2018年5月8日火曜日

息長は鼻の長い地 〔207〕

息長は鼻の長い地


開化天皇の御子、日子坐王が日子国の袁祁都比賣命を娶って誕生したのが山代之大筒木眞若王と記載される。既に部分的には登場する人物の居場所など紐解いたのであるが、見直しも含めて更に詳細に調べてみようかと思う。日子坐王の段で登場する「息長」の地の詳細である。

古事記原文…、

山代之大筒木眞若王、娶同母弟伊理泥王之女・丹波能阿治佐波毘賣、生子、迦邇米雷王。此王、娶丹波之遠津臣之女・名高材比賣、生子、息長宿禰王。此王、娶葛城之高額比賣、生子、息長帶比賣命、次虛空津比賣命、次息長日子王。三柱。此王者、吉備品遲君、針間阿宗君之祖。又息長宿禰王、娶河俣稻依毘賣、生子、大多牟坂王。此者多遲摩國造之祖也。


同母の弟で日子国(現地名田川郡赤村内田大坂辺り)に居た伊理泥王の比賣、丹波能阿治佐波毘賣を娶ったと記される。誕生したのが迦邇米雷王とある。この王が娶ったのが丹波之遠津臣の比賣、高材比賣で、誕生したのが息長宿禰王と記される。「息長」が登場する。「丹波之遠津」の場所と「息長」が深く結び付いていることが示されている。

紐解いた原報はこちらを参照願うが、概略は以下の通り・・・、

丹波能阿治佐波毘賣の「阿治佐波=(台地)|(治水された)|(支える)|(端を)」として、丹波国の端にある場所、現地名行橋市稲童出屋辺り、音無川北側と推定した。

迦邇米雷王は「迦邇米雷=迦(施す)|邇(丹:赤)|米|雷(雨+田)」として「赤米の田に雨を施す王」と紐解いた。開化天皇紀に「旦波」→「丹波」へ表記が変わる。「日が昇る東の国」のイメージから「赤米の稲穂が波打つ国」へとしたようである。通説は「迦邇=蟹」である。同様に「和邇=鰐」「菟=うさぎ」とするが、古事記は生き物のことを示しているのではない。

丹波之遠津の「遠津=奥津」現在の行橋市稲童(稲童下)にある奥津神社辺りと推定した。

④息長一族として纏めて記述した。「息長」発祥の経緯を求めようと試みたものであるが、こちらも併せて参照願う。

・・・「息長」は丹波国の北部東岸にある地、現地名行橋市稲童・長井・元永、覗山山塊及びその東側に当たるところと推定された。

さて、読み残したところを紐解いてみよう。遠津臣の比賣の名前、しっかり居場所を示していたようである。

高材比賣

高材比賣の「高材」は何を意味しているのであろうか?…当初は後ろにある覗山の木材を示し、海辺にありながら「木」の匂いを表す命名、山が接近する地形であってこその場所であろう…と、纏めてみたが古事記はそんな叙情的な記述はしない、というかそれもありだが、地形を示すことも忘れない、であろう。

<高材比賣>
「材」=「木+才」と分解すると…、


高(高い)|材(山稜を僅かに)

…「山稜を僅かに高くなったところ」と紐解ける。何度も登場する安萬侶コードの「木」=「山稜」。坐したところは図に示した通り、山稜の端を登った高台の地形である。

石並古墳を見下ろす高台である。この地も含めて近隣は古くから人々が住まっていたところであろう。

「才」は名詞としては「才能」などに使われるが副詞として「僅かに、やっと」という意味を持つとある。日常は余り使用されないようでもある。鴎外の小説に使われたと例文にあったが・・・。

字源として「川の堰の材料の象形」いずれにしても日常的に使われている意味とは些か離れているようである。調べて真に適した場所が見つかり、一安心、というところであろうか・・・。

息長宿禰王

高材比賣の御子が「息長宿禰王」である。前記(息長一族)の丹波比古多多須美知能宇斯王、その母親の息長水依比賣の「息長」の地で示した通り、この地に住まう一族の名称であることが判る。何代もの皇統に絡む「息長」の重要性は既に述べた通りである。

日子坐王が近淡海之御上祝以伊都玖天之御影神の比賣、息長水依比賣を娶って誕生した「丹波比古多多須美知能宇斯王」(下図参照)の居場所から古事記中に初めて、かつ、いきなり出現する「息長」の地を推定したが、上記の遠津臣の比賣「高材比賣命」の居場所が特定されたことにより確かになったと思われる。「丹波之遠津」と「息長」の繋がりが解けは真に幸運であったような・・・。

また古事記は詳らかにはしないが「玖賀耳之御笠」もこの近隣に居たと推定した(下図参照)。天皇家に歯向かうだけの力を有していたことは間違いなかろう。特徴的で広大な州と山稜、豊かな地域である。

ところで「息長」の由来は何と紐解けるであろうか?…先に述べたような諸説ある中では納得できるような感じではない。通説では①拠点は近江、②生業は製鉄業、のようである。近淡海国→近江とするのだから、近いか?…根拠は希薄。「息長=息が長い=フイゴか?」→製鉄業・・・のようであるが、古事記が読み解けなかった典型的な例である。


<多多須美知>
「息長」の紐解きを行ってみよう・・・字源から「息」=「自+心」であるが、「自=鼻」と解説されている。確かに息をするのは鼻と心(心肺)であろう。

「鼻」↔「端」↔「花」(ハナ)である。端っこで突き出ているところを指し示すところと解釈される。「耳」と同じく人体を地形に象形した安萬侶コードと判る。

多多須美知(真直ぐな州の道)」=「鼻」=「息」と紐解ける。すると…、


息長=鼻(端)が長い

…地のことを表していたのである。現地名「行橋市長井」は"一字残し"であろう。前掲の図を示す。

白破線で囲んだところは、東の周防灘と西側(現在の標高6m以下)の入江で挟まれた「州」であったと推測される。恐ろしく長~い州である。

「遠津」また現在の奥津神社の「奥津」は海から遠く内陸に入り込んだ津を表していると解釈される。この言葉も長い州の地形を表していたのである。古代より多くの渡来があり人々が住まっていたところ、葛城を手中にした天皇家は彼らと複層の姻戚関係を結び、密接な繋がりを築いて行ったのである。

「玖賀耳之御笠」で示された原・住民の存在が浮かび上がって来る。この御笠に「息長」を付けなかったのは安萬侶くんの忖度なのであろうか・・・。


❶葛城之高額比賣
 
<山代之大筒木眞若王系譜>
図は日子国で誕生した「山代之大筒木眞若王」と「伊理泥王」の兄弟が関係する系譜である。大筒木眞若王が姪の「阿治佐波毘賣」を娶ったところから息長宿禰王の二つの娶りまでを示した。

高材比賣の御子、息長宿禰王が娶ったのが葛城之高額比賣であったと記される。この比賣の出自が明かされるのはずっと後の応神天皇紀となる。

唐突に思える出現であるが、見事に繋がった系譜となる。別途紐解いたこちらを参照願うが、「高額」は、現地名直方市永満寺の福智山西陵に突き出た「鷹取山」の地形象形と紐解いた。

日子坐王が山代の苅幡戸辨を娶って誕生した小俣王が祖となった「當麻勾」の近隣である。當麻と息長、それらは新羅から渡来した人々が絡む繋がりを伝えているのであろう。比賣の在所はその西麓にある下ノ田池近隣と推定された。

この比賣が息長帶比賣命、次虛空津比賣命、次息長日子王」の三人の御子を誕生させる。息長帶比賣命」=「神功皇后」の登場である。また領域が拡大して娶りが凄まじく入組んだ形になって行く。それぞれが巣立って行くのであるが、祖となった記述も併せて紐解いてみよう。


<針間阿宗・吉備品遲>
①息長日子王

祖となる「吉備品遲君」は吉備国(現在の下関市吉見)に設けられた品遲部(子代・名代)を示すとされるようだが、「君」と付くと地名と推定される。

先に「針間阿宗君」は何処を指すのであろうか?…針間国ではなく、これも吉備国内の場所であろう。

現地名の吉見上にある鬼ヶ城に向かう谷間を指し示していると思われる。


阿宗=阿(台地)|宗(山麓の高台)

…「台地の麓の更に高台があるところ」と紐解くと、「宗房」という地名がある。「宗(山麓の台地|房(小さく分かれた)」と読み解ける。ほぼ同義ではなかろうか。


品遲=品(段差)|遲(治水された田)

…「段差の地形に治水された田」がある場所を示している。鬼ヶ城の南西麓がその地形に当て嵌まるのではなかろうか。現地名は吉見上の奥畑となっている。

息長と吉備との関係については直接的な繋がりは見出だせない。勿論開化天皇まで遡れば済む話しなのであろうが・・・いずれにしても吉備への人材注入は決して絶えることはないようである。

②虛空津比賣命

「虚空」何度か登場の文字である。倭国の枕詞、また山佐知毘古に「虚空津日高」と修飾した表現もあった。「虚空=空っぽ」だから天孫降臨で移住して「虛空津=天津」は誰もいなくなったから…なんて解釈したが、これも間違ってはなかろうが、やはり地形象形と気付かされた。では、何と紐解く?…文字解釈に挑む。

<虛空津比賣命>
「虚」=「虎+丘」とされ「虎(巨:大きい)+丘」=「大きな丘」と解説されている。

これで解釈することもできるが、少し紐解いてみると…霊獣として対峙する「龍」は「淤迦美神(龗神)」として「川の蛇行」する様に比喩されている。

ならば「山」を意味しているのではなかろうか…山の神として崇敬の対象であったことはよく知られている。体表面の縞模様と山稜との相似も考えられる。


単に「大きな丘」ではなく「虚」=「山の傍らの丘陵」と解釈することができる。山があってその傍にある丘である。一般に「虚」=「中身・実体がない、一見では無いに等しい」という意味に相応しい解釈となる。

「空」=「宀+ハ+工」と徹底的に分解すると「麓にある谷で耕す田」の意味と思われる。纏めると…、


虚空=山の傍らの丘陵の麓にある谷で耕す田

…と紐解ける。何とか意味のある文字列に還元できたようである。すると・・・「虚空津日高=天津日高」の解釈がピシャリと填まるのである。既に詳述したように「天」は山稜とは言い難く大半は丘陵と看做される地形である。しかもそれは天香山(壱岐島の神岳)の傍らにあり、その谷間が作る津を「天津」と呼んでいたのである。

息長の地で探すと、上図<虚空津比賣命>に示した覗山の傍らの丘陵地帯にある谷間の場所が目に飛び込んで来る。現地名行橋市稲童の稲童下、鴨池辺りと推定される。古事記にはたった一度の登場であるが、息長帶比賣命の妹という位置付け、語られはしないが実際には活躍のあった比賣と推察される。


❷河俣稻依毘賣

息長宿禰王は「娶河俣稻依毘賣、生子、大多牟坂王。此者多遲摩國造之祖也」と記載される。主要人物多遲摩国造が誕生するのである。多遲摩国は丹波国というより「息長」の支配下にあったことを告げている。皇統との距離を適切に保って繁栄した一族と言えるであろう。

河俣稻依毘賣の「河俣」からは特定するのは難しいが、御子の名前「大多(大きな田)|牟坂(大きな坂)」及び多遲摩に近接することを併せて上図<山代之大筒木眞若王系譜>に示した場所とした。山稜と見做せる最先端であろう。

「息長」一族に絡んだ天皇及び太子は、垂仁天皇、景行天皇、倭建命、応神天皇、そして意富富杼王を経て継体天皇に繋がる。これほどまでに深い関係を結びながら大きな騒ぎも起こさず、だからこそ謎の一族として今日に至っているようである。本ブログも幾度か紐解きを行って来たが、判ったことは「新羅」からの渡来人達の生き様であることには間違いない、といったところであろうか・・・。