2019年1月30日水曜日

丸邇臣之祖日子國意祁都命之妹・意祁都比賣命と日子坐王 〔311〕

丸邇臣之祖日子國意祁都命之妹・意祁都比賣命と日子坐王


春日の伊邪河宮に坐した若倭根子日子大毘毘命(開化天皇)は春日の地を開いたと記される。邇藝速日命の子孫達との繋がりが一気に進展することになる。中でも次代に大きな勢力を有する「丸邇」一族の登場である。暫くはこの一族に支えられて天皇家は発展を遂げる。

前記で登場の「大毘古命」に並ぶ大将軍となる「日子坐王」について、詳細を述べてみよう。彼は開化天皇と意祁都比賣との間に生まれた一人息子である。

古事記原文…、

次日子坐王、娶山代之荏名津比賣・亦名苅幡戸辨生子、大俣王、次小俣王、次志夫美宿禰王。三柱。又娶春日建國勝戸賣之女・名沙本之大闇見戸賣、生子、沙本毘古王、次袁邪本王、次沙本毘賣命・亦名佐波遲比賣此沙本毘賣命者、爲伊久米天皇之后。次室毘古王。四柱。又娶近淡海之御上祝以伊都玖天之御影神之女・息長水依比賣、生子、丹波比古多多須美知能宇斯王、次水之穗眞若王、次神大根王・亦名八瓜入日子王、次水穗五百依比賣、次御井津比賣。五柱又娶其母弟・袁祁都比賣命、生子、山代之大筒木眞若王、次比古意須王、次伊理泥王。三柱。凡日子坐王之子、幷十一王。


実に多くの娶りと御子の名前が列記される。また説話にも登場し、草創期の活躍を残したと伝えられる。詳細はこちらを参照。ここでは読み解けていなかった「日子坐王」の文字列を取り上げてみることにする。
 
日子坐王

簡略で常用される文字列の名前であることから読み飛ばしてしまうのであるが、やはりこれも重要な地形象形であった。
 
<日子坐王>
「坐」=「人+人+土」に分解される。「人」=「細長い谷間」の象形と解釈できる。

後に登場する「兄」=「口(頭)+人」と分解されるが、「谷の奥が広がっているところ」の象形と紐解ける。吉備之兄日子王などの例がある。

「坐」=「二つの細長い谷間の下の土地」と紐解ける。図に示した通りの地形を表していると思われる。

「日子坐王」は…「日子」=「稲」として…、
 
二つの細長い谷間の下の稲がある

…に坐した王と読み解ける。勿論「日子」は上記の邇藝速日命の子孫を重ねているのであろう。

出自の場所が解けてみれば、古代の二大将軍は、何とも間近なところに出自を持っていたことが判る。「倭国連邦言向和国」の成立するにあたって穂積の子孫が果たした役割は大きい、と言うことであろう。

邇藝速日命が那賀須泥毘古の妹、登美夜毘賣を娶って誕生した宇摩志麻遲命から穗積臣へと繋がり、更に丸邇臣の祖となる日子国意祁都命・意祁都比賣命・袁祁都比賣へと連なる系譜は日子坐王、山代之大筒木眞若王を誕生させて、もつれ合うように皇統に繋がる。図<春日>を参照。
 
山代之荏名津比賣・亦名苅幡戸辨

この比賣の居場所を求めてみよう。亦の名、苅幡戸辨がヒントであろう。だがこのままではスンナリとは行かないようである。山代は御所ヶ岳山塊の南麓として上記の「大筒木垂根王」が居たとした現在の京都郡みやこ町犀川木山の近隣であろう。
 
<荏名津比賣(苅幡戸辨)>
苅幡の「幡」=「端(へり、ふち)」とすると、そこが刈り取られている様を示しているようである。

地図を探すと現在の同町犀川大村の東の端辺りの地形が合致するように見える。

戸辨の「戸」=「斗」柄杓の地形、「辨」=「地を治める人」所謂「別」と同意と解釈される。纏めてみると…、
 
苅(刈取る)|幡(端)|戸(凹の形)|辨(別)

…「端を刈り取ったような凹の形の地を治める人」となる。別名に比賣が付くことから「女人」と解釈される。「辨」は女性に用いられている。木國造荒河刀辨の「刀辨」と類似する解釈である。「原始的カバネ」としてしまっては真に勿体無い限りである。

御子が「大俣王、次小俣王、次志夫美宿禰王」と記される。大俣王と小俣王は山稜の分かれ具合(谷)の程度で推定できるであろうが、志夫美宿禰王の「志夫美」は紐解きが必要である。幾度も登場の「志」=「之(蛇行する川)」だが、「夫」は何と読むか?…字形から「二股に分かれた川」とすると…、
 
志(蛇行する川)|夫(二股に分かれた川)|美(谷間が広がる地)

…「谷間が広がる地で川が蛇行し二股に分かれるところ」と解釈される。上図に示した大坂川は二つの川が合流して犀川に向かう。その様子を表現したのであろう。現地名は京都郡みやこ町犀川大坂である。三人の御子達及びその後裔の活躍が記述される(省略:詳細はこちら)。

荏名津比賣の「荏名津」は少々解釈が難しい。だから別名を追記した、とも言えるが・・・ならばもっと解りやすい他の名前にも・・・ゴネてどうするか・・・。

「荏」=「荏胡麻」を表すと解説されている。現在は菜種油が主流であるが江戸時代ぐらいまでは殆ど「荏胡麻」から搾油していたそうである。速乾性の油(不飽和度が高い)で食用もさることながら保護塗膜を作るのにも重宝なものであったろう。

これで気付いた。当時は現在のような密封できる容器はなく、瓶に保存をしてもほぼ大気に触れた状態であったと推測される。すると、その保存した液体の油の表面は常に「皮張り=皺の発生」の状態と思われる。この「皺」を「荏」と表現したのではなかろうか。

写真は乾性油塗膜で「皺」が発生した時の形態である。これを山稜に模したと推測される。もう少し付記すると、山稜は「枝」で表して来た。大地が雨水によって削られて発現する模様は「枝」が最適と思われる。事実、多くの山稜は「枝」と表現して全く違和感のないことが確認されて来た。

「皺」は同じように凹凸で作られるものであるが、その方向は全く無秩序である。これは「皺」の発生機構(液体表面部の収縮)からも説明できるものである。あらためて上図<荏名津比賣(苅幡戸辨)>を参照すると、明らかに稜線が四方八方に延びたような地形を示していることが判る。

天之眞名井などに含まれる「名」=「山麓の三角州」として…「荏名津」は…、
 
荏(荏胡麻油の皺のような山稜)|名(山麓の三角州)|津(集まる)

…「荏胡麻油の皺のような山稜の麓の三角州が集まったところ」と読み解ける。全くの驚きである。これまでも幾度か古事記編者の自然観察力を示して来たが、この記述はその真髄であろう。彼らの地形象形を含めた自然に対する肌理細やかな表現に敬意を表する。

2019年1月28日月曜日

若倭根子日子大毘毘命(開化天皇):春日之伊邪河宮 〔310〕

若倭根子日子大毘毘命(開化天皇):春日之伊邪河宮


葛城の地を出て、春日に向かった天皇、いよいよ師木に辿り着く一歩手前までになったと伝える。既に紐解いたところではあるが、詳細を述べてみよう。

古事記原文…、

若倭根子日子大毘毘命、坐春日之伊邪河宮、治天下也。


若倭根子日子大毘毘命の「大毘毘」である。奇妙な名前なのであるが、一見では何とも言えない…が、これは重要な意味を含んでいたようである。

「大毘」は、長兄の「大毘古命」に含まれていた。前記で「[大]の地形で田を並べ定める命」と紐解いた。大坂山山麓、その中腹にある地に基く命名である。もう一つの「毘」を何と解釈するか?…重ねて「田を並べる」、より田を拡げて行ったように受け取ることもできるようである。

「毘毘」=「田田+比比(至るところ)」とすると、「田を至るところに並べる」という解釈も成り立つかもしれない。比比羅木の解釈に類似する。「日子大毘毘命」=「稲がある田を[大]の地形の至るところに並べる命」…どうやらこのイメージを伝えているように思われるが、更に別解釈を行うと・・・。

「毘」の原義に立ち戻ると「毘」=「田+比」として…、
 
田(通気口)+比(人が並ぶ)

…様を象形した文字と解説される。続けて解釈すると…「大毘毘」は…、
 
[大]の地形で田を並べ定め通気口の前に人を並べる

…命と読み解ける。後者の「毘」が示す意味は極めて重要である。開化天皇紀以降、辰砂(丹)の話題が頻出する。天皇が坐した場所は、正にその産出場所であったと解読されることになる。古代、と言うか近代に至るまで重要な資源であった水銀の採取に関わるのである。詳細は後段に述べるとして、大毘毘命の名前に潜められていたことが解る。


「若倭根子」は何を意味しているのであろうか?…、
 
若(少しばかり)|倭(曲がる)|根(分れた山稜)|子(山稜の端)

<若倭根子日子大毘毘命>
…「少しばかり曲がっている根のように分かれた山稜の端」と紐解ける。

坐したところは「春日之伊邪河宮」と記される。

孝昭天皇の御子、天押帶日子命が祖となった「春日」の中心の地、現在の大祖神社辺りと推定される。

丹の産出場所の眼前である。それに相応しい命名ではなかろうか。

また御子の日子坐王の娶りに春日建國勝戸賣之女・名沙本之大闇見戸賣が居る。

「沙本=辰砂の麓」と紐解くことになる。葛城の「米」に加えて新しい力を示すものを手に入れたと推定される。「開化」の文字が示す大きな変化である。いよいよ辰砂=丹の時代が到来する。即ち外戚としての丸邇氏の台頭となる。

若倭根子日子大毘毘命の時代から天皇家の様相が一変する、その兆しを示しているのであろう春日之伊邪河宮」を求めてみよう…、
 
伊(小ぶり)|邪(曲がりくねる)|河(川)
 
…大河ではないが大坂山山麓をかなりの距離を流れる川(山の内から流れ出る川:地図では名称も含め不詳)がある(下図参照)。
 
<春日之伊邪河宮>
「伊邪河宮」は図中の大祖神社辺りと推定される。周辺には朝日寺、稲荷神社などが寄集っていて、曲りくねった河「伊邪河」の畔にあったと思われる。

漸くにして邇藝速日命が切り開いた春日の地に至った、一回りも二回りも大きくなって。彼らはここで更なる発展を願ったのである。

その通りに娶りも誕生した御子達の数も増え、精力的に各地に飛ぶことになる。

そして地元の豪族達を「言向和」していったと伝えるのである。

「天皇御年、陸拾參歲。御陵在伊邪河之坂上也」と記される。図中の正一位稲荷大明神辺りの小高いところではなかろうか。

2019年1月24日木曜日

建内宿禰:若子宿禰・久米能摩伊刀比賣・怒能伊呂比賣 〔309〕

建内宿禰:若子宿禰・久米能摩伊刀比賣・怒能伊呂比賣

大倭根子日子國玖琉命(孝元天皇)の御子、建内宿禰に子孫に関する記述があった。全体の内容はこちらを参照願うとして、幾つかの加筆・訂正を行ってみようかと思う。

なかなか古事記の読み時に納得行くところまで達せないが、飽くなき追及あるのみと割り切って述べることにする。

最後に登場の「若子宿禰」、その居場所は求められるのだが、そもそも「若子」とは?…簡単な文字列だけに難度が上がるようである。

若子宿禰

江野財(臣):喜多久(北九州市門司区)

「江野財臣」を…「財」=「貝+才」=「子安貝の形をした山稜」とすると…、


<江野財臣>

 (入江の)|(野原の)|([貝]の形)

と紐解いてみる。子安貝を象形した文字を山稜の地形に用いていると解釈される。

古事記中に「財」の使用は幾度か登場するが全て同じ解釈と思われる。

大きな入江とそこに広がる野を有し、良質の木から布を紡織するところは角鹿現在の「喜多久」と読み解いた。

角鹿」の別称表現であろう。解けてみれば更なる情報と地名特定の確度が高まるのであるが・・・容易ではない・・・とここまでは既に紐解いたところなのであるが、やはり「若子」の意味が今一つピンと来なかったのが実情である。


<若子宿禰>
年月が過ぎて・・・漸くにして「若子」が見えて来た。「貝」は内に孕む様を象形した文字である。比賣の「賣」=「子を孕む」ことに繋がるのであろう。

即ちこの貝の形を示す山稜の中に、もう一つ小さい山稜が鎮座していたことに気付いた。

図を参照願うと・・・、
 
若(なりかけ)|子(子)

…「子になりかけ」のところと読み解ける。正に自由自在の文字使い、古事記の真骨頂とでも言うべき表記である。

貝が子を孕んでいたのである。だから、簡明に「若子」とだけの表記にしたのであろう。前記の「若櫻宮」の「若」も同じ意味と解る。「なりかけ」という解釈である。

さて、木角宿禰者と葛城長江曾都との間に二人の比賣が挿入されている。「久米能摩伊刀比賣」と「怒能伊呂比賣」である。危なく、例によって読み飛ばしそうな記述であるが、気付いたなら居場所を紐解かねばならない…という訳で・・・。かなりの部分を書き換えたので、この段、全文を掲載することにした。
 
久米能摩伊刀比賣

何せ建内宿禰の比賣ともなれば、なんて余計なことは抜きにして早速に・・・。実のところは、なんの事はない前記の伊久米伊理毘古伊佐知命(垂仁天皇)」の名前を紐解いた時に気付いたのである。古事記検索で「久米」を掛けると出て来る。その中にあったという訳である。
 
<師木玉垣宮・水垣宮>

そんな事情で時代は前後するが、「伊久米天皇」の紐解き概略を述べながら比賣の住まった場所を求めてみよう。

「伊久米」の探策結果は図に示すように現在の田川市伊田、鎮西公園付近とした。

図の右側から左側にかけて、すなわち東から西に向けて標高差20mに満たないが、なだらかな谷筋が見て取れる。

またそれらの谷筋が合流し「津」を形成していることも判る。真に天津久米類似の地形を示しているのである。

この「津」近隣の高台に垂仁天皇の師木玉垣宮があったと推定される。「伊」の文字を三つも含む名前、ひょっとすると伊田の「伊」は残存地名かもしれない。
 
伊(僅かに)|久([く]の形)|米(川の合流点)

<久米能摩伊刀比賣>
…「僅かに[く]の形に曲がった川が合流するところ」と紐解ける。

見落としてはならないのは、久米に「伊」が付かない。僅かに[く]の字に曲がるのではないことを示している。

更に「能=熊=隅」が付加される。曲がったところの隅に位置することを述べていると思われる。図に示したように「伊久米」の北にある「久米」となろう。

「摩伊刀」はそのまま読めば「刀を擦って磨く」のような意味になる。

神倭伊波礼比古に随行した武将「大久米命」を連想させ、勇猛な久米一族の住処であったことを暗示しているように受け取れる。

勿論天皇の近くに居ること、彼らの主要な役目であったろう。だがしかし、間違いなく地形象形していると思われる。「摩伊刀」は何と紐解くか?…、
 
摩(消えかかったような)|伊(小ぶりな)|刀(斗:柄杓の地)

…と読み解く。安萬侶コードの「刀」=「斗」=「戸」は全て凹んだ地形を示し、場合によって使い分けられている。「摩」は「近い」とも訳せるが、ここは「當岐麻道(消えかかった分岐の道)」の時と類似したものと思われる。

標高差が少なく、地図は国土地理院陰影起伏図を使用すると、浮かび上がって来た柄杓の地が見出だせる。ついでながら「伊久米」の谷(川)も一層明確に示されている。

「伊久米」に導かれて漸くのことこの地の詳細が見えて来たようである。垂仁天皇が近隣に鎮座するずっと以前に建内宿禰の手が伸びていたということであろう。師木侵出は着実に準備されていたことを告げている。

怒能伊呂比賣

怒能伊呂比賣、一体何と読む?…やはり「ノノイロヒメ」と通訳されているようである。だが、これでは埒が明かない、と言ってみても、そもそも建内宿禰の子供達の居場所を求めた例が極めて少ないのだから、そのうちの一人の比賣など誰も追及なんかしていない…そうなんでしょうか?

そんな怒りが…ちょっと安萬侶くん風になってきた…「怒」=「イカリ」と読む。師木辺りで関係ありそうな場所を探すと・・・ズバリの名前が登場する。「伊加利」である。師木玉垣宮のほぼ真南に当たる彦山川の対岸にある。現地名は…田川市…、
 
伊加利

かなり広い面積をしめる地名であり、古くからの呼び名ではなかろうか。



実際には「ノorド」と言われたところであったのかもしれない。変遷があって読み替えたものが残ったようにも思われる。それにしても「伊久米」から始まった地名探索は見事なまでに収束してきたようである。師木の詳細地図が見えて来たと思われる。
 
<怒能伊呂比賣>
ここで終わってしまっては残存地名に合わせただけになってしまう・・・「イカリ」の地形を求めてみると・・・見事な地形象形であった。

「錨(碇)」の歴史は古く、舟を多用していれば当然かも知れないが、とは言っても古事記の時代に如何なるものが使用されていたかは不詳である。

怒能伊呂比賣」は…、
 
怒(錨の地形)|能(隅)|伊(小ぶり)|呂(背骨)

…「錨の地形で小ぶりな背骨ようなところ」の比賣と紐解ける。

上図を参照願うと、背骨の凹凸があり、現在に知られる鉄製の錨の形を示していることが判る。この形状は石を用いた碇ではなく、既に鉄を用いていたのではなかろうか…興味深いところだが、これ以上の推論は難しいようである。
 
――――✯――――✯――――✯――――

伊久米伊理毘古伊佐知命(垂仁天皇)の坐したところも含め、確度の高い比定場所かと思われる。現在の田川市、田川郡香春町そして赤村、この地から日本が始まったことには間違いないと確信するところである。

2019年1月21日月曜日

古事記の『櫻』:櫻井臣・櫻井田部・若櫻宮 〔308〕

古事記の『櫻』:櫻井臣・櫻井田部・若櫻宮


古事記中に決して頻度高くはないが「櫻」の文字が登場する。勿論「桜」ではない。何となく「サ・クラ」として「谷間を佐る(より良い状態にする)」と読んで来たが、些か曖昧な表記のような感じであった。やはり、もっと直截的に表現していると思われる。

そこで登場する文字列を並べて解読することにした。挙げた例は「櫻井臣・櫻井田部・若櫻宮」である。


櫻井臣

古事記原文…、

此建內宿禰之子、幷九。男七、女二。・・・<中略>・・・次蘇賀石河宿禰者、蘇我臣、川邊臣、田中臣、高向臣、小治田臣、櫻井臣、岸田臣等之祖也。

大倭根子日子國玖琉命(孝元天皇)の御子、建内宿禰の多くの後裔達、その中の蘇賀石河宿禰が祖となった臣の一人に「櫻井臣」の記述が見られる。蘇賀の地、また他の祖となったところは下図に纏めて示した。詳細はこちらを参照願う。


<蘇賀石河宿禰>
間違いなく「櫻井」の場所は、「井」の文字が表す意味から、図に示したところと思われる。

しかしながら、「櫻」は一体何を告げようとしているのか?…文字の分解から行ってみよう。

「川邉」の「邊」=「広がった、延びた端」と解説される。川(石河:現白川)が海に注ぐところを示すと思われる。

「田中」は谷間の真ん中辺りの最も田の豊かなところであろう(下図<蘇賀石河宿禰>参照)。

少々ややこしいのが「櫻井」?…幾度か登場する地名なのであるが、しかも例によって唐突に・・・。

「櫻」の文字、そのものでは如何ともし難く・・・「櫻」=「木+貝+貝+女」と徹底的に分解してみる。

「貝」=「谷間に並ぶ田」の象形と紐解ける。「木貝貝」は…「山稜が作る二つの谷間に田を並べたところ」と紐解ける。それに「井」が加わると…、
 
櫻(二つの谷間に田を並べる)|井(井:池)

<櫻井臣>
…「池の傍らで二つの谷間に田を並べたところ」と解読される。「貝貝」の下に「女」が付加される。

「女」=「女性の身体」を模していると解釈できる。特徴的な二つの谷間が寄集っている地形を表す表記と思われる。

山稜が作る字形の地の窪んだところが池になっている様を模した、と思われる。古事記らしいと言ってしまえばそれまでだが・・・。

当時の「井」は、現在の苅田町山口にあるダムとの形状的な相違は否めないが、それに関わらずに「櫻」と比定することが可能と思われる。


何とも都合の良い漢字を引っ張り出したものである。歴史に名を刻んだ「蘇我一族」の本貫の地、その頭は「櫻」の地形である。実に直截的な表現ではなかろうか。


櫻井田

古事記原文…、

品陀和氣命、坐輕嶋之明宮、治天下也。・・・<中略>・・・又娶櫻井田部連之祖嶋垂根之女・糸井比賣、生御子、速總別命。一柱。


品陀和氣命(応神天皇)の数ある娶った比賣の居場所の一つに「櫻井田部」がある。上記と同じ解釈で通じるのであろうか?…これも唐突に登場する地名であって、しかも上記ようにある程度の地域が示されているわけではない。
 
<櫻井田部嶋垂根・糸井比賣①>
天皇が坐した輕嶋之明宮を中心として、登場人物の名前を頼りに探索した。

すると、現在の田川郡糸田町南糸田辺りが浮かび上がって来るようである。その地に詳細な地形の適合性を確認することにした。
 
櫻井田の「櫻井」は上記の「櫻」=「木+貝+貝+女」=「池の傍らで二つの谷間に田を並べたところ」と解釈としてみると・・・、

細長い池(木実ヶ池)が山稜に挟まれ、そこから二つの谷が広がる地形であることが見出せる。

上記の「櫻井」と異なるのは、その広がった谷間に田が連なっている様相を示している。これが「田」が付加された所以であろう。

「櫻井田部」は…
 
櫻(二つの谷間に田を並べる)|井(井:池)|田|部(地)
 
…「池の傍らで二つの谷間に並べた田を更に拡げたところ」を意味していると解釈される。更に地表の凹凸が見えるように地図を置換えると、複数の山稜が寄集っているが、「櫻井」の解釈に合致するところであることが確認できる。


<櫻井田部嶋垂根・糸井比賣②>
「嶋垂根」の「垂根」が池の存在を示しているが、それに加えて、「嶋」=「山+鳥」、少々地形が崩れてはいるが、「鳥」の姿が伺える。

この地の山稜に烏尾峠という地名がある。関連するかどうかは不明だが、鳥に関わる地名のように思われる。

比賣の名前に含まれる「糸井」は…、
 
撚り糸の形の池

…と解釈すると、図の木実ヶ池の近傍に坐していた比賣だったのであろう。

地名が糸田であり、上記の烏尾峠も併せて残存の地名である確度が高いように見受けられる。

御子が「速總別命」とある。「速」=「辶+束」と分解して…、
 
速(束ねる)|總(集める)|別(地)
 
…「水源からの水を集めて束ねる地」の命と読み解ける。二つの谷間から流れる川が泌川(タギリガワ)に合流する。その地形を表しているのではなかろうか。

速總(ハヤブサ)」と読むと、祖父に「鳥」が含まれていることを、あらためて告げているような命名である。山鳥に勝る隼であったのかどうかは不詳である。いきなりの「櫻井田」では特定は困難であるが、御子達の名前を紐解くことによって確からしさが検証されたようである。

若櫻宮

<伊波禮の宮>
古事記原文…、

子、伊邪本和氣命、坐伊波禮之若櫻宮、治天下也。

伊邪本和氣命(履中天皇)が坐した伊波禮の地の「若櫻」である。今度は「井」が付かない。

伊波禮は神倭伊波禮毘古命が坐した、由緒ある地である。図を再掲する。

既に比定した場所を示しているが、「若櫻」の表記と如何に繋がるかであろう。

上記と同様に「櫻」=「木+貝+貝+女」=「池の傍らで二つの谷間に田を並べたところ」と解釈すると…、
 
若(少しばかり)|櫻(二つの谷間に田を並べたところ)


…と紐解ける。

大河の金辺川と呉川が作る「貝」である。この二つの谷間が合流する近傍であると解る。

この地も見事に「櫻」の「女」を表している。そこに「井」がなかった。と言うか、おそらく当時はかなり大きく広い範囲の「津」の場所であったと思われる。

「若」の意味は、田を並べ始めた、という意味であろう。伊波禮の地であって呉川の谷間の入口付近と思われる。

現地名香春町鏡山と上高野との境界付近、下図中JR九州日田彦山線と国道201号線が交差する近隣と推定される。宮の在処は、おそらく上高野(大字高野)に含まれるところかと思われるが、不詳である。

――――✯――――✯――――✯――――

例示した三つの「櫻」は姿・形こそ違え、文字を構成する要素の求めるところを満たす地形であることが解った。まだまだ落ち毀れている文字もあろうが、弛まずに・・・。





 

 


2019年1月19日土曜日

大毘古命之子:比古伊那許士別命 〔307〕

大毘古命之子:比古伊那許士別命


前記に引き続き大倭根子日子國玖琉命(孝元天皇)の段であるが、穂積一族の後裔となる大毘古命には幾人かの御子が誕生したと記述される。それぞれ出来が良かったのか、祖が付加される。後に大毘古命と相津で出会う建沼河別命は既述を参照願うとして、もう一人の「比古伊那許士別命」について述べてみようかと思う。

古事記原文…、


大倭根子日子國玖琉命、坐輕之堺原宮、治天下也。此天皇、娶穗積臣等之祖・內色許男命、此妹・內色許賣命、生御子、大毘古命、次少名日子建猪心命、次若倭根子日子大毘毘命。三柱。・・・<中略>・・・其兄大毘古命之子、建沼河別命者、阿倍臣等之祖。次比古伊那許士別命。此者膳臣之祖也。

「比古伊那許士別命」の居場所については既に求めたのであるが、それも含めて以下に記載する。
 
比古伊那許士別命
 
<比古伊那許士別命>
「比古伊那許士別命」は上記の建沼河別命とは異なり地元に密着した生業であったろう。その居場所を突き止めてみよう。ほぼ既出の文字列と思われる。

「許」=「もと、傍ら」として一気に紐解くと…比古「伊那許士別」命は…、
 
伊(小ぶりな)|那(整える)|許(傍ら)|士(蛇行する川)|別(地)

…「小ぶりだが蛇行する川の傍らに整えられた地」で田畑を並べ定めた命と紐解ける。

春日の地では、珍しくゆったりとしたところを指し示していると思われる。それにしてもこの地の谷間は狭く、邇藝速日命の子孫、穂積一族が切り開きつつあった地に神武一家が侵出したのであろう。

ともかくも大坂山山麓である春日の地は狭い故に「伊」が付いた表現となっている。それを忠実に記述していると思われる。

それはさて置き、その場所は図に示したところ、現在の川の蛇行からの推定ではあるが、土地の傾斜、谷間の広さからも十分に推定できるものではなかろうか。
 
<膳臣>
膳臣之祖となったと記される。世界大百科事典によると・・・、

――――✯――――✯――――✯――――

かしわでうじ【膳氏】:古代の豪族。《日本書紀》では孝元天皇の皇子大彦命を祖とし,《古事記》では大彦命の子比古伊那許士別命(ひこいなこしわけのみこと)を祖としている。

《高橋氏文》によれば,磐鹿六鴈命(いわかむつかりのみこと)(大彦命の孫)は,景行天皇の東国巡幸に供奉,上総国において堅魚や白蛤の料理を天皇に献上し,その功により以後永く天皇の供御に奉仕することを命ぜられ,また膳臣の姓を賜ったという。《日本書紀》にも類似の記事がある。

――――✯――――✯――――✯――――

・・・とのことである。

がしかし、地形象形している筈である。「膳」=「月+善」と分解される。更に「善」=「羊+訁訁」である。地形を表す文字にまで分解されることが解る。即ち「膳」は…、
 
谷間が広がるところにある山麓の三角州の傍らに耕地がある

…地形を表していると紐解ける。「月」=「山麓の三角州」、「羊」=「谷間が広がるところ」、「言」=「大地を切り開いて耕地にする」の安萬侶コードである。

上図に示した通り、比古伊那許士別命が居た場所を示し、「膳」は地形に基づく命名であると思われる。現在は田川地区の水道設備が立ち並び大きく変化しているが、地形としては十分に読み取れるようである。

文字の構成が月讀命に類似する。複数の枝稜線の間に流れる谷川が合流し州を作るところが稲穂の稔る地となっていた、水田稲作の原風景であろう。それにしても「膳」に含まれる地形象形の文字の豊かさに驚かされた、「讀」どころの騒ぎではなかった・・・。


2019年1月17日木曜日

大倭根子日子國玖琉命(孝元天皇):大毘古命・少名日子建猪心命 〔306〕

大倭根子日子國玖琉命(孝元天皇):大毘古命・少名日子建猪心命


大倭根子日子國玖琉命(孝元天皇)が穗積臣等之祖・內色許男命、此妹・內色許賣命を娶って誕生したのが大毘古命、少名日子建猪心命そして次期天皇となる若倭根子日子大毘毘命(開化天皇)の三人と記載される。

邇藝速日命の子孫である穂積臣との婚姻が初めて成立したのである。神倭伊波禮毘古命が宇陀で遭遇した兄宇迦斯・弟宇迦斯(邇藝速日命の子孫の物部一族と解釈した)、そして登美能那賀須泥毘古との再度にわたる戦いを経て伊波禮の地に坐して以来、邇藝速日命の本拠地に侵出することはできなかった。

時が流れたこともあろうが、やはり葛城の地を切り開き、豊かな財源を手にしたことが最も大きな役割を果たしたであろう。既に彼らは淡海近くに至るまでを稲穂の地に変えつつあったと推測される。

内色許男命とは、葦原色許男を思い起こさせる命名であろう。その地の中心に居たことを示しているように思われる。神武一家の黎明期、そのものであろう。そんな背景の中での娶りであったと推測される。

古事記原文…、

大倭根子日子國玖琉命、坐輕之堺原宮、治天下也。此天皇、娶穗積臣等之祖・內色許男命、此妹・內色許賣命、生御子、大毘古命、次少名日子建猪心命、次若倭根子日子大毘毘命。三柱。又娶內色許男命之女・伊賀迦色許賣命、生御子、比古布都押之信命。又娶河內青玉之女・名波邇夜須毘賣、生御子、建波邇夜須毘古命。一柱。此天皇之御子等、幷五柱。故、若倭根子日子大毘毘命者、治天下也。其兄大毘古命之子、建沼河別命者、阿倍臣等之祖。次比古伊那許士別命。此者膳臣之祖也。比古布都押之信命、娶尾張連等之祖意富那毘之妹・葛城之高千那毘賣、生子、味師內宿禰。此者山代內臣之祖也。又娶木國造之祖宇豆比古之妹・山下影日賣、生子、建內宿禰。此天皇御年、伍拾漆。御陵在劒池之中岡上也。

御子の誕生も多くなって来る。紐解き不十分と感じられるところを述べてみよう。大毘古命、少名日子建猪心命を取り上げることにする。
 
少名日子建猪心命
 
「少名」は、既出の少名毘古那神とこの命のみに使われる以外に登場しない。「少名日子建猪心命」の名前は何を伝えているのであろうか?・・・。少名日子建猪心命」は…、
 


<少名日子建猪心命>
少名(田を持たない)|日子(稲)|建(勇猛な)|猪心(突進する気性の)|命

…「稲の田を持たず勇猛な突進する気性の命」のように紐解ける?・・・。

がしかし、果たしてそんな人物評価のような記述をするであろうか?…古事記で読めないところは日本書紀から類似の名前を抜き出す(例えば少彦男心命)…益々混乱の極みに・・・。

少名毘古那神と同様に地形を表していると思われる。
 
少(僅かな)|名(山麓の三角州)|日子(稲)|建(作り定める)
猪(山稜が寄集る谷間の台地)|心(真ん中)|命

…「僅かな山麓の三角州で稲を作り定め、山稜が寄集る谷間の真中に坐す命」と紐解ける。

「少名」は少名毘古那神に類似する。「猪」=「犭+者」と分解される。「犭」=「口の出ている猪」、「者」=「台上に柴を集めて火を焚く」様を表していると解説される。この象形から「山稜が寄集ってできる谷間の台地」と紐解いた。

雄略天皇紀に登場する赤猪子に含まれる。「猪子」=「山稜が寄集ってできる谷間の台地の登り口」を表しているとした。紐解ければ、母親の内色許賣命の近隣、その地の詳細を伝えていることが解る。邇藝速日命の子孫、穂積臣の流れを汲む地に生まれた御子である。

赤村内田山ノ内と壱岐市仲触の地形、共に狭く短い谷間が特徴のところであろう。辛うじて形成されている山麓の三角州の地形を活用して稲を育てていたと推察される。

<大毘古命>
眞名」のようにしっかりとした三角州ではないところ、それを「少名」と表現したと解釈される。
 
大毘古命

「大毘古命」とは…上記とは全く正反対に…何とも簡単な命名であるが、それだけに確信の持てる場所を求めることが困難な状況に陥る。

そこで「大=大きな」ではなく、前記で紐解いた「大」=「大坂山」とすると、その南麓の山の中に居場所が見出せる。

後に大活躍をされる命であるが、出自の情報は無い。呆気ない命名であり、検証する記述も見当たらない。

とは言え、この地以外に求めることは困難な山麓深くに入ったところである。現地名は、田川郡香春町柿下と赤村内田の境に位置する。

また大毘古命の御子に「比古伊那許士別命」が居たと告げられている。娶り関係は不詳のようである。ここに記されている「建沼河別命」後に現れる御眞津比賣命」と母親不詳の御子が居て、かつ皇統に絡んで来る。事績もさることながら、確かに大物風の命であったと推測される。
 
<比古伊那許士別命>
比古伊那許士別命
 
「比古伊那許士別命」は、兄の建沼河別命とは異なり地元に密着した生業であったろう。その居場所は、現在の蛇行する川の有様から求めたが、再掲すると…、
 
伊(小ぶりな)|那(整えられた)|許(傍ら)|士(川の蛇行)|別(地)

…「蛇行する川の傍らの小ぶりだが整えられた地」で田畑を並べ定めた命と紐解ける。

春日の地では珍しくやや広くゆったりとしたところを指し示していると思われる。それにしてもこの地の谷間は狭く、邇藝速日命の子孫、穂積一族が切り開きつつあった地に神武一家が侵出したのであろう。

ともかくも大坂山山麓である春日の地は、狭い故に「伊」が付いた表現となっている。それを忠実に記述していると思われる。

感想はさて置きその場所は図に示したところ、現在の川の蛇行からの推定ではあるが、土地の傾斜、谷間の広さからも十分に推定できるものではなかろうか。

<膳臣>
膳臣之祖となったと記される。世界大百科事典によると・・・、

――――✯――――✯――――✯――――

かしわでうじ【膳氏】:古代の豪族。《日本書紀》では孝元天皇の皇子大彦命を祖とし,《古事記》では大彦命の子比古伊那許士別命(ひこいなこしわけのみこと)を祖としている。

《高橋氏文》によれば,磐鹿六鴈命(いわかむつかりのみこと)(大彦命の孫)は,景行天皇の東国巡幸に供奉,上総国において堅魚や白蛤の料理を天皇に献上し,その功により以後永く天皇の供御に奉仕することを命ぜられ,また膳臣の姓を賜ったという。《日本書紀》にも類似の記事がある。

――――✯――――✯――――✯――――

・・・とのことである。

がしかし、地形象形している筈である。「膳」=「月+善」と分解される。更に「善」=「羊+訁訁」である。地形を表す文字にまで分解されることが解る。即ち「膳」は…、
 
谷間が広がるところで山麓の端にある三角州の傍らの耕地

…を表していると紐解ける。「月」=「山麓の三角州」、「羊」=「谷間が広がるところ」、「言」=「大地を切り開いて耕地にする」の安萬侶コードである。

上図に示した通り、比古伊那許士別命が居た場所を示し、「膳」は地形に基づく命名であると思われる。現在は田川地区の水道設備が立ち並び大きく変化しているが、地形としては十分に読み取れるようである。

文字の構成が月讀命に類似する。複数の枝稜線の間に流れる谷川が合流し州を作るところが稲穂の稔る地となっていた、水田稲作の原風景であろう。

若倭根子日子大毘毘命(開化天皇)の出番がやって来る。その周辺はすっかり固められていたのであろう。邇藝速日命の血統を受け継ぎながら、皇統は着実に浸透して行ったと伝えている。




2019年1月15日火曜日

大倭帶日子國押人命(孝安天皇):忍鹿比賣命の御子・大吉備諸進命 〔305〕

大倭帶日子國押人命(孝安天皇):忍鹿比賣命の御子・大吉備諸進命


神倭伊波禮毘古命(神武天皇)の後を引き継いだ神沼河耳命(綏靖天皇)が葛城に居を構えて、この干からびた地を豊かな緑の地に変えようと努めた。その努力の結果が漸く稔ろうとした時の天皇と伝えている。大倭帶日子國押人命(孝安天皇)が坐した宮の名称を「秋津嶋宮」と記され、伊邪那岐・伊邪那美が生んだ大倭豐秋津嶋(別称:天御虛空豐秋津根別)を引継ぐものかと思われる。

天神一家が「天」から移住する目的地に子孫が漸く辿り着き、根を生やせる時が訪れたのである。従来では綏靖天皇から開化天皇までを欠史天皇とし、彼らが坐した場所、葛城の地に因んで別の王朝、葛城王朝などと称する説もあるくらい、正統の天皇家とは一線画すような解釈もある。全くの筋違いであろう。大倭帶日子國押人命(孝安天皇)の時こそ見逃してはならない重要な意味を示していると思われる。

古事記原文…、


大倭帶日子國押人命、坐葛城室之秋津嶋宮、治天下也。此天皇、娶姪忍鹿比賣命、生御子、大吉備諸進命、次大倭根子日子賦斗邇命。二柱。故、大倭根子日子賦斗邇命者、治天下也。天皇御年、壹佰貳拾參歲、御陵在玉手岡上也。


大吉備諸進命

<吉備国>
「吉備」とは?…伊邪那岐・伊邪那美が生んだ「吉備兒嶋」に隣接する場所として間違いないであろう。

鬼ヶ城・竜王山の山塊に囲まれたところと推定される。この地の詳細は後に多くの登場人物によって示されることになる。

かの有名な倭建命(小碓命)は竜王山・鋤先山の麓が出自の場所と比定することになる。


「大吉備諸進命」の名前…諸々取進める…やることが沢山あったであろう、苦労を背負った御子の様子を伺わせる命名か?…である。

それが次に繋がることを心に秘めていたのであろう。祖となる記述はない・・・。

…と、憶測して解釈することもできそうであるが、やはり彼の居場所を表しているのではなかろうか。各文字を地形象形としては、如何に紐解くか?・・・。

「諸」=「言+者」と分解すれば「言」=「大地を耕地にする」であり、「者」=「山稜が交差する麓」とする。孝元天皇の御子少名日子建猪心命、仲哀天皇紀の伊奢沙和氣大神更には雄略天皇紀に登場する引田部赤猪子に含まれる「者」に共通する解釈である。

また「進」=「辶(交差する)+隹(鳥)」であるから「山稜の[鳥]の形が交差する」と読取れる。後の大雀命(仁徳天皇)の「雀」に類似する解釈である。「大吉備諸進命」は…、
 
大(山頂が平らな)|吉備|諸(山稜が交差する麓を耕地にする)
進([鳥]の形が交わる)|命

…「吉備にある山頂が平らな山稜の稜線が交差する麓を耕地にし、[鳥]の形が交わるところに坐した命」と紐解ける。

とすると、出自が大倭帶日子國押人命の姪と記される母親、忍鹿比賣命の居場所が見えて来たのである。御子の場所とは西田川の対岸に当たるところと思われる。
 
忍(一見では解らない)|鹿([鹿]の形)

…「一見では解り辛いが鹿の角の形をした山麓」と紐解ける。麓の現在の八幡宮辺りではなかろうか。

<大吉備諸進命・忍鹿比賣命>
大倭帶日子國押人命の姪であるから兄の天押帶日子命の比賣となろう。大活躍をされた兄が祖となった地名には出現しないが、あり得ないことではない、と思われる。

御子の名前から母親の居場所が求められるのは何度か遭遇する場面と言える。いずれにせよ凄まじいばかりの地形象形である。だが、紐解ければ納得の記述のように思われる。

鉄の産地、鬼ヶ城に限りなく近接する場所である。祖となる記述はあるが、皇統に絡む娶りは出現しない。比賣が御子を育む場所ではなかったのかもしれない。

神倭伊波禮毘古命以来の吉備国への侵出ではあるが、吉備国が言向和されるのは次期孝霊天皇紀であったと伝えている。大事なことは、目が吉備…鉄…に向いていること。その確保が確立するのは仁徳天皇紀まで待たねばならなかったようである。

古事記は唐突に記述しながら、実は着実に物語が進行していることを登場人物の名前で伝えているのである。見逃してはならないところである。

――――✯――――✯――――✯――――

御眞津日子訶惠志泥命(孝昭天皇)の御陵

一代前の御眞津日子訶惠志泥命(孝昭天皇)の御陵について述べる。「博多山」と記されるのであるが、現在では馴染みのある名称なのだが、これの地形象形は如何なるものであろうか?…間違いなく現在の「福智山」かと思われるが、紐解いた結果を以下に記す。
 
<掖上博多山>

頻出の「多」は、やはり「山麓の三角州が並ぶ」様を象形しているのであろう。すると…、
 
博(遍く広がる)|多(山麓の三角州が並ぶ)|山

…山頂から延びる山稜の端に遍く三角州が広がる様を表したと思われる。多くの山稜と谷間が織り成す自然の造形美であろう。それを捉えた巧みな表現である。

福智山山塊中の最高峰でかつ山頂が広く幾つかの峰が集まった形状をしている。御陵は「鈴ヶ岩屋」辺りかもしれない。

――――✯――――✯――――✯――――
1/12、梅原猛氏が逝去された。哲学から古代を紐解こうとされた稀有な方であった。心底、ご冥福を祈る。合掌

――――✯――――✯――――✯――――



2019年1月11日金曜日

大倭日子鉏友命(懿徳天皇)の御子:多藝志比古命 〔304〕

大倭日子鉏友命(懿徳天皇)の御子:多藝志比古命


第四代大倭日子鉏友命(懿徳天皇)の娶りが記述される。実に簡単な内容であるが、次期の天皇となる御眞津日子訶惠志泥命(孝昭天皇)と多藝志比古命の二人が誕生したと伝える。そして、この次男の命の子孫が各地に散らばった様子も併記されている。

簡単な記述であるがゆえに解読は曖昧さを伴うのであるが、後段で記載される情報を併せて紐解くことにする。既に述べたところではあるが、加筆・訂正を行ってみよう。

古事記原文…、

大倭日子鉏友命、坐輕之境岡宮、治天下也。此天皇、娶師木縣主之祖・賦登麻和訶比賣命・亦名飯日比賣命、生御子、御眞津日子訶惠志泥命、次多藝志比古命。二柱。故、御眞津日子訶惠志泥命者、治天下也。次當藝志比古命者、血沼之別、多遲麻之竹別、葦井之稻置之祖。天皇御年、肆拾伍歲、御陵在畝火山之眞名子谷上也。

大倭日子鉏友命は輕之境岡宮に坐して二人の御子を授ける。その母親の名前、居場所など、当初の紐解きに結構な時間を費やしたことを思い出す。遠い昔のことと流して、先に目をやると、「多藝志」の文字がある。

母親の居場所も含めて再掲すると・・・。

師木縣主之祖・賦登麻和訶比賣命

師木縣主之祖・賦登麻和訶比賣命を娶り二人の御子を儲ける。次男が「多藝志比古命」と言う。珍しく末子相続ではなかったと伝える。「多藝志」出雲国之多藝志之小濱多藝志美美で出現したところであろう。すると母親の居場所もその近隣ではなかろうか?…何故、出雲?…唐突な出雲の出現は何を意味するのであろうか。前後の記述には一見して出雲と関連する言葉は見当たらない。

が、母親の名前に隠されていた。少々通説に引き摺られて「賦登(肥or太)|麻和訶(真若)|比賣命」などと紐解き、気にはなったが、これでは地形象形とは無縁の表現となってしまう。しっかり文字解釈をしてみると…、
 
賦登(登りを与える)|麻(狭い)|和(しなやかに曲がる)|訶(谷間の耕地)
 
<多藝志比古命・賦登麻和訶比賣命>
…「登りがあって狭くしなやかに曲がる谷間の耕地があるところ」に坐した比賣命と読み解ける。

「比賣」=「田畑を並べて生み出す女」の解釈を付加することもできる。

また別名が「飯日比賣命」と記される。「飯」=「食+反(山麓)」更に「食」=「山+良(なだらかな)」として、讚岐國謂飯依比古飯野眞黑比賣などの「飯」と同様に解釈する。

「日」=「火:三つの火頭」を意味すると思われる。同じような大きさの山が三つ並んでいる様を表している。

神倭伊波禮毘古命の段で登場した畝火山の「火」(現香春一ノ岳、二ノ岳、三ノ岳)の表現と同じと解釈できる。

「飯日比賣命」は…、
 
飯(なだらかな山稜の麓)|日(三つ並ぶ山)

…の傍らに坐した比賣命と紐解ける。最も西側にある山は大国主命が建御雷之男神に「言向和」され、多藝志の宮で大宴会の料理を準備した「櫛八玉神」で登場した山である。

「賦登麻和訶比賣命」は玉の山の麓で輪になったところの近くを登った場所に坐していたと読み解ける。現在の貴布祢神社がある辺りではなかろうか。大国主命が隠居した場所と重なるようでもあるが、定かではない。
 
<俯瞰図>
「多藝志」は「美美」を付加する場合も含めると、それなりの頻度で登場する地名である。淡海に面して早くに切り開かれた地であったと推測される。

人名に潜められた地形、その捻れた表現に今尚戸惑いは隠せない有様である。

が、これこそ古事記というものであろう。

賦登麻和訶比賣命には「師木縣主之祖」と冠される。その子孫が師木で繁栄したのであろう。出雲の地から広がって行った天皇家の有様を伝えている。

葛城の「軽之境」に居を構えて広大な土地の開墾に手を付けたが御子を養うには、未だ至ってなかった。大規模になればなるほど時間がかかる、手間もかかるリスクとリターンの兼合いである。

土地の開発は先行投資とそれが財源となるまでのタイムラグを如何に埋め合わせるかであろう。思いを込めたビジョンが代々に引き継がれてこそ漸くにして大きな富が生まれるのである。
 
――――✯――――✯――――✯――――

常根津日子伊呂泥命

少し話が遡るが、前記の安寧天皇には長男の「常根津日子伊呂泥命」が居た。たった一度だけ登場するだけで何らの記述もないが、文脈を辿れば、彼こそ、その後裔も含め、天皇の地に居付き、その亡き後もその地を開拓していったと推測されるのである。常世国の「常」=「大地」として…、
 
(大地)|(山稜の端の[根]の形)|津(集まる)
 
<常根津日子伊呂泥命>
…「根のような山稜の端が集まった大地」と紐解ける。「伊呂泥」は…、
 
伊(僅かに)|呂(背骨の形)|泥(水田)

…と紐解ける。全体を通してみると「根のような山稜の端が集まった大地に僅かに背骨の形をした水田がところ」に坐した命と解釈される。

彦山川、弁城川、中元寺川が合流する近傍であって、肥沃な泥に恵まれた場所であることを示している。福智町弁城の迫という地名である。

父親である天皇の思いを遂げるために土地を耕し切り開いていく役割を担った、表の歴史に埋もれた人材であったと思われる。

上記の川縁を如何に活用するかが葛城の命運を大きく左右したであろうし、また、それには多くの時間と労力を要したのであろう。各天皇は臣下の者にその役割を与えたのであろうが、息子に託せればそれに越したことは無い。ポツンと現れた歴史の雲間の太陽である。

――――✯――――✯――――✯――――
 
多藝志比古命

「多藝志比古命」の活躍の場所を見てみよう・・・「當藝志比古命者、血沼之別、多遲麻之竹別、葦井之稻置之祖」と記述される

どうやら「多藝志」出雲の北端から一直線に南下である。「血沼」「多遅麻」「葦井」共に初出である。前二者は後に関連する地名として記述される。それを引用する。

❶血沼之別
 
<血沼之別>
既報の血原・血沼・血浦で解読したが再掲すると・・・。

「血沼」は現在の福岡県北九州市小倉南区沼辺り、倭建命の東方十二道遠征で出現した「相武国に当たるところと思われる。

倭建命が「言向和」では効かず血祭りにして名付けた沼の名称である。

この地は船で南下する時には重要な拠点となる。現在の焼津も主要漁港の一つである。良くできた繋がり、錯覚が生じる筈であろう

左図に示した通り、高蔵山の山麓に血が吹き出し流れているように見える諸々とした稜線がある。

後に登場する「血原」も全く同様の地形を示している。全て主役が歯向かう者共を血祭りに上げる場面で登場である。急峻な崖にできる特異な地形でもある。それを捉えて用いたのであろう。

❷多遲麻之竹別
 
<多遲麻之竹別>
「多遲麻之竹」の「多遅麻」は垂仁天皇紀の「鵠」の探索で出現する木国から高志国まで一連の国に含まれる。

稲羽国と旦波国の間にある地と推定した。音無川と城井川に挟まれたところ、現在の築上郡築上町の一部に当たる。

英彦山山系の枝稜線が大きく延びた、その先端に当たるところである。山稜と言うより既に丘陵の様相を示し、長く連なる地形である。

この細長く延びたところが無数に並ぶ姿を細く真直ぐに生える「竹」(林)に模したと推測される。同じ地形が「旦波国」にも見られるが、後に旦波の竹野として登場する。

更に後の宗賀一族にも小貝王(別名竹田王)現れる。山稜の端が細長く真っすぐに延びた谷間を切り開いた地形を示すと思われる。「多遲麻之竹別」も同様の地形を表していると読み解ける。安萬侶コードは「竹=細長い地形」である。

少し内陸部に入り込んだところに、現在の地名「弓の師」(築上郡築上町)と記載されている。現在も大きな面積を占める地名であり、その由来を知りたいところであるが、不詳である。「弓=竹」と置換えられそうではあるが・・・。
 
多遲麻
 
<葦井之稻置>
初登場であり、この後頻出する「多遲麻」を紐解いておこう…、
 
多(山麓の三角州)|遲(治水された)|麻(擦り潰された)

…「山麓の三角州が治水されて擦り潰された地」と紐解ける。

谷川に挟まれて長く延びた山稜の端に治水され、整地された田がある場所を表していると解釈される。

当時の水田稲作に最も適した地形ではなかろうか。草創期に開発された地(国)であったと古事記が伝えている。

❸葦井之稻置

「葦井」葦(ヨシ)と読む。たった一度の登場で、しかも国名らしきものも付加されていない。困ったものだが、古事記読者にとっては周知の地名なのかもしれない。これまでの記述で登場し、「多遅麻」の南方にあるのは「木国」である。

<多藝志比古命(祖)>
その地の範囲も決して明確ではないが、地図を探索すると・・・山国川と佐井川に挟まれたところに大ノ瀬大池がある。小高い山稜に囲まれた池のように見受けられる。

「葦」=「艹+韋」と分解される。「韋」=「圍=囲」の意味とすると…「葦井」は…、
 
囲われた水源(池)

…と読み解ける。葦原中国葦原色許男の「葦」であろう。

木国に関する記述例は少ないが節目節目に登場する主要地点である。建内宿禰の出自に関連するが、もう少し後に記述することになろう。

祖の地を纏めた図を眺めると海路を使った盛んな交流を示しているようである。また「祖」となった記述も違和感なく受け入れることができると思われる。通説は出雲(島根)から相武国(神奈川)辺りに広がるが、神話の世界で片付けるにも、やはり無理であろう。

當藝志比古命」の名前が表すように蛇行する川(志)を活用した治水の技術を保有していたと思われる。その先進技術を持ってこの地の祖となったのであろう。出雲の血が拡散し繋がりが増えていく。出雲が主役の場面は無くなって行くが、古事記の中で常に根底に流れる国という扱いである。神様も含めて・・・。

先々代、先代と変わらない短命さで亡くなる。御陵は畝火山之眞名子谷上とある。リンクを参照願う。「天之眞名井」で出現した真名=正に三日月の形をした州の地と解釈した場所である。

――――✯――――✯――――✯――――

懿徳天皇の冒険、その目の付け所は確かに当たっていたようである。現在の地形を見ても福智山西麓を占める広く豊かな田園地帯を形成している。

がしかし、それは多くの時間と労力が注ぎ込まれた後であって当時はほんの少しばかり手が付いた状態であったろう。若くして世を去った天皇、日嗣の御子はどんな決断をするのであろうか・・・欠史から読み取る歴史、なかなか興味深い、ホンマに欠史か?・・・。

――――✯――――✯――――✯――――

・・・立派な天皇家の歴史が語られているようである。