2019年11月22日金曜日

『倭族』:『倭奴族』・『天神族』 〔382〕

『倭族』と『倭人』


「古事記」(一部万葉集を含む)に始まり、中国史書である「魏志倭人伝」、「隋書俀國伝」及び「後漢書倭伝」を”漢字を用いた地形象形手法”として読み解いて来た。得られた地理的な結果の概略を述べると・・・、

①「古事記」は、九州東北部の領域、即ち現在の福岡県宗像市の東方及び築上郡上毛町の北方に当たり、田川郡香春町を中心とする舞台を物語っていると解った。

②「魏志倭人伝」に登場する「倭国」は、九州西北部の佐賀県・福岡県・長崎県が囲む有明海沿岸地域であり、「邪馬壹國」があった佐賀県多久市を中心とした領域であると解った。

③「古事記」は西北部を述べることなく、中国史書の「倭(人)伝」には東北部を伺わせる記述は見当たらないが、「隋書俀國伝」になって「古事記」の舞台、竹斯國(竺紫日向:遠賀郡岡垣町)及び筑紫國(海、宇美:小倉北区)が登場することが解った。「俀國」と表記したことは、『倭人』ではあるが異なる国との認識を示している。

・・・と纏められる。北部九州の筑紫山地の中にある三郡山地及び遠賀川上流地域を挟んで東西に分断された地域である。古事記は英彦山山系より北部、彦山川/中元寺川(下流で遠賀川に合流)・犀川・城井川流域が舞台である。間違いなく山地を越えての交流は難しい、と言うか、それぞれが関わることなく存続できた時代と推測される。

漢字で地形を表すことは漢字文化圏に住まう人々にとっては至極自然な行いであったと思われる。(古)文字形そのものを当て嵌める単純なものから、漢字をその成り立ち(偏と旁など)の要素に分解し、地形を表すと言う高度なもの…とりわけ古事記に多数見られる…まで、多様な用い方が見られる。

現在の日本の国土は国土地理院地図によって詳細な地形を知ることができるが、他国に関しては地形を知ることは叶わない。国防上極めて重要な事柄に属していることも事実であろう(お世話になっているのだが、何とも無防備な…)Google Earthによる「地表」の様子から「地形」を知ることができる場合もあろうが、時代を経た結果であって当時を推測するにはかなりの誤差が生じるようである。

と言う訳で、上記の史書に記載された範囲に限定されるが、漢字による地形象形手法の特徴を見分けながら下記について述べてみたく思う。その前に「倭族」、「倭人」と名付けられた背景を少し調べた結果を纏めてみることにした。

 
『倭族』

「倭族」は鳥越憲三郎氏によって提唱された概念である。Wikipediaの記載を以下に示す・・・、

倭・倭人を日本列島に限定しないで広範囲にわたる地域を包括する民族概念として「倭族」がある。鳥越憲三郎の説では倭族とは「稲作を伴って日本列島に渡来した倭人、つまり弥生人と祖先を同じくし、また同系の文化を共有する人たちを総称した用語」である。鳥越は『論衡』から『旧唐書』にいたる史書における倭人の記述を読解し、長江(揚子江)上流域の四川・雲南・貴州の各省にかけて、複数の倭人の王国があったと指摘した。その諸王国は例えば『史記』にある国名でいえば以下の諸国である。滇(てん)、夜郎(貴州省赫章県に比定され、現在はイ族ミャオ族ペー族回族などが居住)、昆明、且蘭(しょらん)、徙(し)、キョウ都(現在の揚州市カン江区に比定)、蜀、巴(重慶市)など。鳥越は倭族の起源地を雲南省の湖テン池(滇池)に比定し、水稲の人工栽培に成功したとし、倭族の一部が日本列島に移住し、また他の倭族と分岐していったとした。分岐したと比定される民族には、イ族、ハニ族(古代での和夷に比定。またタイではアカ族)、タイ族、ワ族、ミャオ族、カレン族、ラワ族などがある。これらの民族間では高床式建物、貫頭衣、注連縄などの風俗が共通するとしている。この倭族論は長江文明を母体にした民族系統論といってよく、観点は異なるが環境考古学の安田喜憲の長江文明論などとも重なっている。 

・・・氏の「古代中国と倭族」(中公新書1517)では、対比する黄河流域の「漢族」について詳細に論述されており、古代中国における漢族と倭族の位置付けが伺える。「漢族」によって支配された中国において彷徨える民となった「倭族」の存在をあからさまにした記述である。それにしても河姆渡遺跡の発見・発掘は衝撃的であっただろう。


本ブログで若帶日子命(成務天皇)が坐した近淡海之志賀高穴穂宮、それに含まれる「志賀」の解釈で「志」=「之+心」と分解し、「之」=「蛇行する川」の地形象形表記と解釈した。これから河姆渡遺跡の西方にある銭塘江(別名:之江)に関連付け、古事記編者は、長江下流域にあった呉・越国の出自に関ると推察した。

上記によると雲南省の湖、テン池(滇池)に発祥した倭族は江南で複数の国を建てたと論じている。これらの間に連携があったのか、それとも個々独立して存在していたのかは不明だが、彷徨える民となった以上、更に散り散りと分岐して行ったことは容易に推測されるところであろう。

 
『倭人』

倭人とは…、

1. 狭義には中国の人々が名付けた、日本人(当時、日本列島に住んでいた民族または住民)の古い呼称。
2. 広義には中国の歴史書に記述された、中国大陸から日本列島の範囲の主に海上において活動していた民族集団。

一般に2. の集団の一部が日本列島に定着して弥生人となり、「倭人」の語が1. を指すようになったものと考えられている。

…と定義されており、「漢族」に対する「倭族」の位置付けを引継いだ民族と考えられる。民俗学的に明らかにされた認識を古事記、中国史書の記述から抽出できて来なかった日本の歴史学なのである。

また・・・崎谷満はY染色体ハプログループO1b1/O1b2系統を長江文明の担い手としている。長江文明の衰退に伴い、O1b1および一部のO1b2は南下し百越と呼ばれ、残りのO1b2は西方及び北方へと渡り、山東半島、日本列島へ渡ったとしており、このO1b2系統が呉や越に関連する倭人と考えられる・・・と付記されている。

DNA解析によって、より一層明らかにされるであろうが、日本の歴史学が現状のままであり続けるならば学問の世界から抹消されることになろう。歴史学を学び、それを生業とする志を持つ若者達よ、期待を裏切るなかれ!!。

 
朝鮮半島の倭人

鳥越憲三郎氏は、上記の考察から長江下流域から脱出した倭人が朝鮮半島に渡ったとして論を進めている。新書になったのはこちらが先のようである。古代朝鮮と倭族(中公新書1085)。
 
<前漢時代の朝鮮半島>
(前)漢の支配が浸透し楽浪郡が置かれたが、朝鮮半島の原住民と思われる扶余・沃沮(北部)、濊・貊(中南部)からは、それぞれ高句麗、辰国が分立していた時である。

と言っても朝鮮半島は、その75%が山岳地帯であって、人々の居住面積は思ったより少ない。南西部(後の馬韓・百濟)が唯一目立つような地形である。当然ながら倭族はこの地を目指したのであろう。

ツングース系の扶余・沃沮族と濊・貊族との絶え間ない抗争があって極めて流動的な国の成立ちであったと記録されている。そこに漢が登場する。正にカオスの状態を醸し出すような情勢が続くことになる。

前漢の武帝が乗り出し、楽浪郡が設置され一時の平静が得られたかのような機運なのだが、倭族が逃げ延びた地も決して安穏な場所ではなく、ツングース族に加えて漢族も加わった。何とも凄まじい時代である。

ところで辰国の「辰」=「舌を出した二枚貝」を象った文字と解説される。一時は半島全域を支配した国名として申し分なし、と言えるかもしれない。

時が過ぎて後漢時代になると大きく様相が変化する。前記で後漢書倭伝のところで述べたように光武帝の建武中元二年(AD52年)には倭奴國からの朝貢の記事が見られるようになる。倭人の登場である。

 
<後漢時代の朝鮮半島>
氏は「朝鮮半島に渡来した倭族が、一つの集団であったとはかぎらない。朝鮮半島中部に上陸し、先住の濊・貊族を制しながら、倭族として最初の国を築いたのが辰国である。」と記している。

そして民族として「韓族」と呼称したとのことである。一方「朝鮮半島南部に上陸した倭族の一団もあったであろう。しかし山東半島からの距離的に遠くもあったので、集団としては小規模であったとみてよい。」とも記している。

この後者の小規模の集団が「狗邪韓国」へ移り住んだと述べている。朝鮮半島中南部への倭族の侵出を民俗学的に鯨面文身など文化的特質から得られた結論とされている。

長江下流域と言ってもかなりの広さがあり、倭族も多種に渡る。勿論上記の小規模集団の出自までは突止めることは叶わないのが現状であろう。DNAハプログループによる解析結果も併せて参照(Wikipedia)。

 
朝鮮半島の地名

既に読み解いたところではあるが、もう一度纏めて述べてみる。

①百濟

百濟の「百」=「一+白」=「一様に小高いところがある地形」、「濟」=「水+齊(斉)」とすれば、一様に小高いところが水(海)の傍らで等しく並び揃っているところと紐解ける。
 
<古波陀(百濟)>
図は応神天皇紀の歌の中で「古波陀」と呼ばれた地である。この地から髪長比賣を迎えて、後の仁徳天皇が娶る説話に登場する。


図中白っぽく見えるところは小高いところがびっしりと並んだ地形を示している。

「百」の文字の分解手法及びその解釈は古事記の場合と全く同様である。

また魏志倭人伝中に登場する「巳百支國」も全く同様の解釈で、現在の吉野ヶ里遺跡のある場所と比定した。

②新羅

「新羅」の「新」=「辛(刃物)+木+斤(斧)」であり、「木を斧で切った様」から派生する意味と解説される。

拡大した比比羅木の図にある通り、「新羅」の地に奇麗に並んだ山稜の筋目が見える。漢字を徹底的に分解し、その要素を再構成して地形を表わそうとしている。その着想は古事記、魏志倭人伝に通じる。強いて言えば、古事記により近い手法と思われる。

③狗邪韓國
<狗邪韓國>

狗邪韓國は既に詳細に読み解いた通り、牙のある平らな頂を持つ[く]の字形の山稜で取り囲まれた国と読み解いた。

正に魏志倭人伝に登場する地名に類似する命名であろう。「韓」=「井桁」であって四方を取り囲まれた地形象形表記である。

百濟、新羅、狗邪韓國の命名は、間違いなく倭人のなせるところであろうと思われる。

鳥越憲三郎氏の推察通り、倭人は朝鮮半島中南部に渡来し、その地に居場所を見出したと思われる。彼らが保有する水田稲作、高床式住居などの技術と文化を拡げて行ったのである。

そして、狗邪韓國に住まった倭人達は更なる天地を求めて南の海に向かったことが解る。上図に示したように大国主命の末裔の一部は一旦比比羅木、新羅に舞い戻り、結局は天(壱岐)に帰ってその長い系譜を閉じる。

 
<聃(耽)羅國>

現天皇に繋がる天神一族の朝鮮半島における拠点であることが、古事記と魏志倭人伝の両書によって伝えられていることが明らかになったのである。

加えてこの二書は共に漢字を用いて地形象形していることも確かなものとなった。

最後に耽羅國についても記載しておくことにする。結果的にはこの地も倭人が深く関与した地であることが伺えるようである。

聃(耽)」=「大きな耳朶」であり、火山島であるこの島には無数の火口が存在する。その小ぶりな火口の形を象った表記であることが解る。

長江下流域から山東半島を経て朝鮮半島に向かった『倭族』は半島の中南部に広がって行ったと推察される。では更に日本列島に向かった最南端にいた『倭人』について考察してみよう。

 
『倭奴族』と『天神族』

朝鮮半島最南端の狗邪韓國及びその周辺に辿り着いた『倭族』は、更にまた二派に分れることになったと推測される。北九州西北部に向かった、後に「邪馬壹國」その連合国があった古有明海沿岸地域を制した『倭族』、それを仮に『倭奴(もしくは邪馬)族』と名付ける。もう一方は壱岐島を経て九州東北部に向かった、「古事記」が語る『天神族』である。

『倭奴族』は、彼らが保有する水田稲作・高床式住居の技術をそのまま適用できる圧倒的に豊かな地を獲得した。それ故に早期に国造りが進んだのであろう。ただ豊かであるが故に確執も発生したと憶測される。魏志倭人伝に記載された通りの抗争が頻発したのである。

『天神族』は九州北西部に侵出することができず、残された選択肢として東北部に向かったが、不幸にもこの地では急斜面の山麓が待ち受けていたのである。既に述べたように島また島の地形、当然ながら広大な平地を求めることは叶わなかった。

しかしながら、彼らはその斜面を切り開き、狭い谷間に多くの「茨田(松田)」を作る、創意と工夫の道を辿ったのである。そしてそれは現在に繋がる日本人の勤勉さと弛まぬ努力の民族として世界に迎えられた・・・些かの曲折を含んではいるが・・・。

葦原中國に幾度も降臨させながらその地を制することができず、また欠史八代と言われるようにひたすら土地の開墾に費やした時間と労力は莫大であったろう。そして息長帶比賣命(神功皇后)による故郷凱旋物語で頭角を現しつつ、「隋書俀國伝」に阿毎多利思北孤阿輩鶏彌(古事記では橘豐日命[用明天皇])として登場することになる。

最後になるが、古事記及び中国史書に記述されない壱岐島の南部…即ち現在の壱岐市勝本町・芦辺町の北部に対して、南部の郷ノ浦町・石田町に当たる…が『倭奴族』の壱岐における居住地域であったのではなかろうか。古事記は北九州西北部について全く触れないことと類似する記述なのである。

幡鉾川流域(下流には原の辻遺跡がある)は壱岐島の中では飛び抜けて広い水田地帯を作り得る地形を有している。壱岐に辿り着いたなら先ずはこの地を制することが最も有利な状況を生み出す筈である。常に先手の『倭奴族』であったのであろう。同族の倭人として後塵を拝した『天神族』の史書はその存在を抹消したと推察される。

魏志倭人伝の「一大國」(壱岐北西部)について「多竹木叢林 有三千許家 差有田地 耕田猶不足食 亦南北市糴」と記されている。「高天原」が耕地には不向きな地形であることを示している。そして「南北市糴」は南部との交流なくしては存続し辛い地であったことを伝えているのであろう。

上記のようなことを考え合わせると、先進の『漢族』の影響度合いは『韓族』→『倭奴族』→『天神族』のようであり、最後の『天神族』は長江下流域、その最南域に住まっていた『倭族』の可能性が高く感じられる。上記した現在の浙江省杭州市の銭塘江下流域(杭州湾岸)こそが現在の天皇家に繋がる『倭人』の出自と結論付けられるのではなかろうか。