寳字稱徳孝謙皇帝:孝謙天皇(15)
天平寶字元年(西暦757年)閏八月の記事からである。原文(青字)はこちらのサイトから入手、訓読続日本紀(今泉忠義著)、続日本紀2(直木考次郎他著)を参照。
閏八月癸丑。以從四位上上道朝臣斐太都爲吉備國造。壬戌。紫微内相藤原朝臣仲麻呂等言。臣聞。旌功不朽。有國之通規。思孝無窮。承家之大業。緬尋古記。淡海大津宮御宇皇帝。天縱聖君。聡明睿主。孝正制度。創立章程。于時。功田一百町賜臣曾祖藤原内大臣。襃勵壹匡宇内之績。世世不絶。傳至于今。尓來臣等因籍祖勳。冠蓋連門。公卿奕世。方恐富貴難久。榮華易凋。是以。安不忘危。夕惕如厲。忽有不慮之間。兇徒作逆。殆傾皇室。將滅臣宗。未報先恩。芝蘭幾敗。冀修冥福。長保顯榮。今有山階寺維摩會者。是内大臣之所起也。願主垂化。三十年間。無人紹興。此會中廢。乃至藤原朝廷。胤子太政大臣。傷構堂之將墜。歎爲山之未成。更發弘誓。追繼先行。則以毎年冬十月十日。始闢勝筵。至於内大臣忌辰。終爲講了。此是奉翼皇宗。住持佛法。引導尊靈。催勸學徒者也。伏願以此功田。永施其寺。助維摩會。弥令興隆。遂使内大臣之洪業。與天地而長傳。皇太后之英聲。倶日月而遠照。天恩曲垂。儻允臣見。請下主者。早令施行。不任微願。輕煩聖聽。戰戰兢兢。臨深履薄。」勅報曰。備省來表。報徳惟深。勸學津梁。崇法師範。朕与卿等共植茲因。宜告所司令施行。癸亥。夫人正二位橘朝臣古那可智。无位橘朝臣宮子。橘朝臣麻都賀。又正六位上橘朝臣綿裳。橘朝臣眞姪。改本姓賜廣岡朝臣。從五位下出雲王。篠原王。尾張王。无位奄智王。猪名部王賜姓豊野眞人。丙寅。勅曰。如聞。護持佛法。無尚木叉。勸導尸羅。實在施禮。是以。官大寺別永置戒本師田十町。自今已後。毎爲布薩。恒以此物量用布施。庶使怠慢之徒日厲其志。精勤之士弥進其行。宜告僧綱。知朕意焉。壬申。勅曰。大宰府防人。頃年差坂東諸國兵士發遣。由是。路次之國。皆苦供給。防人産業。亦難辨濟。自今已後。宜差西海道七國兵士合一千人充防人司。依式鎭戍。其集府之日。便習五教。事具別式。
閏八月八日に上道朝臣斐太都を吉備國の國造に任じている。十七日に紫微内相の藤原朝臣仲麻呂が次のように申し上げている・・・臣は[功績を末長く表すことには、国家を永続させる基本の方法であり、孝行をどこまでも忘れぬことは、家門を保つのに大切な業である]と聞いている。遥かに古記録を尋ねると、淡海大津宮(近江大津宮)に天下を支配された天皇(天智天皇)は、生まれながらの聖君であり、聡明な明君であった。国家の制度を考え直し、初めて法律の条文を制定した。この時、臣の曽祖父藤原内大臣(藤原鎌子連、鎌足)に功田百町を賜った(史書に記録なし)。そして、国家のあり方を一度に正した功績を褒めて、今に至るまで代々、それを相続することを許されて来た。これ以来、臣等は、曽祖父の功績により、官位の高い家が多く、公卿に登る者が代々相ついでいる。しかし富貴は永く保ち難く、栄華は凋みやすいと思われる。このため、臣等は安全な状態にあっても、危険の起こることを忘れず、一日が終わる夕刻まで、厳しく身を慎んで危険に備えている。---≪続≫---
突然思いもかけず、凶徒が叛逆を企て、まさに皇室を覆し臣の本家を滅ぼそうとした。先皇の御恩に報じる間もなく、名門の誇りをもつ我が藤原一門も敗亡に瀕した。しかし幸いにも危険を脱することができ、冥福を祈り、長く栄華を保ちたいと考える。今、山階寺(興福寺)に行う維摩会は、もと内大臣(鎌足)の創設したものである。願主(鎌足)の没後は三十年にわたり、法会を継承し起こす人がなく、法会は中絶したまますたれている。藤原朝廷(持統天皇)の世になり、鎌足の子、贈太政大臣(藤原朝臣不比等)は、維摩会が行われないために山階寺の名が忘れられることを悲しみ、功徳の完成しないことを嘆き、あらためて誓願を起こして、今までの法会を継承することにした。そこで、毎年冬の十月十日に、維摩経の購読を盛大に行い、内大臣の命日(十月十六日)に終了することにした。---≪続≫---
そもそもこの法会は、皇室ご本家の栄えをお助けし奉り、仏法を維持し、貴い亡霊を浄土に導き、学徒に仏教学を学ばせるものである。そこで、この功田(百町)を山階寺に永久に布施し、ついに維摩会開講を助成し、ますます法会を興隆させ、ついに内大臣の始めた大業を天地と同様に永く維持し、同時に皇太后(光明子。内大臣の孫)の優れた名声を、日月の光と同様に、遠くまで輝かせたいと思う。天恩が隅々にまで垂れ、どうか臣の願いをお許し下され。担当の官司に申し渡し、早くに実行されることを請う。つまらぬ願いに過ぎないのに、軽々しく陛下のお耳を煩わすことを、深淵に臨んで薄氷を踏むように、戦々兢々畏れ多く思っている・・・。
勅答は以下の通り・・・上表文を詳しく見るに、報徳の思いが、深いことがわかる。これは仏教の学問を奨励する重要な拠り所、また仏法を尊ぶ典型と言って良い。朕も、卿等と共に善根を育てていきたい。所司に布告して施行させよ・・・。
十八日に夫人の橘朝臣古那可智(橘宿祢)と「橘朝臣宮子」・橘朝臣麻都賀(橘宿祢眞都我。古那可智に併記)、また「橘朝臣綿裳」・「橘朝臣眞姪」の本姓を改めて「廣岡朝臣」の氏姓を賜っている。出雲王・篠原王・「尾張王・奄智王・猪名部王」に「豊野眞人」の氏姓を賜っている。
二十一日に以下のように勅されている・・・聞くところによれば、仏法を護持するのに、律よりも尊いものはなく、戒を勧め導くのは、礼儀をひろめることがなにより大切である。そこで官の大寺に、従来の寺田とは別にそれぞれ戒本師田十町を設けることにする。今より後は、布薩(毎月二回の懺悔の行事)をするたびに、常にこの田からの利益をもって布施の物に充てよ。どうか怠慢な僧尼等は毎日精神を励まし、勤めに励んでいる僧尼等はますますその行いを向上させるようにと期待する。僧綱に告げて、朕の意図を理解させよ・・・。
二十七日に以下のように勅されている・・・大宰府の防人は、近頃は坂東諸國(坂東九國)の兵士を動員して、派遣して来た。このため、防人の通行する道筋の國は、皆物資の供給に苦労して、防人の生業も、回復し難い損失を負ってしまう。そこで今後は、西海道の七國の兵士、合わせて千人を動員して、防人司に授け、式により警護させることにする。兵士が大宰府に集合したならば、すぐに五教を教えよ。このことは別の式に詳しく記してある・・・。
● 橘朝臣宮子・綿裳・眞姪
「葛木王」の弟である佐爲王の系列は、男子の登場がなく、古那可智、聖武天皇の橘夫人、が早期に叙爵されていた。いずれにせよ橘宿祢三千代の閨閥であり、藤原一族と濃密に関わりながら、互いに牽制し合う関係である。
麻都賀(眞都我)は、「古那可智」の出自場所に併記したが、麻都賀=擦り潰されたような山稜が寄り集まった谷間が押し開かれたところと読み解けば、別名として受け入れられるようである。ここで登場した宮子・綿裳・眞姪について、各々の出自の地を求めてみよう。
既出の宮子=奥が広がった谷間から生え出たところと解釈され、その地形を図に示した場所に見出せる。眞姪=嫋やかに曲がる谷間が寄り集まった窪んだところと解釈される。宮子の南側の谷間の出口辺りが出自と推定される。
最後の綿裳について、少し補足を行うと、「綿」=「糸+帛」=「山稜が細長く延びている様」、「裳」=「尚(向+八)+衣」=「山稜の端の三角州が大きく広がっている様」と解釈される。纏めると綿裳=細く長く延びた山稜の端の三角州が大きく広がっているところと読み解ける。図に示した「眞姪」の南側の山稜の端、現在の御祓川に面する場所を表していると思われる。
「佐爲王」の子孫は、なかなかに広々とした谷間を占有していたようである。賜った廣岡朝臣の由来と思われる。謀反連座の疑いはなく、さりとて、橘朝臣の名称は憚れたのであろう。後に橘宿祢(朝臣)へと戻された、とのことである。
<尾張王・奄智王・猪名部王(豊野眞人)> |
● 尾張王・奄智王・猪名部王
長屋王(高市皇子の長男)の子、黄文王の谷間にひしめき合っていた様子が浮かんで来たようである。前出の美和眞人岡屋・壬生(岡屋王・壬生王)は、谷間の東側であり、「黄文王」の子孫の可能性が高いと推測した。謀反の首謀者の一人(久奈多夫礼と改名された)として、その系譜が抹消されたのであろう。
そんな背景で今回登場の三名の王の出自の場所を求めてみよう。尾張王は、尾張=長く延びた山稜の端が大きく広がっているところであり、図に示した場所の地形を表していると思われる。奄智王の「奄」=「覆い被さる様」と解釈すると、奄智=鏃と炎のような山稜で覆い被されたようなところと読み解ける。「出雲王」の東側、谷間の出口辺りが出自と推定される。
猪名部王の猪名=平らな頂の山稜の端の三角州が交差しているところと解釈され、部=近隣の場所を表している。図に示した篠原王の南側と思われる。別名に五十戸王があったと知られているが、五十戸=交差する谷間の出入口となるところと読み解け、地形の別表記であることが解る。五人の王が豐野の南北に並んだ配置であったことを伝えている。
九月辛巳。授正六位上後部高笠麻呂外從五位下。癸夘。授外從五位下六人部久須利外從五位上。
九月六日に「後部高笠麻呂」に外從五位下を授けている。二十八日に六人部久須利(藥。天平勝寶七[755]年)正月に外従五位下を叙爵)に外従五位上を授けている。
<後部高笠麻呂> |
● 後部高笠麻呂
元明天皇紀の和銅五(712)年正月に「後部王同」に従五位下を叙爵したと記載され、孝謙天皇紀の天平勝寶六(754)年正月には「後部王吉」が同じく叙爵されていた。
「後部」は、高麗の地名と知られ、それをそのまま引き継いで、和名を用いなかったのであろう。今回の人物も「後部」を出自とする人々の子孫と推察される。高麗出身者を移住させた武藏國高麗郡を居処としていたとして、出自の場所を求めてみよう。
既に背奈公行文や奈良麻呂の謀反の際にも活躍した福信、その兄弟が登用され、「高麗朝臣」の氏姓を賜ったと記載されていた。高笠麻呂の表記は、地形象形表記と思われる。高笠=山稜が皺が寄ったような笠の形をしいてるところと読み解けば、図に示した谷間を表していることが解る。この後續紀に登場されることはないようである。
冬十月庚戌。勅曰。如聞。諸國庸調脚夫。事畢歸郷。路遠粮絶。又行旅病人無親恤養。欲免飢死。餬口假生。並辛苦途中。遂致横斃。朕念乎此。深増憫矜。宜仰京國官司。量給粮食醫藥。勤加検校。令達本郷。若有官人怠緩不行者。科違勅罪。乙夘。太政官處分。比年諸國司等交替之日。各貪公廨。竸起爭論。自失上下之序。既虧清廉之風。於理商量。不合如此。今故立式。凡國司處分公廨式者。惣計當年所出公廨。先填官物之欠負未納。次割國内之儲物。後以見殘。作差處分。其法者長官六分。次官四分。判官三分。主典二分。史生一分。。其博士醫師准史生例。員外官者各准當色。丁夘。始制諸國論定數。隨國大小各有差。事具別式。
十月六日に次のように勅されている・・・聞くところによると、諸國から調・庸を運ぶ人夫は、帰郷する際に、遠路のために食糧が絶えてしまう。また、旅先で病気になった人は、親しく心配して世話をしてくれる人がいないので、餓死を免れるために乞食になってようやく命をつないでいる。どちらの場合も、旅の途中に苦労しながら、ついに横死してしまう。朕は、この情況を思いやって、哀れみの心をいっそう増すのである。そこで、京都と諸國の官司に命じて、食糧と医薬を与え、力を尽くしてよく調べ上げ、人々が郷里に帰りつけるようにせよ。もし官人でありながら、怠慢にも、この命を実行しない者があったなら、違勅の罪を科すことにする・・・。
十一日に太政官が次のように処分している・・・近頃、諸國の國司が交替する際に、各々公廨稲を自分のものにしようとし、せりあって論争することが多い。これでは官人の上下の秩序が失われ、清廉の気風も傷がついてしまう。道理に基づいてよく考えるに、これではいけない。そこで今、次のように新しい式(法)を設ける。およそ、國司が公廨稲を処分する法は、今年度の支出されるべき公廨稲を合計し、それをまず官物の欠損または未納となった分に宛て、次に國内に蓄えておくべき分を取り除き、最後に現に残った分を、等級をつけて配分せよ。配分法は、長官に六分、次官に四分、判官に三分、主典に二分、史生に一分とする。國博士と國医師は史生の分と同じとする。員外官は、それぞれ相当官に準じるものとする・・・。
二十三日に初めて諸國の論定(正税稲)の数を制定している。それは國の大小に従ってそれぞれ差がある。そのことは別式に詳細に述べてある。
十一月癸未。勅曰。如聞。頃年諸國博士醫師。多非其才。託請得選。非唯損政。亦无益民。自今已後。不得更然。其須講經生者三經。傳生者三史。醫生者大素。甲乙。脉經。本草。針生者。素問。針經。明堂。脉决。天文生者。天官書。漢晋天文志。三色薄讃。韓楊要集。陰陽生者周易。新撰陰陽書。黄帝金匱。五行大義。暦算生者漢晋律暦志。大衍暦議。九章。六章。周髀。定天論。並應任用。被任之後。所給公廨一年之分。必應令送本受業師。如此則有尊師之道終行。教資之業永繼。國家良政莫要於茲。宜告所司早令施行。壬寅。勅。以備前國墾田一百町。永施東大寺唐禪院十方衆僧供養料。伏願。先帝陛下薫此芳因。恒蔭禪林之定影。翼茲妙福。速乘智海之慧舟。終生蓮華之寳刹。自契等覺之眞如。皇帝皇太后。如日月之照臨並治萬國。若天地之覆載長育兆民。遂使爲出世之良因成菩提之妙果。
十一月九日に以下のように勅されている・・・聞くところによると、近頃、諸國の國博士と國医師は、才能もないのに伝手を頼って頼み込んで職を得る者が多い。これでは、政を傷付けるばかりか、民を益することにもならない。今後は、こうしたことは禁止する。経学を学ぶ学生は『三経』(大中小経)、紀伝の学生は『三史』(史記/漢書/後漢書)、医生は『黄帝内経大素』・『甲乙経』・『脉経』・『新修本草』、針生は『黄帝素間』・『黄帝針経』・『黄帝内経明堂』・『黄帝脉経決』、天文生は『史記天官書』・『漢書天文志』・『晉書天文志』・『三色簿讚』・『韓楊天文要集』、陰陽生は『周易』・『新撰陰陽書』・『黄帝金匱経』・『五行大義』、暦生・算生は『漢書律暦志』・『晉書律暦志』・『大衍暦議』・『九章』・『六章』・『周髀』・『定天論』の書を学ぶべきである。---≪続≫---
それぞれ学生は官職に任用されるが、任じられた後は、給付される公廨田の稲一年分を、元の学業を受けた師に贈らせるべきである。このようにしたならば、師を尊ぶ道は後々まで行われ、教え授ける業も永く受け継がれることになろう。国家の良い政治として、これより重要なものはない。官司に布告して早く施行させよ・・・。
二十八日に以下のように勅されている・・・備前國にある墾田百町を、東大寺の唐禅院(唐僧鑒眞[鑑眞]の居処)の十方(諸方から集まる)衆僧供養料として、永久に布施する。伏して願うことは、亡き先帝陛下がこのよい功徳により、禅を修める寺のお蔭をこうむって、この妙なる福業に助けられ、速やかに智海を渡る恵みの船に乗り、ついに蓮華の花咲く立派な寺に生まれ変わり、自ら仏陀の真理に合致されるように。また、皇帝と皇太后は、日と月が照り輝くように並んで万国を治め、天と地が万物を載せ、また覆うように、長く万民を育て、ついに苦界を脱出するよい原因となり、悟りの世界に入る優れた結果になって欲しい・・・。
十二月辛亥。勅。普爲救養疾病及貧乏之徒。以越前國墾田一百町永施山階寺施藥院。伏願。因此善業。朕与衆生。三檀福田窮於來際。十身藥樹蔭於塵區。永滅病苦之憂。共保延壽之樂。遂契眞妙之深理。自證圓滿之妙身。壬子。太政官奏曰。旌功。錫命。聖典攸重。襃善行封。明王所務。我天下也。乙巳以來。人人立功。各得封賞。但大上中下雖載令條。功田記文或落其品。今故比校昔今。議定其品。大織藤原内大臣乙巳年功田一百町。大功世世不絶。贈小紫村國連小依壬申年功田一十町。贈正四位上文忌寸祢麻呂。贈直大壹丸部臣君手。並同年功田各八町。贈直大壹文忌寸智徳同年功田四町。贈小錦上置始連莵同年功田五町。五人並中功。合傳二世。正四位下下毛野朝臣古麻呂。贈正五位上調忌寸老人。從五位上伊吉連博徳。從五位下伊余部連馬養。並大寳二年修律令功田各十町。四人並下功。合傳其子。〈以上十條。先朝所定。〉贈大錦上佐伯連古麻呂乙巳年功田卌町六段。被他駈率。効力誅姦。功有所推。不能稱大。依令上功。合傳三世。從五位上尾治宿祢大隅壬申年功田卌町。淡海朝廷諒陰之際。義興警蹕。潜出關東。于時大隅參迎奉導。掃清私第。遂作行宮。供助軍資。其功實重。准大不及。比中有餘。依令上功。合傳三世。贈大紫星川臣麻呂壬申年功田四町。贈大錦下坂上直熊毛同年功田六町。贈正四位下黄文連大伴同年功田八町。贈小錦下文直成覺同年功田四町。四人並歴渉戎塲。輸忠供事。立功雖異。勞効是同。比校一同村國連小依等。依令中功。合傳二世。大錦下笠臣志太留告吉野大兄密功田廿町。所告微言尋非露驗。雖云大事。理合輕重。依令中功。合傳二世。從四位下上道朝臣斐太都天平寳字元年功田廿町。知人欲反。告令芟除。論實雖重。本非專制。依令上功。合傳三世。小錦下坂合部宿祢石敷功田六町。奉使唐國漂著賊洲。横斃可矜。稱功未愜。依令下功。合傳其子。正五位上大和宿祢長岡。從五位下陽胡史眞身。並養老二年修律令功田各四町。外從五位下矢集宿祢虫麻呂。外從五位下鹽屋連古麻呂。並同年功田各五町。正六位上百濟人成同年功田四町。五人並執持刀筆刪定科條。成功雖多。事匪匡難。比校一同下毛野朝臣古麻呂等。依令下功。合傳其子。〈以上一十四條當今所定。〉
十二月八日に以下のように勅されている・・・疾病と貧乏に苦しむ人々をもれなく救済するために、越前國にある墾田百町を、山階寺の施薬院に永久に布施する。この善行により、朕は他の一般の人々と共に、施しから生ずる幸いを未来にまでひろめ、仏の藥の樹を、この穢れの多い世界に茂らせ、そして、病苦の悩みを永遠に滅ぼし、共に長寿の楽しみを持ち、遂に真に微妙深遠の真理を悟り、おのずから円満な理想の身になることを願うのである・・・。
十二月九日に太政官が以下のように奏している・・・人の功績を表彰して勅語を給うことは、聖典にも記される大事なことである。人の善行を褒めてやり、封地を与えることは、賢明な王の務めである。我が国においては、乙巳の年(大化元年、645年)より以来、多くの人が功績をたてて、それぞれ封地を賞として得ている。ただ田令の条文(功田の条)には、大功・上功・中功・下功の等級が記されているが、今までに与えられた功田の文書には、その等級が記されていないものがある。そこで今、昔から現在に至る例を比較して、等級を定めようと思う。---≪続≫---
藤原内大臣鎌足の乙巳の年の功田百町は、大功として延久に相続させ、村國連小依(村國男依)の壬申の年(天武元年、672年)の功田十町、文忌寸祢麻呂(書首根摩呂)と丸部臣君手(和珥部臣君手)の同年の功田各八町、文忌寸智德の同年の功田四町、置始連菟の同年の功田五町、この五人の功田は、それぞれ中功として二代に相続させる。---≪続≫---
下毛野朝臣古麻呂、調忌寸老人、伊吉連博徳、伊余部連馬養(馬飼)の四人のそれぞれ大寶二(702)年に律令を編集した功田は、各十町であるが、それぞれ下功として、その子一代に相続させる。<分注。以上の十条については、先朝で既に定めた>---≪続≫---
佐伯連古麻呂(子麻呂)の乙巳の年の功田四十町六段は、他人に指揮されて戦い力を尽くして姦賊を誅殺したもので、功績はあるが、大功とは言えない。令条の上功として三代に相続させる。尾張宿祢大隅の壬申の年の功田四十町は、近江朝廷の崩御によって喪に服している際、天武天皇が大義によって行幸して思い立ち、密かに関東に脱出なされた時、「大隅」は迎えお導き申し上げ、私邸を掃い清めてとうとう行宮とし、挙兵のための資財を提供してお助けした。その功績は実に大きい。しかし、大功に准じるほどではなく、中功に比べるとそれより重い。令条によって上功として、三代の後まで相続させる。---≪続≫---
星川臣麻呂(摩呂)の壬申の年の功田四町、坂上直熊毛の同年の功田六町、黄文連大伴の同年の功田功田八町、文直成覺の同年の功田四町、以上の四人はそれぞれ戦場を駆け巡り、忠誠を尽くして天皇に奉仕した。手柄の内容は異なるが、功労の成果としては同程度と言うべきである。他と比べると、村國連小依等の例に等しい。令条によると中功であるので、二代に相続させる。---≪続≫---
上道朝臣斐太都の天平寶字元(757)年の功田二十町は、人が謀反を企てていることを知って通報し、災いの根を刈り除かせた。これを論じると、実に重い功績であるが、一人で処理したことではない。令条によると上功であって三代に相続させる。---≪続≫---
坂合部宿祢石敷(坂合部連磐鍬)の功田六町は、使節として唐國へ赴く途中、賊地に漂着して横死したことにより、哀れなことではあるが、功績と称するのは適当ではない。令条によると下功である。その子に相続させる。---≪続≫---
大和宿祢長岡(大倭忌寸小東人)と陽胡史眞身は、それぞれ養老二(718)年に律令を撰修した功田各四町、矢集宿祢虫麻呂(箭集宿禰蟲萬呂)と鹽屋連古麻呂(吉麻呂)は、それぞれ同年の功田五町、百濟人成の同年の功田四町、以上の五人はそれぞれ筆と小刀を持ち、法文を添削して定めた。見事に成功しているが、その事は極めて困難であったわけではない。比較すると、大寶律令を撰修した下毛野朝臣古麻呂等の功と同じである。令条によると下功である。その子に相続させる。<分注。以上の十四条は、今上天皇(孝謙)になって定めたことである>・・・。