2017年7月16日日曜日

大倭国の天皇:雄略天皇 〔065〕

大倭国の天皇:雄略天皇


<本稿は加筆・訂正あり。こちらを参照願う>
雄略天皇紀、仁徳天皇に次ぐ説話の豊富さであるが、かなり趣を異にする。確かなことは邇藝速日命が「虚空見津日本国」と叫んで以来それを実現したのが雄略天皇の時代である。ただ古事記は多くは語らない。大倭豊秋津嶋の謂れを述べるに止める。

邇藝速日命及びそれに伴った多くの者が降臨した筈であるが、これも古事記は全く語らず闇の中にある。前記の「日下(ヒノモト)」=「クサカ」のようにその存在を残していることは疑えないが、垣間見る状況には変わりはない。彼らの存在を止揚し、古事記の中に浮かび上がらせることは可能なのか、大きな課題となった。が、それが歴史の紐解きなのだ、と信じる。

現在の福岡県田川郡香春町を流れる呉川、呉ダム、住所表示は同町鏡山呉及び小呉など今も残る地名は、「呉人」がその地の開発・開拓に果たした役割の大きさを物語るものであろう。大坂山山塊から流れ出す川の氾濫など決して穏やかな地ではなかったろう。

現在から百年ばかり遡るだけでも開拓(移民)の話が出現する。それと古代の開拓とを同じように扱うつもりはないが、携わる人々の心根に変わりはないように思う。「生きる」という最低限の存在価値と明日への不安を少しでも解消したいという欲求が人を動かす要因であろう。それが、つい最近までの日本の姿であった、としみじみ思う。

この地は仲哀天皇の穴門之豐浦宮があったところでもある。勿論通説はこんなところにある筈もない、というが暇が取り柄の老いぼれの紐解きは、複層的な歴史の変遷を指し示して止まない。自然の営みの中に人は存在するのであって、人の歴史も自然の営みの中に存在する、と思う。

最近の北九州集中豪雨の復旧状況を見て、古代の重機のない時代には自然との折り合いの付け方にどれだけ知恵を縛らねばならなかったかと思う。それにしても被害に遭われた方々の体調を祈るばかりである。

都夫良意富美


話を元に戻して、雄略天皇の娶り関連を見直してみよう。二人の比賣を娶る。一人は大日下王之妹・若日下部王、御子はなし。もう一人は都夫良意富美之女・韓比賣、御子は白髮命(後の清寧天皇)と若帶比賣命である。なんとも因縁めいた比賣ばかりでるあるが、一族の中心人物が殺害された者達の救済でもあったのかも? 他に居ないわけでもなかったであろうが、結果的に日嗣の候補が激減する。

安康天皇紀に記述された説話であるが、この天皇を殺害した目弱王の逃亡先が「都夫良意富美」のところであった。事件の場所を考察していなかったので、あらためて行うと、「大日下王」=「波多毘能大郎子」で、「波多毘」は現在の福岡県北九州市門司区城山町辺り、鹿喰峠に向かう入口に当たるところと推定した。

殺害された大日下王の后、長田大郎女(同母姉?)を安康天皇が大后とし「波多毘」の場所で、すっかり入替った様子である。やはり姉及王の一族の救済のような感じがするのだが、法律で禁じられているわけでもなし・・・。根臣の仕業とわかったからか?…ちょいとややこしい。

目弱王が逃げ込んだ「都夫良意富美」に関する記述はなく、ネットで検索である。祖父が葛城長江曾都毘古であり、立派な葛城一族であった。家を包囲されて差し出すのが比賣と葛城の五屯宅。合点がいく。その地の重臣となり、大日下王及び御子との関係も深いものであったろう。いや、王家に深く入り込んでいたのであろう。

葛城一族の広範囲に及ぶ勢力の拡大をそれとなく示し、重大事件としての性格を露わにしたものであろう…と、納得しかけてもどこか霧がかかったようでもある。後日の話としよう・・・。

目弱王は「波多毘」の宮から「都夫良」に逃げたということになる。「都夫良」も紐解けていない言葉の一つである。幼い御子の逃亡、決して遠くではないと推測する。関東在住の方ならすぐに「都夫良野トンネル」を連想されることであろうが、本「都夫良」は足柄の先にあるところではない。あ、いや、そんなに離れていないかも?

東から進むと神奈川県足柄上郡山北町辺りから谷蛾辺りまでの東名高速「都夫良野トンネル」である。まさかこの名前を紐解くことになるとは、不思議な感じでもある。この辺りを徘徊していた時が懐かしい。

「都夫良」=「螺羅(ツブラ)」=「小さな巻貝のような様」である。羅は状態を表す。「つぶらな瞳」である。「都夫良野トンネル」が横たわる山の上が「都夫良野」という地名である。丹沢山系大野山から南に延びる稜線を横切る「峠」にある公園からの展望良く、足柄が丸見えである。巻貝のような小高く盛り上がった地形の象形である。

この地形に酷似した場所が「鹿喰峠」である、というか、であった。採石場に隣接し、地形の変化が大きいが、当時を想起させるには十分である。ということで、「都夫良野トンネル」は「つぶら(な瞳)のトンネル」だった。

<鹿喰峠>

<神奈川県足柄上郡山北町>

少々遡るが反正天皇が丸邇之許碁登臣之女・都怒郎女を娶って生まれた御子に「都夫良郎女」がいた。おそらくこの都夫良の地で育てられ、姉は「甲斐郎女」で、こちらは酒折宮がある甲斐、ということなのだろう。この天皇は在位期間も短く、御子達も各地に分散したようである。

王子とその庇護者を滅ぼした大長谷命は韓比賣を娶る。どうやら娶ることによって比賣を含めたその一族の生活が保障されることになったのであろう。しっかり葛城の五屯宅は天皇の手に…。王の御子を庇って憤死した父の仇ではあるが、一族の延命が最優先であることは理解できる。後代に、おそらく、この地の王が継体天皇として招聘されるが、繋がりは不詳である。

説話は続き、「日下」の意味を教えてくれる。前記したように「邇藝速日命」に深く関連することであった。毎度のことながら古事記は「櫛玉命」について記述しない。その真意などいずれ紐解ければと思う。「引田部赤猪子」の説話になるが、この説話の挿入の背景などなかなか推し量り難いものである。雄略天皇の一側面などと言われてもなんともし難い感じである。

美和河・引田部


一応、出現する地名関連、「美和河」「引田部」について。「美和河」は現在の金辺川(清瀬川)であろう。「美和」は「美和山=畝火山」を根拠としてその傍を流れる川である。「引田部」は一般的な名称で特定は難しいが、「赤猪子」が「美和河」に衣を洗濯に来る場所、「引田」=「田を拡げる」と解釈すれば、現在の同県田川郡香春町長畑辺りではなかろうか。前記で「許呂母」と呼ばれた場所である。<追記>

更に説話は続き、「葛城山」の件となるが、「葛城山」は現在の福智山であろう。「博多之山」と呼ばれたりしているが、同一場所かと思われる。一言主大神*との遭遇、会話で「葛城」一族との融和などと読めるかもしれないが、それはまた後日のこととしよう。

そして吉野に出向いて「蜻蛉嶋」と雄叫びを上げるのである。大倭国の統治者としての宣言、万葉集の冒頭に飾られる歌と関連して感動溢れる場面である。邇邇芸命一派の成果として認知して良い出来事であろう。古事記の説話は身近な出来事に移って行くことになる。

最後の「伊勢國之三重婇」の説話について紐解いてみよう。これも通説ではどこかの出来事の挿入らしき解釈、一つには、この説話の場所と挿入歌が示す場所との相違などから、真実味に欠けるもののように扱われている。が、果たしてそうであろうか?

長谷朝倉宮・纏向日代宮


ちょっと長いが古事記原文[武田祐吉訳]

又天皇、坐長谷之百枝槻下、爲豐樂之時、伊勢國之三重婇、指擧大御盞以獻。爾其百枝槻葉、落浮於大御盞。其婇不知落葉浮於盞、猶獻大御酒。天皇看行其浮盞之葉、打伏其婇、以刀刺充其頸、將斬之時、其婇白天皇曰「莫殺吾身、有應白事。」卽歌曰、[また天皇が長谷の槻の大樹の下においでになって御酒宴を遊ばされました時に、伊勢の國の三重から出た采女が酒盃を捧げて獻りました。然るにその槻の大樹の葉が落ちて酒盃に浮びました。采女は落葉が酒盃に浮んだのを知らないで大御酒を獻りましたところ、天皇はその酒盃に浮んでいる葉を御覽になって、その采女を打ち伏せ御刀をその頸に刺し當ててお斬り遊ばそうとする時に、その采女が天皇に申し上げますには「わたくしをお殺しなさいますな。申すべき事がございます」と言って、歌いました歌、]
麻岐牟久能 比志呂乃美夜波 阿佐比能 比傳流美夜 由布比能 比賀氣流美夜 多氣能泥能 泥陀流美夜 許能泥能 泥婆布美夜 夜本爾余志 伊岐豆岐能美夜 麻紀佐久 比能美加度 爾比那閇夜爾 淤斐陀弖流 毛毛陀流 都紀賀延波 本都延波 阿米袁淤幣理 那加都延波 阿豆麻袁淤幣理 志豆延波 比那袁淤幣理 本都延能 延能宇良婆波 那加都延爾 淤知布良婆閇 那加都延能 延能宇良婆波 斯毛都延爾 淤知布良婆閇 斯豆延能 延能宇良婆波 阿理岐奴能 美幣能古賀 佐佐賀世流 美豆多麻宇岐爾 宇岐志阿夫良 淤知那豆佐比 美那許袁呂許袁呂爾 許斯母 阿夜爾加志古志 多加比加流 比能美古 許登能 加多理碁登母 許袁婆[纏向の日代の宮は朝日の照り渡る宮、夕日の光のさす宮、竹の根のみちている宮、木の根の廣がつている宮です。多くの土を築き堅めた宮で、りっぱな材木の檜ひのきの御殿です。その新酒をおあがりになる御殿に生い立っている一杯に繁った槻の樹の枝は、上の枝は天を背おっています。中の枝は東國を背おっています。下の枝は田舍を背おっています。その上の枝の枝先の葉は中の枝に落ちて觸れ合い、中の枝の枝先の葉は下の枝に落ちて觸れ合い、下の枝の枝先の葉は、衣服を三重に著る、その三重から來た子の捧げているりっぱな酒盃に浮いた脂あぶらのように落ち漬かって、水音もころころと、これは誠に恐れ多いことでございます。尊い日の御子樣]

「長谷朝倉宮」に坐す雄略天皇は「長谷」に聳える大きな槻の下で酒宴を開いた、と記述される。歌は「纏向」に立つ大きな槻(都紀)について語る。景行天皇の「纏向日代宮」のことを延々と述べる? 何故なら「長谷」の槻が「纏向日代宮」の傍に立つ槻であるから。

本ブログの「長谷朝倉宮」と「纏向日代宮」とは直線距離で1km弱しか離れていない(下図参照、宮原と鏡山)。収穫を祝うなら倭の中心で、ということなのである。

十代前の天皇の館が現存していたと述べている。そんなに昔からずっと変わらずにこの国を治めてきた。勿論傍で大きくなった槻も百枝だと。西に東にと「言向和」し(実行は倭建命)、大国への道を開いた天皇の宮を見守ってきた、それを見守ってきた槻の木の下で豊かな収穫を祝おうとしている時の出来事を述べている。

歌の内容は古事記が得意とする上・中・下である。それそれが繋がってるいるが、それぞれが異なる役割を果たす、今回も同様である。より強調されているのが下の枝、雄略天皇を比喩する。三重だというから全てを背負ってるとも解釈されよう。まぁ、これ以上の賛辞はない、かもしれない…。

ここに登場する言葉は全て繋がりをもっている。離れた場所にあって繋がりが無ければ、それは場所の設定が怪しいからである。「国譲り」で拡大膨張させてしまった後始末、如何される? 決して古事記の齟齬ではない。地名ピースは、物事の視点を決める、と同時に紐解くこの老いぼれの視点も、である。

これに続いて…

故獻此歌者、赦其罪也。爾大后歌、其歌曰、[そこで皇后樣のお歌いになりました御歌は]
夜麻登能 許能多氣知爾 古陀加流 伊知能都加佐 爾比那閇夜爾 淤斐陀弖流 波毘呂 由都麻都婆岐 曾賀波能 比呂理伊麻志 曾能波那能 弖理伊麻須 多加比加流 比能美古爾 登余美岐 多弖麻都良勢 許登能 加多理碁登母 許袁婆[大和の國のこの高町で小高くある市の高臺の、新酒をおあがりになる御殿に生い立っている廣葉の清らかな椿の樹、その葉のように廣らかにおいで遊ばされその花のように輝いておいで遊ばされる尊い日の御子樣に御酒をさしあげなさい]

歌の内容はともかく「纏向日代宮」の場所の情報である。「高町の小高くある市の高台」なんだか持って回ったような訳ではあるが、高いところにあったことは間違いないであろう。既に特定した「日代」=「日が背にある」と併せて田川郡香春町鏡山にある四王寺辺り(下図右下の卍)としたことと合致する表現である。


帝位の期間が短くなってるなかで二十数年を過ごしたのは立派だが、如何せん御子が少ないことは後に大きな影響を及ぼすことになる。古事記もいよいよ最終章を迎えることになる。

…と、まぁ、もう拡大膨張の時代ではなくなったようで・・・。

<追記>

2017.09.02
「美和山」の比定を修正した。現在の「足立山(旧名竹和山)」それに伴い「美和河」=「寒竹川」とする。北九州市小倉南区の妙見宮の脇を流れる川である。現在では「神嶽川」と呼称変更されている。

「引田部」は田を拡げるのであるが、文字通りで「潟に田を引いた」と解釈される。他の地の「引田部」と同じ解釈で素直なものとなった。

場所は現在の川の流れが当時とそんなに大きくは異ならないとして、同区熊本・三郎丸辺りではなかろうか。標高からその地の半分以上は海面下であったように推測される。

また、長い間音信不通であったとの記述であるが、旧の比定では宮との距離が近すぎるきらいがあった。筑紫国までの距離とすれば、より現実味を帯びた解釈になったのではなかろうか(地図参照)。


一言主大神*

於是答曰「吾先見問、故吾先爲名告。吾者、雖惡事而一言、雖善事而一言、言離之神、葛城之一言主大神者也。」天皇於是惶畏而白「恐我大神、有宇都志意美者不覺。」白而、大御刀及弓矢始而、脱百官人等所服衣服、以拜獻。爾其一言主大神、手打受其捧物。
[そこでお答え申しますには、「わたしは先に問われたから先に名のりをしよう。わたしは惡い事も一言、よい事も一言、言い分ける神である葛城の一言主の大神だ」と仰せられました。そこで天皇が畏まつて仰せられますには、「畏れ多い事です。わが大神よ。かよう
に現實の形をお持ちになろうとは思いませんでした」と申されて、御大刀また弓矢を始めて、百官の人どもの著ております衣服を脱がしめて、拜んで獻りました。そこでその一言主の大神も手を打つてその贈物を受けられました]

概ね武田氏の訳のように解釈されて来ているようである。しかし、いつものことながら「ひとこと」で善悪を言い分けるという内容と天皇が畏れ入ることが、決して違和感なく繋がっているわけでもない。言葉の意味は通じるが、一体何を伝えたいのかと考えると奇妙な文章である。
「一言主大神」が現実の姿を持っていることに恐れ入った、と読める内容であるとし、「一言」の意味は考慮に入っていないのである。どうやら「言」=「辛+口」として「大地を農具で耕地(口)にする」と紐解いた安萬侶コードの出番のようである。「一」=「総ての」として…、


一言主大神=総ての大地を耕地にすることを司る神

…と紐解ける。

では「雖惡事而一言、雖善事而一言、言離之神」は如何に解釈できるであろうか?…「事」=「祭事(まつりごと)」、これは「八重事代主神」の解釈で登場した。また「離」=「区分けする」とすると…、


悪しき祭り事であっても総ての耕地(口)を作り、
良き祭り事であっても総ての耕地(口)を作り、
その耕地を区分けして田にする神


…と読み解ける。

だからそんな大変な神が現実に目の前に現れたから畏敬したのである。祭り事に関係なく一言主大神が居れば田は見事に稲穂を揺らすようになると言っている。安心せよ!…とも受け取れるし、もっと祭祀せよ!…と言っているとも・・・。いずれにしろ葛城が豊かな大地へと変貌したことを告げているのである。

「言」について関連する名前 ①月讀命 ②比古布都押之信命→全て「大地を田にする」の解釈である。大地を「口」に切り取って田にする象形と紐解ける。
(2018.05.20)