2022年10月25日火曜日

廢帝:淳仁天皇(6) 〔610〕

廢帝:淳仁天皇(6)


天平字四年(西暦760年)正月の記事である。原文(青字)はこちらのサイトから入手、訓読続日本紀(今泉忠義著)、続日本紀3(直木考次郎他著)を参照。

四年春正月癸亥朔。御大極殿受朝。文武百官及渤海蕃客。各依儀拜賀。是日。宴五位已上於内裏。賜祿有差。甲子。幸大保第。以節部省絁綿。賜五位已上及從官主典已上各有差。癸未。以文部少輔從五位下藤原朝臣楓麻呂爲東海道巡察使。仁部少輔從五位下石川朝臣公成爲東山道使。河内少掾從六位上石上朝臣奥繼爲北陸道使。尾張介正六位上淡海眞人三船爲山陰道使。右少弁從五位下布勢朝臣人主爲山陽道使。典藥頭外從五位下馬史夷麻呂爲南海道使。武部少輔從五位下紀朝臣牛養爲西海道使。毎道録事一人。觀察民俗。便即校田。」散位從三位多治比眞人廣足薨。父志麻。藤原朝正二位左大臣。廣足平城朝歴任内外。至中納言。勝寳九歳坐子姪黨逆。而免職歸第。以散位終焉。丙寅。高野天皇及帝御内安殿。授大保從二位藤原惠美朝臣押勝從一位。正四位上藤原朝臣眞楯。正四位下藤原朝臣巨勢麻呂並從三位。從五位上下毛野朝臣稻麻呂正五位上。從五位上日下部宿祢古麻呂。石川朝臣豊成並正五位下。從五位下田中朝臣多太麻呂。日置造眞夘並從五位上。外從五位下食朝臣三田次。正六位上田口朝臣大戸。正六位下大原眞人繼麻呂並從五位下。正六位上下道朝臣黒麻呂外從五位下。從五位上粟田朝臣深見正五位下。女孺正六位上大伴宿祢眞身。雀部朝臣東女。從六位下布勢朝臣小野。正七位上大神朝臣妹。无位藤原朝臣藥子並從五位下。」事畢。高野天皇口勅曰。乾政官大臣〈仁方〉敢〈天〉仕奉〈倍伎〉人无時〈波〉空〈久〉置〈弖〉在官〈尓阿利〉。然今大保〈方〉必可仕奉〈之止〉所念坐〈世〉。多〈能〉遍重〈天〉勅〈止毛〉敢〈未之時止〉爲〈弖〉辞〈備〉申〈豆良久〉可受賜物〈奈利世波〉祖父仕奉〈天麻自〉。然有物〈乎〉知所〈毛〉無〈久〉怯〈久〉劣〈岐〉押勝〈我〉得仕奉〈倍岐〉官〈尓波〉不在恐〈止〉申。可久申〈須乎〉皆人〈仁之毛〉辞〈止〉申〈仁〉依〈弖〉此官〈乎婆〉授不給〈止〉令知〈流〉事不得。又祖父大臣〈乃〉明〈久〉明〈久〉淨〈岐〉心以〈弖〉御世累〈弖〉天下申給〈比〉朝廷助仕奉〈利多夫〉事〈乎〉宇牟我自〈弥〉辱〈弥〉念行〈弖〉挂〈久毛〉畏〈岐〉聖天皇朝太政大臣〈止之弖〉仕奉〈止〉勅〈部礼止〉。數數辞〈備〉申〈多夫仁〉依〈弖〉受賜〈多婆受〉成〈尓志〉事〈毛〉悔〈止〉念〈賀〉故〈仁〉。今此藤原惠美朝臣〈能〉大保〈乎〉大師〈乃〉官〈仁〉上奉〈止〉授賜〈夫〉天皇御命衆聞食宣。即召大師賜隨身契。」又以中納言正三位石川朝臣年足爲御史大夫。從三位文室眞人智努爲中納言。三品船親王爲信部卿。從三位藤原朝臣眞楯爲大宰師。」勅曰。盡命事君。忠臣至節。隨勞酬賞。聖主格言。昔先帝數降明詔。造雄勝城。其事難成。前將既困。然今陸奥國按察使兼鎭守將軍正五位下藤原惠美朝臣朝獵等。教導荒夷。馴從皇化。不勞一戰。造成既畢。又於陸奥國牡鹿郡。跨大河凌峻嶺。作桃生柵。奪賊肝膽。眷言惟績。理應褒昇。宜擢朝獵。特授從四位下。陸奥介兼鎭守副將軍從五位上百濟朝臣足人。出羽守從五位下小野朝臣竹良。出羽介正六位上百濟王三忠。並進一階。鎭守軍監正六位上葛井連立足。出羽掾正六位上玉作金弓並授外從五位下。鎭守軍監從六位上大伴宿祢益立。不辞艱苦。自有再征之勞。鎭守軍曹從八位上韓袁哲弗難殺身。已有先入之勇。並進三階。自餘從軍國郡司軍毅並進二階。但正六位上別給正税貳仟束。其軍士蝦夷俘囚有功者。按察使簡定奏聞。丁夘。帝臨軒。渤海國使高南申等貢方物。奏曰。國王大欽茂言。爲獻日本朝遣唐大使特進兼秘書監藤原朝臣河清上表并恒貢物。差輔國大將軍高南申等。充使入朝。詔曰。遣唐大使藤原河清久不來歸。所鬱念也。而高麗王差南申令齎河清表文入朝。王之款誠。實有嘉焉。是日。高野天皇及帝幸太師第。授正六位上巨勢朝臣廣足從五位下。從三位藤原朝臣袁比良正三位。從五位上池上女王正五位上。從五位上賀茂朝臣小鮒。飯高公笠目並正五位下。賜陪從五位已上錢。戊辰。授无位藤原朝臣久米刀自從五位下。己巳。高野天皇及帝御閤門。五位已上及高麗使依儀陳列。詔授高麗國大使高南申正三位。副使高興福正四位下。判官李能本。解臂鷹。安貴寳並從五位下。録事已下各有差。賜國王絁卅疋。美濃絁卅疋。絲二百絇。調綿三百屯。大使已下各有差。賜宴於五位已上及蕃客。賜祿有差。戊寅。以從五位下大野朝臣廣立爲少納言。從三位藤原朝臣弟貞爲坤宮大弼。但馬守如故。從五位下大原眞人繼麻呂爲少忠。正四位下高麗朝臣福信爲信部大輔。從五位下阿陪朝臣許知爲少輔。從五位下阿倍朝臣意宇麻呂爲内藏助。從五位下奈癸王爲内礼正。從五位下路眞人野上爲兵馬正。從五位上河内王爲義部大輔。從四位下石川朝臣名人爲造宮卿。從四位下仲眞人石伴爲河内守。從五位下紀朝臣小楫爲和泉守。外從五位下高元度爲能登守。正四位上紀朝臣飯麻呂爲美作守。從五位下多治比眞人木人爲薩摩守。丁丑。授正六位上蜜奚野外從五位下。无位藤原朝臣姉從五位下。己夘。饗文武百官主典已上於朝堂。是日内射。因召蕃客令觀射礼。辛夘。從二位藤原夫人薨。贈正一位太政大臣房前之女也。

正月一日に大極殿に出御されて、朝賀を受けられている。文武の百官及び渤海の使節等が各々礼法に従って拝賀している。この日、五位以上の官人を内裏に招いて宴会し、それぞれに禄を賜っている。二日に大保(恵美押勝)の邸(田村第)に行幸し、五位以上の官人と付き随った官人で主典以上の者に節部(大藏)省保管の絁と真綿をそれぞれに賜っている。

癸未(二十一日?)、文部(式部)少輔の藤原朝臣楓麻呂(千尋に併記)を東海道、仁部(民部)少輔の石川朝臣公成(君成)を東山道、河内少掾の石上朝臣奥繼(宅嗣に併記)を北陸道、尾張介の淡海眞人三船(御船王)を山陰道、右小弁の布勢朝臣人主(首名に併記)を山陽道、典薬頭の馬史夷麻呂(比奈麻呂)を南海道、武部(兵部)少輔の紀朝臣牛養を西海道の巡察使に任じている。道ごとに録事を一人ずつ付けている。人民の生活状態を観察し、併せて田を調査するためである。

この日、散位(従三位)の多治比眞人廣足(廣成に併記)が亡くなっている。父の志麻(嶋)は藤原朝(文武天皇)の左大臣であり、「廣足」は平城朝(聖武・孝謙天皇)に中央・地方の官職を歴任し、中納言にまで至った。天平勝寶九歳(757年)に子や甥達が徒党を組み叛逆を企てたこと(橘奈良麻呂の変)に連座し、官職を免じられて邸に引き籠り、散位のままで終わった。

四日に高野天皇(孝謙上皇、阿倍内親王)と帝(淳仁天皇)が内安殿に出御されて、大保(右大臣)の藤原恵美朝臣押勝に従一位、藤原朝臣眞楯(鳥養に併記)・藤原朝臣巨勢麻呂(仲麻呂に併記)に従三位、下毛野朝臣稻麻呂(信に併記)に正五位上、日下部宿祢古麻呂(子麻呂。大麻呂に併記)・石川朝臣豊成に正五位下、田中朝臣多太麻呂日置造眞卯に従五位上、食朝臣三田次(息人に併記)・「田口朝臣大戸」・大原眞人繼麻呂(今木に併記)に従五位下、「下道朝臣黒麻呂」に外従五位下、「粟田朝臣深見」に正五位下、女孺の「大伴宿祢眞身・雀部朝臣東女」・布勢朝臣小野(阿倍朝臣綱麻呂に併記)・大神朝臣妹(伊可保に併記)・「藤原朝臣藥子」に従五位下を授けている。

授位の事が終わって、「高野天皇」は次のように口頭で勅されている(以下宣命体)・・・乾政官の大臣(太政大臣)は、とくに勤めるべき人がいない時は空席としておく官職である。しかしながら現在の大保(恵美押勝)は必ずその任を果たせると思うので、何度も重ねて命じたが、任に堪えますまいと辞退して、[もしそうであるなら祖父(不比等)がお仕え申し上げたであろう。知識もなく、心も弱く愚かな押勝がお仕えすることのできる官職ではない。恐れ多いことである]と申している。しかしながらこのように申すからと言って、皆の人に授けないことを知らせることはできない。---≪続≫---

また祖父の大臣が明るく浄い心をもって何代もの御世御世に天下の政治について奏上され、朝廷を助けて仕えた事を、うれしいことよ、かたじけないことよと思って、口にするのも恐れ多い聖なる天皇(元正天皇)が、太政大臣として仕え奉れと命じられたが、何度も辞退を申し上げられたため、お受けなさらずに終わってしまったことも、残念なことと思っているので、今この藤原恵美朝臣の大保を「大師」(太政大臣の漢風称号)の官に上げて差し上げようと仰せになる天皇の御言葉を、みな承れと申し渡す・・・。

そこで大師の「押勝」を召して、身に携帯する割符(随身符)を授与している。また中納言の石川朝臣年足を御史大夫(大納言)、文室眞人智努を中納言、船親王を信部(中務)卿、藤原朝臣眞楯(鳥養に併記)を大宰帥に任じている。

続いて次のように勅されている・・・命を尽くして君に事えることは、忠臣の立派な節操であり、功労に随って賞を与えて酬いるのは、聖君の手本となる言葉である。昔、先帝(聖武天皇)は度々明らかな詔を降して、雄勝城を造らせた。しかしその事は成就することが難しく、前任の将軍は困ったことがあった。しかしながら今の陸奥國の按察使兼鎮守将軍の藤原恵美朝臣朝獵(薩雄に併記)等は、荒ぶる夷を教え導いて、天皇の徳化に馴れ従わせ、一戦も交えることなく「雄勝城」を完成させた。---≪続≫---

また陸奥國牡鹿郡では、大河を越え高く険しい峰を越えて(こちら参照)、桃生柵を造り、賊の急所と言うべき地点を奪った。顧みてその功績を思うと、褒美に位階を上げるのが当然である。「朝獵」を抜擢して、特に従四位下を授けよ。陸奥介兼鎮守副将軍の百濟朝臣足人(余足人)、出羽守の小野朝臣竹良(小贄に併記)と出羽介の百濟王三忠(①-:孝忠の子)にはそれぞれ一階を昇進させる。鎭守軍監の「葛井連立足」と出羽掾の「玉作金弓」をそれぞれ外從五位下を授けている。---≪続≫---

鎮守軍監の「大伴宿祢益立」は苦しみをものともせず自ら二度も征討の苦労を重ねており、鎮守軍曹の「韓袁哲」(出自不詳)は自身が殺される危険を恐れずに、先頭を切って突入する勇気があったので、それぞれ三階を昇進させる。軍に従うその他の國司・郡司・軍毅にはそれぞれ二階を昇進させる。但し、正六位上の者には別に正税二千束を給与する。また軍士や蝦夷の俘囚で軍功のある者は按察使が簡び定めて奏聞せよ・・・。

五日に帝(淳仁天皇)は宮殿の端近くに出御され、渤海國使の高南申等が土地の産物を貢上し、以下のように奏上している・・・國王の大欽茂が申し上げる。日本の朝廷の遣唐大使で特進(唐の文散官、正二品に相当)兼秘書監(唐の秘書省長官)の藤原朝臣河清(清河)が本國に差し出した上表文と恒例の貢物を献上する為に、輔國大将軍の高南申等を選んで使に任じて入朝させる・・・。

これに答えて次のように詔されている・・・遣唐大使の「藤原河清」は久しく帰国しないので、心塞ぎ気掛かりに思っていた。ところが高麗(渤海)王が「南申」を選び「河清」の上表文を持って入朝させた。王の真心は本当に嬉しく思う・・・。

この日、「高野天皇」と帝(淳仁天皇)は大師(恵美押勝)の邸(田村第)に行幸している。巨勢朝臣廣足(淨成に併記)に従五位下、藤原朝臣袁比良に正三位、池上女王に正五位上、賀茂朝臣小鮒(鴨朝臣子鯽)・飯高公笠目(飯高君)に正五位下を授けている。付随った五位以上の者には銭を賜っている。

六日に「藤原朝臣久米刀自」に従五位下を授けている。七日に「高野天皇」と帝(淳仁天皇)が閤門に出御され、五位以上と高麗(渤海)使が儀礼に従って参列している。詔されて、高麗國大使の高南申に正三位、副使の高興福に正四位下、判官の李能本・解臂鷹・安貴寳には従五位下、録事以下にもそれぞれ位を授けている。國王に絁を三十疋、美濃特産の絁を三十疋、絹糸を二百絇、調の真綿を三百屯賜っている。大使以下の者にもそれぞれ物及び禄を賜っている。

戊寅(十六日?)に大野朝臣廣立(廣言)を少納言、藤原朝臣弟貞(山背王。詳細は二十二巻末尾に記載)を坤宮大弼兼但馬守、大原眞人繼麻呂を少忠、高麗朝臣福信を信部(中務)大輔、阿陪朝臣許知(阿倍朝臣許智。駿河に併記)を少輔、阿倍朝臣意宇麻呂(綱麻呂に併記)を内蔵助、奈癸王(奈貴王。石津王に併記)を内礼正、路眞人野上を兵馬正、河内王(河内女王近隣)を義部(刑部)大輔、石川朝臣名人(枚夫に併記)を造宮卿、仲眞人石伴(石津王)を河内守、紀朝臣小楫(男楫)を和泉守、高元度を能登守、紀朝臣飯麻呂を美作守、多治比眞人木人を薩摩守に任じている。

<田口朝臣大戸-安麻呂>
十五日、「蜜奚野」に外従五位下、「藤原朝臣姉」に従五位下を授けている。十七日に文武百官の主典以上を朝堂で饗応している。

この日、内射を行い、渤海の使節を召して作法を見物させている。二十九日に藤原夫人が亡くなっている。正一位・太政大臣を追贈された房前の娘であった。

● 田口朝臣大戸

調べると「家守」の子と知られていることが分かった。「家守」の父親が「益人」、その兄弟には「家主・家人」等が居たが、「家主」のみが續紀に登場している(こちら参照)。

既出の文字列である大戸=平らな山稜が戸のように谷間を塞いでるいるところと解釈すると、図に示した場所が出自と推定される。家守の南に隣接するところと思われる。別名の大萬戸は、谷間を「萬」で表現したものであろう。

後(称徳天皇紀)に田口朝臣安麻呂が従五位下を叙爵されて登場する。頻出の安麻呂の地形を求めると、図に示した場所が見出せるが、貯水池の下流であり、当時の地形を反映しているかどうかは、判別し辛いものであろう。暫定的にこの人物の出自の場所としておくことにする。

<下道朝臣黒麻呂>
● 下道朝臣黒麻呂

「下道朝臣」は、天平七(735)年四月、入唐留學生であった眞備が多くの物を唐から持ち帰り献上したと記載されて登場する。その後に一族の乙吉備等を含めて「吉備朝臣」の氏姓を賜っている。

この地は、古事記の大帶日子淤斯呂和氣命(景行天皇)が娶った針間之伊那毘能大郎女・若郎女の居処と推定した。後の倭建命(小碓命)等を誕生させている。

黒麻呂は未だに「下道朝臣」であり、同祖ではあるが、「眞備」等の一族とは異なる系譜だったのであろう。黑=囗+※+灬(炎)=谷間で囲われた地に炎のような山稜が延びているところと解釈した。その地形を図に示した場所に見出せる。

系譜が異なることに対応するかのように、現地名は下関市福江となっていて、吉見下との境の地となっている。この後も幾度か登場され、地方官を務められたようである。

<粟田朝臣深見-足人>
● 粟田朝臣深見

「粟田朝臣」一族の女性への叙爵は、無位から従五位下と昇進した諸姉(馬養・人成に併記)が記載されていた。恵美押勝の長男の藤原朝臣眞從の妻であり、夫が早世した後大炊王(淳仁天皇)の妻になったと知られている。

深見は、既に初見で従五位上、今回の叙爵で正五位下となっている。女官としての功績があったのであろう。曲折を経るが、最終従四位下となっているようである。

いずれにせよ、粟田の谷間が出自に違いないのであるが、既出の文字列である深見=川が曲がれる水辺で炎のような山稜が延びて長く続く谷間があるところと読み解ける。粟田の谷間の最奥近くの地形を表していると思われる。

別名が深身とも知られているが、その山稜の端が身=丸く膨らんでいる様と見做した表記であろう。少し後に粟田朝臣足人が従五位下を叙爵されて登場する。頻出の足人=足のように延びた山稜が谷間にあるところと読むと、「深見」の西側の谷間を表していると思われる。この地は現在では大きく山容が変化し、当時を偲ぶには国土地理院航空写真1961~9年を用いた図を掲載した。

<大伴宿祢眞身-益立-弟麻呂>
● 大伴宿祢眞身・大伴宿祢益立

女孺眞身の系譜は知られていないようで、名前が表す地形のみから出自を求めてみよう。既出の文字列である眞身=ふっくらとした山稜が寄り集まって窪んでいるところと解釈される。

すると、馬來田・吹負兄弟の谷間が示す地形であることが見出せる。續紀での登場は最初で最後であり、どうやらこの谷間を出自とする人物にはお目にかかることはないようである。

武人一族の面目躍如の活躍をしたと褒められている益立は、祜信備の子と伝えられている。『壬申の乱』の大将軍吹負の曽孫である。従六位上から三階級特進だから従五位下となったわけである。

益立=谷間に挟まれた平らな地が並んでいるところと解釈される。父親「祜信備」の谷間の出口辺りを表していると思われる。この後も武人として、様々な局面に重要な任務を与えられて活躍され、紆余曲折もあったが、最終従四位下まで昇進されている。

登場は後(光仁天皇紀)になるが、「益立」の兄の大伴宿祢弟麻呂が従五位下を叙爵される。頻出の弟=ギザギザとしている様と解釈すると、図に示した場所が出自と推定される。麻呂萬呂の地形も確認される。史上初めて「征夷大将軍」と呼称された人物になり、従三位・勲二等を授けられている。

<雀部朝臣東女-道奥-廣持-虫麻呂>
● 雀部朝臣東女

孝謙天皇紀に雀部朝臣眞人が大臣「男人」(継体天皇紀)は彼等の祖先になるのだが、何故か「巨勢臣」と誤って伝えられ、修正を願い出ている。巨勢朝臣奈弖麻呂(当時の氏長か)も確認したと記載されている。

これは極めて重要な記述であって、書紀が”淡海”に面する雀部・輕部両臣に関する記述を省いたり、改竄した結果なのである。古事記の淡海之佐佐紀山と「雀部」(「佐佐」の近隣)と繋げられては困るからである。勿論、書紀では”淡海=近江”である。

そして復活した雀部朝臣一族が引き続いて登場することになる。先ずは東女東=谷間を突き通すような様と解釈すると図に示した場所が出自と思われる。「眞人」の北側である。後に登場する雀部朝臣道奥(別名陸奥)は、既出の道奥=首の付け根のように窪んだ地の奥にあるところと読むと図の場所が見出せる。

更に後(光仁天皇紀)に雀部朝臣廣持が登場し、廣持=広がった手のような山稜の中にあるところと解釈される。図に示した場所が、その地形を表していると思われる。雀部朝臣虫麻呂蟲=山稜の端が三つに細かく岐れている様であり、少々地形の変形があるが、図の場所が出自と推定される。

<藤原朝臣藥子-姉-種繼-仲成-仲繼>
● 藤原朝臣藥子・藤原朝臣姉

後に大いなる権勢を振るう女官となる人物の登場である。藤原恵美朝臣、即ち南家の隆盛を迎える中で、式家の清成の孫、「種繼」の子と知られている。

廣嗣失脚の後すっかり勢いを失った式家、その二世代後裔に属する。藤原一族の栄枯盛衰の凄まじさが、この後も引き続き語られることになるのであろう。

父親の「藤原朝臣種繼」及び兄の「藤原朝臣仲成・藤原朝臣縵麻呂」は、未だ登場せずなのだが、併せて出自の場所を求めることにする。種繼の「種」=「禾+重」と分解され、「重」=「突き通す様」であり、本来の意味は「苗や種を地中に突き刺す様」を表す文字である。地形象形的には「種」=「山稜が突き通すように延びている様」と解釈される。

纏めると種繼=突き通すように延びている山稜が連なっているところと読み解ける。図に示した場所にその地形を確認することができ、出自の場所を推定した。兄の仲成=平らにされた地が谷間を突き通すように延びているところと解釈すると、図に示した場所が出自と推定される。

藥子をそのまま訳すと、藥子=山稜に挟まれた丸く小高い地が生え出ているところと読み解ける。図に示した場所にその地形を見出すことができる(国土地理院陰影起伏図参照)。若くして才色兼備の様子なのであるが、世に言われる『藥子の変』は、およそ五十年後である。

藤原朝臣姉については、殆ど情報がなく、姉=女+市=嫋やかに曲がる谷間が寄り集まって様と解釈して、図に示した場所が出自と推定した。式家の一員だったように思われるが、定かではない。續紀では後に再度従五位下を授けられたと記載されるが、政変に巻き込まれて爵位を失っていたのであろう。

後(光仁天皇紀)に藤原朝臣仲繼が従五位下を叙爵されて登場する。上記と同様に全く情報が欠落した人物だったようである。「種繼・仲成」に用いられた文字との関連から、出自もその近傍としてみると、図に示した辺りだったではなかろうか。この後續紀に幾度か登場されている。

<葛井連立足-河守-道依>
● 葛井連立足

「葛井連」一族は、途切れることなく人材登用されている。遣唐使や遣新羅使などの役割を担い、大陸との繋がりを背景あったと思われる。多分、言語上の障壁が低かったのであろう。直近では、孝謙天皇紀に「惠文」が外従五位下を叙爵されていた。

立足の「立」=「竝」と解釈して、立足=足のような山稜の端が並んでいるところと解釈される。図に示した場所が出自と推定される。この後、幾度か登場され、地方官を務められたようである。

少し後に葛井連河守葛井連道依が共に外従五位下を叙爵されて登場する。「河守」の既出の文字列である河守=水辺の谷間の出口に肘を張ったように延びる山稜が延びているところと解釈すると、図に示した場所が出自と推定される。

「道依」は、「大成」の子であり、「道麻呂」の孫であったことが知られている。依=人+衣=谷間に山稜の端が三日月の形をしている様と解釈したが、その地形を図に示した場所に見出せる。「道」は祖父に「道」であろう。父親に隣接した場所である。

<玉作金弓>
● 玉作金弓

「玉作」は、元明天皇紀に陸奥國丹取郡に置かれた玉作軍團で用いられていた。あらためて「玉作」が示す地形を読み解いてみよう。

その時点において、「玉」が示す地形として山稜が真丸くなっているのではなく、些か不自然な感じを受けていた。そこで「玉」の字源を調べると、意外なことが分かった。

『説文解字』に拠ると「玉」=「三玉の連なるに象る。|は其の貫くなり」と記され、”玉”が連なった様を表していると解釈されている。図に示すように、この角張った山稜は、幾つかの丸い山稜から成る地形であることが解る。

「作」=「人+乍」=「谷間がギザギザとしている様」と解釈したが、この山稜の麓の谷間は、当然ながらギザギザとしていることになる。深読みが必要な表記だったようである。既出の金弓=山稜の端が三角に尖って弓なりに曲がっているところと解釈される。出自の場所は図に示した辺りと推定される。

<藤原朝臣久米刀自>
● 藤原朝臣久米刀自

初見で従五位下に叙爵されるが、上記の「姉」と同じく系譜は不詳のようである。この後も登場されることもなく、情報は、名前のみの状況である。

久米刀自の「久米」は、頻出の文字列であって、久米=[く]の字形に曲がる谷間に山稜の端が延び出ているところと読み解いた。小さな谷間ではなく、それなりに広く延びている谷間を表している。

「中臣」の谷間で、「久米」の地形を満足する場所は、意外に少なく、図に示した藤原南家一族が蔓延った地に見出せる。豊成・仲麻呂の後裔達の居処である。

これも頻出の刀自=[刀]の形の地が端にあるところであり、その谷間の出口辺りを表していることが解る。配置からすると、「豊成」及びその子等に関わる人物だったと推測される。この後に登場されることはないようである。

<蜜奚野>
● 蜜奚野

おそらく渡来系の漢人だと思われるが、全く関連情報が見当たらない人物である。この後も幾度か登場されている。名前の文字列が地形象形表記であるかは定かではないが、如何なる地形を表しているかを読み解いてみよう。

「蜜」=「宀+必+虫」と分解される。更に「必」=「弋+八」から成る文字と知られている。「弋」=「[杙]のような様」と解釈される。これで通常の意味である「蜜」を採取する時の様相を表していることが分かる。

地形象形的には、「蜜」=「[杙」のような細く延びた山稜が寄り集まっている様」と解釈される。「奚」=「爪+糸+大」と分解される。「奚」=「細長く延びた山稜を寄せ集めた麓が広がっている様」と読み解ける。要するに蜜奚野=細く延びた山稜が寄り集まった麓に野が広がっているところと読み解ける。

この地形を探すと、図に示した場所を現在の田川郡香春町を流れる五徳川上流の地に見出すことができる。阿刀連(上村[寸]主)一族の更に谷間の奥に当たる。









2022年10月18日火曜日

廢帝:淳仁天皇(5) 〔609〕

廢帝:淳仁天皇(5)


天平字三年(西暦759年)七月の記事からである。原文(青字)はこちらのサイトから入手、訓読続日本紀(今泉忠義著)、続日本紀3(直木考次郎他著)を参照。

秋七月丁夘。勅。准令。彈正尹者從四位上官。官位已輕。人豈能畏。自今以後。改爲從三位官。」以從四位下阿倍朝臣嶋麻呂爲左大弁。從四位下大伴宿祢犬養爲右大弁。從五位上石川朝臣豊成爲左中弁。從四位下佐味朝臣虫麻呂爲中宮大夫。備前守如故。從五位下佐佐貴山君親人爲亮。從五位下橘宿祢綿裳爲左大舍人助。從四位下岡眞人和氣爲内匠頭。從四位下御方王爲木工頭。三品池田親王爲糺政尹。外從五位下食朝臣三田次爲西市正。從五位下阿倍朝臣許智爲山背介。外從五位下陽侯史玲珎爲伊賀守。鎭國衛次將從五位下田中朝臣多太麻呂爲兼上総員外介。從五位下三嶋眞人廬原爲武藏介。從三位百濟王敬福爲伊豫守。己巳。夫人正二位廣岡朝臣古那可智薨。正四位上橘宿祢佐爲之女也。天平勝寳九歳閏八月十八日。有勅賜姓廣岡朝臣。丁丑。内藥佐從七位下粟田臣道麻呂賜姓朝臣。庚辰。左京人中臣朝臣楫取詐造勅書。詿誤民庶。配出羽國柵戸。」授從七位上川上忌寸宮主外從五位下。

七月三日に次のように勅されている・・・令によると、弾正尹は従四位上相当の官であって、官位が甚だしく軽い。これでは人々が弾正尹をよく畏れるであろうか。今後は従三位の官とせよ・・・。

この日に阿倍朝臣嶋麻呂を左大弁、大伴宿祢犬養(三中に併記)を右大弁、石川朝臣豊成を左中弁、備前守の佐味朝臣虫麻呂を兼務の中宮大夫、佐佐貴山君親人を亮、橘宿祢綿裳を左大舍人助、岡眞人和氣(和氣王)を内匠頭、御方王(三形王)を木工頭、池田親王を糺政(弾正)尹、食朝臣三田次(息人に併記)を西市正(平城宮西側の市を司る長、右京職に属する)、阿倍朝臣許智(駿河に併記)を山背介、陽侯史玲珎(兄弟の令璆は、前記で越後守)を伊賀守、鎭國衛次將の田中朝臣多太麻呂を兼務の上総員外介、三嶋眞人廬原を武藏介、百濟王敬福(①-)を伊豫守に任じている。

五日、聖武天皇夫人の廣岡朝臣古那可智(橘朝臣)が亡くなっている。橘宿祢佐爲(佐爲王)の娘で、天平勝寶九(757)歳閏八月十八日に勅されて廣岡朝臣を賜姓されていた。十三日に内薬佑の「粟田臣道麻呂」に朝臣姓を賜っている。十六日に左京人の「中臣朝臣楫取」は、勅書を偽造し、庶民を欺き惑わしたので、出羽國の柵戸に移住させている。また、「川上忌寸宮主」に外従五位下を授けている。

<粟田朝臣道麻呂>
● 粟田臣道麻呂

今に至って「粟田臣」の氏姓であり、漸く「朝臣」姓を賜ったと記載されている。前出の粟田朝臣一族とは、些か離れた場所を出自とする…同祖なのだが…人物だったのであろう。

粟田朝臣は、古事記の天押帶日子命が祖となった地であり、狭い谷間が粟の穗のように延びている地形に蔓延ったと推定した。

道麻呂道=辶+首=首の付け根のように窪んだ様であり、その地形を図に示した、その谷間の入口付近に見出すことができる。北側に隣接する谷間は、「小野朝臣」一族との端境になる。共に天押帶日子命が祖となった一族である。

五年後に外従五位下を叙爵され、その後一挙に従四位下へと駆け上り、参議に列した人物だったと伝えられている。なかなかのやり手だったようであるが、皇統に絡む紛争に絡んで最後は配流の憂き目にも・・・この後幾度か登場されるようである。

<中臣朝臣楫取・川上忌寸宮主>
● 中臣朝臣楫取・川上忌寸宮主

「左京人」の「中臣朝臣」と記載されている。「中臣朝臣」で左京に住んでいた人物か?…と読むのではなかろう。元正天皇紀に「左京人紀朝臣家所獻白龜」と記されていた。「紀朝臣」ではなく、「紀朝・臣」と解釈した(こちら参照)。

これに準じるならば「中臣朝・臣」と解釈されることになる。読み解くと中臣朝=狭い谷間(臣)を突き通す(中)山稜の端に挟まれた丸く小高い(朝)ところ(姓)となる。

その地形を、前出の漆部造君足の近隣に見出せる。その東側の山稜を「朝」と見做した表記と思われる。楫取=山稜が長く延びた端が[耳]の形をしているところと読み解くと、図に示した場所がこの人物の出自と推定される。勅書を偽造するとは、大胆な犯罪であり、本来は遠流だったのだが、委細は不明ながら柵戸として移住の罪としたようである。

外従五位下を叙爵された川上忌寸宮主については、聖武天皇紀の神龜元(724)年五月に薩妙觀が「河上忌寸」氏姓を賜ったと記載され、その一族に属する人物と思われる。宮主=奥が広がった谷間に山稜が真っ直ぐに延びているところと解釈すると、図に示した場所が出自と思われる。左京・右京からの人物を登場させたようである。

八月己亥。遣大宰帥三品船親王於香椎廟。奏應伐新羅之状。

八月六日に大宰帥の船親王香椎廟(仲哀天皇の香椎宮。古事記の訶志比宮。隋書俀國伝では彼都)に遣わして、新羅を伐つ事情を奏上させている(聖武天皇紀の天平十九(747)年に新羅の無礼振りを香椎宮を含む四社に報告)。

九月丁夘。勅大宰府。頃年新羅歸化舳艫不絶。規避賦役之苦。遠弃墳墓之郷。言念其意。豈无顧變。宜再三引問。情願還者。給粮放却。丙子。大宰府言。去八月廿九日南風大吹。壞官舍及百姓廬舍。戊寅。乾政官奏。百姓輸調。其價不同。理須折中以均賦役。又停廢品部。混入公戸。其世業相傳者。不在此限。伏聽天裁。奏可。事在別式。壬午。造船五百艘。北陸道諸國八十九艘。山陰道諸國一百卌五艘。山陽道諸國一百六十一艘。南海道諸國一百五艘。並逐閑月營造。三年之内成功。爲征新羅也。己丑。勅。造陸奥國桃生城。出羽國雄勝城。所役郡司。軍毅。鎭兵。馬子。合八千一百八十人。從去春月至于秋季。既離郷土。不顧産業。朕毎念茲。情深矜憫。宜免今年所負人身擧税。始置出羽國雄勝。平鹿二郡。玉野。避翼。平戈。横河。雄勝。助河。并陸奥國嶺基等驛家。庚寅。遷坂東八國。并越前。越中。能登。越後等四國浮浪人二千人。以爲雄勝柵戸。及割留相摸。上総。下総。常陸。上野。武藏。下野等七國所送軍士器仗。以貯雄勝桃生二城。

九月四日に次のように勅されている・・・近年新羅の人が天皇の徳化を慕って来日し、その人々の船が絶えることがない。彼等は租税・労役の苦しみを避け、遠く墳墓のある故郷を捨てて移住して来た。ここにその心中を推し量ってみると、どうして故郷を恋しく想い起すことがないだろうか。彼等に再三質問して、帰国したいと願う者があったら、食料を支給して自由に帰らせよ。

十三日に大宰府が[去る八月二十九日に南風が大いに吹いて、官の建物や人民の家屋が壊された]と言上している。十五日に乾政官(太政官)が以下のように奏上している・・・人民が調を納める時、地域によってその値が同じでなくなっている。理に叶なうように高低の中間の値を定めて、課税を均しくすべきである。また品部を廃止して、一般の農民と同じように扱いたく思う。但し祖先から伝えている仕事のある者は、この限りではない。恐れながら天皇の御裁可をお願い申し上げる・・・。奏上の通りに許可されている。その事は『別式』に記載されている。

十九日に船を五百艘造ることとなった。内訳は北陸道の諸國に八十九艘、山陰道の諸國に百四十五艘、山陽道の諸國に百六十一艘、南海道の諸國に百五艘で、いずれも農閑期をえらんで営造し、三年以内に仕事を完成するようにさせている。新羅を征討するためである。

二十六日に次のように勅されている・・・陸奥國の桃生城、出羽國の雄勝城を造らせているが、工事に使われている郡司・軍毅、鎮守府の兵士・馬子等併せて八千百八十人は、今年の春から秋まで、既に故郷を離れて生業に携わっていない。朕はこれを思うごとに、心中深く憐れんでいる。彼等が各々今年負担する出挙の利息を免除するようにせよ・・・。また、初めて出羽國の「雄勝・平鹿」の二郡に「玉野・避翼・平戈・横河・雄勝・助河」の駅家を置き、並びに陸奥國に「嶺基」の駅家を置いた。

二十七日に坂東の八國と越前・能登・越後(・越中?)の四國の浮浪人二千人を「雄勝」の柵戸としている。また相模・上総・下総・常陸・上野・武藏・下野の七ヶ國から送られて来た兵士用の武器を一部保留して、「雄勝・桃生」の二城に貯えている。

出羽國(雄勝郡/平鹿郡)驛家:玉野・避翼・平戈・横河・雄勝・助河
 
<出羽國驛家>
新羅を征伐するために船を造り、そして出羽國雄勝への坂東諸國からの増員及び驛家を増設して備えている。

勿論、前記の遣渤海使小野朝臣田守等が唐國情勢を詳細に報告、それに伴う新羅の動向を考慮した諸策であろう。

いつの間にやら出羽國に雄勝郡・平鹿郡が建てられ、そこに六つの驛家を設置したと記載している。

出羽國は、渤海から使者が何度も訪れた地であって、淡海を通過して出雲に上陸し、現在の鹿喰峠を越えると届く、西海からの侵入場所と推察した。それ故に雄勝城、また東側の陸奥國桃生城の守備を増強しているのである。

平鹿郡平鹿=鹿の角ような山稜の前が平らになっているところであり、図に示した雄勝郡の南に接する地域と思われる。前出の最上郡・置賜郡(陸奥國から分割)に北側となる。玉野驛家は、玉野=玉のような地が野にあるところは、最上郡玉野と共有した表記であろう。

避翼驛家避翼=谷間が大きく開いて(避)羽のような地が広がっている(翼)ところと読み解ける。図に示した山稜の端の地形を表していると思われる。平戈驛家平戈=鉞のような形をして平らになっているところと読み解ける。図に示した場所を表していることが解る。

横河驛家横河=谷間を横切るように川が流れているところと読むと、現在の谷川が激しく蛇行している場所を表しているのではなかろうか。雄勝驛家雄勝は、「雄勝城」の「雄(小)勝」ではなく、その北側の山麓を示し、正に雄=羽を拡げた鳥の姿を示しているように思われる。

<陸奥國驛家:嶺基>
助河驛家助河=川が流れる谷間の出口(河)の前に積み重ねられた地(助)があるところと読み解ける。峠直下の場所と推定される。これだけの数の驛家を造ったのであるが、情報伝達を如何に素早くしたかったのかが伺い知れる。

陸奥國嶺基驛家

この記述の後に桃生城を造った経緯が語られる。多くの人が褒賞に与ることになるのだが、牡鹿郡から進入した様子であり、その地に驛家が設置されたと推測される。

海路で牡鹿郡に向かい、その後に上陸するならば、ほぼ一ヶ所に限られていることが分かる。牡鹿連の一族の山稜に囲まれた谷間の居処である。すると、嶺基=連なる嶺が箕の形をしているところと読み解ける。

桃生城造成に際して「跨大河凌峻嶺」の苦労を成し遂げたと記載されている。そのまま読めば、「大河を越え高く険しい峰を越えて」となるが、「峻嶺」の「嶺」は、「嶺基」の「嶺」、そして幾度か登場した「大河」=「平らな頂の麓にある谷間の出口が水辺にあるところ」と読むと、驛家から城に向かう行程で出遭う地形そのものを表現していることが解る。

書紀の斉明天皇紀に、新羅が攻めて来るかも?…と大慌てで対策を行ったと記載されていた。通説に従えば、その対策の実施場所は、現在の東北地方に当たる。西海からの脅威に対して、何故東北を防備するのか?…今回も同じように国防体制を整えようとしている。日本の古代史家は、まさか、当時の新羅に長距離巡行ミサイルを保有していた、と考えているのであろうか・・・。

冬十月辛丑。天下諸姓著君字者。換以公字。伊美吉以忌寸。壬寅。以從五位下丈部大麻呂爲齋宮頭。戊申。去天平勝寳五年。遣左大弁從四位上紀朝臣飯麻呂。限伊勢大神宮之界。樹標已畢。而伊勢志摩兩國相爭。於是。遷尾垂刹於葦淵。遣武部卿從三位巨勢朝臣關麻呂。神祇大副從五位下中臣朝臣毛人。少副從五位下忌部宿祢呰麻呂等。奉幣帛於神宮。辛亥。迎藤原河清使判官内藏忌寸全成。自渤海却廻。海中遭風。漂着對馬。渤海使輔國大將軍兼將軍玄菟州刺史兼押衙官開國公高南申相隨來朝。其中臺牒曰。迎藤原河清使惣九十九人。大唐祿山先爲逆命。思明後作乱常。内外騷荒。未有平殄。即欲放還。恐被害殘。又欲勒還。慮違隣意。仍放頭首高元度等十一人。往大唐迎河清。即差此使。同爲發遣。其判官全成等並放歸卿。亦差此使隨徃。通報委曲。壬子。中宮大夫從四位下佐味朝臣虫麻呂卒。丙辰。徴高麗使於大宰。

十月八日に天下の諸姓のうち、「君」の字を着けているものは「公」の字に換えさせ、「伊美吉」は「忌寸」に改めさせている。九日に丈部大麻呂を齋宮頭に任じている。十五日、去る天平勝寶五(753)年に、左大弁の紀朝臣飯麻呂を遣わして、伊勢大神宮の神域の境界を定めて、標識を立てさせたことがあった。しかしながら今も伊勢・志摩両國は境界について互いに争っている。そこで「尾垂刹」(標幟)を「葦淵」に遷し、武部(兵部)卿の巨勢朝臣關麻呂(堺麻呂)、神祇大副の中臣朝臣毛人(麻呂に併記)、少副の忌部宿祢呰麻呂等を派遣して幣帛を奉つらせている。

十八日に「藤原河清」(唐國での名称。藤原朝臣清河)を迎える使の判官、内藏忌寸全成(黒人に併記)は、渤海をまわって帰国する途中、海上で暴風に遭って対馬に漂着した。渤海使の輔國大将軍兼将軍・玄菟州刺史兼押衙官・開國公の高南申が、共に随って来朝して来た。彼の持参した中台の牒(官府間の往復文書)に以下のように記載されていた・・・「藤原河清」を迎える使は全部で九十九人である。大唐の安禄山は先に天子の命に背き、史思明もその後に乱を起こして、内外は荒れて騒がしく、まだ賊は平らげ亡ぼされてはいない。そのため「河清」を迎える使をそのまま唐に送り出そうとしても、恐らく殺されるなどの害を受けるであろう。---≪続≫---

渤海が迎える使を率いて日本に帰らせようとしても、考えてみれば隣國(日本)の意に反することになるであろう。それで頭首(長官)の高元度等十一人を出発させて大唐に往って「河清」を迎えさせ、同時にこちらの使者を任命して「元度」等と共に出発させる。また判官の「全成」等はいずれ帰国させることにする。またこちらの使(南申等)を任命し、随って往かせ、詳しく事情を通報させる・・・。

十九日に中宮大夫の佐味朝臣虫麻呂が亡くなっている。二十三日に高麗(渤海)からの使を大宰府に呼び寄せている。

<尾垂刹・葦淵>
尾垂刹・葦淵

神域の設定は、国境の線引きのようなものであったろう。住み着いた人々にとっては、都合の良いこともあれば、そうでないことも生じるのが、人の世の常と推察される。

このブログを書いている時代にも国境紛争は後を絶つことができないホモサピエンスである。ゲノム解析がノーベル賞授与となった。倭人のゲノム解析、一層の進展に期待したいところである。

横道に逸れて、崖から落ちそうな有様だが、本筋に戻して、伊勢大神宮の神域に接する志摩國の領域は、現地名の北九州市小倉南区高野、紫川の川辺と思われる。聖武天皇が伊勢に行幸された際に詳細な地名が記載された場所である。

尾垂刹尾垂=尾のように延びた山稜の端が岐れて枝を垂れるようになっているところと解釈される。「刹」の解釈は、「標幟」=「はたじるし」とした。図に示した場所と推定される。葦淵=山稜に囲まれた水の流れが淀んで深くなったところと読むと「尾垂刹」の南側に「刹」を移動し幣帛を並べ立てたと伝えているのである。

地形的には「尾垂刹」の場所が神域の区切りと思われるが、そこから「葦淵」までの土地が曖昧であり、紛争の元となったと推察される。僅かな距離ではあるが、上図はその有様を的確に反映していると思われる。参考している資料では「刹」=「小規模な關」と解釈されているようだが、河口頓宮を別名關宮としている。ならば移動する必要はなかったのではなかろうか。

十一月甲子。詔曰。如聞。去十月中大風。百姓廬舍並被破壞。是以。爲修其舍。免今年田租。丙寅。詔賜大保已下至于百官官人。絁綿各有差。以被風害屋舍毀壞也。丁夘。以從五位上藤原朝臣宿奈麻呂爲右中弁。從五位下菅生王爲大監物。從五位下文室眞人波多麻呂爲右大舍人助。從五位下藤原朝臣楓麻呂爲文部少輔。從三位氷上眞人塩燒爲禮部卿。從五位上阿倍朝臣毛人爲仁部大輔。從三位藤原朝臣乙麻呂爲武部卿。從五位上阿倍朝臣子嶋爲大輔。正四位上紀朝臣飯麻呂爲義部卿。河内守如故。正四位下文室眞人大市爲節部卿。從四位下御使王爲大膳大夫。從五位下和王爲正親正。從五位下高橋朝臣子老爲内膳奉膳。外從五位下小田臣枚床爲采女正。從四位下佐伯宿祢今毛人爲攝津大夫。從五位上大伴宿祢御依爲遠江守。正五位上藤原朝臣魚名爲上総守。從五位下池田朝臣足繼爲下総介。從五位下藤原惠美朝臣薩雄爲越前守。從五位下藤原朝臣武良自爲丹後守。右勇士督從四位下上道朝臣正道爲兼備前守。從五位下藤原朝臣繩麻呂爲備中守。正五位下久勢王爲備後守。從五位下田口朝臣水直爲土左守。辛未。勅坂東八國。陸奥國若有急速索援軍者。國別差發二千已下兵。擇國司精幹者一人。押領速相救援。」頒下國分二寺圖於天下諸國。癸酉。四品室内親王薨。一品舍人親王之女也。乙亥。造東大寺判官外從五位下河内畫師祖足等十七人賜姓御杖連。戊寅。遣造宮輔從五位下中臣丸連張弓。越前員外介從五位下長野連君足。造保良宮。六位已下官五人。庚辰。授外從五位下津連秋主從五位下。壬辰。勅益大保從二位藤原惠美朝臣押勝帶刀資人廿人。通前卌人。

十一月二日に次のように詔されている・・・聞くところによると、去る十月中に大風が吹き、人民の家屋が軒並み破壊されたという。そこでその家を修理する為に今年の田租を免除する・・・。四日に詔されて、大保(恵美押勝)以下、百官の役人に至るまで、絁・真綿を地位に応じて賜っている。大風の被害に遭って、官人の家が壊れたためである。

五日に以下の人事を行っている。藤原朝臣宿奈麻呂(良繼)を右中弁、菅生王を大監物、文室眞人波多麻呂を右大舍人助、藤原朝臣楓麻呂(千尋に併記)を文部(式部)少輔、氷上眞人塩燒を禮部(治部)卿、阿倍朝臣毛人(粳虫に併記)を仁部(民部)大輔、藤原朝臣乙麻呂を武部(兵部)卿、阿倍朝臣子嶋(駿河に併記)を大輔、紀朝臣飯麻呂を義部(刑部)卿兼河内守、文室眞人大市を節部(大藏)卿、御使王(三使王)を大膳大夫、和王(倭王)を正親正、高橋朝臣子老(國足に併記)を内膳奉膳、小田臣枚床を采女正、佐伯宿祢今毛人を攝津大夫、大伴宿祢御依(三中に併記)を遠江守、藤原朝臣魚名(鳥養に併記)を上総守、池田朝臣足繼を下総介、藤原惠美朝臣薩雄を越前守、藤原朝臣武良自を丹後守、右勇士督の上道朝臣正道(上道臣斐太都)を兼務の備前守、藤原朝臣繩麻呂を備中守、久勢王(久世王)を備後守、田口朝臣水直(御直)を土左守に任じている。

九日に「坂東八國」(九國。常陸國を除く)に次のように勅されている・・・陸奥國にもし緊急のことがあって、援軍を求めてくれば、國ごとに二千人以下の兵を徴発し、國司のうち優れて頼りになる者を一人択び、部隊を率いさせて、速やかに救援させよ・・・。この日、國分寺と國分尼寺の図を天下の諸國に頒ち下している。十一日に室内親王が亡くなっている。舎人親王の娘であった。

十三日に造東大寺判官の河内畫師祖足(祖父麻呂に併記)等十七人に「御杖連」の氏姓を賜っている。十六日に造宮輔の中臣丸連張弓と越前員外介の長野連君足(山田史。廣野連を経て長野連:地形的に長野が妥当と思われる)を遣わして「保良宮」を造らせている。他に六位以下の官人五人を副えて遣わしている。十八日に津連秋主(津史)に従五位下を授けている。三十日に次のように勅されている・・・大保の藤原恵美朝臣押勝(藤原朝臣仲麻呂)に帯刀資人を二十人増員する・・・。前と合わせて四十人である。

<保良宮>
保良宮

少し後に近江國保良宮と記載され、この宮は近江國に造られたことが分かる(天平字五[761]年十月)。また、平城宮改修のために一時遷御された宮でもある。

近江國の各地には、天平十二(740)年十二月に聖武天皇が行幸された時の行宮が幾つか建てられていた(横川頓宮犬上頓宮など)。これらの行宮の場所を参考しながら、保良宮の場所を求めてみよう。

既出の文字列である保良=谷間に延びる山稜の端が丸く小高い地がなだらかになっているところと読み解ける。その地形を図に示した場所に見出すことができる。別の史書では大津宮と記載されていることが知られている。周防灘に面した津の地形であったことが推測される(当時図中青い部分は海面下)。決して淡海大津宮(近江大津宮)の近隣ではない。

「保良(ホラ)」と読み下せる表記である。即ち「保良」=「洞」の意味を示唆するのではなかろうか。この地は、文武天皇紀の大寶三(703)年九月に施基皇子近江國鐵穴を賜ったと記載されていた。「保良宮」のある山稜の奥の谷間、それが「鐵穴」の場所と推定した。見事に繋がったようである。

「鐵穴」は、聖武天皇紀の天平十四(742)年十二月にも登場し、「鐵」(おそらく砂金)の取得争いで混乱が生じていたことを述べている。また、聖武天皇紀の天平十七(745)年には民部卿の藤原朝臣仲麻呂が近江守を兼務している。田村第と言い、淳仁天皇(大炊王)は「仲麻呂」の息のかかった場所を居処としたのであろう。様々な憶測が広がるが、ここらで止め置こう。

十二月甲午。置授刀衛。其官員。督一人從四位上官。佐一人正五位上官。大尉一人從六位上官。少尉一人正七位上官。大志二人從七位下官。少志二人正八位下官。丙申。武藏國隱沒田九百町。備中國二百町。便仰本道巡察使勘検。自餘諸道巡察使検田者亦由此也。其使未至國界。而豫自首者免罪。己亥。散位從四位下大伴宿祢麻呂卒。壬寅。外從五位下山田史白金。外從五位下忌部首黒麻呂等七十四人賜姓連。山田史廣名。忌部首虫麻呂。壹岐史山守等四百三人賜姓造。辛亥。高麗使高南申。我判官内藏忌寸全成等到着難波江口。丙辰。高南申入京。

十二月二日に授刀衛を設置している。その官員の爵位は、督が一人て従四位上、佐は一人で正五位上、大尉は一人で従六位上、少尉は一人で正七位上、大志は二人で従七位下、少志は二人で正八位下とされている。四日に隠没田(登録されていない隠し田)は武藏國で九百町、備中國では二百町が存在する。そこでその道の巡察使に命じて、調べて取り締まさせる。その他の諸道の巡察使に田を調べさせるのもこのためである。巡察使が國境に到達する前に自首する者は罪を免除する。

七日に散位の大伴宿祢麻呂(兄麻呂に併記)が亡くなっている。十日に山田史白金(銀)、忌部首黒麻呂等七十四人に連姓を賜っている。山田史廣名(銀に併記)・忌部首虫麻呂(黒麻呂に併記)・「壹岐史山守」等四百三人に造姓を賜っている。十九日に高麗(渤海)使の高南申と、我が國の使の判官内藏忌寸全成(黒人に併記)等が「難波江口」(難波津江口)に到着している。二十四日に高南申が入京している。

<壹岐史山守>
● 壹岐史山守

「壹岐史」は、書紀の『八色之姓』で連姓を賜った「壹伎史」の系統と思われる。主な登場人物は伊吉連博徳伊吉連古麻呂であった。

上記の「山田史・忌部首」と同じく、同祖なのだが、系列が異なる一族だったのであろう。近隣だが、少し離れた場所に蔓延っていたことを示しているように思われる。氏名を変えずに姓の名称を変えてそれを表しているのである。

既出の文字列である山守=山にある山稜の端が両肘を張ったように延びているところと解釈すると、図に示した場所が見出せる。現地名も「伊吉連」が壱岐市芦辺町中山触、「壹岐造」が大左右触となっている。古代の人々の佇まいを今に残しているのであろう。

書紀の『壬申の乱』の際に「有人曰、近江將壹伎史韓國之師也」と記載されている。壹伎史韓國を「壹岐史(伊吉連・壹岐造)」の同族とするのが通説である。がしかし、「韓國」は「巨勢朝臣」一族と解釈した。續紀の孝謙天皇紀に登場する巨勢朝臣度守の近隣である。

”有人曰”、書紀らしい表記であろう。誰かに言わせて真偽不明としているのである。これを真面に受けて、壹岐史一族とする、何度も述べたが、壱岐と難波(江口)との間の時空感覚皆無の古代史学である。それは兎も角、”高天原”の住人は、續紀中未だにご登場されないのだが、果たして・・・。