2018年12月1日土曜日

建比良鳥命・天津日子根命 〔288〕

建比良鳥命・天津日子根命


天照大御神と速須佐之男命の宇氣比で誕生した天津日子根命と天菩比命の子、建比良鳥命が祖となった地が列記される。彼らの子孫が広がって行った様子が伺える。とは言え、何とも難解な表記でもある。既に初見の結果を示したが、あらためて纏めてみた。

古事記原文[武田祐吉訳]…、

故、此後所生五柱子之中、天菩比命之子、建比良鳥命此出雲國造・无邪志國造・上菟上國造・下菟上國造・伊自牟國造・津嶋縣直・遠江國造等之祖也、次天津日子根命者。凡川國造・額田部湯坐連・茨木國造・倭田中直・山代國造・馬來田國造・道尻岐閇國造・周芳國造・倭淹知造・高市縣主・蒲生稻寸・三枝部造等之祖也。
[そこでこの後でお生まれになつた五人の子の中に、アメノホヒの命の子のタケヒラドリの命、これは出雲の國の造・ムザシの國の造・カミツウナカミの國の造・シモツウナカミの國の造・イジムの國の造・津島の縣の直・遠江の國の造たちの祖先です。次にアマツヒコネの命は、凡川内の國の造・額田部の湯坐の連・木の國の造・倭の田中の直・山代の國の造・ウマクタの國の造・道ノシリキベの國の造・スハの國の造・倭のアムチの造・高市の縣主・蒲生の稻寸・三枝部の造たちの祖先です]

建比良鳥命

本来は父親の「天菩比命」が出雲国に遣わされて「祖」となる筈なのだが、少々曰くがあって息子になってしまった。後日に記述することになろうが、神話なのだが、俗ぽくって面白いところ。いや、神話ではないかもしれない…。因みに天菩比(全てに秀でた)命=天穂日命である。名前の長さ、長男との格差大である。

1.出雲國造=イズモのコクゾウ

既に頻出の国である。現在の北九州市門司区大里、行政区分上はより細かく分かれているが、代表的な地名で表す。「意富」「大」「多」などと表記されるが、ネット検索でもこの地に特定した例が見当たらない。どうやら全くの的外れか、核心をついているかになってるようである。勿論後者として話を進めることとする。

2.无邪志國造=ムザシのコクゾウ

邪心の無い国、良き命名なのかも?…そのまま紐解いてみると…、
 
无(無い)|邪(ねじ曲がる)|志(蛇行する川)

…「ねじ曲がって蛇行する川が無いところ」と紐解ける。川はあるが蛇行する暇もなく海に注ぐところと読み解ける。後に登場する倭建命の東方十二道に登場し、「走水海」に面した相武国が該当すると思われる。「ムサシ」の国である。

現地名は同市小倉南区沼辺りと思われる。これも細かな行政区分ではなく代表的な地名である。建比良鳥命あるいはその末裔が統治していたのであろうが、倭建命の時期には、やや、反抗的?…時の権力は流動的であろう。

3.上菟上國造=カミツウナカミのコクゾウ
4.下菟上國造=シモツウナカミのコクゾウ

見慣れぬ文字「菟上(ウナカミ)」が現れた。で、チラッと通説を眺めると「上総」「下総」の各々にある「海上郡」のこととある。千葉県の登場である。何故東方十二道にも入ってない国がシャシャリでるのか?…宣長くんが古文書眺めて見つけた言葉をそのまま持ってきた、それだけのことであろう。前後の脈略皆無である。

<上菟上國造・下菟上國造>
・・・と、偉そうなことを言って、何と解釈する?…「菟上(トガミ、トノウエ)」と読む。

「戸ノ上山」勿論、同根である。造化三神を含む五つの別天神に続いて生まれた神々、伊邪那岐・伊邪那美と同世代の神に「意富斗能地神」、妹の「大斗乃辨神」の二神がいる。

この二神に共通する「斗」の文字の紐解きが全てを明らかにすることになる。既に解釈したように「斗」=「柄杓」である。「由良能斗」「伊斗村」「利波(柄杓田)」が挙げられる。その最も典型的で尚且つ大きな「斗」が「大(意富)斗」=「出雲国」なのである。これは地形象形そのものの表現である。「大」の由来は「大斗」にあった。
 
菟([斗]の地形)|上(上)|国

…「[斗]の字の地形の上にある国」と紐解ける。山に囲まれて凹になった地形、それは古代においては最も好ましい住環境を提供してくれる場所であり、近隣の自然環境と異なり穏やかな佇まいを示す処なのである。その地を「ト」と表した。そしてその地の上方にあるところを「トのウエ」と表現したのである。

「戸ノ上山」=「斗()の上にある山」そのものを表している。その「戸ノ上」にある国とは?…大長谷、現在の門司区奥田を通り淡島神社の脇を通り過ぎると、行き当たるのが「上菟上國」、少々下ると「下菟上國」となる。「上」は現在の同市門司区伊川、「下」は同市門司区柄杓田・喜多久と比定される。

後の大国主命の説話に「素菟と海和邇」が登場する(詳細はこちらを参照)。これに含まれる「菟」=「[斗]の地形の住人」と解釈する。淤岐嶋の中央部にある、やや小ぶりな「斗」に住んでいた人を表している。古事記の多様だが一貫性のある表記に戸惑っては彼らの思いは伝わらないであろう。説話に登場するのは淤岐嶋(隠伎之三子嶋)の住人のことだ、とここで告げているのである。

彼らの視点は常に海から、即ち淡海から眺めているのである。柄杓の底から山を上がり、その上がった先にある国々を表した国名である。都の位置など無関係、都など夢物語の時である。実際の行動に全てが準拠している。単純であり、明快であると思われる。これらの国は高志道に含まれる。高志に禊祓に行くなど、気安く言えるのは既にその祖が居たからである。

<伊自牟国>
命が移動するにはそれなりの準備が整ってからである。突然現れるなど実際にはあり得ない。神話・伝説に言い逃れるのは古事記を閉じてからにするべきであろう。

いや、もしくは全編神話・伝説にしてしまうか・・・寧ろその方が勇気が要るかも、である。

5.伊自牟國造=イジムのコクゾウ

なんじゃこれは、という命名であるが、わかると面白い。「自牟」=「自ら大きくなる」となるとしよう。「猿喰新田」である。

僅かな耕作地を巧みな水門を作って水田となしたところ、である。やはりこの地の水門は目を見張るものがあったのであろう。この解釈も成り立つかもしれないが、文字はまた違った意味を示しているようである。「自」=「鼻:端」、「牟」=「ム(鼻輪)+牛」の象形と言われる。
 
伊(小ぶり)|自(端)|牟(牛と鼻輪の地形)

…「小ぶりだが端が牛と鼻輪の地形のところ」と紐解ける。猿喰の地はこの山稜に囲まれたところ(入江)に水門を作り、巧みに水田開発を行ったのであろう。また、「喰」にも掛けてあるような気もする。「牟」=「貪る」という意味もある。上記と併せて後の「高志国」の全てが揃ったことになる。現地名は同市門司区猿喰、何度眺めても良くぞこの名前を残したものである。

6.津嶋縣=ツシマのアガタ

これは動かしようがところ、対馬である。この島は平地が殆どなく住環境的には最悪の場所であったと思われる。交通の要所としての役割、勿論極めて重要なものであろうが、前記したように「天之狹手依比賣」の名称は言い得て妙である。言いづらいことを名前に変えて言う、人麻呂くんに劣らずの安萬侶くんである。現地名は長崎県対馬市である。

7.遠江國造=オンガのコクゾウ

<建比良鳥命(祖)>
勿論律令制後の国ではない。古遠賀湾の河口付近に位置する国であろう。

古事記に出現するのはこれのみである。位置的には日向国と被るところもある。

かなり後に「淡海国」という表現が登場する。決して「遠江」=「浜名湖」ではない。

日本書紀における「淡海+近淡海」⇒「近江」の無節操な置換えを見逃して日本の古代は紐解けない。

後の「日向国」が遠賀湾西岸となる。律義に邇邇芸命が降臨するまでは「日向」名前は登場させないのであろう。一応その東岸に位置付けてみた(後の淡海之久多綿之蚊屋野辺り)

おそらく「遠江國」としてみたものの、所詮は住環境的に無理があって消滅したのではなかろうか。現地名は福岡県遠賀郡水巻町辺りである。

この「遠江(オンガ)」が現在の「遠賀」の由来ではなかろうか。後に登場する「志賀=之江」との関連も併せてかなり確度の高いものと思われる。

「建比良鳥命」の名前の由来は如何なのであろうか?…「比良」は黄泉比良坂で用いられた意味と同じと考える。「比良」=「手のひら」とすると内側に凹んだ形を示すのであろう…「比良鳥」は…、
 
<建比良鳥命>
手のひらのような地形に鳥の図柄が見えるところ

…と紐解ける。先行して出雲に降臨した天之菩卑能命の御子である。出雲国造の祖となったと伝える命の本貫の地として適切な場所を示していると思われる。

「鳥髪」の北麓に坐して出雲の北部中心の地を統治するところであった。そして三貴神の一人、速須佐之男命が降りて来る。天神一族が描いたシナリオ通りにことは進んでいくようだが・・・。

引き続きもう一人の命、天津日子根命について祖となった場所を紐解いてみよう。

天津日子根命

前記でわかったことの一つに後に登場する国名とは異なるものが多々あること、また、消滅してしまったと思える地域名があるようで、その変遷も興味深いものがある。

1.凡川內國造=オオシコウチのコクゾウ

「川()内国」は近淡海国の西、豊国の北に当たるところ。現在の長峡川と小波瀬川に挟まれた場所で、現地名は京都郡みやこ町となる。「凡」が付くのは河内としてはかなり大きな面積を有していたからではなかろうか。いずれ頻度高く登場するに連れて「河()内」と簡略化され、むしろ「日下」の河内のようにより具体的な地名表示となったと推測される。通説は大阪難波の河内、譲れません。

2.額田部湯坐連=ヌカタベユエのムラジ

<額田部湯坐>
「額田」は「山の斜面が額のように突き出たところの麓」を表すと解釈する。急斜面で「ヒタイ」があるところを表している。

「湯坐」は何を示しているのであろうか?・・・。

通常「貴人の産児に湯をつかわせる役の女性。また、皇子・皇女の養育者をもいう。湯殿に奉仕する人の意ともいう」と解説される。

それを地形象形的に使っているのではなかろうか…「湯」=「急勾配で流れる川」と解釈する。後に登場する伊余湯などの例がある。すると…、
 
湯(急勾配で流れる川)|坐(止まる)

…「急勾配で流れる川が止まるところ」と紐解ける。香春岳の近隣に「湯山」「湯無田」という地名が残っている。後に「山辺」と言われるところ、現在の田川郡香春町高野である。気付けば大坂山からの稜線に複数の山(コブ:愛宕山)があり、正に「額」の様相である。「国譲り」されずに残っていた地名であろう。

3.茨木國造=ウバラキのコクゾウ

<茨木国・道尻岐閇国>
「木」を使った地形象形であろう。「茨木」=「茨(きちんと並んだ)|(山の稜線)」いくつもに延びた山の稜線が順序良く並んだ高台と解釈する。

また「木=紀(吉)」も掛け合わさっているであろう。「茨」=「艹+次」であることから「次(きちんと並んだ)」を意味していると解釈される。

「茨」の文字は、神倭伊波禮毘古命及び大雀命の段に登場の「茨田」=「棚田」の表記に通じるものである。

この地は倭建命が訪れた東方十二道の端の国である都久波の地に当たる。現在の北九州市門司区吉志辺りである。

「木」を使った象形記述、後述される伊豫の四つの木師木等も含めて多用されている。ともあれ、現在の茨城、決して「イバラ」の意味ではないことをお伝えしたい。

<倭田中>
4.倭田中直=ワのタナカのアタエ

「倭(国)」に由来するとしては、何とも一般的な「田中」の解釈に陥ってしまうようである。

「倭」=「畝って続く」の意味も併せ持つとすると…、
 
畝って続く田の中ほど

…と紐解ける。現地名の田川郡香春町五徳、曲がりくねる五徳川に沿って作られた田を示していると思われる。

5.山代國造=ヤマシロのコクゾウ

初期の皇統に絡む頻出の「山代国」である。山代大国など天皇家の基盤を作る人材を輩出した地である。御所ヶ岳山系の南麓、現地名は京都郡みやこ町犀川大村・木山・花熊の辺りと思われる。

6.馬來田國造=ウマクタのコクゾウ

「馬」とくれば「馬ヶ岳」そんなに単純にはいかないように…では、どうして「馬ヶ岳」?…「馬」の姿をしているからである。しかも足が付いていかにも歩きそうな…。冗談ぽくなってるが、関連する記述がある。「宇沙」の「足一騰宮」は馬ヶ岳の稜線を馬の足に見立てた表現であった。足の先が少し小高くなってところ、である。

「馬來田國」は現在の行橋市大谷辺りと特定できる。その範囲を知る術がなく、天生田、西谷辺りまで含むかもしれない。豊国の東辺を指していると思われる。「宇沙」の地も早くから統治の範囲に入れていたのである。勿論古事記には二度と登場しない国名である。

7.道尻岐閇國造=ミチのシリのキベのコクゾウ

道が「岐閇」するところは上記の茨木国の北方、後に神八井耳命が祖となった「道奧石城國」の場所と思われる。谷川・井手谷川によって道が尽きるところである。所謂東方十二道の行き着く果てであると紐解ける。現地名は北九州市門司区畑辺りと思われる(上図参照)。

8.周芳國造=スワ(スホウ)のコクゾウ

これだけ簡単な記述だと様々な解釈が発生する。上記の建比良鳥命が祖となった地域、また茨木国が既に登場したことなどを併せると「科野国」に関連すると思われる。「周芳」=「スワ()」であろう。その意味は何と読み解すことができるのであろうか?・・・。

少し先の段に科野國之州羽海と記載される。「州羽海」=「川に挟まれた羽のように平坦な地にある海」現在地名は北九州市小倉南区葛原辺りである。曽根平野を竹馬川が流れる地形であるが当時はその大部分が海面下であり、大きな干潟を形成していたものと推測される。通説の諏訪湖は全く無関係とされた方がよろしいかと・・・。

9.倭淹知造=ワのアムチのミヤツコ

<倭淹知>
「淹知」は何と解釈できるであるか?…「知」=「矢+口」=「鏃」とすると…、
 

淹(水に浸す)|知(鏃の地形)

…「水に浸された鏃の地形」と読み解ける。低地の三角州を示していると思われる。

金辺川、御禊川、彦山川に挟まれた英彦山山系の山稜の端に当たるところである。「倭」=「畝って続く」とすると、川の状態を示しているのではなかろうか。上記の「倭田中」と同様に「倭国」と重ねられた表記と思われる。現在の田川市夏吉辺りである。天津日子根命の系譜は知る術がなく、祖となった経緯は不明である。

10.高市縣主=タケチのアガタヌシ

古事記中「高市」の出現はこれのみ。関連しそうな記述がある。雄略天皇紀の長谷にある大きな槻の下で酒宴を開いた時、三重の采女の歌に対する后の返歌に纏向日代宮の場所を「多氣知」と表現している。この地はその後も種々名前を変えたように思われるが、この日代宮があった場所の古名とも言うべきものではなかろうか。現地名は田川郡香春町鏡山である。

11.蒲生稻寸=カモウのイナキ

これは由緒ある蒲生八幡神社がある場所であろう。後の「伊勢国」になる。現在地は北九州市小倉南区蒲生である。天孫邇邇藝命の段で登場する伊須受能宮伊勢大神宮の場所である。

筑紫の「紫」に関連する紫川の畔にある。間違いなく、「蒲生」、「紫」は古代からの不動地点として見做すことができる。そしてその地点から古事記の舞台を紐解くことも可能である。景行天皇紀の倭建命の道行記述は、確固たる現実味を帯びて来る、と思われる。

12.三枝部造=サキクサベのミヤツコ

垂仁天皇紀の「大中津日子命」が獅子奮迅の働きで「三枝之別」の祖となったと記載される。三枝の地が発展したのであろうか…。現地名は京都郡みやこ町犀川喜多良である。犀川を遡って倭の都、又は師木などに向かうバイパスルート上にあり、その中間点として重要な位置にあったと思われる。

<天津日子根命(祖)>
また英彦山信仰が盛んになるに従ってこの地を経由する人々の往来も盛んであったろう。

現在はのどかな農村風情を醸し出しているように感じられるが、時のベールに包まれた地としてみるべきであろう。

「三枝」=「三つの枝」=「三叉路」を示すと推察される。師木方面と英彦山方面の追分である。

上記したように後の垂仁天皇紀に大中津日子命の祖の記述に再登場する。そちら(全体三枝)での解釈を参照。

前記の建比良鳥命が祖となった場所を併せて示すと…右図のようになる。

こうして眺めてみると、後の神倭伊波禮毘古命以降の天皇達が「言向和」する地の有様を示しているものと思われる。二人の命の子孫が広がって行った有様を伝えているとも読み取れる。

天神一族が支配、統治する国々の「古代」である。まだまだその体制は脆弱であり、欠けているところを埋めながら雄略天皇の雄叫びに達するまで多くの時間を要したという、その経緯を述べるのが古事記である。

筑紫嶋の出雲国(肥国)を出発点として、その周辺への拡大、そして「畝火山=香春岳」の麓が、それは高天原の「天香山=神岳」に擬したところとして、後に倭国の中心となる。

それを暗示する記述である。これらの山の名前に「香」が共通する。偶然であろうか…。