2018年11月16日金曜日

水蛭子・淡嶋・天沼矛・淤能碁呂嶋 〔282〕

水蛭子・淡嶋・天沼矛・淤能碁呂嶋


伊邪那岐・伊邪那美の「国(島)生み」は、古代の大陸(プレート)の移動と気候変動に依存する海水準の変化を表わしているのではないか、と考察した。詳しくはこちらを参照願うが、現在の日本海がアジア大陸の内海であって、その海水準が上昇していく状態を述べていると解釈した。

即ち現在の対馬海峡の海水準の上昇(海進)によって、海底に聳える山が島となって行く様を国生みと称したと考えたわけである。対馬を除き、概ね海深20mに海水準が達した時より陸続きの日本列島から次第に切り離されて孤立した島となって行くのであるが、注目すべきは海深5m前後の島の状態を記述していると推察した。

そうなって来ると伊邪那岐・伊邪那美が生んだ島だが数には入れないと断り書きした意味を紐解きたくなる。生んだ島との相違は何であるか、単に海進だけで納得行く説明は可能なのであろうか、と言う課題である。

早速、紐解いてみよう・・・。古事記原文は…、

於是天神、諸命以、詔伊邪那岐命・伊邪那美命二柱神「修理固成是多陀用幣流之國。」賜天沼矛而言依賜也。故、二柱神、立訓立云多多志天浮橋而指下其沼矛以畫者、鹽許々袁々呂々邇此七字以音畫鳴訓鳴云那志而引上時、自其矛末垂落之鹽累積、成嶋、是淤能碁呂嶋。自淤以下四字以音。


如此之期、乃詔「汝者自右廻逢、我者自左廻逢。」約竟廻時、伊邪那美命、先言「阿那邇夜志愛袁登古袁。此十字以音、下效此。」後伊邪那岐命言「阿那邇夜志愛袁登賣袁。」各言竟之後、告其妹曰「女人先言、不良。」雖然、久美度邇此四字以音興而生子、水蛭子、此子者入葦船而流去。次生淡嶋、是亦不入子之例。

不慣れな二神が最初に生んだ子は「不良」で、「水蛭子」として海に流してしまったと記される。次の「淡嶋」も彼らの子供とはしない、のである。「淡嶋」は最初の認知された子供となった淡道之穂之狭別嶋の誕生に関連して既に述べたが、「淡嶋」の認知問題の解釈は未達であった。

前記で隱伎之三子嶋及び女嶋(天一根)について海図から、現在は海面下ではあるが、それらの島の周辺の海底の地形を知ることにより命名された名前を紐解くことができた。同様に今回も海底からの地形を含めた考察を行うことにする。


淡嶋

関門海峡付近の海進は複雑であった、と言うか現在の地形からの推定が難しい場所であろう。一例だが図に示したJR下関駅があるところは明らかに大きく広い浅瀬を埋立た地であることが判る。そのような背景を含めて考察してみると、関門海峡は海水準が海深約20m(水色)から開通し始めて10m(黄色)でほぼ現在の地形となると解る。
 
<彦島>
その時点では彦島(かつては引島とも)は本州の一部である。それ以降の海進によって大きく地形が変化したと思われる。

図中右側の水色破線で示した淡嶋と淡道嶋の境界は、おそらく川によって区切られていたのではなかろうか。

川は海進とは無関係に存在するわけで、海深5m前後になった時に淡道嶋として分離独立したと見做すことができる。

現在の下関港がある小瀬戸については当時も川のような状態であったかどうかは不明であるが、海水準が更に進まないと谷の状態、少なくとも東西を結んではいなかったのではなかろうか。

即ち国生みに加えられない「淡嶋」は、島の形状ではあるが本州と微妙に繋がった状態と見做したと思われる。彦島関連の過去の地形については大正時代の地図を参照。


<天沼矛>
国(島)生みをする前に「成嶋」とした淤能碁呂嶋と淡嶋との境界は図中左側の水色破線で示した川で区切られていたのではなかろうか。

海深10m程度に海水準が達したところで既に孤立した島の地形になっていると推測される。

「天沼矛」とは?・・・「天(頭)」が沼の矛であろう。老の山を矛先に見立てた地形象形と思われる。

その先から垂れ落ちた塩が固まってできた島を淤能碁呂嶋と名付けたと述べている。「天」は沼の状態、即ち水辺ではあるが、開通した地形と認識していないことが読み取れる。

淤能碁呂嶋は伊邪那岐・伊邪那美が作った島ではあるが、生んだわけではない。生んだ淡嶋はこの「天沼矛」と一体になっていた。思い通りの島にはならなかったのである。下記の「水蛭子」には、一応理由「不良」が付いているが、淡嶋にはない。いや、付ける必要など全くないのである。


水蛭子

「水蛭子」について何と解釈できるであろうか?…「不良」の記述に基づいて奇形児(胎児)のような説が多く見られる。確かに文字の印象はその通りである。話題は国(島)生みである。島の奇形?…胎児?…上記の「淡嶋」のように微妙な状態を示すとすると、近隣に浮かぶ島を思い付くことができる。
 
<水蛭子>
彦島の西にある六連島・小六連(馬島)である。海深10m程度(黄色)で両島合せて島となるが、海深2m前後(赤色)にならないと離れて独立した島にはならないようである。

淡嶋と同様に微妙な状態にあった島と判る。仁徳天皇紀の歌中で呼ばれた名称を図に示したが、極めて重要な海上交通の要所であったと思われる。

伊邪那岐・伊邪那美が生んだ場所は淤能碁呂嶋であり、そこから流したという記述は正しく符合する場所であろう。両島合わせた形状(黄色)を頭でっかちな蛭(子)に模したのかもしれない。

国(島)生みは、海水準が上昇して海深5m前後のところまでの出来事であり、残り2~3mの上昇で島になっても認知しない…「不良」と告げている。実に神話らしくない(?)精緻な表記ではなかろうか。そして玄界灘、響灘に浮かぶ主要な島は、全て伊邪那岐・伊邪那美が手をかけた島であったことを示しているのである。

国(島)生みの神話は、対馬・関門海峡における海水準の変動で解釈できることが示された。縄文海進及びそれに引き続く地球環境の周期的な変化を考慮せずして古事記は読み解けないことがあらためて明らかになったと思われる。