2021年8月30日月曜日

天璽國押開豐櫻彦天皇:聖武天皇(2) 〔539〕

天璽國押開豐櫻彦天皇:聖武天皇(2)


神龜元年(西暦724年)三月の記事からである。原文(青字)はこちらのサイトから入手、訓読続日本紀(今泉忠義著)、続日本紀1(直木考次郎他著)を参照。

三月庚申朔。天皇幸芳野宮。甲子。車駕還宮。辛巳。左大臣正二位長屋王等言。伏見二月四日勅。藤原夫人天下皆稱大夫人者。臣等謹検公式令。云皇太夫人。欲依勅号。應失皇字。欲須令文。恐作違勅。不知所定。伏聽進止。詔曰。宜文則皇太夫人。語則大御祖。追收先勅。頒下後号。壬午。始置催造司。庚申。定諸流配遠近之程。伊豆。安房。常陸。佐渡。隱岐。土左六國爲遠。諏方。伊豫爲中。越前。安藝爲近。甲申。令七道諸國依國大小。割取税稻四万已上廿万束已下。毎年出擧。取其息利。以充朝集使在京及非時差使。除運調庸外。向京擔夫等粮料。語在格中。陸奧國言。海道蝦夷反。殺大掾從六位上佐伯宿祢兒屋麻呂。

三月一日~五日に芳野(吉野)宮に行幸されている。二十二日に左大臣の長屋王等が以下のように奏言している。二月四日の勅で藤原夫人を大夫人と称せとあるが、公式令を調べると、天皇の母で夫人の地位にあった者は皇太夫人となっていて、皇の字が欠けることになる。伏してご判断を仰ぎたい、と述べている。これに対して、以下のように詔されている。文にする時は皇太夫人とし、口頭では大御祖(オオミオヤ)とし、先勅を撤回して、天下に頒ち下せ、と述べられている。

二十三日に初めて催造司を置いている。庚申(三月一日、挿入箇所の誤りか?)に流罪人の配流地の遠近の程度を次のように定め、伊豆・安房・常陸・佐渡・隠岐・土左の六ヶ國を”遠”、諏方・伊豫を”中”、越前・安藝を”近”とする、と記している。明らかに後の國別配置を意識したものであろう。ただ、「伊豫」を”中”とするなら、「安藝」の”近”は些か違和感がある。”庚申”の日付は、怪しさを暗示する編者の故意かもしれない。いずれにせよ、續紀の國別配置については、後日纏めて述べてみようかと思う。

二十五日に七道諸國に命じて國の大小に従って正税稲として四万束以上二十万束以下を割き取らせ、毎年出挙を行って利息を取り、それを在京の朝集使及び臨時に発遣する使者、それから調・庸以外の物資を京に運送する人夫等の食料に充てさせた。詳細は挌に定める。この日、陸奥國が以下のように言上している。海道蝦夷が反乱を起こし、大掾(國司四等官)の佐伯宿祢兒屋麻呂(豊人に併記)を殺した、と述べている。

夏四月庚寅朔。令七道諸國造軍器幕釜等。有數。壬辰。陸奧國大掾佐伯宿祢兒屋麻呂贈從五位下。賻絁一十疋。布廿端。田四町。爲其死事也。丙申。以式部卿正四位上藤原朝臣宇合爲持節大將軍。宮内大輔從五位上高橋朝臣安麻呂爲副將軍。判官八人。主典八人。爲征海道蝦夷也。癸夘。教坂東九國軍三万人教習騎射。試練軍陳。運綵帛二百疋。絁一千疋。綿六千屯。布一万端於陸奧鎭所。丁未。造宮卿從四位下縣犬養宿祢筑紫卒。」月犯螢惑。

四月一日に七道諸國に数を定めて軍器・幕・釜等を造られている。三日に殉職した陸奧國大掾の佐伯宿祢兒屋麻呂に從五位下を追贈し、また絁・田などを贈って弔っている。七日、海道蝦夷を征伐するために式部卿の藤原朝臣宇合を持節大將軍、宮内大輔の高橋朝臣安麻呂(若麻呂、父親笠間に併記)を副將軍として、判官八人、主典八人を任じている。

十四日に「坂東九國」の兵士三万人に、乗馬と弓を射る術を教習させ、布陣の仕方を訓練させている。また、綵帛(彩の有る絹)・絁。真綿などを陸奥の鎮所に運んでいる。十八日に造宮卿の縣犬養宿祢筑紫が亡くなっている。この日、月が螢惑(火星)を犯している。

<坂東九國>
坂東九國

後に多用される「坂東」の名称が出現している。陸奥國での争乱を発端とする記述であることから、手前の國々を示していることは間違いなかろう。

頻出の坂=土+厂+又=麓で山稜が延びている様と解釈した。記紀を通じて、所謂”坂”ではない。崖の地形を持つ山稜の麓を表す特徴的な場所なのである。

これが理解されていれば、図に示した通り、坂東=麓の山稜が突き通すように延びているところにある相摸國から常陸國までの九國と読み解ける。隣接する紀伊國・甲斐國は、「坂」の山稜が延びた地にあるのではなく、「坂東」には含まれないことが解る。

「坂東九國」の表記は、續紀中、この場限りであり、以降は「坂東八國」とされる。「八國」となるのは、突き通す山稜が開拓されて「坂」とは言えなくなった「常陸國」が省かれたのであろう。元は常陸國に属していた菊多郡は、陸奥國に併合されていた(こちらこちら参照)。

後の時代のことであろうが、「坂東八国」として・・・関東地方八か国の総称。武蔵・相模・安房・上総・下総・常陸・上野・下野の八か国をいう。関八州。八州・・・と解説されている。また、現在の坂東市のサイトには…、

「坂東」は関東地方の古名であり、相模・武蔵・上総・下総・安房・常陸・上野・下野を合わせて坂東八カ国と呼ばれていました。これは、足柄峠・碓氷峠などの山を「坂」として見立て、以東の諸国を「坂の東=坂東」としたことに由来するものです。当市はその関東地方のほぼ中央に位置し、位置をイメージしやすく、関東平野を代表するような雄大な都市を目指して選定されました。また当市は、平安時代に「坂東」一円を制した英雄・平将門公が本拠を構えた地として知られ、伝統と文化が今も息づいております。このことから、勇猛な「坂東武者」のイメージが込められています。さらに、当市を流れる利根川の古くからの愛称である「坂東太郎」が人々に親しまれていることから、利根川をはじめとする豊かな自然のイメージが込められています。

…と掲載されている。續紀の「坂東九(八)國」とは別の場所のことであろう。それを安易に引用されていないことは高く評価できる、と思われる。

五月癸亥。天皇御重閣中門。觀獵騎。一品已下至无位。豪富家及左右京。五畿内。近江等國郡司并子弟兵士。庶民勇健堪裝飾者。悉令奉獵騎事。兵士已上普賜祿有差。辛未。從五位上薩妙觀賜姓河上忌寸。從七位下王吉勝新城連。正八位上高正勝三笠連。從八位上高益信男捄連。從五位上吉宜。從五位下吉智首並吉田連。從五位下都能兄麻呂羽林連。正六位下賈受君神前連。正六位下樂浪河内高丘連。正七位上四比忠勇椎野連。正七位上荊軌武香山連。從六位上金宅良。金元吉並國看連。正七位下高昌武殖槻連。從七位上王多寳蓋山連。勳十二等高祿徳清原連。无位狛祁乎理和久古衆連。從五位下呉肅胡明御立連。正六位上物部用善物部射園連。正六位上久米奈保麻呂久米連。正六位下賓難大足長丘連。正六位下胛巨茂城上連。從六位下谷那庚受難波連。正八位上荅本陽春麻田連。壬午。從五位上小野朝臣牛養爲鎭狄將軍。令鎭出羽蝦狄。軍監二人。軍曹二人。
六月癸巳。中納言正三位巨勢朝臣邑治薨。難波朝左大臣大繍徳多之孫。中納言小錦中黒麻呂之子也。

五月五日に重閣の中門に出御されて猟騎(馬に騎乗して弓を射る儀式)を天覧されている。一品より無位に至るまで豪富の家及び左右京・五畿内・近江などの國郡司やその子弟、兵士、また庶民の中で勇敢健康で装束を付けて加われる者は全員、猟騎の行事に奉仕させている。兵士以上の全員に禄を賜われている。

十三日に以下の者が各々姓を賜っている。「薩妙觀」に「河上忌寸」()、「王吉勝」に「新城連」、「高正勝」に「三笠連」、「高益信」に「男捄連」、「吉宜・吉智首」に「吉田連」()、「都能兄麻呂」(角兄麻呂)に「羽林連」()、「賈受君」に「神前連」(神前郡)()、「樂浪河内」に「高丘連」()、「四比忠勇」に「椎野連」、「荊軌武」に「香山連」、「金宅良・金元吉」に「國看連」、「高昌武」に「殖槻連」、「王多寳」に「蓋山連」、「高祿徳」に「清原連」、「狛祁乎理和久」に「古衆連」、「呉肅胡明」に「御立連」()、「物部用善」に「物部射園連」、「久米奈保麻呂」に「久米連」()、「賓難大足」に「長丘連」、「胛巨茂」(太羊甲許母)に「城上連」()、「谷那庚受」に「難波連」、「荅本陽春」に「麻田連」、と記載されている。尚、既出の人物については()のリンクで示した。

二十四日に小野朝臣牛養(毛野に併記)を鎭狄將軍に任じ、出羽蝦狄を鎮圧させている。軍監二人と軍曹二人も併せて任じている。

六月六日に中納言の「巨勢朝臣邑治」が亡くなっている。難波朝左大臣の「徳多」の孫、中納言の「黒麻呂」の子であった(こちら参照)。

<王吉勝(新城連)・新城連吉足>
王吉勝(新城連)

高麗系渡来人であろうが、既に従七位下の爵位があることから何代か前に渡来した陰陽師の子孫と推測される。居処は賜った「新城連」から求めることにする。

「新城」は天武天皇紀に、新たに都を造ろうかと目論んだが、結局果たせなかった地の名称であった(こちら参照)。こんなところで再会である。

頻出の「吉」=「蓋+囗」=「山稜が蓋のように延びている様」、「勝」=「朕+力」=「押し上げられて盛り上がった様」である。纏めると吉勝=押し上げられて盛り上がった山稜が蓋をするように延びているところと読み解ける。

その地形が山稜の端近くに見出せる。現地名は田川郡添田町庄(大字)である。天武天皇即位十三(684)年正月の記事に「遣淨廣肆廣瀬王・小錦中大伴連安麻呂及判官・錄事・陰陽師・工匠等於畿內、令視占應都之地」とあり、新しい都の候補地を視察させている。陰陽師は不可欠であり、「新城」と「陰陽師」との繋がりを示しているのであろう。

後に新城連吉足が外従五位下を叙爵されて登場する。系譜は不詳のようなのだが、多分息子だったのではなかろうか。が延びた()辺りが出自の場所と推定される。

<高正勝(三笠連)・高益信(男捄連)>
● 高正勝(三笠連)・高益信(男捄連)

上記と同様に爵位を持ち、高麗系渡来人の子孫と思われる。但し、出自は詳細には分っていないようで、「正勝」が賜った三笠連が唯一の手掛かりのようである。

御笠連とも記載されるとのことで、これで一気に出自の場所へ近付いたように思われる。古事記に登場する玖賀耳之御笠、若倭根子日子大毘毘命(開化天皇)の子、日子坐王が旦波國のまつろわぬ輩を征伐した時に登場した「御笠」の居処を示すと思われる。

御笠=笠のような峰を束ねた山麓と解釈した。その三つの峰を三笠と言い換えているのであろう。既出の文字列である正勝=両足を揃えて立ち止まったように延びた山稜の麓に盛り上がった地があるところと解釈される。図に示した場所が出自と推定される。

高麗系渡来人としては高庄子の名前が知られていて、おそらくその子孫であったと推測されている。庄子=崖下の大地(庄)が生え出ている(子)ところと読み解ける。図に示したように彼等一族は、この突き出た小ぶりな半島に住まっていたのであろう。

地図を眺めていると、もう一人の高益信の出自の場所が浮かんで来た。決め手はやはり賜った捄連に含まれる捄=手+求=山稜の端が引き寄せられている様の文字である。その引き締められて縊れたところを()と表記し、信=人+言=谷間に耕地ある様と続けているのである。現地名は、行橋市元永・長井、当時は海面に浮かぶ島状の地形だったと推測される。

<四比忠勇-河守(椎野連)>
四比忠勇(椎野連)

「四比」は、書紀の天智即位四(665)年 八月に「遣達率答㶱春初、築城於長門國。遣達率憶禮福留・達率四比福夫、於筑紫國築大野及椽二城」の記事に含まれていた。百濟系渡来人なのだが、百濟城があった場所が「泗沘」と知られる。その地が出自であったのかもしれない。

勿論、これは遠い異国の地の話しで、倭國では「椎野」に居処を構えていたようである。これが紐解きのヒントであろう。古事記の建小廣國押楯命(宣化天皇)の子、火穗王(書紀では火焔皇子)が「志比陀君」(書紀では「椎田君」)の祖であったと記載されている。

幾度か登場の椎=木+隹=山稜が積み重なっている様と解釈した。図に示したように山稜の端が背骨のように並んで重なっている様子を表していることが解る。椎野連については、現在は広々とした水田地帯となっているが、当時は崖下で、未だ野原が目立つ状態だったのではなかろうか。

「忠」=「中+心」=「中心にある様」、「勇」=「甬+力」=「押して突き通す様」と解釈される。忠勇=中心にある山稜が押して突き通すようなところと読み解ける。福夫福=示+畐=酒樽のようなふっくらとした高台夫=交差すような様であり、「忠勇」の北側の谷間を表していると思われる。

後(称徳天皇紀)に四比河守が「椎野連」の氏姓を賜ったと記載されている。既出の文字列である河守=山稜が両肘を張り出したように延びた前が水辺で谷間の出口になっているところと読み解ける。「忠勇」の南側の谷間を表していることが解る。「四比」、「泗沘」、「志比」、「椎」これらが重ねられた表記である。本貫の地の呼び名を忍ばせて、難攻の土地開拓に励んだのであろう。

<荊軌武(香山連)-義善-賀是麻呂>
荊軌武(香山連)

荊」は、和銅七(714)年正月に従五位下に叙位された「荊義善」が登場していた。関連情報が見当たらず、放置していたのだが、今回は「香山連」と言う貴重な地名情報が記載されている。

香山=(天)香具山、即ち現在の香春三ノ岳の麓の地で義善軌武が表す地形を求めてみよう。親子関係のようではあるが、定かではない。

「義」=「羊+我」=「谷間がギザギザとしている様」、「善」=「羊+言+言」=「谷間で二つに岐れた耕地が連なっている様」と解釈した。纏めると義善=谷間で二つに岐れた耕地が連なった先で谷間がギザギザとしているところと読み解ける。図に示した地形を直截的に表現した名前であろう。

「軌」=「車+九」=「車輪のような山稜を九の字形に繋いだ様」と読み解ける。頻出の「武」=「戈+止」=「山稜の端が戈のような様」であり、軌武=戈のような山稜の先で車輪を九の字形に繋いだようなところと読み解ける。実に特徴的な二つの地形を象形した名前であることが解った。

後(称徳天皇紀)に香山連賀是麻呂が外従五位下を叙爵されている。幾度か登場の賀是=谷間を押し開く匙のような山稜が延びているところと解釈したが、その地形を「軌武」の東側に見出せる。親子のようにも思われるが、記録に残されていなのであろう。

<金宅良・金元吉(國看連)>
金宅良・金元吉(國看連)

新羅系渡来人と思われるが、賜った「國看連」では彼等の出自の場所を特定するには至らないようである。調べると、文武天皇紀の大寶二(702)年に「僧隆觀還俗。本姓金。名財。沙門幸甚子也」とあり、飛騨國の神馬を献上したと記載されていた。

その地で彼等の名前が示す地形を探索すると、図に示したように、申し分なく「隆觀」の北側、越中國に接する場所で見出すことができる。また、賜った「國看連」の地形であることも確認できる。

頻出の宅=宀+乇=谷間に山稜が延びている様良=なだらかな様と解釈した場所が「宅良」の出自であり、元=〇+儿=谷間に丸く小高いところがある様吉=蓋+囗=山稜が蓋をするような様と解釈した場所が「元吉」の出自の場所と推定される。國看連看=手+目=谷間に手のような山稜が延びている様であり、周辺の地形を表していることが解る。

<高昌武(殖槻連)>
高昌武(殖槻連)

高麗系渡来人であるが、関連情報は極めて限られているようで、やはり賜った「殖槻連」から出自の場所を推し測ってみよう。すると「殖槻」は平城宮の裏鬼門の方角に当たる右京の地に関係する名称であったことが分った。

早速、平城宮の西南の地を探索すると、それらしき場所が見出せる。「殖」の文字は書紀の天武天皇紀に積殖山口として登場した文字である。殖=歹+直=真っ直ぐに延びて尽きる様と解釈した。「歹」=「骨の関節部」を象った文字と知られる。

図に示した場所、後の時代に整地されて変形しているような感じであるが、二股に岐れた山稜の端が見出せる(年代別写真1961~9を参照)。その股の谷間に丸く小高い地がある。それを槻=木+規=山稜が丸く小高くなっている様で表したと思われる。

また、高昌武昌=日+曰=窪んだ地で太陽のように丸く小高くなっている様が示す場所でもあることが解る。武=戈+止=山稜の端が戈のような様であり、昌武に挟まれた場所を出自としていたと推定される。実は続く登場人物が鬼門方面を居処としていたのである。

<王多寳(盖山連)・白雀>
王多寳(盖山連)

多分、高麗系渡来人かと思われるが、詳細は殆ど知られていない人物である。やはり盖山連が頼りの出自探しとなろう。即ち、平城宮の鬼門に当たる方角にある地と思われる。

盖山は図に示した通り、平城宮の東北のあった、谷間を蓋するような山と解釈した。その谷間がこの人物の居処だったのであろう。

多=山稜の端(の三角州)であり、寶=宀+缶+玉+貝=山稜に囲まれた地に筒状の小高い地と玉のような丸く盛り上がった地と谷間がある様と解釈した。略字の「宝」では、地形要素の省略が多過ぎるようである。

一目で、これらの地形要素がぎっしりと詰まった場所であることが解る。「玉」は「盖山」が担っていることも見逃すわけには行かない、のである。それにしても左右京にかなり多くの渡来人達が住まっていたと伝えている。彼等の知識・技能をフルに活用していた有様が伺われる記述と思われる。

後の神龜四(727)年正月と天平四(732)年正月の二度、左京職白雀を献上したと記載される。左京の地で、未開の場所から二羽並んだ鳥の地形を求めると、図に示した二場所が見当たった。どちらが先か?…は到底推測しかねるが、藤原宮の奥だったかもしれない。共に狭い谷間で、他の情報も皆無な状況である。

<高祿徳(清原連)・清原連清道>
高祿徳
(清原連)

高麗系渡来人らしいのだが、この人物も出自は不明であり、賜った「清原連」が唯一の情報である。これは容易に気付かされる場所であって、古事記の序文に記載された飛鳥淸原(大)宮で用いられた文字列である。

書紀では「淨御原宮」であり、その文字列を用いずに、古事記本文ではなく序文にのみ記載されている「淸原」から、である。理由は後に述べることにする。

高祿德の「祿」は、官人の給与ではなく、地形象形すると祿=示+彔=高台が点々と連なっている様と解釈する。給与は、点々と連なっている、のである。德=彳+直+心=長四角に取り囲まれた様である。すると、図に示したように、德の縁の一部が点々と連なる高台となっていることが解る。

他の辺は、既に「凡海」一族の居処となっていたのである。彼等は「海」(水辺で両腕で抱えるように山稜が広がっている様)の縁であり、「祿德」は、その「海」には含まれていない。故に「清原連」姓を与えたと思われる。

淨御原」姓としないのは、「淨」は宮があった山稜を表し、「原」を束ねるところを示している。「祿德」の出自の場所とは掛け離れているわけである。なかなかに興味深い記述であろう。それにしても、よくぞ”点々”が残存したものである。

後に清原連清道が外従五位下を叙爵されて登場する。淸道=水辺で四角く区切られた地にある首のような形をしたところと読むと、図に示した場所が出自と思われる。別名に淨道があったと知られている。例によって「淸↔淨」の置換えであろう。凡海一族と、棲み別けた様相であるが、共に渡来系の人々だったのであろう。

<狛祁乎理和久(古衆連)>
狛祁乎理和久(古衆連)

全くの古事記風名称である。下記で読み解くことにして、少し調べると、縵造(連)の後裔らしきことが伝えられてるとのことである。「縵造」は、書紀の天武即位八(679)年六月に「縵造忍勝、獻嘉禾、異畝同頴」と記載された記事に含まれていた(こちら参照)。

その地は、古事記の師木津日子玉手見命(安寧天皇)が娶った阿久斗比賣の近隣と推定した。この「阿久斗」の地形を「縵」と表現したと解釈された。

それではこの人物の名前を一文字一文字紐解いてみよう。「狛」=「犬+白」=「平らな頂の山稜がくっ付いている様」、「祁」=「示+邑」=「高台が寄り集まっている様」、「乎」=「谷間から小ぶりな山稜が延び出ている様」、「理」=「王+里」=「区分けされた様」、「和」=「しなやかに曲がっている様」、「久」=「くの字形に曲がっている様」、となる。

纏めると狛祁乎理和久=平らな頂の高台がくっ付いている地にある小ぶりな山稜が延び出ている谷間でしなやかに[く]の字形に曲がった山稜を区分けしたようなところと解釈される。図に示した谷間を出自としていたと推定される。古衆連の命名は、谷間から延び出た山稜が小高くなっている地形を表しているのであろう。”異畝同頴”は瑞兆かもしれないが、やはりきちんと地形象形した表記であることを確信できた、と思われる。

<賓難大足(長丘連)・物部用善(射園連)>
賓難大足(長丘連)・物部用善(物部射園連)

両名共に殆ど情報がなく、また、賜った連姓も記紀を通じて関連する記述も見当たらない状況のようである。辛うじて「物部用善」の「射園連」についいて葛下郡の地名に関わるようなことが伝えられている。

そこで葛下郡、現地名では田川郡福智町弁城・伊方の彦山川沿いの地で名前が示す地形を探索することにした。

賓難の賓=近接している様難=川が大きく曲がる様と解釈すると、図に示した彦山川が中元寺川と合流する地点近くを表しているのではなかろうか。大足=平らな頂の山稜が長く延びたところであり、長丘連は、その地形を表していると思われる。

物部用善の「物部」の地形は、残念ながら、図に示した地形が大きく変化した場所近隣と思われ、射園連が表す地形を求めることは叶わず、国土地理院の年代別写真でも既に山容は変化し、元の姿を知ることはできなかった。皇極天皇紀に時の大臣蘇我蝦夷が息子の入鹿と共に「造雙墓於今來。一曰大陵、爲大臣墓。一曰小陵、爲入鹿臣墓」と記載された大陵と推定した場所(こちら参照)であるが、その後の登場はなく、関連する記述は見当たらないようである。

後に私稲を提供して困窮の人々を救済し爵位を授けられた大倭國葛下郡の人、花口宮麻呂が登場する。「花」=「端にある様」であるが、「花」=「艸+化」と分解すると、「花」=「端にある花が開いたような様」であり、「化」=「/+\」の地形を表す文字と解釈される。宮=宀+呂=谷間の奥まで積み重なっている様と読めば、図に示した場所が出自と推定される。

谷那庚受(難波連)・荅本陽春(麻田連)
谷那庚受(難波連)荅本陽春(麻田連)

「谷那」、「荅本()」は、書紀の天智即位十(671)年に百濟滅亡の難を逃れた有為な人物に爵位を授けた記事に登場していた。それ以上の情報はなく、ここで彼等の後裔達が連姓を賜ったと伝えている。

上記と同様に与えられた姓名が重要なヒントを提供してくれている。難波連は、間違いなく難波の地、即ち難波大郡・小郡の近隣と推測される。

庚受の「庚」=「干+廾」と分解する。「干」の古文字は、先がY字形開いた棒状を表す文字と知られる。即ち、「干」=「山稜の先が二股になっている様」、「廾」=「両手」であり、脇にある山稜を表している。

「受」=「爪+舟+又」=「窪んだ地に二つの山稜が寄り集まっている様」であり、纏めると庚受=先が二股になっている山稜が窪んだ地に寄り集まっているところと読み解ける。図に示したように「大郡」と「小郡」との間にある谷間を表していることが解る。後に難波連吉成の名前で登場する。吉=蓋+囗=山稜が蓋のように延びている様であり、「荅」が示す場所である。成=丁+戊=平らに盛り上げられた様であって、”倭風”の分り易い名前としたのであろう。

天智天皇紀の晋首との関係は定かではないようだが、多分親子、晋(晉)=至+至+日=炎のような山稜の端が延び切った様、その地にある首の付け根()のようなところと読み解ける。谷那=谷間がなだらかところは、地図に示された通りであろう。

荅本()の「荅」=「艸+合」と分解される。更に「合」=「亼+囗」から成る文字であり、口にぴったりと蓋を合せる様を表している。「本」は「」の簡略表示であって「火の元」を示す文字と解釈される。合わせると荅本=蓋のような山稜が炎の地形の根本になっているところと読み解ける。

図を参照すると、蓋の形をした山稜が東側の谷間の出口に延び出ているところが見出せる。この蓋を春初初=衣+刀=山稜の端にある刀のような山稜のことだと解る。頻出の春=叒+日=炎のように多くの山稜が延びている様であり、山麓の様子を表していると思われる。

陽春に含まれる、幾度か登場の陽=阝+昜=丸く小高く盛り上がった様であり、「小郡」の場所を示していると思われる。麻田連については、「淺田連」とも記載されることが分った。彼等の居処の奥は、『壬申の乱』の最終場面、近江朝の右大臣中臣連金を斬首した、と記載されていた淺井田根と推定した場所である。淺=氵+戈+戈=水辺で戈のような山稜がならんでいる様と解釈した。これで連姓との繋がりが紐解けたようである。

天智天皇紀に亡命した「谷那晋首・荅本春初」は「閑兵法」(兵法を習得)と記載されていた。白村江で大敗した(663年)後、唐・新羅の脅威が消え去らない時、近江大津宮の近辺である難波に配置されたのであろう。先進の知識・技術が転移する時には人が動いている、のである。

また、上記で引用したように「遣達率答㶱春初築城於長門國。遣達率憶禮福留・達率四比福夫、於筑紫國築大野及椽二城」と記載されている。築城の仕様にも大きな変化をもたらしていたのである。瀬田橋の戦い(こちら参照)で登場した「智尊」も同じような経歴の持ち主だったのかもしれない。







 

2021年8月26日木曜日

天璽國押開豐櫻彦天皇:聖武天皇(1) 〔538〕

天璽國押開豐櫻彦天皇:聖武天皇(1) 


神龜元年(西暦724年)二月の記事からである。原文(青字)はこちらのサイトから入手、訓読続日本紀(今泉忠義著)、続日本紀1(直木考次郎他著)を参照。

天璽國押開豊櫻彦天皇〈勝寳感神聖武皇帝〉」天璽國押開豊櫻彦天皇。〈謹案勝寳八歳勅曰。太上天皇出家歸佛。更不奉謚。至寳字二年。勅追上此號謚。〉天之眞宗豊祖父天皇之皇子也。母曰藤原夫人。贈太政大臣不比等之女也。和銅七年六月。立爲皇太子。于時年十四。

<天璽國押開豐櫻彦天皇>
天璽國押開豐櫻彥天皇(勝寶八[756]年の孝謙天皇の勅を調べると太上[聖武]天皇は出家して仏に帰依されたので、あらためて諡を奉らず、寶字二[758]年に淳仁天皇が勅して奉った)は、
天之眞宗豐祖父天皇(文武)の皇子である。

母を藤原夫人(宮子)と言い、贈太政大臣藤原不比等の娘であり、和銅七年六月に皇太子となったが、時に十四歳であった、と記載している。

早速に和風諡号を読み解いてみよう。「天」=「阿麻」=「擦り潰されたような様」、「璽」=「爾+玉」=「広がった玉のような様」、「押開」=「押し開く様」、「豐」=「段差のある高台」、「櫻」=「木+貝+貝+女」=「嫋やかに曲がる山稜に挟まれた二つの谷間が寄り集まった様」、「彥」=「文+厂+彡」=「段差のある山稜が交差するような様」と解釈される。

平城宮のある高台を天璽國と見做し、それが段差のある二つの谷間が交差する(豐櫻)場所(三崎)を押し開く(押開)ようになっている地形を表していることが解る。前記で登場した危村橋も聖武天皇の名前に因む場所にあったことを暗示しているのであろう。また「勝寳感神聖武皇帝」の「勝寳感神」も、この地形を表しているが、詳細は別途としよう。

二月甲午。受禪即位於大極殿。大赦天下。詔曰。現神大八洲所知倭根子天皇詔旨〈止〉勅大命〈乎〉親王諸王諸臣百官人等天下公民衆聞食宣。高天原〈尓〉神留坐皇親神魯岐神魯美命吾孫將知食國天下〈止〉与佐〈斯〉奉〈志〉麻尓麻尓。高天原〈尓〉事波自米而四方食國天下〈乃〉政〈乎〉弥高弥廣〈尓〉天日嗣〈止〉高御座〈尓〉坐而大八嶋國所知倭根子天皇〈乃〉大命〈尓〉坐詔〈久〉。此食國天下者掛畏〈岐〉藤原宮〈尓〉天下所知美麻斯〈乃〉父〈止〉坐天皇〈乃〉美麻斯〈尓〉賜〈志〉天下之業〈止〉詔大命〈乎〉聞食恐〈美〉受賜懼〈理〉坐事〈乎〉衆聞食宣。可久賜時〈尓〉美麻斯親王〈乃〉齡〈乃〉弱〈尓〉荷重〈波〉不堪〈自加止〉所念坐而皇祖母坐〈志志〉掛畏〈岐〉我皇天皇〈尓〉授奉〈岐〉。依此而是平城大宮〈尓〉現御神〈止〉坐而大八嶋國所知而靈龜元年〈尓〉此〈乃〉天日嗣高御座之業食國天下之政〈乎〉朕〈尓〉授賜讓賜而教賜詔賜〈都良久。〉挂畏淡海大津宮御宇倭根子天皇〈乃〉万世〈尓〉不改常典〈止〉立賜敷賜〈閇留〉隨法後遂者我子〈尓〉佐太加〈尓〉牟倶佐加〈尓〉無過事授賜〈止〉負賜詔賜〈比志尓〉依〈弖〉今授賜〈牟止〉所念坐間〈尓〉去年九月天地貺大瑞物顯來〈理〉。又四方食國〈乃〉年實豊〈尓〉牟倶佐加〈尓〉得在〈止〉見賜而隨神〈母〉所念行〈尓〉于都斯〈久母〉皇朕〈賀〉御世當顯見〈留〉物〈尓〉者不在。今將嗣座御世名〈乎〉記而應來顯來〈留〉物〈尓〉在〈良志止〉所念坐而。今神龜二字御世〈乃〉年名〈止〉定〈氐〉改養老八年爲神龜元年而天日嗣高御座食國天下之業〈乎〉吾子美麻斯王〈尓〉授賜讓賜〈止〉詔天皇大命〈乎〉頂受賜恐〈美〉持而辞啓者。天皇大命恐被賜仕奉者拙〈久〉劣而無所知。進〈母〉不知退〈母〉不知天地之心〈母〉勞〈久〉重百官之情〈母〉辱愧〈美奈母〉隨神所念坐。故親王等始而王臣汝等清〈支〉明〈支〉正〈支〉直〈支〉心以皇朝〈乎〉穴〈奈比〉扶奉而天下公民〈乎〉奏賜〈止〉詔命衆聞食宣。辞別詔〈久〉遠皇祖御世始而中今〈尓〉至〈麻氐〉天日嗣〈止〉高御座〈尓〉坐而此食國天下〈乎〉撫賜慈賜〈波久波〉。時時状状〈尓〉從而治賜慈賜來業〈止〉隨神所念行〈須〉。是以宜天下〈乎〉慈賜治賜〈久〉大赦天下。内外文武職事及五位已上爲父後者。授勳一級。賜高年百歳已上穀一石五斗。九十已上一石。八十已上。并惸獨不能自存者五斗。孝子。順孫。義夫。節婦。咸表門閭。終身勿事。天下兵士減今年調半。京畿悉免之。又官官仕奉韓人部一人二人〈尓〉其負而可仕奉姓名賜。又百官官人及京下僧尼大御手物取賜治賜〈久止〉詔天皇御命衆聞食宣。是日。一品舍人親王益封五百戸。二品新田部親王授一品。從二位長屋王正二位。正三位多治比眞人池守益封五十戸。從三位巨勢朝臣邑治。大伴宿祢多比等。藤原朝臣武智麻呂。藤原朝臣房前並正三位。並益封賜物。」又以右大臣正二位長屋王爲左大臣。

二月四日に禅譲されて大極殿で即位し、天下に大赦を行い、以下のように詔されている。概略(宣命体)は、現つ御神として大八洲を統治する倭根子天皇の詔旨であるお言葉を親王・諸王・諸臣・百官人たち、また天下の公民たち、皆承れと申し渡す。高天原に神としておられる天皇の遠祖の男神・女神が皇孫に統治すべき(食國)国土を授けられたことに従い、高天原に始まる四方の統治すべき国土の政をいよいよ高くいよいよ広く、天日嗣として高御座にあって、この大八嶋国を統治される倭根子天皇(元正)が大命として仰せられるには、「この統治すべき国は、口に出すのも恐れ多い藤原宮に天下を統治された汝の父に当たる文武天皇が汝に賜った天下の業である」ことである。詔されたお言葉を承り、謹んで受け賜わり恐懼していることを承れと申し渡す。

このように下し賜う時に汝親王の年齢が若かったので荷が重く堪えられないだろうと思われ、皇祖母に当たる、口に出すのも恐れ多い我が大君の(元明)天皇に天下の業を授けられた。これによって、この平城の大宮に現つ御神として大八嶋国を統治されたが、靈龜元(715)年に天日嗣の高御座の業と天下統治の政を朕(元正天皇)に授け譲られ、次のように教え詔された。「口に出すのも恐れ多い淡海の大津宮に天下を統治された倭根子天皇(天智)が万世に改ることのあってはならない掟(不改常典)として立て敷かれた法に従い、この後、ついには我が子(実は孫)に確かに目出度く相違なく授けよ」と付託された詔に従って遠からず授けようと思っていたところ、去年の九月に天地が賜った大瑞(白龜)が出現した。また、四方の統治する国々では穀物が豊かににぎにぎしく実ったと知って、神の身として思ってみるに、明らかに朕の世の為に現されたものではあるまい。

それは今まさに継ごうとされる皇太子の御世の名(年号)のしるしとして皇太子の徳に応えて現れて来たものと思う。よって神龜の二文字を年号と定め、養老八年を改めて神龜元年とし、天日嗣の高御座と天下統治の業を我が子(勢い余った表記か?)である汝に譲る」と仰せになった天皇(元正)のお言葉を頭上に頂き謹んで奉持するにつけて、辞退するのは恐れ多く、拙く愚かな身であるが、祥瑞を現した天地の心も重大に感じている。それ故に親王達を初め王臣達は正しく素直な心で朝廷をたすけ、天下の公民を治めよ、仰せになったと述べている。

また、以下のように詔されている。遠い先祖の御世より治められる天下をいたわり恵まれて来た。よって、先ずは天下に恵みを与えて治めたいと思う。(以下漢文)天下に大赦を行う。内外の文武の職事官及び五位以上の父を後継者には勲位一級を授ける。高齢者には、百歳以上、九十歳以上、八十歳以上と”惸獨”に、年齢別に各々穀を与える。孝子・順孫・義夫・節婦は租税を終身免除する。全国の兵士は今年の調を半減し、京・畿内の兵士は全て免除する。(以下宣命体)諸官職の韓人部のいくらかには、官職に因んだ姓名を与える。百官人・京内の僧尼には朕自ら物を賜うことにする。

この日に、一品舍人親王に封五百戸を加えている。二品新田部親王を一品、從二位長屋王を正二位とし、正三位多治比眞人池守に封五十戸を加えている。從三位巨勢朝臣邑治大伴宿祢多比等(旅人)・藤原朝臣武智麻呂藤原朝臣房前を正三位とし、封戸を加えて物を与えている。また右大臣の長屋王を左大臣としている。

丙申。勅尊正一位藤原夫人稱大夫人。」授三品田形内親王。吉備内親王並二品。從四位下海上女王。智奴女王。藤原朝臣長娥子並從三位。正四位下山形女王正四位上。壬子。天皇臨軒。授正四位下六人部王正四位上。從四位下長田王從四位上。无位高田王。膳夫王。正五位上葛木王並從四位下。正五位下高安王。門部王並正五位上。從五位上佐爲王。櫻井王並正五位下。從五位下夜珠王從五位上。正五位上大伴宿祢宿奈麻呂。多治比眞人廣成。日下部宿祢老並從四位下。正五位下阿倍朝臣駿河。阿倍朝臣安麻呂。從五位上大宅朝臣大國並正五位上。從五位上中臣朝臣東人。榎井朝臣廣國。粟田朝臣人上。石川朝臣君子並正五位下。從五位下石河朝臣足人。高橋朝臣安麻呂。佐伯宿祢豊人。高向朝臣大足。當麻眞人老。縣犬養宿祢石足。大野朝臣東人。巨勢朝臣眞人。粟田朝臣人。佐伯宿祢馬養。土師宿祢大麻呂。大藏忌寸老並從五位上。正六位上石川朝臣枚夫。多治比眞人屋主。波多朝臣僧麻呂。紀朝臣和比等。大神朝臣通守。大春日朝臣果安。正六位下石上朝臣乙麻呂。藤原朝臣豊成。從六位上鴨朝臣治田。從七位上鴨朝臣助並從五位下。」從七位下大伴直南淵麻呂。從八位下錦部安麻呂。无位烏安麻呂。外從七位上角山君内麻呂。外從八位下大伴直國持。外正八位上壬生直國依。外正八位下日下部使主荒熊。外從七位上香取連五百嶋。外正八位下大生部直三穗麻呂。外從八位上君子部立花。外正八位上史部虫麻呂。外從八位上大伴直宮足等。獻私穀於陸奧國鎭所。並授外從五位下。乙夘。陸奧國鎭守軍卒等。願除己本籍便貫此部。率父母妻子共同生業。許之。

二月六日に正一位藤原夫人を尊んで「大夫人」と称すると勅している。また、三品の田形内親王(天武天皇の田形皇女)・吉備内親王(元正天皇の妹)に二品、海上女王智奴女王(長皇子の娘)・藤原朝臣長娥子(藤原大夫人の妹)に從三位、山形女王(高市皇子の子、長屋王の兄妹)に正四位上を授けている。

左大臣に昇進した「長屋王」の正妻が「吉備内親王」、「藤原朝臣長娥子」及び「智奴女王」は妾であったと知られる。妹の「山形女王」も含めると関係する女性が揃って進位されているように伺える。事件の伏線かもしれない。

二十二日に宮殿の端近くに出御して以下のように叙位されている。六人部王に正四位上、長田王(六人部王に併記)に從四位上、高田王(施基皇子の子と推定。壹志王に併記)膳夫王(長屋王の子)・葛木王に從四位下、高安王門部王に正五位上、佐爲王(狹井王。葛木王に併記)・櫻井王に正五位下、「夜珠王」に從五位上、大伴宿祢宿奈麻呂多治比眞人廣成日下部宿祢老に從四位下、阿倍朝臣駿河阿倍朝臣安麻呂大宅朝臣大國(金弓に併記)に正五位上、中臣朝臣東人榎井朝臣廣國粟田朝臣人上(必登に併記)石川朝臣君子に正五位下、石河朝臣足人(石足に併記)・高橋朝臣安麻呂(若麻呂、父親の笠間に併記)・「佐伯宿祢豊人」・高向朝臣大足當麻眞人老(東人に併記)縣犬養宿祢石足大野朝臣東人巨勢朝臣眞人粟田朝臣人(必登)・佐伯宿祢馬養(大目の子、垂麻呂・蟲麻呂に併記)土師宿祢大麻呂大藏忌寸老に從五位上、「石川朝臣枚夫」・多治比眞人屋主(家主に併記)・波多朝臣僧麻呂(波多眞人余射に併記)紀朝臣和比等(淸人に併記)・「大神朝臣通守」・大春日朝臣果安(赤兄に併記)・「石上朝臣乙麻呂」・「藤原朝臣豊成」・「鴨朝臣治田」・「鴨朝臣助」に從五位下を授けている。また、「大伴直南淵麻呂」・「錦部安麻呂」・「烏安麻呂」・「角山君内麻呂」・「大伴直國持」・「壬生直國依」・「日下部使主荒熊」・香取連五百嶋・「大生部直三穗麻呂」・「君子部立花」・「史部虫麻呂」・「大伴直宮足」等は、私穀を陸奧國の鎭所に献上したので、外從五位下を授けている。

二十五日に陸奧國鎭守軍の兵士達は自分の本籍を削り、鎮守府付近に移して父母妻子と共に暮らしたい、と願って許されている。

<佐伯宿禰豐人・常人・兒屋麻呂・東人>
● 佐伯宿祢豊人

調べると佐伯宿禰太(大)麻呂の子と分かった。『乙巳の変』の立役者の一人、子麻呂から幾世代も続く一族であり、途切れることなく天皇家を支えていたようである。

太麻呂は限りなく大伴宿禰一族に近付いた地が出自の場所と推定した。いや、既に入り混じっている様相であるが、さて、出自の場所の地形を表しているのであろうか?・・・。

図に示したように太麻呂の東側が段差のある急峻な崖の様子であることが判る。豐=段差のある高台がその地形を示していると思われる。全体が谷間なのであるが、更に深くなっている地形をで表している。

兄弟に佐伯宿祢常人・佐伯宿祢東人がいたと知られている。常=向+八+巾=北向きに山稜が延びている様であり、その地形を北側の谷間に見出すことができる。また、「東人」が外従五位下を授けられて登場する。「常人」の西側、東人=谷間を突き通すような地が出自と推定される。

この直後に「麻呂」の三男坊、陸奥國の大掾(國司四等官)となっていた佐伯宿祢兒屋麻呂が蝦夷に殺害された、伝えられている。「兒」=「囟+儿」と分解すると、「谷間に窪んだ地がある様」と解釈される。兒屋=谷間を囲む山稜が延びた前にある窪んだところと読み解ける。図に示した場所が出自であったと思われる。

それにしても大伴・佐伯の谷間からの登場人物の夥しさに呆れるばかりである。尚、航空写真(1961~9年)を見ると、急勾配の山麓に多くの棚田が作られていたことが伺える。特に「佐伯一族」が蔓延った西側の斜面が注目される。

<石川朝臣枚夫-加美-東人>
<-乙麻呂-牛養-名人-氏人>
● 石川朝臣枚夫

頻出の石川朝臣一族なのだが、全く系譜は知られていないようである。と言うことで、「枚夫」の文字が表す地形を、その地で求めてみよう。

前出の「安麻侶」の子に「石足」がおり、その子の「年足」に繋がる系譜の出自の場所を推定した。また「足人」も登場し、この人物の系譜は定かではないが、やはり近隣の地が出自と思われた(こちら参照)。

いずれにしてもこれらの人物の名前に含まれる足=山稜が長くなだらかに延びている様の地形が並ぶ場所であることを示していると思われる。

「枚」=「木+卜+又(手)」=「山稜が岐れている様」、「夫」=「山稜が交差するように寄り集まっている様」であり、枚夫=岐れた山稜が交差するように寄り集まっているところと読み解ける。些か入組んで来てはいるが、「宮麻呂」と「足人」の谷間の中間辺りの地形を表していると思われる。別名の比良夫も、全く同様に解釈される。

後に石川朝臣加美・石川朝臣乙麻呂・石川朝臣東人が従五位下に叙爵されて登場する。「加美」は、「枚夫」の南側、谷間が広がった場所と推定される。頻出の文字列である加美=谷間が押し広げられたところと読み解ける。別名に賀美があったと知られているが、少々丁寧な表記と思われる。

乙麻呂も幾度か登場する名前である。「乙」の文字形そのままを捩った表記と解釈した。「枚夫」の北側の谷間が大きく蛇行している場所と推定される。頻出の東人は、「宮麻呂」の西側の狭い谷間を示していると思われる。配置からすると「枚夫・加美・乙麻呂・東人」は、「連子大臣」系列と推測されるが、記録された資料は見当たらないのであろう。

更に石川朝臣牛養石川朝臣名人が従五位下に叙爵されて登場する。”外”が付かないことから、ちゃんと系譜は知られていたようだが、伝わってない。牛養=牛の頭部の山稜に囲まれたなだらかなところ、また名人=山稜の端で[人]の形に岐れているところ解釈される。図に示した場所がそれぞれの出自と推定される。位置的には安麻侶の系列かと思われるが、記録がなかったのであろう。

更に後(淳仁天皇紀)に石川朝臣氏人が従五位下を叙爵されて登場する。「氏」=「匕(匙)の形」であり、小分けする道具を表し、氏族のように用いられている。地形象形的には「匕」そのものの形を表すとして、氏人=谷間に匕のような山稜が延びているところ、図に示した場所が出自と推定した。

<大神朝臣通守・乙麻呂・麻呂>
大神朝臣通守

「大神朝臣」一族であり、調べると「安麻呂」の子と知られているようである。既に彼らの出自の場所を求め、兄弟の狛麻呂、高市麻呂の三人が、現在の足立山(古事記では美和山)・砲台山の西麓に居処を持っていたと推定した(こちら参照)。

「通」=「辶+甬」=「突き通すような様」、「守」=「宀+寸」=「肘を張って取り囲む様」と解釈したが、合わせると通守=突き通すような谷間の麓にある肘を張ったように取り囲まれたところと読み解ける。砲台山の丸く平らな頂(図では省略)に突き通っている谷間の麓に、その地形を見出すことができる。

兄弟の大神朝臣奥守が後に登場する。奥=周囲を囲って閉じ込められたような様と解釈される。父親の「安麻呂」の居処は、今一掴めずおおよその場所としたが、二人の息子の登場で、かなり明確にすることができたように思われる。その西側がこの人物の出自と推定される。

後に、系譜は定かではないようだが、大神朝臣乙麻呂が外従五位下を授けられたと記載されて登場する。麓が住宅地になって見定め難いのだが、図に示した場所がの地形を示していると思われる。また大神朝臣麻呂が従五位下を叙爵されて登場する。麻呂=萬呂と解釈すると、図に示した場所が出自と推定される。位置関係からすると高市麻呂の系列のようにも思われるが、定かではない。

<石上朝臣乙麻呂・東人・諸男・國盛>
石上朝臣乙麻呂

「石上朝臣」一族は、物部一族の嫡流であり、かなり古い時期からの系譜が記録されていたようである。前記で、この人物の祖父に当たる「宇麻乃」に至る系譜を纏めた(こちら参照)。

左大臣「麻呂」が「石上朝臣」姓を賜って、華々しい活躍をしたことが記述されていた。既に述べたが、石上神宮に関わったと解釈されているが、現在の井手浦川が大きく広がった「磯の上」に由来する。金辺川が香春で広がった磯に類似する。

乙=乙の形になっている様であり、父親の「麻呂」の東側の山麓辺りと推定される。別名に弟麻呂とされているが、同様の地形象形表記と思われる。Wikipediaによると、家柄・声望とも優れた秀でた人材であり、”才色兼備”で、漢詩、万葉歌も残しているとのことである。土左國へ流罪とされるも最終従三位・中納言となっている。

尚、未だ登場していないが「麻呂」の子には、上記の他に石上朝臣東人石上朝臣諸男石上朝臣國盛が知られている。東人=谷間を突き通すようなところであり、「乙麻呂」の東側、諸男=耕地が交差するような地の傍にある山稜が[男]の形をしているところ國盛=大地が平らに盛り上げられたところと読み解ける。図に示した場所と思われる。

<藤原朝臣豐成>
● 藤原朝臣豊成

不比等の長子である武智麻呂の長子となる、正に藤原朝臣一族の頭領と言った生い立ちである。若い頃から、その才覚は知れ渡っていたようで、上記の「乙麻呂」同様、若い才能が歴史の表舞台に登場している。最終は従一位右大臣になったとのことである。

これだけの情報が集まれば、前記で求めた藤原四家の地図に、ぴったりと収まる出自の場所が見出せるであろう・・・と決め付けては危険であろう。

結果的には辛うじて、山稜の端を道路(高野長行一号線)が走り大きく変形しているが、年代別の写真でそれ以前の地形を確認することができ、山稜の端が長く延びていることが判る(こちら参照)。図に示した辺りが豐成=段差のある高台が平らに盛り上がっているところが示す場所ではなかろうか。

<鴨朝臣治田-助・賀茂朝臣高麻呂>
<鴨朝臣角足・石角>
鴨朝臣治田・鴨朝臣助

「鴨君」から登場した一族も、それなりの数に上っている。二人は、初登場で従五位下故に、きちんとした経歴の持ち主だったのであろう。それもその筈、吉備麻呂の子達であった。

頻出の「治」=「氵+台」=「水辺で山稜が鋤のような様」であり、治田=水辺で山稜が鋤のような地に平らになっているところと読み解ける。前出の藤原宮子娘(後の藤原大夫人)の母親、加茂比賣の西側の山稜を示していると思われる。

頻度は低いが助=且+力=押し積み重ねられたような様と解釈すると、「治田」の南側に接する地形を示していることが解る。古事記の意富多多泥古に端を発する鴨君も着々と子孫が繁栄してことを告げている。

後に賀茂朝臣高麻呂が外従五位下を叙爵されて登場する。この人物の系譜は不詳のようである。高=皺が寄ったような様と解釈するが、その地形を図に示した場所に見出すことができる。麻呂の「麻」=「萬」とすると、「萬」の頭部が皺となっていると見做したのではなかろうか。

また「治田」の子と知られている鴨朝臣角足が外従五位下を叙爵されている。角足=角のように山稜が延び出たところとすると、父親の西側にその地形を見出せる。上図に併記した。系譜は定かではないようだが、鴨朝臣石角外従五位下を叙爵されて登場する。石角=山麓が角のような形をしているところと読んで、図に示した場所が出自と推定した。

<大伴直南淵麻呂-國持-宮足>
大伴直南淵麻呂・大伴直國持・大伴直宮足

「大伴」は、所謂「大伴宿禰」に限られた場所ではなく、書紀に記載された三河大伴直があり、また名前では黃書造大伴縣犬養連大伴など多くの例が挙げられる。

既に述べたように大伴=平らな頂の山稜を谷間で二つに分けたところの地形を示す表記であって、固有の名称では決してないのである。

この人物に用いられた「大伴直」は、「三河大伴直」を示しているとして、この三名の出自の場所を求めてみよう。南淵麻呂の「南淵」は書紀で登場した「南淵」と類似に地形、即ち南側が淵になっている場所を表していると思われる。

しかしながら、それだけでは場所の特定には至らない。実は後になって蜷淵麻呂の別名が記載されている。蜷淵=激しく蛇行している淵と読み解くと、図に示した場所が見出せる。續紀編者の心遣いに感謝、であろう。

國持の「持」=「手+寺」=「山稜が手で抱えるように延びた様」と解釈すると、國持=山稜が抱えるように囲んだところと読み解ける。図に示した場所、「南淵麻呂」の東側の山麓と推定される。「宮足」は宮足=谷間の奧から山稜が延びているところと解釈される。現在は広大な住宅地となっていて、場所の特定が難しいが、多分、図に示した辺りを表していると思われる。

”私穀”を献上できるほどだったのだから、それぞれに十分な耕地を確保されていたのではなかろうか。古くから開拓され、急傾斜の渇いた土地、葛城に類似する地なのだが、池を造り、治水を行って豊かな水田と成し得たのであろう。

<錦部安麻呂>
錦部安麻呂

「錦部」は、既に幾度か登場して、現在の幸ノ山を錦と表現して、その周辺の地域を示す場所と解釈した。例えば、河内國錦部郡の白鳩献上物語、錦部連道麻呂板持連内麻呂などが関連して登場していた。

と言うことで、幸ノ山周辺で安麻呂の地形を探索すると、図に示した南麓に見出すことができた。

それにしても「安麻呂」の名前の多さには驚かされるのであるが、如何に山稜に挟まれた、なだらかな谷間が当時の最適住環境だったかを示唆している、と思われる。

この人物も、上記と同様に山崎川の対岸の地に”私穀”献上ができるほどの水田を開拓したのであろう。極めて類似する地形であることが伺える。尚、河内國交野郡に属すると思われるが、現地名は行橋市入覚となっている。板持連内麻呂の場所は錦部郡であり、現地名は行橋市下崎となる。少々入組んだ郡別を現在まで引き継いでいるように感じられる。

<烏安麻呂>
烏安麻呂

「烏」は、赤烏などに幾度か用いられていたが、人物名には初登場である。各地に散らばる「烏」では、とても一に特定は叶わず、さて、如何なる手順で求めるか?…やはり、記紀を通じて、最も有名な烏は「八咫烏」ではなかろうか。

通説に従えば、これも全く役立たずなのだが、本著は一に特定した場所を示す表記と解釈した。現地名京都郡苅田町山口の八田山周辺と推定した。

早速に頻出の安麻呂の地形を求めると、八咫烏社(八田山稲荷神社)の谷奥と推定される。古事記の神倭伊波禮毘古命(神武天皇)が這う這うの体で熊野村から山越えで「八咫烏」に導かれながら抜け出た場所である(こちら参照)。

後に烏安麿下村主の氏姓を賜ったと記載される。山腹の山稜が描く文様をで表し、村=木+寸=山稜が手の指を広げたような様とすると、上図の地形を示していると思われる。やはり「烏」の寝床は、この地にあったのではなかろうか。

<角山君内麻呂>
● 角山君内麻呂

「角」は「都怒(奴)」と思われ、すると古事記の木角宿禰が祖となった都奴臣か?…としたくなるのだが、「山」に引っ掛ってしまうようである。少し冷静に思い起こすと、都怒山臣に辿り着いた。

御眞津日子訶惠志泥命(孝昭天皇)の子、天押帶日子命の一連の祖の中に含まれていた。この命が尾張國の隅々に、その子孫を残したことを伝える記述であった(こちら参照)。

現地名の北九州市小倉南区津田辺りであり、この「角」は、当時は海に突き出た半島の様相であったと推測される。図に示したように内麻呂は、入江の奥の場所を表していると思われる。

尾張國と美濃國の配置も含めて、古事記と續紀との一貫性ある記述を示している。書紀は天押帶日子命(表記は天足彦國押人命)が祖となったのは和珥臣のみである。『日本紀』は日本書紀ではない、とする一つの証左と思われる。

<壬生直國依・壬生使宇太麻呂>
● 壬生直國依

「壬生」は、書紀の持統天皇紀に唐で捕虜になったが生き永らえて帰国した肥後國皮石郡の壬生諸石に含まれていた。その特徴的な地形に拘ると、この人物の出自は近隣であったと推測される。

依=人+衣=谷間にある山稜の端が三日月の形をしている様と解釈した。すると「皮石」の山稜の端、現在の平山観音院辺りの場所を示していると思われる。

後に遣新羅使の大判官を任じれた壬生使宇太麻呂が登場する。別名として「宇陀麻呂」、「于太萬呂」が伝えられているようである。実に貴重な情報であって、宇太=谷間で山稜が広がり延びている様に加えて、陀=崖のような様萬=蠍のような様の地形要件を満たす場所、図に示したところと推定される。

山間の狭い谷間のように見えるが、航空写真(1961~9年)を参照すると、びっしりと棚田が作られている様子が伺える。おそらく古くから開拓が行われて来たのであろう。そして時代と共に下流域への進展のよって現在の状態になったと推測される。

<日下部使主荒熊>
日下部使主荒熊

「日下」は、漠然とした”日の下”を表すのではなく、古事記は区切られた地域として明記している。即ち、玖沙訶と訓し、現在の香春三ノ岳の東麓に広がる平らな水辺と読み解いた。

「日下部」は、その近隣の地を示す表記となるが、書紀は「草壁」と表記する。既に述べたように、「草壁」も誤った表記ではなく、「日下部」の地形を表しているが、「日下」との関係は省略されている。場所をはぐらかす表記として、実に巧みなのである。

ここまで整理されて来ると、この人物の出自の場所は容易に定めることができる。図に示した真っ直ぐに延び出た山稜(使主)が金辺川の畔で途切れて()いる地の隅()と読み解ける。續紀は、古事記表記を忠実に引き継いでいることが解る。「日下部」と言う飛鳥の中心地に由来する人物なのだが、通説は冷たく沈黙の状況ようである。

<大生部直三穗麻呂・生部直清刀自>
大生部直三穗麻呂

「大生部」は、書紀の皇極天皇紀に東國不盡河の川辺で居処を構えていた人物と記載されていた。ちょっと怪しげな人物で、私財を投げ出して、”常世蟲”を祀れば莫大な富を獲得できる、と吹聴したのだが、結局、葛野秦造河勝に征伐されている(詳細はこちら)。

通説は、勿論、不盡河は富士川であって、壮大な物語と解釈されているが、「大生部」は不詳と片付けられている。スケールが大きければ些細なことになる?…全く非論理的である。

「不盡河」は、現在の祓川であり、「大生部多」は京都郡みやこ町徳政、若宮八幡宮辺りと推定した(こちら参照)。大河祓川の川辺の開拓を進展させたのであろう。それにしても、祓川、即ち古事記の「玖須婆(クスバ)之河」を「不盡(フスガ)河」と言い換えているのである。類似の読みで、読み手を誘導する書紀の記述、これも実に巧みな表記であろう。

本論に戻って、三穗麻呂は図に示した通りの地形を、そのまま表現したと思われる。この台地の西側は、東漢一族が蔓延った地であるが、何故か、その東端が抜けていた。既に「大生部」一族の居処となっていたのであろう。辻褄の合った話となったようである。

かなり後(光仁天皇紀)になるが、生部直清刀自が外従五位下を叙爵されて登場する。清刀自=水辺で四角く取り囲まれた地の先の山稜の端が刀の形になっているところと解釈される。”大”の地形ではなくなったのであろう。図に示した場所が出自と推定される。

<君子部立花-和氣>
● 君子部立花

「君子部」に関する情報は、全く錯綜していて、諸説あっても、結局のところすっきりとした解説は見つからないようである。一時は、前出の君子の近隣の地かとも考えたが、それでは全く狭隘な地域となってしまう。

実は、重要な情報が續紀に記載されていた。後の天平五(733)年に「九月丁亥。遠江國蓁原郡人君子部眞鹽女。一産三男。賜大税二百束。乳母一人」と記載されている。遠江國蓁原郡だったのである。

君子部の君子=生え出た高台が平らに整えられているところと解釈すると、図に示した場所、残念ながら現在は大きく変形してしまっているが、この山稜を表していると思われる(変形前の地形は、君子部眞鹽女を参照)

また、後(孝謙天皇紀)に「君子」を「吉美侯」の表記にせよと勅命されている。君子(クンシ)は紛らわしいと思われたのであろう。「吉美侯」の地形象形は、石川朝臣君子の別称を参照。部=君子の近隣()と解釈される。

立花は「橘」ではなく、立花=山稜の端(花)の小高い地が並んでいる(立)ところと読み解ける。古遠賀湾に突き出た半島であったと推測される。出自の場所は図に示した辺りと思われる。後(孝謙天皇紀)に君子部和氣が外従五位下を叙爵されて登場する。和氣=しなやかに曲がりながらゆらゆらと延びているところであり、「立花」の西側、同様に海に突き出た半島の地形と思われる。

<史部虫麻呂>
<田邊史難波-廣足-高額-廣濱>
史部虫麻呂

「史部」は、全くの初出であって、「文書や記録の作成など文筆を生業とした氏族」と解釈してしまっては、お手上げであろう。

書紀の孝徳天皇紀に田邊史鳥が登場していた。この「史」は極めて特徴的な地形を示し、また鳥の胴体としての地形を表していると読み解いた。

おそらく、この「史」の近隣の地を表現しているのではなかろうか。虫(蟲)=山稜の端が細かく三つに岐れた様と解釈したが、その地形を北側に見出すことができる。

田邊一族には、田邊史比良夫田邊史百枝・田邊史首名などかなりの数の人物が登場し、「史鳥」の周辺に出自を持つのだが、やはり、系統が異なっていたのであろう。名前は重要であり、安易な推測では記載しない、と理解しておこう。

後に田邊史難波田邊史廣足(甲斐國守)・田邊史高額田邊史廣濱が登場する。難波=川が大きく曲がるところと解釈したが、図に示した辺りと思われる。治水されて当時の川の様子を知ることは難しいようだが、現在の道路に沿って川が流れていたのではなかろうか。

廣足は、鳥が足を大きく開いたようなところを示していると思われる。既出の高額=皺が寄った突き出た額のようなところと解釈すると、図に示した辺りが出自と思われる。廣濱=水辺が広がっているところと読めば、図に示した辺りを示していると思われる。

さて、最後に、例によって唐突に記載される出自不詳の「王」を何とかして読み解いてみよう・・・。

<夜珠王>
● 夜珠王

「夜珠」に関連する記述は、記紀・續紀を通じても見当たらない。また初登場で従五位上とは、勿論皇孫でもないが、それほど掛け離れた系譜の持ち主でもない、と言った背景のように思われる。

飛鳥の近辺で、名前が示す場所を探索してみよう。夜=亦+夕=谷間に山稜の端の三角州がある様珠=玉+朱=端が断ち切られたような山稜が連なる様と解釈した。

これらの地形要素を満足する場所を、古事記の小長谷若雀命(武烈天皇)の長谷之列木宮があった谷間に見出すことができる。多分、この宮跡に建て替えて住まっていたのではなかろうか。

斉明天皇紀に蝦夷達を招き、須彌山を造ったと記載されている。「列木宮」は、その中心の地と推定した。”九山八海”を背後にする地形なのである。正に「珠」がぐるりと取り囲んだ場所と思われるが(詳細はこちら参照)、果たして的を得ているであろうか?・・・續紀には、この後に登場されることはないようである。