『古事記』で読み解く『後漢書倭伝』
『魏志倭人伝』は陳寿によって三世紀末に書かれたが、先行する漢の時代については、范曄が記した『後漢書倭伝』は五世紀になって成立したと伝えられる。従って倭伝も魏志倭人伝からの引用を主たるところとしているようであるが、中に魏志に記載されていないと部分を補足する形で記述されている。
既に幾つか引用したが、今一度全体的に見直してみることにした。尚、全体の日本語訳についてはこちらを参照。既出のところを再掲すると・・・、
①『魏志倭人伝』の「女王國東 渡海千餘里 復有國皆倭種」と記されたところについては『後漢書倭伝』では具体的に、「自女王國東度海千餘里至拘奴國 雖皆倭種而不屬女王」と国名及び女王には属さないと記されている。
従来は、魏志(写本も含め)でさえ、誤謬があるとするわけだから「東」・「拘奴國」は「南」・「狗奴國」の誤りとすることに何ら躊躇いはないようである。既述したように拘奴國は、現在の八女市辺り、「狗奴國」(現鹿島市)の対岸にある国と求めた。この記述に拠って倭國が古有明海を取巻く国々であったことが鮮明となったのである。
更に「邪馬壹國」連合は、北・北西部の地域(最南端の投馬國を含む)を占めていて、その他の地域とは敵対関係を継続して来たことも読み解けた。巨大な内海を巡る国家間の争い、さながら古代世界史を垣間見るような光景が浮かんで来たように思われる。
②『後漢書倭伝』に「安帝永初元年 倭國王帥升等獻生口百六十人 願請見」(安帝の永初元年[107年]、倭国王帥升等が生口160人を献じ、謁見を請うた)と記述されている。魏志倭人伝が記述された時から二百年弱以前の出来事である。ここに登場する人物にも「升」が付く。前記の彌馬升・難升米と合せて三名である。
「邪馬壹國」の地がこの時点で覇権を掌握していたことが解る。勿論上記の古有明海沿岸における抗争は絶え間ない状況であったろう。帥升は、「難升米」の少し北側辺り。「升」の地形の中央、初期の倭国王の居場所として申し分なし、のように思われる。「升」の地は、正に奔流の地だったことが解る。
・・・であった。
倭国王帥升については、他の史書(『宋本通典』、『翰苑』など)に倭面土(上)國王帥升と記されている。「面」=「平らに広がった様」であり、「土(上)」=「盛り上がった様」を表すと解説されている。面土(上)=盛り上がったところを平らに広げた地と読み解ける。「邪馬」の地形と矛盾することはないが、特定する表現ではないようである。いずれにしても「帥升」の場所は「升」で決まりである。
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少々余談だが・・・Wikipediaに倭國王帥升の所在地を先人達が推定した記述が引用されている。『古事記』も含めて全く解読されなかった現状が集約されているように思われる。倭面土=ヤマト、面土=イトなど、倭人は文字を知らないと言う記述に引き摺られて音読みからの解釈、それが現在まで繋がっていることに愕然とする。
使者に対して、距離測定ができず、文字を使わず(一般人はともかく)、そして都に踏み入れさせないという周到な国防対応をした倭人の姿を読み解けなかったことを示しているようである。
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倭奴国
「倭國王帥升」の記述の直前に「建武中元⼆年倭奴国奉貢朝賀使⼈⾃稱⼤夫 倭國之極南界也 光武賜以印綬」と記されている。所謂「漢委奴国王印」の印綬が登場する。江戸時代に志賀島で発見されたとされている。
建武中元二年[57年]だから「帥升」よりも五十年早い時と伝えている。「倭奴國」の解釈も様々で「倭奴(イド)」=「伊都」としてみたり、「倭の奴國」=「奴國」として魏志倭人伝に登場する、遠くて詳らかではない国(21国)の内の「奴國」で、それが極南界にあったとする説などがある。
この「倭奴國」を後の「狗奴國」(投馬國を含めて…従っていたか否かに関わらず)と解釈する。北部(後の邪馬壹國)に敵対する勢力が先立って朝貢したと考えるのである。漢にしてみればより遠い地域からの貢は大歓迎であろう。だから印綬したと思われる。五十年後は北部が倭國を代表するようになったが「狗奴國」は、やはりそれに属さない国であったと推定される。
上記で古有明海沿岸地域の相克を思い浮かべたが、その一端が記されていたものと推察される。江南の倭族が極東の地で棲みつき、そして幾多の葛藤を抱えながら大陸との付き合い方を模索していたのであろう。日本、勿論朝鮮半島の国も、古代よりその定めの中に棲息して来た、そして未来も変わりはないように思われる。
「⾃稱⼤夫」ならば「狗奴」とは言わずに「倭奴」と自ら名乗ったのではなかろうか。王名が記載されてれば、と思っても致し方なし。言わずもがなだが、范曄の誤記ではない、きっと・・・。倭國は乱れて、卑弥呼が擁立される。魏志に繋がるところである。
全くの憶測の領域だが、鹿島市から嬉野市~有田町~伊万里港へと抜ければ、壱岐島へのルートとなる。ヒト・モノ・(カネ)が揃えば主導権も握ることができたであろう。様々な国が割拠する時代であったことには違いはないように思われる。
さて、後漢書には付記された箇所が存在する。(維基文庫 巻85)
會稽海外有東鳀人,分為二十餘國。又有夷洲及澶洲。傳言秦始皇遣方士徐福將童男女數千人入海,求蓬莱神仙不得,徐福畏誅不敢還,遂止此洲,世世相承,有數萬家。人民時至會稽市。會稽東治縣人有入海行遭風,流移至澶洲者。所在絕遠,不可往來。
魏志には記述されない内容である。會稽海外=會稽海(東シナ海)・外(外側)と読み解く。「外」=「月+卜」と分解される。「月」=「欠けて行く様」を表し、残った「外側」の意味を示すと解説される。この文字列だけからも現在の東シナ海を取り囲む列島(台湾を含めて)の島々のことであることが解る。従来では済州島やら日本列島(本州)を登場させているが、全く論外であろう。
東鯷⼈
<東鯷⼈・夷洲・澶洲> |
「鯷」=「魚+是(匙)」と分解され、「匙のような魚」=「カタクチイワシ」とのことである。これで現在の沖縄本島の形を象ったと解る。
「東」は「東方にある」と解釈できるが、「東」=「地平線から日が突き抜けて来る様」を表す文字と知られる。
すると東鯷人=海面から突き出て来た[匙]のような島に住まう人と紐解ける。「分為⼆⼗餘國」と記述されていることから既に多くの人々が住んでいたところであることが解る。
余談だが・・・カタクチイワシは天敵から身を守るために密集隊形を採るようであるが、沖縄諸島、奄美群島などの名称があるように、「匙」の地形も去ることながら、群れだった島々を表しているとも思われる。「鯷」の文字を使うことによって地形の詳細を示しているのであろう。
現在の南西諸島の原・住人のことを示していると思われる。この地に倭族(人)が入り込んで行く余地はなかったと推察される。
夷洲・澶洲
上記と同様にその地を探すと「夷洲」は「夷」の本来の意味も重ねているが、文字形そのままを適用したのであろう。現在の石垣島の地形を表していると思われる。
「澶」=「氵+亶」と分解される。更に「亶」=「㐭+旦」と分解され、「㐭」=「米倉」の象形と解説される。『古事記』に頻出の「旦」=「地平線から日が昇る様」で、すると「亶」=「米が倉から出て来る様」を表したものとされる。
纏めると澶=海上に食み出た[米粒]のようなところと読み解ける。現在の台湾を、そのままの形で表記していることが解る。
「所在絶遠不可往來」の文言に捉われて、台湾などでは近過ぎるのでは?…と訝ってられる方もおられるようだが、「往来」するには遠いところとの理解であろう。魏志倭人伝の「旁余國」に類似して、どうやら詳細記述が不可の場合に付加される決まり文句のような感じである。
徐福
「蓬萊神仙」とは東方の海上に住まう不老長寿の仙人たらんことを願う紀元前四世紀以降に誕生した思想である。それを求めて彷徨った方の伝説が記されている。日本各地に残る伝説、その由来は不詳だが、徐福は「澶洲」に留まったのであろう。彼が命じて更なる東に向かった「男⼥數千⼈」の内の幾ばくかが日本列島に漂着したのかもしれない。
ところで台湾には3,000m級の山が200有余座あると言われる(日本は21座)。最高峰は玉山(かつては新高山とも)の3,952m(東アジア最高峰)である。「米粒」の中心地は、正に日本アルプスを遥かに凌ぐ急峻な山岳地帯と知られている。がしかし、無念にも神仙には出くわさなかったのであろう。
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倭人が行った地形象形と些か雰囲気が異なるようではあるが、やはり地形を漢字で表記するという基本的なところは同じであった。漢字を生み出し、それを流布させた人々は、大切なものを大切なもので表すことに努力をしたのであろう。ある意味現在に通じることでもある。
一方日本人は日本語を漢字で表記することに長けた(実際は倭人が)のであるが、それ故に、他言語を容易に取り込むことに通じたのである。ともあれ、誰も気付かなかった漢字による地形表現、もっと大切にしたいものである・・・。