2018年12月5日水曜日

淡海之多賀と出雲國之多藝志之小濱 〔290〕

淡海之多賀と出雲國之多藝志之小濱

伊邪那岐命についてWikipediaには…、

和銅5年(西暦712年)編纂の『古事記』の写本のうち真福寺本には「故其伊耶那岐大神者坐淡海之多賀也」「伊邪那岐大神は淡海の多賀に坐すなり」との記述があり、これが多賀大社の記録だとする説があるが、『日本書紀』には「構幽宮於淡路之洲」「幽宮を淡路の洲に構りて」とある。つまり国産み・神産みを終えた伊弉諾尊が、最初に生んだ淡路島の地に幽宮を構えたとある。そもそも後の近江は淡海ではなく近淡海と書くこともあり、真福寺本の「淡海」は「淡路」の誤写であった可能性が高いと考えられる。

…と記載されている。古事記及び日本書紀に対する歴史学の認識の稚拙さが凝縮された表現であろう。「そもそも後の近江は淡海ではなく近淡海と書くこともあり」このエエ加減な解読を放置して、古事記を論じることは学問とは如何なるものか、全く理解されていないことを示す。

これを根拠に「誤写」説を導く。既に明記したように古事記は明確に「淡海」と「近淡海」を区別して記述しているのである。日本書紀では「淡海」は、筑紫に関わる人名、地名以外に記載されることはない。「淡海」及び「近淡海」を無差別に「近江」と書換えていることが明らかである(詳細はこちら)

史料批判を通じて対象の確からしさを求め、解読する姿勢は古田氏が魏志倭人伝解読で示した通りである。故に一気にこの中国史料の持つ意味が浮かび上がり「九州王朝」の推論にまで達する。この当たり前の学問としての手法が未だに、一説として扱われていることに、日本の古代史学は学問に成り切れていない、吉備兒嶋のようなものと断じた。

誤解なきように、あくまでその手法なのであり、解読結果が真実を突止めているかは別問題である。地図の無い時代に漢字のみにて対象の場所を特定するには限度があろう。種々の解釈が発生しても止む終えないことである。中国史料の記述は短く、それに基づく曖昧さもある。繰返し述べたように古事記は同一場所を異なる表記で幾度となく登場させる。これでもか、これでもか、である。

その古事記の写本の解読に困り果て、と言うか都合が良くない故に「誤写」と片付けてしまう。現存する地名との一致、もしくは類似で場所を特定するならば、現存する地名そのもの由来(名付けの根拠)を明らかにする必要がある。その手続きを略して論じるなど、小説の域にも達しないものであろう。

いずれにしても古事記という類稀な書物を大切に、そして繰り返しその伝えることを論理的に紐解くことである。前書きが長くなり過ぎたが・・・「淡海=近江」のありえなさが頭をもたげて・・・さて、大役を果たした伊邪那岐命が勇退する。

淡海之多賀

「須佐之男命」が出雲(葦原中国)に向かうことで舞台が移る。そして一気に伊邪那岐大神の引退説話に入る。坐したところが「淡海之多賀」とある。通説は島根から宮崎の日向に行ったり、近江の多賀大社に行ったりで大忙しなのだが・・・「淡海」=「関門海峡」として「多賀」は何と解釈するか?・・・。

「多」=「夕+夕」であり、「夕」=「三日月の象形」(下図の甲骨文字参照)と解説される。「賀」=「加+貝」と分解される。「貝」=「谷間の田」の象形とすると「賀」=「谷間に積重なる田があるところ」と紐解ける。
 
三日月の形の谷間に積重なる田があるところ
 
<淡海之多賀>
…と紐解ける。「多」、「賀」共に頻出する文字である。全て上記と同じく解釈される。

現地名は北から風師・二夕松町・片上町の端境と推定される。現在は宅地になっており、当時を偲ぶことは叶わないようである。

その谷間を望む場所、風師神社辺りが伊邪那岐大神のシニアライフの場所ではなかろうか。

現地名「二夕松町」由来は不詳であるが、関連しているようでもある。

地名「多賀」の発祥の地は間違いなくこの地であったと思われる。

だが、現在の地形から推察するのみであるが、当時は今よりも更に急傾斜の山麓の地であり、平地は極僅かである。

「大斗」の出雲国のみが辛うじて平坦な地形「葦原中国」を有していたと思われる。そこに古事記の「物語」は集中するのである。

伊邪那岐達の第一陣部隊はこの地に降下した。多くの人の生と死を乗越え、生きるために不可欠な様々なものを整える為には、また、多くの犠牲を払ったのである。ともあれ三貴神…約一名には気掛かりなところもあるのだが…に後を託して勇退した、と言うことであろう・・・。


出雲國之多藝志之小濱

後に大国主命がその任務を果たせず隠居した先は「出雲國之多藝志之小濱」と記される。「多藝志」は…、
 
([月]の地形)|(果てる)|(之:蛇行した川)

<多藝志之小濱>

…「連なる[月]形の入江が果てて蛇行した川があるところ」と紐解ける。名称は不詳だが、櫛八玉神の東麓の深い谷を流れる川がある。

「多」の文字解釈に変更を加えることなく読み解くと、「淡海」と「出雲」が繋がることが導かれる。

無理矢理出雲に送り込まれ、国造りに悩み、挙句には「大国主」と言う名前を授かりながら、出雲全体を統治することは叶わなかった。

伊邪那岐命と同じく葦原中国の隅っこにその亡骸を埋めることになったと伝えているのである。勿論通説は不詳とせざるを得ない。そうなるように日本書紀は改竄した。淡海と出雲が繋がっては、一大事なのである。

日本書紀の無節操で姑息なやり方とそれに靡く取巻き連中の存在に、昨今の国の状況及び自動車会社の元会長の件が重なる。現実は、現実として、これも日本人の一つの側面であることに間違いなかろう。

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「古田史学の会・東海」のサイトで例によって会報が公開されているのを拝見した。名古屋市の石田泉城氏が「天安河=谷江川」とされ、推論の方法は異なれど本ブログと同じ帰結であると知った。大変参考になった論拠が示されている。興味のある方は、一読されたし。