2019年9月28日土曜日

『古事記』で読み解く『魏志倭人伝』(Ⅲ) 〔373〕

『古事記』で読み解く『魏志倭人伝』(Ⅲ) 


前記までで「邪馬壹國」及びその「旁國」の全体像が見えて来たように思われる。今回は、更に各国の詳細を眺めてみようかと思う。と言っても原文は極めて簡略な記述であり、手掛かりは登場する「官」の名前であろう。おそらく、いやきっと名付けられた名前は地形に基づくものと思われる。古事記に類似するならば・・・。

①對海國、其⼤官曰卑狗、副曰卑奴⺟離
②⼀⼤國、官亦曰卑狗副曰卑奴⺟離
③伊都、官曰爾⽀、副曰泄謨觚柄渠觚
④奴國、官曰兕⾺觚、副曰卑奴⺟離
⑤不彌國、官曰多模、副曰卑奴⺟離
⑥投⾺國官曰彌彌、副曰彌彌那利
⑦邪⾺壹國、女王(卑彌呼)之所都、官有伊⽀⾺、次曰彌⾺升、次曰彌⾺獲⽀、次奴佳鞮
⑧狗奴國、男子為王、其官有狗古智卑狗
⑨狗奴國、男王卑彌弓呼素
卑弥呼宗女壹與

古事記に頻出する文字もあれば見慣れぬものも見受けられる。さて、どうなるか、中心の国、「邪馬壹國」から北方に向かい、後に他の国を紐解いてみよう。
 
邪馬壹國

「牙のある馬が蓋をするような」姿をした国と紐解いたが、さすが女王の住まう地で「官」の数が最も多い。の宗女「壹輿」も含めて配置してみたのが下図である。女王「卑彌呼」は何と読み解けるか?…超有名な女王について、様々に語られて来ているが、天照大御神と同一人物にまで発展しているとか・・・。

現在からすればとても名前に用いられている文字列ではない。それは古事記も全く同様であり、間違いなく地形象形した表記であることを伺わせる。
 
<邪馬壹國>
「卑」の文字は天照大御神と速須佐之男命の宇氣比で誕生したとされる天之菩卑能命に含まれている。

「卑」は通常「卑しい」の意味で使用されるが、低く平らな、薄く扁平なが原義と解説される文字である。

山稜の端で低く平らな地形を示していると解釈される。既出の彌=広がり渡るである。

「呼」の文字は古事記に登場しない文字であり、「呼」=「口+乎」と分解される。「乎」=「∴(小さなもの)+丂」と分解される。

これから「呼」=「口から何か小さなものが曲りくねりながら出る」様を表す文字、即ち「呼ぶ」になったと知られる。地形象形的には「曲りくねる山稜の谷間から生え出た地形」を示していると解釈される。纏めると、卑彌呼=低く平らに広がる台地が曲がって延びる山稜の谷間から生え出たところと解読される。

これらの地形要素を満たすところを求めた結果が上図に示した場所、現在の多久市南多久町の牟田辺と推定した。現在も延々と続く「邪馬台国論争」そして何と500ヶ所以上もある候補地、だが卑彌呼の居場所までは突止められてはいない?…ようだが・・・。

四人の官名が記される。「伊」=「僅かに」、「支」=「分ける」とすると伊支馬=僅かに「馬」を分けるところと紐解ける。古事記の壱岐島の国名「伊伎國」=「僅かに分かれた国」と読み解いた。東西に流れる川によって南北が分断されているように見える島なのである。「伊支馬」は、現在の天ヶ瀬ダムがある深い谷間、その下流の地に居たと推定される。現地名は多久市南多久町大字長尾辺りである。

「彌馬」=「広がり渡る[馬]」として「邪馬壹國」を表すとする。「升」=「斗+一」と分解される。古事記に頻出の斗=柄杓の地形と読み解いたが、それに「一」が加わる(図中の古文字参照)。見事に合致する地形が見出せる。彌馬升=広がり渡る[馬]の地で[升]の形のところと紐解ける。現地名は多久市東多久町大字納所辺りである。

「彌馬」が続く。「獲」=「犬+蒦」と分解される。「蒦」=「枠で囲む」の意味を持つとされる。通常は「犬」=「犭(獣)」の代表しているが、「犬」=「平らな頂の山稜(麓)+小高いところ」、は「大」の変形と見做している。「獲」=「平らな頂の山麓の枠で囲まれたようなところ」と読み解ける。

纏めると彌馬獲支=広がり渡る[馬]の地で平らな頂の山麓が延びた山稜で囲まれたところと紐解ける。最後の「支」=「山稜が延びたところ」である。現在の天満宮のある延びた山稜で囲われた地となっている。実にきめ細やかな表記であろう。現地名は多久市東多久町大字別府である。

既出の「奴」=「腕(手)のように曲がって延びる山稜」として、古事記には全く出現しなかった文字列に進む。「佳」は何と読めるか?…通常は「美しい、優れている」などの意味を示すのだが、地形象形的ではない。そもそも「佳」=「人+圭」と分解され、更に「圭」=「土+土」となる文字から何故「美しい」の意味が生じたのであろうか?…そこに解がありそうである。

「土+土」はピラミッド状に積み重ねた様を表すそうで、奇麗に整った情景を示すと解説される。角がスッキリして、「∟」、「∠」の形である。即ち「佳」=「角、隅」を表していると読み解ける。「鞮」=「革+是」である。「革」は動物の革を展ばした図形を示し、「廿」は頭、その以下は胴体、手足を模していると解説される。

「是」=「匙」であって、スプーンの形を示す。すると「鞮」=「大きな頭の[匙]のような形」を示している。地形象形的には「山稜の端が動物の大きな頭のようなところ」と読み解ける。全て纏めると奴佳鞮=角にある曲がって延びる山稜の端が動物の大きな頭のようなところと解釈される。現地名は多久市多久町である。

「邪馬壹國」の中に奇麗に女王と「官」が納まったように見受けられる。また「官」は中央の女王の場所を挟むように、「馬」の頭、脚の先に鎮座していたことも解った。流石の布陣であろう。卑彌呼の宗女「壹輿」も同じく地形を示していると思われる。

輿=牙とされる。何とも理解し辛いことなのだが、「牙」が噛み合っている様から「物のやり取り」を表し「与える」と言う意味に用いられるようになったと解説される。これで解けた。正に「壹」=「谷間に蓋をする」ような「牙」の位置を表していると解釈される。従来では「臺輿(台与)」とされる場合がある。がしかし、これでは本来の居場所は伝わって来ない。「壹」と「臺」の問題もどうやら決着したようである。
 
不彌國

満開の花のような国、である。複数の山稜が並ぶ国に「多模」と副の「卑奴⺟離」の「官」が居たと伝える。「多」は古事記に頻出の文字である(339回;「王」386回)。「山稜の端の三角州」と読み解いた。果たしてそれが通じるのか?…これが適用されるとなると、ほぼ間違いなく「魏志倭人伝」中に用いられた倭の地名・人名は地形象形表記と確信されるのだが・・・。
 
<不彌國>
「模」=「木(山稜)+莫」と分解される。「莫」=「隠れて見えない」様を表す文字と解説される。

「墓」(土で隠れて見えない)に含まれる。ならば「模」=「山稜で隠れて見えない」と読み解ける。

言うまでもなく「木(山稜)」は古事記に頻出、かつ最も重要な文字である。

狭い谷間から僅かに見える三角州の山稜の端の地形が見出せる。現地名は多久市北多久町である。

「不彌國」では花が咲き誇って、谷間が狭いようであるが、最も狭いところと推定した。逆に満開の花の地にこそ生じる地形なのであろう。

そして日本列島に定着した倭人達は、白紙の地に漢字を用いて地名及びその地を出自に持つ人名としたことが解る。古事記は、その伝統・文化を忠実に踏襲したと推察される。蛇足だが、日本書紀はそれに該当しない。

「卑奴母離」は幾度か登場する。当然解釈は同じでなければならない。「卑」、「奴」は上記と同様。「母」は古事記にもそれなりの頻度で登場する。代表的な例を…大倭根子日子賦斗邇命(孝霊天皇)が和知都美命の比賣、蠅伊呂泥(意富夜麻登玖邇阿禮比賣命)を娶って夜麻登登母母曾毘賣命が誕生する。また黄泉國に居た豫母都志許賣にも「母」が含まれていた。

「母」=「女+・+・」と分解される。女性が乳飲子を逞しい、いや頼もしい両腕で抱える様を象形した文字と解説される。地形象形的には、その両腕が強調されたものと読み解いた。「離」は腕が閉じているところが開いた状態を示すのであろう。
 
<奴國>
卑奴母離=低く平らな山稜の端で母の両腕で抱え込まれたような地が開いたところと紐解ける。

多久市東多久町に見出せるその地は、古有明海に面する港の機能を持っていたのであろう。

そこに「副官」が居たことも併せて重要な意味を示しているように伺える。
 
奴國

「官」に「兕⾺觚」、副に「卑奴⺟離」が居たと記されている。「兕(ジ)」=「一角獣」なのだそうである。それを頼りにして見ると、「馬」の地形(若干ゴルフ場となって曖昧さはあるが…)とその頭部が見出せる。

觚」=「角+瓜」とすれば、「角が瓜の形」と読める。その通りの地形を表していることが解る。現地名は多久市多久町とある。「卑奴⺟離」を探すと図に示したところではなかろうか。現地名は多久市西多久町である。

兕⾺觚=瓜の形をした角がある[馬]のような地形と紐解ける。兕⾺」は「一角がある馬」を示す。「邪馬」は「牙がある馬」、また上記の「彌馬」は「広がり渡る馬」と解釈された。「〇馬」は「〇形をした馬の地形」を表しているのである。それが倭人伝の表記法である。「邪馬(ヤマ)」→「山」などの置換えは、全くの誤りである。
 
伊都國

「伊都國」は、Wikipediaによると…、

伊都国(いとこく)は、『魏志倭人伝』にみえる倭国内の国の一つである。『魏志倭人伝』によれば、末廬国から陸を東南に500里進んだ地に所在するとされ、福岡県糸島市、福岡市西区(旧怡土郡)付近に比定している研究者が多い。 

…と記載されている。「邪馬壹國」の所在を九州内に求めようが、はたまた奈良大和に持って来ようが、この地までは大きな違いがないと、通説化しているようである。
 
<伊都國>
既に述べたように「伊都(イツ):燚」と読む。古事記の「伊都之尾羽張神」に登場する表記と推定した。

「伊都」は火山の集まったところであり、極めて特徴的な地形表現なのである。アジア大陸の辺境にあって、プレートがひしめき合うところでマグマが地表付近に迫る場所なのである。

大陸の住人がこれを文字にしない、筈がない・・・妄想はこれくらいにして・・・。

さて、「官」が「爾⽀」、「副」が「泄謨觚柄渠觚」と記述される。

「爾」=「近い」の意味を示す。類似では邇邇藝命に含まれる「邇」が古事記に頻出する。

「支」=「分れる、枝稜線」の両方で同じ地形を表現できる。爾支=接近して分れる・枝稜線が接近するところである。現地名は唐津市厳木町(きゅうらぎまち)本山である。

副官の「泄謨觚柄渠觚」は何と読み解けるであろうか?…「泄」=「洩れる、漏らす」、「謨」=「言+莫」だから上記の「模」と同様に解釈すると「[言]で隠れて見えない」となる。古事記で頻出の「言」=「刃物で耕地にする」と読み解いた。「謨」=「耕地で隠れて見えないところ」を表す文字と紐解ける。

觚」も上記で登場、「角が瓜」である。山稜を何らかの動物の角に見立てて、それが「瓜」の形をしていると表現していると思われる。すると泄謨觚=辛うじて見える耕地で隠された「瓜」の形をしたところと読み解ける。現地名は厳木町岩屋とある。

「柄」=「木(山稜)+丙」と分解される。「丙」=「囲われた地で二つに分かれる」様を象った文字と解説される。「渠」=「溝」の意味である。柄渠觚=囲われた地で二つに分かれる溝の傍らにある「瓜」の形をしたところと読み解ける。上図に示した場所の地形をくどいくらいに説明している文字列と思われる。

実にきめ細かい表記と感じられるのは、上記の「模」は山稜に挟まれた狭い谷間であったが、この地は同様に狭い谷間なのだが、その出口は水田地帯となっている。現在地図から当時を偲ぶには些か時間が経っているが、同様の状態であったように思われる。古事記に比べて直截的に感じられるが、古事記編集者の趣向に拠るものか?・・・使者が倭人の言葉を素直に取ったとすれば、何となく理解できそうな気分である。

末盧国には「官」がいない。伊都國が兼ねていたのかもしれない。ところで厳木町(きゅうらぎまち)と読むそうなのだが、「厳」は「イツ」とも読める。唐津市のサイトに…、

唐津市厳木町厳木(きゅうらぎまちきゅうらぎ)2010年現在

「厳木」という文字はどうしてあてられたのでしょうか。「松浦記集成」によれば、松浦川の西厳木に開闢(かいびゃく)以来という大楠があり、切り倒した時に川を越えて東に渡り今の厳木に及んだといいます。人間の尊厳さ同様の厳(いつ)かしさがあったので、清らかなる木、「きよら木」が語源だとされています。

…と書かれている。本ブログ主は、「燚」と叫んでいる様子である。
 
<一大國>
一大國

「一大」=「一+大」=「天」の文字遊びは、実にお気に入りである。従来よりこの地は壱岐島としか考えられないとして、記述された文字の示す意味を解読された例が見当たらないようである。

官は「卑狗」、副は「卑奴母離」と記される。「狗」は「狗奴國」と同様に「平らな頂の山稜が[く]の字に曲がったところ」と読める。

簡単そうなのだが、地形的に見合う場所を壱岐島全体から見出すことは、かなり困難を伴う。

むしろ「卑奴母離」の地形がそれを助けてくれたようである。この地形は容易に見出せて、現在の勝本町本宮西触にある火箭の辻の北麓を示していると解る。

それが見出せると「卑狗」は、その北側の本宮山の麓が浮かんで来た。気付けば、低山ばかりだが、平らな頂となっている場所は極めて希少であった。

ところでこの地は大国主命の後裔達が住まっていた場所と読み解いた。新羅国を彷徨った系譜は、最後に「天」に舞い戻り、終焉を迎える。
 
<大国主命の娶りと御子④:天>
布忍富鳥鳴海神(新羅の王子)は若盡女神(本宮山)を娶って天日腹大科度美神(火箭の辻北麓)を誕生させる。

その御子が遠津待根神を娶って遠津山岬多良斯神(タンス浦北側)を誕生させて系譜は閉じることになる(当時の壱岐の主たる港は勝本港ではなくタンス浦では?)。

即ち古事記はこの地が天神一族の末裔が住まっていたところと告げているのである。少々憶測の域になるが、使者を導いたのは天神一族と考えられる。

中国本土から遁走した彼らがすべきことは、中央の山地で分断された九州東部を案内するのではなく、西部に誘導した、と考えられる。

不彌國から投馬國まで「水行二十日」、裸國黑歯國まで「船行一年」の記述は、天神達の策略を物語るものではなかろうか。魏志倭人伝と古事記、行間にある深い繋がりを伝えているようであるが、後日の課題としよう。
 
對海國

記述は簡略である。ギザギザの山稜の端が突き出た海では、入江となってはいるが、陸に平地がなく、とても旅の途中で休息できる環境ではなかったであろう。古事記で求めた津嶋縣直は現在の阿須浦にあったと推定した。津を抜けてすぐの入江である。
 
<對海國>
官は「卑狗」、副は「卑奴母離」と一大國と全く同じである。

この狭い地で求めた場所は図に示した通りである。数少ない山稜の端の地形が、幸運にもこれらの文字列の地形を示してくれている。

現地名は対馬市厳原町(いづはらまち)である。

天照大御神と速須佐之男命の宇氣比で誕生した天之菩卑能命の息子、建比良鳥命が祖となった地として記載されている。

天神達の息のかかった場所としているのである。官、副は使者から見た表現なのであろう。

再び倭国に戻って「邪馬壹國」から南の国について述べてみよう。女王國に属さない「大乱」を惹き起す国「狗奴國」である。
 
狗奴國

⑧狗奴國、男子為王、其官有狗古智卑狗
⑨狗奴國、男王卑彌弓呼素

と二度にわたって記載されている。⑧の王名は記されていないが、官名が記される。いずれにしても「王」が居たわけで「邪馬壹國」の女王と対峙する形式であろう。何だか同じような名前・・・住まうところの地形が類似するからである。
 
<狗奴國>
官名「狗古智卑狗」に含まれる「古」は古事記で「丸く小高いところ」を意味する。頭蓋骨の象形とされている。

興味深いのが「智」である。古事記では「智」=「矢+口+日(炎)」と分解し、「矢+口」=「矢の口」=「鏃」と紐解いた。

狗古=[く]の形に曲がった平らな丸く小高いところであり、智卑狗=[鏃]の形の低く平らな[く]の形に曲がったところと読み解ける。

どうやら「日(炎)」は省略気味のようであるが、この二つの地形が寄り合うところを表していると解釈される。

卑彌弓呼素」は何と紐解けるであろうか?…「弓」は別として登場していないのは「素」の文字で、これは「稲羽之素菟」に用いられた文字である。「白」ではなく「素(モト)」の意味と解釈した。「素」の文字解釈は決して単純ではないようで、「素」=「垂+糸」で生糸の作成に関わる文字とのことである。即ち糸を垂らして乾燥させているところを象形するとされる。

それから「白」、「素(モト)」などの意味を派生して来ていると解説される。図を見ると、実に単刀直入に生糸を垂らしている様を示していることが解る。谷間の両脇にある曲がる(奴)山稜を糸に見立てた表記である。

卑彌弓呼素=低く広がる台地が弓なりに糸を垂らすように山稜が谷間から生え出たところと読み解ける。確かに「卑彌呼」に対して更に地形表現が付加された名前となっている。がしかし、谷間の先にある小高く平らな地形、それが「王」が住まう場所であることを伝えているのである。
 
<投馬國>
投馬國

さて、最後に「投馬國」にも官名が記載されている。官は「彌彌」、副は「彌彌那利」とある。

この地は雲仙岳の噴火によって流れ出た溶岩が大地を作り、それが浸食されて形成された地表面を示していると思われる。

実に広々とした平坦な地形であり、それを実に簡明に「彌」と表現したのであろう。二つあるように見受けられる地形を「彌彌」と表し、それを官名に用いた。

やや地形的特徴が大規模過ぎて個々の官及び副官の居場所を求めるには不向きなのであるが、それらしきところ図に示した。

一見難解に見えた文字列も、古事記の記述に準じて地形象形表記として読み解けたように思われるる。そしてそれぞれの国の詳細に入り込めたことにより、魏志倭人伝が記す内容と古事記の記述が、実は見事に繋がっていることも伺い知れた。勿論、推測の域に入ることになるが、これら二書に記載された内容を同じルールで解読されたことは(一部未読だが…)、間違いなく日本の古代を知る上において重要な役割を果たすのではないかと、心密かに自負している次第である。



2019年9月24日火曜日

『古事記』で読み解く『魏志倭人伝』(Ⅱ) 〔372〕

『古事記』で読み解く『魏志倭人伝』(Ⅱ) 


前記で「邪馬壹國」は、現在の佐賀県多久市にあったと推定した。古事記の地形象形手法と類似して「邪馬」=「牙のある馬」の地形を表していると読み解いた。また「壹」=「吉(蓋+囗)+壺」と分解され、その「馬」が「壺のような谷間の出口で蓋をするように横たわっている」地を示していることが解った。

「壹」と「臺」の論争の中で、仮に「壹」とすれば、一体何を意味しているのかは、全く解き明かされて来なかったようである。いやむしろ「臺」の方が意味としては捉えやすく感じられたであろう。「壹」を主張するならば、そらが示す意味をあからさまにする必要があったのである。

魏志倭人伝は「邪馬壹國」のみに拘ることなく、「倭地」の全体を記述している。中国の皇帝に報告する上において肝心なところでもある。実地検分したかどうかを巧みに暈しながらの記述、使者の文章をじっくり味わって、読み解くことになる。
 
狗奴國

「其南有狗奴國 男子為王 其官有狗古智卑狗 不屬女王 自郡至女王國 萬二千餘里」

「邪馬壹國」の南方に「狗奴國」があるのだが、そこは女王には属していないと告げている。後の大騒動もこの地が絡む。では何処にあったと推定できるか?…前記と同様にして「狗奴」の文字を紐解くころにする。
 
<狗奴國>
「狗」=「犭(犬)+句」と分解される。「犭(犬)」は古事記の猨田毘古大神・猨女君に含まれている。「平らな頂の山稜(麓)」と読み解ける。

邇邇芸命の降臨に際して登場する道案内役、猨女君は天宇受賣命が授かった別名である。

地形的には山稜の末端近く平坦になったところを示すと思われる。それが「句」=「勹+口(大地)」で「[く]の字に曲がった大地」を表している。

「奴」は頻出の「奴國」と同様に解釈できるであろう。この二つの地形が寄り集まったところを示していると思われる。現地名は佐賀県鹿島市である。

「狗奴國」の全体を知ることはできないが、「狗奴」の地を中心に長い谷間を利用して人々が住まうことができたのであろう。「邪馬壹國」と変わらない広さのように伺える。

「倭地」の詳細が語られた後に次の一文が続く・・・、

「女王國東 渡海千餘里 復有國皆倭種 又有侏儒國在其南 人長三四尺 去女王四千餘里 又有裸國黒齒國 復在其東南 船行一年可至」

・・・解釈は、正に百花繚乱の有様で、取り分け「邪馬壹國」(女王國)の東側が海に面してない説は苦戦の様相である。暫し「陸行」してから「渡海」するとか、「渡海」には海辺を歩くことも含む、九州北部の東岸まで…勿論奈良大和説では紀伊半島東部まで…支配していた、など・・・東に海がない場所は女王國ではない、とバッサリ切り捨てることであろう(例えば博多湾岸から朝倉市辺りに比定した説などなど)。

では、先に求めた現地名多久市の「邪馬壹國」は如何であろうか?…東はJR佐賀駅がある?…前記で南方が開いていると記したが、当然東も海に面していたと推測する。古有明海の状態は決して単純ではないが、遠賀川流域と同様に現在の標高10m前後まで「忍海」(古事記:海と川が混じり合うところ)と思われる。(地質の海成層調査から古代の有明海の海水準を見積もられた詳細な報告がある。こちらを参照)
 
<倭地・侏儒國・裸國黑歯國>
当時の海岸線が何処にあったかは推定の域を脱せないが、間違いないことは多久市の「邪馬壹國」の東側は海であったと思われる。

勿論JR佐賀駅の場所は海面下ということになる。この古有明海の様相こそが極めて重要な「倭地」の姿である。

登場する国名、距離・方角、行程期間などを読み解いてみよう。
 
侏儒國

渡海千里余りで倭種の国に届く。「倭地」である(詳細は下記)。

その南方にあるのが「侏儒國」と呼ばれる地だと述べている。

「小人国」と解釈される。記載された身長もそれを示していて、この解釈で疑いの目を向けられることはないようである。

女王國を去って四千里の距離と告げられる。女王國から東方の倭地までの距離を千里とすると、現在の熊本市辺りが該当することになる。勿論ここは倭種が住まうところではないことも告げている。

「侏儒」は「小人」で良いのであろうか?…登場する国名は地形象形しているのではなかろうか?…「侏」=「人+朱」と分解される。「木を斧で切る」の意味を示し、「切り株」を表す文字である。それから「短い、小さい」へと意味が展開すると解説される。小人に繋がる文字である。
 
<侏儒國>
ところが「朱」=「赤い(朱色)」の意味もあり、切り口の木の色から発生したとも解説される。
「朱砂」に含まれる。

「儒」=「人+雨+而」と分解される。儒教の「儒」で特殊な文字なのだが、強いて訳せば「柔らかい、穏やかな人」となろう。

「柔らかい」という意味は「而」から発生していて、これは「長く垂れた髭」の象形である。

「人」=「細長い谷間」を象ったと解釈される。古事記に頻度高く登場する地形象形である。

例えば大帶日子淤斯呂和氣命(景行天皇)が伊那毘能若郎女を娶って誕生した御子に日子人之大兄王が居た。吉備國の細長い谷間とその奥の地に坐した御子と読み解いた。

さて、これだけの要素から地形象形的には何を表しているのであろうか?…細長い谷間の傍らに赤いものが雨のように降って山腹を伝って流れて(垂れて)来たところと紐解ける。阿蘇山の噴火による流れ出る溶岩の地を表していると解る。「倭人」に「伊都(燚)」の認識があるならば、阿蘇山は欠かせないものであろう。それを「侏儒」と表記したのである。

もう一度「侏」の文字解釈に立ち戻ると、「侏」=「人+需」であり、「朱」=「断ち切られた様」と組合わせれば、侏=谷間が途中で断ち切られたような様と読み解ける。阿蘇の麓にある金峰山・立田山(おそらく噴火口)で谷間が途切れている(急に狭くなっている)様子が伺える。この地形を表していると思われる。幾重にも重ねた表記であろうが、巧みな文字使いであることには違いないようである。

「侏儒」=「小人」に拘るならば・・・確かに熊本に居た。がしかし追いやられ種子島に移住した(ホントに小人?)・・・何の痕跡も残さずに・・・のではなかろうか?・・・。
 

裸國黒齒國

その「侏儒國」から東南の方角に「裸國黑齒國」があったと言う。熊本市から東南方は宮崎市がピッタリと当て嵌まる。「裸で歯を黒くしている人々」が住まう地?…ではなかろう。上図に示したように「裸」=「衣を脱いで果物の(つるりとした)ような」様を表記する。地形的には山稜が途絶え、凹凸の少ない平野の有様と読み解ける。

「裸」に含まれる「衣」は、古事記に登場する重要な文字である。例示すると伊久米伊理毘古伊佐知命(垂仁天皇)紀に登場した三川之衣がある。衣=山稜の端の三角州と読み解いた。「首と襟が作る形」を模していると解釈した。現在の北九州市にある足立山南西麓の地とした。勿論、豐國に含まれる。この地はすっかりと国譲りされて、現在の豊田市(かつては挙母の地名)辺りとなっているのだが・・・即ち、裸國=山稜の端の三角州が凹凸の少ない平野となっているところと読み解ける。

「黑」=「囗+米+土+灬(炎)」と分解される。前記で引用した古事記の大倭根子日子賦斗邇命(孝霊天皇)が坐した黑田廬戸宮に含まれる。炎のように突き出た山稜の端の傍らを田にしたところと読み解ける。それが歯のように並んでいる様を表しているのである。地図からでは「裸」の国は現在の西都市辺り、それに加えて「黑齒」の地形は現在の宮崎市周辺となろう。実に的確な表記と思われる。

「侏儒國」から東南、直線距離は、せいぜい三千里?…「船行一年」と記述される。あり得ない距離と読んでしまうところである。がしかし、これは重要な意味を有している。「○千里」の表現とは異なる。類似の表現は不彌國から投馬國への「水行二十日」である。即ち「不彌~投馬國の距離」=「水行二十日」である。正確な距離は求め辛いが、多久市から宮崎市への船行距離は、概ね十数倍、およそ一年かかることになる(現在の宇土半島、当時は島として記載)

間違いなく実際に訪問した記述ではなく、伝聞であり、倭地の概略を詳らかにする試みであろう。「投馬國」は「邪馬壹國」からでも目視できた。あれが倭地の南限と教えられ、そこへの所要日数を確かなものとして、絵に描いた「裸國黑齒國」への行程を割り出したのではなかろうか。報告書としての整合性、それが第一だったのである。

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少々余談になるが・・・上記が示すことは、南北に走る九州山地の横断は不可能だったことである。魏志倭人伝、古事記が記す時代、九州は東西に分断された世界であったことが解る。更に憶測すれば、そのように見せ掛けたとも言える。日本の古代を理解する上において極めて重要な事柄に属する。

それぞれの伝・記が語る舞台は、表向きには、相互に関わることなく存続したのであろう。古田武彦氏の「失われた九州王朝」、王朝には些か引っ掛かるが、勿論博多湾岸は蚊帳の外でもあるが、その歴史認識は的を得た表現であろう。

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<倭地>
「参問倭地 絶在海中洲㠀之上 或絶或連 周旋可五千餘里」と記述される。「倭地」の全体像である。

女王國から東へ「渡海渡海千餘里」を基準にして右回りで「倭種」の国、「投馬國」、「狗奴國」をぐるりと廻った距離は凡そ「五千里」であることが解る。

「倭地」は、古有明海を取り囲む地であると述べているのである。古代は、山稜で分断され、海で繋がる世界であったと歴史が教えている。

地中海しかり、日本海も、そして古事記では古遠賀湾・洞海(湾)がその役割を果たしている。「倭地」の中心を島(陸)と考えているようでは、全く古代は見えて来ないであろう。

中国からの使者は、九州西部を伺わさせられたのであろう。北東部は絶対に開示できない場所なのだから。遁走し「天」を本拠地とした倭人達は、もっともっと東へ向かう必要を感じたであろう。西からの脅威を回避するために・・・。

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女王國東 渡海千餘里 復有國皆倭種」と記されたところについては『後漢書倭伝』では具体的に、「自女王國東度海千餘里至拘奴國 雖皆倭種而不屬女王」と国名及び女王には属さないと記されている。
 
<拘奴國>
上記の福岡県筑後市、八女市で良いのか、「拘奴國」を紐解いてみよう。この文字は古事記には登場しない。

「拘」=「手+句」と分解され、字源を調べると「句」=「鉤型に区切る」ところに「手で押込める」イメージから「拘束する」意味を表すようになったとのことである。

図に示したように、嫋やかに曲がる山稜の[手]のような端が[く]の字形に取り囲んでいるところである。

杞憂することなく八女市(郡)・筑後市(築後市は、おそらく当時は海面下)と比定し得る。

通説では「狗奴國」の誤りだとか、むしろ倭人伝の方が間違えているとか(南・東の方位も含めて)、何かと誤謬説が蔓延っているようである。また『魏志倭人伝』と『後漢書倭伝』で「里」の長さ異なり、後者では「千餘里」が「五~六餘里」に該当するとして解釈されている場合もある。「水行」、「陸行」共に現在からすると極めて曖昧な記述と思われる。貴重な情報を単に誤写とせずに解釈することが重要であろう。

上図<倭地>を眺めると、この両国は有明海を東西で挟んだ国であって、女王國に属さなかったことが解る。即ち「邪馬壹國」及びその旁國は古有明海の北部一帯を占有していたことが解る。現在の河川名で言えば、東は宝満川・筑後川の北西岸及び西は塩田川・鹿島川の北岸に挟まれた地域となる。当時は、各々の川は巨大な入江を形成していたと推察される。

『後漢書倭伝』では『魏志倭人伝』に記述された「邪馬壹國」に至るまでの国々及びその南方にある国々については省略されている。記すまでもなく自明となっていたのであろう。その中で「倭種」とだけ記されて国名がなかったところを追記したと推測される。「拘」と「狗」を「似たような字」と読んでいるようでは古史書を解読できない、と思われる。

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「水行」、「渡海」の距離について、未だ不確かだが、考えたところを述べてみる。「狗邪韓國」~「對海國」~「一大國」~「末盧國」の三回の渡海は、全て「千里」と記載される。現実の距離とは全く相違することになる。勿論これについては既に多数の方が論じておられて、古代の渡海の距離は「陸行」とは異なり、極めてアバウトなものであったと推論されている。

そんな背景で、「侏儒國」までの距離「四千餘里」及び「倭地周旋」の距離「五千餘里」をイメージするには「女王國東 渡海千餘里 復有國皆倭種」の距離を基準にしたのが上記の結果である。

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冒頭に「倭人在帶方東南大海之中 依山㠀為國邑 舊百餘國 漢時有朝見者 今使譯所通三十國」と記述される。具体的な国名は後に記述される。「自女王國以北 其戸數道里可得略載 其餘旁國遠絶 不可得詳 次有斯馬國 次有巳百支國 次有伊邪國 次有都支國 次有彌奴國 次有好古都國 次有不呼國 次有姐奴國 次有對蘇國 次有蘇奴國 次有呼邑國 次有華奴蘇奴國 次有鬼國 次有為吾國 次有鬼奴國 次有邪馬國 次有躬臣國 次有巴利國 次有支惟國 次有烏奴國 次有奴國 此女王境界所盡」

詳細は後日に譲るとして・・・、
 
<旁國>

・・・と推定される。例えば「巳百支國」は、吉野ケ里遺跡のあるところなど、古有明海に臨む緩やかな傾斜地、そこに多くの人々集まり住まっていたことを伝えている。その中心の地にあったのが「邪馬壹國」であったことが示されている。

古事記で使用される文字が大半であるが、目新しいのは、「好、姐、對、呼、華、躬、惟」などである。しかしそれらも要素に分解すると、ほぼ全ての文字解釈が可能であった。多くの、天神達を含め様々な「倭人」が日本列島に渡来し、漢字を用いて国(地)名を付けたのだろう。地名も、ましてや番地もない、白紙の状態で行う、それは自然の成り行きであったと推察される。





2019年9月17日火曜日

『古事記』で読み解く『魏志倭人伝』(Ⅰ) 〔371〕

『古事記』で読み解く『魏志倭人伝』(Ⅰ)


猛暑が続く中、閑話休題で遊んでみようかと・・・そんな訳で表題もいつもと雰囲気を変えてみたのだが・・・漢字を用いた地形象形も古事記の表記ですっかり馴染んで(?)来たように感じられるが、果たして他の書物では如何?…中国史書の魏志倭人伝、勿論これは立派な漢文であろうが、そこに登場する地名・人名は和(倭)語を漢字表記したもの、即ち古事記の表記と同じ状況ではなかろうか。

そんな単純な考えで、少しだけ、特に「邪馬壹國」に至る行程の記述で登場する国名などを地形象形的に紐解くことにした。古事記のように複数回登場、あるいは異なる表記での検証などは望むべくもなく、古事記の読み解きに従うことにする。

あらためて「邪馬台国」の比定地を眺めてみると、いやいや凄まじい・・・行程解釈の基本は古田武彦氏の『邪馬台国はなかった・・・』の論理に準拠する(写本無謬説も含めて)。

<魏志倭人伝(抜粋)>

倭人在帶方東南大海之中 依山㠀為國邑 舊百餘國 漢時有朝見者 今使譯所通三十國
從郡至倭 循海岸水行 歴韓國 乍南乍東 到其北岸狗邪韓國 七千餘里

始度一海 千餘里 至對海國 其大官日卑狗 副日卑奴母離 所居絶㠀 方可四百餘里
土地山險多深林 道路如禽鹿徑 有千餘戸 無良田食海物自活 乗船南北市糴

又南渡一海 千餘里 名日瀚海 至一大國 官亦日卑狗 副日卑奴母離 方可三百里
多竹木叢林 有三千許家 差有田地 耕田猶不足食 亦南北市糴

又渡一海 千餘里 至末盧國 有四千餘戸 濱山海居 草木茂盛行不見前人 好捕魚鰒
水無深淺皆沉没取之

東南陸行 五百里 到伊都國 官日爾支 副日泄謨觚柄渠觚 有千餘戸 丗有王
皆統屬女王國 郡使往來常所駐

東南至奴國 百里 官日兕馬觚 副日卑奴母離 有二萬餘戸
東行至不彌國 百里 官日多模 副日卑奴母離 有千餘家
南至投馬國 水行二十日 官日彌彌 副日彌彌那利 可五萬餘戸

南至邪馬壹國 女王之所都 水行十日陸行一月 官有伊支馬 次日彌馬升 次日彌馬獲支
次日奴佳鞮 可七萬餘戸

登場する国は、對海國一大國末盧國伊都國奴國、⑥不彌國、⑦投馬國、⑧邪馬壹國である。倭人伝全体では多くの不祥な国名が記されているが、気が向いたら紐解いてみようかと・・・。尚、「其北岸狗邪韓國」と記される狗邪韓國については、最後に述べる。
 
對海國・一大國

<對海國>
對海國一大國は、全員一致で、それぞれ対馬と壱岐島である。対馬は古事記では「津嶋」と表記されている。図に示したように津(入江)の島を示していると読み解いた。

詳細はこちらを参照願うが、海図からでも明らかなように複雑に入り組んだ入江を形成している。

Wikipediaには…、

対海国(つかいこく、對海國)とは、中国の史書に記述される倭国中の島国である。「魏志倭人伝」でも版によって表記が異なり現存する最古の版である紹熙本では「對海國」とされ、紹興本では「對馬國」とされることから、魏志倭人伝での誤記ではないかとさ(れ?)る。

…と記載されている。

對」=「業+土(大地)+手」と分解される。「業」=「ギザギザした様」を表すと解説される。地形象形的に解釈すると對」=「手のように突き出た地がギザギザになっているところ」と紐解ける。

對海國」はその對」がある海の国だと述べているのである。「対()馬」も無理矢理解釈すれば、対になった馬(山稜)となろう。「馬」=「馬の背の頂の山稜」が最もな解釈であろう。ちょっと対馬の山稜とは掛離れているが・・・。

更に『古事記』の「津嶋」(多島海の浅茅湾)は、現在の対馬全体の特徴を表す表記と解釈されるが、「對海國」の表記はその下島(南部)を示すものと思われる。島の大きさを表す「方可四百餘里」が下記の一大國の「方可三百里」からも示唆されるところである。また更に国の中心地については後に述べるが、「有千餘戸」(倭人伝中の最小戸数)からも、かなり限られた地域であると推測される。

魏志倭人伝の誤記?…では決してないことが解る。現在の地名からして何とも読み辛い「對海」が実に適切な地形を表していることが解る。勿論「馬」も間違いではない。この島は中央部の「津」が特徴的な島であるが、より的確な表記をしたのであろう。残念ながらその努力は報われなかったようである。

「馬」は何となく解るが、「海」は不詳・・・だから誤記とする。写記した人へのリスペクトは微塵も感じられない有様であろう。手にした貴重な情報が零れ落ちて行くのである。

『古事記』の伊邪那岐・伊邪那美の国(島)生みの段で「津嶋」の別名が「天之狹手依比賣」と記される。「狹手」=「狭い山稜が突き出た様」を表している。「手」=「突き出た山稜」と紐解ける。上記の「對」に対応する表現であろう。下記の「伊伎嶋」も含めて詳細はこちらを参照。

次の一大國は壱岐島とされる。古事記では伊伎嶋(山稜と谷間が互いに切り刻んだような島)であるが、この地は「天(阿麻)」(擦り潰された台地)と読み解いた。
 
<一大國・高天原:壱岐>

Wikipediaを引用すると…、

一支国(いきこく、一支國)とは、中国の史書に記述される倭国中の島国である。

魏志倭人伝では「一大國」とされ他の史書では「一支國」とされることから、魏志倭人伝は誤記ではないかとされているが、誤記ではないとする説もいまだ根強い。

1993年、長崎県教育委員会は壱岐島の原の辻遺跡が一支国の跡であると発表し、話題となった。

…とある。上記と同じく「一支」は、現在の壱岐島の文字と類似するからであろう。では「壱岐」は何を意味しているのか?…「支・岐」が示すところは?…解っているのであろうか?・・・。

では倭人伝の「一大」は何と読み解けるか?…一(一様に)・大(平らな頂の山稜)となる。何のことはない全く同様の地形を表していることが解る。

そもそも「天」=「一+大」と分解されるのである。どうやら魏志倭人伝の地名表記は地形象形、と言うか倭人の表記を使っている(若干の置換えもあるかもしれないが…)と思われる。

「一大」は誤記ではないとする説もいまだ根強い・・・結構なことだが、誤記説が排除されていないことを憂う・・・と言いながら、古事記における「天」の解釈が確信に至ったかも、である。どうでも良いことになるが、原の辻遺跡は全くの無関係であろう。遺跡・遺物から古代を読み解くこと、ある意味百害あって一利なし、かも?・・・。

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古事記で地形象形として用いられる「大」は、更に分解して、総じて「一+人」=「平らな頂の山稜(麓)」を表していると読み解いた。古事記中に381回出現する(因みに「王」は386回)。例えば出雲國は大斗(意富斗)と表記される。

また大倭豐秋津嶋の大倭は「大和」ではない。平らな山頂(尾根)から山稜が嫋やかに延びるところと解釈される。これらの文字を含む大倭帶日子國押人命(孝安天皇)が坐した葛城室之秋津嶋宮の場所を推定した例が挙げられる。「大和」に坐した天皇なのに「大倭」が付いたり付かなかったり、意味不明だ!…ではなく「大倭」なところに坐したか否か、なのである。

上記の「高天原」の「高」=「皺が寄ったような筋目がある様」と読む。「高い」と解釈しては全く伝わって来ない。『古事記』は、”神話風”に記述された「地政学書」であろう。勿論『魏志倭人伝』も、である。

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末盧國

さて、諸説紛々の地名比定に入って行こう・・・。
 
<末盧國>
末盧國からは文字の地形象形を検証するわけには行かず、この文字列そのものを紐解くことになる。

古事記に登場する息長帶比賣命が立寄った筑紫末羅縣に関連する解釈もあるが、全て文字列の類似が根拠である。「末」の地形表記は「山稜の端」とした。

「盧」の関連する文字は古事記に登場する大倭根子日子賦斗邇命(孝霊天皇)が坐した黑田廬戸宮に含まれる「廬」である。

それに含まれる「盧」=「虍+囟+皿」と分解される。「虍」=「虎の縦縞の様」と読んで地形象形的には盧=虎の縦縞()のように僅かな隙間()が揃って並んでいる(皿)ところと解釈した。

その極めて特徴的な地形が、山稜の端、現在の東松浦半島の東側に見出せる。地形形成の基本的なところに拠るのであろうか、ほぼ東側全域に見られる断崖が「虎の縞模様」を呈しているのである。

「末盧」の解釈は様々になされて来ているが、総て現存地名との類似性に根拠を求めている。松浦などであるが「盧」が示す地形を根拠にした説は見当たらないようである。上記の「黑田廬戸宮」以外にも古事記に「盧」に関連する文字列が登場する。

例えば、安康天皇紀に五處之屯宅と言う文字列が登場する。「處」=「虍+処」と分解して「五つの縦縞のような山稜があるところ」と読み解いた。総て「虎の縦じま」で読み解けるのである。日本列島には棲息していない「虎」を用いた地形象形は「倭人」の出生の地を伺わせるものであり、彼らが対馬、壱岐島を経て日本列島に広がって行ったことを物語っていると思われる。

そして「末盧國」の領域は、その崖下の場所と推定される。決して東松浦半島全域でもなく、松浦川河口付近の平野部、松浦潟などを含むものではない。極めて限定された地にあった国であると推定される。「盧」が地形象形として用いられていると解釈して初めてその国の有様が浮かび上がって来たのである。

・・・とここまで比定場所について古田武彦氏の説に異論を唱えているわけではない。がしかし、いよいよ邪馬壹國へ向けて旅立つことにする。

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佐賀県唐津市の東松浦半島(上場台地)の先端に屋形石の七ッ釜と言われる場所がある。玄武岩の柱状節理が見られるところとして国の天然記念物に指定されているそうである。これが半島東部の特異な形状を作っていると思われる。それを「盧」で表記したと読み解ける。「末盧國」について原文に「濱山海居」と記されている。断崖の裾の狭い場所であったことが伺える。

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伊都國

<天石屋・伊都之尾羽張神>
伊都國は「イト」と呼ばれているようである。通説では福岡県糸島市、福岡市西区(旧怡土郡)付近に関連付けられている。

「伊都」の文字列は、古事記中重要な場所を示す、「天」の中心地である。

天石屋に坐していた伊都之尾羽張神、最強の建御雷之男神の父親であり、銘刀の作者でもある(古事記の図を再掲)。

伊都=燚(イツ)と読む。火山が寄り集まった地を表すと解釈する。そんな地が末盧國の東南にあるか?…背振山山系の西側一帯に広がり、南は多良岳・雲仙岳に繋がる火山帯に包まれた場所である。ここで博多湾岸に向かう従来の説とは大きく異なることになる。

ここで博多湾岸に向かう従来の説とは大きく異なることになる。通説の糸島半島は、おそらく火山性の山で成り立っていたかと思われるが、当時は半島ではなく、その名の通り「糸島」であったと推測される(半島の付け根は標高5m以下)。向かうには「水行」となる。福岡市西区(旧怡土郡)とすると「燚」を求めることは不可能であろう。
 
<伊都國>
更に末盧國から「東南」の方角にはない。東~東北方に当たる。これを末盧國から向かい始める方向が東南だから、倭人伝の筆者はそれを記載した、かのような説明がなされている。

次の段で述べるが、奴國と投馬國へは実際に向かうことはなく、方角を記したとするのであるが、これも向かい始める方角のことなのであろうか?・・・。

怪しげな解釈のままであろう。「伊都」の示す意味も明らかにされてはいない。「糸(怡土)」の読みの類似に拠る解釈であろう。

「末盧國」について「草木茂盛行不見前人」と記されている。そんな未開の地を陸行するくらいなら同じ玄界灘に面する「伊都國」に直行すれば済む筈であろう。


「末盧國」を経由する必然性があった、東南の内陸に向かうために・・・未開の地とすることは倭國の水際防衛を意味するのである。外海に開かれた無防備な港湾の都はあり得ない、と思われる。

それにしても古事記に登場した文字列そのものであること、それが地形象形した表記であることに、次第に自信を深めつつ・・・の状況である。「伊都國」は「燚」の中央部、現在のJR岩屋駅の近隣と推定した(登山関連のサイトから可能な限り山の名前を抜き出してみたが・・・)。現地名は唐津市厳木町本山・岩屋辺りである。

尚、「伊」=「人+尹」(一つに纏める)、「都」=「者+阝(邑)」と分解すると「者」=「台上で枝を集めて燃やす」様を象った文字と解説される。伊都=燃える台地を一つに纏めたところと読み解ける。重層の地形象形表記なのである。

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「都」は呉音「ツ」、漢音「ト」と知られる。古事記では決して「ト」と読まれることはない。例示すれば上記の「伊都(イツ)」の他に角鹿(都奴賀:ツヌ[ノ]ガ)がある(現在の敦賀ではなく、下関市門司区喜多久辺り、その地形に拠る)。具体的な例示は避けるが、挿入される歌でも「都(ツ)」と読むことで解釈される。

現在でも両用されているとは言え「伊都(イト)」=「糸、怡土」が”確定”したような解釈はあり得ないであろう。「伊都國」を博多湾岸から外すと、「邪馬壹國」を瀬戸内海の遥か彼方、近畿に持って来ることは絶望となる。九州説と近畿説の両者の妥協の産物なのであろうか?・・・。

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奴國・不彌國

<奴國・不彌國>
奴國の導入部に「行」が付かないことから、実際に向かったのではないと看破したのは実にお見事である。

さて「奴」は何と解釈するか?…この文字は古事記で多用される文字の一つで、計53回登場する。

その代表的な例は高志前之角鹿(都奴賀)であろう。「奴」=「女+又(手)」と分解される。

嫋やかに曲がる手(腕)のような山稜と紐解いた。

真っ直ぐな山稜は少なく、大抵は曲がっている。重要なのは、その先端が「手」のように幾つかに分岐しているところを表している。それを「腕」を含めた「手」と見做している。

多久市西多久町の山稜にその地形を見出せる。そして「伊都國」から東南の方角にある。女山(船山)の裏手に当たる。確かに「不彌國」へ向かう行程からすると脇に外れることになろう。

そして行程は不彌國へと進む。これに含まれる文字も古事記に登場する。「不」=「花の子房」を象った文字で「咅」と同義であると解説される。例えば大毘古命の御子、建沼河別命が祖となった阿倍臣、また、袁祁之石巢別命(顯宗天皇)陵の片岡之石坏岡上などにも含まれていた。図には「不」の文字形そのものを示した。

「彌」=「広がり渡る様」の文字と言われる。不彌=子房のある花が広がり渡ったようなところと読み解ける。その地は多久市北多久町に見出すことができる。現在の標高からすると、その東側は有明海に面していたと推測される。古事記の近淡海國(現豊前平野)では現在の標高約6~8m付近のところが当時(35世紀)の海岸線であったと推定した。

故にこの地より南方へ水行二十日で「投馬國」に至ると記載されている。海が南の方角で面していることは遠望する上で至極自然であろう。北に向かって海を眺めながら南の國に思いを巡らす、そんな記述は行わない、のでは?・・・。

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ここで末盧國伊都國奴國、⑥不彌國までの方角と里程数の確認を行ってみよう。使者は、現在の唐津市佐志浜町にあった港に着き、そこから「陸行」で伊都國に向かったと記されている。末盧國の記述に「草木茂盛行不見前人」とあり、藪漕ぎの如くに進んだのであり、国と国とに端境にあるところは更に険しい道を歩んだのであろう。東南陸行 五百里 到伊都國」東南方向で五百里だから、概ね30km程度の「陸行」と思われる。
 
<末盧國→伊都國>
唐津市佐志の谷間を南に向かうのであるが、東に向かうことは叶わなかったと推定される。

図に示したように当時の唐津湾は虹の松原の砂洲が延びた内側は、巨大な汽水湖の様相であったと推測される。

松浦川およびその支流の徳須恵川、半田川の上流域にまで広がり、徳須恵川では日岳の東北麓辺りまでが汽水の状態であったと思われる(現在の標高5m以下)。

即ち陸路ならば佐志の谷間から日岳の麓に迂回する必要があったことが解る。

まかり間違っても現在の国道203号線あるいはJR唐津線のようなルートは選択されなかったのである。

『古事記』の秋津(宗像市)橘小門之阿波岐原(遠賀郡岡垣町)と極めて類似した地形を示している。

豊かな漁場であり、小舟を浮かべて縦横に往来していた場所であろうが、賓客には、それを用いることは避けたのであろう。倭國の水際防衛である。

日岳の麓に届いたなら後は山越えのルートになる。岸岳南麓を迂回し、相知町佐里辺りで松浦川を渡渉する。ここまでの上流であれば大河松浦川を越えられるであろう。日ノ高地山北麓の谷間をすり抜けて、平山川を渡渉する。引き続いて相知町押川の谷間を登れば厳木町本山に届く。現在のJR岩屋駅近隣である。Google Mapの距離計算によれば、ジャスト30kmとなった。
 
<伊都國→奴國→不彌國>
末盧國から東南の方角を忠実に従ったとすると、有明海に抜けるとした記述も散見される。

がしかし、直線距離で判断しては「陸行」の見積もりを大きく外してしまうことになろう。

「水行」の距離測定に誤差が生じるのとは異なり、歩測でかなりの精度を有していたと思われる。

勿論「道」は如何様にも変化することは重々承知の上で・・・。ほぼ一日で歩くことのできる距離ではなかろうか。

続いて奴國不彌國に向かう。伊都國、現在の厳木町本山のJR岩屋駅辺りを出発したとして、厳木川沿いの道を進んだと推定した。上記の末盧國からの道筋とは地形が大きく異なり、山深い谷間を進むしか選択の余地はなさそうである。厳木、中島、牧瀬を東南方向に進むと笹原峠(現地名多久市北多久町小侍)にぶつかる。

北部方面からの外敵の侵入に対して、実に天然の防御地形であることが解る。この地点で岩屋駅辺りからの距離が約6kmに達する。即ち百里となる。そしてこの地は奴國の北端に当たるところと推定される。「行」が付かない故に実際に向かわなかった。その通りである。奴國の地に踏み込むが、その国を訪れたわけではないことを表していると解釈される。

と同時に東に向きを変えてて不彌國へと歩んだのである。伊都國から不彌國の中央部への総歩行距離はGoogle Mapで約11.9kmと表示された。奴國の地、笹原峠から約5.9kmで不彌國に達すると読み解ける。上記の末盧國から伊都國、伊都國から(奴國)不彌國への歩行距離、凄まじいばかりの精度であろう。

上図<奴國・不彌國>に示したように、奴國は北部方面(笹原峠)及び西部方面(女人峠)、不彌國は東・南部方面で古有明海に面した国防体制を敷いていたことが読み取れる。極東の最果ての国ながら、優れものの国であることを、決してあからさまにせずに陳寿は記述したように感じられる。彼の優しさが招いた「邪馬台国論争」なのかもしれない。

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邪馬壹國

さて、「投馬國」は後で述べるとして、いよいよ「邪馬壹國」である。「帯方郡」から「万二千里」対馬と壱岐島の島巡りを入れるとピッタシ、と言う見事さに敬意を払って(実際に巡行したかどうかではなく、空間として加える要あり)、上図に示したように「不彌國」に接する場所であろう。

では「邪馬壹」は何と紐解けるか?…「邪」=「牙+阝(邑)」と分解できる。「牙」=「∨」が「阝」=「邑」(集まる)して「∨∧∨∧…」象形から「曲りくねった様」と読める。「よこしま」の意味もこれから派生する。古事記中に出現した文字列は、ほぼ「曲りくねった様」で解釈できる。

しかしながら、ここでの「邪馬」はもっと直截的に地形を表していると思われる。即ち「邪」も「馬」も、各々の「形」そのものを表していることが解った。
 
<邪馬壹國>
山稜が作る模様が「馬」の姿を示し、その頭部に二つの「牙」がある、そのものズバリの地形象形を行っているのである。

「壹」は如何に紐解けるのか?…「臺」の誤りだとか、一時はその話題で古代史が賑わった経緯がある。

果たして「壹」なのか、それとも「臺」なのか・・・。

「壹」=「吉+壺」と分解される。更に「吉」=「蓋+口」と分解される。

即ち「壹」=「いっぱいものが詰まっている壺に蓋をする」様を表す文字と解説される。

これによって単に「一」を示すばかりではなく「一つに纏める、専ら、総(じ)て」などの意味を表すことができる文字となっていると解釈される。
 
<壹>
古事記に登場する天押帶日子命が祖となった壹比韋臣などがある。上記の「牙」と同様に倭人伝は、文字形をより直接的に用いているようである。

図に「馬」の文字がその姿を象形しているとして、各部位を矢印で示した。「頭部」には「牙」はない、故に「邪」を付加したのである。

山稜の形を「馬」に喩えるのは古事記でも常套の手法である。例えば天照大御神と速須佐之男命の宇氣比で誕生した天津日子根命が祖となった馬來田國造は、尾根から延びる複数の枝稜線を馬の脚と見做したと解釈される。福岡県行橋市の御所ヶ岳・馬ヶ岳山系に極めて類似する地形と思われる。

邪馬壹=牙のある馬のような山稜が蓋をしているところと紐解ける。上図<奴國・不彌國>から分るように「伊都國」から細い谷間をくぐり抜けた後の「奴国」、「不彌國」がある「壺」のような谷間に蓋をするように横たわって、一つに纏めたような山稜を表している。

古田武彦氏は、「邪馬壹國」の場所を明確に示してはいない。博多湾岸の何処である。「壹」=「一つに纏める、総べる」と解釈しても一応の意味は通じるようだが、「蓋」を使ってより直截的な地形象形となっている(古田氏は「二つとない、唯一の」のような解釈だが…)。とは言え「不彌國」は当然としても「奴國」も邪馬壹國」に接するとした慧眼を再見することになった。

こうしてみると、古事記の地形象形は、少々穏やか(読む方にとっては解読し辛い?)なのかもしれない。何となくそのような気がするのだが・・・倭人伝は気遣うところなし、かも・・・。

「邪馬」→「耶馬」とも表記されるようである。「耶」は「邪」の異形字とのことだが、「耶」=「耳+阝(邑)」と分解される。「牙」→「耳」となる。「牙」は見ようによっては「耳」の形でもある。これもなかなか興味深い置換えであろうが、「耳」の位置として適切か?・・・単に「邪」(卑字?)を回避したのでは本来の意味するところが暈けて来るようである。

「邪馬壹國」は最も南に位置する配置となった。倭人伝には更に多くの国が記載されている。果たしてどうなるのか・・・下記を参照。ところで、調子に乗って、女王「卑彌呼」は何と紐解けるか?…文字解釈によって図に示したところとなったが、結果的には坐した(古事記的表記で)ところは「邪馬壹國」の中央である。詳細は不明だが、遺跡があるとか・・・。

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『魏志倭人伝』以外の中国史書では「臺」の文字を使う。「邪馬臺國」である。「臺」→「台」と置換えて「邪馬台国」と通称される。そもそも「臺」と「台」とは別字なのだが、通用されて来たとして現在もこの置換えが当たり前とされている。上記の「壹」と同じくこの文字を紐解いてみよう。

説文解字によると「臺」=「之+至+高」と分解される。「之」は「進む」と「止まる」の二つの動作を含意する文字である。『古事記』では「之」=「蛇行する川」と読み解いた。「蛇行する」とは「進みつつ止まる形」を表していると解釈される。「至」=「矢が突当たった様」の象形(下図参照)であり、「高」=「盛り上がった台形の地」を表すとすると…臺=曲りくねりながら行き着いた小高い台地と読み解ける。


<至>
「臺」の通常使われる意味「物見台(うてな)、高く平らな土地」なども文字の構成要素から解釈できるようであるが、上記のように紐解くと、更に文字が持つ意味の側面が理解されると思われる。すると、邪馬臺=牙のある[馬]の地形で曲りくねりながら行き着いた小高い台地と読み解ける。

「壺」の外から見れば「壹」(蓋の地)は、その中から覗けば「臺」(行き着いた台地)であると解る。即ち「壹」は極めて的確な地形象形であると同時に「臺」もその国の位置付けを的確に表現しているのである。日本の古代史は、何と無益な論争を行って来たのであろうか、実に愚かな歴史を刻んだものである。

「臺」と「台」の置換えはともかくとして、ジャーナリスティックな『邪馬台国はなかった・・・』も無益な論争に加担したと気付くべきであろう。古田氏は後に「邪馬一国」という表記も行っているが、「壹」→「一」の置換えはあり得ないのである。

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投馬國

<投馬國>
最後に「南至投馬國 水行二十日」と記される⑦投馬國について紐解いてみよう。「投」=「扌(手)+殳」と分解される。「殳」=「動かさずに止める」とされ、「投」=「ピッタリと収める」の意味を示すと解説される。「投入、投薬」などで用いられている。

「邪馬壹國」の南方にそれを求めると、現在の島原半島辺りではなかろうか。当時はほぼ島の地形であり、有明海を塞ぐようにピッタリとはまっているように見える。

この地形が驚異の干満差(6m日本最大)を生じることになる。そして広大な干潟を形成する有明海の特徴を示すのが「投馬國」なのである。それを見逃す筈はない、のではなかろうか。後に「侏儒」=「阿蘇」も登場する。

さて、女王國から「水行二十日」の距離は不確かだが、「水行」するのが当たり前の場所であることには違いはないであろう。雲仙岳の山稜を「馬の形」に見做したと思われる。

通説は諸説があって定まらないが、「投馬(ツマ)」の訓から類似の地名とするようである(「水行二十日」については、後の裸國黑歯國への「船行一年」に関連、後日に述べる)。


「戸数」について・・・「邪馬壹國」の比定地、これも根拠の一つとして挙げられているようだが、博多湾岸、有明海など、それに面する現在の中心都市の大半は、海面下であったことを棚に上げているように感じられる。

<投馬國俯瞰図>
「末盧國」について「有四千餘戸 濱山海居 草木茂盛行不見前人」、また「伊都國」は「千餘戸」と記述されている。

上記の「末盧國」、「伊都國」の居住可能な面積に基づくと「邪馬壹國」の「可七萬餘戸」及び「奴國」の「有二萬餘戸」は、あり得なくもないように思われる。

参考にする古事記の近淡海それは現在の行橋市を示すが、その中心地はものの見事に海面下であったと推定した。

時と共に広がった、埋め立てた扇状地、古事記の時代と大きく変化したのは、この地形である。大河の河口付近、多数の川が注ぐ入江を俎板に載せることは”危険”な作業であろう。

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②一大國⑥不彌國については「戸」ではなく「家」と記載されている。「戸」=「出入口」の扉を象った文字、一方「家」=「宀+豕」であり、家畜を屋根で覆った状態を表すと解説される。おそらく「戸」は出入口のある建屋で、「家」は出入口が(定かで)ない建屋のことを述べているのではなかろうか。人が住まう場所であったり収穫した穀物を保管する「戸」がある建屋とそれ以外とを区別して表記したと推測される。戸(家)の数から人口を見積もることは難しいようである。

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少々余談になるが、御眞木入日子印惠命(崇神天皇)疫病多発説話が載せられている。その時天皇が取った防御の手段は都への出入口に神々を配置して塞ぐことであった。日常の利便性を考えれば一方は川であることが重要であろうが、その他は山で取り囲まれた地形でなければ外敵に対応することは叶わなかったのであろう。


この説話は天皇が坐した師木水垣宮の在処を示すと共に当時の都が具備すべき場所の地形を見事に示していると思われる。断じれば「邪馬壹國」は、博多湾岸にはあり得ないことを述べているのである。勿論奈良大和はこの条件を満たすであろう。古事記の記述範囲外で事実として存在する奈良大和に何故都は置かれたのか、崇神天皇紀の疫病多起が物語っていると憶測される。

上図に示したように「邪馬壹國」は、北から天山~[笹原峠]~女山(船山)・八幡岳~[女山峠]~徳連岳~鬼ノ鼻山~両子山~[牛津川(古有明海)]で取り囲まれた地形を示している。古事記の「師木」との類似性をあらためて気付かされる場所である。[ ]で括ったところが外界へ通じる通路である。

「伊都國」に郡使が「往來常所駐」と記された意味が明瞭に伝わって来る。[笹原峠]は北からの外敵の侵入を抑える”関所”であったことが解る。差し詰め古事記の[金辺峠]に該当するものであろう。古代の都が置かれた地形、それを偲ばせる記述であることが解る。

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狗邪韓國

從郡至倭 循海岸水行 歴韓國 乍南乍東 到其北岸狗邪韓國 七千餘里」の記述に登場する国であり、「倭国の北岸」を示すと解釈されている。帯方郡から向かった先は「對海國」に向かうための場所、朝鮮半島の南岸であり、なんとも北と南が入り乱れてスッキリしない解釈のままである。

「狗邪韓國」については世界大百科事典によると…、

3世紀の朝鮮の弁辰十二国のうちの一つ。狗邪は加羅(から)(加耶)で,後の釜山・金海の地。《魏志倭人伝》に〈韓国を歴て,乍(あるい)は南し乍は東し,其の北岸,狗邪韓国に到る七千余里〉とみえる。《魏志韓伝》には弁辰狗邪国とある。この国の位置からして,狗邪韓国は,倭と朝鮮半島の帯方郡通交のさいの中継地として古くから重要な地帯であったことを思わせる。
 
<狗邪韓國>
…と記載されている。頻出の「邪」、及び後に登場する「狗」を用いた命名ならば同様に地形象形した表記であろう。


「狗」は「犬+句」と分解する。「犬」=「平らな頂の山稜」と読み解いた。

後の「狗奴」では平坦な頂と解釈するが、この場合は山稜が尾根がなだらかになっている様と読み解く。

「邪」も上記と同様に「牙が集まった様」とする。重要なのが「韓」、「韓國(カンコク)」と読んでしまっては、勿体ない。

「韓」=「倝+韋」と分解される。「倝」=「高くなる様」と解説され、「韋」は「圍(囲)」の原字である。すると「韓」=「高くなったところで囲まれた様」を意味すると読み解ける。

通常、「井桁(井戸のまわりの囲い木)」の意味で用いられる。『古事記』の大年神の御子に韓神が登場する。大国主命と八上比賣の御子、御井神が坐したところと推定した。また葦原中國の「葦」も類似する解釈である。

これで「狗邪韓國」の場所が特定できる。図に示したように慶尚南道金海市進礼(面)の地形が見事に合致することが解る。「牙」のある頭部に当たる龍蹄峰[723m]~大岩山[669m]~南山峰[410m]~テジョン山[290m]、また東側は北からムルン山[313m]~ファンセ山[392m]~メボン山[339m]に取り囲まれた盆地となっている。

『古事記』に登場した神々の配置も併せて示した。「狗邪韓國」を取巻くように大国主命の後裔等を並べたことになる。『魏志倭人伝』と『古事記』が相補って「韓國」の詳細を語っているように見受けられる。因みに「伽耶」の「伽」=「寄り添い侍る」、「耶」=「邪」=「牙が集まったところ」とすれば現在の伽耶大学のある南北に広がる谷間を示していることが解る。

上図から解るように「狗邪韓國」は「北岸」(現地名金海市進永・翰林)を有している。即ち洛東江(おそらく当時の流域・川幅は、より広い範囲を示していた)に面していたと推定される。それを「其北岸狗邪韓國」と記したと読み取れる。おそらく帯方郡を発って「韓國」の北方である現在の忠清南道牙山市辺りで上陸して「韓國」内を「乍南乍東」して「陸行」南下し、「北岸」に辿り着いたと読み解ける。朝鮮半島西岸の「水行」はあり得ないことになるが、「隋書」の時代とは異なる(下記参照)。

この盆地の東南の出口(現在は高速道路が走る)から暫くすると巨大な入江に突き当たることになったであろう。現標高が定かでないが、洛東江河口が大きく広がった海であったと推測される。この地が、對海國との航路の発着所と推定される。残念ながら韓国地図の詳細が入手できず、その発着場所の特定は叶わないようである。

「韓國」の由来も「山稜に囲まれた様」に拠るのかもしれない。朝鮮半島の75%が山岳地帯であり、最高標高も2,000mを越えることはないとのことである。『古事記』に登場する比比羅木はその地形を表していると紐解いた。

余談だが・・・「新羅」の「新」=「辛+木+斤」であり、「木を斧で切り裂いた様」から派生する意味と解説される。「比比羅木」の図にある通り、「新羅」の地に奇麗に並んだ山稜の筋目が見える。「百濟」は「百」=「一+白」=「一様に小高いところがある地形」、「濟」=「水+齊(斉)」とすれば、一様に小高いところが水(海)の傍らで等しく並び揃っているところと紐解ける。
『古事記』の応神天皇紀に登場した古波陀の地、その地形を示していると読み解ける。どうやら、朝鮮半島も「倭人」が持ち込んだ漢字による地形象形で名付けられているように思われる。

また、古代朝鮮半島南部に「任那(ミマナ)」と言う地があったと知られている。「一般的に伽耶と同一、または重複する地域を指す用語」と解説されるが、上記と同様に文字解釈を行ってみよう。「任」=「人(谷間)+壬」と分解される。「壬」=「真ん中が膨れた糸巻きの形」を象った文字である。

すると任那=山稜に囲まれたなだらかな(那)谷間(人)が膨れた糸巻のような形(壬)をしたところと紐解ける。正に上記の「狗邪韓國」の地形を示し、「別名」であることが解る。図に示したように「伽耶」とは同一でも重複するわけでもなく、隣接するが別個の場所を表しているのである。

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読み解き初めの魏志倭人伝、詳細を云々するのは時期尚早、ともあれ登場する倭国の地名、それは地形象形の表記であることが確認できた、ことで良しとしよう。

不幸(?)にも「伊都國」、「奴國」、「不彌國」そして「邪馬壹國」の比定場所は、従来に提案されたものの中には含まれていないようである(唐津から多久に抜ける提案はいくつか見受けられるが、古有明海に突き抜けてしまうようである)。

既に何処かで述べたように、漢字を用いた地形象形の表現は、決して古事記オリジナルではないと思われる。当時は当たり前、そして的確にその地の情報を含めた命名となっていたのであろう。それをグジャグジャにしたのが日本書紀である。律令制以後は、それを行うと死罪だったのかもしれない・・・。

古事記はこの地のことを全く語らない。九州本土においては胸形(現宗像市)以西は登場しないのである。この地の存在を知らない訳はない筈、天神達の本拠、壱岐島はこの地の方が近い。何故か?…日本の古代の根幹に関わることだと感じる。が、本日はこの辺りとしておこう。

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最後に「倭」の文字ついて述べておこう。従来では、古事記の解釈も含めて、「倭」=「大和(ヤマト)」とされているようである。しかしながらこの文字が持つ意味は、全く繋がらないことが解る。

「倭」=「人+委」と分解される。更に「委」=「禾+女」と分解できる。「禾」は「稲穂のしなやかに曲がる様」を、「女」は「嫋やかに曲がる様」を象った文字である。即ち「委」=「しなやかに嫋やかに曲がっている様」を表している文字と解説される。地形象形的には、弱弱しく畝りながら全体としてしなやかに曲がっている山稜を示していると解釈される。

古事記はこれを多用し、例えば「大倭」、大倭豐秋津嶋や大倭日子鉏友命(懿徳天皇)、大倭帶日子國押人命(孝安天皇)、大倭根子日子賦斗邇命(孝霊天皇)、大倭根子日子國玖琉命(孝元天皇)など和風諡号に出現する。「大倭」=「平らな頂からしなやかに畝って延びる山稜」と読み解ける。

「倭(ヤマト)」では、全く日本の古代を知ることは不可能である。いや、そうすることで奈良大和と恣意的に関連付けることが目的だったのであろう。御眞木入日子印惠命(崇神天皇)、古事記原文に「故稱其御世、謂所知初國之御眞木天皇也」と記されている。「大倭」が付いていない。何故?…訝しがっている方もおられるように、「大倭」の表す意味が全く読み取れていないのである。

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