天津日高日子波限建鵜葺草葺不合命とその御子
本年も最後の投稿になりそうである。思えば昨年の最後は「聖徳太子:上宮之厩戸豐聰耳命 〔146〕」のタイトルであった。厩戸(ウマヤド)で生まれたからの命名…そんな訳がある筈もないのだが、それが罷り通っているのが現実である。
と言うことで、今年も、生まれた時に「鵜の羽で葺いたが間に合わず」の命と読まれる命について述べてみようかと思う。何でこんな名前に?…初代神武天皇の父親なのに?…全く意味不明となろう。
このブログの読者なら、これは間違いなく何処かの場所を示していると思われるであろう。その通り、ある。誕生する御子も含めて竺紫日向および豐国の地に求めてみよう。
古事記原文[武田祐吉訳]…、
是天津日高日子波限建鵜葺草葺不合命、娶其姨・玉依毘賣命、生御子名、五瀬命、次稻氷命、次御毛沼命、次若御毛沼命、亦名豐御毛沼命、亦名神倭伊波禮毘古命。四柱。故、御毛沼命者、跳波穗渡坐于常世國、稻氷命者、爲妣國而入坐海原也。
[アマツヒコヒコナギサタケウガヤフキアヘズの命は、叔母のタマヨリ姫と結婚してお生みになつた御子の名は、イツセの命・イナヒの命・ミケヌの命・ワカミケヌの命、またの名はトヨミケヌの命、またの名はカムヤマトイハレ彦の命の四人です。ミケヌの命は波の高みを蹈んで海外の國へとお渡りになり、イナヒの命は母の國として海原におはいりになりました]
天津日高日子番能邇邇藝命、天津日高日子穗穗手見命、そして天津日高日子波限建鵜葺草葺不合命と三代の「天津日高日子」と冠された名前が続く。日々高くなる稲、その次は稔った稲穂を見張り、そして最後は稲が波のように広がって行く様を表現していると思われる。
「波限」=「那藝佐」と註記される。「日高日子波限」は…、
日高(日々高くなる)|日子(稲穂)|波限(波打ち際)
…「日々高くなる稲穂の波が打寄せる際」と紐解ける。「天」から波が打寄せるように一族が遣って来たことの終着を告げる命名であろう。「鵜葺草葺不合」=「鵜の羽を萱の代わりに使って屋根を葺いたが間に合わず」その通りの意味であり、その地が未開で、物語はこれから始まるという宣言とも受け取れる。
<建鵜葺草葺不合命> |
原文に「鵜羽爲葺草」と記される。「鵜羽」は如何なる地形であろうか?・・・。
「鵜」=「弟+鳥」であり、「弟」=「矛に鞣し革を巻き付けた様」を示すと解説される。
「鵜羽」は…「弟+鳥+羽」と読める。
弟(凹凸の形)|鳥羽(鳥の羽)
…「凹凸のある鳥の羽のような平らな地形」と紐解ける。
甲骨文字は「矛になめし皮を巻き付けた時の凹凸」を示している。羽状の台地があってその縁に凹凸があるところ・・・鹽椎神で登場した場所であろう。かつ、縁に凹凸のある平らな台地が並んでいる地形であり、鹽椎神を挟んで寄り集まることはない。「葺不合」は…、
葺(寄せ集める)|不合(合わず)
…と解釈される。産殿は「其海邊波限」と記されるなら、現在の標高から見積もった上図の羽の中央部付近と推測される(高千穂宮に近い方で西岸とした)。
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余談だが・・・鵜は大きく羽を開いて水気を乾燥させる習性がある。羽の先までが開き、凹凸の様相を示すようである。この象形から「弟」を使ったのではなかろうか。日本では「ウ」であるが、漢字そのものの音は「テイ」である。日本にはいないペリカン鳥を表すが、生態が類似することから当てられた文字であろう。
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名前が紐解けると一層その複雑な立場の御子であることが判る。過渡期に誕生した御子は「天津日高」の地から遠く離れて行くことを示すように命名されたのではなかろうか。豐葦原水穂国へと移り住んでいく彼らの思いを伝えている。当然のことながら次代の名前に「天津」は付かないのである。
図に古遠賀湾に抜けるルートを示した。小高い(標高20数m)山陵を跨ぐと間もなく到着する。火遠理命が抜けた道、そして豐玉毘賣命が実家へと向かったのも同じ道であったろう。「塞海坂」と記述されるところは決め難いが、この山陵を横切るところか、もしくは味御路か、であろう。
玉依毘賣命と御子
叔母の玉依毘賣命を娶って四人の御子が誕生する。「五瀬命、次稻氷命、次御毛沼命、次若御毛沼命、亦名豐御毛沼命、亦名神倭伊波禮毘古命」と記述される。後に登場する二人の英雄「五瀬命、若御毛沼命(神倭伊波禮毘古命)」についてもその出自の場所を求めてみよう。
「御毛沼命」は常世国に、「稻氷命」は母親のところに向かったと伝えられる。常世国は既に登場、壱岐島の勝本町仲触辺りとしたところである。「天」ではなく?…勿論、あの世ではない…何故かは不詳である。母親のところに向かった「稻氷命」の名前を紐解く…実はこの名前が母親・豊玉毘賣命の上記の居場所を突き止める重要なヒントを含んでいた。
稻氷命
「氷」=「冫+水」川に沿って二つに割れた(分かれた)地形象形と紐解く。後に「三川之穂」という地名が登場するが、三本の川によって穂が二つ生じる地形である。後の氷羽州比賣も同様の地形の州を象形したものと解釈した。
稲(稲穂の形)|氷(二つに割れた)
<稲氷命> |
この場所は現在の足立山の南麓、北九州市小倉北区湯川新町・蜷田若園辺りと推定した(参照:現在の川)。
現在の地形は内陸の山麓の地形であるが当時は川と海の入り交じる「綿津見」の地と推測される。
また筑紫嶋の南西端、白日別、豊日別の分岐点である。
古事記が最も重要な地点と述べるところの一つである。残存する「蜷田」の地名に干潟が形成されていたことを伺わせる。
御毛沼命
神倭伊波禮毘古命の本名、若毛沼命である。二人続いての命名となっている。安萬侶コードに従えば…「御毛沼」は…、
…「鱗状の沼を束ねるところ」と紐解ける。
形状変化が想定される沼、池の特定は難しいが、現地名岡垣町手野辺りにそれらしきところが見出せる。
更に鱗片状の沼が二ヶ所にあることが解る。「若」=「小ぶり」、「豐」=「段差がある高台」とすると、一方の「毛沼」は現在の三段池を示していると思われる。
この地が若御毛沼命(神倭伊波禮毘古命)、即ち初代神武天皇の出自のところと推定される。伊邪那岐命が生んだ道之長乳齒神・道俣神が坐した場所でもある。早期に天神達が開いた土地であったと推測される。
五瀬命
となると、共に東に向かいながら不運にも命を落とすことになる五瀬命が坐した場所も突止めておこう。簡単な表記ではあるが、「五瀬」は…、
五(多くの)|瀬(急流)
…「多くの急流があるところ」と読める。現地名の岡垣町高倉の百合野辺りと思われる。
「御毛沼命者、跳波穗渡坐于常世國、稻氷命者、爲妣國而入坐海原也」と記述される。結果的にはこの地には誰も残らなかったことになる。本来なら末っ子の若御毛沼命が引継ぐのであろうが「東に向かう」のである。
出雲の二の舞のようにその地に埋没することなく「天」から離れ東へ東へと進む。それが天神達のミッションなのである。「日向国造の祖」が登場するのは次代の英雄「倭建命」が現れるまで待たされることになる。