大后息長帶日賣命:礒名謂勝門比賣
仲哀天皇(神功皇后)紀の読み解きは、なかなかのもので、古事記編者も力が入っているのか、小難しく記述されている。いや、あからさまにせずに言いたいことを述べるために行った作業なのかもしれない。前回の<筑紫國之伊斗村・御裳之石・淡道之屯家 〔330〕>に追加の地名である。
通説では「筑紫末羅縣之玉嶋里」の場所については、「筑紫」が冠されることから、諸説ある中でほぼ確定的な状況のようであるが、「末羅」の解釈も多様である。中国の史書にある「末盧国」(佐賀県唐津市付近)と見做されているが、本ブログでは無縁の場所のようである。
いずれにせよ、博多湾岸周辺には香椎宮、宇美など古事記関連の文字が見受けられることから考えられたのであろうあが、地名が類似するのは「国譲り」された、と思うべきであろう。奈良大和の状況に似たり寄ったりの地名類似を疑うならば、同じく博多湾岸も疑うのが公平(?)かもしれない。
さて、関連するところを再掲しながら本題を紐解いてみよう・・・。
古事記原文[武田祐吉訳]…、
故其政未竟之間、其懷妊臨產。卽爲鎭御腹、取石以纒御裳之腰而、渡筑紫國、其御子者阿禮坐。阿禮二字以音。故、號其御子生地謂宇美也、亦所纒其御裳之石者、在筑紫國之伊斗村也。亦到坐筑紫末羅縣之玉嶋里而、御食其河邊之時、當四月之上旬。爾坐其河中之礒、拔取御裳之糸、以飯粒爲餌、釣其河之年魚。其河名謂小河、亦其礒名謂勝門比賣也。故、四月上旬之時、女人拔裳糸、以粒爲餌、釣年魚、至于今不絶也。
[かような事がまだ終りませんうちに、お腹の中の御子がお生まれになろうとしました。そこでお腹をお鎭めなされるために石をお取りになって裳の腰におつけになり、筑紫の國にお渡りになってからその御子はお生まれになりました。そこでその御子をお生み遊ばされました處をウミと名づけました。またその裳につけておいでになった石は筑紫の國のイトの村にあります。 また筑紫の松浦縣の玉島の里においでになって、その河の邊で食物をおあがりになった時に、四月の上旬の頃でしたから、その河中の磯においでになり、裳の絲を拔き取って飯粒を餌にしてその河のアユをお釣りになりました。その河の名は小河といい、その磯の名はカツト姫といいます。今でも四月の上旬になると、女たちが裳の絲を拔いて飯粒を餌にしてアユを釣ることが絶えません]
「宇美」、「御裳之石」、「筑紫國之伊斗村」、「筑紫末羅縣之玉嶋里」、「小河」など地名頻出の場面である。前回及びそれ以前にこれらの場所を求めて来た。現在の北九州市小倉北区富野、山門町、赤坂辺りと比定した。「小河」は、おそらく…いや、きっと…「小倉」、「小文字」の由来に関わると思われる。詳細はこちらを参照願う。
その川は「筑紫末羅縣之玉嶋里」を流れていて、その川中に「礒(ゴツゴツとした突き出た岩)」があって、そこで鮎を釣ったと述べている。「其礒名謂勝門比賣」その岩が名付けられていると言うのである。決して比賣の名前ではない。神功皇后が征伐した比賣?…面白くもないフィクション作家もおられるようで・・・。さて、本題に入ろう。
勝門比賣
「其礒名謂勝門比賣也」…「礒」に名前を付ける?…安萬侶くんの戯れ?…ならば「勝門比売」=「勝ち組みの姫」(アラサー、アラツー?女子)とでも、だから姫たちがこぞって真似をした?…かもである・・・と、全くのフィクション・・・あれこれ妄想するのも良いのだが、文字列は何を示しているのであろうか?・・・。
<勝門比賣> |
「勝」=「朕+力」と分解される。更に「朕」=「月(舟)+关」と分解される。
「关」=「両手で物を捧げることを象り、舟形の器で捧げ持った様か、舟の浮力で浮かび上がることを意味、ともにあるものが際立つことを意味した」と解説される。
地形象形的には「三日月(舟)の地形が小高く盛り上がっている様」を表していると解釈できる。
天之常立神が坐したところは現在の壱岐市勝本町として、この「勝」が「常立」に関連すると述べた。ここで再会である。
また「門」は橘小門の「門」であり、その地は伊邪那岐の禊祓で誕生した衝立船戸神の場所と比定した。同じ状況にある海辺に面するところと思われる。
比賣は比賣陀君の比賣であろう。貝の地形が並んでいるところを表していると思われる。纏めると、「勝門比賣」とは…、
谷間に挟まれた山稜の端が小高く盛り上がり傍らに[貝]の地形があるところ
あらためて「礒」を紐解いてみよう。「礒」=「石+羊+我」と分解される。「石」=「山麓の区切られた地」、上記の「羊」=「二つの山稜に挟まれた谷間」である。「我」はずっと後の「蘇我」の表記で用いられることになる。「我」=「ギザギザとした戈(矛)のような地」と紐解ける。「其礒名謂勝門比賣也」と記された通り、「勝門比賣」の地形の別表記であることが解る。