのだが、これだけ大人数では空地が残り少ない。

系譜不詳故に名前が表す地形を求めることになる。ところで、用いられている文字の「在」は、記紀・續紀を通じて初見であろう。

「在」=「才+土」から成る文字と解説されている。「才」は、「財」や「材」に含まれる文字要素である。それぞれの文字の「ザ(サ)イ」の音は、これに基づくものである。と言うことは、「才」=「断ち切る、遮る」の意味となり、地形象形的にも同様の解釈となる。

在=才+土=盛り上げられた地が遮られている様と解釈される。この地形を図に示した場所に見出せる。確かに谷間を遮る「財」よりも、より的確に地形を表現していることが解る。麻呂萬呂の地形も辛うじて確認できるようである。この人物は、従五位上・尾張介となるが、その後の消息は不明のようである。

後(桓武天皇紀)に石川朝臣永成が従五位下を叙爵されて登場する。永成=平らに整えられた高台が長く延びているところと解釈すると、図に示した場所が出自と推定される。その後、續紀中にもう一度登場している。

<田中朝臣廣根-難波麻呂-飯麻呂-吉備-淨人>
● 田中朝臣廣根

「田中朝臣」一族については、多太麻呂が孝謙天皇紀に登場して以来新人の名前は記載されることはなかった。久々であるが、相変わらず系譜は定かではないようである。

この後も幾人かの人物が登場されるようだが、詳細は後日として、廣根の名前が表す地形を求めることにする。

廣根=根のように延びる山稜が岐れて広がっているところと解釈する。すると図に示した多太麻呂の南側、少麻呂の西側にその地形を確認することができる。現在の香春岳西麓を沿って一族が広がって行った様子が伺える。

少し後に田中朝臣難波麻呂が従五位下を叙爵されて登場する。頻出の難波=川が直角に曲がる畔を表している。その場所を図に示した場所に見出せる。これ等の人物は、この場限りの登場であり、この後について、他の史書の情報も得られることはなく、不詳のようである。

更に後に田中朝臣飯麻呂が従五位下を叙爵されて登場する。頻出の飯=食+反(厂+又)=麓の山稜の傍らで谷間がなだらかに延びている様と解釈したが、図に示したように「難波麻呂」の南隣の場所を表していることが解る。この人物は、その後に筑後守に任じられたと記載されている。

桓武天皇紀に入って田中朝臣吉備が初見で正五位下を叙爵されて登場する。女官だったと思われるが、この叙位だけで以後の消息は不明のようである。見慣れた吉備=矢の入った箙に蓋が付いているようなところである。立派な地形が確認される。「少麻呂」に関わる人物だったかもしれない。

また続いて田中朝臣淨人が従五位下を叙爵されて登場する。淨人=水辺で両腕のような山稜で取り囲まれたような谷間があるところと解釈すると、図に示した、「吉備」の北側が出自と推定される。残り少ない續紀中にもう一度登場されるようである。

<上毛野公息麻呂-廣本>
● 上毛野公息麻呂

上毛野公(元は田邊史)一族も途切れずに登場している。過去の図が少々込み入っているので改めて右図を掲載した。

この一族の居処は、現地名の京都郡みやこ町勝山黒田、その地にある極めて特徴的な”鳥”の形をした、田原道沿いにある山稜に蔓延っていたと推定した。

名前に用いられている、幾度か登場の息=自(鼻)+心=息を出すように開いた谷間の奥にある様と解釈した。その地形を図に示した場所に見出せる。百枝の谷間の奥に当たる場所である。

麻呂萬呂と思われるが、地図上での確認は些か曖昧なようである。この後、外従五位下のままで周防守に任じられた記載されているが、その後の消息は不明のようである。

少し後に左京人田邊史廣本上毛野公の氏姓を賜っている。現住所の左京ではなく「田邊史」(後に上毛野公を賜姓)の居処、現地名では京都郡みやこ町勝山黒田が出自の人物と思われる。廣本=山稜の端が広がって途切れたところと解釈すると、図に示した「高額」の麓辺りと推定される。

<吉弥侯部大町>
● 吉弥侯部大町

「出羽國人」と記載されて登場する人物として初見である。また、称徳天皇紀に陸奥國の各郡の人々に賜姓している記述があった。その中に元の氏姓が「吉弥侯部」である人物が数名含まれていた(こちらこちら参照)。

帰順した蝦夷への賜姓であり、陸奥國の政情が大きく変化した時期であったことを伝えている。出羽國は陸奥國を分割して建てられた國であり、おそらく出羽國も、程度の差こそあれ、同様な状況にあったものと推測される。

既出の文字列である吉弥侯=蓋をするような山稜の傍らに矢のように延びた先が弓なりに広がっているところと解釈される。図に示した場所を表していることが解る。名前の大町=平らな頂の山稜の麓が平らな区切られた地になっているところと読み解くと、この人物の出自場所を求めることができる。「町」を名前に用いた初めてのようであり、「町」=「田+丁」と分解して解釈した。

兵粮を供出した様子であるが、彼等の近隣には多くの「驛家」が造られ(こちら参照)、おそらく多くの兵粮を要したのではなかろうか。「驛家」及び「大町」の居処が解けて、續紀が語らんとするところが浮かび上がって来たようである。

二月丙午朔。授命婦從五位下文室眞人布登吉正五位下。辛亥。下野國災。燒正倉十四宇。穀糒二万三千四百餘斛。壬子。志摩。尾張二國飢。並賑給之。癸丑。下総國猿嶋郡人從八位上日下部淨人賜姓安倍猿嶋臣。己未。先是播磨國言。餝摩郡草上驛。驛戸便田。今依官符捨四天王寺。以比郡田遥授驛戸。由是不能耕佃。受弊弥甚。至是勅班給驛戸。壬戌。地動。乙丑。渤海副使正四位下慕昌祿卒。遣使弔之。贈從三位。賻物如令。丙寅。復中臣朝臣鷹主本位從五位下。壬申。初造宮卿從三位高麗朝臣福信専知造作楊梅宮。至是宮成。授其男石麻呂從五位下。是日。天皇徙居楊梅宮。甲戌。復石川朝臣豊麻呂本位從五位下。」授從五位下紀朝臣眞媼從五位上。正六位上石川朝臣毛比從五位下。乙亥。地震。

二月一日に命婦の文室眞人布登吉(長谷眞人於保に併記)に正五位下を授けている。六日、下野國に火災が起こり、正倉十四棟と米穀・糒二万三千四百余石を焼失している。七日に志摩・尾張二國に飢饉が起こり、それぞれ物を恵み与えている。八日に「下総國猿嶋郡」の人である「日下部淨人」に「安倍猿嶋臣」の氏姓を賜っている(こちら参照)。

十四日に、これより先、播磨國が以下のように言上している・・・餝摩郡草上驛の驛戸が耕作していた便宜のよい田については、現在、太政官符によって四天王寺に施入され、はるかに隔れた隣郡の田を驛戸に授けられた。このため耕営することができず、弊害を被ることはいよいよ甚だしくなっている・・・ここに至って、勅されて、草上驛の元の田地が班給されている。

十七日に地震が起こっている。二十日、渤海國の副使の慕昌禄が亡くなっている。使を遣わして弔意を表し、從三位を贈位している。物を贈ることは令の通りであった。二十一日に中臣朝臣鷹主(伊加麻呂に併記)を本位の従五位下に復している。

二十七日、当初、造営卿の高麗朝臣福信を、楊梅宮の造営に専ら当たらせていたが、ここに至って宮が完成した。その子息の「石麻呂」に従五位下を授けている。この日、天皇は楊梅宮に居を移している。二十九日に石川朝臣豊麻呂(君成に併記)を本位の従五位下に復している。「紀朝臣眞媼」に従五位上、「石川朝臣毛比」に従五位下を授けてる。三十日に地震が起こっている。

<高麗朝臣石麻呂>
● 高麗朝臣石麻呂

「高麗朝臣」の氏姓は、高麗から渡来した人々の後裔が賜ったと記載されていた。福徳の孫の福信(背奈王、背奈公)が孝謙天皇紀に賜り、称徳天皇紀には「造宮卿從三位高麗朝臣福信爲兼武藏守」と活躍している。

極めて優秀な人物だったのであろう。その彼が、また一仕事を成し遂げ、その息子に爵位を授けたと記している。名前も、すっかり倭風に名付けられた入る。

石麻呂石=厂+囗=麓に区切らた小高いところがある様であり、図に示した辺りが出自だったのであろう。麻呂萬呂と解釈され、その地形も確認することができる。

この後に「高麗朝臣石麻呂」として、二度ばかり登場され、その後に高倉朝臣を賜姓されている。もうすっかり、倭風の氏姓となったようである。

<紀朝臣眞媼-全繼>
● 紀朝臣眞媼

「紀朝臣」一族であるが、系譜不詳であり、また、関連する情報も欠落している様子である。例によって、名前が表す地形から出自の場所を求めてみよう。

初見の文字である「媼」=「女+𥁕」と分解される。「𥁕」は「溫(温)」=「氵+𥁕」に含まれる文字要素である。更に「𥁕」=「囚+皿」に分解される。

地形象形的には「𥁕」=「平らな地が閉じ込められたような様」と解釈される。「氵」ではなく「女」との組合せ故に「媼」=「閉じ込められたような谷間が平らで嫋やかに曲がっている様」と読み解ける。

纏めると眞媼=平らで嫋やかに曲がっている閉じ込められたような谷間が寄り集まっている窪んだところと解釈される。その地形を探すと、元明天皇紀に紀朝臣音那が登場していた。音那=閉じ込められたような谷間がしなやかに曲がって延びているところと解釈した。その谷間の上流域に見出すことができる。

書紀の天武天皇紀に登場した紀臣大音も、この谷間を出自とし、「音那」と「眞媼」の間と推定した。現在の豊前市大村にある鈴木谷と名付けられている谷間の特徴を捉えて「音・媼」で表現したのであろう。

<石川朝臣毛比・石川淨足>
後(桓武天皇紀)に紀朝臣全繼が従五位下を叙爵されて登場する。全繼=谷間にすっぽりと嵌った玉のような地が連なっているところと解釈すると、図に示した場所が出自と推定される。

● 石川朝臣毛比

この女孺は、この後に幾度か登場され、最終命婦・従四位下にまで昇進されている。おそらく「石川朝臣」一族の女性としては最も高位に就かれた最後の人物だったように思われる。延暦二(783)年八月に亡くなられたとのことである。

「毛比」という古事記風の名前であり、参考としている資料でも訓されておらず、この時代になっても地形象形表記による命名を行っていた端的な例と思われる。毛比=鱗のような地がくっ付いて並んでいるところと解釈すると、図に示した辺りが見出せる。東人・加美の谷間の出口に当たる場所である。

後の『寶龜の乱』と言われる事件に陸奥國の掾である石川淨足が登場する。その場限りであり、詳細は不明であるが「石川朝臣」一族には違いないであろう。淨足=両腕で取り囲むように延びた山稜の麓で谷間が足を開いたようになっているところと解釈すると、図に示した場所が出自と思われる。「加美」の谷間の奥に当たるところである。

三月庚辰。勅。宮人。職事季祿者。高官卑位依官。高位卑官依位。但散事五位已上者給正六位官祿。」近江。飛騨。出羽三國大風人飢。並賑給之。甲申。復川邊女王本位從五位下。戊子。奉黒毛馬於丹生川上神。旱也。己丑。天下穀價騰貴。百姓飢急。雖加賑恤。猶未存濟。於是官議奏曰。常平之義。古之善政。養民救急。莫尚於茲。望請。准國大小。以正税穀。據賎時價。糶与貧民。所得價物全納國庫。至於秋時。賣成穎稻。國郡司及殷有百姓。並不得賈。如有違者。不論蔭贖。科違勅罪。如百姓之間。准賎時價。出糶私稻。滿一万束者。不論有位白丁。叙位一階。毎加五千束。進一階叙。但五位已上不在此限。奏可。乃遣使於七道諸國。各糶當國穀穎。兼賑飢民。」復无位飛鳥田女王本位從四位下。壬辰。賑給左右京飢人。」參河國大風。民飢。賑給之。

三月五日に次のように勅されている・・・宮人(女官)で定まった職務を持つ者の季禄については、官職が位階に比して高い場合は官職に従い、位階が官職に比して高い場合には位階の従え。但し、定まった職務のない者でも五位以上の者は、正六位相当の官職の季禄を与えよ・・・。また、近江・飛騨・出羽の三國で大風が吹いて人民が飢え、それぞれ物を恵み与えている。

九日に川邊女王を本位の従五位下に復している。十三日に黒毛の馬を丹生川上神(芳野水分峰神)に奉納している。日照りのためである。

十四日に天下の米穀の価格が騰貴し、人民の飢饉が深刻となっている。物を恵み与えたけれども、まだ充分救うことができていない。そこで太政官が審議上奏して、以下のように述べている・・・米価を調節するという考えは古代の善政である。人民を養い飢饉から救うには、これより優れた方策はない。國の規模の大小に準じて正税の米穀を貯え置き、値が安い時の米価によって貧しい人々に売り与え、得た代価の物資は全て國の倉庫に納入して置き、秋になればそれを売って穎稻(脱穀する前の刈り取った稲)に換える。國司・郡司と富裕な人民にはいずれも買わせない。もし違反する者があれば、蔭や贖などの特典を考慮することなく、違勅の罪を科す。もし人民の間にあって、値が安い時の価格で私稲を売り、それが一万束以上になる者には、有位者、白丁を問わず、位一階を与え、五千束増加する毎に、更に一階を進め授ける。但し、五位以上の官人は、この限りではない・・・。

この上奏は許可され、そこで使者を七道の諸國に遣わし、それぞれの國の米穀や を売り出させ、併せて飢えている人民に物を恵み与えている。飛鳥田女王を本位の従四位下に復している。十七日に左右京の飢えた人民に物を恵み与えている。參河國に大風が吹き、人民が飢えたので物を恵み与えている。

夏四月癸丑。捨山背國國分二寺便田各廿町。壬戌。勅曰。朕君臨四海。子育兆民。崇徳忘飡。恤刑廢寝。而徳化未洽。災異屡臻。興言念此。自顧多慙。設法雖期無刑。觀辜猶有垂泣。宜因生長之時式弘寛宥之澤。可大赦天下。自寳龜四年四月十七日昧爽以前大辟罪已下罪。無輕重。已發覺。未發覺。已結正。未結正。繋囚見徒。常赦所不免者。咸赦除之。寳字元八兩度逆黨遠近配流。亦宜放還。但其八虐及強竊二盜不在赦例。普告遐邇知朕意焉。丁夘。奉黒毛馬於丹生川上神。旱也。」復菅生王本位從五位上。

四月八日に山背國の國分二寺に、便宜の良い地にある田をそれぞれ二十町喜捨している。十七日に次のように勅されている・・・朕は天下に君主として臨み、人民を子として育んでいる。徳を尊ぶのあまり食事を忘れ、刑の執行を憐れむあまり寝ることもできない。しかし、徳化はまだあまねく行き渡らず、災異はしばしば発生している。ここに、この事を考えてみると、自ら反省して恥じ入ることが多い。法律を制定するのは、刑罰をなくすことを期するものであるが、現実に罪科に処せられている人を見ると、やはり涙が流れる。---≪続≫---

夏は万物が成長する時期でもあるので、大いなる宥しの恩沢を弘めるべきである。天下に大赦する。寶龜四年四月十七日の夜明け前以前の死罪以下、罪の軽重を問わず、既に発覚した罪、まだ発覚してない罪、既に罪名の定まったもの、まだ罪名の定まっていないもの、捕らわれて現に囚人となっているもの、通常の赦では免されない者も、全て赦免する。天平字元(757)年と八(764)年の両度の逆党で、遠流・近流の者も、また釈放すべきである。但し、八虐、強盗・窃盗は赦免の範囲に入れない。広く遠近に布告して、朕の意向を知らせるようにせよ・・・。

二十二日に黒毛の馬を丹生川上神(芳野水分峰神)に奉納している。日照りのためである。また、菅生王を本位の従五位上に復している。

五月乙亥朔。奉幣於畿内群神。旱也。丙子。充丹生川上神戸四烟。以得嘉注也。辛巳。阿波國勝浦郡領長費人立言。庚午之年。長直籍皆著費之字。因茲。前郡領長直救夫。披訴改注長直。天平寳字二年。國司從五位下豊野眞人篠原。以無記驗更爲長費。官判依庚午籍爲定。又其天下氏姓青衣爲采女。耳中爲紀。阿曾美爲朝臣足尼爲宿祢。諸如此類。不必從古。丙戌。授四品不破内親王三品。己丑。伊賀國疫。遣醫療之。辛夘。散位從四位下勳二等日下部宿祢子麻呂卒。癸巳。以從五位下上毛野坂本朝臣男嶋爲造酒正。從五位下石川朝臣豊麻呂爲左京亮。從四位下津連秋主爲造西大寺次官。辛丑。有星隕南北各一。其大如盆。

五月一日に幣帛を畿内の神々に奉納している。日照りのためである。二日に丹生川上神(芳野水分峰神)に神戸として四戸を充当している。嘉ばしい雨を得たからである。

七日に「阿波國勝浦郡」の郡領の「長費人立」が以下のように言上している・・・庚午(670)年、長”直”の戸籍には、皆”費”の字を付けた。このために前任の郡領の「長直救夫」は訴え出て、長”直”と改めて注記した。ところが天平字二(758)年、國司の豊野眞人篠原(篠原王)は根拠となる記録はないとして、再び長”費”とした・・・。

太政官は判断して、庚午年の戸籍に準拠して決定するようにしている。また、天下の人民の氏姓について、”青衣”を”采女”とし、”耳中”を”紀”とし、”阿曾美”を”朝臣”とし、”足尼”を”宿祢”としているが、これら種々の例については、必ずしも古例に従わないことにしている。

十二日に不破内親王に三品を授けている。十五日に伊賀國で疫病が流行したので、医師を派遣して治療させている。十七日に散位の勲二等の日下部宿祢子麻呂(大麻呂に併記)が亡くなっている。十九日に上毛野坂本朝臣男嶋を造酒正、石川朝臣豊麻呂(君成に併記)を左京亮、津連秋主を造西大寺次官に任じている。二十七日に星が現れ、南北に一つずつ落ちている。その大きさは甕ぐらいであった。

<阿波國勝浦郡:長費人立・長直救夫>
阿波國勝浦郡

「阿波國」の各郡については、称徳天皇紀に板野郡・名方郡・阿波郡、引き続いて麻殖郡が記載されていた。前者の三郡では、庚午(670)に「凡直」の氏姓を賜っていたのに、何故か「凡費」とされてしまい、それを訴えて本来の氏姓に戻されたいた。上記本文と類似する事件であった。

後者の麻殖郡については、連姓から宿祢姓へ改姓されていて、その他の郡とは、些か異なる様相であったような記述であった。

また神護景雲元(767)年十二月に「收在阿波國王臣功田位田。班給百姓口分田。以其土少田也」と記載され、本著が推定する現地名の北九州市若松区藤木辺り、石峰山南麓の急峻な地形の場所であることと矛盾しない。現在の徳島県の大河吉野川流域を有する場所とは、全くかけ離れた地形である。

やや話が横道に入るので戻して・・・勝浦郡が上記四郡に加わっている。勝浦=盛り上げられた地の麓の水辺で平らに広がっているところと解釈される。その地形を名方郡の東側、現在の洞海湾の入口に面するところに見出せる。当時の海水面は”浦”の矢印辺りまで入り込んでいたと推測される。

● 長費人立 訴えが通って”直”姓を賜ることになった大領である。人立=[人]の文字形の谷間が並んでいるところと解釈すると、図に示した場所が出自と推定される。氏名の長=山稜が長く延びている様、下記も同じく、である。

● 長直救夫 前大領の名前に用いられた「救」の文字は初見であろう。類似する文字では捄=手+求=手のような山稜が引き寄せられている様と読み解いた(こちら参照)。ならば救夫=折れ曲がった山稜に二つに岐れた山稜が引き寄せられているようなところと解釈される。この特異な地形(の表現)を「勝浦」の谷間の西側に確認することができる。

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本文中に記載された「天下氏姓青衣爲采女。耳中爲紀。阿曾美爲朝臣足尼爲宿祢」の「青衣・耳中・阿曾美・足尼」は、地形を表しているようだが、詳細は後日に述べることにする。

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