天宗高紹天皇:光仁天皇(11)
寶龜四年(西暦773年)六月の記事からである。原文(青字)はこちらのサイトから入手、訓読続日本紀(今泉忠義著)、続日本紀4(直木考次郎他著)を参照。
六月乙巳朔。日有蝕之。丙午。霖雨。常陸國鹿嶋神賎一百五人。自神護景雲元年立制。安置一處。不許与良婚姻。至是。依舊居住。更不移動。其同類相婚。一依前例。壬子。上野國緑野郡災。燒正倉八間。穀穎卅三万四千餘束。丙辰。能登國言。渤海國使烏須弗等。乘船一艘來著部下。差使勘問。烏須弗報書曰。渤海日本。久來好隣。往來朝聘。如兄如弟。近年日本使内雄等。住渤海國。學問音聲。却返本國。今經十年。未報安否。由是。差大使壹萬福等。遣向日本國擬於朝參。稍經四年。未返本國。更差大使烏須弗等卌人。面奉詔旨。更無餘事。所附進物及表書。並在船内。戊辰。遣使宣告渤海使烏須弗曰。太政官處分。前使壹萬福等所進表詞驕慢。故告知其状罷去已畢。而今能登國司言。渤海國使烏須弗等所進表函。違例无礼者。由是不召朝廷。返却本郷。但表函違例者。非使等之過也。渉海遠來。事須憐矜。仍賜祿并路粮放還。又渤海使取此道來朝者。承前禁斷。自今以後。宜依舊例從筑紫道來朝。
六月一日、日蝕が起こっている。二日、長雨が続いている。常陸國の鹿嶋社の神賎百五人については、神護景雲元(767)年に制定し、一ヶ所に収容して良民との婚姻は許していなかった。ここに至って、元通りに居住させて二度と強制的には移動させず、同じ身分同士で結婚する場合は、全く以前の例に従うようにさせている。八日に「上野國緑野郡」の郡衙に火災が起こり、正倉八棟と米穀の穂首三十三万四千束余りを消失している。
十二日に能登國が以下のように言上している・・・渤海國使の烏須弗等が船一艘に乗って國内に来着した。使者を遣わして尋問したところ、烏須弗は書面で[渤海と日本とは、久しく善隣友好関係にあり、往来し朝賀することは互いに兄弟のようである。近年、日本使節の内雄(高内弓)等は渤海國に留まり、音楽を学んで本國に帰っている。しかし今や十年を経たが、まだその安否を知らせて来ない。---≪続≫---
そこで大使の壹萬福等を派遣し、日本國に赴いて朝廷に参上させることになった。そろそろ三年になるが、まだ本國に帰って来ないので、更に大使の烏須弗等四十人を遣わし、直接謁見を請うて御言葉を承りたいと思うだけで、他に目的はない。託された進物と上表文は共に船内にある]と答えている・・・。
二十四日に使者を遣わし、渤海國使の烏須弗に対し、太政官は以下のように宣告している・・・太政官は、前使の壹萬福等の進めた上表文の用語は驕慢であったので、その事情を告知した上で既に帰らせた。ところが今、能登國司は、[渤海國使の烏須弗等の奉った上表文とその函も通例と違って、礼儀を欠いたものである]と言上して来ている。---≪続≫---
そこで烏須弗等一行を朝廷に召さず、本國に帰還させる。ただし、上表文とその函が通例と違っているのは、使節等の過失ではない。海を渡り遠方より来航した事は、憐れむべきである。よって俸禄と道中の食糧を支給し、追い還す。また、渤海國の使節がこの道から来朝することは、従前より禁止している。今後は旧例にのっとり、「筑紫道」から来朝するべきである・・・。
前記したように上野國は、下野國と常陸國に挟まれた地域と推定した。現地名は北九州市門司区吉志辺りとなる。上記の既出の各郡の場所から、必然的に「緑野郡」の場所が推定されのだが、さて、その地形をあらわしているのであろうか?・・・。
名称に用いられた「緑(綠)」の文字も初見であろう。地形象形的には、綠=糸+彔=剥がされた薄皮のような様と解釈される。図に示した場所は山稜の端が平たく広がって延びている地形であることが解る。それを緑野の文字で表現したのであろう。
前出の新田驛があった郡と思われるが、郡衙の近くであったと推測される。本文中に焼失した”正倉八間”は、郡衙の場所を表しているようであるが、残念ながら平坦な地形で解読するには不向きな場所のようである。
渤海使が能登國に来着したのだが、少し前に前回の使者を送り還す際に遭難して能登國羽咋郡福良津に漂着したと記載されていた。その湊を仄めかすような記述ではあるが、曖昧である。
元々渤海使は、筑紫の大宰府に着岸せずに出羽國に出没する行程を採用している。既に読み解いたようにその着岸地点は佐利翼津(現地名:北九州市門司区大里東)であり、古事記の伊那佐之小濱と推定した。また、壹萬福等が大船団で来た時は、”小濱”ではなく、野代湊(現地名:同区清滝、現在の門司港周辺)に着岸したと記載されていた。
今回は船一艘での来着故に佐利翼津と思われ、その場所から能登國に向かったのであろう。上図に示した通り、戸ノ上山の北麓を東に向かい、七ツ石峠を越えれば能登國に入ることができる。多分、出羽國に向かう鹿喰峠越えでは監視が厳しく近寄り難かったのではなかろうか。勿論、単なる道迷いだったかもしれない。
この鹿喰峠越えの道を筑紫道と表記していることが解る。それは筑紫の地形を示す谷間が延びている。その麓を通る道なのである。通説では、解釈不能ゆえに”九州”と訳されているが、そもそも渤海使は、”九州”の大宰府ではなく出羽國周辺に上陸して来たのである。
通説の「筑紫道」の解釈は、致命的な齟齬を生じていることになる。言い換えれば、續紀編者等が、何とか辻褄を合わせられるように捻くり出した「筑紫道」だったのであろう。出羽國に多くの驛家を設置して防衛体制を整えたわけだから(こちら参照)、無防備な能登國ではなく、この道を通行させる必要があった、とも思われる。
秋七月癸未。祭疫神於天下諸國。庚寅。詔免從四位下紀益人爲庶人。賜姓田後部。又去寳字八年放免紀寺賎七十五人。依舊爲寺奴婢。但益人一身者特從良人。甲午。以正四位下大伴宿祢駿河麻呂爲陸奥國鎭守將軍。按察使及守如故。庚子。賜供奉周忌御齋會尼及女孺二百六十九人。雜色人一千卌九人物各有差。
七月十日に疫神を天下の諸國で祭らせている。十七日に詔されて、紀益人を放免して庶民とし、「田後部」の姓を与えている。また、天平寶字八(764)年に放免された紀寺の賎七十五人は、元のように奴婢としている。但し、「益人」一人だけは特に良民としている。
二十一日に大伴宿祢駿河麻呂(三中に併記)を、按察使・陸奥守のままで、陸奥國鎮守将軍に任じている。二十七日に称徳天皇の三周忌の御齋会に奉仕した尼僧と女孺二百六十九人、様々な職種の人千四十九人に、それぞれ物を賜っている。
● 田後部益人 紀朝臣益麻呂(益人)の地形を表現していると思われる。「後」=「彳+糸+夊」と分解され、地形象形的には「後」=「山稜の端がずるずると延びている様」と解釈される。田後=山稜の端がずるずると延びて平らに整えられたところと読み解ける。「益人」の出自場所が、より確実なものとなったようである。
ところで、従四位下・陰陽頭にまで昇進していた「益麻呂」の冠位剥奪の理由が、調べても釈然としない。憶測するに、井上内親王の廃皇后(光仁天皇呪詛事件)に関わっていたのかもしれない。その後の消息も不詳のようである。
八月辛亥。霖雨。左兵庫助外從五位下荒木臣忍國。養老五年以往籍。爲大荒木臣。神龜四年以來。不著大字。至是復着大字。庚午。諸國郡司。燒官物者。主帳已上皆解見任。其從政入京。及獲放火之賊。功効可稱者。量事處分。又譜第之徒。情挾覬覦。事渉故燒者。一切勿得銓擬。乃簡郡中明廉清直堪時務者。恣令任用。當團軍毅不救火者。亦准郡司解却。壬申。地動。
八月八日、長雨が続いている。左兵庫助の荒木臣忍國(道麻呂に併記)は、養老五(721)年以前の戸籍では”大荒木臣”とされていたが、神龜四(727)年以来、”大”の字を付けていない。ここに至って元のように”大”の字が付いた戸籍に復している。
二十七日に諸國の郡司で官物を焼いた者については、主帳以上は皆その現職を解任する。政務のために入京したり、または放火の犯人を捕えて功績が顕著な者は、事情に応じて処置する。また代々郡司を歴任している人であっても、心に非望を抱き故意に放火に及んだ者は、一切選考対象とはしない。そして郡内から清廉潔白で、その時々の政務をこなせる能力のある者を選び、適宜任命する。その他の軍団の軍毅で消火に努めなかった者も、郡司に準じて解任する。二十九日に地震が起こっている。
九月庚辰。以外從五位下出雲臣國上爲國造。丁亥。常陸國献白烏。壬辰。丹波國天田郡奄我社有盜。喫供祭物斃社中。即去十許丈。更立社焉。己亥。授三品難波内親王二品。己夘。授正五位上石川朝臣名足從四位下。
九月八日に出雲臣國上(益方に併記)を國造に任じている。十五日に常陸國が「白烏」を献上している。二十日に丹波國天田郡奄我社に盗賊が押し入り、お供えの品物を食べて神社内で倒れ死んでいる。直ちに十丈ばかり離して新たに神社を建てている。二十七日に難波内親王(海上女王に併記)に二品を授けている。七日(?)、石川朝臣名足に従四位下を授けている。
中には、”白鳥”献上と本文に記載されているが、それでは瑞祥にならないから、間違いと解釈され、”白烏”に置換えているものもあった。
これだけ”白い烏”が捕獲されるなんて、怪しむ声が聞こえそうなのだが、古代史学は黙して語らずの有様である。何度も述べたように、その國の貴重な地形情報が提供されているのである。
さて、上記したように常陸國では、称徳天皇紀に白烏が献上されていた。「常陸國那賀郡人丈部龍麻呂。占部小足獲白烏」と記載され、那賀郡の谷奥に棲息していたと推測した。その東側に、同様の地形が見出せる。個人の穀三千斛を陸奧國鎭所に献上した宇治部直荒山の北側の谷間を開拓したのであろう。
冬十月癸夘朔。地震。乙巳。授正五位下藤原朝臣子黒麻呂從四位下。丙午。地震。戊申。安宿王賜姓高階眞人。乙夘。送壹萬福使正六位上武生連鳥守至自高麗。丙辰。二品難波内親王薨。天皇同母姉也。遣從四位下桑原王。正四位下佐伯宿祢今毛人等。監護喪事。又遣從二位大納言兼治部卿文室眞人大市。中納言從三位兼式部卿石上朝臣宅嗣。弔之。辛酉。初井上内親王坐巫蠱廢。後復厭魅難波内親王。是日。詔幽内親王及他戸王于大和國宇智郡沒官之宅。
十月一日に地震が起こっている。三日に藤原朝臣子黒麻呂(小黒麻呂)に従四位下を授けている。四日、地震が起こっている。六日に安宿王(高市皇子の孫、長屋王の子)に「高階眞人」の氏姓を賜っている。十三日に壹萬福を送る使節で武生連鳥守が高麗から帰っている。
十四日に難波内親王(海上女王に併記)が亡くなっている。天皇の同母姉であった。桑原王・佐伯宿祢今毛人等を遣わして喪葬の事を監督・護衛させている。また、大納言兼治部卿の文室眞人大市、中納言兼式部卿の石上朝臣宅嗣を遣わして弔意を表させている。
● 高階眞人安宿 「階」の文字が名称に使われた初見である。「階」=「阝+皆」と分解される。更に「皆」=「比+自」から成る文字と解説されている。地形象形的には、「階」=「山稜の端が揃って並んでいる様」と読み解ける。「高」は高市皇子の「高」とすると、高階=[高]の麓で山稜の端が揃って並んでいるところと解釈される。安宿王の別名として、申し分のない表記であろう。
皇后である井上内親王等を幽閉した場所を「沒官之宅」と表現している。「官に没収した邸宅」と読み下せるのだが、地形象形表記と重ねたものであろう。
では、「沒官之宅」は如何なる地形を表しているのであろうか?…「官」=「宀+𠂤」=「山稜に挟まれた管ような形をしている様」、頻出の「宅」=「宀+乇」=「谷間に山稜が延び出ている様」と解釈した。
纏めると沒官之宅=山稜に挟まれた管のような地に埋没して延び出ているところと読み解ける。図に示した場所の地形を表していることが解る。正に幽閉するのに適した地形である。万葉の世界、多様な表現を見逃しては勿体ないであろう。
ところで、後の寶龜六(775)年四月二十七日に「井上内親王。他戸王並卒」と記載されている。二年も経たないうちに共に亡くなるとは・・・自害されたのか、それとも・・・。
十一月辛夘。勅。故大僧正行基法師。戒行具足。智徳兼備。先代之所推仰。後生以爲耳目。其修行之院。惣卌餘處。或先朝之日。有施入田。或本有田園。供養得濟。但其六院未預施例。由茲法藏湮廢。無復住持之徒。精舍荒凉。空餘坐禪之跡。弘道由人。實合奬勵。宜大和國菩提。登美。生馬。河内國石凝。和泉國高渚五院。各捨當郡田三町。河内國山埼院二町。所冀眞筌秘典。永洽東流。金輪寳位。恒齊北極。風雨順時。年穀豊稔。
十一月二十日に次のように勅されている・・・故大僧正の行基法師は、持戒・修行ともに完全で、智慧・仁徳も兼ね備えていた。先の御代においても師として推し讃仰するところであったし、後輩も師範としている。その修行した院は全てで四十ヶ所余りであるが、あるいは先朝の時に施入された田地があり、あるいは本から所有している田や園地もあって、維持・経営するには充分である。ただ、その内の六院については、まだ施入に預かっていない。これでは寺が廃滅して二度と住持する僧侶もいなくなり、精舎は荒廃して、空しく坐禅の跡を残すのみとなる。---≪続≫---
そもそも道を弘めることは人間あってのことであるので、真剣に仏法修行を奨励すべきである。そこで大和國の「菩提院・登美院・生馬院」、河内國の「石凝院」、和泉國の「高渚院」の五院にそれぞれその郡の田三町、河内國の「山埼院」には二町を喜捨せよ。これによって真理を伝える方便となる秘典が永く広く東方に流通し、仏陀の尊い位が常に北極星と等しく不変であって、風雨が時節に従い、穀物が豊かに稔ることを願うものである・・・。
大和國:菩提院・登美院・生馬院
<大和國:菩提院・登美院・生馬院> |
「菩提院」と「登美院」については、大和國添下郡にあったようである。孝行な大倭忌寸果果安が住まっていた場所を登美郷と推定した。おそらく、登美院は、その谷間の出口辺り、現在の霊泉寺付近にあったのではなかろうか。菩提院の菩提=[不]の字形に岐れた山稜の先が匙のように延びているところと解釈される。現在の法光寺辺りにあったと推定される。
生馬院は、書紀に登場した膽駒山(續紀では生馬山と表記)の麓に建てられていたのではなかろうか。場所の特定は若干難しいが、聖武天皇紀に長屋王の事件に関わった漆部駒長の居処近くにあったように思われる。初めの二院は大河の近傍、最後の一院は山間部の開拓に拠点としたのであろう。
河内國:石凝院・山埼院
石凝院は、河内國河内郡にあったと知られている。石凝=山麓に延びる山稜が寄せ集められたようなところと解釈すると、図に示した場所、現在の本照寺辺りに造られていたように思われる。この地は、多くの王等が臣籍降下し、三嶋眞人の氏姓を賜っていた場所である(こちら、こちら参照)。おそらく、広大な谷間の治水を行う拠点だったのではなかろうか。
山埼院については、些か情報が錯綜としているようである。一説では”山背國”乙訓郡山崎が挙げられているが、本文は明確に”河内國”と記載されている。「山埼」は固有の地名ではなく、勿論、地形象形表記である。その地形は、山埼=[山]の文字形のように延びた山稜の端が三角に尖っているところと読み解ける。その地形を図に示した場所に見出せる。
和泉國:高渚院
情報によると、この院は和泉國大鳥郡にあったようである。行基法師の出自の場所であり、既に多くの院が建てられていたのであろう。その中で強化すべき一院であったと思われる。
高渚院の高渚=皺が寄ったような山稜の麓で川が交差しているところと解釈される。図に示した場所が、その地形をしていることが確認できる。
現在は細長い溜池になっているが、当時は川が流れる谷間であったと推測される。谷間の治水事業を行ったのではなかろうか。裾野に広がる田の稲作に不可欠の事業だったであろう。もしかすると、彼等が溜池にしたのかもしれない。
閏十一月乙夘。造西大寺次官從四位下勳六等津連秋主卒。辛酉。詔。僧正賻物准從四位。大少僧都准正五位。律師准從五位。癸亥。散位從四位下百濟王元忠卒。甲子。僧正良弁卒。遣使弔之。丁夘。授无位大原眞人室子從五位下。
閏十一月十五日に造西大寺次官で勲六等の津連秋主が亡くなっている。二十一日に次のように詔されている・・・僧正に対する賻物(葬祭料)は従四位に、大・少僧綱は正五位に、律師は従五位に准ぜよ・・・。
十二月癸巳。以外從五位下大和宿祢西麻呂爲主計助。乙未。勅。増益福田。憑釋教之弘濟。光隆國祚。資大悲之神功。是以。比日之間。依藥師經。屈請賢僧。設齋行道。經云。應放雜類衆生。朕以。雜類之中。人最爲貴。至于放生。理必所急。加以陽氣始動。仁風將扇。順此時令。思施霈澤。可大赦天下。自寳龜四年十二月廿五日昧爽以前大辟已下罪無輕重。已發覺。未發覺。已結正。未結正。繋囚見徒。咸皆赦除。其犯八虐。故殺人。私鑄錢。常赦所不免者。不在赦例。」備前國言木連理。
十二月二十二日に大和宿祢西麻呂(弟守に併記)を主計助に任じている。二十四日、次のように勅されている・・・福徳をもたらす仏法の僧尼を繁栄させるかどうかは、仏の教えの広い救済にかかっているし、王の位を栄えさせるのは、仏、菩薩の優れた功績による。そのためこのごろ『藥師経』によって賢僧を招き、齋会を設けて仏道を修行させている。経には[種々の生き物を放生すべきである]と言っている。---≪続≫---
朕が考えるところでは、種々のうちでは人間が最も貴い。放生にいたっては、道理として急を要する。それだけでなく、陽の気がようやく動き出し、恵み深い風も吹こうとしている。この時節に応じた制度に従って大いなる恩沢を施そうと思う。天下に大赦すべきである。---≪続≫---
寶龜四年十二月二十四日の夜明け前の死罪以下、罪の軽重を問わず、既に発覚した罪、まだ発覚していない罪、既に罪名の定まった者、まだ罪名の定まらない者、捕らわれて現に囚人となっている者は、全て皆赦免せよ。八虐、故意に殺人、贋金造り、通常の恩赦に免されない者は赦の範囲に入れない・・・。
また、備前國が「木連理」が見つかったと言上している。
既に各地の「木連理」が献上されているが、直近の光仁天皇紀でも山背國が名乗りを上げていた(こちら参照)。中国の例に倣って「木連理」=「根や幹は別々だが,枝がひとつに合わさっている木」と解釈されている。
本著では、木=山稜が木の形をしている様と読み解く以上、その地の地形表記と解釈する。勿論、それを発見したのは、その地を開拓したことを示唆しているのである。
そんな訳で、[木]が連なって区分けわれている場所を備前國で探すと、図に示した場所が見出せる。少々地形変形があるので、国土地理院航空写真1961~9年を参照した。
備前國は、北へ北へと開拓地を拡大して来たのであるが、邑久郡の北側に位置する場所であることが解る。山稜の間の谷間に棚田が整然と造られて行ったことを伝えているのである。
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續日本紀卷第卅二尾