2022年12月29日木曜日

廢帝:淳仁天皇(15) 〔619〕

廢帝:淳仁天皇(15)


天平字七年(西暦763年)二月の記事からである。原文(青字)はこちらのサイトから入手、訓読続日本紀(今泉忠義著)、続日本紀3(直木考次郎他著)を参照。

二月丁丑。太師藤原惠美朝臣押勝設宴於高麗客。詔遣使賜以雜色袷衣卅櫃。癸未。新羅國遣級飡金體信已下二百十一人朝貢。遣左少弁從五位下大原眞人今城。讃岐介外從五位下池原公禾守等。問以約束貞卷之旨。體信言曰。承國王之教。唯調是貢。至于餘事非敢所知。於是。今城告曰。乾政官處分。此行使人者喚入京都。如常可遇。而使等約束貞卷之旨。曾无所申。仍稱。但齎常貢入朝。自外非所知者。是乃爲使之人非所宜言。自今以後。非王子者。令執政大夫等入朝。宜以此状告汝國王知。癸巳。高麗使王新福等歸蕃。壬寅。出羽國飢。賑給之。

二月四日に大師の藤原惠美朝臣押勝が高麗(渤海)の使客のために饗宴を催している。詔されて使を遣わし、さまざまな色の袷衣三十櫃を賜っている。十日に新羅國が級飡の金体信以下二百十一人を遣わして朝貢して来ている。朝廷は左少弁の大原眞人今城(今木)、讃岐介の池原公禾守等を遣わして、金貞巻に約束した趣旨を尋ねさせている。「体信」は[國王の命令を承って、ただ調を貢上するに過ぎない。それ以外のことは全く存じない]と答えている。

そこで「今城」が以下のように告げている・・・乾政(太政)官は、[今回の新羅の使人は京都(平城京)に喚し入れて、常の通りに待遇しよう。しかし使人等は「貞巻」に約束した旨について、全く申し及ぶことなく、ただ恒例の貢物を携えて朝廷に参上したのみで、それ以外のことは知らないと言うばかりである。これは使者を命じられた人の言うべきことではない。今後は王子でなければ、政治を執り行っている高官等を入朝させよう]と処分した。この趣を汝の國王に告げ知らせるように・・・。

二十日に高麗使の王新福等が帰っている。二十九日に出羽國で飢饉があり、物を恵み与えている。

三月丁夘。令天下諸國進不動倉鈎匙。以國司交替因茲多煩也。其隨事修造。及似欲濕損。臨時請受。

三月二十四日に天下の諸國に命じて、不動倉(非常時用の穀物倉)の鉤匙を進上させている。國司の交代が頻繁で、鉤匙の引継ぎに煩いが多いためである。國司が随時に修造したり、また湿気による損害がおきていそうな場合は、臨時に請求して鉤匙を受け取るようにさせている。

夏四月甲戌朔。信濃國飢。賑給之。」京師米貴。糶左右京穀。以平穀價。癸未。壹岐嶋疫。賑給之。丙戌。陸奥國飢。賑給之。丁亥。以從五位下石上朝臣奥繼爲少納言。從五位下池田朝臣足繼爲左少弁。從五位上石川朝臣人成爲信部大輔。從五位上布勢朝臣人主爲文部大輔。從五位下榎井朝臣小祖父爲仁部少輔。從五位上阿倍朝臣御縣爲武部大輔。從五位下當麻眞人高庭爲鼓吹正。從五位下藤原朝臣濱足爲節部大輔。從五位下藤原朝臣雄田麻呂爲智部少輔。從五位下豊野眞人篠原爲大膳亮。左大弁從四位下中臣朝臣清麻呂爲兼攝津大夫。從五位下石川朝臣豊人爲造宮大輔。從五位下小野朝臣小贄爲少輔。正五位下市原王爲造東大寺長官。外從五位下山田連銀爲河内介。從五位下津連秋主爲尾張介。正五位下阿倍朝臣子嶋爲上総守。從五位下大原眞人今城爲上野守。參議從四位下藤原惠美朝臣久須麻呂爲兼丹波守。左右京尹如故。外從五位下村國連武志麻呂爲播磨介。從五位下菅生王爲阿波守。從五位下笠朝臣不破麻呂爲豊後守。外從五位下陽胡毘登玲珍爲日向守。

四月一日に信濃國で飢饉があり、物を恵み与えている。また、京都(平城京)の米価が騰貴している。左右京の米穀(常平倉?)を売り出して、米価を平均させている。十日に壹岐嶋で疫病が流行したので、物を恵み与えている。十三日に陸奥國で飢饉があり、物を恵み与えている。

十四日、石上朝臣奥繼(宅嗣に併記)を少納言、池田朝臣足繼を左少弁、石川朝臣人成を信部(中務)大輔、布勢朝臣人主(首名に併記)を文部(式部)大輔、榎井朝臣小祖父を仁部(民部)少輔、阿倍朝臣御縣を武部(兵部)大輔、當麻眞人高庭(子老に併記)を鼓吹正、藤原朝臣濱足を節部(大蔵)大輔、藤原朝臣雄田麻呂を智部(宮内)少輔、豊野眞人篠原(篠原王)を大膳亮、左大弁の中臣朝臣清麻呂(東人に併記)を兼務の攝津大夫、石川朝臣豊人を造宮大輔、小野朝臣小贄を少輔、市原王(阿紀王に併記)を造東大寺長官、山田連銀(古麻呂に併記)を河内介、津連秋主(津史)を尾張介、阿倍朝臣子嶋(駿河に併記)を上総守、大原眞人今城(今木)を上野守、參議の藤原惠美朝臣久須麻呂(眞從に併記)を左右京尹はそのままで兼務の丹波守、村國連武志麻呂(虫麻呂。子虫に併記)を播磨介、菅生王を阿波守、笠朝臣不破麻呂を豊後守、陽胡毘登玲珍(陽侯史玲珎)を日向守に任じている。

五月戊申。大和上鑒眞物化。和上者楊州龍興寺之大徳也。博渉經論。尤精戒律。江淮之間獨爲化主。天寶二載。留學僧榮叡業行等白和上曰。佛法東流至於本國。雖有其教無人傳授。幸願。和上東遊興化。辞旨懇至。諮請不息。乃於楊州買船入海。而中途風漂。船被打破。和上一心念佛。人皆頼之免死。至於七載更復渡海。亦遭風浪漂着日南。時榮叡物故。和上悲泣失明。勝寳四年。本國使適聘于唐。業行乃説以宿心。遂与弟子廿四人。寄乘副使大伴宿祢古麻呂船歸朝。於東大寺安置供養。于時有勅。校正一切經論。往往誤字諸本皆同。莫之能正。和上諳誦多下雌黄。又以諸藥物令名眞僞。和上一一以鼻別之。一無錯失。聖武皇帝師之受戒焉。及皇太后不悆。所進醫藥有驗。授位大僧正。俄以綱務煩雜。改授大和上之号。施以備前國水田一百町。又施新田部親王之舊宅以爲戒院。今招提寺是也。和上預記終日。至期端坐。怡然遷化。時年七十有七。癸丑。伊賀國疫。賑給之。戊午。河内國飢。賑給之。己巳。義部卿從四位下安都王卒。庚午。奉幣帛于四畿内群神。其丹生河上神者加黒毛馬。旱也。

五月六日に大和上の鑑眞が亡くなっている。和上は唐の楊州龍興寺の高僧であった。博く経典やその注釈を読破し、特に戒律に精通しており、長江と淮水の間において、ただ一人指導者と見做されていた。唐の天寶二歳(天平十五年、743年)に留学僧の栄叡・業行(普照)等は和上に以下のように申し上げた・・・仏法は東に広がって我が國に伝わった。しかし、その教えは存在するが、伝授する人がいない。できることならば、和上に東方の國へおいで頂き、教化を盛んにして下るよう、お願いする・・・と言葉が丁寧で請願して怠まなかった。

この熱意に打たれた鑑眞は楊州で船を買入れ、そこから海に乗り出した。しかし、途中で風のため漂流し、船は打ち破られた。和上は一心に仏を念じ、人々はみなこれに頼って死を免れた。天寶七歳(天平二十年、748年)に至り、再び渡海を試みたが、また風に遭って日南(ベトナム北部、海南島とも)に漂着した。この時栄叡が死去し、和上は泣き悲しんで失明した。天平勝寶四(752)年に、我が使節がたまたま唐に赴いた時、業行は宿願を打ち明けた。こうして鑑眞は遂に弟子二十四人と共に、遣唐副使の大伴宿祢古麻呂(三中に併記)の船(遣唐使船の第二船)に便乗し、帰化した。朝廷は鑑眞を東大寺に安置して供養させた。

この時、勅を下されて、一切の経典と注釈を校正させていたが、しばしば誤字があり、諸写本がみな同じであるため、訂正することができないでいた。和上はそれらを暗誦していて多くの字句を改め正した。また、さまざまな薬物について、真偽を定めさせたが、和上は一つ一つ鼻で嗅いで区別し、一つとして誤らなかった。聖武皇帝はこの人を師として受戒した。光明皇太后が不悆(病気)になった時も和上の進上した医薬が効験があった。

大僧正の位を授けたが、にわかに僧綱としての庶務が煩雑になったため、改めて大和上の称号を授け、備前國の水田一百町を施入し、また新田部親王の旧宅を施入して、これを戒院とした。今の「招提寺」(唐招提寺)がこれである。和上はあらかじめ自己の没日を悟っていて、死期が迫ると端座して、やすらかに逝去した。ときに年は七十七歳であった。

十一日に伊賀國で疫病が流行し、物を恵み与えている。十六日に河内國で飢饉があり、物を恵み与えている。二十七日に義部(刑部)卿の安都王(阿刀王。大市王に併記)が亡くなっている。二十八日に幣帛を畿内四ヶ國の群神に奉っている。そのうち「丹生河上神」には黒毛の馬を加えて奉っている。日照りのためである。

<招提寺>
招提寺

所謂、唐招提寺として伝わっている寺である。奈良大和にあって世界遺産にも登録されているようである。勿論、續紀が記す「招提寺」の地ではない。それにしても、そっくりそのまま移転したのだから、大変なエネルギーを費やしたのであろう。

孝謙天皇紀に「以備前國墾田一百町。永施東大寺唐禪院十方衆僧供養料」と記載されていた。この”唐禪院”を移して新田部親王の旧宅を改修したと述べている。

「招提」の意味は「四方から僧たちの集まり住する所」とのことであり、”十方衆僧”の表現と合致していることが分かる。「招提」の文字列は、地形象形表記に用いられている文字要素から成っていることは一目瞭然であろう。

招提=匙の形の山稜の前で腕を曲げたように延びているところと解釈される。図に示した通り金鍾寺(東大寺)の北側に当たる場所である。関連する資料が幾つか現存しているようで、そこに記載されている筈の地名・人名も地形象形表記として解読してみたく思うが、後日としよう。

<芳野水分峯神>
丹生河上神

文武天皇即位二(698)年四月に「奉馬于芳野水分峯神。祈雨也」と記載されていた。持統天皇紀に引き続いて頻繁に日照りが生じていた時期であった。

四畿内の名山などで雨乞いを繰り返した後に「芳野水分峰神」に馬を奉納すると、その後は雨乞いの記述が途切れている。おそらく、その場所と馬の奉納に効験があったとみなされたのであろう。

その場所を現地名の北九州市小倉南区平尾台の北辺と推定した。四方台と呼ばれ、正に”水分”に適した地形を示している。

今回の日照りに対しても、特に黒毛の馬を奉納しているが、故事に習ったものであろう。再掲した図を参照すると、四方台の西側(物部一族の居処)で丹生=谷間の隙間から生え出た山稜が延びているところの隙間を流れる川を丹生河と呼び、河上に位置する場所(四方台)を表したのではなかろうか。

六月戊寅。尾張國飢。賑給之。丙戌。越前國飢。賑給之。壬辰。能登國飢。賑給之。丙申。大和國飢。賑給之。戊戌。美濃國飢。攝津。山背二國疫。並賑給之。 

六月七日に尾張國で飢饉があり、物を恵み与えている。十五日に越前國で飢饉があり、物を恵み与えている。二十一日に能登國で飢饉があり、物を恵み与えている。二十五日に大和國で飢饉があり、物を恵み与えている。二十七日に美濃國で飢饉があり、攝津・山背の二國で疫病が流行している。それぞれ物を恵み与えている。

秋七月乙夘。以從五位下大伴宿祢田麻呂爲參河守。從五位上高元度爲左平凖令。從五位上藤原朝臣田麻呂爲陸奥出羽按察使。外從五位下高松連笠麻呂爲日向守。從五位下忌部宿祢呰麻呂爲齋宮頭。丁夘。備前。阿波二國飢。並賑給之。

七月十四日、大伴宿祢田麻呂(諸刀自に併記)を參河守、高元度を左平凖令(常平倉の長官)、藤原朝臣田麻呂(廣嗣に併記)を陸奥出羽按察使、高松連笠麻呂を日向守、忌部宿祢呰麻呂を齋宮頭に任じている。二十六日に備前・阿波の二國に飢饉があり、物を恵み与えている。

八月辛未朔。勅曰。如聞。去歳霖雨。今年亢旱。五穀不熟。米價踊貴。由是百姓稍苦飢饉。加以疾疫。死亡數多。朕毎念茲。情深傷惻。宜免左右京。五畿内。七道諸國今年田租。壬申。近江。備中。備後三國飢。並賑給之。壬午。初遣高麗國船。名曰能登。歸朝之日。風波暴急。漂蕩海中。祈曰。幸頼船靈。平安到國。必請朝庭。酬以錦冠。至是縁於宿祷。授從五位下。其冠製錦表絁裏。以紫組爲纓。甲申。丹波。伊豫二國飢。並賑給之。戊子。山陽。南海等道諸國旱。停兩道節度使。」廢儀鳳暦始用大衍暦。」丹後國飢。賑給之。己丑。糺政臺尹三品池田親王上表曰。臣男女五人。其母出自凶族。臣惡其逆黨不預王籍。然今日月稍邁。聖澤頻流。當是時也。不爲處置。恐聖化之内。有失所之民。伏乞。賜姓御長眞人。永爲海内一族。詔許之。癸巳。遣使覆損於阿波。讃岐兩國。便即賑給飢民。甲午。新羅人中衛少初位下新良木舍姓前麻呂等六人賜姓清住造。漢人伯徳廣道姓雲梯連。

八月一日に次のように勅されている・・・聞くところによると、去年は長雨が降り、今年は日照りが続き、五穀が稔らず、米価が騰貴したという。これにより人民は既に飢饉に苦しんでいる。それだけでなく、疫病が流行して、死亡者が数多いという。朕はこれを念うたびに心中深く悲しみ憐れに思う。左右京・五畿内・七道諸國の今年の田租を免除するようにせよ・・・。

二日、近江・備中・備後の三國で飢饉があり、物を恵み与えている。十二日に最初高麗(渤海)國に遣わす船を名付けて能登と言った。帰りの日に風波が荒れ狂い海中を漂った。船上の人々は、神に祈って[幸いに船の霊力のおかげで、無地帰り着いたならば、必ず朝廷に申請して、錦の冠を戴き、船に酬いたいと思う]と言った。無事に帰り、この日になって予ねてからの祈りにより、船に従五位下が授けられている。その冠のつくりは表を錦、裏を絁でこしらえ、紫の組紐を冠の紐としたものである。

十四日に丹波・伊与の二國で飢饉があり、それぞれ物を恵み与えている。十八日に山陽道・南海道などの諸國で日照りがあり、このため両道の節度使を停止している。また儀鳳暦を廃止して、初めて大衍暦を使用している。この日、丹後國で飢饉があり、物を恵み与えている。

十九日に糺政(弾正)臺尹の池田親王が以下のように上表している・・・臣の息子と娘五人の母親は凶族(橘奈良麻呂の一族)の出身である。臣はその逆党であることを憎み、彼等を王籍から削除した。しかし今や、月日も漸く過ぎ去り、天子の恩沢が広く行き渡っている。恐らくは天子の徳化のなかにあって、所属(戸籍)のない民が出て来ることになる。彼等に「御長眞人」(池田親王周辺:舎人親王の山稜の中心にあることに由来する)の姓を賜り、永く海內(日本)の一族に加えて下さるよう、伏してお願いする・・・。詔を下してこれを許している。

二十三日に使者を遣わして、阿波・讃岐両國の飢饉の損害を詳しく調査させ、すぐに物を恵み与えている。二十四日に新羅人で中衛の「新良木姓前麻呂」ら六人に「清住造」の氏姓(こちら参照、縣麻呂に併記)を、また漢人の「伯徳廣道」には「雲梯連」の氏姓(こちら参照、廣足に併記)を賜わっている。

九月庚子朔。勅曰。疫死多數。水旱不時。神火屡至。徒損官物。此者。國郡司等不恭於國神之咎也。又一旬亢旱。致無水苦。數日霖雨。抱流亡嗟。此者國郡司等使民失時。不修堤堰之過也。自今以後。若有此色。自目已上宜悉遷替。不須久居勞擾百姓。更簡良材速可登用。遂使拙者歸田。賢者在官。各修其職務無民憂。癸夘。遣使於山階寺。宣詔曰。少僧都慈訓法師。行政乖理。不堪爲綱。宜停其任。依衆所議。以道鏡法師爲少僧都。甲寅。以從五位下奈紀王爲石見守。從五位下采女朝臣淨庭爲豊後守。庚申。尾張。美濃。但馬。伯耆。出雲。石見等六國年穀不稔。並遣使覆損。」河内國丹比郡人尋來津公關麻呂坐殺母。配出羽國小勝柵戸。丙寅。授從五位上山村王正五位下。從四位下池上女王正四位下。

九月一日に次のように勅されている・・・疫病の死者が多数にのぼり、洪水と日照りが思いがけない時に起こっている。また、神火がしばしば発生し、無益に官物を損耗している。これは國司・郡司が國神に恭しく仕えていないための天罰である。また十日も日照りが続いて、水のない苦しみを味わったかと思うと、数日にわたって長雨が降り、土地を失って流亡の嘆きを抱く者もいる。これは國司・郡司が民を使役する時期が適当でなく、堤と堰を修造しなかったための過失である。

今より以後は、もしこのような類のことがあれば、目以上を悉く交替させよ。いつまでも任地に留まって、百姓たちを労れ煩わせるべきではない。更に良い人材を選んで早く登用するようにせよ。こうして拙い者は故郷に帰らせ、賢い者を官人に取り立てよ。各人がその職務に励んで、民の憂いをなくすように・・・。

四日に使者を山階寺(興福寺)に遣わして、次のような詔を宣べさせている・・・少僧綱の慈訓法師は僧綱の政務を行う際に、道理に合わないことをしており、僧綱となるに相応しい人ではない。よろしくその任務を停止し、衆僧の意見によって、「道鏡法師」を少僧綱に任命するようにせよ・・・。

十五日に奈紀王(奈貴王。石津王に併記)を石見守、采女朝臣淨庭を豊後守に任じている。二十一日に尾張・美濃・伯耆・出雲・石見など六國において、今年の穀物が稔らなかった。それぞれに使を遣わして損害をくわしく調査させている。また、河内國丹比郡の人、「尋来津公關麻呂」が母親を殺す罪を犯して、出羽國小勝の柵戸に配属されている。二十七日に山村王に正五位下、池上女王に正四位下を授けている。

<道鏡・弓削連櫛麻呂-淨人-秋麻呂>
● 道鏡

孝謙上皇(後に称徳天皇)の寵を受けて、とんでもない位に就くことになったと伝えられている。この後も歴史の表舞台で活躍されることになる。

唐突に登場されるが、素性を調べると、俗姓は弓削連であり、具体的な人名では弓削連元寶兒が書紀の持統天皇紀に記載されている。

彼等の居処は河内國若江郡、現地名では行橋市入覚と京都郡みやこ町勝山池田の境にある地域と推定した。

「道鏡」に含まれる「鏡」=「金+竟」=「山稜が出合う地で三角に尖っている山稜が延びている様」と読み解いた。「竟」=「坂合」を表す地形象形表記である。天武天皇紀に記載された鏡王などの例がある。纏めると道鏡=首の付け根のように窪んでいる傍らに山稜が出合う地で三角に尖っている山稜が延びているところと読み解ける。

父親が櫛麻呂と知られていて、その居処を図に示した。櫛=木+節=山稜が折れ曲がっている様と解釈される。親子の配置として申し分ないものであろう。少し後に弟の弓削連淨人が「弓削宿祢」姓、更に「弓削御淨朝臣」姓を賜ったと記載されている。淨人=谷間の水辺で両腕のような山稜に囲まれたところと解釈すると、図に示した場所が出自と推定される。

更に後に弓削御清朝臣秋麻呂が従五位下を叙爵されて登場する。「道鏡・淨人」の弟のような感じなのだが、系譜は定かではないとのことである。既出の秋=禾+火=稲穂のような山稜の端が[火]の形に延びている様と解釈した。その地形を、やや不鮮明だが、「道鏡」と「淨人」の間に見出せる。もしかしたら、道鏡の隠し子?…天国の梅原氏にお任せしよう。この後多くの弓削連(宿祢)の人物が登用されるが、楽しみに待つことにしよう。

<尋來津公關麻呂>
● 尋來津公關麻呂

「尋來津公」は記紀・續紀を通じて初見のようである。調べると関連する氏姓を持つ人物が存在していたことが分かったが、希少な一族だったのであろう。

河内國丹比郡を頼りにして、名前が示す地形を探索する。すると、正に絵にかいたようなそのものズバリの地形が見出せた。

既出の文字列である尋來津=左右の手のような山稜(尋)と広がり延びた山稜(來)が水辺で寄り集まっている(津)ところと読み解ける。御所ヶ岳の北麓、行橋市津積にある住吉池を取り囲む山稜の形を表していることが解る。

その近隣に古事記の大雀命(仁徳天皇)の宮、難波之高津宮があったと推定した場所である。「高津」の「高」は「高いところにある」ではなく、「皺が寄ったように山稜が並んでいる」と解釈した。それを「尋來」と表現しているのである。關麻呂は、その寄り集まった谷間の出入口を出自としていたのであろう。

犯罪人の名前を記載する。それは空白の地を埋めるため・・・どうやらそれが目的のような感じであろう。焼け落ちた宮の周辺に住まっていた人物であった。

冬十月癸酉。幸山背國授介外從五位下坂上忌寸老人外從五位上。從五位下稻蜂間連仲村女從五位上。乙亥。左兵衛正七位下板振鎌束至自渤海。以擲人於海。勘當下獄。八年之乱。獄囚充滿。因其居住移於近江。初王新福之歸本蕃也。駕船爛脆。送使判官平群虫麻呂等慮其不完。申官求留。於是。史生已上皆停其行。以修理船。使鎌束便爲船師。送新福等發遣。事畢歸日。我學生高内弓。其妻高氏。及男廣成。緑兒一人。乳母一人。并入唐學問僧戒融。優婆塞一人。轉自渤海相隨歸朝。海中遭風所向迷方。柁師水手爲波所沒。于時鎌束議曰。異方婦女今在船上。又此優婆塞異於衆人。一食數粒。經日不飢。風漂之災未必不由此也。乃使水手撮内弓妻并緑兒乳母優婆塞四人。擧而擲海。風勢猶猛。漂流十餘日。着隱岐國。丙戌。參議礼部卿從三位藤原朝臣弟貞薨。弟貞者平城朝左大臣正二位長屋王子也。天平元年長屋王有罪自盡。其男從四位下膳夫王。无位桑田王。葛木王。鈎取王亦皆自經。時安宿王。黄文王。山背王。并女教勝。復合從坐。以藤原太政大臣之女所生。特賜不死。勝寳八歳。安宿。黄文謀反。山背王陰上其變。高野天皇嘉之。賜姓藤原。名曰弟貞。乙未。淡路國飢。賑給之。丁酉。前監物主典從七位上高田毘登足人之祖父嘗任美濃國主稻。属壬申兵乱。以私馬奉皇駕申美濃尾張國。天武天皇嘉之。賜封戸傳于子。至是坐殺高田寺僧。下獄奪封。

十月四日に山背國に行幸され、坂上忌寸老人(犬養に併記)に外従五位上、稻蜂間連仲村女に従五位上を授けている。

六日に左兵衛の「板振鎌束」は渤海より帰る際に、人を海中に投げ込み、これにより取調べを受け断罪され、獄に下っている。その後天平字八年の乱(恵美押勝)で獄囚が充満したため、近江國に移住させている。最初渤海使の王新福が帰る時に、その乗船が腐って脆くなっていて、送使の判官の平群虫麻呂(人足に併記)等は壊れてしまうのを心配して、太政官に申して留まることを求めている。

そこで送使のうち史生以上はみな渡航を停止し、船を修理したうえで、「鎌束」をそのまま船師(船頭)に任じ、新福等を送って出発させている。渤海から帰る時に、留学生の「高內弓」とその妻の高氏及び息子の「廣成」・緑児一人・乳母一人、更に入唐学問僧の戒融と優婆塞一人が、それぞれ渤海を経由し、「鎌束」等に随行して帰ろうとしたが、船は海中で暴風に遭って方向を失い、舵取と水手も波にさらわれて沈んでしまっている。

この時「鎌束」は[異国の婦女が今この船に乗っている。またこの優婆塞は常人とは異なり、一食に米を数粒しか食べないのに、何日経っても飢えることがない]と主張し、水手に命じて「内弓」の妻と緑児・乳母・優婆塞の四人を捕まえてさしあげ、海中に投げこませている。その後も風の勢いはなお猛烈で、漂流すること十日余日の後に、隠岐國(現在の宗像市地島)に到着している。

十七日に参議で礼部(治部)卿の藤原朝臣弟貞(山背王)が亡くなっている。「弟貞」は平城朝(聖武天皇)の左大臣「長屋王」の子であった(こちら参照)。天平元(729)年に「長屋王」は罪を犯して自殺し、その息子の膳夫王・桑田王・葛木王・鉤取王等もまた皆自ら首を括って死んでいる。

この時安宿王・黃文王・山背王や娘の「教勝」もまた連座する筈であったが、藤原太政大臣(不比等)の娘(藤原長娥子)が生んだ子であったために、特に死を免じられていた。天平勝寶八(九?)歳に「安宿王」と「黃文王」が謀反を企てた時(橘奈良麻呂の変)、「山背王」は密かにこの変を上告し、高野(孝謙)天皇はこれを喜び、藤原姓を賜って、「弟貞」と名乗らせている。

二十六日に淡路國で飢饉があり、物を恵み与えている。二十八日に前の監物主典であった高田毘登足人の祖父(高田首新家)は、かつて美濃國の主稻に任ぜられ、壬申の兵乱にあたって私馬を天武天皇の乗用に奉り、天皇は美濃・尾張の両國に行幸され、これを褒めて封戸を賜り、子に伝えさせた。ここに至って「足人」は高田寺の僧を殺害する罪を犯し投獄され封戸を奪われている。

<板振鎌束>
● 板振鎌束

今から思えば何とも残酷な物語となるが、自然の猛威の前で人身御供を行うことしか術がなかった時代とは言え、罪に問われている。「板振」の氏名の登場は、この人物に限られていて、出自に関する情報は極めて限られているようである。

「板」を含む氏名については、板持連一族が河内國錦部郡に蔓延っていたと推定した(こちらこちら参照)。現在の行橋市下崎である。また、元正天皇紀に登場した板安忌寸犬養の出自を板持連の北側の谷間としたが、この地の地形を共通する「板」で表現したと推測した。

「振」=「手+辰」=「腕のような山稜が二枚貝が舌を出したように並んでいる様と解釈される。即ち板振=麓で腕のような山稜が延びて二枚貝が舌を出した形に並んでいるところと読み解ける。図に示した場所の地形を表していることが解る。鎌束=鎌のような山稜を束ねたところと読むと、”貝殻”が合わさったところを示していると思われる。鎌末の別名があったと知られているが、妥当な表記であろう。

<高内弓-廣成>
● 高内弓

「高」と名乗るのだから高麗系渡来人の系列と推測される。直近での記事で登場する迎入唐大使使を命じられた高元度の近隣を出自とする人物だったのではなかろうか。現地名は行橋市長井である。

内弓=谷間の入口に弓なりに曲がって延びる山稜があるところと解釈すると、図に示した、「元度」の西側に当たる場所が見出せる。

この留学生の名は、後に再登場されている・・・近年日本使内雄等。住渤海國。學問音聲。却返本國。今經十年。未報安否。由是。差大使壹萬福等。遣向日本國擬於朝參。稍經四年。未返本國。更差大使烏須弗等卌人。面奉詔旨。更無餘事。所附進物及表書。並在船内・・・。

内雄(内弓)は、渤海で”音聲=音楽”を勉強していたようで…楽器演奏らしい…優れた演奏者だったのかもしれない。先走りだが、渤海使への返答は上表文の内容が無礼と言うことで追い帰している。雄=鳥が羽を広げた様は、「弓」の形を含めた全体の山稜の姿を表していると思われる。

<敎勝>
● 教勝

上記にも詳細に記載されているように、「教勝」は安宿王・黃文王・山背王と共に藤原朝臣長娥子が母親であったことが知られている。名前は、多分、出家後であり、幼名は不詳のようである。

勿論、出自の場所の地形を表していることには変わりはない。「黃文王・山背王の周辺に求められるのではなかろうか。

教(敎)勝の敎=爻+子+攴=生え出た山稜が交差するように延びている様と解釈される。勝=朕+力=盛り上がっている様であり、その地形を「山背王」の東隣に見出すことができる。

少々余談ぽくなるが、「教」=「孝+攴」と分解される。「孝」=「耂(老)+子」から成る文字である。旧字体「敎」とは、全く異なる意味を表す文字なのである。漢字の本来の姿が見えなくなる簡略化・改変は、如何なものかと思うのだが・・・。

十二月己丑。攝津。播磨。備前三國飢。並賑給之。丁酉。礼部少輔從五位下中臣朝臣伊加麻呂。造東大寺判官正六位上葛井連根道。伊加麻呂男眞助三人坐飮酒言語渉時忌諱。伊加麻呂左遷大隅守。根道流於隱岐。眞助於土左。其告人酒波長歳授從八位下。任近江史生。中臣眞麻伎從七位下。但馬員外史生。

十二月二十一日に攝津・播磨・備前の三國で飢饉があり、物を恵み与えている。二十九日に礼部(治部)少輔の中臣朝臣伊加麻呂、造東大寺司判官の葛井連根道(惠文に併記)、「伊加麻呂」の息子の「眞助」等三人が酒を飲み、話が時の忌諱に触れたという罪で、「伊加麻呂」は大隅守に左遷され、「根道」は隠岐に、「眞助」は土左にそれぞれ流されている。密告した酒波長歳(人麻呂に併記)には従八位下を授け、近江史生に任じている。同じく密告した「中臣眞麻伎」には従七位下を授け、但馬員外史生に任じている。

<中臣眞麻伎>
● 中臣眞麻伎

「中臣」だから、ではなくて但馬國が出自の人物と思われる。上記の「酒波」と同様にその出自の地で官吏に登用されたのであろう。「中臣」の地形も決して稀有なものではないことも事実である。

先ずは名前の眞麻伎の地形を求めてみよう。表す地形は眞麻伎=擦り潰されたような平らな谷間が岐れている地が寄せ集められた窪んだところと読み解ける。

図に示した場所がその地形を示していると思われる。更に中臣の山稜が延びているが、何と”鎌”の形をしていることが解る。正に”本家中臣”の地形に類似する場所であろう。

古事記によると、新羅の王子である天之日矛の子孫が蔓延った地域であり、図に示したように多遲麻毛理・多遲摩比多訶など多くの人物の居処と推定した。「眞麻伎」は、彼等の末裔だったのではなかろうか。但馬國(多遲麻國)の内陸部へは古くから渡来があったが、登用する人材が出て来なかったようである。

● 中臣朝臣眞助 中臣朝臣伊加麻呂の息子と記載されている眞助=積み重なって盛り上げられた地(助)が寄り集った窪んだ(眞)ところは、父親の極近くに住まっていたのであろう。「伊加麻呂」の別名としても成り立つような名前である。と言うことで、図は省略することにした。

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『續日本紀』巻廿四巻尾




2022年12月22日木曜日

廢帝:淳仁天皇(14) 〔618〕

廢帝:淳仁天皇(14)


天平字七年(西暦763年)正月の記事である。原文(青字)はこちらのサイトから入手、訓読続日本紀(今泉忠義著)、続日本紀3(直木考次郎他著)を参照。

七年春正月甲辰朔。御大極殿受朝。文武百寮。及高麗蕃客。各依儀拜賀。事畢。授命婦正四位下氷上眞人陽侯正四位上。丙午。高麗使王新福貢方物。庚戌。帝御閤門。授高麗大使王新福正三位。副使李能本正四位上。判官楊懷珍正五位上。品官着緋達能信從五位下。餘各有差。賜國王及使傔人已上祿亦有差。宴五位已上及蕃客。奏唐樂於庭。賜客主五位已上祿各有差。壬子。授從五位下道守王從五位上。无位桑原王。田上王並從五位下。正五位上大和宿祢長岡從四位下。正五位下日下部宿祢子麻呂正五位上。從五位上阿倍朝臣毛人。多治比眞人土作並正五位下。從五位下阿倍朝臣御縣。布勢朝臣人主並從五位上。從六位上波多朝臣男足。正六位上當麻眞人吉嶋。從六位上中臣朝臣宅守。正六位上大伴宿祢小薩。笠朝臣不破麻呂。藤原朝臣繼繩。紀朝臣廣純。藤原朝臣藏下麻呂。藤原惠美朝臣執棹並從五位下。正六位上坂合部宿祢斐太麻呂。大友村主廣公。村國連子老。淨岡連廣嶋。贄土師連沙弥麻呂並外從五位下。无品不破内親王四品。從四位上圓方女王正四位上。從四位下秦女王從四位上。无位掃部女王從四位下。无位廣河女王。石上朝臣絲手。藤原朝臣乙刀自。藤原朝臣今兒。藤原朝臣人數。從六位下大野朝臣中千。縣犬養宿祢姉女。外從五位下稻蜂間連仲村女並從五位下。以從五位下大伴宿祢東人。藤原朝臣藏下麻呂。並爲少納言。外從五位下伊吉連益麻呂爲大外記。從四位下中臣朝臣濂麻呂爲左大弁。從五位上小野朝臣都久良爲左中弁。從五位下大原眞人今城爲左少弁。從五位上粟田朝臣人成爲右中弁。從五位下紀朝臣牛養爲右少弁。從五位下忌部宿祢鳥麻呂爲信部少輔。從五位下縣犬養宿祢沙弥麻呂爲大監物。從四位下上道朝臣正道爲中宮大夫。播磨守如故。從五位下小野朝臣小贄爲内藏助。從五位下伊刀王爲縫殿頭。從五位下陽胡毘登玲璆爲内匠助。從五位下文室眞人高嶋爲内礼正。從五位上石上朝臣宅嗣爲文部大輔。侍從如故。從五位上藤原朝臣綱麻呂爲礼部大輔。侍從如故。從五位下大藏忌寸麻呂爲玄蕃頭。從五位下豊國眞人秋篠爲雅樂頭。從五位上巨曾倍朝臣難破麻呂爲仁部大輔。從五位下阿倍朝臣繼人爲主税頭。從三位藤原朝臣永手爲武部卿。從五位下大伴宿祢小薩爲少輔。從五位下田口朝臣大万戸爲兵馬正。外從五位下村國連子老爲主船正。從五位下藤原朝臣楓麻呂爲大判事。外從五位下李忌寸元環爲織部正。出雲介如故。外從五位下廣田連小床爲木工助。從五位下奈紀王爲大炊頭。從五位下荻田王爲正親正。從五位下當麻眞人吉嶋爲主油正。從五位下豊野眞人尾張爲糺政弼。從五位上布勢朝臣人主爲右京亮。正五位下市原王爲攝津大夫。從四位下佐伯宿祢今毛人爲造東大寺長官。從五位上藤原朝臣宿奈麻呂爲造宮大輔。上野守如故。從五位下石川朝臣豊人爲少輔。從五位下石川朝臣豊麻呂爲鑄錢長官。正四位上坂上忌寸犬養爲大和守。從五位下阿倍朝臣息道爲介。正五位下阿倍朝臣毛人爲河内守。從五位下石川朝臣名足爲伊勢守。從五位下佐味朝臣宮守爲安房守。在唐大使仁部卿正四位下藤原朝臣濂河爲兼常陸守。從五位上佐伯宿祢美乃麻呂爲介。從五位上藤原朝臣田麻呂爲美濃守。正五位上日下部宿祢子麻呂爲上野守。從五位下百濟王三忠爲出羽守。從五位下高橋朝臣子老爲若狹守。從五位下石川朝臣弟人爲越後守。正四位下高麗朝臣福信爲但馬守。從五位下巨勢朝臣廣足爲介。從五位下大原眞人繼麻呂爲伯耆守。從五位下阿倍朝臣意宇麻呂爲出雲介。外從五位下上毛野公眞人爲美作介。從五位上甘南備眞人伊香爲備前守。從五位上道守王爲備中守。從五位下小野朝臣石根爲長門守。從三位百濟王敬福爲讃岐守。外從五位下池原公禾守爲介。從四位下和氣王爲伊与守。從五位上中臣丸連張弓爲介。從五位下紀朝臣廣純爲大宰員外少貳。從五位下中臣朝臣鷹主爲肥前守。從五位下笠朝臣不破麻呂爲日向守。戊午。詔曰。如聞。去天平寳字五年。五穀不登。飢斃者衆。宜其五年以前公私債負。貧窮不堪備償公物者。咸從原免。私物者除利收本。又役使造宮。左右京。五畿内及近江國兵士等。寳字六年田租並免之。庚申。帝御閤門。饗五位已上及蕃客。文武百官主典已上於朝堂。作唐吐羅。林邑。東國。隼人等樂。奏内教坊踏歌。客主主典已上次之。賜供奉踏歌百官人及高麗蕃客綿有差。」高麗大使王新福言。李家太上皇少帝並崩。廣平王攝政。年穀不登。人民相食。史家朝議。稱聖武皇帝。性有仁恕。人物多附。兵鋒甚強。無敢當者。鄧州襄陽已属史家。李家獨有蘇州。朝聘之路。固未易通。於是。勅大宰府曰。唐國荒亂。兩家爭雄。平殄未期。使命難通。其沈惟岳等。宜往往安置優厚供給。其時服者並以府庫物給。如懷土情深。猶願歸郷者。宜給駕船水手。量事發遣。甲子。内射。蕃客堪射者亦預於列。

正月一日に大極殿に出御されて朝賀を受けられている。文武の百官人及び高麗(渤海)の蕃客はそれぞれ儀式に則り拝賀を行っている。儀式の後、命婦の氷上眞人陽侯(陽胡女王。塩燒に併記)に正四位上を授けている。三日に高麗の使の王新福が、その土地の産物を貢上している。

七日に閤門(大極殿の門)に出御されて、高麗大使の王新福に正三位、副使の李能本に正四位上、判官の楊懐珍に正五位上、品官・着緋の達能信に従五位下、それ以外の人々にはそれぞれ位を授けている。また、渤海の國王や使節の従者以上の人々にも、それぞれ禄を賜っている。その後五位以上の官人と蕃客に饗宴を催し、朝庭において唐楽を演奏している。客側も主人側も五位以上の人々にそれぞれ禄を賜っている。

九日に道守王に從五位上、「桑原王・田上王」に從五位下、大和宿祢長岡(大倭忌寸小東人)に從四位下、日下部宿祢子麻呂(大麻呂に併記)に正五位上、阿倍朝臣毛人(粳虫に併記)多治比眞人土作(家主に併記)に正五位下、阿倍朝臣御縣布勢朝臣人主(首名に併記)に從五位上、「波多朝臣男足」・當麻眞人吉嶋(多玖比礼に併記)・中臣朝臣宅守・「大伴宿祢小薩・笠朝臣不破麻呂」・藤原朝臣繼繩(繩麻呂に併記)・紀朝臣廣純藤原朝臣藏下麻呂(廣嗣に併記)・「藤原惠美朝臣執棹」に從五位下、坂合部宿祢斐太麻呂(金綱に併記)・「大友村主廣公」・村國連子老(子虫に併記)・「淨岡連廣嶋・贄土師連沙弥麻呂」に外從五位下、不破内親王(安積親王に併記)に四品、圓方女王に正四位上、秦女王(春日女王に併記)に從四位上、掃部女王(石津王に併記)に從四位下、廣河女王(父親の上道王に併記)・「石上朝臣絲手・藤原朝臣乙刀自・藤原朝臣今兒・藤原朝臣人數」・大野朝臣中千(仲仟。廣立に併記)・縣犬養宿祢姉女(八重に併記)・稻蜂間連仲村女に從五位下を授けている。また大伴宿祢東人藤原朝臣藏下麻呂を少納言、伊吉連益麻呂を大外記、中臣朝臣濂麻呂(清麻呂。東人に併記)を左大弁、小野朝臣都久良(竹良。小贄に併記)を左中弁、大原眞人今城(今木)を左少弁、粟田朝臣人成(馬養に併記)を右中弁、紀朝臣牛養を右少弁、忌部宿祢鳥麻呂を信部少輔、縣犬養宿祢沙弥麻呂(佐美麻呂)を大監物、上道朝臣正道(斐太都)を播磨守のままで中宮大夫、小野朝臣小贄を内藏助、伊刀王(道守王に併記)を縫殿頭、陽胡毘登玲璆(陽侯史)を内匠助、文室眞人高嶋(高嶋王)を内礼正、石上朝臣宅嗣を侍從のままで文部大輔、藤原朝臣綱麻呂(繩麻呂)を侍從のままで礼部大輔、大藏忌寸麻呂を玄蕃頭、豊國眞人秋篠(秋篠王)を雅樂頭、巨曾倍朝臣難破麻呂(陽麻呂に併記)を仁部大輔、阿倍朝臣繼人を主税頭、藤原朝臣永手を武部卿、「大伴宿祢小薩」を少輔、田口朝臣大万戸(大戸)を兵馬正、村國連子老を主船正、藤原朝臣楓麻呂(千尋に併記)を大判事、李忌寸元環を出雲介のままで織部正、廣田連小床(辛小床)を木工助、奈紀王(奈貴王、奈癸王。石津王に併記)を大炊頭、荻田王を正親正、當麻眞人吉嶋を主油正、豊野眞人尾張(尾張王)を糺政弼、布勢朝臣人主(首名に併記)を右京亮、市原王(阿紀王に併記)を攝津大夫、佐伯宿祢今毛人を造東大寺長官、藤原朝臣宿奈麻呂(良繼)を上野守のままで造宮大輔、石川朝臣豊人を少輔、石川朝臣豊麻呂(君成に併記)を鑄錢長官、坂上忌寸犬養を大和守、阿倍朝臣息道を介、阿倍朝臣毛人(粳虫に併記)を河内守、石川朝臣名足を伊勢守、佐味朝臣宮守を安房守、在唐大使で仁部卿の藤原朝臣濂河(清河)を兼務で常陸守、佐伯宿祢美乃麻呂(美濃麻呂)を介、藤原朝臣田麻呂(廣嗣に併記)を美濃守、日下部宿祢子麻呂(大麻呂に併記)を上野守(下野守?)、百濟王三忠(①-)を出羽守、高橋朝臣子老(國足に併記)を若狹守、石川朝臣弟人を越後守、高麗朝臣福信を但馬守、巨勢朝臣廣足(淨成に併記)を介、大原眞人繼麻呂(今木に併記)を伯耆守、阿倍朝臣意宇麻呂(綱麻呂に併記)を出雲介、上毛野公眞人を美作介、甘南備眞人伊香(伊香王)を備前守、道守王を備中守、小野朝臣石根を長門守、百濟王敬福(①-)を讃岐守、「池原公禾守」を介、和氣王を伊与守、中臣丸連張弓を介、紀朝臣廣純を大宰員外少貳、中臣朝臣鷹主(伊加麻呂に併記)を肥前守、「笠朝臣不破麻呂」を日向守に任じている。

十五日に次のように詔されている・・・聞くところによると、去る天平字五(761)年は五穀が稔らず、飢え死にする者が多かったという。これを救うため五年以上前に公私の出挙の負債について、公のも物を偏在できない貧窮者には元利とも全免し、私出挙については利息を免除して、元本のみを回収するようにせよ。また、平城宮改作と保良宮の造営工事に使役される左右京・畿内の五ヶ國及び近江國の兵士等は、天平字六(762)年の田租をそれぞれ免除せよ・・・。

十七日に閤門に出御されて、五位以上の官人と蕃客、及び文武百官の主典以上の人々を饗応している。唐・吐羅(済州島など諸説あり)・林邑(ベトナム南部)・東國・隼人などの楽を演じ、内救坊(踏歌の教習所)の踏歌を奏でさせ、官人と客人の主典以上の者がつづいて踏歌を行っている。それに供奉した百官人と蕃客に、それぞれ真綿を賜っている。

この日、高麗大使の王新福が以下のように言上している・・・李家(唐王朝)の太上皇(玄宗)と少帝(肅宗)が二人とも崩御した。その後廣平王(代宗)が政治を執っているが、穀物が稔らず、人民は共食いの有様である。史家の朝儀(史思明の子)は聖武(大燕?)皇帝と称し、憐れみ深く思いやりがあり、多くの人物が心を寄せている。朝儀の軍隊の勢いは大変強く、敢えて敵対する者がない。鄧州(河南省南陽)や襄陽(湖北省襄陽)は既に史家に属し、唐の王室の李家はただ蘇州(長江河口南側)のみを保っている。このため朝貢の路が今では極めて通じにくくなっている・・・。

これを受けて大宰府に次のように勅されている・・・唐國では乱が起こり、李家と史家の両家が雄を競って争い、平穏になるのは期待できず、使節を通じることが難しい。このため沈惟岳(戸淨道に併記)等は暫く大宰府に安置し、特に手厚く物を支給せよ。唐客等の季節ごとの服装はいずれも大宰府庫の物を支給せよ。もし故國を懐かしむ情が深く、それでも帰郷を願い出る者がいれば、乗用の船と水手とを支給し、事を見計らって出発させよ・・・。

二十一日に内射を行っている。蕃客のなかで射に堪能な者には射手に参加させている。

<桑原王>
● 桑原王

桑内王桑田王は既に登場していたが、「桑原王」は記紀・續紀を通じて初見である。「桑原」の文字列そのものは、幾度か記載されていた。例えば古い所では、天武天皇紀の桑原連人足などが挙げられる。

勿論、桑=叒+木=山稜の端が細かく岐れて延びている様の地形を表していると思われる。調べると施基皇子(志貴皇子)の孫、何故か父親は”闕名”のようである。

いずれにせよ越前國江沼郡、現地名の北九州市門司区伊川の谷間を探索すると、それらしき地形を見出すことができる。「春日王」の南側に当たる場所である。伯父(叔父?)の白壁王の即位(光仁天皇)に伴って、他の従弟等と共に従四位下されることになる。

<田上王>
● 田上王

上記の「桑原王」と同様に無位からの初見で従五位下を叙爵されていることから、三世王であったことには違いがないであろう。

「田上」の文字列は、実に平凡な名称なのだが未出である。更にそれが表す地形も至る所に存在するものであろう。一に特定する上で、最も手の掛かる名前の持ち主なのである。

そんな背景で、穂積皇子系列として探索することにし、中でも坂合部王の子孫に関する情報は皆無であることから、その周辺の地に注目してみよう。

田上王の田上=田の上にあるところと読むと、図に示した場所の麓で平らに広がった様子が伺える。山稜の端が大きく延びた地形であり、その高台が出自と推定される。

<波多朝臣男足>
兎も角も特定するには情報が不足していることから、一つの候補地としておこう。この後幾度か登場されて正五位下にまで昇進されたようである。

● 波多朝臣男足

「波多朝臣」一族としては、久々の登場であろう。「波多眞人」一族とは近隣に住まうが、明確に線引きされていた(こちら参照)。

現地名では北九州市門司区大里東であり、前出の佐利翼津の背後の高台地に蔓延った一族と推定した。勿論、續紀が詳細に語ることはあり得ない。

既出の文字列である男足=男の形の山稜が足のように延びているところと読む解くと、その高台と谷間を挟んだ場所、現在の矢筈山の南西麓に当たるところと推定される。今回の叙爵以後には登場されないようである。

<大伴宿禰小薩-淨麻呂>
● 大伴宿祢小薩

「大伴宿祢」一族は途切れることがないようで、直近でも二名が登場していた(諸刀自・田麻呂)。勿論、当初の狭い谷間からはみ出た様相である。

同じようにはみ出るのだが、美濃麻呂等が広がった地域、現在は山口ダムとなって、大半が湖底に沈んだ場所があった。今回の人物名の小薩=端が三角に尖った山稜が並んで延び出ているところと読み解ける。

その地形を国土地理院航空写真1961~9年で確認することができる。「美濃麻呂」の東側、「百世」(美濃麻呂・百世の詳細はこちら参照)の北側に当たる場所である。今までの「大伴宿祢」一族の中で最も東側の地を出自とする人物だったと思われる。

別名で古薩とも記載されている。上図からも分かるように、山稜の端を「小」または「古」と見做したのであろう。暫く後に発生する謀反に加担したが、追討されて斬殺されたようである。

少し後に大伴宿祢淨麻呂が従五位下を叙爵されて登場する。その後の活躍は續紀では記載されないようである。淨=水+爪+ノ+又=水辺で両腕のような山稜が取り囲んでいる様と解釈すると図に示した場所が出自と思われる。

<笠朝臣不破麻呂-乙麻呂-比賣比止>
● 笠朝臣不破麻呂

「笠朝臣」一族からは、直近では眞足が従五位下を叙爵されて登場していた。断続的であるが、途絶えることなく続いている。但し、系譜の明確な人物は決して多くないようである。

調べると「不破麻呂」の父親は吉麻呂であったことが分かった。すると「諸石」の孫に当たる人物となる。

既出の文字列である不破=[不]の形に山稜が広がった麓に大きな段差があるところと解釈した。その地形を図に示した場所に見出せる。現在は溜池になっている地だが、当時にはなかったのではなかろうか。

弟に笠朝臣乙麻呂がいたことが知られている。「不破麻呂」の西側、山稜の端が「乙」字形に畝っている様に基づく名前と思われる。少し後に従五位下を叙爵されて登場する。父親の「吉麻呂」の居処は、些か曖昧であったが、息子等の登場で、その場所も明瞭になったようである。

後(称徳天皇紀)に妹の笠朝臣比賣比止が従五位下を叙爵されて登場する。名前が比賣比止と記載され、勿論、これは地形象形表記であろう。比賣比止=延び出た谷間が並んでいる先に両足を揃えて止まっているようなところと読み解ける。既に山稜の末端で標高差が少ない上に、些か地形変形が加わって判別し辛いが、図に示した辺りを表していると思われる。「止」を用いた名称は初見である。

<藤原惠美朝臣執棹>
● 藤原惠美朝臣執棹

藤原惠美朝臣押勝の九男と知られている。前出の兄等に併記できるが、少々図が複雑、それでなくとも現在の地形図では全く当時の面影はなくて判別が難しい状況である。

先ずは執棹の名前が表す地形を求めてみよう。「執」=「幸+丮」=「両手を差し出して手錠を掛けられている様」と解説されている。地形象形的には、「執」=「両腕のような山稜が延びて合わさった様」と解釈される。

「棹」=「木+卓」=「山稜が高く聳えている様」と読むと、纏めて執棹=高く聳える地を両手を延ばして抱えるように山稜が延びているところと読み解ける。図に示した場所の地形を表していることが解る。

何とか出自の場所を突き止められたのだが、余命は幾ばくもなかったようである。後に終焉の地である斬殺された場所が記載されるようである。

<大友村主廣公-廣道>
<清野造牛養(清野連)>
● 大友村主廣公

「大友」の氏名は、孝謙天皇紀に先祖が後漢人であって、高麗を経由して帰化した一族が分化して名乗った中に「大友史」等があったと記載されていた。「史」の使用を禁じられたために申し出があり、「直」姓を賜っている(こちら参照)。

彼等は大和國葛上郡・近江國神前郡などが居処であり、今回登場の大友村主もその地が出自かと思われたが、更に調べると、どうやら右京人だったように思われる。

ずっと後になるが、延暦六(787)年七月十七日に・・・右京人正六位上大友村主廣道。近江國野洲郡人正六位上大友民曰佐龍人。淺井郡人從六位上錦曰佐周興。蒲生郡人從八位上錦曰佐名吉。坂田郡人大初位下穴太村主眞廣等。並改本姓賜志賀忌寸・・・と記載されている。

各地に散らばっている一族を纏めて同一名(志賀忌寸)と改姓している。些か趣の異なる表記であるが、詳細は後日として、「右京人大友村主廣道」が冒頭に見える。この「廣道」も併せて出自の場所を求めてみよう。

大友=平らな頂の山稜が二つ並んで延びているところであり、廣公=谷間にある小高い地が広がっているところ廣道=首の付け根のような地が広がっているところと解釈すると、それぞれ申し分のない地形が見出せる。「大友」の山稜の端には、既にそれぞれ登場人物の居処と推定したが、その谷間の奥となる。

後(称徳天皇紀)に右京人清野造牛養が「清野連」姓を賜ったと記載される。清野=水辺で四角く囲まれた地が広がっているところ、頻出の牛養=牛の頭部のような谷間がなだらかに延びているところと解釈すると、図に示した場所が出自と推定される。「造」から「連」に昇格させた、のであろう。

<淨岡連廣嶋>
● 淨岡連廣嶋

「淨岡連」は初見、逸れもその筈で、調べると天智天皇紀に百濟滅亡時に亡命した鬼室福信一族に賜った氏姓であることが分かった。

その一人である「集信」の孫と伝わっている。尚、その出自場所を図に示していないが、「福信」の北隣辺りと思われる。

彼等を近江國蒲生郡に入植させたと記載されていたが、その後の消息は全く知り得ず、ここで初めてその地を出自とする人物が登場したことになる。残念ながら「蒲生」の山稜が広がり延びた地形は、団地とするのに極めて都合が良かったのであろう、現在は広大な二つの団地が並ぶ台地となっているようである。

挫けずに国土地理院航空写真1961~9年を引っ張り出して参照すると、当時の地形を伺うことが叶ったように思われる。淨岡連淨岡=水辺で両腕の形の山稜が取り囲んでいるような岡になっているところと解釈すると、現在の百合ヶ丘団地の場所を表していることが解る。廣嶋=山稜が広がった鳥の形をしているところであり、岡の中心辺りを示している。この後、幾度か登場されて、外位から内位へと昇進されたとのことである。

<贄土師連沙弥麻呂>
● 贄土師連沙弥麻呂

「贄土師連」に関する情報は極めて限られたもののようである。贄土師部として贄(神又は天皇に供する食べ物)の土器を制作する品部のように解説されているが、いずれにせよ土師連(宿祢)から分派した一族であろう。

それを根拠にして、「土師」一族の地の周辺が彼等の居処と推定して、現地名の北九州市門司区奥田辺りを探索する。

「贄」は既出の文字であり、贄=執+貝=執(幸+丮)+貝=両手を差し出したような山稜が谷間を抱え込んでいる様と解釈する。「執」は上記の藤原惠美朝臣執棹に用いられていた。

すると「土師宿祢」一族の大川を挟んだ対岸の山稜の地形にそれを見出すことができる。沙美麻呂に含まれる既出の沙弥(彌)=水辺で先が三角に尖って削り取られたようになっている傍らに弓なりに広がっているところと読み解ける。これらの地形要素を有する場所が出自と思われる。「贄土師連」としても、これっきりの登場であり、これ以上の情報を得ることは難しいようである。

<石上朝臣絲手>
● 石上朝臣絲手

「石上朝臣」一族は、それを賜った物部連麻呂の系列が続々と登場して来たが、この人物の系譜は伝わっていないようである。いずれにせよ「石上」=「磯の上」であって、極めて限られた地域である。

名前に含まれる「絲」=「糸+糸」であり、そのまま地形象形表記として解釈すると二つの山稜が並んでいる様を表わしていると思われる。

即ち絲手=二つの山稜が手のように延びているところと解釈される。更に「糸」には「小さい、微か、見えない」の意味を含む文字でもあり、山稜が判別されない状態を表していると思われる。図に示した場所の地形を「絲」で表記したのは、実に適切なものであろう。

上記本文の記載順列からすると女官だったと思われるが、その出自場所は豊庭の系列だったことを示しているようである。しかしながら、その系列については、全く伝えられておらず、「麻呂」とは対照的である。

<藤原朝臣乙刀自-今兒-人數-諸姉-宅美>
● 藤原朝臣乙刀自・藤原朝臣今兒・藤原朝臣人數

藤原惠美朝臣(南家)の女性たちに続いて、多くの女官して仕えた人物が記載されている。それにしても藤原一族からの登用は凄まじいばかりであろう。順次名前が示す地形の場所を求めてみよう。

乙刀自=乙の字形に延びる山稜の端に刀の地形があるところと解釈される。図に示した場所、鎌の先を「乙」で表記したと思われる。

次の今兒=覆い被さるように広がり延びた山稜の端に窪んだ地があるところと読み解ける。図では確認し辛いが、拡大すると凹になった形が見出せる。「袁比良女」と「永手」との間の場所と推定される。北家(房前)の系列と推測されるが、系譜は定かではないようである。

最後の人數(数)は、珍しい文字使いだが、「數」=「婁+攴」=「次々に連なり並んでいる様」と解釈される。すると人數=谷間が次々に連なり並んでいるところと読み解ける。一に特定するのが難しい表記なのだが、この女性は「良嗣」の娘と伝えられていることから、図に示した場所が出自と推定される。

後の称徳天皇紀に藤原朝臣諸姉、光仁天皇紀に藤原朝臣宅美が各々従五位下を叙爵されて登場する。「人數」と同じく「良嗣」の子と知られ、前者は後に「雄田麻呂」の室となり、後者は長男であったと知られている。

諸姉=交差するような耕地が谷間で寄り集まっているところ宅美=延び広がった山稜がある谷間が広がっているところと解釈されるが、やはり地図上の地形判別が難しく、父親の近接の地に住まっていたと推測するが、特定は困難のように思われる。

<池原公禾守>
● 池原公禾守

「池原公」は初見であり、調べると田邊史一族…後に上毛野公の氏姓を賜った…であったことが分かった。多分、「上毛野」が示す地形に合わない場所故に「池原」に改名されたのであろう。

禾守=稲穂のように山稜が延びた先に両肘を張ったような地があるところと読み解ける。図に示した場所の地形を表していることが解る。

池原公池=氵+也=水辺が曲がりくねっている様であるが、現在は池になっていて、当時の状況を把握することは叶わないようである。おそらく谷間を川が流れた野原に注いでいたのではなかろうか。

この後、幾度か問登場されて、内位に昇進されている。上記で関する情報を調べたと述べたが、通説は実に錯綜とした状況である。「田邊史」等と同祖であるが、そもそも「田邊史」が河内(和泉)國を居処していたこと、及び「上毛野朝臣」との関係が解明されていないことも併せて、混乱を極めているように思われる。