2024年1月5日金曜日

天宗高紹天皇:光仁天皇(8) 〔659〕

天宗高紹天皇:光仁天皇(8)


寶龜三(西暦772年)四月の記事からである。原文(青字)はこちらのサイトから入手、訓読続日本紀(今泉忠義著)、続日本紀4(直木考次郎他著)を参照。

夏四月癸丑。復從五位下清原眞人清貞。无位服部眞人眞福等本姓大原眞人。丁巳。下野國言。造藥師寺別當道鏡死。道鏡。俗姓弓削連。河内人也。略渉梵文。以禪行聞。由是入内道塲列爲禪師。寳字五年。從幸保良。時侍看病稍被寵幸。廢帝常以爲言。與天皇不相中得。天皇乃還平城別宮而居焉。寳字八年大師惠美仲麻呂謀反伏誅。以道鏡爲太政大臣禪師。居頃之。崇以法王。載以鸞輿。衣服飮食一擬供御。政之巨細莫不取决。其弟淨人。自布衣。八年中至從二位大納言。一門五位者男女十人。時大宰主神習宜阿曾麻呂詐稱八幡神教。誑耀道鏡。道鏡信之。有覬覦神器之意。語在高野天皇紀。洎于宮車晏駕。猶以威福由己竊懷僥倖。御葬禮畢。奉守山陵。以先帝所寵。不忍致法。因爲造下野國藥師寺別當。遞送之。死以庶人葬之。壬戌。復无位藤原朝臣刷雄本位從五位下。戊辰。赦天下。但犯八虐。及故殺人。私鑄錢。強竊二盜。常赦所不免者。不在赦限。若入死罪者。並減一等。庚午。以正四位下藤原朝臣楓麻呂。從四位上藤原朝臣濱足。並爲參議。以從五位下大中臣朝臣子老爲神祇大副。從五位下布勢朝臣清直爲少納言。外從五位下内藏忌寸全成爲大外記。從五位下藤原朝臣鷹取爲中務少輔。從五位下多治比眞人歳主爲員外少輔。外從五位下安都宿祢眞足爲大學助。大學頭正五位上淡海眞人三船爲兼文章博士。正五位下大伴宿祢潔足爲治部大輔。從五位下中臣朝臣常爲玄蕃頭。從五位下石上朝臣繼足爲主税頭。正五位下石川朝臣垣守爲木工頭。伊与守如故。從五位下山口忌寸佐美麻呂爲助。從五位下文室眞人水通爲典藥頭。從五位下三嶋眞人安曇爲主油正。從四位下藤原朝臣弟繩爲彈正尹。從五位下賀茂朝臣大川爲弼。外從五位下大和宿祢西麻呂爲大和介。從五位下藤原朝臣鷲取爲伊勢介。外從五位下縣造久太良爲志摩守。正五位下多治比眞人長野爲參河守。從五位上石川朝臣眞守爲遠江守。衛門佐正五位下粟田朝臣鷹守爲兼甲斐守。陰陽助從五位下山上朝臣船主爲兼掾。從五位下安倍朝臣淨目爲武藏介。從五位下佐伯宿祢藤麻呂爲員外介。正四位下田中朝臣多太麻呂爲美濃守。從五位下粟田朝臣鷹主爲陸奥員外介。内礼正從五位下廣川王爲兼丹波員外介。從四位下安倍朝臣息道爲但馬守。正五位上船井王爲因幡守。從五位上大原眞人繼麻呂爲介。員外右中弁正五位上安倍朝臣淨成爲兼美作守。從五位上紀朝臣大純爲備前守。從五位下藤原朝臣中男麻呂爲備中介。外從五位下英保首代作爲周防員外掾。從五位下大伴宿祢村上爲阿波守。」正四位下近衛員外中將兼安藝守勳二等坂上大忌寸苅田麻呂等言。以桧前忌寸。任大和國高市郡司元由者。先祖阿智使主。輕嶋豊明宮馭宇天皇御世。率十七縣人夫歸化。詔賜高市郡桧前村而居焉。凡高市郡内者。桧前忌寸及十七縣人夫滿地而居。他姓者十而一二焉。是以天平元年十一月十五日。從五位上民忌寸袁志比等申其所由。天平三年。以内藏少属從八位上藏垣忌寸家麻呂任少領。天平十一年。家麻呂轉大領。以外從八位下蚊屋忌寸子虫任少領。神護元年。以外正七位上文山口忌寸公麻呂任大領。今此人等被任郡司。不必傳子孫。而三腹遞任。四世于今。奉勅。宜莫勘譜第。聽任郡司。丁丑。以主殿頭從五位下美和眞人土生爲兼伊勢員外介。從五位上石川朝臣眞守爲越中守。己夘。震西大寺西塔。卜之。採近江國滋賀郡小野社木。搆塔爲祟。充當郡戸二烟。

四月三日に清原眞人清貞(大原眞人都良麻呂)、服部眞人眞福(大原眞人魚福)等を本姓の「大原眞人」に復している。

七日に下野國が[造(下野國)藥師寺別当の道鏡が死去した]と言上している。道鏡は俗姓弓削連で河内國の人であった。梵文に大略通じており、禅の修行を積んでいることで有名だった。このため内道場(宮中に設けられた仏殿)に入って禅師となった。天平字五(761)年、孝謙上皇が保良宮に行幸した時より、時々看病に近侍して、次第に寵愛を受けることとなった。廃帝(淳仁天皇)は、これに対して常に異を称え、孝謙天皇とは対等に事を成すことができなかった。孝謙天皇は平城宮の別宮に帰って、そこに居を構えた。

天平字八(764)年、太師(太政大臣)の恵美仲麻呂が謀反を起こして誅伐せられた後、道鏡を太政大臣禅師に任じた。しばらくして崇敬するあまり法王とし、天子の用いる輿を乗物とした。衣服・飲食は全く天皇の供御に準えられ、大小の政務について決を下さないことはなかった。その弟の淨人(道鏡に併記)は庶人より、八年間のうちに従二位・大納言にまで昇進した。一門で五位以上の者は男女合わせて十人となった。

ところが、その時大宰府の主神の習宜阿曽麻呂(中臣習宜朝臣阿曽麻呂。山守に併記)が偽って八幡神の命令と称し、道鏡を誑かし、道鏡はこれを信用して皇位を窺う志を抱いた。事情は高野天皇(称徳天皇)紀に記載されている。天皇が崩御するに及んでも、なお権威は己にありとして、密かに僥倖を頼みにし、葬礼が終わっても山陵を守っていた。先帝の寵愛されていたところでもあり、法に依って処断するに忍びず、そこで造下野國藥師寺別当に任じ、駅家を逓送して下向させた。死去した時は、庶人の待遇をもって葬っている。

十二日に藤原朝臣刷雄(眞從に併記)を本位の従五位下に復している。十八日に天下に恩赦している。但し、八虐を犯す罪と故意による殺人、贋金造り、強盗・窃盗など、通常の赦では免されない者は、赦免の範囲には入れない。もし死罪に相当する者は、全て罪一等を減じている。

二十日に藤原朝臣楓麻呂(千尋に併記)藤原朝臣濱足を參議、大中臣朝臣子老を神祇大副、布勢朝臣清直(清道)を少納言、内藏忌寸全成(黒人に併記)を大外記、藤原朝臣鷹取()を中務少輔、多治比眞人歳主を員外少輔、安都宿祢眞足(阿刀宿祢。子老に併記)を大學助、大學頭の淡海眞人三船を兼務で文章博士、大伴宿祢潔足(池主に併記)を治部大輔、中臣朝臣常(宅守に併記)を玄蕃頭、石上朝臣繼足(眞足に併記)を主税頭、石川朝臣垣守を伊与守のままで木工頭、山口忌寸佐美麻呂(田主に併記)を助、文室眞人水通を典藥頭、三嶋眞人安曇(安曇王。)を主油正、藤原朝臣弟繩(乙縄。縄麻呂に併記)を彈正尹、賀茂朝臣大川を弼、大和宿祢西麻呂(弟守に併記)を大和介、藤原朝臣鷲取()を伊勢介、「縣造久太良」を志摩守、多治比眞人長野を參河守、石川朝臣眞守を遠江守、衛門佐の粟田朝臣鷹守を兼務で甲斐守、陰陽助の山上朝臣船主を兼務で掾、安倍朝臣淨目(小路に併記)を武藏介、佐伯宿祢藤麻呂(伊多治に併記)を員外介、田中朝臣多太麻呂を美濃守、粟田朝臣鷹主(鷹守に併記)を陸奥員外介、内礼正の廣川王(廣河王。)を兼務で丹波員外介、安倍朝臣息道を但馬守、船井王を因幡守、大原眞人繼麻呂(今木に併記)を介、員外右中弁の安倍朝臣淨成を兼務で美作守、紀朝臣大純を備前守、藤原朝臣中男麻呂(仲男麻呂)を備中介、英保首代作を周防員外掾、大伴宿祢村上(形見に併記)を阿波守に任じている。

近衛員外中将兼安藝守で勲二等の坂上大忌寸苅田麻呂(犬養に併記)等が以下のように言上している・・・桧前忌寸一族をもって「大和國高市郡」の郡司に任命しているそもそもの由来は、先祖の阿知使主が、輕嶋豊明宮(輕嶋之明宮)に天下を治められた天皇(応神天皇)の御世に朝鮮から十七県の人民を率いて帰化し、詔されて「高市郡桧前村」の地を頂き、居を定めたことによる。およそ「高市郡」内には、桧前忌寸一族と十七県の人民が全土に隈なく居住し、他姓は十中の一、二でしかない。---≪続≫---

そこで天平元(729)年十一月十五日に民忌寸袁志比(比良夫に併記)等がその事情を申し上げ、天平三年に内藏少属の「藏垣忌寸家麻呂」を「高市郡」の少領に任じ、天平十一年に「家麻呂」が大領に転出して、「蚊屋忌寸子虫」を少領に任じ、天平神護元(765)年、「文山口忌寸公麻呂」を大領に任じられた。今、これらの人々が郡司に任ぜられるについては、必ずしも子孫へ郡司の職を伝えていないが、三氏は交互に任命されて、今まで四代を経ている・・・。これに対して、次のように勅されている・・・今後は郡司としての系譜を調査せず、桧前忌寸一門の者を郡司に任命することを許すように・・・。

二十七日に主殿頭の美和眞人土生(壬生王)に伊勢員外介を兼任させ、石川朝臣眞守を越中守としている。二十九日に西大寺の西塔が被雷している。これを占ってみると、「近江國滋賀郡小野神社」の木を伐採し、それで塔を建てたために祟りとなったという。当郡の二戸を神戸に充当している。

<縣造久太良>
● 縣造久太良

初見で外従五位下で志摩守に任じられているが、叙位の記述は、續紀中に見当たらないようである。「縣造」も希少であって、唯一飯高君笠目(後に宿祢を賜姓)の「親族縣造」が記載されていた(こちら参照)。

彼等にも飯高君を賜姓したとされ、「笠目」の近親ならば改姓されたと推測されるが、そんな状況を背景にしながら、この人物の出自を求めてみよう。

頻出の文字列である久太良=[く]の字形に曲がって延び広がった山稜の麓がなだらかになっているところと読み解くと、図に示した場所が見出せる。「家繼」の東側、中臣丸朝臣張弓(中臣丸連)の西側の谷間がこの人物の出自と推定される。

この後に登場されることもなく委細は不明だが、「高目」とは同族なのだが”親族”ではなかったのではなかろうか。”縣”の端を居処とした人物であり、それなりに辻褄の合う状況と思われる。

<大和國高市郡:藏垣忌寸家麻呂・>
<文山口忌寸公麻呂・蚊屋忌寸子虫>
大和國高市郡

「高市郡」は、書紀の天武天皇紀に高市郡大領の高市縣主許梅が登場している。それに基づいて「許梅」の居処の近傍である「高市縣」を郡名としたのではないかと錯覚しそうになった。

ところが、上記に記載されているように応神天皇紀に多勢の渡来人を入植させて開拓した土地であり、「高市縣」の土地柄とは大きく異なっていたのである。

加えて「桧前忌寸」が住まう地域であると述べられ、更に「民忌寸」や「輕嶋之明宮」まで登場している(こちら参照)。書紀の紛らわしい記述に惑わされてはあらぬ方に向かうことになりそうである。

即ち、この地を「高市郡」と称していたのである。彼等の居処の、少々南側に確認される地形、高市=皺が寄ったような山稜が寄り集まっているところの地形を郡名に用いていたようである(国土地理院航空写真1961~9年参照)。本文中に記載された三名の郡司については、桧前忌寸に加えて高市郡出身者として、それぞれの出自場所を求めてみよう。

● 藏垣忌寸家麻呂・蚊屋忌寸子虫・文山口忌寸公麻呂 各々の名前が示す地形を読み下すと、藏垣=四角く区切られた地に取り囲まれているところ家=山稜の端が豚の口のようになっている様であり、「輕嶋之明宮」の北側の谷間にそれらが表す地形を見出せる。

蚊屋=尾根が延び至った端で細かく岐れた山稜が交差しているところ子虫=生え出た山稜が細かく岐れているところと解釈される。図に示した場所が出自と推定される。書紀の持統天皇紀に『壬申の乱』の功臣として蚊屋忌寸木間が登場していた。

「文山口」は「文山・口」と区切って解釈すると、文山口=[山]の文字形に延びる山稜が交差するような谷間の入口あたりのところ公=谷間に小高い地がある様であり、図に示した場所、「輕嶋之明宮」の南側の谷間にその地形を確認できる。

「桧前忌寸」は、称徳天皇紀に唐突に記載されている。『仲麻呂の乱』に際して内裏の守護に当たったとして昇進されていたが、具体的な人物名はないが、この地に住まう人物としては、今良の大目東人・秋麻呂が解放されて「桧前」の氏名を賜ったと推定した。大河彦山川の川辺を開拓し、傑出して勤勉実直な人々の集団だったように思われる。

<近江國滋賀郡小野社>
<志我戸造東人>
近江國滋賀郡小野社

「小野社」は、初見であり、勿論、この後に登場することもない神社である。調べると、これが、何と!小野朝臣一族の氏神だったと解説されている。古事記の天押帶日子命を遠祖に持つ一族の氏神と解釈されているのである(こちら参照)。

同族の「柿本朝臣・粟田朝臣」の居処も、はっきりとは定められていない現状では、”小野”の地名を唯一の頼りにしたのであろう。「滋賀=志賀」として「小野」の地形を探すことにする。

小野=三角に尖った野が広がっているところは、残念ながら地形変形があるのだが…今回は宅地開発ではなくびっしりと拡げられた棚田になっている…国土地理院航空写真1961~9年を参照すると、明確な場所が見出せる。山麓に突き出た山稜の端が三角に尖っている地である。

鳴り物入りで造られた西大寺の西塔に用いる木材であり、それを粟田朝臣の氏神の”神木”を断りもなく勝手に伐採したとでも言うのであろうか。腑抜けの粟田朝臣ならば、見過ごしたかもしれないが、それはあり得ない。

塔の建築に用いることができるような立派な木を見つけて、これ幸いにと採取したが、”名も無き”神社の神木だった。更によく調べると、”名も無き”ではなく、「小野社」と言う名称が付いていた、と言うのが実情であろう。それが小野朝臣の氏神・・・寝惚けた話であろう。

少し後に志我戸造東人が外従五位下を叙爵されて登場する。全く関連する情報は欠落しているようであり、名前が表す地形から出自の場所を求めてみる。上記では近江國滋賀郡と表記されるのであるが、文武天皇紀に志我山寺(聖武天皇紀では紫郷山寺と表記)が登場していた。

多分、志我戸は、この「志我山寺」への戸口辺りを表しているのではなかろうか。東人=谷間を突き通すような様であり、出自の場所を図に示した辺りと推定した。

五月庚寅。以從五位下文室眞人子老爲武藏員外介。從五位下佐伯宿祢藤麻呂爲讃岐介。乙巳。授四品難波内親王三品。丙午。西北空中有聲。如雷。丁未。廢皇太子他戸王爲庶人。詔曰。天皇御命〈良麻止〉宣御命〈乎〉百官人等天下百姓衆聞食〈倍止〉宣。今皇太子〈止〉定賜〈部流〉他戸王其母井上内親王〈乃〉魘魅大逆之事一二遍〈能味仁〉不在。遍麻年〈久〉發覺〈奴〉。其高御座天之日嗣座〈波〉非吾一人之私座〈止奈毛〉所思行〈須〉。故是以天之日嗣〈止〉定賜〈比〉儲賜〈部流〉皇太子位〈仁〉謀反大逆人之子〈乎〉治賜〈部例婆〉卿等百官人等天下百姓〈能〉念〈良麻久毛〉恥〈志〉賀多自氣奈〈志〉。加以後世〈乃〉平〈久〉安長〈久〉全〈久〉可在〈伎〉政〈仁毛〉不在〈止〉神〈奈賀良母〉所念行〈須仁〉依而〈奈母〉他戸王〈乎〉皇太子之位停賜〈比〉却賜〈布止〉宣天皇御命〈乎〉衆聞食〈倍止〉宣。

五月十日に文室眞人子老(於保に併記)を武藏員外介、佐伯宿祢藤麻呂(伊多治に併記)を讃岐介に任じている。二十五日に難波内親王(海上女王に併記)に三品を授けている。二十六日に西北の空中で音がし、雷鳴のようであった。

二十七日に皇太子の他戸王()を廃し、庶民としている。次のように詔されている(以下宣命体)・・・天皇の御言葉であると仰せられる御言葉を、百官達、天下の人民、皆承れと申し渡す。今、皇太子と定めてあった他戸王()の母である井上内親王が呪いによって大逆を謀っているということは、一、二度のことではなく、度々発覚している。---≪続≫---

いったい天皇の位は、自分一人の私的な位ではないと理解している。それ故に、皇嗣と定め、儲君とした皇太子の位に謀反・大逆の人の子を決めておいたなら、公卿達、百官達や天下の人民がどう思うか、恥ずかしく恐れ多い。それだけではなく、後世が平安で永く欠けることなくあるような政治でないと、神である身として思うので、他戸王()を皇太子の位を停め斥ける、と仰せになる天皇の御言葉を、皆承れと申し渡す。

六月庚戌朔。日有蝕之。癸丑。參河國獻白烏。乙夘。以從五位下中臣習宜朝臣阿曾麻呂爲大隅守。癸亥。讃岐國疫。賑給之。甲子。設仁王會於宮中及京師大小諸寺。并畿内七道諸國分金光明寺。乙丑。有虹。繞日。戊辰。往往隕石於京師其大如柚子。數日乃止。己巳。有野狐。踞于大安寺講堂之甍。壬申。奉幣帛於畿内群神。旱也。己夘。幸大藏省。賜物有差。

六月一日に日蝕が起こっている。四日に參河國が「白烏」を献上している。六日に中臣習宜朝臣阿曽麻呂(山守に併記)を大隅守に任じている。十四日、讃岐國に疫病が流行したので物を恵み与えている。十五日に仁王会を宮中と、京内の大小の諸寺並びに畿内・七道諸國の國分金光明寺で催している。

十六日に虹が架かり、太陽の周りを取り巻いている。十九日にしばしば京内に石が落ちている。その大きさは柚の実ぐらいであった。数日でこれは止んでいる。二十日、野狐が出て来て、大安寺の講堂の甍の上に蹲っていた。二十三日に幣帛を畿内の神々に奉っている。日照りのためである。三十日に大藏省に行幸され、地位に応じて物を賜っている。

<参河國:白烏>
参河國:白烏

「白烏」については文武天皇紀に下総國、聖武天皇紀に越中國、孝謙天皇紀に上野國安藝國がそれぞれ献上し、そして、称徳天皇紀に参河國が、今回と同じく「白烏」を献上したと記載されていた(こちら参照)。
 
その時には、献上者の名称まで追記されていたが、今回の献上に関する記述は見当たらないようである。それにしても、希少な瑞祥である”白い烏”を二羽も献上できるとは、よっぽど・・・冗談はさて置いて、先に進めよう。

図に示したように、前回は一羽の烏の西側の谷間を対象とし、今回は東側の谷間としていることが解る。いずれにしても急峻な斜面を開拓したのであろう。参河國の地形情報を提供する極めて貴重な献上物語である。

秋七月辛巳。復惠美刷雄等廿一人本姓藤原朝臣。戊子。四品衣縫内親王薨。田原天皇之皇女也。遣從四位下桑原王。正五位上奈癸王等。監護喪事。丙申。陸奥國安積郡人丈部繼守等十三人賜姓阿部安積臣。辛丑。上総國獻馬。前二蹄似牛。以爲祥瑞。視之人巧之所刻也。國司介從五位下巨勢朝臣馬主已下五人。並坐解任。其本主天羽郡人宗我部虫麻呂决杖八十。

七月二日に恵美刷雄(眞從に併記)等二十一人を本姓の藤原朝臣に復している。九日に衣縫内親王(海上女王に併記)が亡くなっている。田原天皇(施基皇子)の皇女であった。桑原王奈癸王(奈貴王。石津王に併記)等を遣わし、喪葬の事を監督・護衛させている。十七日に陸奥國安積郡の人である「丈部繼守」等十三人に阿部安積臣の氏姓を賜っている。

二十二日に上総國から馬が献上されている。前足の二つの蹄が牛に似ていたため、祥瑞と認定したが、これを調べると、人間の手によって刻まれたものであった。そこで國司の介の巨勢朝臣馬主以下五人を共に陰謀に連座したとして解任している。その調本人である「天羽郡」の人である「宗我部虫麻呂」には杖で打つこと八十回という判決を下している。

<丈部繼守[阿部安積臣]>
● 丈部繼守[阿部安積臣]

称徳天皇紀に多くの陸奥國の住人に賜姓を行ったことが記載されていた。その中に「安積郡」の「丈部直繼足」に「阿倍安積臣」を賜っていた(こちら参照)。

「繼守」以下十三人は、間違いなく「安積郡」の同じ谷間に住まっていたのであろう。些か前記の図が混み入っているので、あらためて右図に掲載した。繼守=肘を張ったように延びた山稜が連なっているいるところと解釈する。

前にも述べたようにこの地は大きく変形していて、詳細な地形を確認することは叶わないが、大きく外していることはないように思われる。蝦夷(新羅系渡来人と推測)に支配されて来た地域の奪回・復権であろう。

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少々余談になるが、過去の地形に関する貴重な情報を開示しているサイトが見つかった。埼玉大学教育学部の谷謙二教授(故人)が開発されたもので、国土地理院地図と連携して日本各地の年代別地形図情報が提供されている。名称は、<時系列地形図閲覧サイト「今昔マップ on the web」>となっている。

因みに上記の北九州市門司区猿喰近辺のこちら(1948~56年)を参照すると、黒川郡の「黑」に含まれる「」(弟虫も同様に)や「春日部」に含まれる「日(太陽)」が航空写真から推定したよりも、一層明確に確認することができる。実に貴重な情報である。残念ながら故人となられて、サイトの更新は難しいような感じである。

福岡県田川郡香春町にある香春一ノ岳(飛鳥)は、残念ながら1967年以前の情報はないようで、既に頭頂部は欠落している有様であるが、挫けることなく、今後は大いに活用させて頂く所存である。

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<上総國天羽郡:宗我部虫麻呂>
上総國天羽郡

「上総國天羽郡」は、記紀・續紀を通じて初見である。既に幾つかの郡名が記載されて来ている。順不同で列記すると「長峡郡・朝夷郡・安房郡(一時安房國として分割)・望陀郡・海上郡」である(こちらこちら参照)。

最後の「海上郡」は『仲麻呂の乱』の功臣して「桧前舎人直建麻呂」の出自場所であり、「上総宿祢」を賜姓されたと記載されていた。上総國の中心地に浮かび上がってきたように思われる。

各郡の配置を眺めると、「海上郡」の東隣がすっぽりと空いていることが分かる。どうやらこの地を「天羽郡」と名付けていたのではあろう。国土地理院航空写真1961~9年を参照すると、それを確認することができる。

天羽=一様に平らな山稜が羽のように延びているところと解釈される。勿論、古事記のように天=阿麻(台地が擦り潰されたように平らになっているところ)と解釈することもできる。記紀・續紀の編者等の文字使いは、正に首尾一貫して”一様”である。

● 宗我部虫麻呂 杖打ち八十回、さぞかし痛かったであろうが、獄死ではなかったのかもしれない。名前が表す地形から出自場所を求めてみよう。既出の文字列である宗我=山稜に挟まれた地にある高台の麓がギザギザとしているところと解釈される。その地形を図に示した場所が見出せる。虫(蟲)=山稜が三つに岐れて延びている様であり、「我」の一部を名前としてのであろう。

<上総國獻馬:前二蹄似牛>
上総國獻馬:前二蹄似牛

献上された馬の前脚の蹄が牛のようであり、あわや瑞祥と認定しかかったのだが、どうやら人が細工をしたものと発覚したと述べている。瑞祥ではないので、いつものような地形象形ではないかと思いきや、いや、見事な地形表現であった。

上記の「天羽」の地形を「馬」の古文字の形と見做しているのである。そして、前脚に注目すると、二つに岐れたように見えることが解る。山稜が岐れている様を捉えている。

よく知られているように馬は奇蹄類、牛は偶蹄類であり、蹄の形が全く異なる種類である。即ち、牛の蹄は二つに割れたように見えることから、馬であって牛のような脚を持つ、これは瑞祥と騒いだのである。

図を参照すると、その蹄から更に山稜が延びていて、それを恣意的に刻んで献上したのである。勿論、絵図上においてであろう。がしかし、簡単に嘘がバレてしまったという落ちである。多分、山陵を跨ぐ峠道が造られていたのであろう。自然の造形物ではなかったのである。実に詳細な上総國の地形を表現していることが解る。まだまだ天神族は、北九州を離れていないようである。

八月甲寅。幸難波内親王第。是日異常風雨。拔樹發屋。卜之。伊勢月讀神爲祟。於是。毎年九月。准荒祭神奉馬。又荒御玉命。伊佐奈伎命。伊佐奈美命。入於官社。又徙度會郡神宮寺於飯高郡度瀬山房。庚申。太政官奏。去天平寳字四年三月十六日。始造新錢与舊並行。以新錢之一當舊錢之十。但以年序稍積。新錢已賎。限以格時。良未安穩。加以百姓之間。償宿債者。以賎日新錢一貫。當貴時舊錢十貫。依法雖相當。計價有懸隔。因茲物情擾乱。多致諠訴。望請。新舊兩錢。同價施行。奏可。」三長眞人藤野等九人復属籍。甲子。復息部息道本姓阿倍朝臣。乃呂志比良麻呂本姓賀茂朝臣。丙寅。遣從五位下三方王。外從五位下土師宿祢和麻呂。及六位已下三人。改葬廢帝於淡路。乃屈當界衆僧六十口。設齋行道。又度當處年少稍有淨行者二人。常廬墓側。令修功徳。八月是月。自朔日雨。加以大風。河内國茨田堤六處。澁川堤十一處。志紀郡五處並决。

八月六日に難波内親王(海上女王に併記)の邸宅に行幸されている。この日異常な風雨があって、樹木が根こそぎにされ家屋が壊されている。これを占ってみると、伊勢の月讀神が祟りをなしていた。そこで毎年九月、荒祭神に准じて馬を奉納するすることにしている。また、荒御玉命・伊佐奈伎命・伊佐奈美命を官社に入坐している。また、度會郡の神宮寺を飯高郡の「度瀬山房」に遷している。

十二日に太政官が以下のように奏上している・・・去る天平寶字四(760)年三月十六日、初めて新銭(萬年通寶)を鋳造し、旧銭(和同開珎)と並行して流通させ、新銭一枚を旧銭十枚に相当させた。ところが年月は次第に経過して、新銭もすでに低落したため、格を発した時の比率を固定しておくのは、真に穏やかではない。のみならず人民の間では、以前から負債を支払うのに、価値の下がっている時の新銭一貫を、高い時の旧銭十貫に相当させている。法令によれば妥当であるけれども、価値を計算すれば隔たりがある。これによって物情騒然とし、喧しい訴訟が多く生じている。新旧両銭を同じ価値にして通用させるように願う・・・。この上奏を許可されている。この日、三長眞人藤野(細川王の別名と推定)等九人の属籍を復している。

十六日に「息部息道」(阿倍朝臣息道)を本姓の阿倍朝臣<罪状は不詳>、「乃呂志比良麻呂」(賀茂朝臣比良麻呂人麻呂に併記)を本姓の賀茂朝臣に復している。十八日に三方王(三形王)、土師宿祢和麻呂(祖麻呂に併記)と六位以下の官人三人を遣わして、廃帝を淡路で改葬させている。そこで、その地の僧達六十人を招いて法会の食事を用意し、行道(周りを回る礼拝)させている。また、その地の年少者で淨行の聞こえのある者二名を出家させ、墓所の側の廬に常住させ、功徳を修めさせている。

この月、一日から雨が降り続き、大風も加わり、河内國の茨田堤六ヶ所、渋川堤十一ヶ所、志紀郡の五ヶ所がいずれも決壊している(茨田郡澁川郡志紀郡参照)。

<伊勢國飯高郡度瀬山房:神宮寺>
伊勢國飯高郡度瀬山房

称徳天皇紀に伊勢大神宮寺に仏像を作って安置したことが記載されていた。その時にも、祟りがあって飯高郡に遷したことに少し触れたが、詳細な場所等については言及していなかった。

ただ、まだまだ祟りは治まらず、再度遷ることになることから、「度瀬山房」に関する情報は殆ど見当たらないようである。それはそれとして、本著は貴重な地形情報として、この地を探ってみよう。

「度瀬山房」を「度瀬山・房」と区切って解釈すると、「度瀬山」=「瀬を跨ぐような山」、「房」=「戸+方」=「耜のような山稜が突き出た様」となり、纏めると度瀬山房=瀬を跨ぐような山から耜のような山稜がつきでているところと読み解ける。図に示したように、神宮寺は「伊勢朝臣」一族の背後の山稜、その麓に遷されたと思われる。