倭建命:三重(采女)・能煩野
前記に引き続き倭建命の物語に関するところである。命の最後の場面に登場する地名については、ほぼこの辺りとは推定されるが、今一歩決め手に欠けるような感じでやり過して来た。そこで今回こそしっかりと見定めて置こうかと・・・。
また関連するところに宇摩志麻遲命は「此者物部連、穗積臣、婇臣祖也」と記載された中「婇臣」がある。極めて限られた記述ではあるが、それらの関連も併せて述べてみる。
古事記原文[武田祐吉訳]…、
自其地幸、到三重村之時、亦詔之「吾足、如三重勾而甚疲。」故、號其地謂三重。自其幸行而、到能煩野之時、思國以歌曰、
夜麻登波 久爾能麻本呂婆 多多那豆久 阿袁加岐 夜麻碁母禮流 夜麻登志宇流波斯
又歌曰、
伊能知能 麻多祁牟比登波 多多美許母 幣具理能夜麻能 久麻加志賀波袁 宇受爾佐勢 曾能古
此歌者、思國歌也。又歌曰、
波斯祁夜斯 和岐幣能迦多用 久毛韋多知久母
此者片歌也。此時御病甚急、爾御歌曰、
袁登賣能 登許能辨爾 和賀淤岐斯 都流岐能多知 曾能多知波夜
歌竟卽崩。
[其處からおいでになって、三重の村においでになった時に、また「わたしの足は、三重に曲った餅のようになって非常に疲れた」と仰せられました。そこでその地を三重といいます。 其處からおいでになって、能煩野に行かれました時に、故郷をお思いになってお歌いになりましたお歌、
大和は國の中の國だ。重なり合っている青い垣、山に圍まれている大和は美しいなあ。 命が無事だった人は、大和の國の平群の山のりっぱなカシの木の葉を 頭插にお插しなさい。お前たち。
とお歌いになりました。この歌は思國歌という名の歌です。またお歌い遊ばされました。
なつかしのわが家の方から雲が立ち昇って來るわい。
これは片歌でございます。この時に、御病氣が非常に重くなりました。そこで、御歌を、
孃子の床のほとりにわたしの置いて來た良く切れる大刀、あの大刀はなあ。
と歌い終って、お隱れになりました]
玉倉部之淸泉で一息ついた後、當藝野、杖衝坂を経て尾津前一松之許で一休みだが、かなり病状が悪化している様子である。忘れた「多知」(比比羅木之八尋矛)に出会うのであるが、刀は焼津で草を薙ぎ払ったくらいの活躍で、後は変装と策略が武器?だったのかも…素手もあった・・・。
更に状態は悪化するが倭に向かい「三重村」に辿り着く。身体が「三重」に折り畳まれたから、と記されるが、人の身体が三重になるとは…膝と腰で折り畳めば、そうみえなくもないか・・・。何らかの地形象形を重ねていると思われるが、なかなか気付けなかったのが実情である。
「三つが重なる」地形とは?・・・やはり稜線の端の重なりのことを言っているのであろう。三つ重なっているとは、三本の稜線が出会う場所ではなかろうか。現在の紫川周辺は当時との相違がかなり激しいところと思われるが、探すと、現在の北九州市小倉南区長尾辺りが見出だせる。
[其處からおいでになって、三重の村においでになった時に、また「わたしの足は、三重に曲った餅のようになって非常に疲れた」と仰せられました。そこでその地を三重といいます。 其處からおいでになって、能煩野に行かれました時に、故郷をお思いになってお歌いになりましたお歌、
大和は國の中の國だ。重なり合っている青い垣、山に圍まれている大和は美しいなあ。 命が無事だった人は、大和の國の平群の山のりっぱなカシの木の葉を 頭插にお插しなさい。お前たち。
とお歌いになりました。この歌は思國歌という名の歌です。またお歌い遊ばされました。
なつかしのわが家の方から雲が立ち昇って來るわい。
これは片歌でございます。この時に、御病氣が非常に重くなりました。そこで、御歌を、
孃子の床のほとりにわたしの置いて來た良く切れる大刀、あの大刀はなあ。
と歌い終って、お隱れになりました]
玉倉部之淸泉で一息ついた後、當藝野、杖衝坂を経て尾津前一松之許で一休みだが、かなり病状が悪化している様子である。忘れた「多知」(比比羅木之八尋矛)に出会うのであるが、刀は焼津で草を薙ぎ払ったくらいの活躍で、後は変装と策略が武器?だったのかも…素手もあった・・・。
三重(采女)
更に状態は悪化するが倭に向かい「三重村」に辿り着く。身体が「三重」に折り畳まれたから、と記されるが、人の身体が三重になるとは…膝と腰で折り畳めば、そうみえなくもないか・・・。何らかの地形象形を重ねていると思われるが、なかなか気付けなかったのが実情である。
「三つが重なる」地形とは?・・・やはり稜線の端の重なりのことを言っているのであろう。三つ重なっているとは、三本の稜線が出会う場所ではなかろうか。現在の紫川周辺は当時との相違がかなり激しいところと思われるが、探すと、現在の北九州市小倉南区長尾辺りが見出だせる。
<三重・采女> |
尾津を出て伊勢大神宮を右手に伺いながら、更に南下した場所である。
紫川の東岸は崖のような地形でおそらく通交不可、西岸を行こうとして行き当たるところでもある。
三重=三本の稜線が重なるところ
…と告げているのである。際どいが、場所の確定としてはかなり確度の高いものであろう。伊勢大神宮の他に「伊勢船木」「伊勢飯高」「伊勢大鹿首」などの地名が登場する。全て比定してきたのだが、この「三重」を含めて全て紫川西岸の地域であることが判った。
因みに神八井耳命が祖となった「伊勢船木」は上図の「采女」の南隣、紫川と合馬川の合流地点と比定したところである。伊勢国の最南端となる。
ところで「采女」であるが、この文字そのものは「日本の朝廷において、天皇や皇后に近侍し、食事など、身の回りの雑事を専門に行う女官のこと」と解説されている。また「采女は地方豪族という比較的低い身分の出身ながら容姿端麗で高い教養を持っていると認識されており、天皇のみ手が触れる事が許される存在と言う事もあり、古来より男性の憧れの対象となっていた」とも言われているようである。
雄略天皇紀に伊勢国の三重采女(表記は「婇」)が登場し、上記の解説に合致する挙動をする記述がある。女人そのものを示していると思われる。一方で、冒頭に述べたように、明らかに地名としての記述もある。邇藝速日命の子、宇摩志麻遲命が祖となったところの一つに「婇臣」として挙げられている。
「婇」=「女+采」→「采女」であろうが、更に「采」=「爪+木」となる。象形的には「木を摘み取る」イメージであると解説されている。意味を派生させれば「選ばれし女人」に繋がると思われる。安萬侶コード「木(山稜)」だから「山稜を摘みとった地形」であろう。上図に示したように細長い隙間、裂け目のような地形を表していると推測される。
女偏を付けた理由はご想像に任せるとして、地を示す「婇」は「三重」の近隣にあったと推定される。通説は現在の三重県四日市市采女町辺りとなるが、本ブログ主の近隣にある。杖衝坂もあるようで、何だかゴチャゴチャな感じ、俗説になるかな?・・・。
「采女」の意味、それは人と地に使われた二通りの意味を持つ言葉と理解することが大切であろう。ブログ主浅学ゆえ雄略天皇紀の三重采女以外に記述された例があるのか、地方の豪族とは一体どこまでの範囲なのか、知りたいところでもある。
能煩野
さて、いよいよ終焉の地に辿り着くことに・・・この地もほぼ間違いない比定を既に行ったように記憶するが、やはり「能煩野」の文字解釈に拘りたく思う。早速取り掛かると…「煩」=「火+頁」と分解し、「頁」=「台地の谷間の田畑」とすると…、
能(隅)|煩(炎の地形を持つ台地の谷間の田)|野
解けてみれば何ということはないことになるのだが、実に巧みに漢字が使われていることが判る。能褒野などの表現もあるが、それでは意味不明となってしまうのである。現地名は北九州市小倉南区母原辺りと変わりないが、「能煩野」の位置は明解であろう。
更に上記に続いて英雄が隠れたことを知って駆け付けた后と御子達のことが記述される…、
於是、坐倭后等及御子等、諸下到而作御陵、卽匍匐廻其地之那豆岐田而、哭爲歌曰、
那豆岐能多能 伊那賀良邇 伊那賀良爾 波比母登富呂布 登許呂豆良
[ここに大和においでになるお妃たちまた御子たちが皆下っておいでになって、御墓を作ってそのほとりの田に這い回ってお泣きなってお歌いになりました。
周まわりの田の稻の莖に、稻の莖に、這い繞めぐつているツルイモの蔓つるです]
<能煩野> |
那(多くの)|豆(凹凸がある)|岐(二つにわかれた)|田
…山稜の端にあるゴツゴツとしていて、それが二つに割れた台地状の地形象形であろう。
実はこの台地、現在の地名では小倉南区母原と新道寺の境界にあると記載される。分かれ方は微妙に谷筋からずれているが・・・
間違いなく二つに分かれているのである。
地図を参照願うが、北から進んで来るとその台地の北半分の地(母原)、隅の谷の入口に到着する。ここが「能煩野」である
その後の古事記の記述は白鳥伝説の説話となって「河內國之志幾」に「白鳥御陵」が作られたりするのである。英雄物語の終焉に相応しい内容であろう。
「倭建命の東征」などと言われるが、決して領土拡大の意味は持たず、彼らの祖先が作り上げた東方十二道内における鎮圧であった。景行天皇の八十人の御子及び倭建命の熊曾・出雲・東方十二道にまたがる「倭国連邦言向和国」の充実に注力した時期であった伝えていると思われる。この天皇一家は無謀な膨張戦略とは無縁である。