2018年7月5日木曜日

倭建命:焼津・大沼・邇比婆理・都久波 〔229〕

倭建命:焼津・大沼・邇比婆理・都久波


漸く倭建命の段に届いた。ここは既に何度か見直してはいるのだが、やはり登場人物、地名等が多くあって読み飛ばしたり、解読未達であったりが出て来る。気を取り直して再挑戦である。過去の投稿を参照願うとして、新たに紐解いたところのみを述べてみよう。

尾張国から相武を経て邇比婆理に向かう段は、行程的にはそれほど奇異なところはなく素直に受け入れられるのであるが、一文字一文字を見ると曖昧な解釈で過ごしてきたように感じる。特に尾張の「美夜受比賣之家」が求められたことから、かなり角度の高い行程と思われた。既に投稿済だが、見直しを込めて再度述べてみたい。


美夜受比賣之家

この文字列に含まれる「美」の解釈を大幅に変更させた。大物主大神に関係する「美和山」の説話で「三勾」残ったから「美和」という記述の意味が読み取れていなかったというわけである。この説話は「三(ミ)」=「美(ミ)」で「三つ」という意味ですよ、と注意書きされているようなもの、普段は違うのですよ、と告げているのである。

けれども他に解釈のしようがなければ、やはり「三つ」で過ごしてしまうし、また「三つ」の解釈で何とか意味が通じれば、流れて行くわけである。でも、どこかしっくり来ないと感じていても、である。「美」は実に多数古事記に出現する。その度に「三つ」「身:姿・形」「微:微かに」などと訳して来たのが実情である。

がしかし、どうもしっくり来ない・・・というわけでかなりの時間を掛けて一から見直してみた。その結果は・・・、
<羊>


「羊」=「羊+大」であり、「大きな羊」が原義であり、それから上記のような意味へと転化して行ったと解説される。地形象形としては如何に解釈できるであろうか?…。

図に「羊」の甲骨文字を示した。この文字の上部を「二つ並んだ山稜」に見做すと、その下部は谷間及びそれから広がる扇状地を表し、それが「大」と読み取れる。安萬侶コード「美(谷間が広がる)」で登録である。

・・・となった。美和山の「美」は例外なのである。それで多くの「美」の解釈を上記に変更して納得のいく読み解きに至ったわけである。例示すると、後日に詳細を述べるが神功皇后の段に登場する「宇美」は「山麓の豊かなところ」のように紐解いたが、その場所の変更はないが、「比婆之山」(これが羊の上部の二つの山に該当)の谷間から広がるところと解読される。


<美夜受比賣>


美(谷間が広がる)|夜(谷)|受(引継ぐ)
 
…「谷間が広がるところを谷が引き継ぐ」と紐解ける。谷と谷とに挟まれ、その間に居た比賣と推定される。

「宇受賣命」「毛受」など「受」の前の文字が「受(引き継ぐ)」のであった。「美夜」=「三つの谷」としては、それが引き継ぐことになり、地形と合致しないのである。

図に示したように美夜受比賣の家は谷と谷に挟まれた土地である。この奥まったところこそ尾張の中心地であると古事記は記していると思われる。

さて、そこから長野川を下って相武国に向かう段取りである。原文を引用[武田祐吉訳]すると…、

故爾到相武國之時、其國造詐白「於此野中有大沼。住是沼中之神、甚道速振神也。」於是、看行其神、入坐其野。爾其國造、火著其野。故知見欺而、解開其姨倭比賣命之所給囊口而見者、火打有其裏。於是、先以其御刀苅撥草、以其火打而打出火、著向火而燒退、還出、皆切滅其國造等、卽著火燒。故、於今謂燒津也。[ここに相摸の國においで遊ばされた時に、その國の造が詐って言いますには、「この野の中に大きな沼があります。その沼の中に住んでいる神はひどく亂暴な神です」と申しました。依つてその神を御覽になりに、その野においでになりましたら、國の造が野に火をつけました。そこで欺かれたとお知りになって、叔母樣のヤマト姫の命のお授けになった嚢の口を解いてあけて御覽になりましたところ、その中に火打がありました。そこでまず御刀をもって草を苅り撥い、その火打をもって火を打ち出して、こちらからも火をつけて燒き退けて還っておいでになる時に、その國の造どもを皆切り滅し、火をつけてお燒きなさいました。そこで今でも燒津といっております]

相武国に至るまでの記述を行程図にしたものを示した。当初に掲載したものと大きくは異ならず、逆に言えば当時の海面を想定して進めば自ずと到達するところと思われる。課題はここに登場する文字の意味を如何に的を得た読み解きとするかである。


<尾張から相武へ>
少々前記と重なるところもあるが、道行きを記すと…現在は竹馬川が流れるところ、当時の海を水行して相武国の西端に辿り着く。

そこが図の「燒津」と示した場所である。現地名は小倉南区沼緑町辺りと思われる。

燒津

ところで「燒津」は倭比賣に貰った火打ち石で焼払ったのが謂れと述べている。

がしかし、それだけでは場所の特定には至らない。「燒津」の命名も地形象形ではなかろうか?・・・「燒」=「火+堯」と分解できる。「堯」=「高くて上が平ら」を意味を示すとある。すると「燒津」は…、


燒(火の形をした高くて上が平らなところ)|津(入江)

…「火の形をした高台の入江」と紐解ける。上図に示したように高蔵山の山麓が「血」(血沼)のように複数の稜線を持っている端に位置するところと判る。山稜の端が複数に分かれ「炎」の地形を示していると解釈される。

この地は神倭伊波禮毘古命と五瀬命が那賀須毘古との戦いに破れて五瀬命が負傷し、地を流したと伝えた場所、血沼海の近隣である。「燒」と「血」と表記された極めて特徴的な地形を示す場所である。「焼津」も立派な地形象形の表現であったと気付かされる。ところで、もう一つ平凡な表記ではあるが「大沼」が登場する。それを特定できるのであろうか?・・・。


大沼の道速振神

多くの沼が現在も存在する中で「大沼」を特定することは難しいが、それを示す表現が潜められているのではなかろうか?…関連する文字列は「道速振神」のみである。通説は神に掛かる枕詞「ちはやふる」と解釈されているようである(武田氏は”乱暴な”と訳す)。名前の無い神となってしまう。やはりこれが神の名前と思われる。では、何と紐解くか?・・・。

「道」=「辶+首(頭:カシラ)」、「速」=「辶+束」、「振」=「扌+辰」と分解する。「辰」=「二枚貝が足を出す象形」とされる。すると二通りの解釈ができるようである。一つは既に紐解いたように(こちらを参照)…、


道(人の頭)|速(束ねる)|振(振る舞う)

…「人の頭を束ねる振る舞いをする」荒振神(川の傍に蓆を被せた死体しかない神)と併せて表現される挙動を表している。一方…、


道(凹の地:沼)|速(束ねる)|振(沼から流れる川)

…「沼を束ねた沼から流れる川」と紐解ける。「首」は人体の上部の凹のところに付いていることによると思われる。現在の地名では下関市彦島の田ノ首など。

「大沼」は上流にある複数の沼からの川を集め、更にその沼から川が流れ出る地形を表していると解釈される。「燒津」近隣で探すと見事に合致する池が存在する。ここは「道速振神荒振神」とは記されず「荒振神」が付かないのである。図を参照願う。

隣国の科野国、茨木国の名前が示す通りに急傾斜の土地であり、相武国も全く同様であったと思われる。人が住めない、住みそうにないところに天孫達が侵出してきたことを繰り返し述べるのが古事記と読み解ける。


次いで、走水海を渡って再度上陸するのであるが、到着したのが「邇比婆理」である。


邇比婆理・都久波

上陸してから「足柄之坂本」に至るのであるが、歌でその途中通過した地名が登場する。「邇比婆理」「都久波」である。これらの文字を解釈してみよう。「邇比婆理」は…、

邇(近接する)|比(並ぶ)|婆(端)|理(区分けされた田)

…「近接して並ぶ端にある区分けされた田」と紐解ける。図に示したように稜線の端の高台が二つ並んでいるように見えるところである。現地名は細分化されているが、北九州市小倉南区沼新町、上・中吉田辺りと思われる。かなり広い団地が造成されているようである。「都久波」は…、

都久(筑=竹)|波(端)
都(集まる)|久(山稜)|波(端)

<相武国から甲斐へ>
…「足立山(竹和山)山系の端にある」又は「集まる山稜の端」とも解釈される。

「久」は山稜の象形とする。この地は天照大御神と速須佐之男命の宇気比で誕生した「天津日子根命」が祖となった「茨木国造」に関連するところである。

「茨木」=「山稜が重なり連なるところ」と紐解いたが、上記後者の解釈に繋がることが判る。両意に取れる表記と思われる。

地図を見てみよう。接岸した沼本町を上がると、現在は大規模な団地が形成されている。しかしながら、高蔵山、鋤崎山の稜線が大きく張り出したところであったことは明瞭である。

しかも黄色破線で囲んだように二つに分かれて並んでいることが伺える。この台地を暫く進むと北九州市門司区吉志の地名となる。ここが山稜の端が集まる「都久波」である。今回の見直しで「邇比婆理」「都久波」の場所もより確度高く求められたように思われる。

まだまだ道半ば、先に進めることにしよう・・・。