2022年8月26日金曜日

寳字稱徳孝謙皇帝:孝謙天皇(15) 〔602〕

寳字稱徳孝謙皇帝:孝謙天皇(15)


天平字元年(西暦757年)閏八月の記事からである。原文(青字)はこちらのサイトから入手、訓読続日本紀(今泉忠義著)、続日本紀2(直木考次郎他著)を参照。

閏八月癸丑。以從四位上上道朝臣斐太都爲吉備國造。壬戌。紫微内相藤原朝臣仲麻呂等言。臣聞。旌功不朽。有國之通規。思孝無窮。承家之大業。緬尋古記。淡海大津宮御宇皇帝。天縱聖君。聡明睿主。孝正制度。創立章程。于時。功田一百町賜臣曾祖藤原内大臣。襃勵壹匡宇内之績。世世不絶。傳至于今。尓來臣等因籍祖勳。冠蓋連門。公卿奕世。方恐富貴難久。榮華易凋。是以。安不忘危。夕惕如厲。忽有不慮之間。兇徒作逆。殆傾皇室。將滅臣宗。未報先恩。芝蘭幾敗。冀修冥福。長保顯榮。今有山階寺維摩會者。是内大臣之所起也。願主垂化。三十年間。無人紹興。此會中廢。乃至藤原朝廷。胤子太政大臣。傷構堂之將墜。歎爲山之未成。更發弘誓。追繼先行。則以毎年冬十月十日。始闢勝筵。至於内大臣忌辰。終爲講了。此是奉翼皇宗。住持佛法。引導尊靈。催勸學徒者也。伏願以此功田。永施其寺。助維摩會。弥令興隆。遂使内大臣之洪業。與天地而長傳。皇太后之英聲。倶日月而遠照。天恩曲垂。儻允臣見。請下主者。早令施行。不任微願。輕煩聖聽。戰戰兢兢。臨深履薄。」勅報曰。備省來表。報徳惟深。勸學津梁。崇法師範。朕与卿等共植茲因。宜告所司令施行。癸亥。夫人正二位橘朝臣古那可智。无位橘朝臣宮子。橘朝臣麻都賀。又正六位上橘朝臣綿裳。橘朝臣眞姪。改本姓賜廣岡朝臣。從五位下出雲王。篠原王。尾張王。无位奄智王。猪名部王賜姓豊野眞人。丙寅。勅曰。如聞。護持佛法。無尚木叉。勸導尸羅。實在施禮。是以。官大寺別永置戒本師田十町。自今已後。毎爲布薩。恒以此物量用布施。庶使怠慢之徒日厲其志。精勤之士弥進其行。宜告僧綱。知朕意焉。壬申。勅曰。大宰府防人。頃年差坂東諸國兵士發遣。由是。路次之國。皆苦供給。防人産業。亦難辨濟。自今已後。宜差西海道七國兵士合一千人充防人司。依式鎭戍。其集府之日。便習五教。事具別式。

閏八月八日に上道朝臣斐太都を吉備國の國造に任じている。十七日に紫微内相の藤原朝臣仲麻呂が次のように申し上げている・・・臣は[功績を末長く表すことには、国家を永続させる基本の方法であり、孝行をどこまでも忘れぬことは、家門を保つのに大切な業である]と聞いている。遥かに古記録を尋ねると、淡海大津宮(近江大津宮)に天下を支配された天皇(天智天皇)は、生まれながらの聖君であり、聡明な明君であった。国家の制度を考え直し、初めて法律の条文を制定した。この時、臣の曽祖父藤原内大臣(藤原鎌子連、鎌足)に功田百町を賜った(史書に記録なし)。そして、国家のあり方を一度に正した功績を褒めて、今に至るまで代々、それを相続することを許されて来た。これ以来、臣等は、曽祖父の功績により、官位の高い家が多く、公卿に登る者が代々相ついでいる。しかし富貴は永く保ち難く、栄華は凋みやすいと思われる。このため、臣等は安全な状態にあっても、危険の起こることを忘れず、一日が終わる夕刻まで、厳しく身を慎んで危険に備えている。---≪続≫---

突然思いもかけず、凶徒が叛逆を企て、まさに皇室を覆し臣の本家を滅ぼそうとした。先皇の御恩に報じる間もなく、名門の誇りをもつ我が藤原一門も敗亡に瀕した。しかし幸いにも危険を脱することができ、冥福を祈り、長く栄華を保ちたいと考える。今、山階寺(興福寺)に行う維摩会は、もと内大臣(鎌足)の創設したものである。願主(鎌足)の没後は三十年にわたり、法会を継承し起こす人がなく、法会は中絶したまますたれている。藤原朝廷(持統天皇)の世になり、鎌足の子、贈太政大臣(藤原朝臣不比等)は、維摩会が行われないために山階寺の名が忘れられることを悲しみ、功徳の完成しないことを嘆き、あらためて誓願を起こして、今までの法会を継承することにした。そこで、毎年冬の十月十日に、維摩経の購読を盛大に行い、内大臣の命日(十月十六日)に終了することにした。---≪続≫---

そもそもこの法会は、皇室ご本家の栄えをお助けし奉り、仏法を維持し、貴い亡霊を浄土に導き、学徒に仏教学を学ばせるものである。そこで、この功田(百町)を山階寺に永久に布施し、ついに維摩会開講を助成し、ますます法会を興隆させ、ついに内大臣の始めた大業を天地と同様に永く維持し、同時に皇太后(光明子。内大臣の孫)の優れた名声を、日月の光と同様に、遠くまで輝かせたいと思う。天恩が隅々にまで垂れ、どうか臣の願いをお許し下され。担当の官司に申し渡し、早くに実行されることを請う。つまらぬ願いに過ぎないのに、軽々しく陛下のお耳を煩わすことを、深淵に臨んで薄氷を踏むように、戦々兢々畏れ多く思っている・・・。

勅答は以下の通り・・・上表文を詳しく見るに、報徳の思いが、深いことがわかる。これは仏教の学問を奨励する重要な拠り所、また仏法を尊ぶ典型と言って良い。朕も、卿等と共に善根を育てていきたい。所司に布告して施行させよ・・・。

十八日に夫人の橘朝臣古那可智(橘宿祢)と「橘朝臣宮子」・橘朝臣麻都賀(橘宿祢眞都我。古那可智に併記)、また「橘朝臣綿裳」・「橘朝臣眞姪」の本姓を改めて「廣岡朝臣」の氏姓を賜っている。出雲王篠原王・「尾張王・奄智王・猪名部王」に「豊野眞人」の氏姓を賜っている。

二十一日に以下のように勅されている・・・聞くところによれば、仏法を護持するのに、律よりも尊いものはなく、戒を勧め導くのは、礼儀をひろめることがなにより大切である。そこで官の大寺に、従来の寺田とは別にそれぞれ戒本師田十町を設けることにする。今より後は、布薩(毎月二回の懺悔の行事)をするたびに、常にこの田からの利益をもって布施の物に充てよ。どうか怠慢な僧尼等は毎日精神を励まし、勤めに励んでいる僧尼等はますますその行いを向上させるようにと期待する。僧綱に告げて、朕の意図を理解させよ・・・。

二十七日に以下のように勅されている・・・大宰府の防人は、近頃は坂東諸國(坂東九國)の兵士を動員して、派遣して来た。このため、防人の通行する道筋の國は、皆物資の供給に苦労して、防人の生業も、回復し難い損失を負ってしまう。そこで今後は、西海道の七國の兵士、合わせて千人を動員して、防人司に授け、式により警護させることにする。兵士が大宰府に集合したならば、すぐに五教を教えよ。このことは別の式に詳しく記してある・・・。

<橘朝臣宮子-綿裳-眞姪>
● 橘朝臣宮子・綿裳・眞姪

橘宿祢は、美努王の子、葛木王が臣籍降下して賜った氏姓(橘宿祢諸兄)であり、その後朝臣姓に改姓している。藤原朝臣一族との確執が続く中での出来事であり、それが橘朝臣奈良麻呂の謀反の伏線であろう。

「葛木王」の弟である佐爲王の系列は、男子の登場がなく、古那可智、聖武天皇の橘夫人、が早期に叙爵されていた。いずれにせよ橘宿祢三千代の閨閥であり、藤原一族と濃密に関わりながら、互いに牽制し合う関係である。

麻都賀(眞都我)は、「古那可智」の出自場所に併記したが、麻都賀=擦り潰されたような山稜が寄り集まった谷間が押し開かれたところと読み解けば、別名として受け入れられるようである。ここで登場した宮子綿裳眞姪について、各々の出自の地を求めてみよう。

既出の宮子=奥が広がった谷間から生え出たところと解釈され、その地形を図に示した場所に見出せる。眞姪=嫋やかに曲がる谷間が寄り集まった窪んだところと解釈される。宮子の南側の谷間の出口辺りが出自と推定される。

最後の綿裳について、少し補足を行うと、「綿」=「糸+帛」=「山稜が細長く延びている様」、「裳」=「尚(向+八)+衣」=「山稜の端の三角州が大きく広がっている様」と解釈される。纏めると綿裳=細く長く延びた山稜の端の三角州が大きく広がっているところと読み解ける。図に示した「眞姪」の南側の山稜の端、現在の御祓川に面する場所を表していると思われる。

「佐爲王」の子孫は、なかなかに広々とした谷間を占有していたようである。賜った廣岡朝臣の由来と思われる。謀反連座の疑いはなく、さりとて、橘朝臣の名称は憚れたのであろう。後に橘宿祢(朝臣)へと戻された、とのことである。

<尾張王・奄智王・猪名部王(豊野眞人)>
● 尾張王・奄智王・猪名部王

前出の篠原王が従五位下を叙爵されて登場した時に、鈴鹿王(高市皇子の次男)の子孫であることが分かった。纏めて地図上に記載すると煩雑になるため、あらためて、出雲王も含めて出自の場所を掲載した。

長屋王(高市皇子の長男)の子、黄文王の谷間にひしめき合っていた様子が浮かんで来たようである。前出の美和眞人岡屋・壬生(岡屋王・壬生王)は、谷間の東側であり、「黄文王」の子孫の可能性が高いと推測した。謀反の首謀者の一人(久奈多夫礼と改名された)として、その系譜が抹消されたのであろう。

そんな背景で今回登場の三名の王の出自の場所を求めてみよう。尾張王は、尾張=長く延びた山稜の端が大きく広がっているところであり、図に示した場所の地形を表していると思われる。奄智王の「奄」=「覆い被さる様」と解釈すると、奄智=鏃と炎のような山稜で覆い被されたようなところと読み解ける。「出雲王」の東側、谷間の出口辺りが出自と推定される。

猪名部王猪名=平らな頂の山稜の端の三角州が交差しているところと解釈され、部=近隣の場所を表している。図に示した篠原王の南側と思われる。別名に五十戸王があったと知られているが、五十戸=交差する谷間の出入口となるところと読み解け、地形の別表記であることが解る。五人の王が豐野の南北に並んだ配置であったことを伝えている。

九月辛巳。授正六位上後部高笠麻呂外從五位下。癸夘。授外從五位下六人部久須利外從五位上。

九月六日に「後部高笠麻呂」に外從五位下を授けている。二十八日に六人部久須利(藥。天平勝寶七[755]年)正月に外従五位下を叙爵)に外従五位上を授けている。

<後部高笠麻呂>
● 後部高笠麻呂

元明天皇紀の和銅五(712)年正月に「後部王同」に従五位下を叙爵したと記載され、孝謙天皇紀の天平勝寶六(754)年正月には「後部王吉」が同じく叙爵されていた。

「後部」は、高麗の地名と知られ、それをそのまま引き継いで、和名を用いなかったのであろう。今回の人物も「後部」を出自とする人々の子孫と推察される。高麗出身者を移住させた武藏國高麗郡を居処としていたとして、出自の場所を求めてみよう。

既に背奈公行文奈良麻呂の謀反の際にも活躍した福信、その兄弟が登用され、「高麗朝臣」の氏姓を賜ったと記載されていた。高笠麻呂の表記は、地形象形表記と思われる。高笠=山稜が皺が寄ったような笠の形をしいてるところと読み解けば、図に示した谷間を表していることが解る。この後續紀に登場されることはないようである。

冬十月庚戌。勅曰。如聞。諸國庸調脚夫。事畢歸郷。路遠粮絶。又行旅病人無親恤養。欲免飢死。餬口假生。並辛苦途中。遂致横斃。朕念乎此。深増憫矜。宜仰京國官司。量給粮食醫藥。勤加検校。令達本郷。若有官人怠緩不行者。科違勅罪。乙夘。太政官處分。比年諸國司等交替之日。各貪公廨。竸起爭論。自失上下之序。既虧清廉之風。於理商量。不合如此。今故立式。凡國司處分公廨式者。惣計當年所出公廨。先填官物之欠負未納。次割國内之儲物。後以見殘。作差處分。其法者長官六分。次官四分。判官三分。主典二分。史生一分。。其博士醫師准史生例。員外官者各准當色。丁夘。始制諸國論定數。隨國大小各有差。事具別式。

十月六日に次のように勅されている・・・聞くところによると、諸國から調・庸を運ぶ人夫は、帰郷する際に、遠路のために食糧が絶えてしまう。また、旅先で病気になった人は、親しく心配して世話をしてくれる人がいないので、餓死を免れるために乞食になってようやく命をつないでいる。どちらの場合も、旅の途中に苦労しながら、ついに横死してしまう。朕は、この情況を思いやって、哀れみの心をいっそう増すのである。そこで、京都と諸國の官司に命じて、食糧と医薬を与え、力を尽くしてよく調べ上げ、人々が郷里に帰りつけるようにせよ。もし官人でありながら、怠慢にも、この命を実行しない者があったなら、違勅の罪を科すことにする・・・。

十一日に太政官が次のように処分している・・・近頃、諸國の國司が交替する際に、各々公廨稲を自分のものにしようとし、せりあって論争することが多い。これでは官人の上下の秩序が失われ、清廉の気風も傷がついてしまう。道理に基づいてよく考えるに、これではいけない。そこで今、次のように新しい式(法)を設ける。およそ、國司が公廨稲を処分する法は、今年度の支出されるべき公廨稲を合計し、それをまず官物の欠損または未納となった分に宛て、次に國内に蓄えておくべき分を取り除き、最後に現に残った分を、等級をつけて配分せよ。配分法は、長官に六分、次官に四分、判官に三分、主典に二分、史生に一分とする。國博士と國医師は史生の分と同じとする。員外官は、それぞれ相当官に準じるものとする・・・。

二十三日に初めて諸國の論定(正税稲)の数を制定している。それは國の大小に従ってそれぞれ差がある。そのことは別式に詳細に述べてある。

十一月癸未。勅曰。如聞。頃年諸國博士醫師。多非其才。託請得選。非唯損政。亦无益民。自今已後。不得更然。其須講經生者三經。傳生者三史。醫生者大素。甲乙。脉經。本草。針生者。素問。針經。明堂。脉决。天文生者。天官書。漢晋天文志。三色薄讃。韓楊要集。陰陽生者周易。新撰陰陽書。黄帝金匱。五行大義。暦算生者漢晋律暦志。大衍暦議。九章。六章。周髀。定天論。並應任用。被任之後。所給公廨一年之分。必應令送本受業師。如此則有尊師之道終行。教資之業永繼。國家良政莫要於茲。宜告所司早令施行。壬寅。勅。以備前國墾田一百町。永施東大寺唐禪院十方衆僧供養料。伏願。先帝陛下薫此芳因。恒蔭禪林之定影。翼茲妙福。速乘智海之慧舟。終生蓮華之寳刹。自契等覺之眞如。皇帝皇太后。如日月之照臨並治萬國。若天地之覆載長育兆民。遂使爲出世之良因成菩提之妙果。

十一月九日に以下のように勅されている・・・聞くところによると、近頃、諸國の國博士と國医師は、才能もないのに伝手を頼って頼み込んで職を得る者が多い。これでは、政を傷付けるばかりか、民を益することにもならない。今後は、こうしたことは禁止する。経学を学ぶ学生は『三経』(大中小経)、紀伝の学生は『三史』(史記/漢書/後漢書)、医生は『黄帝内経大素』・『甲乙経』・『脉経』・『新修本草』、針生は『黄帝素間』・『黄帝針経』・『黄帝内経明堂』・『黄帝脉経決』、天文生は『史記天官書』・『漢書天文志』・『晉書天文志』・『三色簿讚』・『韓楊天文要集』、陰陽生は『周易』・『新撰陰陽書』・『黄帝金匱経』・『五行大義』、暦生・算生は『漢書律暦志』・『晉書律暦志』・『大衍暦議』・『九章』・『六章』・『周髀』・『定天論』の書を学ぶべきである。---≪続≫---

それぞれ学生は官職に任用されるが、任じられた後は、給付される公廨田の稲一年分を、元の学業を受けた師に贈らせるべきである。このようにしたならば、師を尊ぶ道は後々まで行われ、教え授ける業も永く受け継がれることになろう。国家の良い政治として、これより重要なものはない。官司に布告して早く施行させよ・・・。

二十八日に以下のように勅されている・・・備前國にある墾田百町を、東大寺の唐禅院(唐僧鑒眞[鑑眞]の居処)の十方(諸方から集まる)衆僧供養料として、永久に布施する。伏して願うことは、亡き先帝陛下がこのよい功徳により、禅を修める寺のお蔭をこうむって、この妙なる福業に助けられ、速やかに智海を渡る恵みの船に乗り、ついに蓮華の花咲く立派な寺に生まれ変わり、自ら仏陀の真理に合致されるように。また、皇帝と皇太后は、日と月が照り輝くように並んで万国を治め、天と地が万物を載せ、また覆うように、長く万民を育て、ついに苦界を脱出するよい原因となり、悟りの世界に入る優れた結果になって欲しい・・・。

十二月辛亥。勅。普爲救養疾病及貧乏之徒。以越前國墾田一百町永施山階寺施藥院。伏願。因此善業。朕与衆生。三檀福田窮於來際。十身藥樹蔭於塵區。永滅病苦之憂。共保延壽之樂。遂契眞妙之深理。自證圓滿之妙身。壬子。太政官奏曰。旌功。錫命。聖典攸重。襃善行封。明王所務。我天下也。乙巳以來。人人立功。各得封賞。但大上中下雖載令條。功田記文或落其品。今故比校昔今。議定其品。大織藤原内大臣乙巳年功田一百町。大功世世不絶。贈小紫村國連小依壬申年功田一十町。贈正四位上文忌寸祢麻呂。贈直大壹丸部臣君手。並同年功田各八町。贈直大壹文忌寸智徳同年功田四町。贈小錦上置始連莵同年功田五町。五人並中功。合傳二世。正四位下下毛野朝臣古麻呂。贈正五位上調忌寸老人。從五位上伊吉連博徳。從五位下伊余部連馬養。並大寳二年修律令功田各十町。四人並下功。合傳其子。〈以上十條。先朝所定。〉贈大錦上佐伯連古麻呂乙巳年功田卌町六段。被他駈率。効力誅姦。功有所推。不能稱大。依令上功。合傳三世。從五位上尾治宿祢大隅壬申年功田卌町。淡海朝廷諒陰之際。義興警蹕。潜出關東。于時大隅參迎奉導。掃清私第。遂作行宮。供助軍資。其功實重。准大不及。比中有餘。依令上功。合傳三世。贈大紫星川臣麻呂壬申年功田四町。贈大錦下坂上直熊毛同年功田六町。贈正四位下黄文連大伴同年功田八町。贈小錦下文直成覺同年功田四町。四人並歴渉戎塲。輸忠供事。立功雖異。勞効是同。比校一同村國連小依等。依令中功。合傳二世。大錦下笠臣志太留告吉野大兄密功田廿町。所告微言尋非露驗。雖云大事。理合輕重。依令中功。合傳二世。從四位下上道朝臣斐太都天平寳字元年功田廿町。知人欲反。告令芟除。論實雖重。本非專制。依令上功。合傳三世。小錦下坂合部宿祢石敷功田六町。奉使唐國漂著賊洲。横斃可矜。稱功未愜。依令下功。合傳其子。正五位上大和宿祢長岡。從五位下陽胡史眞身。並養老二年修律令功田各四町。外從五位下矢集宿祢虫麻呂。外從五位下鹽屋連古麻呂。並同年功田各五町。正六位上百濟人成同年功田四町。五人並執持刀筆刪定科條。成功雖多。事匪匡難。比校一同下毛野朝臣古麻呂等。依令下功。合傳其子。〈以上一十四條當今所定。〉

十二月八日に以下のように勅されている・・・疾病と貧乏に苦しむ人々をもれなく救済するために、越前國にある墾田百町を、山階寺の施薬院に永久に布施する。この善行により、朕は他の一般の人々と共に、施しから生ずる幸いを未来にまでひろめ、仏の藥の樹を、この穢れの多い世界に茂らせ、そして、病苦の悩みを永遠に滅ぼし、共に長寿の楽しみを持ち、遂に真に微妙深遠の真理を悟り、おのずから円満な理想の身になることを願うのである・・・。

十二月九日に太政官が以下のように奏している・・・人の功績を表彰して勅語を給うことは、聖典にも記される大事なことである。人の善行を褒めてやり、封地を与えることは、賢明な王の務めである。我が国においては、乙巳の年(大化元年、645年)より以来、多くの人が功績をたてて、それぞれ封地を賞として得ている。ただ田令の条文(功田の条)には、大功・上功・中功・下功の等級が記されているが、今までに与えられた功田の文書には、その等級が記されていないものがある。そこで今、昔から現在に至る例を比較して、等級を定めようと思う。---≪続≫---

藤原内大臣鎌足の乙巳の年の功田百町は、大功として延久に相続させ、村國連小依(村國男依)の壬申の年(天武元年、672年)の功田十町、文忌寸祢麻呂(書首根摩呂)丸部臣君手(和珥部臣君手)の同年の功田各八町、文忌寸智德の同年の功田四町、置始連菟の同年の功田五町、この五人の功田は、それぞれ中功として二代に相続させる。---≪続≫---

下毛野朝臣古麻呂調忌寸老人伊吉連博徳伊余部連馬養(馬飼)の四人のそれぞれ大寶二(702)年に律令を編集した功田は、各十町であるが、それぞれ下功として、その子一代に相続させる。<分注。以上の十条については、先朝で既に定めた>---≪続≫---

佐伯連古麻呂(子麻呂)の乙巳の年の功田四十町六段は、他人に指揮されて戦い力を尽くして姦賊を誅殺したもので、功績はあるが、大功とは言えない。令条の上功として三代に相続させる。尾張宿祢大隅の壬申の年の功田四十町は、近江朝廷の崩御によって喪に服している際、天武天皇が大義によって行幸して思い立ち、密かに関東に脱出なされた時、「大隅」は迎えお導き申し上げ、私邸を掃い清めてとうとう行宮とし、挙兵のための資財を提供してお助けした。その功績は実に大きい。しかし、大功に准じるほどではなく、中功に比べるとそれより重い。令条によって上功として、三代の後まで相続させる。---≪続≫---

星川臣麻呂(摩呂)の壬申の年の功田四町、坂上直熊毛の同年の功田六町、黄文連大伴の同年の功田功田八町、文直成覺の同年の功田四町、以上の四人はそれぞれ戦場を駆け巡り、忠誠を尽くして天皇に奉仕した。手柄の内容は異なるが、功労の成果としては同程度と言うべきである。他と比べると、村國連小依等の例に等しい。令条によると中功であるので、二代に相続させる。---≪続≫---

笠臣志太留(垂)の吉野大兄(古人大兄、古人皇子)の秘密(謀反の計画)を通報した功田二十町は、通報したことは僅かばかりのことであって、探索して密謀を露見させたわけではない。大事件ではあるが、道理としてそれほど重いとは言えない。令条により中功として二代に相続させる。---≪続≫---

上道朝臣斐太都の天平寶字元(757)年の功田二十町は、人が謀反を企てていることを知って通報し、災いの根を刈り除かせた。これを論じると、実に重い功績であるが、一人で処理したことではない。令条によると上功であって三代に相続させる。---≪続≫---

坂合部宿祢石敷(坂合部連磐鍬)の功田六町は、使節として唐國へ赴く途中、賊地に漂着して横死したことにより、哀れなことではあるが、功績と称するのは適当ではない。令条によると下功である。その子に相続させる。---≪続≫---

大和宿祢長岡(大倭忌寸小東人)と陽胡史眞身は、それぞれ養老二(718)年に律令を撰修した功田各四町、矢集宿祢虫麻呂(箭集宿禰蟲萬呂)鹽屋連古麻呂(吉麻呂)は、それぞれ同年の功田五町、百濟人成の同年の功田四町、以上の五人はそれぞれ筆と小刀を持ち、法文を添削して定めた。見事に成功しているが、その事は極めて困難であったわけではない。比較すると、大寶律令を撰修した下毛野朝臣古麻呂等の功と同じである。令条によると下功である。その子に相続させる。<分注。以上の十四条は、今上天皇(孝謙)になって定めたことである>・・・。





 

2022年8月19日金曜日

寳字稱徳孝謙皇帝:孝謙天皇(14) 〔601〕

寳字稱徳孝謙皇帝:孝謙天皇(14)


天平字元年(西暦757年)八月の記事である。原文(青字)はこちらのサイトから入手、訓読続日本紀(今泉忠義著)、続日本紀2(直木考次郎他著)を参照。

八月戊寅。勅。故從五位下山田三井宿祢比賣嶋縁有阿妳之勞。襃賜宿祢之姓。恩波枉激。餘及傍親。而聽人悖語。不奏丹誠。同惡相招。故爲蔽匿。今聞此事。爲竪寒毛。凶痛已深。理宜追責。可除御母之名。奪宿祢之姓。依舊從山田史。庚辰。詔曰。今宣〈久〉。奈良麻呂〈我〉兵起〈尓〉被雇〈多利志〉秦等〈乎婆〉遠流賜〈都〉。今遺秦等者惡心無而清明心〈乎〉持而仕奉〈止〉宣。」又詔曰。此遍〈乃〉政明淨〈久〉仕奉〈礼留尓〉依而治賜人〈母〉在。又愛盛〈尓〉一二人等〈尓〉冠位上賜治賜〈久止〉宣。授正四下船王正四位上。從四位上紀朝臣飯麻呂。藤原朝臣八束並正四位下。正五位上大伴宿祢稻公從四位下。正五位下藤原朝臣千尋正五位上。從五位下佐伯宿祢美濃麻呂從五位上。无位奈紀王。正六位上巨曾倍朝臣難波麻呂。當麻眞人淨成。高橋朝臣人足。阿倍朝臣繼人。采女朝臣淨庭。小野朝臣石根。石川朝臣豊麻呂並從五位下。」以從三位石川朝臣年足爲中納言。兵部卿神祇伯如故。從三位巨勢朝臣堺麻呂。正四位下阿倍朝臣沙弥麻呂。紀朝臣飯麻呂並爲參議。」勅。中納言多治比眞人廣足。年臨將耄。力弱就列。不教諸姪。悉爲賊徒。如此之人。何居宰輔。宜辞中納言。以散位歸第焉。己丑。駿河國益頭郡人金刺舍人麻自。獻蚕産成字。甲午。勅曰。朕以寡薄。忝繼洪基。君臨八方。于茲九載。曾無善政。日夜憂思。危若臨淵。愼如履氷。於是。去三月廿日。皇天賜我以天下大平四字。表區宇之安寧。示歴數之永固。尓乃賊臣廢皇太子道祖。及安宿。黄文。橘奈良麻呂。大伴古麻呂。大伴古慈斐。多治比國人。鴨角足。多治比犢養。佐伯全成。小野東人。大伴駿河麻呂。荅本忠節等。禀性兇頑。昏心轉虐。不顧君臣之道。不畏幽顯之資。潜結逆徒。謀傾宗社。悉受天責。咸伏罪嘖。是以。二叔流言。遂輟肅墻。四凶群類。遠放邊裔。京師肅肅。已無癡民。朝堂寥廓。更有賢輔。竊恐徳非虞舜。運属時艱。武拙殷湯。任當撥乱。晝思夜想。廢寢与食。登民仁壽。致化興平。爰得駿河國益頭郡人金刺舍人麻自獻蚕兒成字。其文云。五月八日開下帝釋標知天皇命百年息。因國内。頂戴茲祥。踊躍歡喜。不知進退。悚息交懷。即下群臣議。便奏云。維天平勝寳九歳。歳次丁酉夏五月八日者。是陛下奉爲太上天皇周忌。設齋悔過之終日也。於是。帝釋感皇帝皇后之至誠。開通天門。下鑒勝業。標陛下之御宇。授百年之遠期。日月所臨。咸看聖胤繁息。乾坤所載。悉知寳祚延長。仁化滂流。宇内安息。慈風遠洽。國家全平之驗也。謹案。蚕之爲物。虎文而有時蛻。馬吻而不相爭。生長室中。衣被天下。錦繍之麗。於是出焉。朝祭之服。於是生矣。故令神虫作字用表神異。而今蕃息之間。自呈靈字。止戈之日。已奏丹墀。實是自天祐之。吉無不利。五八雙數。應寳壽之不惑。日月共明。象紫宮之永配。朕祗承嘉符。還恐寡徳。豈朕力之所致。是賢佐之成功。宜与王公共辱斯貺。但景命爰集。隆慶伊始。思俾惠澤被於天下。宜改天平勝寳九歳八月十八日。以爲天平寳字元年。其依先勅。天下諸國調庸。毎年免一郡者。宜令所遺諸郡今年倶免。其所掠取賊徒資財。宜与士庶共遍均分。」又准令。雜徭六十日者。頃年之間。國郡司等不存法意。必滿役使。平民之苦略由於此。自今已後。皆可減半。其負公私物未備償者。是由家道貧乏。實非姦欺所爲。古人有言。損有餘補不足。天之道也。宜自天平勝寳八歳已前。擧物之利。悉應除免。」又今年晩稻稍逢亢旱。宜免天下諸國田租之半。寺神之封不在此例。」其獻瑞人白丁金刺舍人麻自。宜叙從六位上。賜絁廿疋。調綿卌屯。調布八十端。正税二千束。執持參上驛使中衛舍人少初位上賀茂君繼手。應叙從八位下賜絁十疋。調綿廿屯。調布廿端。其不奏上國郡司等不在恩限。但當郡百姓賜復一年。己亥。勅曰。安上治民。莫善於礼。移風易俗。莫善於樂。礼樂所興。惟在二寮。門徒所苦。但衣与食。亦是天文。陰陽。暦算。醫針等學。國家所要。並置公廨之田。應用諸生供給。其大學寮卅町。雅樂寮十町。陰陽寮十町。内藥司八町。典藥寮十町。辛丑。勅曰。治國大綱。在文与武。廢一不可。言著前經。向來放勅爲勸文才。隨職閑要。量置公田。但至備武。未有處分。今故六衛置射騎田。毎年季冬。宜試優劣以給超群。令興武藝。其中衛府卅町。衛門府。左右衛士府。左右兵衛府各十町。

八月二日に以下のように勅されている・・・故山田三井宿祢比賣嶋(山田史女嶋)は、阿妳(乳母)としての功績があったので(天平勝寶元年七月、乳母の一人として従五位下叙位)、褒めて宿祢姓を賜った。御恩の波は大きく激しく跳ね返って余波は親族まで及んだ。ところが人の道に背く言を信じ、忠誠を尽くさず、仲間の悪人等に招かれて、殊更隠匿することに努めた。今、このことを聞いて、身の毛がよだち、心は深く傷ついた。道理として問い詰めて責めるべきである。よって御母の称を削り、宿祢姓を奪い、元の山田史にせよ・・・。

四日に以下のように詔されている(以下宣命体)・・・今申し渡すに、奈良麻呂等が挙兵する時に雇われた秦氏の人どもは、遠國に流してしまわれた。今残っている秦氏の人どもは、悪心をもたず、清く明るい心でお仕え申し上げよ、と申し渡す・・・。また詔されている(以下宣命体)・・・この度の事件処理にあたり、明るく清く仕え申したことにより、褒められる人もある。また深く賞される故に、一人二人の人等に、冠位をお上げお褒めになる、と申し渡す・・・。

船王に正四位上、紀朝臣飯麻呂藤原朝臣八束(眞楯)に正四位下、大伴宿祢稻公(稻君。宿奈麻呂に併記)に從四位下、藤原朝臣千尋に正五位上、佐伯宿祢美濃麻呂に從五位上、奈紀王(奈貴王。石津王に併記)巨曾倍朝臣難波麻呂(陽麻呂に併記)當麻眞人淨成(比礼に併記)高橋朝臣人足(國足に併記)阿倍朝臣繼人(繼麻呂の子?)・「采女朝臣淨庭」・「小野朝臣石根」・石川朝臣豊麻呂(君成に併記)に從五位下を授けている。石川朝臣年足兵部卿・神祇伯は元のままで中納言、巨勢朝臣堺麻呂阿倍朝臣沙弥麻呂(佐美麻呂)紀朝臣飯麻呂を參議に任じている。

また、次のように勅されている・・・中納言の多治比眞人廣足(廣成に併記)は、齢は「耄」(七十歳、もしくは八十歳。耄碌)に近く、能力が低いのに議政の場に連なり、一族の若い甥等(犢養・礼麻呂・鷹主)を教え導かず、全て賊の一味にしてしまった。このような人が、どうして宰相の職にあるべきだろうか。中納言の職を辞し、散位になって邸に帰っておれ・・・。

十三日に駿河國益頭郡(廬原郡に併記)の人、「金刺舎人麻呂」が蚕の産んだ卵が文字を作ったのを献上している。

十八日に次のように勅されている・・・朕は徳が薄いにもかかわらず、もったいなくも天皇の高い地位を継ぎ、八方の国土に君臨して今に至ること九年、今まで善い政治をしていない。これについて日も夜も憂いの思いを抱いている。危険な淵の傍に立っているように懸念し、薄い氷を踏むように慎重にして来た。そうして来たところ、去る三月二十日、天の神は我に、「天下太平」の四文字を賜って、天下の安らかなることを表し、我が朝廷の永く続くことを示した。しかるに賊臣である廃太子の道祖王安宿王黄文王橘奈良麻呂大伴古麻呂大伴古慈悲(祜信備)多治比國人鴨(賀茂)角足多治比犢養佐伯全成小野東人大伴駿河麻呂答本忠節等は、生まれつきの性質が悪く頑なにして道理にくらく、人に災いを及ぼし、君臣の道を顧みず、鬼神の力をも恐れず、密かに謀反の徒党を組み、皇室の本家を傾けようと図った。しかし、皆、天の下す呵責を受けて、全て罪科に服した。

かくして周公旦の二人の兄弟が放った流言が効を奏さなかったように、この事件は内部で治まって大きな騒ぎにはならず、舜の時代に四人の悪者を辺境に追放したように、反逆を企てた者を流罪に処し、都は静かになり、既に愚かな民は一掃されて見えず、朝廷は音もなく静まり、その上に賢明な宰相が控えている。朕は密かに恐れるに、徳は虞舜に劣るのに、時運の赴くところ、艱難に遭遇し、武は殷の湯王よりも劣るのに、任務として、反乱の鎮圧を担当することになった。昼も夜も思い煩い、寝食を忘れて、民に仁徳と長寿を与え、徳化をおこし及ぼそうとしている。

近頃、駿河國益頭郡の人、「金刺舎人麻呂」の献上した、蚕の卵が自然に文字を書き上げたものを得た。その文字は、”五月八日開下帝釈標知天皇命百年息”とある。このため、国内の人々は、めでたいしるしを戴いて、躍り上がって喜んだが、一方では、どうしてよいか分からず、恐れて息をひそめ、思い煩っている。そこで朕は群臣に命を下して、文字の意味を議論させたところ、[天平勝寶九歳丁酉の歳の五月八日は、陛下が太上天皇の一周忌として、法会を設けて、僧に食事を供養し、悔過することが終わる日である。ここに帝釈天は、皇帝・皇后の深い誠意に感じて、天上界の門を開け、地上界の陛下の優れた仕事をよく見て、陛下の時代が百年もの長い間続くことを表したのである。日月の照らす所、みな天子の子孫が多く栄える事をみており、天地の間に生を受けた人々は、全て陛下の御代の長く延びることを知っている。この瑞兆は仁の心による徳化の普く行き渡り、国内は安らかに憩い、慈しみが遠くの地まで潤し、国家が全く平らかである象徴である]と奏上して申した。

謹んで考えるに、蚕というものは、虎のような模様を持ちながら、ときに皮を脱ぎ、馬のような口を持ちながら、争うことをしない。部屋の中で成長し、絹を作り出して天下の人々に衣を与える。錦や縫い取りの艶やかさもこれから作られる。朝廷や祭礼での服もこれから生まれる。このため、神聖な虫に文字を作らせ、不思議な表現をさせるのである。

蚕はいま繁殖しているときに、自然に不思議な文字を作り、戈を止めた日(法会の日)に、霊字出現が朝廷に奏された。誠にこれは、天より下った幸いである。吉兆であって不利な徵ではない。五月八日の五と八の数字は、並べるなら、天子の聖寿の不惑(四十歳)に通じ、日と月は、共に明るく、天皇・皇后が宮殿の奥深く永く並びたまう様を象徴する。

朕は、謹んでこの喜ばしい印を戴き、かえりみて、徳の薄いことを恥じる。どうして朕の力だけでもたらすことができようか。賢明な補佐の人のもたらした功である。王公等共に、この天からの賜り物を、ありがたく戴こうではないか。まさに天のお言葉がここに集まり、世が盛んになる慶びがここに始まる。そこで多くの恵みを天下の人々に与えようと思う。

「天平勝寶」九歳八月十八日を改めて、「天平字」元年とする。先の勅により、天下諸國の調・庸は、毎年、一郡の分を免除してきた。免除を受けていない諸郡は、今年はいずれも免除せよ。また、没収した賊徒の財産は、官人と庶民に、普く均等に配分せよ。また、賦役令の規定によると、雜徭は六十日以内である。近頃では國・郡司は、法の意味を理解せず、必ず限度一杯に使役している。平民の苦痛は、主としてここから発生している。今より後は、全て半分に減らすことにする。

次に、人民が公や私の物の負債を負って、まだ返済できないのは、家が貧乏のせいであり、ずるくだましているわけでは決してない。古人も[余っている所から削り、足らない所を補うのは、天の道理と言うべきだ]と言っている。そこで、天平勝寶八年以前に貸付けた公出挙の利子は、全て免除する。また、今年の晩稲は、だんだんと日照りの害にあっている。そこで天下の國々の租の半分を免除する。但し、寺社の封戸は免除の範囲に入れない。

また、瑞兆を献じた白丁の「金刺舎人麻呂」には、従六位上を授け、更に絁二十匹、調の真綿四十屯・調の麻布八十端・正税稲二千束を給うことにする。瑞兆を取持って参上した、駅使の中衛府の舎人の「賀茂君継手」には、従八位下を授け、絁十匹・調の真綿二十屯・調の麻布二十端を給うことにする。瑞兆のことを奏上しなかった駿河國の國・郡司等は、恩恵の範囲に入れない。但し、当郡の人民等には租税負担を一年分免除する。

二十三日に以下のように勅されている・・・君主を安らかにし民を治めるには、礼儀によるのが最も好い方法であり、風俗を矯正するには、音楽によるのが最も良い方法である。礼儀と音楽を振興する所は、それは二寮(式部省の大学寮と治部省の雅楽寮)である。ここの学生が苦しむことは、衣と食の欠乏である。また、天文・陰陽・暦算・医針などの学問は、国家の必要とするところである。そこで、それぞれ公廨田を設けて、それぞれの学生の必要にあてるべきである。大学寮に三十町、雅楽寮に十町、陰陽寮に十町、内薬司に八町、典薬寮に十町を充てよ・・・。

二十五日に以下のように勅されている・・・国家を治める基礎は、文事と武事を興すことにある。一方を廃し、他を重んじてはならない。このことは、古典に明らかに記してある。従来から勅を発して、文才を磨くことを勧めるため、官職の繁忙に程度を考慮して、学問奨励のために公廨田を設置した。しかし武芸奨励については、まだ具体策がなかった。そこで今、六衛府に射騎田を設け、毎年冬の終わりに武芸の優劣を試験し、優秀者に賞を与えて、武芸を興隆させようと思う。そこで、中衛府に三十町、衛門府・左右衛士府・左右兵衛府に、おのおの十町の射騎田を宛よ・・・。

<采女朝臣淨庭>
● 采女朝臣淨庭

邇藝速日命の末裔である「采女朝臣」も途切れることなく、人材を輩出している。續紀では枚夫首名・若が記載されている。

幸運にも後の三名は、地形変形が殆どない場所が出自と推定することができたが、「枚夫」は、国土地理院航空写真で何とか、求めることができた。

淨庭淨=水+爪+ノ+又=水辺で両腕のような山稜が取り囲んでいる様、および庭=广+廴+壬=山麓で平らに広がった様と解釈したが、これらの地形要素を含む場所を探すと、図に示したところが出自と思われる。

「枚夫」と同様に広大な宅地に変わってしまい、現在の地形図では当時を偲ぶことは叶わないようである(こちら参照、図中+が「淨庭」の居処と推定)。今更ながら1970年以降の日本列島改造が如何に凄まじかったが分かる。

<小野朝臣石根>
● 小野朝臣石根

「小野朝臣老」の子と知られているようである。遣隋使として名を馳せた「妹子」の玄孫となる、真に由緒正しき家柄、ということになろう。

前記に少し触れたが、寶龜十(779)年二月に・・・贈故入唐大使從三位藤原朝臣清河從二位。副使從五位上小野朝臣石根從四位下。清河贈太政大臣房前之第四子也。勝寳五年。爲大使入唐。廻日遭逆風漂著唐國南邊驩州。時遇土人。及合船被害。清河僅以身免。遂留唐國。不得歸朝。於後十餘年。薨於唐國。石根大宰大貳從四位下老之子也。寳龜八年。任副使入唐。事畢而歸。海中船斷。石根及唐送使趙寳英等六十三人。同時沒死。故並有此贈也。・・・と記載されている。(勝寳五年=753年、寳龜八年=777年)

副使(大使不在)として入唐・謁見したが、不運にも帰り着くことは叶わなかったことが伝えられている。石根=山麓の区切られた地が根のように広がり延びているところと読むと、図に示した辺りが出自と推定される。大役を果たし、意気揚々と乗船したのだが、無念であったろう。

<金刺舎人麻呂-八麻呂>
● 金刺舎人麻呂

駿河國益頭郡については、前記で隣接する「廬原郡」に併記した。と言っても、大きく地形が変化していて、国土地理院航空写真1961~9年を参照して求めた結果であった。

金刺に含まれる既出の金=高台が三角に尖っている様刺=朿+刀=山稜が切り分けられて朿のように突き出ている様と解釈した。おそらく、図に示した山稜の端が突き出て小高くなっている場所を表していると思われる。書紀で記載された欽明天皇の磯城嶋金刺宮で用いられた表現である。

本来の地形象形表記である舎人=谷間で山稜が延びた先で広がり残ったところと解釈したが、「朿」の麓辺りが出自と推定される。東隣の「多胡浦」では砂金が見つかったり、駿河國からの献上が続いている。この時は、駿河守の楢原造東人等が関わり、新たに氏姓を賜ったりしたのだが、蚕の文字は些か確認し辛かったのかもしれない。

後(称徳天皇紀)に金刺舎人八麻呂が外従五位下を叙爵されて登場する。「麻呂」の西側の谷間が八=大きく広がっている様を用いた名前と思われる。「多胡浦」に並んで、その谷間の出口辺りは当時は海面下であったと推測される。

<賀茂君繼手>
● 賀茂君継手

「賀茂君」は、賀茂(鴨)朝臣の元の姓である(例えばこちら参照)。また、その近隣で賀茂役君の氏姓を賜った一族も記載されていた。

即ち、「賀茂朝臣」及び「賀茂役君」とは異なる地を示していると思われる。すると、山背國賀茂がこの人物の出自の地であったのではなかろうか。

現地名の京都郡みやこ町犀川大村、二つの三諸神社が、恰も上・下鴨神社に対応するかのように鎮座している場所である。

繼手=途切れかかったような山稜が手の形をしているところと読み解ける。山稜が一様に延びずに段差のある尾根が続く地形を表している。その地形を図に示した場所に見出すことができる。出自は、下の三諸神社の南側辺りと思われる。意味不明の文字列なのだが、目敏く見つけて、思いの外の叙爵・褒賞だったのではなかろうか。


2022年8月10日水曜日

寳字稱徳孝謙皇帝:孝謙天皇(13) 〔600〕

寳字稱徳孝謙皇帝:孝謙天皇(13)


天平字元年(西暦757年)六月の記事からである。原文(青字)はこちらのサイトから入手、訓読続日本紀(今泉忠義著)、続日本紀2(直木考次郎他著)を参照。

六月乙酉。制勅五條。諸氏長等或不預公事。恣集己族。自今以後。不得更然。〈其一〉王臣馬數。依格有限。過此以外。不得蓄馬。〈其二〉依令。隨身之兵。各有儲法。過此以外。亦不得蓄。〈其三〉除武官以外。不得京裏持兵。前已禁斷。然猶不止。宜告所司固加禁斷。〈其四〉京裏廿騎已上不得集行。〈其五〉宜告所司嚴加禁斷。若有犯者。科違勅罪。壬辰。以從三位石川朝臣年足爲神祇伯。正四位下橘朝臣奈良麻呂爲右大弁。正五位下粟田朝臣奈勢麻呂爲兼左中弁。越前守如故。正五位上大倭宿祢小東人爲紫微大忠。從五位下田口朝臣御直爲大監物。從三位文室眞人智努爲治部卿。從五位下大原眞人今城爲少輔。從五位上藤原朝臣宿奈麻呂爲民部少輔。從五位下石川朝臣君成爲主税頭。從三位石川朝臣年足爲兵部卿。神祇伯如故。從五位上大伴宿祢家持爲大輔。從五位下藤原朝臣繩麻呂爲少輔。正四位上池田王爲刑部卿。從五位下大伴宿祢御笠爲大判事。正四位上塩燒王爲大藏卿。從五位下藤原朝臣濱足爲少輔。從五位下巨勢朝臣淨成爲宮内少輔。從五位下多治比眞人犬養爲大膳亮。正四位下文室眞人大市爲彈正尹。從四位上紀朝臣飯麻呂爲右京大夫。從五位下田中朝臣多太麻呂爲中衛員外少將。從五位下大伴宿祢不破麻呂爲衛門佐。從五位下池田朝臣足繼爲左衛士佐。從五位上日下部宿祢子麻呂爲左兵衛督。從五位下石川朝臣人公爲右兵衛督。從五位下下毛野朝臣多具比爲右馬頭。從五位下大宅朝臣人成爲左兵庫頭。左大弁正四位下大伴宿祢古麻呂爲兼陸奧鎭守將軍。陸奧守從五位上佐伯宿祢全成爲兼副將軍。從四位下多治比眞人國人爲攝津大夫。外從五位上文忌寸馬養爲鑄錢長官。從五位下大伴宿祢御依爲參河守。正五位上賀茂朝臣角足爲遠江守。從五位上石上朝臣宅嗣爲相摸守。紫微少弼從四位上巨勢朝臣堺麻呂爲兼下総守。正四位下大伴宿祢古麻呂爲陸奧按察使。從四位上山背王爲但馬守。從五位下藤原朝臣武良志爲伯耆守。從三位百濟王敬福爲出雲守。從三位藤原朝臣乙麻呂爲美作守。從五位下調連馬養爲備前守。從五位下柿本朝臣市守爲安藝守。正五位下阿倍朝臣嶋麻呂爲伊豫守。從五位下榎井朝臣子祖父爲豊後守。癸巳。以兵部少輔從五位下藤原朝臣繩麻呂爲兼侍從。乙未。始制。伊勢太神宮幣帛使。自今以後。差中臣朝臣。不得用他姓人。甲辰。先是。去勝寳七歳冬十一月。太上天皇不豫。時左大臣橘朝臣諸兄祗承人佐味宮守告云。大臣飮酒之庭。言辞无礼。稍有反状云云。太上天皇優容不咎。大臣知之。後歳致仕。既而勅召越前守從五位下佐伯宿祢美濃麻呂。問識此語耶。美濃麻呂言曰。臣未曾聞。但慮。佐伯全成應知。於是將勘問全成。大后慇懃固請。由是事遂寢焉。語具田村記。至是從四位上山背王復告。橘奈良麻呂備兵器。謀圍田村宮。正四位下大伴宿祢古麻呂亦知其情。

六月九日に五条を制定し、申し渡している・・・諸氏族の氏上等は公用を捨てて置いて勝手に自分の氏族の人を集め会合している。今より後は、このような事があってはならない<その一>。王族や臣下等の馬の数は、格によって制限がある。この制限以上に馬を飼ってはならない<その二>。令の定めに拠れば、人が所持する武器について、所有の法規がある。この法規以上に蓄えてはならない<その三>。武官を除いては、京中で武器を持ってはならないことは以前から禁断している。けれども、なおその風潮が止まない。所司に布告して厳重に禁断せよ<その四>。京中を二十騎以上の集団で行動してはならない<その五>。以上のことを所司に布告して、厳重に禁断せよ。もし違反者があれば、違勅の罪に科せ・・・。

十六日に石川朝臣年足を神祇伯、橘朝臣奈良麻呂を右大弁、越前守の粟田朝臣奈勢麻呂を兼務の左中弁、大倭宿祢小東人を紫微大忠、田口朝臣御直を大監物、文室眞人智努(智努王。珍努)を治部卿、大原眞人今城(今木)を少輔、藤原朝臣宿奈麻呂(良繼)を民部少輔、石川朝臣君成を主税頭、神祇伯の石川朝臣年足を兼務の兵部卿、大伴宿祢家持を大輔、藤原朝臣繩麻呂を少輔、池田王を刑部卿、大伴宿祢御笠(御助。兄麻呂に併記)を大判事、塩燒王を大藏卿、藤原朝臣濱足を少輔、巨勢朝臣淨成を宮内少輔、多治比眞人犬養(木人に併記)を大膳亮、文室眞人大市(大市王)を彈正尹、紀朝臣飯麻呂を右京大夫、田中朝臣多太麻呂を中衛員外少將、大伴宿祢不破麻呂を衛門佐、池田朝臣足繼を左衛士佐、日下部宿祢子麻呂(大麻呂に併記)を左兵衛督、石川朝臣人公を右兵衛督、下毛野朝臣多具比を右馬頭、大宅朝臣人成(廣麻呂に併記)を左兵庫頭、左大弁の大伴宿祢古麻呂(三中に併記)を兼務の陸奧鎭守將軍、陸奧守の佐伯宿祢全成を兼務の副將軍、多治比眞人國人(家主に併記)を攝津大夫、文忌寸馬養を鑄錢長官、大伴宿祢御依(三中に併記)を參河守、賀茂朝臣角足(鴨朝臣。治田に併記)を遠江守、石上朝臣宅嗣を相摸守、紫微少弼の巨勢朝臣堺麻呂を兼務の下総守、大伴宿祢古麻呂を陸奧按察使、山背王を但馬守、藤原朝臣武良志(武良自)を伯耆守、百濟王敬福(①-)を出雲守、藤原朝臣乙麻呂を美作守、調連馬養を備前守、柿本朝臣市守を安藝守、阿倍朝臣嶋麻呂を伊豫守、榎井朝臣子祖父(小祖父)を豊後守に任じている。

十七日に兵部少輔の藤原朝臣繩麻呂を兼務の侍從に任じている。十九日に初めて次のように制定している・・・伊勢太神宮へ使する幣帛使は、今より後は、中臣朝臣のみをあてることにし、他姓の人をあててはならない・・・。

二十八日、これより前に、去る天平勝寶七歳(755)十一月に、太上天皇(聖武)が病臥した時、左大臣の橘朝臣諸兄(葛木王)の側近に仕える「佐味宮守」が通報して、[大臣が酒を飲んだ席で太上天皇に対し無礼な言葉を申した。大臣には謀反の気配があると思われる]と告げている。太上天皇は優しく心が広く、「諸兄」を咎めなかった。大臣は、このことを知り、次の年に辞職引退している。

さて、天皇は先に勅して、越前守の佐伯宿祢美濃麻呂を召し出し、この言葉を知っているかと尋ね、[臣はかつて聞いたことがない。ただ考えるに佐伯全成は聞いている筈である]と答えている。そこで全成を尋問しようとしたところ、皇太后(光明子)が丁寧に思いとどまるように強く請うたので、召喚尋問は取り止めとなった。このことは『田村記』(藤原仲麻呂の一代記?)に詳しく載っている。この二十八日になって、山背王がまた次のように知らせて来た・・・橘奈良麻呂が兵器を用意し、田村宮(田村第の場所)を包囲する陰謀を企てている。大伴宿祢古麻呂も、その内情をよく知って加担している・・・。

<佐味宮守>
● 佐味宮守

「佐味朝臣」一族と思われるが、次月の叙爵で從八位上から一気に従五位下となっている。聖武天皇紀に多く人物の登場があり、「虫麻呂」を代表として取り纏めて、各人の配置を示した(こちら参照)。

現地名の築上郡上毛町東下と推定したが、メガソーラ設置やらで地形の変形が大きく国土地理院航空写真1961~9年を参照して求めた結果であった。

今回登場の宮守=谷間の奥が広がって両肘を張ったようになっているところと解釈すると、最も南側にある谷間を表していることが解る。登用されて安房守、越後守の地方官を務めたと續紀が伝えている。

物語は、橘宿祢奈良麻呂の謀反劇へと進み、藤原朝臣仲麻呂との確執が次第にあからさまになって行くようである。いずれにしても皇嗣の候補者が明確ではないことが、様々な対立を発生させたのであろう。

長い七月記となるので前後半に分けて述べることにする。

〔七月前半〕

秋七月戊申。詔曰。今宣〈久〉頃者王等臣等〈乃〉中〈尓〉無礼〈久〉逆在〈流〉人〈止母〉在而計〈家良久。〉大宮〈乎〉將圍〈止〉云而私兵備〈布止〉聞看而加遍〈須〉加遍〈須〉所念〈止母〉。誰奴〈加〉朕朝〈乎〉背而然爲〈流〉人〈乃〉一人〈母〉將在〈止〉所念〈波〉。隨法不治賜。雖然一事〈乎〉數人重奏賜〈倍波〉可問賜物〈尓夜波〉將在〈止〉所念〈止母〉。慈政者行〈布尓〉安爲〈氐〉此事者天下難事〈尓〉在者狂迷〈遍流〉頑〈奈留〉奴心〈乎波〉慈悟〈志〉正賜〈倍伎〉物在〈止〉所念看〈波奈母〉如此宣〈布〉。此状悟而人〈乃〉見可咎事和射〈奈世曾〉。如此宣大命〈尓〉不從將在人〈波〉朕一人極而慈賜〈止母〉國法不得已成〈奈牟〉。己家家己門門祖名不失勤仕奉〈礼止〉宣天皇大命〈乎〉衆聞食〈止〉宣。」詔畢更召入右大臣以下群臣。皇大后詔曰。汝〈多知〉諸者吾近姪〈奈利〉。又竪子卿等者天皇大命以汝〈多知乎〉召而屡詔〈志久〉。朕後〈尓〉太后〈尓〉能仕奉〈利〉助奉〈礼止〉詔〈伎〉。又大伴佐伯宿祢等〈波〉自遠天皇御世内〈乃〉兵〈止〉爲而仕奉來。又大伴宿祢等〈波〉吾族〈尓母〉在。諸同心〈尓〉爲而皇朝〈乎〉助仕奉〈牟〉時〈尓〉如是醜事者聞〈曳自〉。汝〈多知乃〉不能〈尓〉依〈氐志〉如是在〈良志〉。諸以明清心皇朝〈乎〉助仕奉〈礼止〉宣。是日夕。中衛舍人從八位上上道臣斐太都告内相云。今日未時。備前國前守小野東人喚斐太都。謂云。有王臣謀殺皇子及内相。汝能從乎。斐太都問云。王臣者爲誰等耶。東人荅云。黄文王。安宿王。橘奈良麻呂。大伴古麻呂等。徒衆甚多。斐太都又問云。衆所謀者將若爲耶。東人荅云。所謀有二。一者。駈率精兵四百。將圍田村宮。二者。陸奧將軍大伴古麻呂今向任所。行至美濃關。詐稱病請欲相見一二親情。蒙官聽許。仍即塞關。斐太都良久荅云。不敢違命。先是。去六月。右大弁巨勢朝臣堺麻呂密奏。爲問藥方。詣荅本忠節宅。忠節因語云。大伴古麻呂告小野東人云。有人欲刧内相。汝從乎。東人荅云。從命。忠節聞斯語。以告右大臣。大臣荅云。大納言年少也。吾加教誨宜莫殺之。是日。内相藤原朝臣仲麻呂具奏其状。警衛内外諸門。乃遣高麗朝臣福信等。率兵追捕小野東人。荅本忠節等。並皆捉獲。禁著左衛士府。又遣兵圍道祖王於右京宅。己酉。勅右大臣藤原朝臣豊成。中納言藤原朝臣永手等八人。就左衛士府。勘問東人等。東人確噵無之。即日夕。内相仲麻呂侍御在所。召鹽燒王。安宿王。黄文王。橘奈良麻呂。大伴古麻呂五人。傳太后詔宣曰。鹽燒等五人〈乎〉人告謀反汝等爲吾近人一〈毛〉吾〈乎〉可怨事者不所念。汝等〈乎〉皇朝者己己太久高治賜〈乎〉何〈乎〉怨〈志岐〉所〈止志氐加〉然將爲不有〈加止奈母〉所念。是以汝等罪者免賜。今徃前然莫爲〈止〉宣。詔訖五人退出南門外。稽首謝恩。庚戌。詔。更遣中納言藤原朝臣永手等。窮問東人等。款云。毎事實也。無異斐太都語。去六月中。期會謀事三度。始於奈良麻呂家。次於圖書藏邊庭。後於太政官院庭。其衆者安宿王。黄文王。橘奈良麻呂。大伴古麻呂。多治比犢養。多治比礼麻呂。大伴池主。多治比鷹主。大伴兄人。自餘衆者闇裏不見其面。庭中礼拜天地四方。共歃鹽汁。誓曰。將以七月二日闇頭。發兵圍内相宅。殺刧即圍大殿。退皇太子。次傾皇太后宮而取鈴璽。即召右大臣將使号令。然後廢帝。簡四王中立以爲君。於是追被告人等。隨來悉禁著。各置別處一一勘問。始問安宿。款云。去六月廿九日黄昏。黄文來云。奈良麻呂欲得語言云尓。安宿即從往。至太政官院内。先有廿許人。一人迎來礼揖。近著看顏。是奈良麻呂也。又有素服者一人。熟看此小野東人也。登時衆人共云。時既應過。宜須立拜。安宿問云。未知何拜耶。荅云。拜天地而已云尓。安宿雖不知情。隨人立拜。被欺徃耳。又問黄文。奈良麻呂。古麻呂。多治比犢養等。辞雖頗異。略皆大同。勅使又問奈良麻呂云。逆謀縁何而起。款云。内相行政甚多無道。故先發兵。請得其人。後將陳状。又問。政稱無道謂何等事。款云。造東大寺。人民苦辛。氏氏人等。亦是爲憂。又置剗奈羅爲已大憂。問。所稱氏氏指何等氏。又造寺元起自汝父時。今噵人憂。其言不似。於是奈良麻呂辞屈而服。又問佐伯古比奈。款云。賀茂角足請高麗福信。奈貴王。坂上苅田麻呂。巨勢苗麻呂。牡鹿嶋足。於額田部宅飮酒。其意者爲令此等人莫會發逆之期也。又角足与逆賊謀。造田村宮圖。指授入道。於是。一皆下獄。又分遣諸衛。掩捕逆黨。更遣出雲守從三位百濟王敬福。大宰帥正四位下船王等五人。率諸衛人等。防衛獄囚。拷掠窮問。黄文。〈改名多夫礼〉道祖〈改名麻度比〉大伴古麻呂。多治比犢養。小野東人。賀茂角足〈改名乃呂志〉等。並杖下死。安宿王及妻子配流佐度。信濃國守佐伯大成。土左國守大伴古慈斐二人。並便流任國。其与黨人等。或死獄中。自外悉依法配流。又遣使追召遠江守多治比國人勘問。所款亦同。配流於伊豆國。又勅陸奧國。令勘問守佐伯全成。款云。去天平十七年。先帝陛下行幸難波。寢膳乖宜。于時奈良麻呂謂全成曰。陛下枕席不安。殆至大漸。然猶無立皇嗣。恐有變乎。願率多治比國人。多治比犢養。小野東人。立黄文而爲君。以荅百姓之望。大伴佐伯之族隨於此擧前將無敵。方今天下憂苦。居宅無定。乘路哭叫。怨歎實多。縁是議謀。事可必成。相隨以否。全成荅曰。全成先祖。清明佐時。全成雖愚。何失先迹。實雖事成。不欲相從。奈良麻呂云。見天下愁。而述所思耳。莫噵他人。言畢辞去。厥後。大甞之歳。奈良麻呂云。前歳所語之事。今時欲發。如何。全成荅曰。朝廷賜全成高爵重祿。何敢違天發惡逆事。是言前歳已忘。何更發耶。奈良麻呂云。汝与吾同心之友也。由此談説。願莫噵他。又去年四月全成齎金入京。于時奈良麻呂語全成曰。相見大伴古麻呂以否。全成荅云。未得相見。是時奈良麻呂云。願与汝欲相見古麻呂。共至辨官曹司。相見語話。良久。奈良麻呂云。聖體乖宜。多經歳序。闚看消息。不過一日。今天下乱。人心無定。若有他氏立王者。吾族徒將滅亡。願率大伴佐伯宿祢。立黄文而爲君。以先他氏。爲万世基。古麻呂曰。右大臣大納言是兩箇人。乘勢握權。汝雖立君。人豈合從。願勿言之。全成曰。此事無道。實雖事成。豈得明名。言畢歸去。奈良麻呂古麻呂便留彼曹。不聞後語。勘問畢而自經。

七月二日に以下のように詔されている(以下宣命体)・・・今申し渡すが、近頃諸王・諸臣等のうちに無礼なうえに逆心を持つ人々がいて相談し、大宮(田村宮)を包囲しようと言い、密かに兵器を用意しているとお聞きになり、繰り返し考えるに、どんなやつめが朕の朝廷に背くのであるか、そのように背く人は一人もあるまいと思って、法律の通りに処分なさらなかった。けれども同じことを、多くの人が重ねて奏上して来るので、これは問い明らめるべきであろうと思うが、一方では慈悲のある政治は行うにたやすいが、このことは国家の一大事であるので、狂って迷っている頑なな者どもの心を慈しみ、さとして、矯正なさるべきであるとお思いになるので、このように申し渡すのである。---≪続≫---

身に覚えのある人は、このような状態にあることを悟り、人に咎められるようなことをしてはならない。このように、申し渡すお言葉に服従しない人々は、朕一人が特別に慈悲を与えても、国法による懲罰を止めることはできないであろう。汝等は己の家や一族の祖先の名を辱めないように勤務申し上げよ、と仰せになる天皇のお言葉を、皆承れと申し渡す。

詔が終わり、更に右大臣以下の群臣を召し入れ、皇太后が次のように詔されている(以下宣命体)・・・お前たち一同は、我が甥同然の近親の者である。御前に竪子()として仕え奉る卿等は、天皇のお言葉によって召し出し、しばしば詔されたことには、[朕の亡き後は、皇太后によく仕えて、お助け申し上げよ]と仰せられた。また大伴宿祢と佐伯宿祢は、昔の天皇の御世から側近の軍兵として仕えて来た。更に大伴宿祢等は、我が同族でもある。皆々心を同じくして、朝廷を助けお仕え申し上げる時に、このような醜いことは聞こえて来ないだろう。これは結局お前たちが良くないからこそ、かようなことになるものと思われる。皆は明き清き心をもって、朝廷を助けてお仕え申し上げよ、と仰せられる。

この日の夕方、中衛舎人の「上道臣斐太都」が、内相(藤原朝臣仲麻呂)に報告して言った・・・今日の未時(午後二時頃)、備前國の前守である小野東人(小野朝臣東人)が、「斐太都」を呼んで、[諸王・諸臣等のうちに、皇子(大炊王)と内相を殺そうと企てる者がいる。お前はこの企てに加担することができるか]と言った。「斐太都」が[諸王・諸臣とは誰であるのか]と尋ねると、東人が[黄文王安宿王橘奈良麻呂(橘宿祢奈良麻呂)・大伴古麻呂(大伴宿祢古麻呂)等であり、同調者は沢山いる」と答えた。「斐太都」が再び[皆の計画とは、何をどうしようというのか]と尋ねると、東人が[計画は二つある。その一は、よりすぐりの兵士四百人を引率して、田村宮に駆けつけ、これを包囲すること。その二は、陸奥鎮守府将軍の大伴古麻呂は、今任地に向かっているが、美濃關(不破關)に到着したら、その地で病気と偽って一人二人の親しい者に会いたいと請い願い、官の許可を得て滞在して関所を塞ぐことである]と言い、「斐太都」は、しばらくしてから[あえて御命令に背かない]と答えた・・・。

この事件より前、去る六月に右代弁の巨勢朝臣堺麻呂が次以下ように密かに申し上げている・・・薬の処方を尋ねるために、答本忠節の家に行ったところ、「忠節」が[大伴古麻呂小野東人に、内相に力ずくでおどしをかけようとしている者がある。お前は加担するかどうか、と語り、東人は、御命令に従いますと答えた、という話をを聞いて、右大臣(藤原朝臣豊成)に報告したところ、右大臣が大納言(藤原朝臣仲麻呂)はまだ年が若いので、私が陰謀者等に教戒を加えて、「仲麻呂」等を殺さないように言い含めよう]と言った・・・。

この日、内相の藤原朝臣仲麻呂は、くわしく事情を申し上げて、大宮内外の諸門を警固している。そして高麗朝臣福信等を遣わし、兵士を引率して、小野東人答本忠節等を追い求めて、皆を逮捕させ、左衛士府に禁錮している。また、兵士を遣わし、道祖王を右京の私宅に包囲させている。

三日に右大臣の藤原朝臣豊成・中納言の藤原朝臣永手等八人に勅して、左衛士府に行って東人等を尋問させている。東人等は、言を左右にして、正確なことは言わなかった。この日の夕方、内相(仲麻呂)は御在所に侍し、「鹽燒王安宿王黄文王橘奈良麻呂大伴古麻呂」の五人を召喚し、皇太后の詔を述べている(以下宣命体)・・・「鹽燒王」等五人が、謀反を企てていると、ある人が報じて来た。汝等は、吾が一族に近い人であるから、吾を恨むようなことがあるとは少しも思い及ばない。汝等を朝廷ははなはだ高い官職位階につけておられるのに、何を恨めしいことと思ってこのようなことを企んだのか。このような陰謀はある筈がないと思う。その故に汝等の罪は許してやる。これから先、このようなことをしてはならぬぞ・・・。詔が終わって、五人は宮の南門外に出て、深々と叩頭して御恩に感謝している。

四日、更に中納言の永手等を遣わし、東人等を尋問究明させたところ、以下のように白状している・・・言われる事はいずれも事実である。「斐太都」の言葉に間違いはない。去る六月中に、時間を約束して会合し事を企てたことが三度ある。初めは、奈良麻呂の家に集まり、二度目は図書寮の蔵の近くの庭で、三度目は太政官院の庭である。集まった人々は、安宿王黄文王橘奈良麻呂大伴古麻呂多治比犢養・「多治比礼麻呂」・「大伴池主」・「多治比鷹主」・「大伴兄人」である。他の人々は、闇夜で顔が見えなかった。一同は庭中で、天地と四方を礼拝し、共に塩汁をすすり合って誓い[来たる七月二日の夕方、兵士を動員して内相の宅を囲んでこれを殺害し、すぐさま大殿を囲んで皇太子をその地位から退け、更に皇太后の宮を占拠して、駅鈴と天皇御璽を取ろう。そこで先ず、右大臣を召し出して指揮を執らせ、その後、帝を廃位して、四王の中から皇太子を選び、即位させて天皇にしよう]と申し合わせた・・・。

そこで自白にある人々を召喚し、来たる順にすぐさま全て禁錮し、それぞれ別の所に留置し、一人一人尋問を行っている。最初に安宿王を尋問すると、次のように自白している・・・去る六月二十九日の夕刻、黄文王が来て[奈良麻呂安宿王に相談したいことがある]と言った。従って行くと、太政官の院内に着いた。既に二十人ばかりの人がいて、一人の人が迎えに来て、丁寧に挨拶をした。近付いて顔を見ると、これが奈良麻呂であった。また白い服の人が一人いた。よくよく見ると、小野東人であった。そのとき、人々は皆[時刻も既に過ぎようとしている。皆起立して礼拝しよう]と言った。私は[私にはわからない。何を礼拝しようというのか]と尋ねたら、誰かが[天地を拝するだけだ]と答えた。事情は分からなかったが、他の人々に従い立って礼拝した。欺かれて行っただけである・・・。

また、黄文王奈良麻呂古麻呂多治比犢養等を尋問すると、言葉はたいへん異なっているが、内容は皆おおよそ同じであった。勅使は、また、奈良麻呂に[謀反の計画をなぜ起こしたのか]と尋問している。[内相の政治は、はなはだ非道のことが多いからだ。そこで先ず、兵士を動員し、天皇の許しを請い彼等を捕らえ、それから事情を申し上げようとしたのだ]と答えている。勅使は[政治に非道が多いとは、どういう事をさすのか]と尋ねると[東大寺の造営したことである。このために人民は苦労し、また、朝廷に仕える氏々の人等もこれを困ったこととしている。また奈良に を置いたことも、既に大きな苦労のたねになっている]と答えている。[氏々というのは、どの氏のことか。また東大寺を造ることは、お前の父(橘宿祢諸兄)の時から始まっている。今、人民が苦労をしていると言うが、子であるお前の言葉として不適当ではないか]と勅使が尋ねると、奈良麻呂は言葉に窮し、屈服している。

また、「佐伯古比奈」を尋問すると、[賀茂角足(賀茂朝臣角足)は、高麗福信(高麗朝臣福信)・奈貴王(石津王に併記)・坂上苅田麻呂(坂上忌寸苅田麻呂)・巨勢苗麻呂(巨勢朝臣苗麻呂。堺麻呂の子、併記)・牡鹿嶋足(牡鹿連嶋足。丸子牛麻呂に併記)を招き、「額田部宅」(屋敷)で、酒を飲んだ。その意図は、反乱を起こした時にこれらの人を仲麻呂側について活動させないためであった。また角足と反乱の者とは、相談して田村宮の絵図を作り、これを指し示して自分を一味に引き入れた]と答えている。

尋問を終えて、皆を獄に閉じ込めている。また衛府の官人を区分して派遣し、逆賊の一味を逮捕させている。更に出雲守の百濟王敬福(①-)・大宰帥の船王等五人を遣わし、衛府の人々を率いて、獄舎の囚人を奪われぬよう警固し、拷問してきびしく問いただせている。その結果、黄文王<分注。多夫礼(誑かす者)と改名>・大伴古麻呂多治比犢養小野東人賀茂角足<分注。乃呂志(愚鈍)と改名>等は、それぞれ杖に打たれて死んでいる。

安宿王とその妻子は、佐渡に流されている。信濃國守の佐伯大成(佐伯宿祢大成)と土左國守の大伴古慈斐(大伴宿祢祜信備)の二人は、それぞれそのまま任國に流されている。反逆に加わった仲間の人等は、ある人々は獄中で死に、その他の人々は全て法律によって流罪にされている。また使者を遣わし、遠江守の多治比國人を召喚して尋問すると、答えは同じであったので伊豆國に流している。

また陸奥國に勅命を下し、國守の佐伯全成を尋問すると・・・去る天平十七(745)年、先帝陛下が難波に行幸した際、身体が不調になった。この時、奈良麻呂全成に[陛下の体調がよくなく、ほとんど危篤の状態となった。けれども、まだ皇嗣を立てていない。もし帝が逝去したら事変が起こるであろう。多治比國人(多治比眞人國人)・多治比犢養小野東人を率いて、黄文王を立てて天皇とし、人民の望みにこたえたい。大伴と佐伯の一族が、この挙に同調すれば、まさに無敵であろう。近頃、天下の人々が憂い苦しんでいる。都が転々とするため、人民の住居が一定せず、道路には生活に苦しむ者の泣き叫ぶ声が絶えず、恨み嘆く声はまことに多い。こうした事情だから、よく相談して謀れば、事は成就するであろう。同調するかどうか]と語った。---≪続≫---

全成は[我が先祖は、清く明るい心をもって時の天皇を助けて来た。全成は暗愚であるが、先祖の行跡と違う道を取りたくない。たとえ企てが成就するにせよ、同調しようとは思わない]と答えると、奈良麻呂が[天下の嘆かわしいさまを見て、思うところを述べただけである。他人にもらすなよ]と述べ、話が終わって、別れて帰った。その後、大嘗祭のあった年(天平勝寶元年)、再び奈良麻呂が[前の年に語ったことを、今実行しよと思う。如何であるか]と言い、全成は[朝廷は、全成に高い位と手厚い俸禄をくだされた。どうして天に背いて悪逆のことを実行できようか。このことは前年に聞いたが、今では忘れたことになっている。どうしてまた事を起こすことができようか]と答えると、奈良麻呂が[あなたと私とは、同じ心の友人ではないか。それ故に語り説いたのである。他人にもらしてくれるなよ]と言った。---≪続≫---

また去る年の四月、全成が金を持って入京した時、奈良麻呂が[大伴古麻呂と会見したことがあるかどうか]と言い、全成は[まだ会ったことはない]と答えた。この時、奈良麻呂が[あなたと共に行き、古麻呂と会見したい]と言った。一緒に弁官の庁舎に行き、会見し語り合った。しばらくして、奈良麻呂が[天皇の健康は、悪化したまま長く歳月を経ている。様子を伺いみるに、余命幾ばくも無い。今天下の政治は乱れて、人心も落ち着くことがない。もし他の氏族が新しい天皇を立てたなら、吾が一族はなすこともなく滅亡するであろう。私の願いは、大伴・佐伯の両宿祢の人々を率いて、黄文王を立てて次の天皇にすることだ。そうして他の氏の先手を取って行動すれば、万世の支配する基を開くことになるだろう]と言った。---≪続≫---

古麻呂は、[右大臣と大納言は、ただの二人の人間であるが、勢いに乗じて権力を握っている。あなたが新しい天皇を立てても、人々はどうして従うだろうか。どうかそのようなことを二度と言わないでくれ]と言い、全成は、[このことは、道に背いたことだ。実際に事が成就したとしても、どうして道理に叶ったことという評価が得られようか]と述べた。言い終わって、別れて帰った。奈良麻呂古麻呂は、なおもその庁舎に留まり、その後の話しは聞いていない・・・。尋問が終わった後、全成は首を吊って自殺している。

<備前国上道郡:上道臣斐太都-廣羽女>
備前國上道郡

これは、てっきり古事記に登場した大倭根子日子賦斗邇命(孝霊天皇)の子、大吉備津日子命が祖となった「吉備上道臣」の場所を示していると錯覚してしまう記述である(こちら参照)。

「吉備上・下道臣」に関わる地は、「備中國」に該当する。下道朝臣眞備(後に吉備朝臣を賜っている)は、天武天皇紀に『八色之姓』において”下道(朝)臣”と記載されるが、”上道(朝)臣”は出現しないのである。

續紀編者は下記で、備前國上道郡の人、上道臣斐太都と丁寧に出自の場所を記載している。郡名に基づく氏名は、小田郡の小田臣遠田郡の遠田君でお馴染みとなっている。即ち、備中國ではなく、備前國に上道郡があったことを告げている。何かの間違い、では決してない。小野朝臣東人について、わざわざ「備前國前守」を付け加えたのも、「東人」と「斐太都」の関係性を示唆していると思われる。

既出の文字列である上道=高く盛り上がった地の麓にある首の付け根のように窪んだところと解釈した。穂積皇子の子、上道王の例があった。すると、極めて類似した地形を見出すことができる。備前國の久米郡・藤野郡(当初は藤原郡)に挟まれた谷間を示している。

● 上道臣斐太都 これも既出の文字列であり、斐太都=大きく広がった山稜の前で折れ曲がって延びる狭い谷間が寄り集まっているところと読み解ける。余すことなく、地形を表現していることが解る。ずっと後の天平神護二(766)年五月に「割邑久郡香登郷。赤坂郡珂磨。佐伯二郷。上道郡物理。肩背。沙石三郷隷藤野郡」と記されている。詳細は略すが、これら三郡と藤野郡の周辺にあったことが分る。

いきなり、従四位下、朝臣姓を賜ったと下記されている。正に謀反に関わると立身出世の機会だったのであろう。ご本人もなかなかの野心家だったようで、仲麻呂政権下で異例の抜擢を得たことが伝えられている。だが、更なる昇進は果たせなかったようでもある。

尚、「朝臣」の氏姓を賜り、名も上道朝臣正道と改めたようである。正道=首の付け根のように窪んだ地の前で山稜が揃って並んでいるところと解釈されるが、別名として妥当なものと思われるが、地形変形が凄まじく詳細は省略する。

後(淳仁天皇紀)に上道臣廣羽女が外従五位下を叙爵されて登場する。「斐太都」の近親者のようにも思われるが、定かではない。廣羽=広がった羽のようなところと読むと、図に示した通り、広がり延びた山稜の端を表していると推定される。

<多治比眞人禮麻呂-鷹主>
● 多治比礼麻呂・多治比鷹主

左大臣嶋の子、池守(書紀:丹比眞人)の四男、五男であったことが知られている。首謀者の一人であり、杖打ちで死刑となった多治比犢養の弟達である。彼等の消息は、この後續紀に記載されることはなく、何らかの処罰を受けたのであろう。

そんな背景で、「池守」の周辺の地が出自と推定してみよう。礼麻呂に含まれる頻出の礼(禮)=高台が揃って並んでいる様と解釈したが、山稜の端(”主”の先端部)で小高いところが並んでいるところを示していると思われる。「屋主」の南側である。

鷹主鷹=广+人+隹+鳥=山麓の谷間で二羽の鳥がくっ付いて並んでいる様と解釈した。阿倍朝臣鷹養などで用いられた文字である。二羽の鳥は、左大臣嶋の”鳥”と山稜の端が三角に広がった地形を”鳥”に見立てた表記と思われる。

<大伴池主-兄人・大伴宿祢潔足>
● 大伴池主・大伴兄人

二人の人物は、上記の「多治比眞人」の密会参加者の血族絡みからすると古麻呂(「御行」の子と推定)の近親者であると思われる。ならば、「御行」の周辺が出自と推測されるであろう。

何度も述べたように、大伴の谷間を出自とする人物の数が凄まじく、限界を遥かに越えた有様なのであるが、小さな谷間を一つ一つ探索することであろう。

池主の「池」=「氵+也」=「水辺で曲がりくねっている様」と解釈したが、纏めると池主=水辺で曲がりくねっている地に真っ直ぐに延びた山稜があるところと読み解ける。すると、御依の西側の谷間が、その地形を示していることが解る。佐伯連大目がその西側を出自としていと推定した。この配置からすると、「池主」は「御依」の子であったと推測され(知られている系図の通り)、「古麻呂」の甥となる。

幾度か登場の兄人=奥が広がった谷間が足のように延びたところと読むと、古麻呂の西側の谷間を表していると思われる。系譜は不詳であるが、血族関係であることには変わりはないであろう。この二人も、この後續紀に登場されることはなく、何らかの処罰を受けたと推測される。

少し後に、兄麻呂の子と知られている大伴宿祢潔足が各地での民の実情を調べる使者に任じられたと記載されている。「古麻呂」の一派に与することがなかったようである。

「潔」は初見の文字であり、「清らかな」意味を示すのであるが、「潔」=「氵+絜」と分解すると、地形象形表記として「潔」=「水辺で山稜に切れ目が入っている様」と解釈される。「兄麻呂」の西側、潔足=段差がある[足]のようなところを表しているのであろう。

<佐伯宿祢古比奈-繼成-志賀麻呂>
● 佐伯古比奈

上記の「多治比眞人」及び「大伴宿祢」の謀反連座の記述からして、佐伯宿祢全成に関わる人物であり、出自の場所は、その近隣と推測される。

賀茂朝臣角足に誘われた高麗朝臣福信等はあらぬ嫌疑を掛けられるところを、この人物の証言で、免れたわけである。

迂闊に酒宴に参加しては身を滅ぼすことになる。既出の文字列である古比奈=丸く小高い地が並んでいる高台になっているところと解釈すると、「全成」の北側の山稜を表していると思われる。

後(桓武天皇紀)に佐伯宿祢繼成佐伯宿祢志賀麻呂が従五位下を叙爵されて登場する。繼成=[成]に連なるところ志賀=蛇行する川が谷間を押し開くように流れているところと解釈すると、図に示した場所が各々の出自と推定される。系譜不詳のようである。その後に前者は地方官を任じられているが、後者はその場限りの登場のようである。

<賀茂角足:額田部宅>
大伴宿祢、佐伯宿祢それに多治比眞人という天皇家を支えて来た中心の氏族が関与した謀反、皇太后ならずとも驚愕の出来事だったと推測される。

● 賀茂角足:額田部宅

「古比奈」の供述の中に登場した「角足」の謀略が行われた場所である。例によって通説は、額田部旧知の固有の名称と解釈されているが、密会を催すには全く不向きであろう。

賀茂角足の私邸とすれば、出自場所の近隣に額田部の地があったと思われる。額田=額のように山腹に突き出た平らに整えられたところと解釈した。その地形を図に示した場所に見出すことができる。

〔七月後半〕

辛亥。授從四位上山背王。巨勢朝臣堺麻呂並從三位。從八位上上道臣斐太都從四位下。正七位下縣犬養宿祢佐美麻呂。從八位上佐味朝臣宮守並從五位下。並是告密人也。又上道臣斐太都賜姓朝臣。甲寅。授正六位上藤原朝臣朝獵從五位下。以從五位下忌部宿祢鳥麻呂爲信濃守。從五位下藤原朝臣朝獵爲陸奧守。」勅曰。比者頑奴潜圖反逆。皇天不遠。羅令伏誅。民間或有假託亡魂。浮言紛紜。擾乱郷邑者。不論輕重。皆与同罪。普告遐迩宜絶妖源。」又勅曰。百姓之間。若有逆人之輩。京畿十日内。遠處卅日内首訖。若限内能首。並寛其罪。限内不首被人告言。必科本罪。其首人等並首本部官司。官司知訖。抄其姓名奏上。乙夘。遣中納言藤原朝臣永手。左衛士督坂上忌寸犬養等。就右大臣藤原朝臣豊成第。宣勅曰。汝男乙繩關兇逆之事。宜禁進者。即加肱禁。寄勅使進。」以紫微少弼從三位巨勢朝臣堺麻呂爲兼左大弁。從四位上紀朝臣飯麻呂爲右大弁。春宮大夫從四位下佐伯宿祢毛人爲兼右京大夫。從四位下上道朝臣斐太都爲中衛少將。戊午。以從五位下小野朝臣田守。爲刑部少輔。正六位上藤原朝臣乙繩爲日向員外掾。從五位下奈賀王爲讃岐守。」勅曰。右大臣豊成者。事君不忠。爲臣不義。私附賊黨。潜忌内相。知搆大乱。無敢奏上。及事發覺。亦不肯究。若怠延日。殆滅天宗。鳴乎宰輔之任。豈合如此。宜停右大臣任。左降大宰員外帥。是日御南院。追集諸司并京畿内百姓村長以上。而詔曰。明神大八洲所知倭根子天皇大命〈良麻止〉宣大命〈乎〉親王王臣百官人等天下公民衆聞宣。高天原神積坐〈須〉皇親神魯岐神魯弥命〈乃〉定賜來〈流〉天日嗣高御座次〈乎〉加蘇〈毘〉奪將盜〈止〉爲而惡逆在奴久奈多夫礼。麻度比。奈良麻呂。古麻呂等〈伊〉逆黨〈乎〉伊射奈〈比〉率而先内相家〈乎〉圍而其〈乎〉殺而即大殿〈乎〉圍而皇太子〈乎〉退而次者皇太后朝〈乎〉傾鈴印契〈乎〉取而召右大臣而天下〈尓〉号令使爲〈牟〉。然後廢帝四王中〈尓〉簡而爲君〈牟止〉謀而六月廿九日〈乃〉夜入太政官坊而歃鹽汁而誓礼天地四方而七月二日發兵〈牟止〉謀定而二日未時小野東人喚中衛舍人備前國上道郡人上道朝臣斐太都而誂云〈久〉。此事倶佐左西〈止〉伊射奈〈布尓〉依而倶佐西〈牟止〉事者許而其日亥時具奏賜〈都〉。由此勘問賜〈尓〉毎事實〈止〉申而皆罪〈尓〉伏〈奴〉。是以勘法〈尓〉皆當死罪。在如此雖在慈賜〈止〉爲而一等輕賜而姓名易而遠流罪〈尓〉治賜〈都〉。此誠天地神〈乃〉慈賜〈比〉護賜〈比〉挂畏開闢已來御宇天皇大御靈〈多知乃〉穢奴等〈乎〉伎良〈比〉賜弃賜〈布尓〉依〈氐〉。又盧舍那如來觀世音菩薩護法梵王帝釋四大天王〈乃〉不可思議威神之力〈尓〉依〈氐志〉。此逆在惡奴者顯出而悉罪〈尓〉伏〈奴良志止奈母〉神〈奈賀良母〉所念行〈須止〉宣天皇大命〈乎〉衆聞食宣。事別宣〈久〉。久奈多夫礼〈良尓〉所詿誤百姓〈波〉京土履〈牟〉事穢〈弥〉出羽國小勝村〈乃〉柵戸〈尓〉移賜〈久止〉宣天皇大命〈乎〉衆聞食宣。壬戌。勅曰。凶逆之徒。潜謀不軌。其言發覺。流配邊軍。但所支兵仗。藏隱民間。未首官司。原情可責。職宜知悉勅出之後。限十日内。悉令首盡。若限滿不首。被人言告。一与逆人同科。庚午。於宮中設齋。講仁王經焉。癸酉。詔曰。鹽燒王者唯預四王之列。然不會謀庭。亦不被告。而縁道祖王者應配遠流罪。然其父新田部親王以清明心仕奉親王也。可絶其家門〈夜止〉爲〈奈母〉此般罪免給。自今往前者以明直心仕奉朝廷〈止〉詔。

七月五日に山背王巨勢朝臣堺麻呂に從三位、上道臣斐太都に從四位下、「縣犬養宿祢佐美麻呂」・佐味朝臣宮守に從五位下を授けている。陰謀を密かに告発した人々である。また、上道臣斐太都に朝臣姓を賜っている。

八日に藤原朝臣朝獵(薩雄に併記)に従五位下を授け、陸奥守に任じている。忌部宿祢鳥麻呂を信濃守に任じている。この日、次のように勅されている・・・近頃、頑なな者どもが密かに叛逆を企てた。しかし、天を支配する神は見逃さず、網をかぶせ死罪に処した。また、民間で死者の魂のいうことであると偽り、様々な流言をなし、村里の人心を騒ぎ乱す者があれば、重い軽いを問わず、みないずれも同罪とする。遠近を問わず広く布告し、わざわいの原因を根絶せよ・・・。

また、次のように勅されている・・・もし人民のうちに、反逆の者どもが隠れていたならば、京畿内の場合は十日以内、それより遠い所の場合は三十日以内に、自首して出でよ。もし期限内に進んで自首した場合は、それぞれその罪を許すであろう。期限内に自首せず、他人に告発された場合は、必ずもとの罪に相応する罰を科すであろう。自首する人は、自分の所属する官司に出頭せよ。官司は事情がわかったならば、その者の姓名をしるして申し上げよ・・・。

九日に中納言の藤原朝臣永手、左衛士督の坂上忌寸犬養等を右大臣の藤原朝臣豊成に屋敷に遣わし、[汝の息子の乙縄(藤原朝臣乙繩)は、反逆の事に関与している。身体を拘束して官に差し出すべき人物である。汝が乙縄の腕を縛し、勅使のもとに引き渡せ]の勅を述べさせている。

この日、紫微少弼の巨勢朝臣堺麻呂を左大弁兼任とし、紀朝臣飯麻呂を右代弁に任じ、春宮大夫の佐伯宿祢毛人を右京大夫兼任としている。上道朝臣斐太都を中衛少将に任じている。

小野朝臣田守(綱手に併記)を刑部少輔、藤原朝臣乙繩を日向國の員外掾、奈賀王を讃岐守に任じている。また、以下のように勅されている・・・右大臣の豊成は、君に仕えて不忠であり、臣下として不義というべき者である。密かに賊の仲間に加わり、内々で内相を憎んでいた。奈良麻呂が大乱を計画しているのを知りながら、わざと申し上げず、また、事件が発覚しても、究明に務めようとしない。もし何もしないで日数を経たならば、皇統は滅びかねない状態となったであろう。ああ、宰相の任務が、このようであってよいものか。そこで右大臣の職をとどめて地位を下し、大宰員外の帥に任じる・・・。

この日、南院に出御され、諸司の官人と京・畿内の人民のうち村長以上の者を召し、次のように詔されている(以下宣命体)・・・明つ御神として、大八州を支配する倭根子天皇のお言葉として、仰せなるお言葉を、親王・諸王・諸臣、百官の人達、天下の公民は、皆承れと申し渡す。高天原に神としておいでになる天皇の遠祖の男神・女神のお定めになった、天日嗣の高御座の順序を、掠め奪い盗もうと企てて、悪逆な奴の久奈多夫礼(黄文王)・麻度比(道祖王)・奈良麻呂古麻呂等は逆党どもを誘い率いて、先ず、内相の家を囲み、それを殺して、すぐに大殿を囲んで皇太子(大炊王)を廃し、次に皇太后の朝(紫微中台)を占拠して、駅鈴と天皇の御璽と関契を奪い取り、右大臣を召して、天下に号令させよう、そしてその後、帝を廃して、四人の王(黄文王道祖王鹽燒王安宿王)の中から、一人を選んで、天皇に立てようと図った。---≪続≫---

そして六月二十九日の夜、太政官の区画に入り、塩汁をすすって誓約し、天地四方を礼拝し、来たる七月二日に兵士を動員しようと謀り定めて、二日の未時に小野東人が中衛府の舎人である「備前国上道郡」出身の上道朝臣斐太都を呼んで、頼んで[さあ、このことを始めよう]誘うので、「斐太都」は、[それではやろう]と表面上は承諾し、その日の亥の時に謀反の計画を詳細に申し上げ、これにより陰謀に加わった人々を尋問すると[すべて事実である]と申して、皆罪に服した。この次第で、彼等を国法にあてはめると、皆死罪に該当している。事情はこのようであるけれども、朕は慈悲を与えて、刑を一段軽くして、姓名を変えて遠流に処することにした。---≪続≫---

この事件が治まったのは、天地の神々がお恵み下さり。お護り下さり、口に出すのも恐れ多いことに、天地のはじめよりこのかた天下を次々にお治めなされた代々の天皇たちの大御霊たちが、汚い奴どもをお嫌いになりお捨てになることによって、また、廬舎那如来・観世音菩薩、仏法をまもる梵天・帝釈天・四大天王たちの不思議な権威ある神の力により、この悪逆な奴どもが表に顕われ出て、悉く服罪してしまったのであるらしいと、神としてお考えになる天皇のお言葉を、皆承れと申し渡す。また、言葉を改めて申し渡すに、久奈多夫礼(黄文王)等に欺かれて陰謀に参加した人民等が、都の土を踏むことは汚らわしいので、出羽國小勝村の柵戸として移住させると、仰せになる天皇のお言葉を、皆承れと申し渡す・・・。

十六日に以下のように勅されている・・・凶悪な反逆の徒が、密かに道ならぬことを企てた。しかし、その陰謀は発覚して、辺地の軍隊のもとに流された。但し、反乱のために用意された武器は、民間に隠匿されて未だ官司に申し出されていない。事情を尋ねて取り調べるべきである。左右京職は、このことをよく認識して、勅が出てから十日以内に一切全て申し出させよ。もし期限までに申し出ず、他人から通告された場合は、反逆者と同じ罰を科すであろう・・・。

二十四日に宮中において法会を催して僧に食事を供し、仁王経を講説させている。二十七日に次のように詔されている(以下宣命体)・・・鹽燒王は、四人の王の仲間に入っているが、謀議の場に連ならず、また、知らされていなかった。けれども、道祖王と深い血縁関係があり、連座して遠流の罪に処せられる筈である。けれども、その父新田部親王は、清く明るい心で仕えて来た人である。ここで断絶することは、如何かと考え、今度の罪は、お許しになる。今後は、明るい真直ぐな心で朝廷に仕えよ・・・。

<縣犬養宿祢佐美麻呂>
● 縣犬養宿祢佐美麻呂

「縣犬養」一族であるが、系譜は全く知られていない。また彼の密告の内容も本文では記載されていないが、正七位下から従五位下へと大幅な昇進叙爵されたようである。

佐美麻呂に含まれる佐美=左手のような山稜の傍らで谷間が広がっているところと読み解ける。その地形を求めると、廣刀自の山稜を「佐」と見做していることが解る。

別名に沙弥麻呂があったようで、續紀では、この表記で幾度か後に登場している。美作國介に任じられたのだが、勝手に公文書を取り扱ったりして、自由気儘な勤務状態で失職している。後にまた復職しているが、やや官司の資質に欠けていたようである。

沙弥=水辺で山稜の端が削られたようになって弓なりに広がっているところと読み解ける。こちらの方を好んで用いていたように思われる。皇太后の出自場所に隣接する。憚ることなく、接触したのかもしれない。

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些か蛇足かもしれないが・・・罪人である黄文王久奈多夫礼」、道祖王は「麻度比」と改名されている。通常の解釈は、「久奈多夫礼(クナタフレ)」=「愚か者」、「麻度比(マドヒ)」=「惑い者」とされている。

これらの文字列を地形象形表記として解釈すると、久奈多夫禮=[く]の字に曲がって延びる平らな山稜が寄り集まっている高台のところ麻度比=擦り潰されたような山稜が跨ぐように延びてくっ付いているところと読み解ける。見事に出自場所の地形を表すと同時に、和語が表す意味を重ねているのである。万葉の世界では、これくらいのことは朝飯前だったのであろう。

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