丸邇臣之祖日子國意祁都命之妹・意祁都比賣命と日子坐王
春日の伊邪河宮に坐した若倭根子日子大毘毘命(開化天皇)は春日の地を開いたと記される。邇藝速日命の子孫達との繋がりが一気に進展することになる。中でも次代に大きな勢力を有する「丸邇」一族の登場である。暫くはこの一族に支えられて天皇家は発展を遂げる。
前記で登場の「大毘古命」に並ぶ大将軍となる「日子坐王」について、詳細を述べてみよう。彼は開化天皇と意祁都比賣との間に生まれた一人息子である。
古事記原文…、
次日子坐王、娶山代之荏名津比賣・亦名苅幡戸辨生子、大俣王、次小俣王、次志夫美宿禰王。三柱。又娶春日建國勝戸賣之女・名沙本之大闇見戸賣、生子、沙本毘古王、次袁邪本王、次沙本毘賣命・亦名佐波遲比賣此沙本毘賣命者、爲伊久米天皇之后。次室毘古王。四柱。又娶近淡海之御上祝以伊都玖天之御影神之女・息長水依比賣、生子、丹波比古多多須美知能宇斯王、次水之穗眞若王、次神大根王・亦名八瓜入日子王、次水穗五百依比賣、次御井津比賣。五柱又娶其母弟・袁祁都比賣命、生子、山代之大筒木眞若王、次比古意須王、次伊理泥王。三柱。凡日子坐王之子、幷十一王。
実に多くの娶りと御子の名前が列記される。また説話にも登場し、草創期の活躍を残したと伝えられる。詳細はこちらを参照。ここでは読み解けていなかった「日子坐王」の文字列を取り上げてみることにする。
簡略で常用される文字列の名前であることから読み飛ばしてしまうのであるが、やはりこれも重要な地形象形であった。
日子坐王
簡略で常用される文字列の名前であることから読み飛ばしてしまうのであるが、やはりこれも重要な地形象形であった。
<日子坐王> |
後に登場する「兄」=「口(頭)+人」と分解されるが、「谷の奥が広がっているところ」の象形と紐解ける。吉備之兄日子王などの例がある。
「坐」=「二つの細長い谷間の下の土地」と紐解ける。図に示した通りの地形を表していると思われる。
「日子坐王」は…「日子」=「稲」として…、
二つの細長い谷間の下の稲がある地
…に坐した王と読み解ける。勿論「日子」は上記の邇藝速日命の子孫を重ねているのであろう。
出自の場所が解けてみれば、古代の二大将軍は、何とも間近なところに出自を持っていたことが判る。「倭国連邦言向和国」の成立するにあたって穂積の子孫が果たした役割は大きい、と言うことであろう。
邇藝速日命が那賀須泥毘古の妹、登美夜毘賣を娶って誕生した宇摩志麻遲命から穗積臣へと繋がり、更に丸邇臣の祖となる日子国意祁都命・意祁都比賣命・袁祁都比賣へと連なる系譜は日子坐王、山代之大筒木眞若王を誕生させて、もつれ合うように皇統に繋がる。図<春日>を参照。
山代之荏名津比賣・亦名苅幡戸辨
この比賣の居場所を求めてみよう。亦の名、苅幡戸辨がヒントであろう。だがこのままではスンナリとは行かないようである。山代は御所ヶ岳山塊の南麓として上記の「大筒木垂根王」が居たとした現在の京都郡みやこ町犀川木山の近隣であろう。
<荏名津比賣(苅幡戸辨)> |
苅幡の「幡」=「端(へり、ふち)」とすると、そこが刈り取られている様を示しているようである。
地図を探すと現在の同町犀川大村の東の端辺りの地形が合致するように見える。
戸辨の「戸」=「斗」柄杓の地形、「辨」=「地を治める人」所謂「別」と同意と解釈される。纏めてみると…、
苅(刈取る)|幡(端)|戸(凹の形)|辨(別)
…「端を刈り取ったような凹の形の地を治める人」となる。別名に比賣が付くことから「女人」と解釈される。「辨」は女性に用いられている。木國造荒河刀辨の「刀辨」と類似する解釈である。「原始的カバネ」としてしまっては真に勿体無い限りである。
御子が「大俣王、次小俣王、次志夫美宿禰王」と記される。大俣王と小俣王は山稜の分かれ具合(谷)の程度で推定できるであろうが、志夫美宿禰王の「志夫美」は紐解きが必要である。幾度も登場の「志」=「之(蛇行する川)」だが、「夫」は何と読むか?…字形から「二股に分かれた川」とすると…、
志(蛇行する川)|夫(二股に分かれた川)|美(谷間が広がる地)
…「谷間が広がる地で川が蛇行し二股に分かれるところ」と解釈される。上図に示した大坂川は二つの川が合流して犀川に向かう。その様子を表現したのであろう。現地名は京都郡みやこ町犀川大坂である。三人の御子達及びその後裔の活躍が記述される(省略:詳細はこちら)。
荏名津比賣の「荏名津」は少々解釈が難しい。だから別名を追記した、とも言えるが・・・ならばもっと解りやすい他の名前にも・・・ゴネてどうするか・・・。
「荏」=「荏胡麻」を表すと解説されている。現在は菜種油が主流であるが江戸時代ぐらいまでは殆ど「荏胡麻」から搾油していたそうである。速乾性の油(不飽和度が高い)で食用もさることながら保護塗膜を作るのにも重宝なものであったろう。
これで気付いた。当時は現在のような密封できる容器はなく、瓶に保存をしてもほぼ大気に触れた状態であったと推測される。すると、その保存した液体の油の表面は常に「皮張り=皺の発生」の状態と思われる。この「皺」を「荏」と表現したのではなかろうか。
写真は乾性油塗膜で「皺」が発生した時の形態である。これを山稜に模したと推測される。もう少し付記すると、山稜は「枝」で表して来た。大地が雨水によって削られて発現する模様は「枝」が最適と思われる。事実、多くの山稜は「枝」と表現して全く違和感のないことが確認されて来た。
「皺」は同じように凹凸で作られるものであるが、その方向は全く無秩序である。これは「皺」の発生機構(液体表面部の収縮)からも説明できるものである。あらためて上図<荏名津比賣(苅幡戸辨)>を参照すると、明らかに稜線が四方八方に延びたような地形を示していることが判る。
天之眞名井などに含まれる「名」=「山麓の三角州」として…「荏名津」は…、
荏(荏胡麻油の皺のような山稜)|名(山麓の三角州)|津(集まる)
…「荏胡麻油の皺のような山稜の麓の三角州が集まったところ」と読み解ける。全くの驚きである。これまでも幾度か古事記編者の自然観察力を示して来たが、この記述はその真髄であろう。彼らの地形象形を含めた自然に対する肌理細やかな表現に敬意を表する。