2022年5月25日水曜日

寳字稱徳孝謙皇帝:孝謙天皇(1) 〔588〕

寳字稱徳孝謙皇帝:孝謙天皇(1)


天平勝寶二年(西暦750年)正月の記事からである。原文(青字)はこちらのサイトから入手、訓読続日本紀(今泉忠義著)、続日本紀2(直木考次郎他著)を参照。

二年春正月庚寅朔。天皇御大安殿受朝。」是日。車駕還大郡宮。宴五位以上。賜祿有差。自餘五位已上者於藥園宮給饗焉。己亥。左降從四位上吉備朝臣眞備爲筑前守。乙巳。授正三位藤原朝臣仲麻呂從二位。正四位上多治比眞人廣足從三位。從四位上多治比眞人占部正四位下。從四位下平群朝臣廣成。藤原朝臣永手並從四位上。正五位下藤原朝臣巨勢麻呂正五位上。從五位下大倭宿祢小東人從五位上。外從五位下大藏忌寸廣足。調連馬養。正六位上下毛野朝臣多具比並從五位下。正六位上秦忌寸首麻呂。大石村主眞人。大原史遊麻呂並外從五位下。左大臣正一位橘宿祢諸兄賜朝臣姓。丙辰。從四位上背奈王福信等六人賜高麗朝臣姓。」造東大寺官人已下優婆塞已上。一等卅三人叙位三階。二等二百四人二階。三等四百卅四人一階。

正月一日に天皇は大安殿に出御されて朝賀を受けている。この日に天皇は大郡宮に還り、五位以上の官人と宴を催し、それぞれに禄を賜っている。その他の五位以上の者は、藥園宮で饗応している。十日に吉備朝臣眞備を左遷して筑前守としている。

十六日に、藤原朝臣仲麻呂に從二位、多治比眞人廣足(廣成に併記)に從三位、多治比眞人占部に正四位下、平群朝臣廣成藤原朝臣永手に從四位上、藤原朝臣巨勢麻呂(仲麻呂に併記)に正五位上、大倭宿祢小東人に從五位上、大藏忌寸廣足(老・伎國足に併記)調連馬養・「下毛野朝臣多具比」に從五位下、「秦忌寸首麻呂」・大石村主眞人(廣嶋に併記)・「大原史遊麻呂」に外從五位下を授けている。また、左大臣の橘宿祢諸兄に朝臣姓を賜っている。

二十七日に背奈王(公)福信等六人に高麗朝臣の氏姓を賜っている。造東大寺の官人から優婆塞まで、功績が一等の者三十三人に位三階を、二等の二百四人に位二階、三等の四百三十四人に一階を与えている。

<下毛野朝臣多具比>
● 下毛野朝臣多具比

初見で従五位下の叙爵故に、既に多くの人材が輩出している下毛野朝臣の一員であったのであろう。ただこの一族の系譜が知られている場合は少なく、この人物も不詳のようである。

やや”古風”な名前であるが、既出の文字列であり、そのまま読み解いてみよう。久々に登場の「具」=「鼎+廾」=「窪んだ地が二つの山稜に挟まれている様」と解釈した。古事記では迦具夜比賣倭男具那命(小碓命)などに用いられている。

纏めると多具比=山稜の端で山稜に挟まれて窪んだ地が並んでいるところと読み解ける。図に示した場所が出自と推定される。その東側は大野朝臣一族が蔓延った地と推測したが、その端境が出自と思われる。後に従五位上・遠江守に任じられたようである。

<秦忌寸首麻呂-眞成>
● 秦忌寸首麻呂

調べると「秦忌寸大魚」(外従五位下、下野守)の子と知られている。ならば葛野秦造河勝から始まる秦一族なのである。図に示したように”河勝→石勝→廣庭→大魚”と繋がった系譜である(こちらも参照)。

”外”が付くような家柄ではないように思われるが、父親の大魚も”外”が付いたまま、昇進することがなかったようで、それを引き継いでいるのかもしれない。

父親の近隣で出自の場所を求めると、「魚」のヒレの一つが、窪んだ地形をしていることが解る。それを「首」に見立てた表記かと思われる。ご本人の續紀での登場はこれが唯一であり、その後の様子を伺うことは叶わない。

後(称徳天皇紀)に弟の秦忌寸眞成が銭・牛を献上して外従五位下を叙爵されて登場する。既出の文字列である眞成=平らな高台が窪んだ地に寄り集まっているところと解釈される。「首麻呂」の東側の谷間を表していることが解る。「河勝」の嫡流は、牛麻呂(孫の朝元等)系列の活躍の陰に隠れた存在だったようである。

<大原史遊麻呂-大原連家主>
● 大原史遊麻呂

「大原史」そのものも初見であり、また関連する情報も得ることは難しいようである。續紀に記載されるのも、これが最初で最後という有様である。

「大原」は、高安王等が臣籍降下して賜った氏姓「大原眞人」に含まれている。ならば、彼等が出自とする地の「大原」を示している?…ではなかろう。土地の名称は、固有ではないのである。

関連する場所として、河内國丹比郡に棲息する河原史一族が登場していた。船史(連)津史(後に連姓を賜う)の下流域に広がっていたと推定した。その更に下流域に大原の地形を示す山稜が広がっていることに気付かされる。

先ずは姓の史=中+又=真ん中を突き通すように山稜が延びている様と解釈した。名前に用いられた「遊」は希少である。地形象形表記として、「遊」=「辶+㫃+子」と分解される。遊=たなびく旗のような地から生え出た様と読み解ける。また、麻呂=萬呂とすると、図に示した場所が出自と求められる。

後(淳仁天皇紀)に大原連家主が外従五位下を叙爵されて登場する。「史」から「連」姓は、「史」の使用を回避したからであろう。家主=真っ直ぐに延びる山稜の端が豚の口のようになっているところと解釈される。図に示した場所に、その地形を見出せる。

書紀の斉明天皇紀に有間皇子が謀議したとされた市經家が記載されている。その「家」に通じる場所と思われる。現在の大原八幡神社の祭神は、大原足尼命(推定した出自場所を図に記載)他と由緒に記載されているそうである。「大原連」との繋がりは?…”絶妙に”外しているのが、多くの神社の由来であろう。

二月癸亥。天皇御大安殿。出雲國造外正六位上出雲臣弟山奏神齋賀事。授弟山外從五位下。自餘祝部叙位有差。並賜絁綿。亦各有差。戊辰。天皇從大郡宮。移御藥師寺宮。乙亥。幸春日酒殿。」唐人正六位上李元環授外從五位下。壬午。益大倭金光明寺封三千五百戸。通前五千戸。戊子。奉充一品八幡大神封八百戸。〈前四百廿戸。今加三百八十戸〉位田八十町。〈前五十町。今加卅町。〉二品比賣神封六百戸。位出六十町。

二月四日に大安殿に出御されて、出雲國造の出雲臣弟山(果安に併記)が神齋賀事を奏上している(天平十八[746]年三月に國造に任じられた)。「弟山」に外従五位下を、その他の祝部にそれぞれ位を授け、並びに絁・真綿を身分に応じて賜っている。九日に天皇は大郡宮から薬師寺宮(藤原宮近隣の藥師を宮としたか)に移っている。

十六日に「春日酒殿」に行幸されている。この日に唐人の「李元環」に外從五位下を授けている。二十三日に「大倭金光明寺」に封戸三千五百戸を増加し、以前と合わせて五千戸となっている。二十九日に一品の八幡大神に封戸八百戸<以前に四百二十戸、この度が三百八十戸>、位田八十町<以前に五十町、この度が三十町>、二品の比賣神には封戸六百戸・位田六十町を寄進している。

<春日酒殿・李元環-小娘>
春日酒殿

調べると、現在の春日大社にある酒殿に関係する記事が多く見られる。酒造所らしいのだが、孝謙天皇が見学に来られたのであろうか。

今回の行幸の目的は、本文の脈絡からすると唐楽の名演奏家と知られる「李元環」への叙位、即ち唐楽演奏を視聴することであろう。

續紀編者も演奏会への行幸とは、直截的には記述し辛かったのかもしれない。いずれにせよ、「酒殿」を酒造所に置換えるとは、全く支離滅裂な解釈である。勿論、「酒殿」は、地形象形表記である。

「酒」=「氵+酉(畐)」=「水辺にある酒樽のような様」、「殿」の文字解釈は、些か複雑であり、結果のみを記すと「殿」=「底部でどっしりとしている様」と解釈される。通常の解釈もこの意味を含み、「臀部」などに含まれる文字である。纏めると酒殿=水辺にある酒樽のような山稜の端がどっしりとしているところと読み解ける。

図に示したように若倭根子日子大毘毘命(開化天皇)の春日之伊邪河宮の対岸の地に見出すことができる。伊迦賀色許男命・伊賀迦色許賣命の出自の場所と推定した谷間である(こちら参照)。直近では、その子孫の箭集宿祢の二人が登場していた。

● 李元環 唐人名であるが、「元環」は地形象形表記ではなかろうか。元=〇+儿=丸く小高い地から足のように山稜が延びている様と解釈した。名前に用いられたのは初見かと思われる環=玉+睘=丸く取り囲んでいる様と読み解くと、図に示した場所の地形を表していることが解る。

この子孫が後に淸宗宿祢の氏姓を賜ったことが知られている。淸宗=水辺で四角く区切られた地が谷間にある高台の傍らにあるところと読み解ける。少々適用範囲が狭められているいるが、真っ当な氏姓であると思われる。後(称徳天皇紀)に李小娘が内位の従五位下を叙爵されて登場する。事変での功績に基づいた叙位に紛れているが、高野天皇の思い入れではなかろうか。系譜は不詳だが、間違いなく唐楽に関係した女性だったと推測される。

「元環」が率いる唐楽演団の二胡の音色、超絶技巧に圧倒されたのであろう。女子十二楽坊の話題を聞かなくなったが、現在も活動されているのかな?・・・いきなりの外従五位下叙爵は、その感動を表しているようであり、流石に阿倍皇女かも、である。

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大倭金光明寺に「益大倭金光明寺封三千五百戸。通前五千戸」と記載されている。前記で本寺は金鍾寺(後の東大寺)として解釈したが、既に封戸四千戸が施入されていて、数が合わない記述である(こちら参照)。参考にしている資料では、単なる数字の間違いではないか、と注記されている。

前述したように「金光明寺」の表記では、その場所を求めることができず、「金鍾寺」からその場所を求めた。と言うことは、本寺の場所は不明とすべきであり、言い換えると、「金寺」とは異なる寺であり、多分近隣にあったと思われる。本来近江國甲賀郡紫香樂に建てられたが(金寺、甲賀寺)、紆余曲折あって大倭の地に移されたのである。この経緯を續紀は詳細に語らない。紫香樂宮への遷宮が思わしくなかった故に曖昧なままにされたのであろう。

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三月戊戌。駿河守從五位下楢原造東人等。於部内廬原郡多胡浦濱。獲黄金獻之。〈練金一分。沙金一分。〉於是。東人等賜勤臣姓。」又賜中衛員外少將從五位下田邊史難波等上毛野君姓。庚子。以正四位下多治比眞人占部爲攝津大夫。從五位下紀朝臣小楫爲山背守。從四位下百濟王孝忠爲出雲守。從五位下内藏忌寸黒人爲⾧門守。從五位上大伴宿祢犬養爲播磨守。正五位上多治比眞人國人。藤原朝臣乙麻呂並爲大宰少貳。 

三月十日に駿河守の楢原造東人等が管内の「廬原郡多胡浦」の浜で黄金を発見し、献上している<注。錬金一分、砂金一分>。よって「東人」等に「勤臣」(伊蘇志臣)の氏姓を賜っている。また中衛員外少将の田邊史難波(史部虫麻呂に併記)等に「上毛野君」(田邊史鳥の”胴体”を”毛”と見做した表記)の氏姓を賜っている。

十二日に多治比眞人占部攝津大夫、紀朝臣小楫を山背守、百濟王孝忠(①-)を出雲守、内藏忌寸黒人を⾧門守、大伴宿祢犬養(三中に併記)を播磨守、多治比眞人國人(家主に併記)・藤原朝臣乙麻呂を大宰少貳に任じている。

<駿河國廬原郡多胡浦・益頭郡>
駿河國廬原郡多胡浦

この郡名は初見であり、勿論多胡浦も初登場である。そもそも駿河國そのものが詳細に語られることはなかった。書紀では、安閑天皇紀に初出し、斉明天皇紀に造船をさせたと記載されるのみである(こちら参照)。

廬原郡の「廬」は、既に幾度か用いられた文字である。古事記では大倭根子日子賦斗邇命(孝霊天皇)の黑田廬戸宮に含まれている。廬=广+虍+囟+皿=山麓で虎の縞模様のような山稜が並んでいる様と解釈した。

現在の地図では、宅地になって不明だが、国土地理院航空写真1961~9年を参照すると、見事にその地形であったことが分かる。多胡浦の「多胡」は上野國多胡郡に用いられていた。類似の地形を表す表記であろう。多胡=山稜の端が小高く盛り上がって三日月のようになっているところと解釈した。図に示した場所と推定される。

尚、書紀の天智天皇紀に廬原君が登場していた。百濟支援のために白村江へ派遣された将軍(救将)であったと記載されている。今回で「廬原」の場所がより詳細に解読された。些か誤差があるが、前記は、そのままにして置くことにする。また、前記で陸奥國小田郡で得られた黄金は、「多胡浦」の浜辺で見つかるような”練金・沙金”ではなく、”金鉱石”であったことが裏付けられた、と思われる。

後に駿河國益頭郡が登場する。次の元号「天平字」の由来に関わる地と記載されている。既出の文字列である益頭=谷間に挟まれた一様に平らな地にある頭のような小高いところと読み解ける。「廬原郡」の西側の山稜の地形を表している。

夏四月戊午朔。正六位上佐味朝臣乙麻呂贈從五位下。」正六位上高向村主老授外從五位下。辛酉。勅。比來之間。緑有所思。歸藥師經行道懴悔。冀施恩恕兼欲濟人。盡洗瑕穢更令自新。仍可大赦天下并免今年四畿内調。其私鑄錢。及犯八虐。故殺人。強盜竊盜。常赦所不免者。不在赦限。但入死者降一等。又中臣卜部紀奧乎麻呂。減配中流。

四月一日に佐味朝臣乙麻呂(虫麻呂に併記)に從五位下を贈り、「高向村主老」に外從五位下を授けている。四日に次のように勅されている・・・近頃、心に期するところがあって、藥師経に帰依し、行道(経を唱えながら仏像などの周りを巡る行)や懺悔を行った。他に対して恵みと思いやりを施し、併せて民衆を救済したいと願っている。全ての過ちや穢れを洗い流し、その上で自分自身も生まれ変わりたい。そこで全国に大赦を行い、併せて今年度の畿内四ヶ國からの調を免除する。贋金造り、及び八虐を犯した者、故意に殺人を犯した者、強盗・窃盗、通常の恩赦では赦されない者は、恩赦の対象にはしない。但し、死刑に該当する者は、一等を減刑する。また、「中臣卜部紀奧乎麻呂」は、配流を中流に減じる・・・。

<高向村主老>
● 高向村主老

「高向村主」は、書紀の舒明天皇紀に登場した高向漢人玄理の出自の場所を居処とする一族であったと知られている。

「玄理」は、推古天皇紀に遣隋使小野妹子に随行して留学し、およそ三十年後に帰国している。更に遣唐使して皇帝高宗に謁見するも、客死したと伝えられている。

実に百年以上もの間、歴史の表舞台に現れる人物がいなかったようである。その地の現地名は、京都郡みやこ町勝山浦河内の谷間と推定した。高向=皺が寄ったような山稜が北に向かって延びているところと解釈し、律令編纂に関わった鍜造大角(後に「守部連」氏姓を賜う)の対岸に位置する場所である。

余談だが、高向の由来は、河内国錦部郡高向村の地名に基づくとか。地名は由来にならない。高向村の地名由来は?…高向漢人が住まっていたから?…堂々巡りとなるのは、論理ではない。

それは兎も角、老=山稜が海老のように曲がっているところと読めば、図に示した場所が出自と推定される。尚、国土地理院航空写真1961~9年(こちら)を参照すると、見事な棚田が作られていることが伺える。高向漢人や鍜造大角のような渡来人が居住していた谷間である。日本は、彼等によって国としての基盤が形成されたのである。

<中臣卜部紀奧乎麻呂>
● 中臣卜部紀奧乎麻呂

何かの罪を犯して配流されていたのであろう。中臣卜部(連)、多数登場している”中臣〇〇連”の複姓(直近の例はこちら)の持ち主だったと思われる。

すると、「中臣」の地で卜部=山稜が折れ曲がったように近隣で延びている様の地形を求めることになる。図に示した通り、「中臣」の谷間の北側にある山稜の地形を表している。

紀奧=「己」の形に曲がって延びる山稜に取り囲まれている様と読み解ける。即ち、「紀」の山稜が複数あって、それらに囲まれた谷間があることを表現しているのである。乎麻呂乎=口を開いたように谷間が延びている様であり、その囲まれた谷間の様子を表していることが解る。

正に地形要素を余すことなく盛り込んだ命名である。通常に読んでは、全く意味不明であり、参考資料では、「卜部」を神祇官の一部署とし、紀”直”乎麻呂に換えられている。「中臣部」の解釈も同様に怪しいのであるが、それはまた後日としよう。

五月乙未。於中宮安殿。請僧一百講仁王經。并令左右京。四畿内。七道諸國講説焉。辛丑。以從三位百濟王敬福爲宮内卿。從五位上藤原朝臣千尋爲美濃守。外從五位下壬生使主宇太麻呂爲但馬守。丙午。伊蘇志臣東人之親族卅四人賜姓伊蘇志臣族。辛亥。震中山寺。塔并歩廊盡燒。」京中驟雨。水潦汎溢。」又伎人。茨田等堤往往決壞。
六月癸亥。備前國飢。賑給之。

五月八日に中宮の安殿で、僧百人を招請して仁王経を講義させ、併せて左右両京・四幾内・七道の諸國に講義・解釈させている。十四日に百濟王敬福(①-)を宮内卿、藤原朝臣千尋を美濃守、壬生使主宇太麻呂(壬生直國依に併記)を但馬守に任じている。十九日に伊蘇志臣東人の親族、三十四人に「伊蘇志臣族」姓を賜っている。

二十四日に「中山寺」が雷火にあい、塔及び歩廊を全て焼失している。京中ににわか雨が降り、川の水が溢れ出ている。また、河内の「伎人堤・茨田堤」などが所々決壊している。

六月二十七日に備前國に飢饉が起こり、物を恵み与えて救っている。

<中山寺>
中山寺

いつものこととは言え、唐突な登場であって、二度とお目に掛かれることもないようである。歴史の舞台には、遠く離れた存在の寺であろう。

少々調べると聖徳太子(厩戸皇子)が建てたとの伝承を持つ同名の寺が存在しているとのことである。一体幾つの寺を建てたのであろうか?…寄って集って廐戸皇子に絡めることが望まれた、のかもしれない。

と言うことで、鵤の地の近辺でその名前が示す地形を満足する場所を求めることにする。すると、思いの外、それらしき場所が見出せる。中山=真ん中を突き通すように[山]の形の山稜が延びているところと読むと、古事記の長谷部若雀天皇(崇峻天皇)が坐した倉椅柴垣宮があった椅子のような形をした谷間(倉椅)の真ん中を突き通す山稜の端にある小高い地を表していると思われる。

ところでこの場所は書紀の天武天皇紀に齋宮於倉梯河上を建てたと記載さている。「中山寺」は、その跡地に造られたのかもしれない。「齋」の地形に含まれる三つの山稜を「山」と見做したのではなかろうか。

平城宮のほぼ真北にあたり、凄まじい雷鳴がとどろき、その後の火災を遠望したのではなかろうか。全く手の施しようもなく、神仏に祈念するしかなかったであろう。「齋宮」も「中山寺」も歴史の闇に紛れ込んでしまったようである。

<伎人堤・茨田堤>
伎人堤・茨田堤

伎人堤は後として、古事記の大雀命(仁徳天皇)の事績の一つに挙げられた茨田堤について再度その詳細を述べてみよう。超有名なこの堤は、現在の淀川の堤防にあったとされ、現地調査が行われている。がしかし、その痕跡も見出せず、現在に至っているようである。

茨田の意味が不明なまま堤防を探索しても見出すことは叶わないであろう。本著は、場所もさることながら、この堤は、川の堤防と言うよりも、むしろ海辺の防波堤であったと推察した。

図に示したように小ぶりな多くの谷間が海辺に延びる地形であり、そこに造られた茨田(棚田)の端で海に面するようにし、防波堤の機能を持たせたものと思われる。おそらく潮の干満に対応する水門も造っていたのではなかろうか。耕地面積の拡大に大きく寄与したと結論付けた。

伎人堤は初見である。先ずは「伎人」の既出の文字列を読んでみよう。「伎人=技術者」と読んでは全く意味不明となろう。勿論、地形を表しているのである。「伎」=「人+支」=「谷間が岐れている様」であるから、伎人=谷間の中で更に谷間が岐れているところと解釈する。どうやら、茨田堤の西側の谷間、河内惠賀之長江の様相を表現していると思われる。

堤は、山稜の地形を利用して盛土(積み石)をし、防波堤のように谷間に突き出したのではなかろうか。茨田堤も同様に川の増水によって押し流された決壊したのであろう。現在は、低地の広々とした水田が当たり前のように見られるが、古事記でも幾度か述べたように、川の下流域の開拓は、この時代になっても困難を極めていたと思われる。

秋七月甲辰。攝津國瓺玉大魚賣。參河國海直玉依賣一産三男。並給正税三百束。乳母一人。

七月十八日に攝津國の「瓺玉大魚賣」と參河國の「海直玉依賣」が一度に男子の三つ子を産んでいる。それぞれに正税三百束と乳母一人を給わっている。

<瓺玉大魚賣・神奴意支奈・祝⾧月>
● 瓺玉大魚賣

「瓺玉」とは、一体何を象形しているのか、些か戸惑うところなのだが、こういう場合は、むしろ地形要素をそのまま並べた表記えあることが多い。

「瓺(長+瓦)」の文字は、原文では左右逆の並びとなっているが、フォントが見出せず、異字体を用いた。「瓺」=「口が小さく胴が大きく膨らんだ瓶のような様」と解釈する。

纏めると瓺玉=口が小さく胴が大きく膨らんだ瓶のような地に玉があるところと読み解ける。現在の行橋市の八景山を玉と見做した表記と思われる。既出の大魚=平らな頂の山稜の端が魚の尾鰭のように岐れているところと解釈した。三つ子の生誕の地は、図に示した場所、裏ノ谷池に面するところと推定される。

この裏ノ谷池近隣は、古事記の若倭根子日子大毘毘命(開化天皇)の子、建豐波豆羅和氣王が祖となった依網之阿毘古と推定され、また、次の御眞木入日子印惠命(崇神天皇)の事績に多くの依網池を造ったことが述べられている。

依網=谷間にある山稜の端の三角州が見えなくなったところである。おそらく、今のような大きな池ではないにしても、当時もこの地は山稜に挟まれた池となっていたように推測される。水が豊かにある地だったのであろう。尚、この地は元明天皇紀に登場した能勢郡に近接する地と思われるが、未だ定かではない。また、西側の山稜の西麓に関しては、下記に述べる。

<海直玉依賣>
● 海直玉依賣

「參河國」の「玉依賣」・・・本著が読み解いて来た最も重要な地点の一つを示す表記であろう。古事記の豐玉毘賣命・玉依毘賣命が坐した場所は、現在の北九州市小倉南区湯川にあったと推定した。

そして後に登場する三川之衣・穗がその地を表していると読み解いた。「穗」=「勾玉」と見做した表現だったのである。

その玉依毘賣命から神倭伊波禮毘古命(神武天皇)が誕生し、幾多の困難を乗り越えて天皇家の隆盛が始まったのである。この人物の登場によって、全てが繋がった、と思われる。海=母が両腕で抱えるような地があるところと読み解ける。「直」を姓と解釈する。図に示した場所を表している。

八月庚申。正六位上大伴宿祢伯麻呂。外從五位下葛木連戸主並授從五位下。正四位下日置女王。從四位上丹生女王。從四位下春日女王並正四位上。從四位下難波女王從四位上。无位山代女王從五位下。從五位下藤原朝臣家子正五位上。无位當麻眞人比礼從五位下。辛未。攝津國住吉郡人外從五位下依羅我孫忍麻呂等五人。賜依羅宿祢姓。神奴意支奈。祝⾧月等五十三人依羅物忌姓。

八月五日に大伴宿祢伯麻呂(小室に併記)・葛木連戸主に從五位下、日置女王丹生女王春日女王に正四位上、難波女王(海上女王に併記)に從四位上、山代女王(出雲王に併記)に從五位下、藤原朝臣家子(百能に併記)に正五位上、「當麻眞人比礼」に從五位下を授けている。

十六日に攝津國住吉郡の人、依羅我孫忍麻呂等五人に「依羅宿祢」姓を、また「神奴意支奈・祝⾧月」等五十三人に「依羅物忌」姓を賜っている。

<當麻眞人比禮-淨成>
● 當麻眞人比礼

初見で内位の従五位下を授かっていることから、前記で登場した當麻眞人子老と同じく「當麻一族」の奔流の地に関わる人物と推測される。

そんな背景で、書紀の天武天皇紀に登場した當摩公廣嶋等の近辺、即ち、葛城の山麓に近付いた場所を探索することにした。

比礼(禮)の「禮」=「示+豊」=「高台が揃って並んでいる様」を表すと解釈した。古事記の伊波禮で用いられた文字である。現在の常用漢字である「礼」とは大きく異なる文字形であるが、「礼」=「示+乚」=「押さえて整える」の意味を表すことから、簡略の文字として使用されるようになったとのことである。

その地形を図に示した場所に求めることができる。延びた山稜が揃っていると見做せるように思われる。比礼(禮)=高台が揃って並んでいるところと読み解ける。あらためて地図を見ると、「伊波禮」も同じく、山稜の端が揃っていることが伺える。意外なところで「禮」の解釈がすっきりと整えられたようである。

後に當麻眞人淨成が、同じく内位の従五位下を叙爵されて登場する。既出の文字列の淨成=水辺で両腕のような山稜が取り囲む平らになったところと読み解ける。「比礼」の麓の谷間を表していると思われる。

● 神奴意支奈・祝⾧月 彼等には攝津國の郡名、「住吉郡」が付加されている。前出の依羅我孫忍麻呂が登場した時に読み解いたが、現在の矢留山塊の西側、犀川(今川)との間の地域と推測した。かなり限定された場所であり、果たして二名の人物を収めることができるか?…”古事記風”の名称である<上図参照>。

「神」=「示+申」=「山稜が延びて高台になっている様」、「奴」=「女+又」=「山稜が嫋やかに曲がって延びている様」、「意」=「音+心」=「取り囲まれている様」、「支」=「岐れている様」、「奈」=「木+示」=「山稜が高台になっている様」と解釈した。

神奴=長く延びている高台と嫋やかに曲がっている山稜が並んでいるところ意支奈=岐れた高台に囲まれているところと読み解ける。依羅宿祢姓を賜った地の南隣の谷間を表していることが解る。「意支奈」は上図では判別し辛いが、拡大すると谷間の中が更に岐れていることが認められる。ありったけの地形象形表記であろう。

初見の「祝」=「示+兄」=「谷間の奥が広がって高台になっている様」と解釈し、「長月」=「山稜が長く延びた三日月の形をしている様」とすると、祝長月=谷間の奥が広がって高台になっている地の傍らに長く延びた三日月の形をした山稜があるところと読み解ける。更に南側の谷間を表していると思われる。前出の槻本連の奥に当たる場所である。

賜った依羅物忌姓は、少々変わった姓であるが、物=牛+勿=牛の角のような谷間に幾つかの山稜が延び出ている様([勿]の文字形の様)忌=己+心=山稜が[己]の形に曲がって延びている様と解釈した。図に示したように、二人の人物の地形を合わせた表記と思われる。「依羅宿祢」とせずに区別したのには、何かの理由があったのかもしれない。

九月丙戌朔。中納言從三位兼中務卿石上朝臣乙麻呂薨。左大臣贈從一位麻呂之子也。」正六位上赤染造廣足。赤染高麻呂等廿四人賜常世連姓。己酉。任遣唐使。以從四位下藤原朝臣清河爲大使。從五位下大伴宿祢古麻呂爲副使。判官主典各四人。

九月一日に中納言兼中務卿の「石上朝臣乙麻呂」が亡くなっている。左大臣の「麻呂」の子であった(こちら参照)。また赤染造廣足・赤染高麻呂等二十四人に「常世連」姓を賜っている(天平十九[747]年八月では”九人”に授けている)。二十四日に遣唐使として、藤原朝臣清河を大使、大伴宿祢古麻呂(三中に併記)を副使、判官・主典に各四人を任じている。

冬十月丙辰朔。詔授正五位上藤原朝臣乙麻呂從三位。任大宰帥。以八幡大神教也。癸酉。太上天皇改葬於奈保山陵。天下素服擧哀。

十月一日に藤原朝臣乙麻呂に從三位を授け、大宰帥に任じている。これは八幡大神の教示に依ったものである(正五位上になったばかりで異例の昇進。後日談がありそうである)。十八日に(元正)太上天皇を奈保山陵(那富山)に改葬している。国中白無地に喪服を着て擧哀(泣き叫ぶ儀礼)している。

十一月己丑。左衛士督正四位下佐伯宿祢淨麻呂卒。

十一月四日に佐伯宿祢淨麻呂(人足に併記)が亡くなっている。

十二月癸亥。授駿河國守從五位下勤臣東人從五位上。獲金人无位三使連淨足從六位下。賜絁卌疋。綿卌屯。正税二千束。」出金郡免今年田租。郡司主帳已上進位有差。」又遣大納言藤原朝臣仲麻呂。就東大寺。授從五位上市原王正五位下。從五位下佐伯宿祢今毛人正五位上。從五位下高市連大國正五位下。外從五位下柿本小玉。高市連眞麻呂並外從五位上。

十二月九日に駿河國守の勤臣東人(楢原造、伊蘇志臣)に從五位上、獲金人の三使連淨足(人麻呂に併記)に從六位下を授け、絁・真綿などを賜っている。出金の郡の今年の田租を免じている。郡司の主帳以上は各々進位している。また、大納言の藤原朝臣仲麻呂東大寺に遣わして、市原王(阿紀王に併記)に正五位下、佐伯宿祢今毛人に正五位上、高市連大國に正五位下、柿本小玉(市守に併記)・高市連眞麻呂(大國に併記)に外從五位上を授けている。

東大寺に於いて行われた叙位について、造東大寺司での功績を示しているようだが、筆頭の「市原王」は従五位上から一階、一方従五位下であった「佐伯宿祢今毛人」が一気に正五位上に昇進している。「高市連大國」は二階の昇進であり、功績の評価は厳密であったようである。

「市原王」の最終官位は正五位下で、志貴皇子(施基皇子)の後裔であり、叔父が後に天皇になるのだが、その即位以前に亡くなったのでは?…と推測されている。この後の活躍もあまり評価されていなかった、と伝えられている。











2022年5月16日月曜日

天璽國押開豐櫻彦天皇:聖武天皇(50) 〔587〕

天璽國押開豐櫻彦天皇:聖武天皇(50)


天平勝寶元年(西暦749年)七月の記事からである。原文(青字)はこちらのサイトから入手、訓読続日本紀(今泉忠義著)、続日本紀2(直木考次郎他著)を参照。

秋七月甲午。皇太子受禪即位於大極殿。詔曰。現神〈止〉御宇倭根子天皇可御命〈良麻止〉宣御命〈乎〉衆聞食宣。高天原神積坐皇親神魯棄神魯美命以吾孫〈乃〉命〈乃〉將知食國天下〈止〉言依奉〈乃〉隨遠皇祖御世始而天皇御世御世聞看來食國天〈ツ〉日嗣高御座〈乃〉業〈止奈母〉隨神所念行〈佐久止〉勅天皇〈我〉御命〈乎〉衆聞食勅。平城〈乃〉宮〈尓〉御宇〈之〉天皇〈乃〉詔〈之久〉。挂畏近江大津〈乃〉宮〈尓〉御宇〈之〉天皇〈乃〉不改〈自伎〉常典〈等〉初賜〈比〉定賜〈部流〉法隨斯天日嗣高御座〈乃〉業者御命〈尓〉坐〈世〉伊夜嗣〈尓〉奈〈賀〉御命聞看〈止〉勅〈夫〉御命〈乎〉畏自物受賜〈理〉坐〈天〉食國天下〈乎〉惠賜〈比〉治賜〈布〉間〈尓〉萬機密〈久〉多〈久志天〉御身不敢賜有〈礼〉隨法天日嗣高御座〈乃〉業者朕子王〈尓〉授賜〈止〉勅天皇御命〈乎〉親王等王等臣等百官人等天下〈乃〉公民衆聞食宣。又天皇御命〈良末止〉勅命〈乎〉衆聞食宣。挂畏我皇天皇斯天日嗣高御座〈乃〉業〈乎〉受賜〈弖〉仕奉〈止〉負賜〈閇〉頂〈尓〉受賜〈理〉恐〈末里〉進〈毛〉不知退〈毛〉不知〈尓〉恐〈美〉坐〈久止〉宣天皇御命〈乎〉衆聞食勅。故是以御命坐勅〈久〉。朕者拙劣雖在親王等〈乎〉始而王等臣等諸天皇朝庭立賜〈部留〉食國〈乃〉政〈乎〉戴持而明淨心以誤落言無助仕奉〈尓〉依〈弖之〉。天下者平〈久〉安〈久〉治賜〈比〉惠賜〈布閇支〉物〈尓〉有〈止奈毛〉神隨所念坐〈久止〉勅天皇御命〈乎〉衆聞食宣。」既而授正四位上紀朝臣麻路從三位。從五位下久世王。伊香王並從五位上。正四位下多治比眞人廣足正四位上。從四位下石川朝臣年足。紀朝臣飯麻呂。吉備朝臣眞備並從四位上。正五位上巨勢朝臣堺麻呂。背奈王福信並從四位下。正五位下多治比眞人國人正五位上。從五位上佐伯宿祢毛人。鴨朝臣角足並正五位下。從五位下大伴宿祢犬養。藤原朝臣千尋並從五位上。正六位上御方大野。鴨朝臣虫麻呂並從五位下。」以正三位藤原朝臣仲麻呂爲大納言。從三位石上朝臣乙麻呂。紀朝臣麻呂。正四位上多治比眞人廣足並爲中納言。正四位下大伴宿祢兄麻呂。從四位上橘宿祢奈良麻呂。從四位下藤原朝臣清河。並爲參議。是日。改感寳元年。爲勝寳元年。乙未。從六位上阿倍朝臣石井。正六位上山田史女嶋。正六位下竹首乙女並授從五位下。並天皇之乳母也。乙巳。定諸寺墾田地限。大安。藥師。興福。大倭國法華寺。諸國分金光明寺。寺別一千町。大倭國國分金光明寺四千町。元興寺二千町。弘福。法隆。四天王。崇福。新藥師。建興。下野藥師寺。筑紫觀世音寺。寺別五百町。諸國法華寺。寺別四百町。自餘定額寺。寺別一百町。

二日に皇太子(阿倍内親王)は位を譲られて、大極殿で即位している。天皇が以下のように詔された・・・現つ御神として天下を統治する倭根子天皇の御命として宣べられる御命を、皆承れと申し渡す。高天原に神としておられる天皇の遠祖の男神・女神の仰せにより、皇孫に統治すべき國である天下を授けられたことに従い、遠祖の御代からはじめて天皇が代々統治なされた國を治めるのは、天つ日嗣の高御座の業であると神として思うと言われる天皇の御命を、皆承れと申し渡す。<続>

平城の宮で天下を統治された(元正)天皇が仰せられたことには、[口に出すのも恐れ多い近江大津宮で天下を統治された(天智)天皇が改ることのあってはならない掟(不改常典)として始められ、定められた方に従い、この天つ日嗣の高御座の業は、朕の大命であるから、貴方(聖武天皇)がお嗣ぎなさって始めなさい]と仰せられた御命を恐れ多いものとして受け賜わりなされて、天皇の治める國である天下をお恵みになり、お治めなされている間に、万機が次々と起こって、多くあり、お身体がそれに堪えることがおできにならないので、法に従って、天つ日嗣の高御座の業は、朕の子である王(阿倍内親王)にお授けになると仰せられる天皇の御命を、親王達・王達・臣達・百官の人達、及び天下の公民は、皆承れと申し渡す。<続>

また、(孝謙)天皇の御命として宣べ聞かせられる御言葉を皆承れと申し渡す。口に出すのも恐れ多い我が皇であられる(聖武)天皇が、この天つ日嗣の高御座の業を、お受けして、お仕えせよと朕にお授けになったので、頭上にかかげてお受けして、恐れつつしみ、進むことも退くこともどうすればよいかわからず、ただ恐れ多く思っておいでになると仰せられる天皇の御命を皆承れと申し渡す。<続>

そのようなわけであるから、御命として仰せ下さるには、朕は拙く愚かであるが、親王達をはじめ王達・臣達皆々が、天皇の朝廷の立てられた國を支配してゆく政治を戴き持ち、明るく浄い心をもって、過ちを落とすこなく助けお仕え申し上げることによって、天下は平らかに安くお治めになり、お恵みになることができるのであると、神として思うと仰せ下される天皇の御命を皆承れと申し渡す・・・。

紀朝臣麻路(古麻呂に併記)に從三位、久世王(久勢王)・伊香王に從五位上、多治比眞人廣足(廣成に併記)に正四位上、石川朝臣年足紀朝臣飯麻呂吉備朝臣眞備(下道朝臣眞備)に從四位上、巨勢朝臣堺麻呂背奈王福信に從四位下、多治比眞人國人(家主に併記)に正五位上、佐伯宿祢毛人鴨朝臣角足(治田に併記)に正五位下、大伴宿祢犬養(三中に併記)藤原朝臣千尋に從五位上、御方大野・「鴨朝臣虫麻呂」に從五位下を授けている。また、藤原朝臣仲麻呂を大納言、石上朝臣乙麻呂紀朝臣麻呂(麻路)・多治比眞人廣足を中納言、大伴宿祢兄麻呂橘宿祢奈良麻呂藤原朝臣清河を參議に任じている。この日、「感寳元年」を改めて「勝寳元年」としている。

三日に阿倍朝臣石井(豊繼に併記)・「山田史女嶋」・「竹首乙女」に從五位下を授けている。天皇の乳母である。

十三日に諸寺の墾田地の限度を定めている。大安寺藥師(香山藥師寺)・興福寺大倭國法華寺(隅院近隣)・諸國分金光明寺は寺別に一千町、大倭國國分金光明寺(金鍾寺、東大寺)は四千町、元興寺は二千町、弘福寺(川原寺)・法隆寺四天王寺崇福寺(志賀山寺、紫郷山寺)・新藥師(平城藥師寺)・建興寺(小墾田豐浦寺)・「下野藥師寺」・筑紫觀世音寺は寺別に五百町、諸國の法華寺(國分尼寺)は寺別に四百町、その他の定額寺(こちら参照)は寺別に一百町としている。

<鴨朝臣蟲麻呂・根足>
● 鴨朝臣虫麻呂

調べると鴨朝臣吉備麻呂の子と推測されている。但し伝えられる系図では虫(蟲)麻呂の表記ではなく「小黑麻呂」であり、別名とされているようである。

いずれにしても、「吉備麻呂」の近隣にその地形があるのか、である。頻出の蟲=小さく三つに岐れた山稜が延びている様と解釈した。一見で、父親の西側に見出すことができる。

図に示したように吉備麻呂の弟、叔父の「堅麻呂」との間の場所となっている。「小黑麻呂」が別名として成り立つのか?…小黑=谷間に三角に尖って[炎]のような山稜が延びているところと解釈される。確かに「蟲」の地形の別表現として受け入れられるであろう。

兄である治田・助が従五位下に叙爵されたのが神龜元(724)年二月であった。四半世紀前であり、「蟲麻呂」は末っ子だったと推測され、伝えられるところとは異なっているようである。憶測になるが、長男「小黑麻呂」が夭折し、その後に誕生した「蟲麻呂」の出自の地としたのかもしれない。

少し後(孝謙天皇紀)に官奴になっていた「根足」が許されて賀茂朝臣氏姓を賜り、賀茂朝臣根足になった、と記載される。根足=根のように延びた山稜に足の形の地があるところと解釈すると、図に示した場所が出自と思われる。「吉備麻呂・堅麻呂」に関係する人物だったようだが、不詳である。

<山田史女嶋-廣人・田部王>
● 山田史女嶋

「山田史」は、聖武天皇の教育係を仰せつかった御形が登場していた。書紀の持統天皇紀に、新羅で学問僧としての活躍で叙爵されていた。

女嶋の系譜は不詳のようだが、阿倍内親王の乳母となるには、それなりの素性であったには違いないであろう。出自の場所は、仁賢天皇の御子に春日山田皇女(古事記では春日山田郎女)が誕生し、後に安閑天皇の妃となり「山田皇后」と称された「山田」の地と推定した。

図に示したように女嶋=山稜が嫋やかに曲がっている[鳥]のような形をしているところと解釈される。比賣嶋女と別称されている。後(孝謙天皇紀、天平勝寶七年)に山田史廣人等と共に山田御井宿祢(山田三井宿祢)の氏姓を賜っているが、御(三)井=四角く取り囲まれた地を束ねた(が三つある)ところと読むと、図に示した場所を表している。万葉集から橘諸兄・大伴家持との親交が伺えるとのことである。

また、天平勝寶三年に田部王が臣籍降下して春日眞人氏姓を賜ったと記載される。「田部」の「田」=「山田」であろう。その近隣が出自と思われる。推定した場所を上図に併記した。

<竹首乙女>
● 竹首乙女

「竹首」では、全く見当も付かないのだが、別名として「多氣首(後に宿祢)」が伝えられている。これで一気に出自の場所を求めることが可能となった。

書紀の持統天皇紀で伊勢大神宮行幸の際に神郡が登場する。所謂「神八郡」と知られている中の多氣郡を示すと解釈した。また文武天皇紀に記載された「多氣大神宮」があった場所と推定した。

古事記では御眞津日子訶惠志泥命(孝昭天皇)の御子、天押帶日子命が祖となった多紀臣の地と推定したところである。「多氣」、「多紀」共に山稜の端の地形を表していることが解った。「竹」は、真っ直ぐに延びている山稜の形を表現しているのである。全く無理のない別名として受け取れる。

乙女の頻出の乙=[乙]の形に曲がっている様であり、その地形を図に示した場所に見出せる。また「乙」は、弟=ギザギザとしている様に置換えられることもかなりの頻度で記載されている。徹頭徹尾一貫した文字使いであることが解る。

ところで、少し横道に逸れるが、阿倍内親王の「阿倍」は、乳母の筆頭に挙げられている阿倍朝臣石井の「阿倍」に由来すると言われている。既に述べたように「阿倍」の地形に基づく名前なのであるが、全く見当違いであろう。母親は光明皇后であり、藤原朝臣不比等の孫である。その名前に、どうして阿倍朝臣に関わる名付けをしたのであろうか。

天武天皇の幼名、大海人皇子の「大海」は養育に関わった大海蒭蒲(別称は凡海宿禰麁鎌)に由来するとされている。当然のことながら、氏名ではなく、養育された場所の地形に因む名称なのである。乳母の出身地と混同しては、意味不明の解釈となろう。

<下野藥師寺>
下野藥師寺

本寺は、数年後に、重罪に相当する罪を犯した僧の配流先として、もう一度登場する。詳細な場所が記載されるわけでもないが、下野國の何処かに建てられていた寺には違いないであろう。

法隆寺・四天王寺等と同じ墾田限度故に、それ相当の主要な寺だったようである。下野國に関係する人物は、皆無に近く、唯一、外従五位下を叙爵された古仁染思・古仁虫名の出自場所としたのみである。

と言うことは、下野國の詳細について本寺を記載することで述べる算段なのであろう。勿論、藥師寺は立派な地形象形表記である。藥師=山稜に挟まれた谷間に小高い地が並んで積み重なった地が寄り集まっているところと解釈すると、図に示した場所にあったと推定される。

八月癸亥。正六位上阿倍朝臣綱麻呂授從五位下。外正五位下小槻山君廣虫正五位下。外從五位下出雲臣屋麻呂外從五位上。從六位上田邊史廣濱外從五位下。辛未。以從五位下大原眞人麻呂。石川朝臣豊人。並爲少納言。從五位下大伴宿祢古麻呂爲左少弁。大納言正三位藤原朝臣仲麻呂爲兼紫微令。參議正四位下大伴宿祢兄麻呂。式部卿從四位上石川朝臣年足並爲兼大弼。從四位下百濟王孝忠。式部大輔從四位下巨勢朝臣堺麻呂。中衛少將從四位下背奈王福信並爲兼少弼。正五位上阿倍朝臣虫麻呂。伊豫守正五位下佐伯宿祢毛人。左兵衛率正五位下鴨朝臣角足。從五位下多治比眞人土作爲兼大忠。外從五位上出雲臣屋麻呂。衛門員外佐外從五位下中臣丸連張弓。吉田連兄人。葛木連戸主並爲少忠。從五位下藤原朝臣繩麻呂爲侍從。從五位下御方大野爲圖書頭。從五位下別公廣麻呂爲陰陽頭。從三位三原王爲中務卿。從四位上安宿王爲大輔。正五位上葛井連廣成。從五位下藤原朝臣眞從並爲少輔。中納言從三位紀朝臣麻呂爲兼式部卿。從五位下多治比眞人犢養爲少輔。神祇大副從五位上中臣朝臣益人爲兼民部大輔。從五位下阿倍朝臣鷹養爲主計頭。從五位下紀朝臣廣名爲主税頭。正五位下大伴宿祢稻君爲兵部大輔。從五位上大伴宿祢犬養爲山背守。從五位上石川朝臣名人爲上総守。外從五位下茨田宿祢枚麻呂爲美作守。乙亥。從四位下尾張宿祢小倉卒。壬午。大隅。薩摩兩國隼人等貢御調。并奏土風歌舞。癸未。詔授外正五位上曾乃君多利志佐從五位下。外從五位下前君乎佐外從五位上。外正六位上曾縣主岐直志自羽志。加祢保佐並外從五位下。

八月二日に「阿倍朝臣綱麻呂」に從五位下、小槻山君廣虫に正五位下、出雲臣屋麻呂(出雲國楯縫郡に併記)に外從五位上、田邊史廣濱(史部虫麻呂に併記)に外從五位下を授けている。

十日に以下の人事を行っている。大原眞人麻呂石川朝臣豊人を少納言、大伴宿祢古麻呂(三中に併記)を左少弁に任じている。大納言の藤原朝臣仲麻呂に紫微令を、參議の大伴宿祢兄麻呂と式部卿の石川朝臣年足に大弼を、百濟王孝忠(①-)と式部大輔の巨勢朝臣堺麻呂と中衛少將の背奈王福信に少弼を、阿倍朝臣虫麻呂と伊豫守の佐伯宿祢毛人と左兵衛率の鴨朝臣角足(治田に併記)多治比眞人土作(家主に併記)に大忠を兼ねさせている。出雲臣屋麻呂と衛門員外佐の中臣丸連張弓吉田連兄人葛木連戸主を少忠、藤原朝臣繩麻呂を侍從、御方大野を圖書頭、別公廣麻呂(別君)を陰陽頭、三原王(御原王)を中務卿、安宿王を大輔、葛井連廣成(白猪史廣成)藤原朝臣眞從を少輔に任じている。中納言の紀朝臣麻呂(麻路)に式部卿を兼ねさせ、多治比眞人犢養(家主に併記)を少輔に任じている。神祇大副の中臣朝臣益人に民部大輔を兼ねさせている。阿倍朝臣鷹養を主計頭、紀朝臣廣名(宇美に併記)を主税頭、大伴宿祢稻君(宿奈麻呂に併記)を兵部大輔、大伴宿祢犬養(三中に併記)を山背守、石川朝臣名人(枚夫に併記)を上総守、茨田宿祢枚麻呂(弓束に併記)を美作守に任じている。

十四日に尾張宿祢小倉が亡くなっている。二十一日に大隅・薩摩両國の隼人等が御調を貢進し、その地の歌と舞を奏上している。二十二日に詔されて、曾乃君多利志佐(贈唹君多理志佐)に從五位下、前君乎佐に外從五位上、「曾縣主岐直志自羽志・加祢保佐」に外從五位下を授けている。

<阿倍朝臣綱麻呂-意宇麻呂>
<布勢朝臣小野>
阿倍朝臣綱麻呂

調べると毛人の子であることが分かった。すると曽祖父御主人、祖父廣庭となって、布施系阿倍一族の奔流の人物となる。残存している系図には、些か不詳の部分があるようだが、さて、綱麻呂の居処は?・・・。

綱=糸+岡=山稜が綱のように延びている様と解釈したが、戸ノ上山北麓にその地形を見出すことができる。布勢朝臣國足の東側に当たる場所である。地形象形表記で読み解いた系譜は、実に明瞭なように思われる。

布勢(阿倍)一族が戸ノ上山麓一帯に広がって行った様子が伺える記述である。本家阿倍一族の活躍が多く記載されて来たが、「廣庭」以後、少し間を置いての人材登用だったのであろう。

また、本文に引き続いて小槻山君廣虫出雲臣屋麻呂の位階を進めている。出雲國(現北九州市門司区大里)の中央と西東が並んでいることになる。「綱麻呂」は、数年後に出雲守に任じられている。

後(淳仁天皇紀)に阿倍朝臣意宇麻呂が従五位下を叙爵されて登場する。意=閉じ込められた中心にある様宇=谷間に山稜が延びている様と解釈した。その地形が「綱麻呂」の北側に見出せる。系譜は定かではないが、この地が出自と推定される。

また女孺の布勢朝臣小野が従五位下を叙爵されて登場する。小野=野が三角に尖っているところと読むと、それらしき場所が見出せる。「毛人」の西隣であり、何らかの血縁関係だったのかもしれないが、「布勢朝臣」と表記され、定かではない。

<曾縣主岐直志自羽志・加祢保佐>
曾縣主岐直志自羽志・加祢保佐

彼等は、同じく内位の従五位下に昇位された曾乃君多利志佐(贈唹君多理志佐)の居処である日向國贈於郡を出自に持つ人物と思われる。

曾縣主岐直志自羽志に含まれる頻出の縣=首(逆文字)+系=首(頭部)のような山稜がぶら下がった様と解釈したが、その地形を図に示した場所に見出せる。

同じく頻度高く用いられている「岐」=「山+支」=「分岐している様」、「直」=「真っ直ぐな様」、「志」=「川が蛇行して流れている様」、「自」=「端にある様」、「羽」=「羽のように広がった様」と解釈した。

纏めると岐直志自羽志=真っ直ぐに流れる川の下流が蛇行してその上に羽のように広がった地が端にあるところと読み解ける。「縣」の端が平らに広がっている場所を表していると思われる。正に”古事記風”の名称であろう。未だこの時代になっても洗練された文字使いには至っていなかったようである。

全く同様に加禰保佐=押し広げたような高台が先が丸く小高くなった左手のような山稜の傍らにあるところと読み解ける。彼等の名前を万葉仮名として読んでも、何も伝わって来ないであろう。地形象形表記と解読して、初めて出自の地形が伝わるのである。

尚、前者の谷間は、古事記の天津日高日子波限建鵜葺草葺不合命玉依毘賣命を娶って誕生した御毛沼命・若御毛沼命(後の神倭伊波禮毘古命[神武天皇])の出自の場所と推定した。天皇家にとって、ゆめゆめ疎かにはできない地であろう。

九月戊戌。制紫微中臺官位。令一人正三位官。大弼二人正四位下官。少弼三人從四位下官。大忠四人正五位下官。少忠四人從五位下官。大疏四人從六位上官。少疏四人正七位上官。甲辰。正五位下藤原朝臣袁比良女授從四位下。

九月七日に紫微中台(皇后宮)の官位相当を定めている。令(長官)一人は正三位相当、大弼二人は正四位下相当、少弼三人は従四位下相当、大忠(忠:判官)四人は正五位下相当、少忠四人は從五位下相当、大(疏:主典)四人は従六位上相当、少四人は正七位上相当の各々の官職としている。十三日に藤原朝臣袁比良女(房前の娘)に従四位下を授けている。

冬十月庚午。行幸河内國智識寺。以外從五位下茨田宿祢弓束女之宅。爲行宮。乙亥。幸石川之上。志紀。大縣。安宿三郡百姓。百年以下。小兒已上。賜綿有差。又免三郡百姓所負正税本利。自餘諸郡免利收本。陪從諸司。賜綿亦各有差。丙子。河内國寺六十六區見住僧尼及沙弥。沙弥尼。賜絁綿各有差。外從五位下茨田宿祢弓束女授正五位上。是日車駕還大郡宮。丙戌。无位石津王授從五位下。正七位上倉首於須美外從五位下。

十月九日に河内國智識寺に行幸されている。茨田宿祢弓束女の家を行宮としている。十四日に「石川之上」に行幸されている。志紀大縣安宿の三郡の人民で百歳以下、小児以上に年齢に応じて真綿を授けている。また三郡の人民が出挙で負っている正税の本稲と利稲とを免除している。自余の諸郡は利稲のみを免除され、本稲のみを納めている。付き従った諸司には位階に応じて真綿を授けている。

十五日に河内國の寺の六十六ヶ所で現在居住している僧尼及び沙弥・沙弥尼にそれぞれ絁・真綿を授けている。茨田宿祢弓束女に正五位上を授けている。この日、「大郡宮」に還っている。二十五日に「石津王」に従五位下、倉首於須美(春日倉首老に併記)に外従五位下を授けている。

<石川之上>
石川之上

行幸の詳細は、推測するのみであるが、弓束女の家を行宮として、近隣の郡民と応対し、様々に褒賞したり、叙位を行ったのであろう。その間に出向いた先が石川之上であったと思われる。

天平六(734)年に「夏四月甲午。免河内國安宿。大縣。志紀三郡今年田租。以供竹原井頓宮也」と記載されていた。図に示していない近隣の郡には、他に若江郡錦部郡大鳥郡等があるが、この三郡が豊かで多くの人が居住していたのであろう。

大縣郡にあった「弓束女」の家から北の若江郡内を通過して向かった先に石川之上(石川:現河内川)があったと推測される。穴宿郡内の図に示した場所、現在の五社八幡神社がある高台辺りと思われる(現地名:行橋市入覚)。

何故この地に?…憶測になるが、切望して造営した紫香樂宮(現地名:行橋市福丸)を遠望するためだったのではなかろうか(直線距離約1.5km)。周辺山林の大火災があったり、そこで坐したのは束の間、実に心残りの地だったのであろう。廬舎那仏の本貫の地でもあった。わざわざ記述された石川之上、聖武天皇の心情を述べているのである。

<大郡宮・藥園宮>
大郡宮・藥園宮

大郡宮は、まさか難波大郡・小郡にあった宮か?…ではなかろう。勿論、類似の地形の場所にあった宮であろうが、「大郡」では、一に特定するには、些か難がある。

少し先走って読んでみると、次の十一月記に、この宮の南にある「藥園新宮」で大嘗祭を行ったと記載されている。先ずは藥園宮の場所を求めてみよう。

藥草の茂った園のような名称であるが、頻出の藥=艸+絲+白+木=二つの長く延びる山稜に挟まれて丸く小高い地がある様と解釈した。園=囗+袁=丸く取り囲まれている様と読むと、図に示した場所が見出せる。

書紀では甘檮岡、古事記では味白檮、あるいは白檮尾(神武天皇陵)と記載された、谷間から山稜の端が広がって延びた場所である。記紀を通じて幾度となく登場する、香春三ノ岳の東北麓であり、極めて重要な地点である。大郡宮は、少々推測になるが、その北側の高台が寄り集まった場所にあったと推定される。

河内國から飛鳥に抜けるには、書紀の天武天皇紀に記載された龍野(現地名京都郡みやこ町勝山浦河内)から現在の味見峠を越える谷間の行程と推測される。その谷間を出た先に「味白檮(甘檮岡)」が広がっている。そこに大郡宮藥園宮が設営されていたのであろう。そして、香春三ノ岳の北麓の谷間から五徳峠を越えれば、平城宮に届く行程となる。実に整合性のある行幸記事ではなかろうか。

<石津王・奈貴王・掃部女王>
● 石津王

初見で従五位下を叙爵された石津王の系譜不詳であり、御多分に漏れずの感じであるが、その名前のみで出自の場所を求めることになる。

多くの初見で従五位下を叙爵された王・女王が住まっていた場所、飛鳥田女王等の周辺を探索すると、山稜の端に石津=山麓にある区切られた地が水辺で筆のように延びているところの地形を見出せる。

後(孝謙天皇紀)に奈貴王が登場する。橘宿祢奈良麻呂の謀反の記述で記載された人物であるが、特段の関りもなく、後に従五位下を叙爵され、最終従四位下と昇進されている。既出の文字列である奈貴=高台となった両腕のような山稜に挟まれたところと解釈すると、図に示した場所が見出せる。

更に後(淳仁天皇紀)に掃部女王が従四位下に叙爵されて登場する。皇孫扱いであり、間違いなく舎人親王に関わる女王であったと思われる。掃部=箒のような形をした山稜に近接するところと読み解くと、図に示した場所が出自と推定される。

いずれにせよ名前が表す地形のみからの出自場所であり、また現在は大きく地形が変形し、国土地理院航空写真1961~9年を頼りに求めた結果である。後日に修正があるかもしれない。

十一月辛夘朔。八幡大神祢宜外從五位下大神杜女。主神司從八位下大神田麻呂二人賜大神朝臣之姓。乙夘。於南藥園新宮大甞。以因幡爲由機國。美濃爲須岐國。丙辰。宴五位已上。授從三位三原王正三位。從五位上藤原朝臣乙麻呂正五位上。正六位上高橋朝臣男河。高橋朝臣三綱並從五位下。從五位上中臣朝臣益人正五位下。无位秋篠王。正七位下當麻眞人子老並從五位下。丁巳。宴五位已上。賜祿有差。戊午。賜饗諸司主典已上。賚祿有差。番上人等亦在祿例。己未。由機須岐國司。從五位上小田王授正五位下。正四位下大伴宿祢兄麻呂正四位上。從四位下大伴宿祢古慈悲。背奈王福信並從四位上。正六位上津嶋朝臣雄子從五位下。軍毅已上叙位一級。又國司及軍毅百姓賜饗并祿。庚申。正五位下小田王授正五位上。是日遷御大郡宮。

十一月一日に八幡大神の祢宜の大神杜女と主神司の大神田麻呂(宅女・杜女に併記)の二人に「大神朝臣」姓を賜っている。二十五日に南の「藥園新宮」(大郡宮に併記)に於いて大嘗祭を行い、因幡を由機國、美濃を須岐國としている。

二十六日に五位以上と宴を催し、三原王(御原王)に正三位、藤原朝臣乙麻呂に正五位上、高橋朝臣男河・高橋朝臣三綱(國足に併記)に從五位下、中臣朝臣益人に正五位下、「秋篠王」・「當麻眞人子老」に從五位下を授けている。二十七日に五位以上と宴をし、それぞれに禄を賜っている。

二十八日に諸司の主典以上に饗宴を賜り、それぞれに禄を賜っている。番上の官人(交替勤務:舎人、史生等)も賜禄の対象となっている。二十九日に由機・須機の國司である小田王に正五位下、大伴宿祢兄麻呂に正四位上、大伴宿祢古慈悲(祜信備。小室に併記)背奈王福信に従四位上、津嶋朝臣雄子(家道に併記)に従五位下を授けている。軍以上の位を一階進めている。また國司及び軍、人民には饗宴と禄を賜っている。三十日に小田王に正五位上を授けている。この日に大郡宮に遷御されている。

十九日に八幡大神(豊前國宇佐郡廣幡)は託宣して京に向かっている。二十四日に参議の石川朝臣年足、侍従の藤原朝臣魚名(鳥養に併記)等を遣わし、迎神使に任じている。路次の諸國は兵士百人以上を徴発して、前後を固めて妨害を排除させている。また通過する國では殺生を禁断している。従う人へのもてなしには、酒や獣肉を使用せず、道路を清掃して汚穢させないようにしている(後に挿入した部分か?)。

<秋篠王(豐國眞人)>
秋篠王

調べると、確定的ではないが、「竹田王」の系譜に関わる人物だったようである。前出の「高安王」等の子があり、彼等は臣籍降下して「大原眞人」氏姓を賜ったと伝えられている(こちら参照)。

書紀で記載された百濟川流域の地に出自の場所を求めることになる。既出の秋=禾+火=山稜が[火]のように延びている様と解釈した。篠=笹と解釈されるが、「細い竹」を表し、「竹田王」と関連した文字である。

図に示したように三つの長く延びた山稜を「火」の頭部分と見做した表現であることが解る。「篠」は、真ん中の細く延びた山稜を表している。「竹田王」に隣接する地が出自と推定される。この人物も後に臣籍降下して豐國眞人の氏姓を賜ったと伝えられている。段差のある高台()に取り囲まれた()地形を表していると解釈される。

<當麻眞人子老-山背-高庭>
當麻眞人子老

多くの人材を輩出している「當麻」一族であるが、この人物の系譜は定かではないようである。ただ、初見で従五位下、即ち、”外”が付加されていない。

聖武天皇紀に登場した廣人・廣名等は”外”従五位下であり、多分、彼等は一族の奔流ではない位置する出自を持っていたのであろう。

當麻眞人老の初見(養老四[720]年正月)は、内位の従五位下であり、その出自の場所は古事記の若倭根子日子大毘毘命(開化天皇)の孫、小俣王(父親は日子坐王)が祖となった當麻勾君に関わる地と推定した。

子老=[老]から生え出たところと読み解くと、図に示した辺りが出自と思われる。「當麻勾君」の嫡流に順う場所であることを表している。「老」の息子として、ほぼ間違いないと思われるが・・・。

後に大炊王(後の淳仁天皇)を産んだ當麻(眞人)山背が登場する。「老」の娘と知られている。政略紛争の煽りを食らって数奇な運命となったようである。詳細はご登場の時に述べることにするが、山背=山が背後にあるところとすれば、図に示した場所が出自と推定される。

更に後(淳仁天皇紀)に當麻眞人高庭が従五位下を叙爵されて登場する。系譜は定かではないようで、名前が表す地形から出自を求めると、高庭=皺が寄ったような山稜の麓で平らに延び広がったところとして、図に示した場所と推定される。

十二月丁亥。外從五位上高市連大國。正六位上内藏伊美吉黒人。佐伯宿祢今毛人並授從五位下。正六位上柿本小玉。從六位上高市連眞麻呂並授外從五位下。戊寅。遣五位十人。散位廿人。六衛府舍人各廿人。迎八幡神於平群郡。是日入京。即於宮南梨原宮。造新殿以爲神宮。請僧卌口悔過七日。丁亥。八幡大神祢宜尼大神朝臣杜女〈其輿紫色。一同乘輿。〉拜東大寺。天皇。太上天皇。皇太后。同亦行幸。是日。百官及諸氏人等咸會於寺。請僧五千礼佛讀經。作大唐渤海呉樂。五節田舞。久米舞。因奉大神一品。比咩神二品。左大臣橘宿祢諸兄奉詔白神曰天皇〈我〉御命〈尓〉坐申賜〈止〉申〈久〉。去辰年河内國大縣郡〈乃〉智識寺〈尓〉坐盧舍那佛〈遠〉礼奉〈天〉則朕〈毛〉欲奉造〈止〉思〈登毛〉得不爲〈之〉間〈尓〉豊前國宇佐郡〈尓〉坐廣幡〈乃〉八幡大神〈尓〉申賜〈閇〉勅〈久〉。神我天神地祇〈乎〉率伊左奈比〈天〉必成奉〈无〉事立不有。銅湯〈乎〉水〈止〉成我身〉遠〉草木土〈尓〉交〈天〉障事無〈久〉奈佐〈牟止〉勅賜〈奈我良〉成〈奴礼波〉歡〈美〉貴〈美奈毛〉念食〈須〉。然猶止事不得爲〈天〉恐〈家礼登毛〉御冠獻事〈乎〉恐〈美〉恐〈美毛〉申賜〈久止〉申。尼杜女授從四位下。主神大神朝臣田麻呂外從五位下。施東大寺封四千戸。奴百人。婢百人。又預造東大寺人。隨勞叙位有差。

十二月二十七日に高市連大國・「内藏伊美吉黒人」・「佐伯宿祢今毛人」に從五位下、柿本小玉(市守に併記)・高市連眞麻呂(大國に併記)に外從五位下を授けている。

十八日に五位の官人十人、散位二十人、六衛府の舎人それぞれ二十人を派遣して、八幡の神を「平群郡」に迎えさせている。この日、八幡大神は京に入っている。そこで宮の南の「梨原宮」において新殿を造って神宮とし、僧十人を請い招いて、悔過の行を七日間行っている。

二十七日に八幡大神の禰宜尼の大神朝臣杜女<その輿は紫色であって、天皇と同じ>が東大寺に参拝している。(孝謙)天皇・(聖武)太上天皇・(光明子)皇太后も同じく行幸している。この日、百官及び諸氏の人達全てが寺に会集している。僧五千人を請い招いて礼仏・読経させ、大唐楽・渤海楽・呉楽と五節の田舞、久米舞を上演させている。その上で、「大神」に一品、比咩神に二品を奉っている。左大臣の橘宿祢諸兄は詔を承って、大神に以下のように申している(以下宣命体)。

・・・(聖武)天皇の御命として申し上げると申されるには、去る辰年(天平十二年)、河内國大縣郡の智識寺におられる廬舎那仏を拝み奉って、その時にすぐに朕も造立しようと思ったが、できないでいる間に、「豊前國宇佐郡」におられる「廣幡」の「八幡大神」(こちら参照。本稿末尾に補足)が仰られるには、[神である我は、天神と地祇を率い誘って、仏の造立を必ず成就させよう。それは格別のことがあるのではなく、銅の湯を水となし、我が身を草木土に交えて、無事に成就させよう]と仰せられたが、そうように成就したので、天皇は歓ばしく貴いことだとお思いなっている。そこで、このままで済ますことができず、恐れ多いことではあるが、御冠位を大神に献上しようということをかしこまりかしこまって申し上げると仰っている・・・。

尼杜女に從四位下、主神司の大神朝臣田麻呂(宅女・杜女に併記)には外従五位下を授けている。東大寺には封戸四千戸、奴を百人、婢を百人、施入している。また東大寺造営に参加した人には、功労に応じて位階を授けている。

<内藏伊美吉黒人-全成-若人>
● 内藏伊美吉黒人

内藏は、書紀の天武天皇紀に連姓を賜った内藏衣縫造に絡む地と思われる。續紀では文武天皇紀では衣縫造孔子が同じく連姓を授けられている。

後者の出自の場所は、「内藏」から少し離れた場所であり、今回の人物は、「衣縫」から少し外れた場所の故に「内藏」のみの表記だったと推測される。

背景的には上記のように思われるが、名前の黑人=[火]のような山稜が谷間に延びているところの出自を求めると、図に示した場所であることが解る。実に正確に地形を名前に反映させているのである。

「衣縫」は、持統天皇の万葉歌で読み解いた地形、即ち「春過而 夏來良之 白妙能 衣乾有 天之香來山」に登場する”香來山”の東南麓及び西南麓の地形を示す”衣乾有”の表記に関わる場所である。また、連姓から伊美吉(忌寸)姓へと変わったのであろう。

後(淳仁天皇紀)に内藏忌寸全成が迎藤原河清使(在唐の藤原朝臣清河大使を迎える使節団の判官)として登場する。既出の文字列である全成=谷間にすっぽりと収まっている玉のような地(全)の麓にある平らに突き固められた(成)ところと解釈した。その地形を図に示した場所に見出せる。尚、「全成」の登場の直前に「伊美吉」の表記を廃し「忌寸」に統一したと記載されている。

更に後に内藏忌寸若人が外従五位下を叙爵されて登場する。若=細かく枝分かれした山稜が延びている様と解釈したが、「黑人」の北側に、その地形を見出せる。彼等は間違いなく血族関係にあったと思われるが、詳細は伝わっていないようである。

<佐伯宿祢今毛人-三野>
● 佐伯宿祢今毛人

「今毛人」の出自を調べると、人足の子と知られているようである。佐伯宿祢一族の中では、系譜がしっかり残っている系列である。

と言っても、「人足」の出自場所が崖下の地形であり、子供等が何方の地に散らばったのか、些か戸惑うところではあるが、全くの危惧であった。

図に示した場所が今毛人の出自と推定される。頻出の毛人=鱗のような地が谷間にあるところであり、父親の白川を挟んだ対岸に遷ったことが解る。今來などで用いられた今=亼+一=蓋をするように覆い被さる様と解釈したが、正に谷間の底で山稜の端が広がり延びている地形である。毛人との差別化でもあろう。

「今毛人」は、多くの事績を残された人物であり、東大寺長官、大宰帥などの要職を経て最終正三位・参議を務めたと伝えられている。後(淳仁天皇紀)に息子の佐伯宿祢三野(別名美濃)が従五位上を叙爵されて登場する。父親の北側に位置する場所を表している名前と思われる。それにしても、「佐伯」の谷間から全く途絶えることなく人材輩出の様相である。

<梨原宮>
梨原宮

八幡大神が入京して鎮座された場所と記載されている。全くの不詳の地のようであり、その後に遷された場所について語り継がれているのみである。

既出の文字列である梨原=山稜の端が切り分けられて平らな台地になっているところと解釈される。その地形が図に示した場所に見出せる。

前出の縣女王の出自と推定した場所が含まれる磯城縣の北端に当たる地である。廬舎那仏の守護神とし、僧侶に悔過行を行わせるという、正に日本固有の神仏混淆の様相を記述している。真に貴重な記述であろう。

ところで、八幡大神の入京に際して、大勢の官人に平群郡で迎えさせたと記載している。手厚い出迎えを行ったのであるが、それに適した場所なのであろうか?…「大神」の行程を推測してみよう。

<宇佐から梨原へ>

図に「宇佐」から「梨原」への予想行程を示した。『廣嗣の乱』で登場した鞍手道を経て、犀川(今川)を渡り、峠(現立石峠)を抜けると彦山川の川辺に出る。川沿いに進めば「平群郡」に到着する行程である。そこからは少々道が入組んで「師木」の山稜の合間を縫って進み、現在の金辺川を渡ると、「梨原」の麓に辿り着ける。

正に「平群郡」は出迎えるに相応しい場所であることが解る。通説の「平群郡」は、信貴生駒山脈の東側であり、これでは来賓を迎えるのではなく、山蔭から急襲する場所である。大分県宇佐からお越しなるなら、出迎えるのは、難波しかあり得ないであろう。

ところで、十一月記の末尾に「己酉。八幡大神託宣向京。甲寅。遣參議從四位上石川朝臣年足。侍從從五位下藤原朝臣魚名等。以爲迎神使。路次諸國差發兵士一百人以上。前後駈除。又所歴之國。禁斷殺生。其從人供給不用酒宍。道路清掃。不令汚穢」と記載されている。日付からして、後に付け足した様子がありありと伺えるような記述である。即ち、「八幡大神」は、十一月十九日に宇佐を発って、十二月十八日に入京したことになる。

「宇佐」から「梨原宮」に一ヶ月要したわけで、なるほど!…と思わせるのであるが、勿論、辻褄合わせの記述であろう。上図に示したように宇佐・梨原間は、およそ現在の道路を用いて24km、二日以内の行程と思われる。あまりの違いに改竄せざるを得なかった。がしかし、付け足しの様子を滲ませて、編者の矜持を保ったのではなかろうか。

いやぁ~、何とも長い天皇紀であった。がしかし、得られた情報は計り知れないものがあるように感じられる。

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<八幡大神・比咩神>
八幡大神・比咩神

既に鎮座の場所については、現在の京都郡みやこ町犀川上高屋と推定したが、名称が示す地形との関わりを、改めて述べてみよう。

頻出の文字列である八幡=二つに岐れた旗がなびくような山稜が延びているところと解釈される。図に示した場所の地形を表していることが解る。

比咩神は既に読み解いた通り、比咩=谷間の出口がくっ付いて並んでいるところであり、図に示した場所と推定される。

「八幡」は、續紀で初めて用いられた文字列であり、記紀では登場しない。「託宣」を行って政治に深く関わった特異な存在として伝えられている。”神”か”仏”か、どちらを頼るのか?…揺れ動いた時代を象徴しているのであろう。

古事記の品陀和氣命(応神天皇)紀に新羅王子の天之日矛が渡来したと伝えている。紆余曲折があって多遲摩國に住まい、多くの子孫を残している。息長帶比賣(神功皇后)もその内の一人である(こちら参照)。また、彼が持参した八種の宝物は、伊豆志之八前大神として祭祀されていると記載されている。

豊前國(現地名京都郡みやこ町犀川上高屋)と多遲摩國(現地名築上郡築上町の西部)は隣接する配置と推定した。「八前大神」との直接的な関連はなくとも、「八幡大神」は、新羅からの渡来に関わる神だったのではなかろうか。

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『續日本紀』巻十七巻尾