2019年5月6日月曜日

建御名方神・科野國之州羽海 〔342〕

建御名方神・科野國之州羽海


大型連休も本日で終了…と言っても暇が取り柄の老いぼれには特段の変わりはないのだけれど…「令和になって初」の文字がやたら目立つのが少々目障りなくらい・・・さて、少々投稿間隔が空いたので、少し古い時代の話題を載せてみようかと・・・。

現在も諏訪大社に鎮座されている「建御名方神」、スッキリとした解釈に至らず彷徨っていたのだが、どうやら落ち着くところに辿り着いたようである。

関連する古事記原文…、

故爾問其大國主神「今汝子、事代主神、如此白訖。亦有可白子乎。」於是亦白之「亦我子有建御名方神、除此者無也。」如此白之間、其建御名方神、千引石擎手末而來、言「誰來我國而、忍忍如此物言。然欲爲力競。故、我先欲取其御手。」故令取其御手者、卽取成立氷、亦取成劒刄、故爾懼而退居。爾欲取其建御名方神之手乞歸而取者、如取若葦搤批而投離者、卽逃去。故追往而、迫到科野國之州羽海、將殺時、建御名方神白「恐、莫殺我。除此地者、不行他處。亦不違我父大國主神之命。不違八重事代主神之言。此葦原中國者、隨天神御子之命獻。」[そこで大國主の命にお尋ねになったのは、「今あなたの子のコトシロヌシの神はかように申しました。また申すべき子がありますか」と問われました。そこで大國主の命は「またわたくしの子にタケミナカタの神があります。これ以外にはございません」と申される時に、タケミナカタの神が大きな石を手の上にさし上げて來て、「誰だ、わしの國に來て内緒話をしているのは。さあ、力くらべをしよう。わしが先にその手を掴かむぞ」と言いました。そこでその手を取らせますと、立っている氷のようであり、劒の刃のようでありました。そこで恐れて退いております。今度はタケミナカタの神の手を取ろうと言ってこれを取ると、若いアシを掴むように掴みひしいで、投げうたれたので逃げて行きました。それを追って信濃の國の諏訪の湖に追い攻めて、殺そうとなさった時に、タケミナカタの神の申されますには、「恐れ多いことです。わたくしをお殺しなさいますな。この地以外には他の土地には參りますまい。またわたくしの父大國主の命の言葉に背きますまい。この葦原の中心の國は天の神の御子の仰せにまかせて獻上致しましよう」と申しました]

建御名方神は、葦原中国を建御雷之男神が平定した時に登場する。大国主命が「我が子」と述べているが仔細は詳らかではなく、素性の曖昧さもあって文字列そのものから居場所を求めることになる。やや、言い訳めくが含まれる文字も平凡である。

既に述べたところを再掲しながら・・・、

元官幣大社であり、全国に関連する神社の元締めたる諏訪大社の由来である。古事記に記載があることで由緒がある、ただそれだけのようである。記述の内容は甚だ情けないもの、獻上し、諏訪からは出て行かない、全国に散りばめられているのだが、仰せに任せるだけ…無駄な争いをせず賢明な人だった?・・・。

理解を越える経緯が存在するのであろうか?…。現在の諏訪の地、その本来の歴史を取り戻されんことを祈るばかりである。豊かな古代の世界を明日に還元できると信じる。古事記は現在の諏訪の地ことを記述していない。

・・・都に近い「淡」を琵琶にする場合と同様に、建御名方神が逃げ込んだ「科野国之州羽」も諏訪になっている。古事記記述が怪しいとする以外に納得できる解釈は見出せない有様である。日本の古代史学が学問に成り切れていない証左であろう。強引に「令和」とした方もさることながら、有識者に名を列ねる方々によってそれが検証されたようである。
 
科野國之州羽海

「科野国」は現在の北九州市小倉南区葛原辺りと推定した。「科」=「段々になっている様」を表すと解釈した。西隣が「豐国」とすると、「豐」=「多くの段差がある高台」から地形的には急傾斜の山麓が連続する地であると思われる。逆に「科」を上記のように解釈するならば「豐国」の「豐」の解釈が「豊かな」のような通常の意味ではないことが解る。

「科野国」は、出雲国から足立山~戸ノ上山の山系を越えたところにある国である。その南、現在は竹馬川が流れる曽根平野となっているところは海であったと推定される。縄文海進及び沖積の未熟であったことを考慮せずして日本の古代は理解不能である。大陸のど真ん中以外、海進の影響を大きく受けて来たのである。参考に纏めたのがこちら、また伊邪那岐・伊邪那美の国(島)生みを考察したのがこちら

<科野國之州羽海>
「州羽海」は…、
 
州(川に挟まれた)|羽(羽のような)|海
 
…「川に挟まれた羽のように平坦な地にある海」と紐解ける。河口、入江における地形象形で幾度となく出現した表現である。

後に出て来る「大羽江」「氷羽州」等に類似する。通説が「諏訪湖」と断じることの根拠は皆無であろう。

既に縄文海進が後退し沖積が進行した現在の地形に「州羽海」は、古事記の中にしか存在しない。

図に示したように新手川と山寺川に挟まれたところ、そこに面した場所が「州羽海」と推定される。現在の地形から見る限りではあるが、山寺川はそれなりの大河であったと推測される。即ち州の西南端の海に面したところで追い詰められた、と同時に追跡は東方からであったと告げている。

幾度となく記述される戦闘場面で追い詰められて行く様相が判る。追い詰められる集団が発散するのではなく収束するためには必然的に地形が関与する。それを古事記は丁寧に述べているのである。それを全く無視して読み解くことはあり得ないであろう。悲しいかなそれを読めていないのが現状である。

科野國之州羽海」は「建御名方神」と同様に二度と古事記に現れることはない。それはそれとして、古事記に由来を求めるのではなく、現在の諏訪大社を大切にお祀り申し上げることであろう。

<信濃国一之宮 諏訪大社>
「御名方」の意味を何と理解されているのであろうか?・・・。

Wikipediaには、かなり様々な文献が紹介されている。研究対象として興味深いところがあるのかもしれない。

いずれにしても「州羽海」を現在の諏訪湖とする前提では、挿入された逸話程度の解釈に陥らざるを得ないようである。

敗戦の将を祭祀するようになるための読み解きには、大変な曲折を考え出さねばならず、苦労が偲ばれる。

祭神に「八坂刀売神」が載せられているが、「八坂」は極めて重要な文字であり、古事記が編纂された時代には「八坂」と言えば一に特定できるほど固有名詞化した場所である。それを承知で名付けたのか?…無節操であり、古事記由来の祭神ではあり得ないことを露呈してしていると思われる。

「八坂」と「八尺」の意味を詳らかにできていない古代史学、「八尺」が示す意味はが不詳ならば「三種神器」も不詳となる・・・後日に述べてみよう。

御名方とは?

では「建御名方神」は・・・例によって一文字一文字を紐解くことにする。「名」=「夕(月:三角州)+口(地)」であり、「方」=「舟を束ねる、鋤の形」として…、
 
御(束ねる)|名(三角州の地)|方([鋤]の形)

…「三角州の地を[鉏]の形に束ねる」神となる。出雲北部の谷間に坐していたと思われる。戸ノ上山の東北麓、狭い谷間の地である。そこに幾つかの川が合流し、山稜の端が作る三角州が寄り集まった地形を示している。現地名は北九州市門司区城山町辺りである。

<建御名方神・八重事代主神>
「方」の解釈に「死体をつるした様」(白川漢字学)と言うものがあるが、とてもまともな解釈ではなかろう。

「舟」=「月(三日月)」とすると「三角州を束ねた様」となって合致した解釈と思われる。

「八重事代主神」の場所は、戸ノ上山北西麓の深い谷間、現在では山の中腹辺りまで宅地開発が進んでいる場所と推定した。

大国主命の二人の御子は、谷の奥深くに住まっていた、と言うかそんな場所しか居場所がなかったのであろう。彼ら二人の命名は、出雲の現状をしっかりと伝えていたと気付かされる。

また、「建御名方神」はこの場所から逃亡した。鹿咋峠を越えて、東方十二道に渡り、科野国に向かった。西へ西へと逃げて「州羽海」に辿り着いたのであろう。全て合理的に読み取れる記述であることが解る。

――――✯――――✯――――✯――――

余談ぽくなるが、従来の紐解き風に行ってみると・・・また、「夕(肉)+口(祭祀する台)」と分解すると「神に肉を捧げて祭祀する」意味にも受け取れる。八重事代主神が穀物なら建御名方神は肉類を捧げる役目を持っていたと告げているようでもある。

この二人で食が充当されていたのであろう。だから、両方の意見を求めた、と推測される・・・こんな解釈が横行して来た、のである。それに便乗して・・・それとも「名ばかりなうわべの方法で御する」の解釈が適当かも…ちょっと失礼な読み解きになるが・・・。

――――✯――――✯――――✯――――

「亦我子有建御名方神、除此者無也。」と大国主命が宣う。八重事代主神と同世代ならば、前記にあった「八嶋牟遲能神之女・鳥耳神、生子、鳥鳴海神」に兄弟がいたのかもしれない。

母親の鳥耳神及び祖父に当たる八嶋牟遲能神の近隣である。そうとするならば速須佐之男命の嫡子、八嶋士奴美神が坐した場所にも隣接する。素性も含め出雲北部の人物だったことが解る。州羽海に逃げ去っては如何ともし難い結果であったと告げているようである。

<大国主命の娶りと御子①>
古事記は端から、八重事代主神も含めて、統治の力はなかった、この地を離れない限り子孫の繁栄は望めなかったと記している。

全体を通しても葦原中国を足掛かりにして侵出する戦略の一端であった「大国主命」の派遣は、天神一族にとってもその目的を達せなかった結末を迎えたのである。

前記の大国主命の系譜が継続したのは神屋楯比賣の系列であって、その後裔は「天(壱岐東部)」→「比比羅木(新羅)」→「天(壱岐西部)」と彷徨って消滅する(原資料がなかっただけかもしれないが…)。

速須佐之男命が櫛名田比賣を娶って生じた系譜は全て歴史の表舞台から消え去ることになる。

出雲北部の地は、後の倭建命の段で復活するが、この系譜との関わりについては述べられることはない。おそらく途絶えて久しく、確たる伝承がなかったのであろう。重要な地として記述されるが、断絶の系譜を繋ぐことは困難であったのだろう。上記の「天(壱岐)」⇄「比比羅木(新羅)」の伝承の方がはるかに確度が高かったのかもしれない。