2020年5月30日土曜日

天萬豐日天皇:孝德天皇(Ⅹ) 〔419〕

天萬豐日天皇:孝德天皇(Ⅹ)

 
人心一新し、改元も行って、いざ、と言った時になったと伝えている。「公地公民」は旧豪族との絶え間ない戦いであったろう。該天皇は、それに怯むことなく立ち向かったようである。最も恐れなくてはならなかったのはむしろ身内だったのかもしれない。とは言え、中国を見習いながら、着実に中央集権的な体制造りに励んだ、と物語は続く。白雉元年(西暦650年)冬十月である。原文引用は青字で示す。日本語訳は、こちらこちらなどを参照。

冬十月、爲入宮地所壞丘墓及被遷人者、賜物各有差。卽遣將作大匠荒田井直比羅夫、立宮堺標。是月、始造丈六繡像・侠侍・八部等卌六像。是歲、漢山口直大口、奉詔、刻千佛像。遣倭漢直縣白髮部連鐙難波吉士胡床、於安藝國、使造百濟舶二隻。

難波長柄豐碕宮を建てるために、その地にあったものを移させた。その人達への心遣いであろう。宮の「堺標」を立てたと記載されている。現在も「境界標」と言われ、石、木材、金属製の杭を隅に打ち込んで作られている。それに該当するか否かは定かではない。

仏像のことは不詳なので引用すると、「丈六(ジョウロク=仏像の大きさの基準)の繡像(ヌイモノノホトケ=刺繍の仏)・侠侍(ケウジ=脇侍菩薩)・八部(=天竜八部)などの36像を作りました」とのことである。また千仏像を彫ったり、百濟船二隻を造らせたと記している。

「荒田井直比羅夫」は倭漢直荒田井比羅夫として既に読み解いた。宮近隣の水田灌漑用の溝を間違えて造ったと記載されてもいる。その訴えに責は朕、と天皇が仰ったと語られていた。土木工事全般を任されていた人物であろう。彼の出自の場所は、未だにスッキリとはしないが、当時から地形を変形させていたのではなかろうか。
 
<漢山口直大口>
「倭漢直縣」がすぐ後に登場するが、おそらく「倭漢書直縣」のことであろう。「荒田井直比羅夫」の場所の近隣である(上記引用参照)。

● 漢山口直大口

「倭漢」ではなく「漢」である。この地も狭隘な地なのであるが、果たして文字が示す場所が見出せるか?…二つもの「口」がある。

現地名の田川郡赤村赤の戸城山東南麓の谷間が求めるところと解る。「大」は戸城山を示し、そこへの登り口の「口」と解釈される。

父親が「山口都黃」と伝えられている。「都」=「者+邑」と分解され、都=斜めに交差するような山稜(者)が集まる(邑)様と読み解ける。頻出の文字である。

黃(黄)=四方に広がる様を表す文字であり、それらが示す地形が、「口」を少し登ったところに見出せる。意祁命(仁賢天皇)が坐した石上廣高宮などに含まれている文字である。

調べると、「山口大口費」として、「法隆寺金堂に現存の『四天王像』のうち『広目天像』の光背に名を残し,当時著名な仏師であったことが知られる」と辞書に記載されている。千仏像ばかりではなく多くの重要な仏像を制作してのであろう。

この地は邇藝速日命が登美能那賀須泥毘古の妹、登美夜毘賣娶って誕生した宇摩志麻遲命の居場所と推定した。彼の後裔は穂積、物部、采女と広がり、その地より多くの人材が輩出したと伝えているが、本家の場所からは殆ど出現しなかった。仏像彫刻でお目に掛かることができたようである。
 
<白髪部連鐙>
● 白髮部連鐙

「白髪」は古事記の白髮大倭根子命(清寧天皇)の出自の場所、仁賢天皇の御子、手白髪郎女に係る地であろう。また天國押波流岐廣庭天皇(欽明天皇)の出自の場所の近隣と思われる。

「鐙(アブミ)」を如何に読み解くか・・・「鐙」=「金+登」と分解すると、既出の金=山稜に挟まれた谷間に高台がある様と読み解いた。

また頻出の「登」=「癶+豆」と分解して、登=山稜が二つに分かれるところにある高台と読み解いた。有名な夜麻登に用いられた文字である。

勿論「ヤマト」と言う固有の名称ではなく、「夜麻登」の地形は別所にもある。例えば古事記の大倭根子日子賦斗邇命(孝霊天皇)紀に意富夜麻登玖邇阿禮比賣命が登場する。現地名は北九州市門司区羽山辺りである。

それはともかくとして、谷間に突出た山稜の形を古式豊かな「壺鐙」と見做したとも思われるが、真意は定かではない。
 
<難波吉士胡床・吉士長丹・吉士駒>
● 難波吉士胡床・吉士長丹・吉士駒()

「難波吉士」の、後に登場する人物も併せて読み解くことにする。かなりの登場数になるので、果たして余地はあるのか、取り敢えず先に進んでみよう。

「胡床」の「胡」=「古+月」と分解される。「古」=「丸く小高いところ」であり、「月」=「山稜の端の三角州」である。「古」の地形は「難波吉士」では既出の難波吉士身刺の「刺」に該当するところであろう。

「床」の原字は「牀」と言われる。「牀」=「寝床、寝台」を意味する文字である。すると胡床=丸く小高い地(古)の端にある三角州(月)が寝床の形(床)をしているところと紐解ける。

延びた三角州の東側に川がほぼ真っ直ぐに流れていて、正に寝台状の地形であることが解る。この「吉士」の居場所は特定し辛いが、おそらく現在の五社神社辺りではなかろうか。現地名は行橋市南泉(一)

「長丹」はそのままで長丹=長い山稜が谷間から延び出たところと読み解ける。行橋市矢留の裏ノ谷池がある谷間から延びた山稜のを表していると思われる。こちらも居場所を定めるには情報不足のようであるが、現在の五社八幡辺りと思われる。現地名は行橋市大字福原であるが、大字流末との境に近い。

「駒」もそのままで駒=馬の背のようなところと読める。また絲=撚り糸であり、これもその形を示す同じ山稜(小高いところ)であろう。現在は広大な団地開発で大きく地形が変化しているが、その一部が残っているようである。図に示した場所、現地名は行橋市南泉(三)で釜割池の西岸である。
 
安藝國

「倭漢直縣・白髮部連鐙・難波吉士胡床」の三名が派遣されて「百濟舶二隻」を造った場所である。「安藝」は既出ではあるが、この二文字を読み解いてみよう。「安」=「宀+女」=「山稜に囲まれた麓で嫋やかに曲がる谷間がある様」である。天安河などで頻繁に用いられている。
 
<安藝國>
「藝」は古事記に多用されているが、今一度この文字が表す地形を読み解いてみよう。「藝」=「艸+埶+云」と分解される。
「藝」は通常使われる「芸」とは別字、「芸」は中国では殆ど使われない略字(中国では「艺」)だそうである。

埶」=「土を盛り上げた様」で「艸」を冠すると、「蓺」=「盛り上げた土地に草(植物)を生やす様」を表す文字と解説される。それに「云」=「耘(クサギル)」の略字を加えて、植物を生やすだけではなく、雑草を刈取る作業、即ち植物を整えた意味も含まれている文字であることが解る。

これを地形象形表現とすると「藝」=「延び出た山稜が揃って並んでいる様」と解釈される。纏めると安藝=山稜に囲まれた麓で嫋やかに曲がって延び出た山稜が揃って並んでいるところと読み解ける。

図に示した大きな谷間に無数の山稜並んでいる地形を示していると思われる。この地に東北の奥に、古事記の神倭伊波禮毘古命(神武天皇)が一時滞在した阿岐國之多祁理宮があったと推定した。現在の八所宮辺りではなかろうか。古事記は谷間を流れる釣川で台地が二つに岐れたように見えると記載している。同一地形の別表記である。

古事記で登場した「藝」は、藝=果てる(果てにする)と解釈した。自然のままの状態ではなく、手を加えて都合の良いものにしたことを意味する文字である。これを派生・展開すると「区切る、果て(にす、とな)る」を表す文字となったと解釈される。例えば、邇邇藝命多藝志などがある。「邇邇藝命」の場合は「邇(岐志國)が果てるところ」であり、「多藝志」では「(出雲の)多(賀)が果てにするところ」の解釈となる。場所の特定に有効であったが、上記の藝」=「延び出た山稜が揃って並んでいる様」としても、地形的には矛盾がないことが解る。多分、両意が重ねられた表記だったことに気付かされたようである。
 
<安藝國>
安藝國の周辺を眺めてみると、その西側は海(玄界灘)であり、南側には三郡山地が広がっている。

また大河釣川(当時はその中流域まで汽水の状態と推測)で分断された台地形状を表したと解釈される。確かに最果ての地に近いが、厳密はそうではない。

古事記の舞台の西方限界だとしても、おそらく書紀では更なる西方の地が登場する筈である。即ち、書紀では「最果ての地」ではないことになり、古事記のような重ねた表記は行っていないと思われる。

「安藝」は、通説では広島県西部に比定されている。神倭伊波禮毘古命(神武天皇)が奈良大和に届くには欠かせない地として扱われている。「藝」=「最果ての地」を意味することを重々承知でこの地に用いた書紀編者だったのであろう。取り敢えず、「安芸国」の”本貫”の地としておこう。

そんなこんなの見直しを行っていると、「安藝國」の範囲が見えて来た。西側の大きく広がった山稜は、「藝」には含まれないことになる。ずっと後になるが、續紀の文武天皇紀に周防國が登場する。詳細はご登場の時とするが、防=阝+方=台地が延びて広がった様と解釈され、図に示した場所の地形を表していることが解る。古事記の阿岐國は、書紀・續紀の安藝國周防國を併せた表記だったのである。尚、後の天武天皇紀に周芳國が出現するが、勿論、別の場所である。

二年春三月甲午朔丁未、丈六繡像等成。戊申、皇祖母尊請十師等設齋。夏六月、百濟・新羅遣使貢調獻物。冬十二月晦、於味經宮請二千一百餘僧尼使讀一切經。是夕、燃二千七百餘燈於朝庭內、使讀安宅・土側等經。於是、天皇從於大郡遷居新宮、號曰難波長柄豐碕宮。

時が進んで白雉二年(西暦651年)三月~十二月の記事である。「繡像」(刺繍の像)が完成し、六月には百濟。新羅が朝貢したと記載している。十二月の晦日には味經宮で大勢の僧侶を集めて盛大な読経が行われたと伝える。天皇が大郡から難波長柄豐碕宮に移る、従前に起こった事件の厄払いのためかもしれない。いよいよ新宮にて天下を治めることになったと記述している。

是歲、新羅貢調使知萬沙飡等、着唐國服、泊于筑紫。朝庭、惡恣移俗、訶嘖追還。于時、巨勢大臣奏請之曰。方今不伐新羅、於後必當有悔。其伐之狀、不須舉力。自難波津至于筑紫海裏、相接浮盈艫舳、徵召新羅問其罪者、可易得焉。

新羅の使者が「着唐國服」で筑紫に来たことを知って、追い返したと告げている。この時期の朝鮮半島内は唐と新羅の提携、それに従って百済との葛藤が激しくなりつつあったと思われる。それを知らないわけではない倭國としては心中穏やかでは居られない状況に陥っていたのであろう。
 
<筑紫海裏>
巨勢大臣が「自難波津至于筑紫海裏、相接浮盈艫舳」(難波津から筑紫海裏まで船の船首と船尾を接するように繋げる)ようにして、新羅を問い詰めよう、と提言したと述べている。戯言のようなので真面目に解釈されていないようだが、注目は「筑紫海裏」である。
 
筑紫海裏

「筑紫海」は従来より「有明海」の古名と言われて来たようであるが、定かではない、と断りが記載されている。だとしても「裏」は何処となると、全く不詳となってしまうであろう。

広大な有明海の裏は、この海の入口付近を除いて、結局九州島何処でも該当しそうである。幾度か述べたように「筑紫」は、有明海を囲む場所ではなく、企救半島の西部一帯を示す表記である。

すると「筑紫海」は、現在の北九州市小倉北区一帯、当時は大半が海面下と推定した場所を示すのであろうか?…やはりこれでは「裏」を示す場所が曖昧となってしまうようである。

解は「筑紫の海」は、古事記で宇美と言われたり、隋書俀國伝で海岸と呼ばれた場所と結論付けられる(図中北側の錨マーク)。「裏」の場所の現地名は北九州市小倉南区湯川・葛原辺りであろう。概算で難波津から24km、一艘の長さを約30mとすると、約800隻が必要となるが、武庫水門500隻集められるくらいだから、夢物語ではなさそうである。

まぁ、書紀編者の戯れとしておこう。注記すれば、遣唐使船の大きさをズバッと全長30m推定されている方がおられたので、それを採用。図中の船の全長は1,200m余計だが・・・。新任の巨勢大臣、頭がおかしいのでは?…浪速の難波からだよ!・・・全てを見越して書紀編者が残した記述であろう。

三年春正月己未朔、元日禮訖、車駕幸大郡宮。自正月至是月、班田既訖。凡田、長卅步爲段、十段爲町。(段租稻一束半、町租稻十五束。)

白雉三年(西暦652年)正月元日に儀式が終わって大郡に移られた。班田(分け与える口分田)が終わったようだが、少々文脈が読めないようである。三十歩=一段、十段=一町。(租税は段当たり稲一束半、一町では十五束)と決めれている。

三月戊午朔丙寅、車駕還宮。夏四月戊子朔壬寅、請沙門惠隱於內裏、使講無量壽經、以沙門惠資爲論議者、以沙門一千爲作聽衆。丁未、罷講。自於此日初連雨水至于九日、損壞宅屋傷害田苗、人及牛馬溺死者衆。是月、造戸籍。凡五十戸爲里、毎里長一人。凡戸主皆以家長爲之。凡戸皆五家相保、一人爲長、以相檢察。新羅・百濟、遣使貢調獻物。秋九月、造宮已訖。其宮殿之狀、不可殫論。冬十二月晦、請天下僧尼於內裏、設齋・大捨・燃燈。

三月になって豐碕宮に戻ったようである。色々と仏事を催したのだが、長雨が降って、損害が発生したとのことである。また戸籍を作って、戸数に合わせて里を定め、民生も組織化したようである。九月になって宮の造作が終了したのだが、災害対策中のことで、公にはしなかった。十二月晦日に僧尼を集めて仏事を行ったと記載されている。

こうして白雉三年が過ぎて、年明けを待つ時になったようである。さて、翌年は如何なる事件が勃発したのであろうか、次回へと・・・。





2020年5月26日火曜日

天萬豐日天皇:孝德天皇(Ⅸ) 〔418〕

天萬豐日天皇:孝德天皇(Ⅸ)

 
謀反人と決めつけられて逃亡劇が始まり、そこに重要なランドマークが登場する。山背大兄皇子の場合は「膽駒山」、「斑鳩寺」であり、蘇我倉山田石川大臣の場合は「茅渟道」、「今來大槻」、「山田寺」である。それらの地点を時空的に地図上に再現されて初めて解読されたと言うべきであろう。

前記で記述した倉山田大臣の事件は、「蘇賀」の地形を…とりわけ北西部~北部…詳細に伝えていることが解った。日本書紀は、隠蔽するランドマーク以外(例えば古事記の「(近)淡海」、「美和」など)については原資料のまま、あるいはむしろ解り易く書き換えて、記載していることが明らかになりつつある。

古事記の行程記述は、神倭伊波禮毘古命(神武天皇)の東行(その一部)、伊久米伊理毘古伊佐知命(垂仁天皇)紀の山邊之大鶙の木國~高志國への旅程、倭建命の熊曾・出雲國及び東方十二道の例が挙げられるが、そこに登場するランドマークの位置関係を浮かび上がらせた。地図というものが存在しない時代には必要な記述であり、それが忠実に、些か戯れ気味に記載されていた。

そんな思いを秘めて先に進んで行こう・・・左右大臣を失った訳で、早速新任の大臣の登場である。大化五年(西暦649年)四月から、原文引用は青字で示す。日本語訳は、こちらこちらなどを参照。

夏四月乙卯朔甲午、於小紫巨勢德陀古臣授大紫爲左大臣、於小紫大伴長德連字馬飼授大紫爲右大臣。五月癸卯朔、遣小花下三輪君色夫・大山上掃部連角麻呂等於新羅。是歲、新羅王、遣沙㖨部沙飡金多遂爲質、從者卅七人(僧一人・侍郎二人・丞一人・達官郎一人・中客五人・才伎十人・譯語一人・雜傔人十六人、幷卅七人也)。

空席となった左右大臣に巨勢德陀古臣(大紫:上位五番目)、大伴長德連字馬飼(同左)を当てたと記されている。既に登場した人物であるが、いつの間にやら小紫にまで昇進していたようである。「大伴長德連字馬飼」は「大伴連馬飼」から「長德」が付加され、その地を拡げたことを記していたと推測したが、「巨勢德陀古臣」は「巨勢德陀臣」に「古」が付加された名称である。
 
<巨勢德陀古臣・豐足臣・薬>
あらためて「巨勢」の地を示すと、「德陀」の場所から更に谷間を下流方向に進んだところに「古」らしき場所が見出せる。

「古」の付加は、領地拡大を表していることが解る。「巨勢臣德太」との境界は曖昧なところがあったが、その端境が「徳陀」に付与された様子である。

土地の帰属は、勿論現在も変わりはないが、生死に係る一大事、やはり大臣就任のようなことが起こらない限り発生しないことであったろう。

「大伴」は「蘇賀」の西部であって東部の「蘇我」に靡いているわけではなかったのであろうが、一族には変わりはない。まだまだ「蘇賀」に出自を持つ人物が上位に立つ配置であったことを告げている。

「巨勢」も含めて古事記の大倭根子日子國玖琉命(孝元天皇)の御子、建内宿禰を遠祖に持つ一族である。書紀は「淡海」絡みでこの一族の出自を明確には語らない、やはり無理筋の改竄作業を強いられた編者達であったろう。

後に唐への留学生として「巨勢臣薬」及びその父親「巨勢豐足臣」が記載される。「薬(クスリ)」としてしまっては勿体ない、「薬」=「艸+糸+白+糸+木」と分解する。すると薬=二つの細長い山稜(糸・木)に挟まれた小高い地(白)が集まった(艸)ところと読み解ける。「薬(クスリ)」=「草を擦り潰して小さな粒状にしたもの」と解釈するそうである。

図に示した場所と推定される。また父親は豐足=段差がある山稜が長く延びたところであり、息子の東側に当たる。現地名の直方市上頓野、尺岳の西麓にある谷間の奥深くの地である。継体天皇には「巨勢男人大臣」が記載されている。天皇家には以前より貢献のあった人物が輩出していた地域なのであろう。

新羅へ「三輪君色夫」、「掃部連角麻呂」等を派遣したと記されている。三輪君色夫は既に読み解いて足立山西麓の谷間の入口付近を出自の場所と推定した。後者は初出である。ところが「掃部連」については、書紀中でも孝徳天皇紀になって初めて登場し、何らの情報も得られず、Wikipediaを見ると…、

「掃守連氏」は宮殿の清掃・舗設を職掌とした「掃守部」を率いた伴造氏族で、『新撰姓氏録』「左京神別」には「振魂命四世孫、天忍人命之後也」とあり、高安郡掃守郷(現在の大阪府八尾市南高安町一帯)を根拠地としていたと推定される。

…と記載されている。すると「河内」と近隣と推定される。後に「掃守連小麻呂」も登場することから併せて該当する地があるかを探索することにする。「掃」=「手+帚」と分解される。「
帚」=「箒(ホウキ)」を象った文字と解釈される。掃=山稜の先が[箒]のような形をしたところと読み解ける。
 
<掃部連角麻呂・掃守連小麻呂>
図に示した、現地名の京都郡みやこ町勝山浦河内と勝山矢山の間にある山稜が「箒」の地形を示していることが判る。


「掃部連角麻呂」の「角」=「隅」であり、延びた山稜の隅にある「麻呂」を表している。一方の「掃守連小麻呂」は「小さい」と読むと山稜の端の小高いところと推定される。

ここで実に丁寧な文字の使い分けがなされていることに気付かされる。「部」と「守」である。部=区切られた地であって、「箒」の山稜に直接くっ付いているのではなく、先端で小高く盛り上がった地形である。

既出の「守」=「宀+寸」と分解すると、守=肘を曲げたような(寸)山稜に囲まれた(宀)ところと読み解いた。

小ぶりなのだが、その地形を示していて、勿論地図上には川は記載されないが、幾つかの堰も見出せる。既出の物部守屋大連などに含まれていた。

「掃部連」と「掃守連」は通例に違わず、一文字一文字に地形象形の情報を埋め込んだ名称であることが解る。「河内」近隣として紐解いた結果は、申し分のない地形象形表記である。尚、それぞれの現地名は、京都郡みやこ町勝山岩熊、勝山浦河内である。

新羅が多くの従者と共に「金多遂」を送り込んで来たと伝えている。そして金多遂」を人質にしたようである。かつての「金春秋」と入れ替えなのであろうか。従者の中に「譯語一人」(通訳者)が含まれている。新羅は「倭人」とは異なる言語文化圏の中にあったのであろう。

白雉元年春正月辛丑朔、車駕幸味經宮、觀賀正禮(味經、此云阿膩賦)。是日、車駕還宮。二月庚午朔戊寅、穴戸國司草壁連醜經、獻白雉曰、國造首之同族贄、正月九日、於麻山獲焉。於是、問諸百濟君、百濟君曰、後漢明帝永平十一年白雉在所見焉、云々。又問沙門等、沙門對曰、耳所未聞・目所未覩、宜赦天下使悅民心。道登法師曰「昔高麗、欲營伽藍、無地不覽。便於一所白鹿徐行、遂於此地營造伽藍、名白鹿薗寺、住持佛法。又白雀見于一寺田莊、國人僉曰休祥。又遣大唐使者持死三足烏來、國人亦曰休祥。斯等雖微尚謂祥物、況復白雉。」僧旻法師曰「此、謂休祥足爲希物。伏聞、王者旁流四表則白雉見。又王者祭祀不相踰・宴食衣服有節、則至。又王者淸素則山出白雉、又王者仁聖則見。又周成王時、越裳氏來獻白雉曰。吾聞、國之黃耈曰、久矣無烈風淫雨江海不波溢三年於茲矣、意中國有聖人乎、盍往朝之、故重三譯而至。又晉武帝咸寧元年、見松滋。是卽休祥、可赦天下。」是以白雉使放于園。

白雉元年(西暦650年)正月となる。元号「白雉」についての謂れが引き続いて記載されている。賀正礼は味經宮(阿膩賦)で行われたと言う。「車駕」味經宮から豐碕宮へパレードしたのであろう。二月に、その謂れが記載される。「穴戸國」とくれば、例の関門海峡近辺、勿論、そんな訳はないのだが、その近隣の山で捕獲した「白雉」を献上したと記している。

これは大変良い兆候だと、様々な識者が故事を引き合いに出して進言し、何と元号にしたと言う。百濟君まで登場するのだが、「人質」の解釈を何とかしないと、意味が通じないようであるが、興味薄なのでスルーである。
 
味經宮(阿膩賦)

既に難波長柄豐碕宮の場所と併記したが、あらためて、訓の「阿膩賦」の解釈も合せて紐解いてみよう。味經=尾根を横切る谷間の道の入口で山稜が突き通すように延びるところと紐解いた。「味」の文字は、頻度は高くないが、古事記、書紀を通じて極めて重要な地形を表す文字である。古事記では、山佐知・海佐知毘古の説話に登場する味御路、男淺津間若子宿禰命(允恭天皇)紀の味白檮がある。そして書紀の「味經」に通じる。
 
<味經宮(阿膩賦)>
「阿膩賦」は何と読み解けるであろうか?…「阿」=「台地」、「膩」=「油が滲み出た様」、「賦」=「割って与える」と読む。

今までに出現しなかった「膩」は、辞書では「皮膚に滲み出た脂」と解説されている。「膩」=「月+弍+貝」と分解され、貝が二股の舌をそっと出した様ではなかろうか。

纏めると阿膩賦=滲み出た油()のような台地(阿)が割かれて引っ付けられた(賦)ところと読み解ける。「經」の地形の詳細を訓で表現していることになる。

実に精緻に、そして地形に忠実に表現していることが伺える。古事記は太安萬侶…勿論単独ではなかったであろうが…書紀編者達の洗練された文字使いは称賛に価すると思われる。

通説は豐碕宮の周辺に「味」が付いた地名を求めることに尽きる。その文字が表す極めて特徴的な地形を示す場所なのであろうか、古よりそう呼ばれて来た、では済まされないのである。故に何十年、いや、何百年かかっても確たる証拠が見出せない(であろう)考古学に全てを委ねることになるのである。
 
● 穴戸國司草壁連醜經・麻山

「宍戸國司」は書紀編者にしてみたら、してやったりの表記であろう。十中八九に「穴戸」の近隣に比定して来るであろうと読んでいたと思われる。都から遠く離れた地に白雉を見て、縁起が良い、「穴戸國」までヤマト政権の力が及んでいた証、と言うのであろうか・・・詭弁であろう。

既に示した図を再掲する。何度も述べたように「穴戸」は固有の名前ではない。「穴」=「宀+ハ」であり、穴戸=山稜に挟まれた(宀)谷間(ハ)の入口(戸)である。大伴連馬飼に含まれる「司」=「人+口」であり、司=谷間(人)にある隙間のようなところ(口)と読み解いた。頻出だが、あらためて「國」=「囗+或」と分解され、國=ある範囲を区切る様を表す文字である。
 
<穴戸國司草壁連醜經・麻山・白雉>
「穴戸國司」=「穴戸・國・司」に分けると、
穴戸國司=[穴戸]と[司]に挟まれた[國]と読み解ける。これが書紀編者の”してやったり”の”その心”である。

図に示したように金辺川の流れが「穴戸」で入り、「國」を通って「司」で抜ける地形を表している。
勿論、この地は「草壁」=「日下部」の場所である。現地名は田川郡香春町採銅所の宮原である。

「醜經」の二文字は、直近で見かけた文字で、高田醜醜に温まれる醜=酉+鬼=皺が縮んだように小高いところからもやっと山稜が延びているところと読み解いた。

味經宮に含まれる經=山稜が突き通す様である。即ち、凹凸のある山稜が真っ直ぐに延びているところを表している。図に示した「穴戸」の片割れの地形である。ご本人は、この「經」の西側の麓に居たのであろう。「國」の場所には、小字瀬戸と名付けられていたようである。

白雉を捕獲した麻山の麓に当たる場所である。頻出の「麻」=「擦り潰したような様」であり、そんな頂を持つ山と述べている。香春二ノ岳と三ノ岳の間にある尾根の形状そのものであろう。ダラダラっと尾根が繋がっているのではなく、ちゃんと区切られているから感動である。香春一ノ岳の状況を見ると、国土地理院には年代別の地形図が残されているように思うが、今後も、そうあるように願うばかりである。

「瑞鳥」を献上する記事が後の天武天皇・持統天皇紀に頻出するようになる。実はその時に漸く鳥の献上が意味することに気付かされた。それは「鳥の形の地」を献上、即ち「公地」とした物語だったのである。山麓、海辺など未開の地を開拓した事例を鳥の献上として記載している。現在に至るまで全く読み取れていなかったのである。白雉=二つくっ付くように並んだ矢のような鳥と読み解ける。麻山の所在もこれにて確信されることになったと思われる。

甲申、朝庭隊仗如元會儀、左右大臣百官人等爲四列於紫門外。以粟田臣飯蟲等四人使執雉輿而在前去。左右大臣乃率百官及百濟君豐璋・其弟塞城・忠勝・高麗侍醫毛治・新羅侍學士等而至中庭。使三國公麻呂・猪名公高見・三輪君甕穗・紀臣乎麻呂岐太四人代執雉輿而進殿前。時、左右大臣就執輿前頭、伊勢王・三國公麻呂・倉臣小屎執輿後頭、置於御座之前。天皇卽召皇太子共執而觀、皇太子退而再拜。使巨勢大臣奉賀曰「公卿百官人等奉賀。陛下以淸平之德治天下之故、爰有白雉自西方出。乃是、陛下及至千秋萬歲淨治四方大八嶋。公卿百官及諸百姓等、冀磬忠誠勤將事。」奉賀訖再拜。

甲申(二月十五日)に「白雉」を捧げ祀っての儀式の様子が語れている。やはり元号にするにはお披露目が必要であったのだろう。「大八嶋」勿論日本列島と解釈されるのであろうが、伊邪那岐・伊邪那美の生んだ大八嶋とは異なる。「蝦夷」の地は全くの手付かずの時期に述べるのは矛盾があろう。故に「天下(地上)」と解釈するのだそうだ・・・簡単なことのようである。

三韓の来朝者、ご来賓とでも…国威発揚の場所には欠かせなかったかも、である。「有白雉自西方出」と記されている。「穴戸」を関門海峡にすると「北方」となる。難波長柄豐碕宮が中心の時である。奈良大和から見れば、誤差の範囲かもしれない。ずらっとお歴々が並んでいる。彼らの出自を求めてみよう。一人、極めて興味深い人物が登場する。

● 粟田臣飯蟲・三國公麻呂・三輪君甕穗

粟田臣飯蟲三國公麻呂三輪君甕穗の出自の場所は既に読み解いた。「粟田臣飯蟲」は粟田臣一族で細く短い谷間から幾人もの人材を輩出した地である。現地名は田川郡赤村内田の西端、大任町今任原に隣接するところである。「三國公麻呂」は前記で登場、現地名は北九州市門司区大里であるが、小倉北区と小倉南区の端境を示している。

最後の「三輪君甕穗」は多くの「三輪君」の中で北側に居た君である。現地名は北九州市小倉北区足立、現在は広大な公園となっているところである。舒明天皇紀以降、それぞれの先達が既に登場して来た土地であり、後裔達が順調に天皇家を支える立場になっていたことを告げている。

● 猪名公高見

興味深いと述べた人物名の登場である。関連する情報は「猪名部は木工を専業とした職業部(品部)」程度ある。書紀の中で検索すると…、

①応神天皇紀「當是時、新羅調使共宿武庫、爰於新羅停、忽失火、卽引之及于聚船而多船見焚。由是責新羅人、新羅王聞之、讋然大驚、乃貢能匠者、是猪名部等之始祖也。初枯野船爲鹽薪燒之日、有餘燼、則奇其不燒而獻之。天皇異以令作琴、其音、鏗鏘而遠聆、是時天皇歌之曰、・・・」

「枯野船」の木材を利用して「琴」を作ったと言う記述は、古事記では仁徳天皇紀に登場する。改竄の匂いがプンプンするところ、当然であってこの地は「淡海」に面する「出雲」であり、その「淡海」を走る舟が枯野號なのである。

更に古事記は”とんでもない”ことを記述していて、出雲にある高い木の影が「淡道」に届き、影の反対側は高安山を越えると言う。これは致命的な記述であって、現在の出雲では到底解釈不能な位置関係を示しているのである。少々の文字変更では抑え切れない有様で、結果上記のような大幅書換えとなった、次第であろう。

②天武天皇紀「是月、大紫韋那公高見、薨」

表記は異なるが、おそらく同一人物のようである。「大紫」であるから大臣並の地位であったのだろう。
 
<猪名公高見>
ここで、この大改竄の箇所に出くわすとは思いもよらず、実のところは、この人物の出自を求めるのにかなりの時間を要したのである。がしかし、上記の記述から、一気に氷解することになった。

木の影が指し示す「高安山」の麓は、大國主神(命)の後裔である葦那陀迦神(八河江比賣)が坐したと推定した場所である。

読んでの通り「猪名公高見(イナ・タカミ)」の名称と読み解ける。おそらく、ほぼヤケクソ気味の表記ではなかろうか。

では、得意のスルー方式も考えられたであろうが、この人物を略するわけには行かなかった。あまりにも記述時期との隔たりが少なく、”大物”として記憶に新しかったのであろう。そして「韋那」と近付けている。

「木工」を生業とすることも判り易いことである。近隣の「土師」と重ねてこの地の重要性、天皇家にとって、職能集団の発祥の地であったことが伺える。そして相変わらずこの地の南西部からは人材が出現しないのである。

ヤケクソ気味と記したが、書紀編者の良心と理解しておこう。読み解けるとは期待されてはいなかったであろうが、その出自の場所を突止めることが可能な表記をしていたのである。当時の官吏は命懸けの仕事をしていたであろう。その中では精一杯の”抵抗”であったように思われる。昨今の為体さ・・・無駄かもしれないが・・・。
 
<紀臣乎麻呂岐太>
● 紀臣乎麻呂岐太

「紀臣」の一族であろう、現地名の豊前市大村辺りで探索すると、図に示したところではなかろうか。

山稜の端が平たく、凹凸が少なくなって地図上では判別が難しくなってはいるが、文字が示す地形を何とか見出せるようである。

「乎」=「+丂」と分解される。この字は「呼」などの構成要素である。即ち「曲ながら分かれ出る様」を表す文字と解説される。魏志倭人伝に登場する卑弥呼などで出現している。

残りの文字は既出であってそれらの組合せで読み解ける。乎麻呂岐太=曲がりながら分かれ出た(乎)[麻呂]の地が広がり延びた山稜(太)と岐れた(岐)ところとなる。

「紀臣」一族は悪いこともするが、それなりに人材を輩出していた地であることが解る。地形を見る限りにおいて、豊かな水田を切り開いていたのであろう。故に元気な一族となっていたと推測される。ところで紀臣(氏)の本拠地は現在の奈良県生駒郡平群町辺りと言われているようである。すると「平群臣(氏)」は?…なるが同族だから近接する居場所となっている。いずれにしても建内宿禰の後裔に関しては、支離滅裂のようである。また、いずれかの時に・・・。
 
<倉臣小屎>
● 伊勢王・倉臣小屎

簡単に「伊勢王」と記載される。これも言わずもがなで理解できる場所なのであろう。

すると古事記で記述される沼名倉太玉敷命(敏達天皇)の御子、寶王(別名糠代比賣王)であって、この王から「舒明天皇」が誕生する。父親は日子人太子である。皇祖が坐した地の王であろう。

「倉臣小屎」は「蘇賀」の「倉(谷)」の入口辺りと思われる。「屎」=「尸+※(米)」と分解できる。屎=崖下にある米粒のようなところと読み解ける。現地名京都郡苅田町谷に求める地形が見出せる。

「蘇賀」の一族もそれなりに登用していたのであろう。バランスも必要、と言うところであろうか。元号も変え、一新した陣容での船出を煌びやかに飾ったのであろう。更に事の謂れが語られている。

詔曰「聖王出世治天下時、天則應之示其祥瑞。曩者、西土之君周成王世與漢明帝時白雉爰見。我日本國譽田天皇之世白烏樔宮、大鷦鷯帝之時龍馬西見。是、以自古迄今祥瑞時見、以應有德、其類多矣。所謂鳳凰・騏驎・白雉・白烏、若斯鳥獸及于草木有苻應者、皆是天地所生休祥嘉瑞也。夫明聖之君獲斯祥瑞適其宜也、朕惟虛薄何以享斯。蓋此、專由扶翼公卿臣連伴造國造等各盡丹誠奉遵制度之所致也。是故、始於公卿及百官等、以淸白意、敬奉神祇、並受休祥、令榮天下。」又詔曰「四方諸國郡等、由天委付之故、朕總臨而御寓。今我親神祖之所知穴戸國中有此嘉瑞、所以、大赦天下・改元白雉。」仍禁放鷹於穴戸堺、賜公卿大夫以下至于令史、各有差。於是、褒美國司草壁連醜經、授大山、幷大給祿、復穴戸三年調役。

天皇が仰るには聖王が天下を治める時には「祥瑞」(吉兆)が現れるもの、と過去の例が挙げられている。「朕惟虛薄何以享斯」(朕は空虚浅薄にしてどうしてこれを享けるに価しよう)と思う故に、これは全て公卿・臣・連・伴造・國造等の協力があってのことだ、と述べてられる。僭越ながら立派である。

夏四月、新羅遣使貢調。(或本云、是天皇世、高麗・百濟・新羅三國」、毎年遣使貢獻也。)

新羅の調貢のこと、一説には三韓から揃って毎年あったと伝えている。

一大騒動が漸く静まりそうな雰囲気を語ったようである。さて、続きは次回としよう・・・。


2020年5月23日土曜日

天萬豐日天皇:孝德天皇(Ⅷ) 〔417〕

天萬豐日天皇:孝德天皇(Ⅷ)


大化三、四年(西暦647,648年)は大過なくの様相であった。難波長柄豐碕宮を造ったにしても難波への投資は半端ではなかったようである。加えて二つの柵(対新羅、蝦夷ではない)を設けるなど将来への布石の時であったと思われる。年が明けて大化五年(西暦649年)へと続く。原文引用は青字で示す。日本語訳は、こちらこちらなどを参照。

五年春正月丙午朔、賀正焉。二月、制冠十九階。一曰大織、二曰小織、三曰大繡、四曰小繡、五曰大紫、六曰小紫、七曰大花上、八曰大花下、九曰小花上、十曰小花下、十一曰大山上、十二曰大山下、十三曰小山上、十四曰小山下、十五曰大乙上、十六曰大乙下、十七曰小乙上、十八曰小乙下、十九曰立身。是月、詔博士高向玄理與釋僧旻、置八省百官。

正月に賀正をして冠位を改め、十九階に増やしたと記している。最後の「建武」はその主旨を明確にするためであろうか「立身」となっている。また、二人の博士、高向玄理と釋僧旻に八省と百官を定めさせたとのことである。官吏は細分化され、そのぞれの役割分担がはっきりとして来たのであろう・・・という状況の中で事件が発生する。

三月乙巳朔辛酉、阿倍大臣薨。天皇幸朱雀門、舉哀而慟。皇祖母尊・皇太子等及諸公卿、悉隨哀哭。戊辰、蘇我臣日向(日向字身刺)譖倉山田大臣於皇太子曰。僕之異母兄麻呂、伺皇太子遊於海濱而將害之、將反其不久。皇太子信之。天皇、使大伴狛連・三國麻呂公・穗積嚙臣於蘇我倉山田麻呂大臣所而問反之虛實。大臣答曰、被問之報僕面當陳天皇之所。天皇、更遣三國麻呂公・穗積嚙臣審其反狀、麻呂大臣亦如前答。天皇乃將興軍、圍大臣宅。大臣乃將二子法師與赤猪(更名秦)、自茅渟道逃向於倭國境。大臣長子興志、先是在倭(謂在山田之家)營造其寺。今忽聞父逃來之事、迎於今來大槻近、就前行入寺。顧謂大臣曰、興志請、自直進逆拒來軍。大臣不許焉。是夜、興志意欲燒宮、猶聚士卒(宮謂小墾田宮)。

己巳、大臣謂長子興志曰、汝愛身乎。興志對曰、不愛也。大臣、仍陳說於山田寺衆僧及長子興志與數十人曰。夫爲人臣者安構逆於君、何失孝於父。凡此伽藍者元非自身故造、奉爲天皇誓作。今我見譖身刺而恐横誅、聊望、黃泉尚懷忠退。所以來寺、使易終時。言畢、開佛殿之戸、仰而發誓曰、願我生々世々不怨君王。誓訖、自經而死。妻子殉死者八。是日、以大伴狛連與蘇我日向臣爲將領衆、使追大臣。將軍大伴連等及到黑山土師連身・采女臣使主麻呂、從山田寺馳來告曰、蘇我大臣既與三男一女倶自經死。由是、將軍等從丹比坂歸。

三月の半ばになって阿倍大臣が亡くなり、天皇は大変悲しみ、また全ての公卿が葬儀に参列したと記載されている。その一週間ばかり後に蘇我日向(身刺、身狹)が、もう一人の倉山田大臣が皇太子を殺害しようとしていると嘘の密告をしたと告げている。それを信じた中大兄皇太子が即座に行動を起こすのである。何とも簡単な動機付けであろうか。

その後の顛末の粗筋を述べると・・・天皇は三名の使者を大臣の許に送って事の真相を訊ねようとしたが、大臣は天皇直々に話すと言って取合わなかった。再度の使者にも同じ対応で、天皇は軍を差し向けることになった。一方の大臣は直々にお目通り叶わぬようだからと、全てを察して逃亡することにし、倭国国境を越えようとしたところで長男がそれを止めた、と記載されている。

結局、元の場所にある寺に戻って、従者諸共に自害することになる。ここで戦っては謀反人になる、と言ったという。何とも呆気ない最後であるが、深読みすれば様々に語ることができるようであるが、中大兄皇太子の奸計のようであろう。倉山田大臣の娘達は皇統に絡んで行く。かつての蘇我一族が再現されるとも限らない状況であったと思われる。

いずれにせよ「蘇賀」で興隆した一族が歴史の表舞台から、天皇の血統に深く関わりながら、引き下がる切っ掛けとなった事件である。「公地公民」を唱える新体制、群雄割拠に豪族達への見せしめ的な要素も含んだ、一枚岩の体制へと歩む天皇家と思われる。

多くの登場人物、地名が記されている。本事件の現場検証を行ってみよう。通説の解釈では矛盾だらけ、のように思われるのだが・・・。先ずは登場人物の出自の場所を求めておこう。

● 蘇我臣日向(身刺)

倉山田大臣の異母兄弟と知られる。その出自の場所は、大臣の谷間を更に奥に進んだ、山背大兄皇子の場所に隣接する地と推定した。既に蘇我(日向)身狹臣として登場済みである。「字」の漢字表記が微妙に異なっていることが判る。
 
<蘇我臣(日向)身刺>
これらを纏めて読み解いてみよう。「身」=「弓+矢」を合せた文字で、身=弓状の形を表すと読み解いた。変えられているのが「狹」→「刺」である。

「狹」=「犬+夾」と分解して、狹=平らな頂の麓で山稜に挟まれた様と紐解いた。「狭い」と解釈しても何とか辿り着けるのであるが、「狭い」とする基準が曖昧であろう。

「刺」=「朿+刀」と分解される。「朿」=「棘」であり、刺=刀のような尖った棘のような様と読み解ける。図に示した場所に山稜から突き出た「棘」のような地形が見出せる。

おそらくこの「棘」の先端辺りが居場所であったと思われる。南は異母兄弟の倉山田麻呂大臣がしっかりと根を下ろし、東~北は犬上一族が広大な棚田とした地であり、その狭間で鬱積した日々を送っていたのではなかろうか。

古事記で大国主命の出自の場所を刺國と記載される。「棘」の形をした島、現在の福岡市西区にある小呂島と推定した。木(山稜)から突き出た「棘」ではなく、「棘」そのものの形を用いた表記である。併せて「日向」は竺紫日向で登場し、日向=炎のような山稜(日)が北に向かって延びている(向)ところと紐解いた。

「身狹」、「身刺」、「日向」の表記は、この臣の出自の場所の特徴を明確にしている。物語上は敵役なのだが、貴重な地形に関する情報を提供しているのである。不幸な生立ちであった、としておこう。使者三名、全て初登場である。
 
<大伴狛連>
● 大伴狛連

頻出の「大伴」の中で「狛」の地を求めることになる。「狛」は狛犬で使われる文字なのであるが、先ずは文字解釈を行う。

「狛」=「犬+白」と分解される。「白」は団栗の形を象った文字なのであるが、その色から展開した意味が重要である。

古事記の神倭伊波禮毘古命(神武天皇)紀で登場した青雲之白肩津の例を挙げておこう。「白」=「くっ付いて並ぶ様」と読み解いた。

余談だが・・・「狛犬」は朝鮮半島の高麗から伝わったことに由来する、と言うのが定説とのことである。「白」=「くっ付く、せまる(迫)」の解釈からの解説は見当たらないようである。「二頭がくっ付いて並ぶ、迫っている犬」と読めるのだが・・・。

元に戻って、すると狛=平らな頂の山稜の端(犬)がくっ付いている(白)ところと読み解ける。長く延びた山稜の端の平坦になったところが近接しているところを示している。狛犬と同じく、谷間の入口に当たると思われる。

図に示した場所、ここまで「大伴」と表現しているようである。これ以上の登場はご遠慮願いたいのであるが果たしてどうなることやら・・・。
 
<三國麻呂公>

● 三國麻呂公
 
通説では全くコメントされない「三國」なのであるが、舒明天皇紀に簡単に三國王として登場していた。

「麻呂公」と付記されている。詳細になっているのであるが、図に示したように、尾根に限りなく近接する谷間に、「公」=「ハ+ム(段差)」と分解して、公=谷間にある段になったところが見出せる。

その地形が「麻呂」と告げていると読み解ける。現在は登山道も通っていないような感じであるが、尾根近くの狭い谷間にあるなだらかな場所と思われる。

尚、現在の行政区分を図に示したが、北九州市小倉北区、小倉南区、門司区の分岐点になっていることが分かる。山名の富野山は小倉北区の麓の地名に因むものであろう。「記紀」の「國境」が現在の行政区分と重なる例に度々出くわすが、これも重要な”史実”として捉えたいものである。
 
<穂積嚙臣>
● 穗積嚙臣

古事記では、とっくの昔に歴史の表舞台から引き下がった筈の「穂積臣」がそれなりに登場する。邇藝速日命一族として有能な人材輩出の地であったようである。

「嚙」=「口+齒」と分解される。古事記で大雀命(仁徳天皇)紀に丸邇臣口子と記載される。「丸邇一族」が「穂積一族」の地を席捲した後のことである。

やはり元来の「穂積」を名乗っていたことを告げていると推察される。この地も現在の行政区分と重なって実に興味深いところである(香春町と赤村内田)。

「三國麻呂公」と「穗積嚙臣」は、二度も倉山田大臣の許に出向かされたわけである。下っ端では、なかなか上位者の説得は叶わなかったのであろう。そして予期せぬ方向に、いや、筋書き通りに大事に至るのである。
 
法師・赤猪(秦)・大臣長子興志

次男、三男の「法師」と「赤緒」の出自の場所は既に読み解いたこちらを参照。倉山田大臣の地に因む命名である。長子「興志」の出自の場所を求めていなかった。長男らしく早速行動を起こすのであるが、彼の居場所は重要な意味を持っている筈である。
 

<興志>

「興志」の興=多くの山稜に挟まれた筒型の谷間と読み解いた。法興寺で用いられた文字である。その谷間は容易に見出せる。

「蘇我」の特徴ある志=蛇行する川(之)が流れる谷間、おそらく住まっていたのはその出口辺りかと思われる。西の蘇我一族が東に出没することは珍しかったのではなかろうか。

乙巳の変が起こる前としたら、こんな交流もあったであろうし、山背大兄皇子の件でも、蝦夷大臣に真面には逆らえず、留保の態度を取り続けた父親倉山田大臣の気持ちも察しが付くようである。

ひょっとしたら人質だった?…ともかくも蘇賀の東西は決して融和な雰囲気ではなかったことの証であろう。彼は父親に合流して共に戦うよう説得するつもりで「今來大槻」で出迎えたと記されている。
 
茅渟道・今來大槻

倉山田大臣は二人の息子と共に逃亡した。その行程に登場するのが「茅渟道」と「今來大槻」と記載されている。目指したのは「倭國境」である。「茅渟」は既出で、茅渟王で用いられていた名称である。茅渟=水溜り(渟)の傍で[矛]が並んだ(茅)ようなところと読み解いた。「渟」は前記の渟足柵渟中倉太珠敷(敏達)天皇など書紀では多用されている。

この特徴的な地形は簡単に見出せる。既に読み解いた大伴鯨連の出自に関わる、その魚の尾鰭が示す場所である。当時の「渟」の地形とは異なるであろうが、山稜の基本的な様子には変わりはないと推測される。現地名は京都郡苅田町山口である。「茅渟王」との類似性は極めて高いものと思われる。

すると逃亡行程の最初の場所が浮かんで来る。大臣の家から少し北側、白山多賀神社の先の谷間を下るルートであろう。二人の息子の名前「法師・赤尾(別名秦)」が記載されるのは、彼らの居場所を通過するからと気付かされる。「秦」は谷間の麓までを含めた名称である。大臣になって「石川」が付加される。正にその川の上流近辺、蘇我の西部一帯を統治するかのような状況であったと告げている。

「大伴」の脇をすり抜け、更に「茅渟」の縁にある曲りくねった沼の畔を逃げ、辿り着いたのが「今來大槻」と記載される。「今來」は既出で、蝦夷大臣が息子の入鹿臣と大陵・小陵の墓所を造った地名(現地名は田川郡福智町弁城)であった。

倉山田大臣が居場所の現地名は京都郡苅田町本谷であり、いきなり田川郡福智町に飛んでしまうことになる。ではこの「今來」は別の場所を示す?…大事なことは地名と読み取れる表記は、勿論地形象形である。「今來」の地形、そしてこれに続く「大槻」の文字が示す場所を表していると解釈する。
 
<茅渟道・今來大槻>
今一度「今來」の解釈を述べると、「今」=「亼+一」と分解すると、地形象形的には、「今」=「蓋をするように覆い被さる様」と解釈される。

すると今來=覆い被さるように山稜が広がり延びているところと読み解ける。

それが「大槻」と述べているのである。「槻」=「木(山稜)+規」と分解される。更に「規」の原字は「䂓」であり、「䂓」=「矢+見」と分解される。「丸く描く様」(コンパス)を表す文字と解説される。

地形象形的にはそのまま用いて、大槻=平らな頂の山稜の麓が小高く丸くなっているところと読み解ける。その地の場所を図に示した。そして逃亡行程を推測すると図の二重破線のようであったと思われる。「山田之家」から奥の谷間を駆け下り、「大伴」の谷間を下って「茅渟道」に入る。曲りくねりながら進むと「今來大槻」の麓に着く。そこが「興志」と出会った地である。

ここから東北に駆け上れば「倭國境」を経て「三野國」(古事記表記、または神武天皇の熊野村)へ抜けることができる山麓である。神武天皇の時代とは異なるであろうが、やはり越え難い境だったであろう。「興志」はこの地のほぼ真南に当たる場所である。一早く父親に出合うには適切であったと思われる。
 
<黒山・丹比坂>
父親を説得して本拠地で戦うつもりであったが、父は拒んだと述べている。「倉山田」に戻るには2~3km、山道だから1~2時間を要したと推定される。

結局「山田寺」で自害することになった。親子、妻子の殉死者八名と記されている。現在の東伝寺辺りと推定される。勿論痕跡も残されてはいないであろう。

「興志」は小墾田宮を襲おうかと思ったと言うのは、やはり蘇我一族(蘇賀東部)の連中が許せなかった。一方にしてみれば入鹿臣を惨殺された遺恨もある。

そうして見ると蘇我一族の確執に付け込んだ中大兄皇太子(多分、中臣鎌子連も)の奸計の様相を示しているようである
 
黒山・丹比坂

攻め手の軍の行動について記されている。正面から攻めようとした行程であろう。「倉山田」に向かう道筋が示されている。「黑」=「囗+※(米)+灬(炎)」と分解される。

黑=稲作の田が[炎]の麓にあるところとなる。古事記に幾度か登場する文字である。仁徳天皇紀の黑比賣の例を示しておこう。すると倉山田大臣の娘の一人、遠智娘(天智天皇に嫁ぎ、持統天皇を生む)の場所に重なる場所と解る。

既出の丹=谷間から山稜が生え出た様と読んだ。それらが並んだ様(比)を表している。図中に稜線を辿る山道が、完全に繋がってはいないが見受けられる。麓の谷から向かうと黒山の南麓に届く。勿論この道が、現在は車道になって異なる経路で通じているが、表道であろう。
 
<土師連身/八手>
將軍の大伴連等が黑山に至った時に、山田寺の状況を偵察した「土師連身・采女臣使主麻呂」が既に事は決したことを告げて、将軍等は引き揚げたと記載されている。


● 土師連身

「土師」の地で「身」の地形を探すと、上記とは異なって「身」=「ふっくらとした腹の様」と読む。図に示した山稜の形を表していると思われる。

弓状の解釈は横から、「ふっくらとした腹」は正面から見た形となろう。「身」もそれなりに使い勝手が良いように思われる。故に多用されるのであろう。

また、後に「土師連八手」が登場する。八手=手のような山稜の前で山稜が二つに岐れているところと読み解ける。「土師連身」の西側と推定される。現地名は北九州市門司区松崎町である。

● 采女臣使主麻呂
<采女臣使主麻呂>

「采女」の地にも多くの登場人物があったが、果たして何処に居たのであろうか?…「使」=「人+吏」と分解される。

更に「吏」=「史+一」=「中+手+一」と分解すると、頻出の文字要素から成ることが解る。吏=延びる山稜を真ん中で一つに纏めた様と読み解ける。

「主」=「灯火が真っ直ぐに上に延びる様」を象った文字と知られる。勿論古事記には頻出の文字である。

すると使主=山稜を真ん中で纏めてその先に延びた山稜を表していると読み解ける。

「麻呂」である以上、出自の場所は現在の八旗八幡宮(北九州市小倉南区長尾)のある小高いところの麓辺りではなかろうか。「采女」もほぼ埋まったのではなかろうか・・・。

この地は古事記の倭建命が伊服岐能山の神様に惑わされて、すっかり体力消耗の状態となって身体が「三重」になったと仰った地である。「使主」の文字が表す「三重」である。現在は三重県四日市市采女町に名前を残しているのだが、如何なものであろうか・・・。

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さて、この逃亡から自害に至る行程について、通説は殆ど解釈不能の状態のように思われる。この行程における重要な地(現地名で表記)は・・・①倉山田大臣の居場所:大阪府南河内郡 ②茅渟道:殆どが無視、一般に「太子町春日~堺市美原区平尾・黒山~堺市東区日置荘・関茶屋~和泉」と言われるが、「茅渟」の意味への言及はなしのようである。③今來大槻:橿原市、奈良県高市郡などで殆ど不詳の様相。④山田寺:桜井市山田、これは確定的な表現となっている。

通説の詳細を把握してはいないので、致命的なことのみを述べるが、どうやら倉山田大臣の最後は山田寺で決まりだから、大臣の逃亡はこの寺に向かっている筈と言う解釈のようである。逃亡する際に南河内から明日香村(飛鳥)を通り過ぎて、その東隣の桜井市に向かうことはあり得ないであろう。

書紀の表現も恣意的に曖昧な「倭國境」としている故に、河内から倭に向かったように読まれている。それに乗っかったのである。逃亡とはその国から遠ざかることであろう。「茅渟道」が上記ならば、それに沿って和泉に逃げた、これは理解できるところである。ならば「山田寺」は?…黒山の近隣の筈だが、不詳のようである。「山田寺」を桜井市に置けば、黒山・丹比坂などの解釈が不可欠であるが、これも難しいようである。

書紀編者が試みた高度な暈し手法など必要なかったと言える。そのまま記述しても全く問題なく取り違えた解釈で済まされたであろう。悲しいかな、これが日本の古代史の現状である。 

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上記のように一旦逃亡してから戻って寺で自害するパターンは山背大兄皇子と全く同じに映る。一旦、膽駒山に逃げ、そして戻って元の場所、斑鳩寺で自決する。追い詰められたら寺で自決が好まれる時代であったのか・・・と軽々しく述べる場合ではなかろうが、追い詰められる側の逡巡を表すような記述である。事の真相を知る術はないが、ある程度の脚色がなされていることも容易に推察されるところである。

行きつ戻りつの記述の中で自害するには勿体ないほどの人物であったと記述し、勝者はそれを認めつつ、完膚なきまでに己の立場を貫く、歴史を後から纏めればいつの時代も変わらぬ結末と言えるのであろう。それにしても古事記で記載された「蘇賀」で誕生した人々、それに続く書紀での登場人物、実に凄まじいばかりである。

事後処理が記載される。何とも悲しい出来事である。

庚午、山田大臣之妻子及隨身者、自經死者衆。穗積臣嚙、捉聚大臣伴黨、田口臣筑紫等、着枷反縛。是夕、木臣麻呂・蘇我臣日向・穗積臣嚙、以軍圍寺。喚物部二田造鹽、使斬大臣之頭。於是、二田鹽仍拔大刀、刺舉其宍、叱咤啼叫而始斬之。甲戌、坐蘇我山田大臣而被戮者、田口臣筑紫・耳梨道德・高田醜醜(此云之渠雄)・額田部湯坐連(闕名)秦吾寺等、凡十四人。被絞者九人、被流者十五人。

倉山田大臣の仲間(伴黨:黨は党の旧字体)が連座する。取り締まる側の人物に「穗積臣嚙」、木臣麻呂」、そして仕掛けた「蘇我臣日向」が記載されている。また斬首役であろうか、「物部二田造鹽」が当てられている。連座したのは「田口臣筑紫」、「耳梨道德」、「高田醜醜」、「額田部湯坐連秦吾寺」等、およそ十四人と記されている。

「穗積臣嚙」、「蘇我臣日向」は上記で述べた。「額田部湯坐連(闕名)秦吾寺」は額田部連甥の場所に、「田口臣筑紫」は蘇我田口臣川掘の場所に各々併記した。それ以外の初登場の人物の出自の場所を求めてみよう。
 
<木臣麻呂>
● 木臣麻呂
 
書紀で「木臣」が出現するのは、ただの一度である。地名としての「木國」は登場しないのである。古事記で頻出の場所であるが、全く取扱い方が異なるようである。

書紀の全体を読み下していない現状では、更なる考察は控えたく思うが、建内宿禰及び後裔に関わるところである。

そんな背景ではあるが、「木臣麻呂」の名称は、現地名の築上郡上毛町の広々とした台地にある特徴的な「麻呂」を示しているのであろう。

居場所はその南西麓の谷間と推定される。現地名は築上郡上毛町大ノ瀬・八ツ並・吉岡が隣り合っている。後代の一時期には官吏が居た場所だったようである。

<物部二田造鹽>
● 物部二田造鹽
 
「物部」一族である。珍しく「造」が付く。とすると、山側の場所と思われるが、それだけでは多くの山際を探す羽目になるので、続く文字列を読んでみよう。

海辺ではないので、「鹽」=「鏡のように平らな様」と読むことにする。前記の鹽屋鯯魚にも使われていた。該当する地形があれば、なかなか使い勝手の良い文字である。

「二田」はそれが二つ並んでいる様を告げていると思われる。思惑通りの地形が見出せる。「物部」の大きな谷間の最北部、蛇行する川で平らな田が二つに仕切られているところと推定される。

「造」はその居場所を示し、谷間が二つに分かれる麓と解る。物部一族の役割は明確で、「殺し」の場面である。邇藝速日命の後裔であり、石上神宮を祭祀した一族と知られる。古事記の伊邪本和氣命(履中天皇)紀に隼人を近飛鳥で殺害して遠飛鳥(石上神宮)で禊祓をすると言う説話が記載されている。死者の怨念を祓う術を持った一族とされたのかもしれない。

<耳梨道德>
● 耳梨道德
 
何の修飾もなく表記されるから「飛鳥」の近隣で探索する、がこれは「耳成山」に関連するのでは?…と気付く。

香春二ノ岳の東麓辺りを見回すと、「耳」に形の山肌の模様が見出せる。「梨」=「利*木」と分解できる。「利」=「切り離された様」と読んだ。前記の紀麻利耆拕臣などに含まれていた文字である。

耳梨=耳の形に山稜が切り離された様と読み解ける。「道」=「辶+首」と分解され、「首」=「首のように凹んだ様」を表す。これは頻出の文字である。

「德」も書紀では頻度高く出現し、「四角く真っ直ぐに広がった様」を表すと読み解いた。巨勢臣德太(陀)などで用いられていた。道德=首の形の地にある四角く真っ直ぐに広がったところと紐解ける。

現在の大和三山(香具山・畝傍山・耳成山)の「耳成山」の由来となるのであろう。万葉集の中大兄皇子の歌(香具山・畝火山・耳梨山)に求めるなら、紛うことなく現在の香春一ノ岳(畝傍山)・二ノ岳(耳成山)・三ノ岳(香具山)となる。「香具山」、「畝火山」については後日に詳細を述べる機会があると思われるが、「畝火」=「畝のような火の形」であって、今は見る影もない往時の香春一ノ岳の姿を表していると思われる。「飛鳥」の姿である。
 
<在りし日の香春岳>

現在の「耳成山」の山容から「耳(飛び出たところ)が無い」(目も、口もないとのこと)だとか・・・何とも哀しい山となっているが、香春二ノ岳が「耳梨」に関わることは明確になったようである。書紀には「耳梨」が二度登場する。推古天皇紀に耳梨行宮と記載されているが、図に示した二寺のどちらかだったのではなかろうか。

● 高田醜醜(之渠雄)
 
古事記風の命名であろう。さしずめ古事記では「色許男」と記されるが・・・勿論地形が異なるので用いることは不可である。それはともかく、ありふれた「高田」は、このままでは如何ともし難い名称である。書紀の中では「高田」と言えば特定される場所なのであろう。

検索すると、継体天皇紀に「尾張連草香女曰目子媛更名色部、生二子、皆有天下、其一曰勾大兄皇子是爲廣國排武金日尊、其二曰檜隈高田皇子是爲武小廣國排盾尊」と記載されている。対応する古事記の記述は「娶尾張連等之祖凡連之妹・目子郎女、生御子、廣國押建金日命、次建小廣國押楯命」である。「建小廣國押楯命」の別名に「檜隈高田皇子」があったと解る。

檜隈」の文字は、些か曲折があるようで既に「吉備嶋皇祖母命:檀弓岡」のところで述べたが、簡略に述べると古事記の「檜坰」を別の場所を示すように改竄したところである。皇統に関わる重要な欽明天皇の墓所が消失したからであろう。それらしき類似の地形で「高田」が選ばれたのである。

そんな訳で、「高田」と言えば、ピンと来る状況だったと思われる。前置きが長くなったが、極めて重要な場所なのである。「醜」=「酉+鬼」と分解される。「酉」は「酒」にも含まれ「縮む様」を表す文字と解説される。「鬼」=「〇+ム」の要素からから成る文字で、地形象形的には「丸く小高いところからもやもやと山稜が延びる様」と読み解ける。これも幾度か出現するもじである。
 
<高田醜醜(之渠雄)・高田首根麻呂(八掬脛)>
纏めると醜=皺が縮んだように小高いところからもやっと山稜が延びているところと紐解ける。それが二つあるから「醜醜」なのである。


そもそも高=皺が寄ったような様である。幾つにも重ねて、あるいは、「高」の字が読めなかった場合も含めて、表記したのであろう。訓は具体的である。

之=蛇行する川渠=水辺で[巨]字形に山稜が並んだ様雄=厷+隹=羽を広げた鳥の形と読み解ける。全て既出の文字である。

「醜」も併せて、これらを満たす地形の場所が特定される。古事記の「建小廣國押楯命」の近隣であり、「尾張連之祖凡連」の場所である。現地名は小倉南区横代・長野である。「高田醜醜」の居場所は、最も上流部の小高い地の麓辺りではなかろうか。

勿論、書紀の方が分り易く、精緻である。尚、後に登場する高田首根麻呂(更名八掬脛)も併記した。「根」は通常「長く延びた幾つもの山稜が並んでいる様」を表すと解釈する。少々地形の変形があるが、図に示した場所辺りと思われる。

更名が実に的確な地形象形表記であろう。八=谷間が大きく開いている様掬=手+匊=山稜が丸く中心に集まっている様脛=月+坙=三日月形の山稜の端が突き通すように延びている様と解釈される。その地形を図に示した場所に見出せる。その突き通す場所が首=首の付け根のように窪んでいる様となっている(現在は池)。いや~、何とも凄い表記である。

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こうもあっさりと処罰及びその対象者が述べられるとは、既に発覚済みのことのように思われる。田口臣筑紫は、近隣の地を好き勝手にした蘇我蝦夷大臣への恨みの反動で倉山田大臣との距離が近かったようにも思われる。殺伐たる情景に、更に後日談が付け加えられる。

是月、遣使者收山田大臣資財。資財之中、於好書上題皇太子書、於重寶上題皇太子物。使者還申所收之狀、皇太子始知大臣心猶貞淨、追生悔恥、哀歎難休。卽拜日向臣於筑紫大宰帥。世人相謂之曰、是隱流乎。皇太子妃蘇我造媛、聞父大臣爲鹽所斬、傷心痛惋、惡聞鹽名。所以、近侍於造媛者、諱稱鹽名改曰堅鹽。造媛、遂因傷心而致死焉。皇太子聞造媛徂逝、愴然傷怛、哀泣極甚。於是、野中川原史滿、進而奉歌。歌曰、
耶麻鵝播爾 烏志賦拕都威底 陀虞毗預倶 陀虞陛屢伊慕乎 多例柯威爾雞武 其一
模騰渠等爾 婆那播左該騰摸 那爾騰柯母 于都倶之伊母我 磨陀左枳涅渠農 其二
皇太子、慨然頽歎、褒美曰、善矣悲矣。乃授御琴而使唱。賜絹四匹・布廿端・綿二褁。

倉山田大臣の遺物を中大兄皇太子が収得したと記述している。冤罪であったと知った訳だが、名誉回復もせず、蘇我日向臣の処置も島流しのような雰囲気を示すのみで具体的な刑罰は記載されない。堪らないのは大臣の娘である蘇我造媛(遠智娘)であり、思い悩んだ末に亡くなってしまったとのことである。中大兄皇太子(影の中臣鎌子連)の奸計と、憚りなく述べているのである。

筑紫大宰帥ついては既に前記した。帥=段になった旗印のような様、居場所の地形を表す表記である。「筑紫大宰」は遠国への船が発着するところ、その船に乗せたようなそぶり、したたかである。
 
<蘇我造媛>
蘇我造媛

さて「蘇我造媛」は倉山田大臣の遠智娘であるが、別名表記となっている。調べると他にもいくつかの名前が付けられている。纏めて読み解いてみた。

「造」は頻出であり、「牛」の古文字の形を表すところと読み解いた。それを探すと「鏃」の西側の谷間がその地形を示していることが解る。

これによって、「造媛」の詳細な出自の場所が、その「牛」の根本辺りであることが導かれたのである。周辺では地形的に最も適した場所であると思われる。

「越智」の「越」=「足+戉」と分解される。即ち「越」=「鉞の形」を表していると解釈する。越智=鉞の地に鏃と炎の地形があるところと読み解ける。これも納得の表記と思われる。最後の「美濃津子娘」を紐解いてみよう。

「美」は古事記頻出の文字で、「美」=「羊+大」と分解される。「羊」は前記の「養」に含まれ、「山稜に挟まれた谷間」を表すと読み解いた。「大」=「広がる様」とすれば、美=谷間が広がったところと紐解ける。

「濃」は前記の信濃に含まれて、濃=舌を出した二枚貝のような様と読み解いた。それが「津」(集まる)ところから生え出た様「子」と解釈される。それぞれ「遠智娘」の地形を別角度から眺めた表現であることが解る。天智天皇との間に「鸕野讃良皇女(後の持統天皇)」を誕生させる。時代の変曲点の中心近くに佇まっていた女性である。
 
<野中川原史滿>
● 野中川原史滿

歌を献上したと記載されている。調べると「丹比野」に関わる人物と判った。古事記では「多遲比野」である。

「史」=「中+又(手)」であり、史=真ん中を山稜が延びる様を表すと読んだ。「滿」は「太鼓に革を張った様」を象った文字と知られる。滿=平らに広がった様と読み解く。

すると図に示した広がる川原のど真ん中を山稜が延びているところが見出せる。現地名は京都郡みやこ町勝山大久保の図師である。

特徴的な地形なのだが、今まで全く登場しなかった場所である。まだまだ、未記載の地が残っているようである。歌の解釈は参照したものである・・・、

<其一>山川に鴛鴦二つ居て偶ひよく偶へる妹を誰か率にけむ
【通釈】山中の川に、オシドリが二羽並んで泳いでいるように、仲良く私と寄り添っていた造媛(みやつこひめ)を、誰が連れ去ってしまったのか。

<其二>本毎に花は咲けども何とかも愛し妹がまた咲き出来ぬ
【通釈】草木を眺めれば、ひと株ごとに花は咲いているのに、どうしていとしい妻は二度と咲いて来ないのか。

・・・という訳で、今回は悲しい事件の顛末であった・・・。