2018年9月21日金曜日

袁本杼命の后:目子郎女と御子 〔261〕

袁本杼命の后:目子郎女と御子


小長谷若雀命(武烈天皇)には御子もなく早逝した。いよいよ皇統は断絶の危機を迎えたと古事記は記す。やりくりの皇位継承では、やはり限界が見えて来た感じである。そんなゴタゴタを古事記は省略して先へと進むようである。

八方に手を尽くして応神天皇五世の「袁本杼命」が即位したと伝える。近淡海国に住んでいたのを探し、仁賢天皇の御子、手白髮郎女を娶らせて大后とし、何とか皇位断絶の危機は回避できたということらしい。久々に多くの御子が誕生する。大半は既に読み解いて来たのだが、不足の部分を続けて述べてみようかと思う。

古事記原文…、

品太王五世孫・袁本杼命、坐伊波禮之玉穗宮、治天下也。天皇、娶三尾君等祖・名若比賣、生御子、大郎子、次出雲郎女。二柱。又娶尾張連等之祖凡連之妹・目子郎女、生御子、廣國押建金日命、次建小廣國押楯命。二柱。
 
袁本杼命(継体天皇)

それにしても意富多多泥古の時は、しっかりと素性を語らせて数世代にわたる出雲の状況が伺えるのであるが、袁本杼命は全く…天皇即位の面接?ではなかった、ということであろう。語るほどの物語にはならなかった、のかもしれない。
 
<袁本杼命>
何れにしても、記録がなく、例えあったとしても不確かなもので、記載することができなかったと推測される。

古事記の記述方針からすると登場人物の名前もさることながら、居場所の確からしさを求めている。その情報の欠如が未記載という結果を生んだと思われる。

継体天皇が坐した伊波禮之玉穗宮は前記を参照願うとして、倭国の中心に出戻った感じである。

天皇家の出直しを意味するのではなかろうか・・・突如引っ張り出されても、如何せんなのだが、この天皇、しっかりと古より倭国を支えた地に足を運んでいるのである。

「袁本杼命」は何処に居たのか?…近淡海国の…、
 
袁(緩やかな)|本(麓)|杼(横切る)

…「緩やかになった山麓を横切るような地形」に坐していた、と紐解ける。近淡海国の中で探すと最適な地形を示す場所がある。

仁徳天皇の御子、墨江之中津王が切り開い入江の近隣である。おそらく多くの人々が集まり賑わっていた場所ではなかろうか。後には宗賀一族の「泥杼王」が坐したところと比定した地でもある。間違いなく豊かな土地になっていたものと推測される。

何れにしても古事記は言葉少なめで憶測が発生するのであるが、他書も含めて、また過去の論考も、様々な解説がなされているようである。「記紀」に記載と引用して、袁本杼命が越前(古事記では高志に該当するか?)に居たとの解説は、「近淡海→近江」のルール?から外れている。

無節操な解釈なのか、はたまた、日本書紀もいよいよ独り立ちの時期を迎えたのか?…「近淡海国」の文字を勝手に変えることはできない筈だが・・・。
 
尾張連等之祖凡連之妹・目子郎女

<目子郎女>
尾張連は既出で尾張国に関連するのであるが「凡連」の文字は初出である。「凡」は天照大神と須佐之男命の誓約で誕生した天津日子根命「凡川内国造」の祖となったという記述に使われている。

川内の中で種々の国に分かれている、未だ川内国そのものの領域が確定していない為に全体を表す意味で使われたと推測される。
 
とすれば「凡連」も尾張国の種々の「連」を取り纏めて表現したもので、時代の変化と密接に関連する言葉使いと思われるが、少々古事記解釈から逸脱しそうなので、これ以上は足を踏み入れないことにする。

目子郎女の「目子」は場所を示すのであろうか?…通説は「メコ」と読み下しているようであるが、「目子」=「目(マ)ナ子(コ)」と読む。
 
<廣國押建金日命・建小廣國押楯命>
語源的な解釈があり、目の中の瞳を指すのが原義である。そんな地形があるのか?…と言われそうだが、見つかるのである。

尾張国の中心地、その近隣である。国土地理院の色別標高図が無ければ到底見つけることができない地形象形である。

現在は全国に地名番地が宛がわれているが、全く地名番地という概念のなかった時代には地形に対する真面目さが桁違いと思わさせられる。

逆に現代人は地形に対してあまりにも鈍感ではなかろうか。地名を用いることの便利さにすっかり浸かっているからであろう。勿論ブログ主も同様であるが…。

御子に「廣國押建金日命、建小廣國押楯命」と記される。彼らはそれぞれ後に皇位に就く。「廣國押」=「大地に田を作り広げる」と解釈できるであろう。大倭帶日子國押人命(孝安天皇)で紐解いた「國押」に類似する。


「金」は、そのままでは何とも読み解け難いように見受けられる。「金」=「今(含む)+ハ(鉱物)+土」と解説される。「今」の甲骨文字から「段差のある山麓」と紐解く。既に登場の藤原之琴節郎女の「琴」に含まれる「今」の解釈に類似する。「金日命」は…、
 
金([ハ]の字の段差のある山麓の台地)|日(炎の地形)

…「[炎]の地形で[ハ]の字形の段差のある山麓の台地」に座していたと紐解ける。図に示したところと思われる。命が坐したところは現在の護念寺辺りではなかろうか。廣國押建金日命」は後に勾之金箸宮に坐したと記される。「金」は全く同じ解釈である。また…、
 
楯(縁にある柵のような地形)

…と解釈すれば図の柵のような山稜の傍らと推定される。いずれにしても山麓に田を広げて行った命達を表していると思われる。

御子達は後に皇位に就く。古事記の草創期から登場する、交通の要所としての尾張国なのだが、天皇を輩出する稀有な例となるようである。