2024年1月29日月曜日

天宗高紹天皇:光仁天皇(11) 〔662〕

天宗高紹天皇:光仁天皇(11)


寶龜四(西暦773年)六月の記事からである。原文(青字)はこちらのサイトから入手、訓読続日本紀(今泉忠義著)、続日本紀4(直木考次郎他著)を参照。

六月乙巳朔。日有蝕之。丙午。霖雨。常陸國鹿嶋神賎一百五人。自神護景雲元年立制。安置一處。不許与良婚姻。至是。依舊居住。更不移動。其同類相婚。一依前例。壬子。上野國緑野郡災。燒正倉八間。穀穎卅三万四千餘束。丙辰。能登國言。渤海國使烏須弗等。乘船一艘來著部下。差使勘問。烏須弗報書曰。渤海日本。久來好隣。往來朝聘。如兄如弟。近年日本使内雄等。住渤海國。學問音聲。却返本國。今經十年。未報安否。由是。差大使壹萬福等。遣向日本國擬於朝參。稍經四年。未返本國。更差大使烏須弗等卌人。面奉詔旨。更無餘事。所附進物及表書。並在船内。戊辰。遣使宣告渤海使烏須弗曰。太政官處分。前使壹萬福等所進表詞驕慢。故告知其状罷去已畢。而今能登國司言。渤海國使烏須弗等所進表函。違例无礼者。由是不召朝廷。返却本郷。但表函違例者。非使等之過也。渉海遠來。事須憐矜。仍賜祿并路粮放還。又渤海使取此道來朝者。承前禁斷。自今以後。宜依舊例從筑紫道來朝。

六月一日、日蝕が起こっている。二日、長雨が続いている。常陸國の鹿嶋社の神賎百五人については、神護景雲元(767)年に制定し、一ヶ所に収容して良民との婚姻は許していなかった。ここに至って、元通りに居住させて二度と強制的には移動させず、同じ身分同士で結婚する場合は、全く以前の例に従うようにさせている。八日に「上野國緑野郡」の郡衙に火災が起こり、正倉八棟と米穀の穂首三十三万四千束余りを消失している。

十二日に能登國が以下のように言上している・・・渤海國使の烏須弗等が船一艘に乗って國内に来着した。使者を遣わして尋問したところ、烏須弗は書面で[渤海と日本とは、久しく善隣友好関係にあり、往来し朝賀することは互いに兄弟のようである。近年、日本使節の内雄(高内弓)等は渤海國に留まり、音楽を学んで本國に帰っている。しかし今や十年を経たが、まだその安否を知らせて来ない。---≪続≫---

そこで大使の壹萬福等を派遣し、日本國に赴いて朝廷に参上させることになった。そろそろ三年になるが、まだ本國に帰って来ないので、更に大使の烏須弗等四十人を遣わし、直接謁見を請うて御言葉を承りたいと思うだけで、他に目的はない。託された進物と上表文は共に船内にある]と答えている・・・。

二十四日に使者を遣わし、渤海國使の烏須弗に対し、太政官は以下のように宣告している・・・太政官は、前使の壹萬福等の進めた上表文の用語は驕慢であったので、その事情を告知した上で既に帰らせた。ところが今、能登國司は、[渤海國使の烏須弗等の奉った上表文とその函も通例と違って、礼儀を欠いたものである]と言上して来ている。---≪続≫---

そこで烏須弗等一行を朝廷に召さず、本國に帰還させる。ただし、上表文とその函が通例と違っているのは、使節等の過失ではない。海を渡り遠方より来航した事は、憐れむべきである。よって俸禄と道中の食糧を支給し、追い還す。また、渤海國の使節がこの道から来朝することは、従前より禁止している。今後は旧例にのっとり、「筑紫道」から来朝するべきである・・・。

<上野國緑野郡>
上野國緑野郡

上野國の郡割は、既に多くの郡名が記載され、碓氷郡佐位郡甘樂郡邑樂郡が、その地を居処する人物名と共に登場していた。と言うことで「緑野郡」は初見である。

前記したように上野國は、下野國と常陸國に挟まれた地域と推定した。現地名は北九州市門司区吉志辺りとなる。上記の既出の各郡の場所から、必然的に「緑野郡」の場所が推定されのだが、さて、その地形をあらわしているのであろうか?・・・。

名称に用いられた「緑(綠)」の文字も初見であろう。地形象形的には、綠=糸+彔=剥がされた薄皮のような様と解釈される。図に示した場所は山稜の端が平たく広がって延びている地形であることが解る。それを緑野の文字で表現したのであろう。

前出の新田驛があった郡と思われるが、郡衙の近くであったと推測される。本文中に焼失した”正倉八間”は、郡衙の場所を表しているようであるが、残念ながら平坦な地形で解読するには不向きな場所のようである。

<筑紫道>
筑紫道

渤海使が能登國に来着したのだが、少し前に前回の使者を送り還す際に遭難して能登國羽咋郡福良津に漂着したと記載されていた。その湊を仄めかすような記述ではあるが、曖昧である。

元々渤海使は、筑紫の大宰府に着岸せずに出羽國に出没する行程を採用している。既に読み解いたようにその着岸地点は佐利翼津(現地名:北九州市門司区大里東)であり、古事記の伊那佐之小濱と推定した。また、壹萬福等が大船団で来た時は、”小濱”ではなく、野代湊(現地名:同区清滝、現在の門司港周辺)に着岸したと記載されていた。

今回は船一艘での来着故に佐利翼津と思われ、その場所から能登國に向かったのであろう。上図に示した通り、戸ノ上山の北麓を東に向かい、七ツ石峠を越えれば能登國に入ることができる。多分、出羽國に向かう鹿喰峠越えでは監視が厳しく近寄り難かったのではなかろうか。勿論、単なる道迷いだったかもしれない。

この鹿喰峠越えの道を筑紫道と表記していることが解る。それは筑紫の地形を示す谷間が延びている。その麓を通るなのである。通説では、解釈不能ゆえに”九州”と訳されているが、そもそも渤海使は、”九州”の大宰府ではなく出羽國周辺に上陸して来たのである。

通説の「筑紫道」の解釈は、致命的な齟齬を生じていることになる。言い換えれば、續紀編者等が、何とか辻褄を合わせられるように捻くり出した「筑紫道」だったのであろう。出羽國に多くの驛家を設置して防衛体制を整えたわけだから(こちら参照)、無防備な能登國ではなく、この道を通行させる必要があった、とも思われる。

秋七月癸未。祭疫神於天下諸國。庚寅。詔免從四位下紀益人爲庶人。賜姓田後部。又去寳字八年放免紀寺賎七十五人。依舊爲寺奴婢。但益人一身者特從良人。甲午。以正四位下大伴宿祢駿河麻呂爲陸奥國鎭守將軍。按察使及守如故。庚子。賜供奉周忌御齋會尼及女孺二百六十九人。雜色人一千卌九人物各有差。 

七月十日に疫神を天下の諸國で祭らせている。十七日に詔されて、紀益人を放免して庶民とし、「田後部」の姓を与えている。また、天平字八(764)年に放免された紀寺の賎七十五人は、元のように奴婢としている。但し、「益人」一人だけは特に良民としている。

二十一日に大伴宿祢駿河麻呂(三中に併記)を、按察使・陸奥守のままで、陸奥國鎮守将軍に任じている。二十七日に称徳天皇の三周忌の御齋会に奉仕した尼僧と女孺二百六十九人、様々な職種の人千四十九人に、それぞれ物を賜っている。

● 田後部益人 紀朝臣益麻呂(益人)の地形を表現していると思われる。「後」=「彳+糸+夊」と分解され、地形象形的には「後」=「山稜の端がずるずると延びている様」と解釈される。田後=山稜の端がずるずると延びて平らに整えられたところと読み解ける。「益人」の出自場所が、より確実なものとなったようである。

ところで、従四位下・陰陽頭にまで昇進していた「益麻呂」の冠位剥奪の理由が、調べても釈然としない。憶測するに、井上内親王の廃皇后(光仁天皇呪詛事件)に関わっていたのかもしれない。その後の消息も不詳のようである。

八月辛亥。霖雨。左兵庫助外從五位下荒木臣忍國。養老五年以往籍。爲大荒木臣。神龜四年以來。不著大字。至是復着大字。庚午。諸國郡司。燒官物者。主帳已上皆解見任。其從政入京。及獲放火之賊。功効可稱者。量事處分。又譜第之徒。情挾覬覦。事渉故燒者。一切勿得銓擬。乃簡郡中明廉清直堪時務者。恣令任用。當團軍毅不救火者。亦准郡司解却。壬申。地動。

八月八日、長雨が続いている。左兵庫助の荒木臣忍國(道麻呂に併記)は、養老五(721)年以前の戸籍では”大荒木臣”とされていたが、神龜四(727)年以来、”大”の字を付けていない。ここに至って元のように”大”の字が付いた戸籍に復している。

二十七日に諸國の郡司で官物を焼いた者については、主帳以上は皆その現職を解任する。政務のために入京したり、または放火の犯人を捕えて功績が顕著な者は、事情に応じて処置する。また代々郡司を歴任している人であっても、心に非望を抱き故意に放火に及んだ者は、一切選考対象とはしない。そして郡内から清廉潔白で、その時々の政務をこなせる能力のある者を選び、適宜任命する。その他の軍団の軍毅で消火に努めなかった者も、郡司に準じて解任する。二十九日に地震が起こっている。

九月庚辰。以外從五位下出雲臣國上爲國造。丁亥。常陸國献白烏。壬辰。丹波國天田郡奄我社有盜。喫供祭物斃社中。即去十許丈。更立社焉。己亥。授三品難波内親王二品。己夘。授正五位上石川朝臣名足從四位下。

九月八日に出雲臣國上(益方に併記)を國造に任じている。十五日に常陸國が「白烏」を献上している。二十日に丹波國天田郡我社に盗賊が押し入り、お供えの品物を食べて神社内で倒れ死んでいる。直ちに十丈ばかり離して新たに神社を建てている。二十七日に難波内親王(海上女王に併記)に二品を授けている。七日(?)、石川朝臣名足に従四位下を授けている。

<常陸國:白烏>
常陸國:白烏

白烏献上は幾度か記載されて来た。文武天皇紀に下総國、聖武天皇紀に越中國、孝謙天皇紀に上野國安藝國、称徳天皇紀に參河國常陸國、光仁天皇紀に參河國が挙げられる。

中には、”白鳥”献上と本文に記載されているが、それでは瑞祥にならないから、間違いと解釈され、”白烏”に置換えているものもあった。

これだけ”白い烏”が捕獲されるなんて、怪しむ声が聞こえそうなのだが、古代史学は黙して語らずの有様である。何度も述べたように、その國の貴重な地形情報が提供されているのである。

さて、上記したように常陸國では、称徳天皇紀に白烏が献上されていた。「常陸國那賀郡人丈部龍麻呂。占部小足獲白烏」と記載され、那賀郡の谷奥に棲息していたと推測した。その東側に、同様の地形が見出せる。個人の穀三千斛を陸奧國鎭所に献上した宇治部直荒山の北側の谷間を開拓したのであろう。

冬十月癸夘朔。地震。乙巳。授正五位下藤原朝臣子黒麻呂從四位下。丙午。地震。戊申。安宿王賜姓高階眞人。乙夘。送壹萬福使正六位上武生連鳥守至自高麗。丙辰。二品難波内親王薨。天皇同母姉也。遣從四位下桑原王。正四位下佐伯宿祢今毛人等。監護喪事。又遣從二位大納言兼治部卿文室眞人大市。中納言從三位兼式部卿石上朝臣宅嗣。弔之。辛酉。初井上内親王坐巫蠱廢。後復厭魅難波内親王。是日。詔幽内親王及他戸王于大和國宇智郡沒官之宅。

十月一日に地震が起こっている。三日に藤原朝臣子黒麻呂(小黒麻呂)に従四位下を授けている。四日、地震が起こっている。六日に安宿王(高市皇子の孫、長屋王の子)に「高階眞人」の氏姓を賜っている。十三日に壹萬福を送る使節で武生連鳥守が高麗から帰っている。

十四日に難波内親王(海上女王に併記)が亡くなっている。天皇の同母姉であった。桑原王佐伯宿祢今毛人等を遣わして喪葬の事を監督・護衛させている。また、大納言兼治部卿の文室眞人大市、中納言兼式部卿の石上朝臣宅嗣を遣わして弔意を表させている。

十九日、井上内親王は当初、巫蠱の罪に問われて皇后を廃されていたが、後にも再び難波内親王を呪詛した。この日、詔されて、井上内親王とその子の他戸王()を大和國宇智郡にある「没官之宅」に幽閉している。

● 高階眞人安宿 「階」の文字が名称に使われた初見である。「階」=「阝+皆」と分解される。更に「皆」=「比+自」から成る文字と解説されている。地形象形的には、「階」=「山稜の端が揃って並んでいる様」と読み解ける。「高」は高市皇子の「高」とすると、高階=[高]の麓で山稜の端が揃って並んでいるところと解釈される。安宿王の別名として、申し分のない表記であろう。

<大和國宇智郡沒官之宅>
大和國宇智郡沒官之宅

皇后である井上内親王等を幽閉した場所を「沒官之宅」と表現している。「官に没収した邸宅」と読み下せるのだが、地形象形表記と重ねたものであろう。

宇智郡は、文武天皇紀に幾度か登場し、大倭國宇智郡あるいは有智郡と記載されている。その後も、この地を出自とする人物が登場している。孝行と節操を褒め称えられた日比信紗の居処であった。

では、「沒官之宅」は如何なる地形を表しているのであろうか?…「官」=「宀+𠂤」=「山稜に挟まれた管ような形をしている様」、頻出の「宅」=「宀+乇」=「谷間に山稜が延び出ている様」と解釈した。

纏めると沒官之宅=山稜に挟まれた管のような地に埋没して延び出ているところと読み解ける。図に示した場所の地形を表していることが解る。正に幽閉するのに適した地形である。万葉の世界、多様な表現を見逃しては勿体ないであろう。

ところで、後の寶龜六(775)年四月二十七日に「井上内親王。他戸王並卒」と記載されている。二年も経たないうちに共に亡くなるとは・・・自害されたのか、それとも・・・。

十一月辛夘。勅。故大僧正行基法師。戒行具足。智徳兼備。先代之所推仰。後生以爲耳目。其修行之院。惣卌餘處。或先朝之日。有施入田。或本有田園。供養得濟。但其六院未預施例。由茲法藏湮廢。無復住持之徒。精舍荒凉。空餘坐禪之跡。弘道由人。實合奬勵。宜大和國菩提。登美。生馬。河内國石凝。和泉國高渚五院。各捨當郡田三町。河内國山埼院二町。所冀眞筌秘典。永洽東流。金輪寳位。恒齊北極。風雨順時。年穀豊稔。

十一月二十日に次のように勅されている・・・故大僧正の行基法師は、持戒・修行ともに完全で、智慧・仁徳も兼ね備えていた。先の御代においても師として推し讃仰するところであったし、後輩も師範としている。その修行した院は全てで四十ヶ所余りであるが、あるいは先朝の時に施入された田地があり、あるいは本から所有している田や園地もあって、維持・経営するには充分である。ただ、その内の六院については、まだ施入に預かっていない。これでは寺が廃滅して二度と住持する僧侶もいなくなり、精舎は荒廃して、空しく坐禅の跡を残すのみとなる。---≪続≫---

そもそも道を弘めることは人間あってのことであるので、真剣に仏法修行を奨励すべきである。そこで大和國の「菩提院・登美院・生馬院」、河内國の「石凝院」、和泉國の「高渚院」の五院にそれぞれその郡の田三町、河内國の「山埼院」には二町を喜捨せよ。これによって真理を伝える方便となる秘典が永く広く東方に流通し、仏陀の尊い位が常に北極星と等しく不変であって、風雨が時節に従い、穀物が豊かに稔ることを願うものである・・・。

大和國:菩提院・登美院・生馬院

<大和國:菩提院・登美院・生馬院>

「菩提院」と「登美院」については、大和國添下郡にあったようである。孝行な大倭忌寸果果安が住まっていた場所を登美郷と推定した。おそらく、登美院は、その谷間の出口辺り、現在の霊泉寺付近にあったのではなかろうか。菩提院菩提=[不]の字形に岐れた山稜の先が匙のように延びているところと解釈される。現在の法光寺辺りにあったと推定される。

生馬院は、書紀に登場した膽駒山(續紀では生馬山と表記)の麓に建てられていたのではなかろうか。場所の特定は若干難しいが、聖武天皇紀に長屋王の事件に関わった漆部駒長の居処近くにあったように思われる。初めの二院は大河の近傍、最後の一院は山間部の開拓に拠点としたのであろう。

河内國:石凝院・山埼院

<河内國:石凝院・山埼院>

石凝院は、河内國河内郡にあったと知られている。石凝=山麓に延びる山稜が寄せ集められたようなところと解釈すると、図に示した場所、現在の本照寺辺りに造られていたように思われる。この地は、多くの王等が臣籍降下し、三嶋眞人の氏姓を賜っていた場所である(こちらこちら参照)。おそらく、広大な谷間の治水を行う拠点だったのではなかろうか。

山埼院については、些か情報が錯綜としているようである。一説では”山背國”乙訓郡山崎が挙げられているが、本文は明確に”河内國”と記載されている。「山埼」は固有の地名ではなく、勿論、地形象形表記である。その地形は、山埼=[山]の文字形のように延びた山稜の端が三角に尖っているところと読み解ける。その地形を図に示した場所に見出せる。

<和泉國:高渚院>
交通の要所でもあり、また、大河の近傍に位置する場所である。土木事業を成し遂げるために作られた院だったのではなかろうか。

和泉國:高渚院

情報によると、この院は和泉國大鳥郡にあったようである。行基法師の出自の場所であり、既に多くの院が建てられていたのであろう。その中で強化すべき一院であったと思われる。

高渚院高渚=皺が寄ったような山稜の麓で川が交差しているところと解釈される。図に示した場所が、その地形をしていることが確認できる。

現在は細長い溜池になっているが、当時は川が流れる谷間であったと推測される。谷間の治水事業を行ったのではなかろうか。裾野に広がる田の稲作に不可欠の事業だったであろう。もしかすると、彼等が溜池にしたのかもしれない。

閏十一月乙夘。造西大寺次官從四位下勳六等津連秋主卒。辛酉。詔。僧正賻物准從四位。大少僧都准正五位。律師准從五位。癸亥。散位從四位下百濟王元忠卒。甲子。僧正良弁卒。遣使弔之。丁夘。授无位大原眞人室子從五位下。

閏十一月十五日に造西大寺次官で勲六等の津連秋主が亡くなっている。二十一日に次のように詔されている・・・僧正に対する賻物(葬祭料)は従四位に、大・少僧綱は正五位に、律師は従五位に准ぜよ・・・。

二十三日に散位の百濟王元忠(①-)が亡くなっている。二十四日に僧正の良弁が亡くなっている。使者を遣わして弔意を表させている。二十七日に大原眞人室子(年繼に併記)に従五位下を授けている。

十二月癸巳。以外從五位下大和宿祢西麻呂爲主計助。乙未。勅。増益福田。憑釋教之弘濟。光隆國祚。資大悲之神功。是以。比日之間。依藥師經。屈請賢僧。設齋行道。經云。應放雜類衆生。朕以。雜類之中。人最爲貴。至于放生。理必所急。加以陽氣始動。仁風將扇。順此時令。思施霈澤。可大赦天下。自寳龜四年十二月廿五日昧爽以前大辟已下罪無輕重。已發覺。未發覺。已結正。未結正。繋囚見徒。咸皆赦除。其犯八虐。故殺人。私鑄錢。常赦所不免者。不在赦例。」備前國言木連理。

十二月二十二日に大和宿祢西麻呂(弟守に併記)を主計助に任じている。二十四日、次のように勅されている・・・福徳をもたらす仏法の僧尼を繁栄させるかどうかは、仏の教えの広い救済にかかっているし、王の位を栄えさせるのは、仏、菩薩の優れた功績による。そのためこのごろ『藥師経』によって賢僧を招き、齋会を設けて仏道を修行させている。経には[種々の生き物を放生すべきである]と言っている。---≪続≫---

朕が考えるところでは、種々のうちでは人間が最も貴い。放生にいたっては、道理として急を要する。それだけでなく、陽の気がようやく動き出し、恵み深い風も吹こうとしている。この時節に応じた制度に従って大いなる恩沢を施そうと思う。天下に大赦すべきである。---≪続≫---

寶龜四年十二月二十四日の夜明け前の死罪以下、罪の軽重を問わず、既に発覚した罪、まだ発覚していない罪、既に罪名の定まった者、まだ罪名の定まらない者、捕らわれて現に囚人となっている者は、全て皆赦免せよ。八虐、故意に殺人、贋金造り、通常の恩赦に免されない者は赦の範囲に入れない・・・。

また、備前國が「木連理」が見つかったと言上している。

<備前國:木連理>
備前國:木連理

既に各地の「木連理」が献上されているが、直近の光仁天皇紀でも山背國が名乗りを上げていた(こちら参照)。中国の例に倣って「木連理」=「根や幹は別々だが,枝がひとつに合わさっている木」と解釈されている。

本著では、木=山稜が木の形をしている様と読み解く以上、その地の地形表記と解釈する。勿論、それを発見したのは、その地を開拓したことを示唆しているのである。

そんな訳で、[木]が連なって区分けわれている場所を備前國で探すと、図に示した場所が見出せる。少々地形変形があるので、国土地理院航空写真1961~9年を参照した。

備前國は、北へ北へと開拓地を拡大して来たのであるが、邑久郡の北側に位置する場所であることが解る。山稜の間の谷間に棚田が整然と造られて行ったことを伝えているのである。

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續日本紀卷第卅二尾


2024年1月21日日曜日

天宗高紹天皇:光仁天皇(10) 〔661〕

天宗高紹天皇:光仁天皇(10)


寶龜四(西暦773年)正月の記事からである。原文(青字)はこちらのサイトから入手、訓読続日本紀(今泉忠義著)、続日本紀4(直木考次郎他著)を参照。

四年春正月丁丑朔。御大極殿。受朝。文武百官。及陸奥出羽夷俘。各依儀拜賀。宴五位已上於内裏賜被。」授无位不破内親王本位四品。无位河内女王本位正三位。戊辰。授從五位上掃守王正五位下。己巳。授正五位上奈癸王從四位下。從五位下大中臣朝臣子老從五位上。癸未。勅曰。朕以寡薄忝承洪基。風化未洽。恒深納隍之懷。災祥屡臻。弥軫臨淵之念。今者初陽啓暦。和風扇物。天地施仁。動植仰澤。思順時令。式覃寛宥。宜可大赦天下。自寳龜四年正月七日昧爽已前大辟已下。罪無輕重。已發覺。未發覺。已結正。未結正。繋囚見徒。咸皆赦除。但八虐。強竊二盜。私鑄錢。常赦所不免者。不在赦限。是日。御重閤中院。授從五位上依智王正五位下。從五位下矢口王從五位上。從四位上藤原朝臣是公正四位下。正五位下紀朝臣廣庭從四位下。從五位下文室眞人高嶋。紀朝臣廣純。美和眞人土生。中臣朝臣常。當麻眞人永繼並從五位上。從六位上紀朝臣眞乙。從六位下藤原朝臣菅繼。正六位上石川朝臣在麻呂。多治比眞人林。田中朝臣廣根。安倍朝臣弟當並從五位下。正六位上志我戸造東人。上毛野公息麻呂並外從五位下。礼畢宴於五位已上。賜物有差。癸酉。授外從五位下上毛野坂本朝臣男嶋從五位下。戊寅。立中務卿四品諱爲皇太子。詔曰。明神大八洲所知〈須〉和根子天皇詔旨勅命〈乎〉親王諸王諸臣百官人等天下公民衆聞食〈止〉宣。隨法〈尓〉可有〈伎〉政〈止志弖〉山部親王立而皇太子〈止〉定賜〈布〉。故此之状悟〈天〉百官人等仕奉〈礼止〉詔天皇勅命〈乎〉衆聞食宣。大赦天下。但謀殺故殺。私鑄錢。強竊二盜。及常赦所不免者。並不在赦限。又一二人等〈仁〉冠位上賜。高年窮乏孝義人等養給〈久止〉勅天皇命〈乎〉衆聞食宣。庚辰。陸奥出羽蝦夷俘囚歸郷。叙位賜祿有差。辛夘。授出羽國人正六位上吉弥侯部大町外從五位下。以助軍粮也。 

正月一日に大極殿に出御されて朝賀を受けている。文武の百官、更に陸奥・出羽國の蝦夷は、それぞれ儀式に従って拝賀している。五位以上の官人を内裏に召して宴を催し、夜具を賜っている。また、無位の不破内親王に本位の四品、無位の河内女王に本位の正三位を授けている。(戊辰?)、掃守王に正五位下、(己巳?)、奈癸王(奈貴王。石津王に併記)に從四位下、大中臣朝臣子老に從五位上を授けている。

七日に次のように勅されている・・・朕は徳が薄く少ない身でありながら、忝くも皇位を継承し、教化がまだあまねく行き渡らず、常に人民に辛苦を強いているのではないかという懸念が深い。災厄の兆しはしばしば現われ、いよいよ危機に直面する思いが去来する。今日は、新年で暦日も改まり、和やかな春風が万物を吹き、天地は仁を施し、動植物は恩沢を仰いでいる。朕は時節の運行に応じた政令に従って、寛大な宥しを施そうと思う。---≪続≫---

そこで天下に大赦を行う。罪の軽重を問わず、既に発覚した罪、まだ発覚していない罪、既に罪名の定まったもの、まだ罪名の定まらないもの、捕らわれて現に囚人となっているものは、皆全て赦免する。但し、八虐、強盗・窃盗、贋金造りなど、通常の赦では免されない者は、赦免の範囲に入れない・・・。

この日、重層の中院に出御されて、依智王()に正五位下、矢口王()に從五位上、藤原朝臣是公(黒麻呂)に正四位下、紀朝臣廣庭(宇美に併記)に從四位下、文室眞人高嶋(高嶋王)紀朝臣廣純美和眞人土生(壬生王)中臣朝臣常(宅守に併記)當麻眞人永繼(永嗣。得足に併記)に從五位上、「紀朝臣眞乙・藤原朝臣菅繼・石川朝臣在麻呂」・多治比眞人林(乙安に併記)・「田中朝臣廣根」・安倍朝臣弟當(帶麻呂の子。詳細はこちら参照)に從五位下、志我戸造東人(小野社に併記)・「上毛野公息麻呂」に外從五位下を授けている。儀式が終わって、五位以上の官人と宴を催し、それぞれに物を賜っている。(癸酉?)、上毛野坂本朝臣男嶋(石上部男嶋、上毛野坂本公、更に朝臣賜姓)に内位の從五位下を授けている。

二日、中務卿の諱(山部親王、後の桓武天皇)を皇太子に立て、次のように詔されている(以下宣命体、一部漢文)・・・明つ神として大八洲を統治する和根子天皇の御言葉として仰せられる御言葉を、親王・諸王・諸臣・百官達、天下の公民達、皆承れと申し渡す。法に従って行わるべき政務として、山部親王を立てて皇太子と定めた。それ故にこの事情を理解して、百官達は仕えるように、と仰せになる天皇の御言葉を、皆承れと申し渡す。また、天下に大赦する。但し、謀議による殺人、故意による殺人、贋金造り、強盗・窃盗など、通常の罪では免されない者は、いずれも赦免の範囲に入れない。また、一人、二人の人達の冠位を上げる。高齢者。困窮している人達を養い、優遇する、と仰せになる天皇の御言葉を、皆承れと申し渡す・・・。

四日(?)、陸奥・出羽國の蝦夷と帰順した蝦夷が郷里に帰っている。それぞれに官位を授け、物を賜っている。十五日に出羽國の人である「吉弥侯部大町」に外従五位下を授けている。兵粮を援助したためである。

<紀朝臣眞乙-虫女>
● 紀朝臣眞乙

全く途切れることなく登場する「紀朝臣」一族であるが、この人物も系譜不詳である。名前を頼りに出自の場所を求めることになるが、なかなかに骨の折れる作業である。

既出の文字列である眞乙=[乙]の字形に曲がった地が寄り集まった窪んだところと読み解ける。その地形を図に示した場所に見出せる。

戸籍改訂の際に誤って奴婢にされてしまったのを、淳仁天皇紀に訴えがあって回復されたという記述があった。彼等の地は”木國”なのだが、續紀には國司・郡司任命の記載はなく、國としての正式に認知されていなく、戸籍の管理も杜撰だったかもしれない。

勿論、「木國・紀國・紀伊國」の関係上、あからさまに出来ない事情もある。いずれにせよ、垣間見せるだけで委細は闇の中である。通説の混乱は当然ながら、書紀・續紀の編者等も甚く頭を悩ましたことであろう。ところで、この人物は、この後数回登場されているようである(従五位上・上総守)。

少し後に紀朝臣虫女が従五位下を叙爵されて登場する。同様に系譜不詳であり、蟲=山稜の端が細かく三つに岐れている様の地形を探すと、「眞乙」の谷間の出口辺りに、その地形を見出せる。関連する情報も、この後に登場されることもなく、取り敢えずの出自場所としておこう。

<藤原朝臣菅繼>
● 藤原朝臣菅繼

調べると、この人物は式家の綱手の子であったことが分かった。この系列では初見の人物である。しかしながら、式家の地形は変形が大きく、殆ど詳細な出自の場所を求めることは叶わなかった。

前出の良繼の子達で人數・諸姉・宅美は、父親の近傍としたに止めた。早期に開拓されたこともあるが、そもそも標高差が少なく、極めて判別し辛い場所のように思われる(今昔マップ1922~6参照)。

そんな背景の中で、菅繼=管のような山稜が連なっているところと解釈すると、図に示した場所が出自と推定される。種繼の西側、何だか名前に用いられる”繼”の文字が多くなっているようである。後に従四位下・右京大夫で亡くなられたと記載されている。

<石川朝臣在麻呂-永成>
● 石川朝臣在麻呂

「石川朝臣」一族も途切れることを知らないようである。こちらは地形変形が少なく、その上起伏が明瞭な地であることから、些か判別が容易になるのだが、これだけ大人数では空地が残り少ない。

系譜不詳故に名前が表す地形を求めることになる。ところで、用いられている文字の「在」は、記紀・續紀を通じて初見であろう。

「在」=「才+土」から成る文字と解説されている。「才」は、「財」や「材」に含まれる文字要素である。それぞれの文字の「ザ(サ)イ」の音は、これに基づくものである。と言うことは、「才」=「断ち切る、遮る」の意味となり、地形象形的にも同様の解釈となる。

在=才+土=盛り上げられた地が遮られている様と解釈される。この地形を図に示した場所に見出せる。確かに谷間を遮る「財」よりも、より的確に地形を表現していることが解る。麻呂萬呂の地形も辛うじて確認できるようである。この人物は、従五位上・尾張介となるが、その後の消息は不明のようである。

後(桓武天皇紀)に石川朝臣永成が従五位下を叙爵されて登場する。永成=平らに整えられた高台が長く延びているところと解釈すると、図に示した場所が出自と推定される。その後、續紀中にもう一度登場している。

<田中朝臣廣根-難波麻呂-飯麻呂-吉備-淨人>
● 田中朝臣廣根

「田中朝臣」一族については、多太麻呂が孝謙天皇紀に登場して以来新人の名前は記載されることはなかった。久々であるが、相変わらず系譜は定かではないようである。

この後も幾人かの人物が登場されるようだが、詳細は後日として、廣根の名前が表す地形を求めることにする。

廣根=根のように延びる山稜が岐れて広がっているところと解釈する。すると図に示した多太麻呂の南側、少麻呂の西側にその地形を確認することができる。現在の香春岳西麓を沿って一族が広がって行った様子が伺える。

少し後に田中朝臣難波麻呂が従五位下を叙爵されて登場する。頻出の難波=川が直角に曲がる畔を表している。その場所を図に示した場所に見出せる。これ等の人物は、この場限りの登場であり、この後について、他の史書の情報も得られることはなく、不詳のようである。

更に後に田中朝臣飯麻呂が従五位下を叙爵されて登場する。頻出の飯=食+反(厂+又)=麓の山稜の傍らで谷間がなだらかに延びている様と解釈したが、図に示したように「難波麻呂」の南隣の場所を表していることが解る。この人物は、その後に筑後守に任じられたと記載されている。

桓武天皇紀に入って田中朝臣吉備が初見で正五位下を叙爵されて登場する。女官だったと思われるが、この叙位だけで以後の消息は不明のようである。見慣れた吉備=矢の入った箙に蓋が付いているようなところである。立派な地形が確認される。「少麻呂」に関わる人物だったかもしれない。

また続いて田中朝臣淨人が従五位下を叙爵されて登場する。淨人=水辺で両腕のような山稜で取り囲まれたような谷間があるところと解釈すると、図に示した、「吉備」の北側が出自と推定される。残り少ない續紀中にもう一度登場されるようである。

<上毛野公息麻呂-廣本>
● 上毛野公息麻呂

上毛野公(元は田邊史)一族も途切れずに登場している。過去の図が少々込み入っているので改めて右図を掲載した。

この一族の居処は、現地名の京都郡みやこ町勝山黒田、その地にある極めて特徴的な”鳥”の形をした、田原道沿いにある山稜に蔓延っていたと推定した。

名前に用いられている、幾度か登場の息=自(鼻)+心=息を出すように開いた谷間の奥にある様と解釈した。その地形を図に示した場所に見出せる。百枝の谷間の奥に当たる場所である。

麻呂萬呂と思われるが、地図上での確認は些か曖昧なようである。この後、外従五位下のままで周防守に任じられた記載されているが、その後の消息は不明のようである。

少し後に左京人田邊史廣本上毛野公の氏姓を賜っている。現住所の左京ではなく「田邊史」(後に上毛野公を賜姓)の居処、現地名では京都郡みやこ町勝山黒田が出自の人物と思われる。廣本=山稜の端が広がって途切れたところと解釈すると、図に示した「高額」の麓辺りと推定される。

<吉弥侯部大町>
● 吉弥侯部大町

「出羽國人」と記載されて登場する人物として初見である。また、称徳天皇紀に陸奥國の各郡の人々に賜姓している記述があった。その中に元の氏姓が「吉弥侯部」である人物が数名含まれていた(こちらこちら参照)。

帰順した蝦夷への賜姓であり、陸奥國の政情が大きく変化した時期であったことを伝えている。出羽國は陸奥國を分割して建てられた國であり、おそらく出羽國も、程度の差こそあれ、同様な状況にあったものと推測される。

既出の文字列である吉弥侯=蓋をするような山稜の傍らに矢のように延びた先が弓なりに広がっているところと解釈される。図に示した場所を表していることが解る。名前の大町=平らな頂の山稜の麓が平らな区切られた地になっているところと読み解くと、この人物の出自場所を求めることができる。「町」を名前に用いた初めてのようであり、「町」=「田+丁」と分解して解釈した。

兵粮を供出した様子であるが、彼等の近隣には多くの「驛家」が造られ(こちら参照)、おそらく多くの兵粮を要したのではなかろうか。「驛家」及び「大町」の居処が解けて、續紀が語らんとするところが浮かび上がって来たようである。

二月丙午朔。授命婦從五位下文室眞人布登吉正五位下。辛亥。下野國災。燒正倉十四宇。穀糒二万三千四百餘斛。壬子。志摩。尾張二國飢。並賑給之。癸丑。下総國猿嶋郡人從八位上日下部淨人賜姓安倍猿嶋臣。己未。先是播磨國言。餝摩郡草上驛。驛戸便田。今依官符捨四天王寺。以比郡田遥授驛戸。由是不能耕佃。受弊弥甚。至是勅班給驛戸。壬戌。地動。乙丑。渤海副使正四位下慕昌祿卒。遣使弔之。贈從三位。賻物如令。丙寅。復中臣朝臣鷹主本位從五位下。壬申。初造宮卿從三位高麗朝臣福信専知造作楊梅宮。至是宮成。授其男石麻呂從五位下。是日。天皇徙居楊梅宮。甲戌。復石川朝臣豊麻呂本位從五位下。」授從五位下紀朝臣眞媼從五位上。正六位上石川朝臣毛比從五位下。乙亥。地震。

二月一日に命婦の文室眞人布登吉(長谷眞人於保に併記)に正五位下を授けている。六日、下野國に火災が起こり、正倉十四棟と米穀・糒二万三千四百余石を焼失している。七日に志摩・尾張二國に飢饉が起こり、それぞれ物を恵み与えている。八日に「下総國猿嶋郡」の人である「日下部淨人」に「安倍猿嶋臣」の氏姓を賜っている(こちら参照)。

十四日に、これより先、播磨國が以下のように言上している・・・餝摩郡草上驛の驛戸が耕作していた便宜のよい田については、現在、太政官符によって四天王寺に施入され、はるかに隔れた隣郡の田を驛戸に授けられた。このため耕営することができず、弊害を被ることはいよいよ甚だしくなっている・・・ここに至って、勅されて、草上驛の元の田地が班給されている。

十七日に地震が起こっている。二十日、渤海國の副使の慕昌禄が亡くなっている。使を遣わして弔意を表し、從三位を贈位している。物を贈ることは令の通りであった。二十一日に中臣朝臣鷹主(伊加麻呂に併記)を本位の従五位下に復している。

二十七日、当初、造営卿の高麗朝臣福信を、楊梅宮の造営に専ら当たらせていたが、ここに至って宮が完成した。その子息の「石麻呂」に従五位下を授けている。この日、天皇は楊梅宮に居を移している。二十九日に石川朝臣豊麻呂(君成に併記)を本位の従五位下に復している。「紀朝臣眞媼」に従五位上、「石川朝臣毛比」に従五位下を授けてる。三十日に地震が起こっている。

<高麗朝臣石麻呂>
● 高麗朝臣石麻呂

「高麗朝臣」の氏姓は、高麗から渡来した人々の後裔が賜ったと記載されていた。福徳の孫の福信(背奈王、背奈公)が孝謙天皇紀に賜り、称徳天皇紀には「造宮卿從三位高麗朝臣福信爲兼武藏守」と活躍している。

極めて優秀な人物だったのであろう。その彼が、また一仕事を成し遂げ、その息子に爵位を授けたと記している。名前も、すっかり倭風に名付けられた入る。

石麻呂石=厂+囗=麓に区切らた小高いところがある様であり、図に示した辺りが出自だったのであろう。麻呂萬呂と解釈され、その地形も確認することができる。

この後に「高麗朝臣石麻呂」として、二度ばかり登場され、その後に高倉朝臣を賜姓されている。もうすっかり、倭風の氏姓となったようである。

<紀朝臣眞媼-全繼>
● 紀朝臣眞媼

「紀朝臣」一族であるが、系譜不詳であり、また、関連する情報も欠落している様子である。例によって、名前が表す地形から出自の場所を求めてみよう。

初見の文字である「媼」=「女+𥁕」と分解される。「𥁕」は「溫(温)」=「氵+𥁕」に含まれる文字要素である。更に「𥁕」=「囚+皿」に分解される。

地形象形的には「𥁕」=「平らな地が閉じ込められたような様」と解釈される。「氵」ではなく「女」との組合せ故に「媼」=「閉じ込められたような谷間が平らで嫋やかに曲がっている様」と読み解ける。

纏めると眞媼=平らで嫋やかに曲がっている閉じ込められたような谷間が寄り集まっている窪んだところと解釈される。その地形を探すと、元明天皇紀に紀朝臣音那が登場していた。音那=閉じ込められたような谷間がしなやかに曲がって延びているところと解釈した。その谷間の上流域に見出すことができる。

書紀の天武天皇紀に登場した紀臣大音も、この谷間を出自とし、「音那」と「眞媼」の間と推定した。現在の豊前市大村にある鈴木谷と名付けられている谷間の特徴を捉えて「音・媼」で表現したのであろう。

<石川朝臣毛比・石川淨足>
後(桓武天皇紀)に紀朝臣全繼が従五位下を叙爵されて登場する。全繼=谷間にすっぽりと嵌った玉のような地が連なっているところと解釈すると、図に示した場所が出自と推定される。

● 石川朝臣毛比

この女孺は、この後に幾度か登場され、最終命婦・従四位下にまで昇進されている。おそらく「石川朝臣」一族の女性としては最も高位に就かれた最後の人物だったように思われる。延暦二(783)年八月に亡くなられたとのことである。

「毛比」という古事記風の名前であり、参考としている資料でも訓されておらず、この時代になっても地形象形表記による命名を行っていた端的な例と思われる。毛比=鱗のような地がくっ付いて並んでいるところと解釈すると、図に示した辺りが見出せる。東人・加美の谷間の出口に当たる場所である。

後の『寶龜の乱』と言われる事件に陸奥國の掾である石川淨足が登場する。その場限りであり、詳細は不明であるが「石川朝臣」一族には違いないであろう。淨足=両腕で取り囲むように延びた山稜の麓で谷間が足を開いたようになっているところと解釈すると、図に示した場所が出自と思われる。「加美」の谷間の奥に当たるところである。

三月庚辰。勅。宮人。職事季祿者。高官卑位依官。高位卑官依位。但散事五位已上者給正六位官祿。」近江。飛騨。出羽三國大風人飢。並賑給之。甲申。復川邊女王本位從五位下。戊子。奉黒毛馬於丹生川上神。旱也。己丑。天下穀價騰貴。百姓飢急。雖加賑恤。猶未存濟。於是官議奏曰。常平之義。古之善政。養民救急。莫尚於茲。望請。准國大小。以正税穀。據賎時價。糶与貧民。所得價物全納國庫。至於秋時。賣成穎稻。國郡司及殷有百姓。並不得賈。如有違者。不論蔭贖。科違勅罪。如百姓之間。准賎時價。出糶私稻。滿一万束者。不論有位白丁。叙位一階。毎加五千束。進一階叙。但五位已上不在此限。奏可。乃遣使於七道諸國。各糶當國穀穎。兼賑飢民。」復无位飛鳥田女王本位從四位下。壬辰。賑給左右京飢人。」參河國大風。民飢。賑給之。

三月五日に次のように勅されている・・・宮人(女官)で定まった職務を持つ者の季禄については、官職が位階に比して高い場合は官職に従い、位階が官職に比して高い場合には位階の従え。但し、定まった職務のない者でも五位以上の者は、正六位相当の官職の季禄を与えよ・・・。また、近江・飛騨・出羽の三國で大風が吹いて人民が飢え、それぞれ物を恵み与えている。

九日に川邊女王を本位の従五位下に復している。十三日に黒毛の馬を丹生川上神(芳野水分峰神)に奉納している。日照りのためである。

十四日に天下の米穀の価格が騰貴し、人民の飢饉が深刻となっている。物を恵み与えたけれども、まだ充分救うことができていない。そこで太政官が審議上奏して、以下のように述べている・・・米価を調節するという考えは古代の善政である。人民を養い飢饉から救うには、これより優れた方策はない。國の規模の大小に準じて正税の米穀を貯え置き、値が安い時の米価によって貧しい人々に売り与え、得た代価の物資は全て國の倉庫に納入して置き、秋になればそれを売って穎稻(脱穀する前の刈り取った稲)に換える。國司・郡司と富裕な人民にはいずれも買わせない。もし違反する者があれば、蔭や贖などの特典を考慮することなく、違勅の罪を科す。もし人民の間にあって、値が安い時の価格で私稲を売り、それが一万束以上になる者には、有位者、白丁を問わず、位一階を与え、五千束増加する毎に、更に一階を進め授ける。但し、五位以上の官人は、この限りではない・・・。

この上奏は許可され、そこで使者を七道の諸國に遣わし、それぞれの國の米穀や を売り出させ、併せて飢えている人民に物を恵み与えている。飛鳥田女王を本位の従四位下に復している。十七日に左右京の飢えた人民に物を恵み与えている。參河國に大風が吹き、人民が飢えたので物を恵み与えている。

夏四月癸丑。捨山背國國分二寺便田各廿町。壬戌。勅曰。朕君臨四海。子育兆民。崇徳忘飡。恤刑廢寝。而徳化未洽。災異屡臻。興言念此。自顧多慙。設法雖期無刑。觀辜猶有垂泣。宜因生長之時式弘寛宥之澤。可大赦天下。自寳龜四年四月十七日昧爽以前大辟罪已下罪。無輕重。已發覺。未發覺。已結正。未結正。繋囚見徒。常赦所不免者。咸赦除之。寳字元八兩度逆黨遠近配流。亦宜放還。但其八虐及強竊二盜不在赦例。普告遐邇知朕意焉。丁夘。奉黒毛馬於丹生川上神。旱也。」復菅生王本位從五位上。

四月八日に山背國の國分二寺に、便宜の良い地にある田をそれぞれ二十町喜捨している。十七日に次のように勅されている・・・朕は天下に君主として臨み、人民を子として育んでいる。徳を尊ぶのあまり食事を忘れ、刑の執行を憐れむあまり寝ることもできない。しかし、徳化はまだあまねく行き渡らず、災異はしばしば発生している。ここに、この事を考えてみると、自ら反省して恥じ入ることが多い。法律を制定するのは、刑罰をなくすことを期するものであるが、現実に罪科に処せられている人を見ると、やはり涙が流れる。---≪続≫---

夏は万物が成長する時期でもあるので、大いなる宥しの恩沢を弘めるべきである。天下に大赦する。寶龜四年四月十七日の夜明け前以前の死罪以下、罪の軽重を問わず、既に発覚した罪、まだ発覚してない罪、既に罪名の定まったもの、まだ罪名の定まっていないもの、捕らわれて現に囚人となっているもの、通常の赦では免されない者も、全て赦免する。天平字元(757)年と八(764)年の両度の逆党で、遠流・近流の者も、また釈放すべきである。但し、八虐、強盗・窃盗は赦免の範囲に入れない。広く遠近に布告して、朕の意向を知らせるようにせよ・・・。

二十二日に黒毛の馬を丹生川上神(芳野水分峰神)に奉納している。日照りのためである。また、菅生王を本位の従五位上に復している。

五月乙亥朔。奉幣於畿内群神。旱也。丙子。充丹生川上神戸四烟。以得嘉注也。辛巳。阿波國勝浦郡領長費人立言。庚午之年。長直籍皆著費之字。因茲。前郡領長直救夫。披訴改注長直。天平寳字二年。國司從五位下豊野眞人篠原。以無記驗更爲長費。官判依庚午籍爲定。又其天下氏姓青衣爲采女。耳中爲紀。阿曾美爲朝臣足尼爲宿祢。諸如此類。不必從古。丙戌。授四品不破内親王三品。己丑。伊賀國疫。遣醫療之。辛夘。散位從四位下勳二等日下部宿祢子麻呂卒。癸巳。以從五位下上毛野坂本朝臣男嶋爲造酒正。從五位下石川朝臣豊麻呂爲左京亮。從四位下津連秋主爲造西大寺次官。辛丑。有星隕南北各一。其大如盆。

五月一日に幣帛を畿内の神々に奉納している。日照りのためである。二日に丹生川上神(芳野水分峰神)に神戸として四戸を充当している。嘉ばしい雨を得たからである。

七日に「阿波國勝浦郡」の郡領の「長費人立」が以下のように言上している・・・庚午(670)年、長”直”の戸籍には、皆”費”の字を付けた。このために前任の郡領の「長直救夫」は訴え出て、長”直”と改めて注記した。ところが天平字二(758)年、國司の豊野眞人篠原(篠原王)は根拠となる記録はないとして、再び長”費”とした・・・。

太政官は判断して、庚午年の戸籍に準拠して決定するようにしている。また、天下の人民の氏姓について、”青衣”を”采女”とし、”耳中”を”紀”とし、”阿曾美”を”朝臣”とし、”足尼”を”宿祢”としているが、これら種々の例については、必ずしも古例に従わないことにしている。

十二日に不破内親王に三品を授けている。十五日に伊賀國で疫病が流行したので、医師を派遣して治療させている。十七日に散位の勲二等の日下部宿祢子麻呂(大麻呂に併記)が亡くなっている。十九日に上毛野坂本朝臣男嶋を造酒正、石川朝臣豊麻呂(君成に併記)を左京亮、津連秋主を造西大寺次官に任じている。二十七日に星が現れ、南北に一つずつ落ちている。その大きさは甕ぐらいであった。

<阿波國勝浦郡:長費人立・長直救夫>
阿波國勝浦郡

「阿波國」の各郡については、称徳天皇紀に板野郡・名方郡・阿波郡、引き続いて麻殖郡が記載されていた。前者の三郡では、庚午(670)に「凡直」の氏姓を賜っていたのに、何故か「凡費」とされてしまい、それを訴えて本来の氏姓に戻されたいた。上記本文と類似する事件であった。

後者の麻殖郡については、連姓から宿祢姓へ改姓されていて、その他の郡とは、些か異なる様相であったような記述であった。

また神護景雲元(767)年十二月に「收在阿波國王臣功田位田。班給百姓口分田。以其土少田也」と記載され、本著が推定する現地名の北九州市若松区藤木辺り、石峰山南麓の急峻な地形の場所であることと矛盾しない。現在の徳島県の大河吉野川流域を有する場所とは、全くかけ離れた地形である。

やや話が横道に入るので戻して・・・勝浦郡が上記四郡に加わっている。勝浦=盛り上げられた地の麓の水辺で平らに広がっているところと解釈される。その地形を名方郡の東側、現在の洞海湾の入口に面するところに見出せる。当時の海水面は”浦”の矢印辺りまで入り込んでいたと推測される。

● 長費人立 訴えが通って”直”姓を賜ることになった大領である。人立=[人]の文字形の谷間が並んでいるところと解釈すると、図に示した場所が出自と推定される。氏名の長=山稜が長く延びている様、下記も同じく、である。

● 長直救夫 前大領の名前に用いられた「救」の文字は初見であろう。類似する文字では捄=手+求=手のような山稜が引き寄せられている様と読み解いた(こちら参照)。ならば救夫=折れ曲がった山稜に二つに岐れた山稜が引き寄せられているようなところと解釈される。この特異な地形(の表現)を「勝浦」の谷間の西側に確認することができる。

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本文中に記載された「天下氏姓青衣爲采女。耳中爲紀。阿曾美爲朝臣足尼爲宿祢」の「青衣・耳中・阿曾美・足尼」は、地形を表しているようだが、詳細は後日に述べることにする。

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2024年1月13日土曜日

天宗高紹天皇:光仁天皇(9) 〔660〕

天宗高紹天皇:光仁天皇(9)


寶龜三(西暦772年)九月の記事からである。原文(青字)はこちらのサイトから入手、訓読続日本紀(今泉忠義著)、続日本紀4(直木考次郎他著)を参照。

九月庚辰。山背國言。木連理。乙酉。正三位中納言兼宮内卿右京大夫石川朝臣豊成薨。左大弁從三位石足之子也。遣使弔賻之。戊戌。尾張國飢。賑給之。」送渤海客使武生鳥守等解纜入海。忽遭暴風。漂著能登國。客主僅得免死。便於福良津安置。庚子。以從五位上大原眞人今城爲駿河守。從五位下紀朝臣犬養爲伊豆守。從五位下笠朝臣乙麻呂爲上総介。從五位下多治比眞人豊濱爲信濃守。雅樂頭從五位上當麻眞人得足爲兼播磨員外介。癸夘。遣從五位下藤原朝臣鷹取於東海道。正五位下佐伯宿祢國益於東山道。外從五位下日置造道形於北陸道。外從五位下内藏忌寸全成於山陰道。正五位下大伴宿祢潔足於山陽道。從五位上石上朝臣家成於南海道。分頭覆検。毎道判官一人。主典一人。但西海道者便委大宰府勘検。丙午。以正五位下佐伯宿祢眞守。爲兵部少輔。從四位下佐伯宿祢三野爲右京大夫。從五位上上毛野朝臣稻人爲亮。從四位下大伴宿祢駿河麻呂爲陸奥按察使。仍勅。今聞。汝駿河麻呂宿祢辞。年老身衰。不堪仕奉。然此國者。元來擇人。以授其任。駿河麻呂宿祢。唯稱朕心。是以任爲按察使。宜知之。即日授正四位下。 

九月三日に山背國が「木連理」があると言上している。八日に中納言兼宮内卿・右京大夫の「石川朝臣豊成」が亡くなっている。左大弁・従三位の「石足」の子であった(こちら参照)。使者を遣わして物を贈って弔っている。二十一日に尾張國に飢饉が起こったので物を恵み与えている。また、送渤海客使の「武生連鳥守」等が纜を解いて海洋に出たが、忽ち暴風にあい能登國に漂着してしまった。大使は辛うじて死を免れることができ、「福良津」に安置している。

二十三日に大原眞人今城(今木)を駿河守、紀朝臣犬養(馬主に併記)を伊豆守、笠朝臣乙麻呂(不破麻呂に併記)を上総介、多治比眞人豊濱(乙安に併記)を信濃守、雅楽頭の當麻眞人得足を兼務で播磨員外介に任じている。二十六日に藤原朝臣鷹取()を東海道、佐伯宿祢國益(美濃麻呂に併記)を東山道、日置造道形(通形)を北陸道、内藏忌寸全成(黒人に併記)を山陰道、大伴宿祢潔足(池主に併記)を山陽道、石上朝臣家成(宅嗣に併記)を南海道に派遣し、政情を詳細に調査させている。道ごとに判官一人、主典一人を付けている。但し、西海道については便宜上大宰府に委ねて調査させている。

二十九日に佐伯宿祢眞守を兵部少輔、佐伯宿祢三野(今毛人に併記)を右京大夫、上毛野朝臣稻人(馬長に併記)を亮に任じている。また、大伴宿祢駿河麻呂(三中に併記)を陸奥按察使に任じ、次のように勅されている・・・今聞くところによると、汝「駿河麻呂宿祢」は年老い身衰え、仕えることができないとして、辞退している。しかし、陸奥國には、元々有能な人材を択んでその任務を授けて来た。汝「駿河麻呂宿祢」は、ひとり朕の心に適っている。それ故に按察使に任命したのである。どうか理解するように・・・。即日、正四位下を授けている。

<山背國:木連理>
山背國:木連理

「木連理」は、既に多くの献上があった瑞祥である・・・としてしまっては、勿体ない・・・なんて幾度か述べたが、勿論、これも木連理=連なっている[木]のような山稜が区分けされているところの麓を開拓したのであろう。

聖武天皇紀に但馬國・安藝國・長門國が献上して以来久々の登場である。これも既に述べたことであるが、各地の開拓状況を表す記述であり、それぞれの未開の地の場所を示唆しているのである。

言い換えると、既に登場した人物がいない地であり、それが「木連理」の探索にとって重要な情報でもある。些か広範囲の山背國、まだまだ未開の地は多くあるのだが、「木連理」の地形を表す地を探索してみよう。

図に示した現地名の田川郡みやこ町犀川崎山にその地形を見出せる。相樂郡の東側、犀川(現今川)が流れる谷間である。その谷間の奥は鳥取連一族が住まっていたと推定した場所でもある。彼等が開拓したのかもしれない。

<武生連鳥守>
● 武生連鳥守

「武生連」は、称徳天皇紀に馬毘登國人・益人等が賜った氏姓と記載されている。前者は右京の人、後者は河内國古市郡の人とされ、「國人」の現住所が右京だったようである。

「馬毘登(史)」一族は、その他にも夷人・中成等が登場し、彼等は「厚見連」を賜姓されている。古市郡に広く蔓延った一族だったようである。勿論、”武生”も”厚見”も各々の居処の地形象形表記に基づくものである。

今回登場の鳥守=鳥の形の山稜の麓で両肘を張ったようなところと解釈すると、図に示した辺りが出自の人物と思われる。尚、送渤海客使として、渤海に赴き、およそ一年後に帰還したと記載されている。

それにしても、古市郡の大半は渡来系の人々によって開拓されたように思われる。彼等の東隣は樂浪河内及びその後裔の高丘連の居処である。有能な渡来人達を巧みに登用していたことが伺える。

<能登國:福良津>
能登國:福良津

漂着した場所が「能登國」と記載されている。それが分かれば、「福良津」の所在は容易に見出せるであろう。何となれば、「能登國」の海辺は、陸奥國栗原郡伊治城の北側の谷間が唯一と推定したからである。

予想の通りに福良津=酒樽のような山稜の麓がなだからになっているところにある津(湊)の地形を図に示した場所に確認できる。能登國羽咋郡に属する場所であり、砺波臣の谷間の出口辺りである。

と、「福良津」の所在地は求められるのであるが、渤海使一行の帰還ルートは?・・・前記の「渤海國使青綬大夫壹萬福等三百廿五人。駕船十七隻。着出羽國賊地野代湊。於常陸國安置供給」に基づいて、通説は、出羽國賊地野代湊(現在の秋田県能代市辺り)から来朝した時の船で還ろうとして遭難、漂着したのが能登半島羽咋辺り(現在の石川県羽咋市)と解釈されている。

雑駁に読めば、なるほど!、であるが、これは全く怪しい解釈であろう。上記本文では「送渤海客使武生鳥守等解纜入海忽遭暴風。漂著能登國」と記載されている。纜を解いて海に出たら、すぐさま漂流したと告げているのである。”能代”と”羽咋”の直線距離でも460kmを越える。”羽咋”は、対馬海流の中を漂ったことも合わせて、漂着する場所とは到底思えない状況となろう。

續紀は、全く省略しているが、上記に引用した通り、渤海使一行は常陸國に滞在していたのであって、その地から野代湊(現在の北九州市門司港)へと向かったのである。おそらく常陸國から陸路で陸奥國に向かい、多賀(柵)辺りから船出したものと推測される。神話の解釈ではない。時空を考慮したものでなければ、解読したことにはならないであろう。

冬十月壬子。中務大輔從五位上検少納言信濃守菅生王。坐姦小家内親王除名。内親王削属籍。丁巳。大宰府言上。去年五月廿三日。豊後國速見郡歒見郷。山崩填澗。水爲不流。積十餘日。忽决漂沒百姓卌七人。被埋家卌三區。詔免其調庸。加之賑給。戊午。肥後國葦北郡家部嶋吉。八代郡高分部福那理。各献白龜。賜絁十疋。綿廿屯。布卅端。下野國言。管内百姓。逃入陸奥國者。彼國被官符。隨至隨附。因茲。姦僞之徒。爭避課役。前後逃入者惣八百七十人。國司禁之。終不能止。遣使令認。彼土近夷。民情險惡。遞相容隱。猶不肯出。於是官判。陸奥國司共下野國使。存意検括。還却本郷。辛酉。先是。天平寳字五年三月十日格。別聽諸國郡司少領已上嫡子出身。」又天平神護元年。禁斷除前墾外天下開田。至是並停此制。庚午。左大舍人從六位下石川朝臣長繼等。僞造外印行用。並依法配流。

十月五日に中務大輔兼少納言・信濃守の菅生王が「小家内親王」を犯した罪により除名されている。内親王は皇籍を削除されている。

十日に大宰府が以下のように言上している・・・去年五月二十三日に「豊後國速見郡歒見郷」では、山崩れで谷川が埋もれたため水が流れず、十余日を経て突然に決壊し、人民四十七人が押し流され、家屋四十三軒を埋没してしまった・・・。詔されて、調・庸を免除し、物を恵み与えている。

十一日に肥後國葦北郡の「家部嶋吉」、八代郡の「高分部福那理」が、それぞれ白龜を献上している。二人に絁十疋・真綿二十屯・麻布三十端を与えている。また下野國が以下のように言上している・・・管内の人民で陸奥國に逃亡した者に対しては、かの國は太政官符を得て、逃亡者が来ればそのまま戸籍に編入している。このため奸偽の徒は競って課役を避け、この間に逃げて行った者は、全部で八百七十人になる。國司はこれを禁止しているが、止めることができない。使者を遣わして確認させたが、かの地方は蝦夷に地に近く、民情も嫌悪で、お互いに逃亡者を隠匿して出さない・・・。そこで太政官が判定し、陸奥國司は下野國の使者と共に、注意して取調べを行い、元の郷里に還らせている。

十四日、これより先、天平字五(761)年三月十日の格では、特別に諸國の郡司の少領以上の嫡子は出仕することを許すとしている。また、天平神護元(765)年には、以前に開墾した田地を除く他は、新たに開発することを禁断している。ここに至って、この制度を共に廃止している。二十三日に左大舎人の石川朝臣長繼(眞永に併記)等が外印(太政官印)を偽造し、使用していた。いずれも法に依って配流している。

<小家内親王>
● 小家内親王

内親王でありながら出自不詳のようである。しかしながら、系譜が抹消されただけであって、間違いなく光仁天皇(白壁王)の皇女であったと思われる。

上記本文に記載されている通り、密通が発覚して皇籍剥奪されているのである。と言うことで、施基皇子の谷間(現地名北九州市門司区伊川)で小家=三角になった山稜の端で豚の口のようになっているところの地形を求めることにする。

すると図に示した場所にその地形を見出せる。春日王(天平十七[745]年卒去)の南側に当たる地である。光仁天皇皇女では酒人内親王(母親は皇后井上内親王)が既に登場していたが、その西側、少々離れた場所となる。憶測するに、実父は「春日王」であって、「白壁王」が養女としていたのかもしれない。この後に登場されることもなく、委細は定かではない。

<豊後國速見郡歒見郷>
豊後國速見郡歒見郷

「豊後國」に関する記述は、極めて少なく、文武天皇紀に眞朱を献上したとの記載が記紀・續紀を通じての初見であろう。その後『廣嗣の乱』で登場するが、その地に関する具体的な情報は提供されないままであった。

本著は、「豊前國」を現在の京都郡みやこ町犀川上/下高屋辺りと推定した(こちら参照)。八幡大神が鎮座する地である。そして「豊後國」は、その背後から現在の英彦山系に届く領域としたのである。

速見郡速見=長く延びる谷間(見)を束ねた(速)ようなところと解釈される。祓川上流の深い谷間が寄り集まった場所を表していることが解る。現在は伊良原ダム(平成30[2018]年完成)となっているが、当時の地形を推測することができるであろう。

歒見郷の「歒」=「帝+口+欠」と分解される。「帝」は、全てを束ねる様を意味する文字である。「欠」=「大きく口を開いている様」であり、地形象形的には「歒」=「多くの山稜を束ねた谷間の口が大きく開いている様」と読み解ける。「見」は上記と同じとすると、歒見=長く延びる谷間の前に多くの山稜を束ねた谷間の口が大きく開いているところと解釈される。図に示した場所がその地形であることが解る。

参考にしている資料などでは”歒”→”敵”に置換えられているが、同一の音を理由にしては、誤りとなろう。別名に朝見郷の表記があるとされている。「朝」=「山稜に挟まれて丸く小高くなった様」の地形を図に示した場所に見出せる。これは許容範囲の置換えのようである。今では湖底に沈んだ郷であった。

<肥後國葦北郡:白龜・家部嶋吉>
肥後國葦北郡:白龜

肥後國葦北郡からの白龜の献上物語が頻繁に語られている。称徳天皇紀に「刑部廣瀬女」が白龜赤眼、光仁天皇紀になって直ぐに「日奉部廣主賣」が白龜を献上していた。

勿論、”白い亀”ではなく、白龜=龜(の頭部)のような形をした地がくっ付いて並んでいるところと解釈した。現在の福津市内殿・本木辺りと、その場所を推定した。

龜だらけの地であるが、更に「白龜」の献上があったと記載されている。広い葦北郡と雖も、もう残すところは僅か、その場所に「白龜」が棲息しているのであろうか?…図に示したように、些か崩れた姿になっているが、立派な龜が二匹頭をくっ付けた様子が見出せる。その間の谷間を開拓したことを告げているのである。

● 家部嶋吉 献上者名であり、この地の近隣を居処とする人物と思われる。家部=谷間に延びる山稜の端が豚の口のような形をしている近隣のところと解釈する。名前の嶋吉=山稜が鳥のような形をして蓋をするように延びているところと読み解ける。それらの地形を全て確認でき、出自の場所は、図に示した辺りと推定される。

<肥後國八代郡:白龜・高分部福那理>
肥後國八代郡:白龜

「肥後國八代郡」は、上記の「葦北郡」の南側に接する郡として推定した。その地の情報として、正倉院があり、その北畔に「蝦蟇」が列を成していた、と記載されていた。勿論、「蝦蟇」も立派な地形象形表記であったが、瑞祥ではないようである。

今回初めて瑞祥らしき物が献上されたとのことである。ならば、早々に「白龜」探索を行ってみよう。どうやら、上記と同じく、少々崩れかかっているような感じではあるが・・・。

何とか、それらしき「白龜」を図に示した場所に見出せるようである。現地名では福津市薦野辺りである。城の山の西麓に広がる山稜の端を龜が並んでいる様子と見做したものと思われる。

● 高分部福那理 献上者の名前に含まれる高分部=皺が寄ったような地が切り分けられた近隣のところと読み解ける。福那理=酒樽のような高台がしなやかに曲がり延びた山稜の端が区分けされているところと解釈される。図に示した場所にこれ等の地形から成る場所を確認できる。居処はその高台の端であったと思われる。

十一月丁丑朔。以外從五位下堅部使主人主爲大外記。外從五位下日下部直安提麻呂爲内匠員外助。正五位下佐伯宿祢眞守爲兵部大輔兼造東大寺次官。從五位下安倍朝臣家麻呂爲少輔。從四位上藤原朝臣濱成爲大藏卿。從三位藤原朝臣繼繩爲宮内卿。從五位下清原王爲大膳亮。外從五位下葛井連河守爲木工助。從五位下大中臣朝臣繼麻呂爲攝津亮。從五位上粟田朝臣公足爲造西大寺員外次官。外從五位下輕間連鳥麻呂爲修理次官。從五位下粟田朝臣人成爲越後守。正五位上豊野眞人奄智爲出雲守。從五位下山口忌寸沙弥麻呂爲備後介。從五位下大原眞人清貞爲周防守。庚辰。以僧永嚴爲大律師。善榮爲中律師。乙酉。以從五位上安倍朝臣東人爲大藏大輔。從五位上掃守王爲宮内大輔。丙戌。詔曰。頃者風雨不調。頻年飢荒。欲救此禍。唯憑冥助。宜於天下諸國國分寺。毎年正月一七日之間。行吉祥悔過。以爲恒例。丁亥。去八月大風。産業損壞。率土百姓。被害者衆。詔免京畿七道田租。己丑。以酒人内親王爲伊勢齋。權居春日齋宮。癸巳。參議從四位上阿倍朝臣毛人卒。辛丑。罷筑紫營大津城監。丙午。无位安倍朝臣弥夫人。寳字八年告元凶伏誅。以慰衆情。因授從四位下。景雲三年坐縣犬養姉女配流。至是恩原罪降授從五位下。

十一月一日に堅部使主人主(田邊公吉女に併記)を大外記、日下部直安提麻呂(伊豆直乎美奈に併記)を内匠員外助、兵部大輔の佐伯宿祢眞守を兼務で造東大寺次官、安倍朝臣家麻呂を少輔、藤原朝臣濱成(濱足)を大藏卿、藤原朝臣繼繩(繩麻呂に併記)を宮内卿、清原王(長嶋王に併記)を大膳亮、葛井連河守(立足に併記)を木工助、大中臣朝臣繼麻呂(子老に併記)を攝津亮、粟田朝臣公足を造西大寺員外次官、輕間連鳥麻呂を修理次官、粟田朝臣人成(馬養に併記)を越後守、豊野眞人奄智(奄智王)を出雲守、山口忌寸沙弥麻呂(佐美麻呂。田主に併記)を備後介、大原眞人清貞(都良麻呂)を周防守に任じている。

四日に僧永嚴を大律師、善榮を中律師に任じている。九日に安倍朝臣東人(廣人に併記)を大藏大輔、掃守王を宮内大輔に任じている。十日に次のように詔されている・・・この頃風雨が不順で、連年飢饉が続いている。この災いを救おうと思うが、天下諸國の國分寺において、正月の七日間、吉祥天に対する悔過を行っているが、今後は恒例とせよ・・・。

十一日、去る八月に大風が吹き、生業が破壊され、全國の人民で被害を被った者が多かった。詔されて、京畿・七道諸國の田租を免除している。十三日に酒人内親王()を伊勢齋に任じている。赴くに先立って仮に「春日齋宮」に住むこととしている。十七日に参議の阿倍朝臣毛人(粳虫に併記)が亡くなっている。

二十五日、筑紫の営大津城監を廃止している<大津城:椽城(別名基肄城)と推定>。三十日に安倍朝臣弥夫人は、天平字八(764)年、元凶(恵美押勝)が誅せられたことを告げ知らせ、人々の心情を安堵させた。それで従四位下を授けられたが、神護景雲三(769)年、縣犬養姉女(八重に併記)の配流事件(氷上志計志麻呂[氷上河繼]を即位させようとした巫蠱事件)に連座した。ここに至って罪を赦し、位を下して従五位下を授けている。

<春日齋宮>
春日齋宮

酒人内親王が伊勢齋に任じられたが、それに赴く前に”潔齋”した場所を「春日齋宮」と記載されている。思い起こされるのが、書紀の天武天皇紀に”潔齋”のために使用する齋宮於倉梯河上を造ったとあり、伊勢に赴任する前に身を浄める習わしだったのであろう。

多分、赴任者の居処周辺であったと推測される。この齋宮も施基皇子の谷間にあったのではなかろうか。

春日の文字列は、施基皇子の子の春日王に用いられている。その「春日」の地に齋宮が造られたのであろう。既に、「齋宮」は立派な地形象形表記である、と述べた(こちらこちら参照)。勿論、この齋宮もそうであろう。

「齋」=「齊+示」と分解して、齋宮=同じような山稜が等しく揃っている高台にある宮と解釈される。その地形を図に示した場所、「春日」の地に見出すことができる。人里離れた谷間の奥の小高い地で”潔齋”されたのであろう。

十二月壬子。武藏國入間郡人矢田部黒麻呂。事父母至孝。生盡色養。死極哀毀。齋食十六月。終始不闕。免其戸徭。以旌孝行。又壹岐嶋壹岐郡人直玉主賣。年十五夫亡。自誓遂不改嫁者卅餘年。供承夫墓。一如平生。賜爵二級。并免田租以終其身。戊午。復厨眞人厨女属籍。己未。星隕如雨。」大宰府言。壹岐嶋掾從六位上上村主墨繩等。送年糧於對馬嶋。急遭逆風。船破人沒。所載之穀。隨復漂失。謹検天平寳字四年格。漂失之物。以部領使公廨填備。而墨繩等款云。漕送之期不違常例。但風波之災。非力能制。船破人沒足爲明證。府量所申。實難黙止。望請。自今以後。評定虚實徴免。許之。己巳。彗星見南方。屈僧一百口。設齋於楊梅宮。辛未。幸山背國水雄岡。授國司介正六位上大宅眞人眞木從五位下。乙亥。有狂馬。喫破的門土牛偶人。及弁官曹司南門限。

十二月六日に武藏國入間郡の人である「矢田部黒麻呂」は、父母に仕え大変孝行であった。生前はその心を察して孝養に勤め、死んだ時には哀しみで痩せ衰えた。正午を過ぎても食事をしないことが十六ヶ月に及び、終始欠けることがなかった。そこでその戸の雑徭を免除し、孝行を顕彰している。また、「壹岐嶋壹岐郡」の人である「直玉主女」は、十五歳で夫が死亡したが、自ら貞節を守る誓いを立て、再婚せずに三十余年を経て、夫の墓に仕える様子は、全く夫の在世中と変わらないでいる。そこで位階二級を与え、併せて終世田租を免除した。

十二日に厨眞人厨女(不破内親王)の属籍を復している。十三日に星が雨のように降っている。また、大宰府が以下のように言上している・・・壹岐嶋の掾の「上村主墨繩」等は、年間の食料を對馬嶋に輸送する時、急に逆風に遭い、船は難破し人々は波に呑まれ、従って載せていた米穀は漂失してしまった。そこで謹んで天平字四(760)年の格を調べると、漂失した物資は輸送責任者の公廨で補填することになっている。---≪続≫---

しかし「墨繩」等は[廻漕の時期は常例に反していない。ただ、風波の災難は人の力では制御することができないものである。船が難破し人々が溺死したのは、不正をはたらいていない明証になると思う]と申し立てている。大宰府として、彼等の申し所を検討すると、まことに黙止できないものがある。申し立ての虚実や代償物を徴収するか否かを評議して定めたい・・・。これを許している。

二十三日に彗星が南方に出現している。僧百人を招いて「楊梅宮」で齋會を設けている。二十五日に「山背國水雄岡」に行幸されている。國司介の大宅眞人眞木(國見眞人眞城。天平十九[747]年正月に改姓)に従五位下を授けている。二十九日に狂い馬があって、的門の土牛と人形と弁官の官舎の南門の敷居を喰い破っている。

<矢田部黒麻呂>
● 矢田部黒麻呂

武藏國入間郡は称徳天皇紀に「武藏國入間郡人正六位上勳五等物部直廣成等六人賜姓入間宿祢」と記載されて登場していた。その後に橘樹郡・久良郡が登場し、武藏國の谷間の郡割が明らかにされて来た。

古事記の无邪志國造の子孫であり、即ち天照大御神と速須佐之男命の宇氣比で誕生した神々の子孫と言うことになる。「物部」だから邇藝速日命の子孫としては、混乱するのみであろう。名称は地形象形表記である。

それは兎も角として、矢田部=矢のような山稜の麓の平らに整えられた地に近いところと読むと、図に示した「入間郡」の入口に当たる場所と推定される。黒麻呂黑=囗+※+灬(炎)=谷間に炎のような山稜が延び出ている様であり、この人物の出自の場所を求めることができる。

<直玉主女>
● 直玉主女

「壹岐嶋壹岐郡」は記紀・續紀を通じて初見であろう。調べるともう一つは「石田郡」であり、二郡に郡建てされていたようである。「石田郡」は壹岐嶋南部、現在の石田町周辺を郡域としていたとのことである。

何度か述べたように、記紀・續紀は、壹岐嶋の”南部”を語ることはない。勿論、續紀に「石田郡」に関する記述は見られないのである。

壹岐嶋については、伊吉連一族以外の人物が登場するのは今回が初めてではなかろうか。天神族は、この壹岐郡から竺紫日向へと渡り、更に飛鳥の麓に移り住んだのである。抜け殻になったわけでもなかろう・・・と思いつつも、登場人物にお目に掛かることはなかった。

そんな思いを浮かべながら、名前が示す地形を求めてみよう・・・がしかし、些か広範囲である。果たして・・・直玉主女の「直玉主」を後ろから読むと、直玉主=直立するような山稜の上にある玉のような地の前で山稜が真っ直ぐに延びているところと読み解ける。”直”の地形は極めて希少であって、ほぼ一に特定することが可能であった。

この地に住まっていた人(神)は、神世二世代:二柱神の豐雲野神が鎮座した場所と推定した。”雲”と”直”の山稜が並ぶ、実に特徴的な地形である。そして、東側は伊邪那岐神に命じられた夜之食國、月讀神が治めた場所である。

<上村主墨繩-虫麻呂>
● 上村主墨繩

「壹岐嶋掾」と記載されていることから、地元採用として出自の場所を求めることにする。勿論、「壹岐郡」の住人であろう。上記と同様に、広範囲の場所から見つかるか?…今回は、名前に含まれる「繩」が決め手となったようである。

墨繩=縄のような山稜の前に谷間に炎のような盛り上がった地が延びているところと読み解ける。極めて特徴的な地形を図に示した場所に見出せる。現在のタンス浦の近傍である。

既に何処かで述べたように、当時の壹岐嶋と對馬嶋間の往来において、壹岐嶋の玄関は、このタンス浦であったと推測した。古事記が大國主神の後裔を延々と記述している。その後裔達の名前を追跡すると、新羅に渡り、その後に壹岐嶋に舞い戻るという経過を辿ったと解読した。その戻った場所が図に示した若盡女神の居処なのである。

その後に幾代かの後裔達が続き、現地名の勝本町坂本触辺りに広がったと伝えている。壹岐郡の西側は大國主神の末裔が蔓延っていたのである。新羅⇔對馬嶋⇔壹岐嶋間の行程の一部を古事記らしく饒舌に記載したものであろう。おっと、上村主上=盛り上がっている様であり、現在の本宮山の場所を表していると思われる。危うく失念するところであった。

「墨繩」の役目が對馬嶋への”漕送”と記載されている。タンス浦で育った彼としては、打って付けの役目だったであろう。事故責任、その後の判定が気に掛かるが・・・上記の直玉主女と同様に、今回は、別天神:二柱神の一人、天之常立神の鎮座した場所と推定した。歴史の表舞台から遠のいても、人々の生業は途切れることなく続いているのである。

少し後に上村主虫麻呂が外従五位下を叙爵されて登場する。頻出の虫(蟲)=山稜の端が三つに細かく岐れている様と解釈すると図に示した場所が出自と推定される。その後に幾度かの叙任が記載されている。

<楊梅宮>
楊梅宮

初見の宮であり、これから暫くの間に数度登場する。それらの記述から、この宮の南側に池があったこと、太師押勝(藤原仲麻呂)の大邸宅があったことが分かる。即ち、田村第の北側に位置する場所に「楊梅宮」が建てられていたのである。

既に、この近辺に幾人かの登場人物があって、何度も目にした地形なのである。ただ、現在、と言っても国土地理院航空写真を参照すると、1960年代以前に池が造られていて、詳細な地形が不詳な場所でもあった。

「楊梅宮」の「楊」=「木+昜」と分解される。更に「昜」=「日+丂+彡」から成る文字であり、太陽が空高く上がる様を象形していると解説されている。幾度も登場している「湯」=「氵+昜」=「水が飛び跳ね上がる様」と同じように解釈される。

地形象形的には楊=山稜が見上げるように聳えている様と読み解ける。逆に表現すると山稜が垂直に垂れている様であり、柳の枝垂れる様に通じる。幾度か用いられた梅=木+每=山稜が母が子を抱くように延びている様であり、これらの地形を満たす場所、図に示した辺りに楊梅宮があったと推定される。

<山背國水雄岡>
山背國水雄岡

これも初見である。ずっと後になるが、「行幸水雄岡遊獵」と記載されているのでそれらしき地形のところかと思われる。

「獵」については、書紀の天智天皇紀に山背國で「獵於山科野」の記述があり、同じような場所だったのであろう。

水雄岡=川辺で鳥が羽を広げたような地が岡になっているところと解釈すると、「山科野」の東側に、そのものずばりの地形を見出すことができる。

行幸の目的は不詳であるが、「平城宮」から「水雄岡」への行程で、山背國を横断することになる。國情視察だった?・・・狩猟されるほどの体力は、年齢的になかったのかもしれない。