倭建命:伊服岐能山・玉倉部之淸泉
前記に続いて倭建命の段であるが、行程では甲斐之酒折宮から折り返して科野国の坂神を和平して尾張の美夜受比賣の家に戻ったと記される。その間の解釈はこちらを参照願うとして、今一歩スッキリしなかった首記の二つの地点について述べてみようかと思う。
古事記原文[武田祐吉訳]…、
故爾御合而、以其御刀之草那藝劒、置其美夜受比賣之許而、取伊服岐能山之神幸行。於是詔「茲山神者、徒手直取。」而、騰其山之時、白猪、逢于山邊、其大如牛。爾爲言擧而詔「是化白猪者、其神之使者。雖今不殺、還時將殺。」而騰坐。於是、零大氷雨打惑倭建命。此化白猪者、非其神之使者、當其神之正身。因言擧、見惑也。故還下坐之、到玉倉部之淸泉、以息坐之時、御心稍寤、故號其淸泉、謂居寤淸泉也。
[そこで御結婚遊ばされて、その佩びておいでになった草薙の劒をミヤズ姫のもとに置いて、イブキの山の神を撃ちにおいでになりました。そこで「この山の神は空手で取って見せる」と仰せになって、その山にお登りになった時に、山のほとりで白い猪に逢いました。その大きさは牛ほどもありました。そこで大言して、「この白い猪になったものは神の從者だろう。今殺さないでも還る時に殺して還ろう」と仰せられて、お登りになりました。そこで山の神が大氷雨を降らしてヤマトタケルの命を打ち惑わしました。この白い猪に化けたものは、この神の從者ではなくして、正體であったのですが、命が大言されたので惑わされたのです。かくて還っておいでになって、玉倉部の清水に到ってお休みになった時に、御心がややすこしお寤めになりました。そこでその清水を居寤の清水と言うのです]
気の緩み、少々調子に乗り過ぎた感じである。「倭比売」から授かった刀、肌身離さずの筈が…拙かった。「伊服岐能山」は美夜受比賣の家の背後に聳える山であろう。山塊の最高峰「貫山(ヌキサン:712m)」と推定することは難しくはないのであるが、「伊服岐」の文字は何と紐解けるのであろうか?…「貫山」と如何に繋がるのか?…あらためて見直してみた。
初見では・・・、
「貫」=「つらぬく、突き通す」岩が突き出た様相を象形したか、岩場から出て来る湧水の有様を意味したのかは定かでないが、表面に突出る地形に合致した命名ではなかろうか。「服岐(フキ)」=「吹」=「外や表面に現れ出る」類似の意味である。
・・・のように通説に従って、伊吹山の「吹」↔「服岐(フクキ)」の置き換えを考えていたようである。これはよく似ているように思われるが、ピタッと一致するわけでもない。どこか違和感がある、と言ったところで止まっていたのである。やはり、文字列の意味を紐解くべきであろう
「伊服岐」は何を意味しているのか?・・・「服」=「箙(矢筒)」の略字とすると…「伊服岐」は…、
…「僅かに矢筒のような山稜が分かれる」ところと紐解ける。「箙(エビラ)」を調べると「服」と記述されることもあるとのこと。そうすると、山稜の形が浮かんでくる。
矢筒に集められた矢が一本一本に分かれる行くような地形で、少し分かれたところと読み解ける。
間違いなく「貫山」のことを表していると思われる。「服岐(フキ)」と読むのもあり、いつもの調子で重ねられているのであろう。
「伊服岐」の文字列の意味は決定的な場所を表していることも確かである。
この地は大倭豊秋津嶋の解釈で「秋」の文字の「火」の部分に当たるとした場所になる。
見事に繋がる表現であることが判る。言わずもがなではあるが、伊吹山山塊にこの山稜が描く図柄は見当たらないようである。
「箙(エビラ)」は「飛鳥・奈良時代に用いられた中国伝来の胡【ろく】(ころく)の形式が,武士の興隆とともに実戦に適するように,堅固で簡便なものに改良されてできた」とのことである。倭健命の時代には「箙(服)」の形になっていたのかもしれない。
「空手」でお出掛けの「倭建命」、美夜受比賣之家から三つの谷筋のどれかを選択して山中に入っていったのであろう。初見とは全く異なるルートを想定することになる。手軽にお出かけとなれば、やはり、比賣の家の裏山へと向かうことになろう。
[そこで御結婚遊ばされて、その佩びておいでになった草薙の劒をミヤズ姫のもとに置いて、イブキの山の神を撃ちにおいでになりました。そこで「この山の神は空手で取って見せる」と仰せになって、その山にお登りになった時に、山のほとりで白い猪に逢いました。その大きさは牛ほどもありました。そこで大言して、「この白い猪になったものは神の從者だろう。今殺さないでも還る時に殺して還ろう」と仰せられて、お登りになりました。そこで山の神が大氷雨を降らしてヤマトタケルの命を打ち惑わしました。この白い猪に化けたものは、この神の從者ではなくして、正體であったのですが、命が大言されたので惑わされたのです。かくて還っておいでになって、玉倉部の清水に到ってお休みになった時に、御心がややすこしお寤めになりました。そこでその清水を居寤の清水と言うのです]
伊服岐能山
気の緩み、少々調子に乗り過ぎた感じである。「倭比売」から授かった刀、肌身離さずの筈が…拙かった。「伊服岐能山」は美夜受比賣の家の背後に聳える山であろう。山塊の最高峰「貫山(ヌキサン:712m)」と推定することは難しくはないのであるが、「伊服岐」の文字は何と紐解けるのであろうか?…「貫山」と如何に繋がるのか?…あらためて見直してみた。
初見では・・・、
「貫」=「つらぬく、突き通す」岩が突き出た様相を象形したか、岩場から出て来る湧水の有様を意味したのかは定かでないが、表面に突出る地形に合致した命名ではなかろうか。「服岐(フキ)」=「吹」=「外や表面に現れ出る」類似の意味である。
・・・のように通説に従って、伊吹山の「吹」↔「服岐(フクキ)」の置き換えを考えていたようである。これはよく似ているように思われるが、ピタッと一致するわけでもない。どこか違和感がある、と言ったところで止まっていたのである。やはり、文字列の意味を紐解くべきであろう
「伊服岐」は何を意味しているのか?・・・「服」=「箙(矢筒)」の略字とすると…「伊服岐」は…、
伊(僅かに)|服(矢筒のような山稜)|岐(分かれる)
…「僅かに矢筒のような山稜が分かれる」ところと紐解ける。「箙(エビラ)」を調べると「服」と記述されることもあるとのこと。そうすると、山稜の形が浮かんでくる。
<伊服岐能山> |
間違いなく「貫山」のことを表していると思われる。「服岐(フキ)」と読むのもあり、いつもの調子で重ねられているのであろう。
「伊服岐」の文字列の意味は決定的な場所を表していることも確かである。
この地は大倭豊秋津嶋の解釈で「秋」の文字の「火」の部分に当たるとした場所になる。
見事に繋がる表現であることが判る。言わずもがなではあるが、伊吹山山塊にこの山稜が描く図柄は見当たらないようである。
「箙(エビラ)」は「飛鳥・奈良時代に用いられた中国伝来の胡【ろく】(ころく)の形式が,武士の興隆とともに実戦に適するように,堅固で簡便なものに改良されてできた」とのことである。倭健命の時代には「箙(服)」の形になっていたのかもしれない。
「空手」でお出掛けの「倭建命」、美夜受比賣之家から三つの谷筋のどれかを選択して山中に入っていったのであろう。初見とは全く異なるルートを想定することになる。手軽にお出かけとなれば、やはり、比賣の家の裏山へと向かうことになろう。
後世の長野城(城山)へのルートが推定される。最も貫山へは最短であるが定かではない。どこまで山に入られたかは全く不明であり、知るすべもないが、手酷く傷めつけられたようである。這う這うの体で「玉倉部之清泉」まで辿り着き休んだとのこと。さて、これは何処にあったのであろうか?・・・。
玉倉部之清泉
宝玉、薬石等の保管、管理場所(部)として「水晶山」から連想される透明な水晶の玉、立派な宝玉があったのではなかろうか、など憶測を逞しくしたが、やはり特徴ある地の名称であろう。「玉倉部」は…、
…「玉のようなところが谷で分けられた地形」をしていると紐解ける。
図に示したように小ぶりだがしっかりと谷を形成していて、泉となっていることが判る。
勿論当時との相違はあるかと思われるが、基本の地形は保たれているのではなかろうか。
この地は後に「尾張連等之祖凡連之妹・目子郎女」で登場する。
「目玉」の地形をしていると解釈できるところであろう。尾張の中心として繁栄した場所と推定される。
そんな地にあった清泉の水を飲んでホッと一息したのであろう。山の神は怖い…まだまだ山奥には「言向和」する相手が…本物の神様?・・・この疑問を解決するには至っていない・・・。
――――✯――――✯――――✯――――
現在の貫山トレッキングに長野登山口ルートが載っている。勿論「美夜受比賣之家」近くを通る。公園になっているので駐車場に困ることはないようで・・・。
ほぼ林道沿いの健脚コースのようであるが、国土地理院地図にはもう少し直登なルートもある様子。
YAMAPに記載されたレポート「長野緑地公園から貫山のピストンです。2/3は舗装林道です。こちらから貫山を目指す人は少ないのか途中の山道はルートがハッキリしなくて…行きはウロウロ、帰りは案の定二回もコースアウト (´・ω`・)? 低山ですがヤマップが無ければ遭難するところでした!(笑) 」おやおや、危うく、倭建命になるところであった?・・・草薙剣がなくともYAMAPさえあれば・・・。
という訳で…長野ルートもあながち非現実的?なことではないようである。今はもう、道速振神・荒振神に出会うことはない、かも?・・・。
――――✯――――✯――――✯――――
玉(玉のような地形)|倉(谷)|部(分けた地)
…「玉のようなところが谷で分けられた地形」をしていると紐解ける。
<玉倉部之清泉>(拡大) |
勿論当時との相違はあるかと思われるが、基本の地形は保たれているのではなかろうか。
この地は後に「尾張連等之祖凡連之妹・目子郎女」で登場する。
「目玉」の地形をしていると解釈できるところであろう。尾張の中心として繁栄した場所と推定される。
そんな地にあった清泉の水を飲んでホッと一息したのであろう。山の神は怖い…まだまだ山奥には「言向和」する相手が…本物の神様?・・・この疑問を解決するには至っていない・・・。
――――✯――――✯――――✯――――
現在の貫山トレッキングに長野登山口ルートが載っている。勿論「美夜受比賣之家」近くを通る。公園になっているので駐車場に困ることはないようで・・・。
ほぼ林道沿いの健脚コースのようであるが、国土地理院地図にはもう少し直登なルートもある様子。
YAMAPに記載されたレポート「長野緑地公園から貫山のピストンです。2/3は舗装林道です。こちらから貫山を目指す人は少ないのか途中の山道はルートがハッキリしなくて…行きはウロウロ、帰りは案の定二回もコースアウト (´・ω`・)? 低山ですがヤマップが無ければ遭難するところでした!(笑) 」おやおや、危うく、倭建命になるところであった?・・・草薙剣がなくともYAMAPさえあれば・・・。
という訳で…長野ルートもあながち非現実的?なことではないようである。今はもう、道速振神・荒振神に出会うことはない、かも?・・・。
――――✯――――✯――――✯――――