2018年11月28日水曜日

日向の綿津見神:宇都志日金拆命と阿曇連 〔287〕

日向の綿津見神:宇都志日金拆命と阿曇連


竺紫日向の地に関わる最後の神生みである。が、これが意味するところは極めて難解でるが、重要なキーワードが含まれていることも事実であろう。古事記原文[武田祐吉訳]の最後の段を抜き出し、引用しながら解読してみようかと思う。

於水底滌時、所成神名、底津綿津見神、次底筒之男命。於中滌時、所成神名、中津綿津見神、次中筒之男命。於水上滌時、所成神名、上津綿津見神訓上云宇閇、次上筒之男命。
此三柱綿津見神者、阿曇連等之祖神以伊都久神也。伊以下三字以音、下效此。故、阿曇連等者、其綿津見神之子、宇都志日金拆命之子孫也。宇都志三字、以音。其底筒之男命、中筒之男命、上筒之男命三柱神者、墨江之三前大神也。
[水底でお洗いになつた時にあらわれた神はソコツワタツミの神とソコヅツノヲの命、海中でお洗いになつた時にあらわれた神はナカツワタツミの神とナカヅツノヲの命、水面でお洗いになつた時にあらわれた神はウハツワタツミの神とウハヅツノヲの命です。このうち御三方のワタツミの神は安曇氏の祖先神です。よつて安曇の連たちは、そのワタツミの神の子、ウツシヒガナサクの命の子孫です。また、ソコヅツノヲの命・ナカヅツノヲの命・ウハヅツノヲの命御三方は住吉神社の三座の神樣であります]
 
八十禍津日神等を生む続きである。これらも難解であった。詳細はこちらを参照願う。「底・中・上」の場所を分けて生んだと記述される。
 
綿津見神・筒之男命(墨江之三前大神)

底津綿津見神、底筒之男命。中津綿津見神、中筒之男命。上津綿津見神、上筒之男命」が誕生する。三柱の筒之男命は墨江之三前大神の別称があると記される。綿津見神については、前記の伊邪那岐・伊邪那美の両神が生んだ大綿津見神=偉大な「海と川が交わるところを見張る神」と紐解いた。派生した「綿津見神」を示している。

「上」に「訓上云宇閇」と註記される。「宇閇」は…、
 
宇(山麓)|閇(閉じる)


<三柱綿津見神・墨江之三前大神>
…入江の奥を示すと思われる。これが重要なヒントとなり、入江の中に三つの区切られた場所がある、と告げていることが解る。

図に示した通り、広大な汽水湖の隅にある場所と推定される。

「筒」は何を意味しているのであろうか?…三つの山稜に挟まれた谷を示していると気付かされる。

後に細長い場所を「竹」と表記するが、同様の解釈となろう。

「底・中・上」から海深のように受け取ってしまうが、やはり徹底した地形象形であった。塚田川に合流する支流(図を拡大表示)があるが、当時に塚田川は存在せず、汽水湖の状態であったろう。

その合流点を見張るのが「綿津見神」である。そして「筒之男命」は…、
 
筒のような地で田を耕す命

…と紐解ける。実に丁寧な表記であり、かつ図の地形を見事に表わしていると思われる。

後の仁徳天皇紀で詳述するが、福岡県行橋市を流れる長峡川沿いにある上津熊・中津熊・下津熊は場所こそ違え、関連するのではなかろうか。この地も古事記では「墨江」と称されているのである。
 
宇都志日金拆命:阿曇連

綿津見神は阿曇連の祖先であり、綿津見神の子、宇都志日金拆命の子孫と記される。「宇都志」は「山麓で蛇行する川が集まっているところ」と解釈する。上記では現在の北九州市門司区藤松辺り、伊邪那岐が黄泉國から脱出して三つの桃と遭遇した場所としたが、類似の地形を「墨江」に見出すことができる。「日金拆命」は…、
 
日([炎]の地形)|金(山麓の高台)|拆(分かれ離れる)
 
…「
<宇都志日金拆命・阿曇連>
[炎]の地形の山麓の高台が分かれ離れたところ」
の命と紐解ける。現在の春日神社がある辺りを表していると思われる。

「拆」=「扌+斥」と分解される。「斥」=「二つに割れる、分かれ離れる様」を示すと解説される。谷を挟んで二つの高台がある地形を示す。

「阿曇連」の解釈はどうであろうか?…「阿(台地)」として「曇」=「日+雲」と分解すると…、
 
日([炎]の地形)|雲([雲]の地形)

…「[炎]のようであって[雲]のようにゆらゆらと立ち昇る地形がある台地」と紐解ける。山陵がゆらゆらと曲がっている様を模したのではなかろうか。

「曇」を分解して解釈することによって「阿曇」の由来が求められたように思われるが、「曇」には「水を深く湛える」の意味がある。上図に示した[炎]の谷間は当時は海であって、阿曇=水を深く湛えた台地と読むこともできる。両意に重ねられた表記と思われる。勿論、この地形に基づく名称が「阿曇」であることには変わりはない。

古事記に「阿曇連」が登場するのは、これが最初で最後である。尚且つ唐突にである。後に著名な海人族として知られる一族、訳があっての簡略記述なのであろう。響灘の外海ではなく古遠賀湾を航海する内海航路の主要な拠点であったと推定される。
 

「連」は古代の姓の一つ、中でも高位に位置するとされている。類似の「造」なども何らかの地形を象形しているのではなかろうか。とするならば「連」が示す場所がその地の中心であることを伝えていることになる。重要な意味を有すると思われる。

「連」=「辶+車」と分解できる。「車」が突き進んでいく様を表しており、連続的な動きから通常使用される「連なる」のような意味を示す文字と解釈されている。後に登場する「輕」はより先鋭的、直線的なイメージから導かれた文字である。
 
山稜の端が長く延びる様

では地形象形的には何と表現されるのであろうか?…見たまんまの「山稜の端が長く延びる様」と読み解ける。その地形の場所に居た者の名前に付加した、と解釈される。と同時にその地域の中心地であることを示すことになる。極めて明瞭で、授ける天皇にも”混乱”がない、かもしれない。上図に示した「連」そこが中心の場所と推定される。

詳細は後段で述べるが、天神達の思惑通りには事が運ばなかった場所となる。簡単な記述は、おそらく、古事記の非奔流に関する記述は簡略に、という方針なのか、はたまた原資料の欠如であろうか・・・綿津見神に出自を持つ航海技術に長けた一族「阿曇連」の本貫の地である。(2019.12.18改訂)