『古事記』で読み解く『魏志倭人伝』(Ⅰ)
猛暑が続く中、閑話休題で遊んでみようかと・・・そんな訳で表題もいつもと雰囲気を変えてみたのだが・・・漢字を用いた地形象形も古事記の表記ですっかり馴染んで(?)来たように感じられるが、果たして他の書物では如何?…中国史書の魏志倭人伝、勿論これは立派な漢文であろうが、そこに登場する地名・人名は和(倭)語を漢字表記したもの、即ち古事記の表記と同じ状況ではなかろうか。
そんな単純な考えで、少しだけ、特に「邪馬壹國」に至る行程の記述で登場する国名などを地形象形的に紐解くことにした。古事記のように複数回登場、あるいは異なる表記での検証などは望むべくもなく、古事記の読み解きに従うことにする。
あらためて「邪馬台国」の比定地を眺めてみると、いやいや凄まじい・・・行程解釈の基本は古田武彦氏の『邪馬台国はなかった・・・』の論理に準拠する(写本無謬説も含めて)。
<魏志倭人伝(抜粋)>
倭人在帶方東南大海之中 依山㠀為國邑 舊百餘國 漢時有朝見者 今使譯所通三十國
從郡至倭 循海岸水行 歴韓國 乍南乍東 到其北岸狗邪韓國 七千餘里
始度一海 千餘里 至對海國 其大官日卑狗 副日卑奴母離 所居絶㠀 方可四百餘里
土地山險多深林 道路如禽鹿徑 有千餘戸 無良田食海物自活 乗船南北市糴
又南渡一海 千餘里 名日瀚海 至一大國 官亦日卑狗 副日卑奴母離 方可三百里
多竹木叢林 有三千許家 差有田地 耕田猶不足食 亦南北市糴
又渡一海 千餘里 至末盧國 有四千餘戸 濱山海居 草木茂盛行不見前人 好捕魚鰒
水無深淺皆沉没取之
東南陸行 五百里 到伊都國 官日爾支 副日泄謨觚柄渠觚 有千餘戸 丗有王
皆統屬女王國 郡使往來常所駐
東南至奴國 百里 官日兕馬觚 副日卑奴母離 有二萬餘戸
東行至不彌國 百里 官日多模 副日卑奴母離 有千餘家
南至投馬國 水行二十日 官日彌彌 副日彌彌那利 可五萬餘戸
南至邪馬壹國 女王之所都 水行十日陸行一月 官有伊支馬 次日彌馬升 次日彌馬獲支
次日奴佳鞮 可七萬餘戸
登場する国は、①對海國、②一大國、③末盧國、④伊都國、⑤奴國、⑥不彌國、⑦投馬國、⑧邪馬壹國である。倭人伝全体では多くの不祥な国名が記されているが、気が向いたら紐解いてみようかと・・・。尚、「其北岸狗邪韓國」と記される狗邪韓國については、最後に述べる。
對海國・一大國
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<對海國> |
①對海國と②一大國は、全員一致で、それぞれ対馬と壱岐島である。対馬は古事記では「津嶋」と表記されている。図に示したように津(入江)の島を示していると読み解いた。
詳細はこちらを参照願うが、海図からでも明らかなように複雑に入り組んだ入江を形成している。
Wikipediaには…、
対海国(つかいこく、對海國)とは、中国の史書に記述される倭国中の島国である。「魏志倭人伝」でも版によって表記が異なり現存する最古の版である紹熙本では「對海國」とされ、紹興本では「對馬國」とされることから、魏志倭人伝での誤記ではないかとさ(れ?)る。
…と記載されている。
「對」=「業+土(大地)+手」と分解される。「業」=「ギザギザした様」を表すと解説される。地形象形的に解釈すると「對」=「手のように突き出た地がギザギザになっているところ」と紐解ける。
「對海國」はその「對」がある海の国だと述べているのである。「対(對)馬」も無理矢理解釈すれば、対になった馬(山稜)となろう。「馬」=「馬の背の頂の山稜」が最もな解釈であろう。ちょっと対馬の山稜とは掛離れているが・・・。
更に『古事記』の「津嶋」(多島海の浅茅湾)は、現在の対馬全体の特徴を表す表記と解釈されるが、「對海國」の表記はその下島(南部)を示すものと思われる。島の大きさを表す「方可四百餘里」が下記の一大國の「方可三百里」からも示唆されるところである。また更に国の中心地については後に述べるが、「有千餘戸」(倭人伝中の最小戸数)からも、かなり限られた地域であると推測される。
魏志倭人伝の誤記?…では決してないことが解る。現在の地名からして何とも読み辛い「對海」が実に適切な地形を表していることが解る。勿論「對馬」も間違いではない。この島は中央部の「津」が特徴的な島であるが、より的確な表記をしたのであろう。残念ながらその努力は報われなかったようである。
「馬」は何となく解るが、「海」は不詳・・・だから誤記とする。写記した人へのリスペクトは微塵も感じられない有様であろう。手にした貴重な情報が零れ落ちて行くのである。
『古事記』の伊邪那岐・伊邪那美の国(島)生みの段で「津嶋」の別名が「天之狹手依比賣」と記される。「狹手」=「狭い山稜が突き出た様」を表している。「手」=「突き出た山稜」と紐解ける。上記の「對」に対応する表現であろう。下記の「伊伎嶋」も含めて詳細はこちらを参照。
次の②一大國は壱岐島とされる。古事記では伊伎嶋(山稜と谷間が互いに切り刻んだような島)であるが、この地は「天(阿麻)」(擦り潰された台地)と読み解いた。
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<一大國・高天原:壱岐> |
Wikipediaを引用すると…、
一支国(いきこく、一支國)とは、中国の史書に記述される倭国中の島国である。
魏志倭人伝では「一大國」とされ他の史書では「一支國」とされることから、魏志倭人伝は誤記ではないかとされているが、誤記ではないとする説もいまだ根強い。
1993年、長崎県教育委員会は壱岐島の原の辻遺跡が一支国の跡であると発表し、話題となった。
…とある。上記と同じく「一支」は、現在の壱岐島の文字と類似するからであろう。では「壱岐」は何を意味しているのか?…「支・岐」が示すところは?…解っているのであろうか?・・・。
では倭人伝の「一大」は何と読み解けるか?…一(一様に)・大(平らな頂の山稜)となる。何のことはない全く同様の地形を表していることが解る。
そもそも「天」=「一+大」と分解されるのである。どうやら魏志倭人伝の地名表記は地形象形、と言うか倭人の表記を使っている(若干の置換えもあるかもしれないが…)と思われる。
「一大」は誤記ではないとする説もいまだ根強い・・・結構なことだが、誤記説が排除されていないことを憂う・・・と言いながら、古事記における「天」の解釈が確信に至ったかも、である。どうでも良いことになるが、原の辻遺跡は全くの無関係であろう。遺跡・遺物から古代を読み解くこと、ある意味百害あって一利なし、かも?・・・。
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古事記で地形象形として用いられる「大」は、更に分解して、総じて「一+人」=「平らな頂の山稜(麓)」を表していると読み解いた。古事記中に381回出現する(因みに「王」は386回)。例えば出雲國は大斗(意富斗)と表記される。
また大倭豐秋津嶋の大倭は「大和」ではない。平らな山頂(尾根)から山稜が嫋やかに延びるところと解釈される。これらの文字を含む大倭帶日子國押人命(孝安天皇)が坐した葛城室之秋津嶋宮の場所を推定した例が挙げられる。「大和」に坐した天皇なのに「大倭」が付いたり付かなかったり、意味不明だ!…ではなく「大倭」なところに坐したか否か、なのである。
上記の「高天原」の「高」=「皺が寄ったような筋目がある様」と読む。「高い」と解釈しては全く伝わって来ない。『古事記』は、”神話風”に記述された「地政学書」であろう。勿論『魏志倭人伝』も、である。
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末盧國
さて、諸説紛々の地名比定に入って行こう・・・。
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<末盧國> |
③末盧國からは文字の地形象形を検証するわけには行かず、この文字列そのものを紐解くことになる。
古事記に登場する息長帶比賣命が立寄った筑紫末羅縣に関連する解釈もあるが、全て文字列の類似が根拠である。「末」の地形表記は「山稜の端」とした。
「盧」の関連する文字は古事記に登場する大倭根子日子賦斗邇命(孝霊天皇)が坐した黑田廬戸宮に含まれる「廬」である。
それに含まれる「盧」=「虍+囟+皿」と分解される。「虍」=「虎の縦縞の様」と読んで地形象形的には盧=虎の縦縞(虍)のように僅かな隙間(囟)が揃って並んでいる(皿)ところと解釈した。
その極めて特徴的な地形が、山稜の端、現在の東松浦半島の東側に見出せる。地形形成の基本的なところに拠るのであろうか、ほぼ東側全域に見られる断崖が「虎の縞模様」を呈しているのである。
「末盧」の解釈は様々になされて来ているが、総て現存地名との類似性に根拠を求めている。松浦などであるが「盧」が示す地形を根拠にした説は見当たらないようである。上記の「黑田廬戸宮」以外にも古事記に「盧」に関連する文字列が登場する。
例えば、安康天皇紀に五處之屯宅と言う文字列が登場する。「處」=「虍+処」と分解して「五つの縦縞のような山稜があるところ」と読み解いた。総て「虎の縦じま」で読み解けるのである。日本列島には棲息していない「虎」を用いた地形象形は「倭人」の出生の地を伺わせるものであり、彼らが対馬、壱岐島を経て日本列島に広がって行ったことを物語っていると思われる。
そして「末盧國」の領域は、その崖下の場所と推定される。決して東松浦半島全域でもなく、松浦川河口付近の平野部、松浦潟などを含むものではない。極めて限定された地にあった国であると推定される。「盧」が地形象形として用いられていると解釈して初めてその国の有様が浮かび上がって来たのである。
・・・とここまで比定場所について古田武彦氏の説に異論を唱えているわけではない。がしかし、いよいよ邪馬壹國へ向けて旅立つことにする。
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佐賀県唐津市の東松浦半島(上場台地)の先端に屋形石の七ッ釜と言われる場所がある。玄武岩の柱状節理が見られるところとして国の天然記念物に指定されているそうである。これが半島東部の特異な形状を作っていると思われる。それを「盧」で表記したと読み解ける。「末盧國」について原文に「濱山海居」と記されている。断崖の裾の狭い場所であったことが伺える。
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伊都國
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<天石屋・伊都之尾羽張神> |
④伊都國は「イト」と呼ばれているようである。通説では福岡県糸島市、福岡市西区(旧怡土郡)付近に関連付けられている。
「伊都」の文字列は、古事記中重要な場所を示す、「天」の中心地である。
天石屋に坐していた伊都之尾羽張神、最強の建御雷之男神の父親であり、銘刀の作者でもある(古事記の図を再掲)。
伊都=燚(イツ)と読む。火山が寄り集まった地を表すと解釈する。そんな地が末盧國の東南にあるか?…背振山山系の西側一帯に広がり、南は多良岳・雲仙岳に繋がる火山帯に包まれた場所である。ここで博多湾岸に向かう従来の説とは大きく異なることになる。
ここで博多湾岸に向かう従来の説とは大きく異なることになる。通説の糸島半島は、おそらく火山性の山で成り立っていたかと思われるが、当時は半島ではなく、その名の通り「糸島」であったと推測される(半島の付け根は標高5m以下)。向かうには「水行」となる。福岡市西区(旧怡土郡)とすると「燚」を求めることは不可能であろう。
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<伊都國> |
更に末盧國から「東南」の方角にはない。東~東北方に当たる。これを末盧國から向かい始める方向が東南だから、倭人伝の筆者はそれを記載した、かのような説明がなされている。
次の段で述べるが、奴國と投馬國へは実際に向かうことはなく、方角を記したとするのであるが、これも向かい始める方角のことなのであろうか?・・・。
怪しげな解釈のままであろう。「伊都」の示す意味も明らかにされてはいない。「糸(怡土)」の読みの類似に拠る解釈であろう。
「末盧國」について「草木茂盛行不見前人」と記されている。そんな未開の地を陸行するくらいなら同じ玄界灘に面する「伊都國」に直行すれば済む筈であろう。
「末盧國」を経由する必然性があった、東南の内陸に向かうために・・・未開の地とすることは倭國の水際防衛を意味するのである。外海に開かれた無防備な港湾の都はあり得ない、と思われる。
それにしても古事記に登場した文字列そのものであること、それが地形象形した表記であることに、次第に自信を深めつつ・・・の状況である。「伊都國」は「燚」の中央部、現在のJR岩屋駅の近隣と推定した(登山関連のサイトから可能な限り山の名前を抜き出してみたが・・・)。現地名は唐津市厳木町本山・岩屋辺りである。
尚、「伊」=「人+尹」(一つに纏める)、「都」=「者+阝(邑)」と分解すると「者」=「台上で枝を集めて燃やす」様を象った文字と解説される。伊都=燃える台地を一つに纏めたところと読み解ける。重層の地形象形表記なのである。
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「都」は呉音「ツ」、漢音「ト」と知られる。古事記では決して「ト」と読まれることはない。例示すれば上記の「伊都(イツ)」の他に角鹿(都奴賀:ツヌ[ノ]ガ)がある(現在の敦賀ではなく、下関市門司区喜多久辺り、その地形に拠る)。具体的な例示は避けるが、挿入される歌でも「都(ツ)」と読むことで解釈される。
現在でも両用されているとは言え「伊都(イト)」=「糸、怡土」が”確定”したような解釈はあり得ないであろう。「伊都國」を博多湾岸から外すと、「邪馬壹國」を瀬戸内海の遥か彼方、近畿に持って来ることは絶望となる。九州説と近畿説の両者の妥協の産物なのであろうか?・・・。
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奴國・不彌國
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<奴國・不彌國> |
⑤奴國の導入部に「行」が付かないことから、実際に向かったのではないと看破したのは実にお見事である。
さて「奴」は何と解釈するか?…この文字は古事記で多用される文字の一つで、計53回登場する。
その代表的な例は高志前之角鹿(都奴賀)であろう。「奴」=「女+又(手)」と分解される。
嫋やかに曲がる手(腕)のような山稜と紐解いた。
真っ直ぐな山稜は少なく、大抵は曲がっている。重要なのは、その先端が「手」のように幾つかに分岐しているところを表している。それを「腕」を含めた「手」と見做している。
多久市西多久町の山稜にその地形を見出せる。そして「伊都國」から東南の方角にある。女山(船山)の裏手に当たる。確かに「不彌國」へ向かう行程からすると脇に外れることになろう。
そして行程は⑥不彌國へと進む。これに含まれる文字も古事記に登場する。「不」=「花の子房」を象った文字で「咅」と同義であると解説される。例えば大毘古命の御子、建沼河別命が祖となった阿倍臣、また、袁祁之石巢別命(顯宗天皇)陵の片岡之石坏岡上などにも含まれていた。図には「不」の文字形そのものを示した。
「彌」=「広がり渡る様」の文字と言われる。不彌=子房のある花が広がり渡ったようなところと読み解ける。その地は多久市北多久町に見出すことができる。現在の標高からすると、その東側は有明海に面していたと推測される。古事記の近淡海國(現豊前平野)では現在の標高約6~8m付近のところが当時(3~5世紀)の海岸線であったと推定した。
故にこの地より南方へ水行二十日で「投馬國」に至ると記載されている。海が南の方角で面していることは遠望する上で至極自然であろう。北に向かって海を眺めながら南の國に思いを巡らす、そんな記述は行わない、のでは?・・・。
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ここで③末盧國、④伊都國、⑤奴國、⑥不彌國までの方角と里程数の確認を行ってみよう。使者は、現在の唐津市佐志浜町にあった港に着き、そこから「陸行」で伊都國に向かったと記されている。末盧國の記述に「草木茂盛行不見前人」とあり、藪漕ぎの如くに進んだのであり、国と国とに端境にあるところは更に険しい道を歩んだのであろう。「東南陸行 五百里 到伊都國」東南方向で五百里だから、概ね30km程度の「陸行」と思われる。
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<末盧國→伊都國> |
唐津市佐志の谷間を南に向かうのであるが、東に向かうことは叶わなかったと推定される。
図に示したように当時の唐津湾は虹の松原の砂洲が延びた内側は、巨大な汽水湖の様相であったと推測される。
松浦川およびその支流の徳須恵川、半田川の上流域にまで広がり、徳須恵川では日岳の東北麓辺りまでが汽水の状態であったと思われる(現在の標高5m以下)。
即ち陸路ならば佐志の谷間から日岳の麓に迂回する必要があったことが解る。
まかり間違っても現在の国道203号線あるいはJR唐津線のようなルートは選択されなかったのである。
『古事記』の秋津(宗像市)、橘小門之阿波岐原(遠賀郡岡垣町)と極めて類似した地形を示している。
豊かな漁場であり、小舟を浮かべて縦横に往来していた場所であろうが、賓客には、それを用いることは避けたのであろう。倭國の水際防衛である。
日岳の麓に届いたなら後は山越えのルートになる。岸岳南麓を迂回し、相知町佐里辺りで松浦川を渡渉する。ここまでの上流であれば大河松浦川を越えられるであろう。日ノ高地山北麓の谷間をすり抜けて、平山川を渡渉する。引き続いて相知町押川の谷間を登れば厳木町本山に届く。現在のJR岩屋駅近隣である。Google Mapの距離計算によれば、ジャスト30kmとなった。
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<伊都國→奴國→不彌國> |
末盧國から東南の方角を忠実に従ったとすると、有明海に抜けるとした記述も散見される。
がしかし、直線距離で判断しては「陸行」の見積もりを大きく外してしまうことになろう。
「水行」の距離測定に誤差が生じるのとは異なり、歩測でかなりの精度を有していたと思われる。
勿論「道」は如何様にも変化することは重々承知の上で・・・。ほぼ一日で歩くことのできる距離ではなかろうか。
続いて⑤奴國、⑥不彌國に向かう。伊都國、現在の厳木町本山のJR岩屋駅辺りを出発したとして、厳木川沿いの道を進んだと推定した。上記の末盧國からの道筋とは地形が大きく異なり、山深い谷間を進むしか選択の余地はなさそうである。厳木、中島、牧瀬を東南方向に進むと笹原峠(現地名多久市北多久町小侍)にぶつかる。
北部方面からの外敵の侵入に対して、実に天然の防御地形であることが解る。この地点で岩屋駅辺りからの距離が約6kmに達する。即ち百里となる。そしてこの地は⑤奴國の北端に当たるところと推定される。「行」が付かない故に実際に向かわなかった。その通りである。奴國の地に踏み込むが、その国を訪れたわけではないことを表していると解釈される。
と同時に東に向きを変えてて不彌國へと歩んだのである。伊都國から不彌國の中央部への総歩行距離はGoogle Mapで約11.9kmと表示された。奴國の地、笹原峠から約5.9kmで不彌國に達すると読み解ける。上記の末盧國から伊都國、伊都國から(奴國)不彌國への歩行距離、凄まじいばかりの精度であろう。
上図<奴國・不彌國>に示したように、奴國は北部方面(笹原峠)及び西部方面(女人峠)、不彌國は東・南部方面で古有明海に面した国防体制を敷いていたことが読み取れる。極東の最果ての国ながら、優れものの国であることを、決してあからさまにせずに陳寿は記述したように感じられる。彼の優しさが招いた「邪馬台国論争」なのかもしれない。
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邪馬壹國
さて、「投馬國」は後で述べるとして、いよいよ「邪馬壹國」である。「帯方郡」から「万二千里」対馬と壱岐島の島巡りを入れるとピッタシ、と言う見事さに敬意を払って(実際に巡行したかどうかではなく、空間として加える要あり)、上図に示したように「不彌國」に接する場所であろう。
では「邪馬壹」は何と紐解けるか?…「邪」=「牙+阝(邑)」と分解できる。「牙」=「∨」が「阝」=「邑」(集まる)して「∨∧∨∧…」象形から「曲りくねった様」と読める。「よこしま」の意味もこれから派生する。古事記中に出現した文字列は、ほぼ「曲りくねった様」で解釈できる。
しかしながら、ここでの「邪馬」はもっと直截的に地形を表していると思われる。即ち「邪」も「馬」も、各々の「形」そのものを表していることが解った。
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<邪馬壹國> |
山稜が作る模様が「馬」の姿を示し、その頭部に二つの「牙」がある、そのものズバリの地形象形を行っているのである。
「壹」は如何に紐解けるのか?…「臺」の誤りだとか、一時はその話題で古代史が賑わった経緯がある。
果たして「壹」なのか、それとも「臺」なのか・・・。
「壹」=「吉+壺」と分解される。更に「吉」=「蓋+口」と分解される。
即ち「壹」=「いっぱいものが詰まっている壺に蓋をする」様を表す文字と解説される。
これによって単に「一」を示すばかりではなく「一つに纏める、専ら、総(じ)て」などの意味を表すことができる文字となっていると解釈される。
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<壹> |
古事記に登場する天押帶日子命が祖となった壹比韋臣などがある。上記の「牙」と同様に倭人伝は、文字形をより直接的に用いているようである。
図に「馬」の文字がその姿を象形しているとして、各部位を矢印で示した。「頭部」には「牙」はない、故に「邪」を付加したのである。
山稜の形を「馬」に喩えるのは古事記でも常套の手法である。例えば天照大御神と速須佐之男命の宇氣比で誕生した天津日子根命が祖となった馬來田國造は、尾根から延びる複数の枝稜線を馬の脚と見做したと解釈される。福岡県行橋市の御所ヶ岳・馬ヶ岳山系に極めて類似する地形と思われる。
邪馬壹=牙のある馬のような山稜が蓋をしているところと紐解ける。上図<奴國・不彌國>から分るように「伊都國」から細い谷間をくぐり抜けた後の「奴国」、「不彌國」がある「壺」のような谷間に蓋をするように横たわって、一つに纏めたような山稜を表している。
古田武彦氏は、「邪馬壹國」の場所を明確に示してはいない。博多湾岸の何処である。「壹」=「一つに纏める、総べる」と解釈しても一応の意味は通じるようだが、「蓋」を使ってより直截的な地形象形となっている(古田氏は「二つとない、唯一の」のような解釈だが…)。とは言え「不彌國」は当然としても「奴國」も「邪馬壹國」に接するとした慧眼を再見することになった。
こうしてみると、古事記の地形象形は、少々穏やか(読む方にとっては解読し辛い?)なのかもしれない。何となくそのような気がするのだが・・・倭人伝は気遣うところなし、かも・・・。
「邪馬」→「耶馬」とも表記されるようである。「耶」は「邪」の異形字とのことだが、「耶」=「耳+阝(邑)」と分解される。「牙」→「耳」となる。「牙」は見ようによっては「耳」の形でもある。これもなかなか興味深い置換えであろうが、「耳」の位置として適切か?・・・単に「邪」(卑字?)を回避したのでは本来の意味するところが暈けて来るようである。
「邪馬壹國」は最も南に位置する配置となった。倭人伝には更に多くの国が記載されている。果たしてどうなるのか・・・下記を参照。ところで、調子に乗って、女王「卑彌呼」は何と紐解けるか?…文字解釈によって図に示したところとなったが、結果的には坐した(古事記的表記で)ところは「邪馬壹國」の中央である。詳細は不明だが、遺跡があるとか・・・。
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『魏志倭人伝』以外の中国史書では「臺」の文字を使う。「邪馬臺國」である。「臺」→「台」と置換えて「邪馬台国」と通称される。そもそも「臺」と「台」とは別字なのだが、通用されて来たとして現在もこの置換えが当たり前とされている。上記の「壹」と同じくこの文字を紐解いてみよう。
説文解字によると「臺」=「之+至+高」と分解される。「之」は「進む」と「止まる」の二つの動作を含意する文字である。『古事記』では「之」=「蛇行する川」と読み解いた。「蛇行する」とは「進みつつ止まる形」を表していると解釈される。「至」=「矢が突当たった様」の象形(下図参照)であり、「高」=「盛り上がった台形の地」を表すとすると…臺=曲りくねりながら行き着いた小高い台地と読み解ける。
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<至> |
「臺」の通常使われる意味「物見台(うてな)、高く平らな土地」なども文字の構成要素から解釈できるようであるが、上記のように紐解くと、更に文字が持つ意味の側面が理解されると思われる。すると、邪馬臺=牙のある[馬]の地形で曲りくねりながら行き着いた小高い台地と読み解ける。
「壺」の外から見れば「壹」(蓋の地)は、その中から覗けば「臺」(行き着いた台地)であると解る。即ち「壹」は極めて的確な地形象形であると同時に「臺」もその国の位置付けを的確に表現しているのである。日本の古代史は、何と無益な論争を行って来たのであろうか、実に愚かな歴史を刻んだものである。
「臺」と「台」の置換えはともかくとして、ジャーナリスティックな『邪馬台国はなかった・・・』も無益な論争に加担したと気付くべきであろう。古田氏は後に「邪馬一国」という表記も行っているが、「壹」→「一」の置換えはあり得ないのである。
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投馬國
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<投馬國> |
最後に「南至投馬國 水行二十日」と記される⑦投馬國について紐解いてみよう。「投」=「扌(手)+殳」と分解される。「殳」=「動かさずに止める」とされ、「投」=「ピッタリと収める」の意味を示すと解説される。「投入、投薬」などで用いられている。
「邪馬壹國」の南方にそれを求めると、現在の島原半島辺りではなかろうか。当時はほぼ島の地形であり、有明海を塞ぐようにピッタリとはまっているように見える。
この地形が驚異の干満差(約6m:日本最大)を生じることになる。そして広大な干潟を形成する有明海の特徴を示すのが「投馬國」なのである。それを見逃す筈はない、のではなかろうか。後に「侏儒」=「阿蘇」も登場する。
さて、女王國から「水行二十日」の距離は不確かだが、「水行」するのが当たり前の場所であることには違いはないであろう。雲仙岳の山稜を「馬の形」に見做したと思われる。
通説は諸説があって定まらないが、「投馬(ツマ)」の訓から類似の地名とするようである(「水行二十日」については、後の裸國黑歯國への「船行一年」に関連、後日に述べる)。
「戸数」について・・・「邪馬壹國」の比定地、これも根拠の一つとして挙げられているようだが、博多湾岸、有明海など、それに面する現在の中心都市の大半は、海面下であったことを棚に上げているように感じられる。
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<投馬國俯瞰図> |
「末盧國」について「有四千餘戸 濱山海居 草木茂盛行不見前人」、また「伊都國」は「千餘戸」と記述されている。
上記の「末盧國」、「伊都國」の居住可能な面積に基づくと「邪馬壹國」の「可七萬餘戸」及び「奴國」の「有二萬餘戸」は、あり得なくもないように思われる。
参考にする古事記の近淡海、それは現在の行橋市を示すが、その中心地はものの見事に海面下であったと推定した。
時と共に広がった、埋め立てた扇状地、古事記の時代と大きく変化したのは、この地形である。大河の河口付近、多数の川が注ぐ入江を俎板に載せることは”危険”な作業であろう。
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②一大國、⑥不彌國については「戸」ではなく「家」と記載されている。「戸」=「出入口」の扉を象った文字、一方「家」=「宀+豕」であり、家畜を屋根で覆った状態を表すと解説される。おそらく「戸」は出入口のある建屋で、「家」は出入口が(定かで)ない建屋のことを述べているのではなかろうか。人が住まう場所であったり収穫した穀物を保管する「戸」がある建屋とそれ以外とを区別して表記したと推測される。戸(家)の数から人口を見積もることは難しいようである。
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少々余談になるが、御眞木入日子印惠命(崇神天皇)に疫病が多発する説話が載せられている。その時天皇が取った防御の手段は都への出入口に神々を配置して塞ぐことであった。日常の利便性を考えれば一方は川であることが重要であろうが、その他は山で取り囲まれた地形でなければ外敵に対応することは叶わなかったのであろう。
この説話は天皇が坐した師木水垣宮の在処を示すと共に当時の都が具備すべき場所の地形を見事に示していると思われる。断じれば「邪馬壹國」は、博多湾岸にはあり得ないことを述べているのである。勿論奈良大和はこの条件を満たすであろう。古事記の記述範囲外で事実として存在する奈良大和に何故都は置かれたのか、崇神天皇紀の疫病多起が物語っていると憶測される。
上図に示したように「邪馬壹國」は、北から天山~[笹原峠]~女山(船山)・八幡岳~[女山峠]~徳連岳~鬼ノ鼻山~両子山~[牛津川(古有明海)]で取り囲まれた地形を示している。古事記の「師木」との類似性をあらためて気付かされる場所である。[ ]で括ったところが外界へ通じる通路である。
「伊都國」に郡使が「往來常所駐」と記された意味が明瞭に伝わって来る。[笹原峠]は北からの外敵の侵入を抑える”関所”であったことが解る。差し詰め古事記の[金辺峠]に該当するものであろう。古代の都が置かれた地形、それを偲ばせる記述であることが解る。
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狗邪韓國
「從郡至倭 循海岸水行 歴韓國 乍南乍東 到其北岸狗邪韓國 七千餘里」の記述に登場する国であり、「倭国の北岸」を示すと解釈されている。帯方郡から向かった先は「對海國」に向かうための場所、朝鮮半島の南岸であり、なんとも北と南が入り乱れてスッキリしない解釈のままである。
「狗邪韓國」については世界大百科事典によると…、
3世紀の朝鮮の弁辰十二国のうちの一つ。狗邪は加羅(から)(加耶)で,後の釜山・金海の地。《魏志倭人伝》に〈韓国を歴て,乍(あるい)は南し乍は東し,其の北岸,狗邪韓国に到る七千余里〉とみえる。《魏志韓伝》には弁辰狗邪国とある。この国の位置からして,狗邪韓国は,倭と朝鮮半島の帯方郡通交のさいの中継地として古くから重要な地帯であったことを思わせる。
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<狗邪韓國> |
…と記載されている。頻出の「邪」、及び後に登場する「狗」を用いた命名ならば同様に地形象形した表記であろう。
「狗」は「犬+句」と分解する。「犬」=「平らな頂の山稜」と読み解いた。
後の「狗奴」では平坦な頂と解釈するが、この場合は山稜が尾根がなだらかになっている様と読み解く。
「邪」も上記と同様に「牙が集まった様」とする。重要なのが「韓」、「韓國(カンコク)」と読んでしまっては、勿体ない。
「韓」=「倝+韋」と分解される。「倝」=「高くなる様」と解説され、「韋」は「圍(囲)」の原字である。すると「韓」=「高くなったところで囲まれた様」を意味すると読み解ける。
通常、「井桁(井戸のまわりの囲い木)」の意味で用いられる。『古事記』の大年神の御子に韓神が登場する。大国主命と八上比賣の御子、御井神が坐したところと推定した。また葦原中國の「葦」も類似する解釈である。
これで「狗邪韓國」の場所が特定できる。図に示したように慶尚南道金海市進礼(面)の地形が見事に合致することが解る。「牙」のある頭部に当たる龍蹄峰[723m]~大岩山[669m]~南山峰[410m]~テジョン山[290m]、また東側は北からムルン山[313m]~ファンセ山[392m]~メボン山[339m]に取り囲まれた盆地となっている。
『古事記』に登場した神々の配置も併せて示した。「狗邪韓國」を取巻くように大国主命の後裔等を並べたことになる。『魏志倭人伝』と『古事記』が相補って「韓國」の詳細を語っているように見受けられる。因みに「伽耶」の「伽」=「寄り添い侍る」、「耶」=「邪」=「牙が集まったところ」とすれば現在の伽耶大学のある南北に広がる谷間を示していることが解る。
上図から解るように「狗邪韓國」は「北岸」(現地名金海市進永・翰林)を有している。即ち洛東江(おそらく当時の流域・川幅は、より広い範囲を示していた)に面していたと推定される。それを「其北岸狗邪韓國」と記したと読み取れる。おそらく帯方郡を発って「韓國」の北方である現在の忠清南道牙山市辺りで上陸して「韓國」内を「乍南乍東」して「陸行」南下し、「北岸」に辿り着いたと読み解ける。朝鮮半島西岸の「水行」はあり得ないことになるが、「隋書」の時代とは異なる(下記参照)。
この盆地の東南の出口(現在は高速道路が走る)から暫くすると巨大な入江に突き当たることになったであろう。現標高が定かでないが、洛東江河口が大きく広がった海であったと推測される。この地が、對海國との航路の発着所と推定される。残念ながら韓国地図の詳細が入手できず、その発着場所の特定は叶わないようである。
「韓國」の由来も「山稜に囲まれた様」に拠るのかもしれない。朝鮮半島の75%が山岳地帯であり、最高標高も2,000mを越えることはないとのことである。『古事記』に登場する比比羅木はその地形を表していると紐解いた。
余談だが・・・「新羅」の「新」=「辛+木+斤」であり、「木を斧で切り裂いた様」から派生する意味と解説される。「比比羅木」の図にある通り、「新羅」の地に奇麗に並んだ山稜の筋目が見える。「百濟」は「百」=「一+白」=「一様に小高いところがある地形」、「濟」=「水+齊(斉)」とすれば、一様に小高いところが水(海)の傍らで等しく並び揃っているところと紐解ける。
『古事記』の応神天皇紀に登場した古波陀の地、その地形を示していると読み解ける。どうやら、朝鮮半島も「倭人」が持ち込んだ漢字による地形象形で名付けられているように思われる。
また、古代朝鮮半島南部に「任那(ミマナ)」と言う地があったと知られている。「一般的に伽耶と同一、または重複する地域を指す用語」と解説されるが、上記と同様に文字解釈を行ってみよう。「任」=「人(谷間)+壬」と分解される。「壬」=「真ん中が膨れた糸巻きの形」を象った文字である。
すると任那=山稜に囲まれたなだらかな(那)谷間(人)が膨れた糸巻のような形(壬)をしたところと紐解ける。正に上記の「狗邪韓國」の地形を示し、「別名」であることが解る。図に示したように「伽耶」とは同一でも重複するわけでもなく、隣接するが別個の場所を表しているのである。
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読み解き初めの魏志倭人伝、詳細を云々するのは時期尚早、ともあれ登場する倭国の地名、それは地形象形の表記であることが確認できた、ことで良しとしよう。
不幸(?)にも「伊都國」、「奴國」、「不彌國」そして「邪馬壹國」の比定場所は、従来に提案されたものの中には含まれていないようである(唐津から多久に抜ける提案はいくつか見受けられるが、古有明海に突き抜けてしまうようである)。
既に何処かで述べたように、漢字を用いた地形象形の表現は、決して古事記オリジナルではないと思われる。当時は当たり前、そして的確にその地の情報を含めた命名となっていたのであろう。それをグジャグジャにしたのが日本書紀である。律令制以後は、それを行うと死罪だったのかもしれない・・・。
古事記はこの地のことを全く語らない。九州本土においては胸形(現宗像市)以西は登場しないのである。この地の存在を知らない訳はない筈、天神達の本拠、壱岐島はこの地の方が近い。何故か?…日本の古代の根幹に関わることだと感じる。が、本日はこの辺りとしておこう。
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最後に「倭」の文字ついて述べておこう。従来では、古事記の解釈も含めて、「倭」=「大和(ヤマト)」とされているようである。しかしながらこの文字が持つ意味は、全く繋がらないことが解る。
「倭」=「人+委」と分解される。更に「委」=「禾+女」と分解できる。「禾」は「稲穂のしなやかに曲がる様」を、「女」は「嫋やかに曲がる様」を象った文字である。即ち「委」=「しなやかに嫋やかに曲がっている様」を表している文字と解説される。地形象形的には、弱弱しく畝りながら全体としてしなやかに曲がっている山稜を示していると解釈される。
古事記はこれを多用し、例えば「大倭」、大倭豐秋津嶋や大倭日子鉏友命(懿徳天皇)、大倭帶日子國押人命(孝安天皇)、大倭根子日子賦斗邇命(孝霊天皇)、大倭根子日子國玖琉命(孝元天皇)など和風諡号に出現する。「大倭」=「平らな頂からしなやかに畝って延びる山稜」と読み解ける。
「倭(ヤマト)」では、全く日本の古代を知ることは不可能である。いや、そうすることで奈良大和と恣意的に関連付けることが目的だったのであろう。御眞木入日子印惠命(崇神天皇)、古事記原文に「故稱其御世、謂所知初國之御眞木天皇也」と記されている。「大倭」が付いていない。何故?…訝しがっている方もおられるように、「大倭」の表す意味が全く読み取れていないのである。
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