2017年6月2日金曜日

『欠史八代』の天皇:その参〔044〕

『欠史八代』の天皇:その参


なんともドラマチックな展開を楽しませてくれたよ、安萬侶くん。後の相武国の「沼」その地に酷似する地形なのだから天皇達は多くの「沼」を造った筈、それが現在も残っていることもわかる。一々言わなくてもわかるでしょう?…それがわかるようなら1300年間も、あーだ、こーだ、と騒がなくても済んだのだけど…。

貴君の事情も斟酌して、先に話を進めよう・・・。開化天皇からは娶りの数も増え、その御子たちの動向も記述している。一度整理した結果を示してみる。古事記原文[武田祐吉訳](以下同様、丸数字挿入)

若倭根子日子大毘毘命、坐春日之伊邪河宮、治天下也。此天皇、娶①旦波之大縣主・名由碁理之女・竹野比賣、生御子、比古由牟須美命。一柱。此王名以音。又娶②庶母・伊迦賀色許賣命、生御子、御眞木入日子印惠命印惠二字以音、次御眞津比賣命。二柱。又娶③丸邇臣之祖日子國意祁都命之妹・意祁都比賣命意祁都三字以音、生御子、日子坐王。一柱。又娶④葛城之垂見宿禰之女・鸇比賣、生御子、建豐波豆羅和氣。一柱。自波下五字以音。此天皇之御子等、幷五柱。男王四、女王一。故、御眞木入日子印惠命者、治天下也。[ワカヤマトネコ彦オホビビの命(開化天皇)大和の春日のイザ河の宮においでになって天下をお治めなさいました。この天皇は、丹波の大縣主ユゴリの女のタカノ姫と結婚してお生みになった御子はヒコユムスミの命お一方です。またイカガシコメの命と結婚してお生みになった御子はミマキイリ彦イニヱの命とミマツ姫の命とのお二方です。また丸邇の臣の祖先のヒコクニオケツの命の妹のオケツ姫の命と結婚してお生みになた御子はヒコイマスの王お一方です。また葛城のタルミの宿禰の女のワシ姫と結婚してお生みになた御子はタケトヨハツラワケの王お一方です。合わせて五人おいでになりました。このうちミマキイリ彦イニヱの命は天下をお治めなさいました]

四人を娶ったとのことである。②の庶母を除いて他の三人が関係する国又は地域は、①旦波 ③日子国 ④葛城である。①「旦波国」=「福岡県行橋市稲童辺り」②「葛城」=「同県田川郡福智町辺り」と既に前記で比定した。

お世話になった葛城、恩を返すことも大切である。娶る女性がいるようになる、葛城はしっかりと開拓されたのである。尚、記載の国々及び地域名の地図は、古事記の国々を参照願う

日子国は初出であるが、例によって「日」=「邇藝速日命」とすれば、「日子国」=「邇藝速日命の子の国」=「同郡赤村内田」、春日の近隣と考えて無理がないと思われる。おそらくは現在の田川郡香春町柿本辺りではなかろうか。

第二世代は世継ぎの選定が中心、続く第三世代に多くの字数を割いている。

御子たちの活躍


其兄・比古由牟須美王之子、⑤大筒木垂根王、次⑥讚岐垂根王。二王。讚岐二字以音。此二王之女、五柱坐也。次日子坐王、娶⑦山代之荏名津比賣・亦名苅幡戸辨此一字以音生子、大俣王、次小俣王、次志夫美宿禰王。三柱。又娶⑧春日建國勝戸賣之女・名沙本之大闇見戸賣、生子、沙本毘古王、次袁邪本王、次沙本毘賣命・亦名佐波遲比賣此沙本毘賣命者、爲伊久米天皇之后。自沙本毘古以下三王名皆以音、次室毘古王。四柱。又娶⑨近淡海之御上祝以伊都玖此三字以音天之御影神之女・息長水依比賣、生子、⑩丹波比古多多須美知能宇斯王此王名以音、次水之穗眞若王、次神大根王・亦名八瓜入日子王、次水穗五百依比賣、次御井津比賣。五柱又娶⑪其母弟・袁祁都比賣命、生子、⑫山代之大筒木眞若王、次比古意須王、次伊理泥王。三柱。此二王名以音。凡日子坐王之子、幷十一王。[その兄ヒコユムスミの王の御子は、オホツツキタリネの王とサヌキタリネの王とお二方で、この二王の女は五人ありました。次にヒコイマスの王が山代のエナツ姫またの名はカリハタトベと結婚して生んだ子はオホマタの王とヲマタの王とシブミの宿禰の王とお三方です。またこの王が春日のタケクニカツトメの女のサホのオホクラミトメと結婚して生んだ子がサホ彦の王・ヲザホの王・サホ姫の命・ムロビコの王のお四方です。サホ姫の命はまたの名はサハヂ姫で、この方はイクメ天皇の皇后樣におなりになりました。また近江の國の御上山の神職がお祭するアメノミカゲの神の女オキナガノミヅヨリ姫と結婚して生んだ子は丹波ノヒコタタスミチノウシの王・ミヅホノマワカの王・カムオホネの王、またの名はヤツリのイリビコの王・ミヅホノイホヨリ姫・ミヰツ姫の五人です。また母の妹オケツ姫と結婚して生んだ子は山代のオホツツキのマワカの王・ヒコオスの王・イリネの王の三人です。すべてヒコイマスの王の御子は合わせて十五人ありました]

同様に関連する国名、地域名を抽出すると、⑤山代(大筒木) ⑥讃岐 ⑦山代 ⑧春日 ⑨近淡海 ⑩丹波 ⑪日子国 ⑫山代(大筒木)となる。山代3件、春日(日子国)2件と多い。日子国出身の袁祁都比賣命の御子、日子坐王の頑張りである。

「山代」=「福岡県京都郡犀川大坂・大村・木山・花熊辺り」、「讃岐」=「北九州市若松区小石辺り」、「近淡海国」=「福岡県行橋市稗田辺り」、「丹波」=「上記の旦波」であろう。

故、兄大俣王之子、曙立王、次菟上王。二柱。此曙立王者、⑬伊勢之品遲部君、伊勢之佐那造之祖。菟上王者、比賣陀君之祖。次小俣王者、⑭當麻勾君之祖。次志夫美宿禰王者、佐佐君之祖也。次沙本毘古王者、⑮日下部連、⑯甲斐國造之祖。次袁邪本王者、⑰葛野之別、⑱近淡海蚊野之別祖也。次室毘古王者、⑲若狹之耳別之祖[兄のオホマタの王の子はアケタツの王・ウナガミの王の二人です。このアケタツの王は、伊勢の品遲部・伊勢の佐那の造の祖先です。ウナガミの王は、比賣陀の君の祖先です。次にヲマタの王は當麻の勾の君の祖先です。次にシブミの宿禰の王は佐佐の君の祖先です。次にサホ彦の王は日下部の連・甲斐の國の造の祖先です。次にヲザホの王は葛野の別・近つ淡海の蚊野の別の祖先です。次にムロビコの王は若狹の耳の別の祖先です]

このあたりから「祖」となる記述が増える。⑬伊勢 ⑭當麻勾(葛城) ⑮日下 ⑯甲斐国 ⑰葛野 ⑱近淡海国 ⑲若狭である。「伊勢」=「北九州市小倉南区蒲生辺り」、「當麻勾(葛城)」=「福智町上野」(福智山西麓)、「甲斐国」=「北九州市門司区恒見」、「葛野」=「田川郡赤村赤」、「若狭」=「北九州市門司区今津辺り」と思われる。既に本ブログで比定したところである。

この世代になってくると東方十二道の中でも東方にある甲斐国、また高志道の途中にある若狭国などが出現する。

其美知能宇志王、娶⑳上之摩須郎丹波之河女、生子、比婆須比賣命、次眞砥野比賣命、次弟比賣命、次朝廷別王。四柱。此朝廷別王者、㉑三川之穗別之祖。此美知能宇斯王之弟、水穗眞若王者、㉒近淡海之安直之祖。次神大根王者、㉓三野國之本巢國造、長幡部連之祖[そのミチノウシの王が丹波の河上のマスの郎女と結婚して生んだ子はヒバス姫の命・マトノ姫の命・オト姫の命・ミカドワケの王の四人です。このミカドワケの王は、三川の穗の別の祖先です。このミチノウシの王の弟ミヅホノマワカの王は近つ淡海の安の直の祖先です。次にカムオホネの王は三野の國の造・本巣の國の造・長幡部の連の祖先です]

⑳丹波 ㉑三川 ㉒近淡海 ㉓三野国ある。「丹波」「近淡海」は上記の通り。「三野国」=「北九州市小倉南区朽網辺り」である。初出の「三川」は後日に解釈。「尾張国」の近隣である。

次山代之大筒木眞若王、娶㉔同母弟伊理泥王之女・丹波能阿治佐波毘賣、生子、迦邇米雷王。迦邇米三字以音。此王、娶㉕丹波之遠津臣之女・名高材比賣、生子、息長宿禰王。此王、娶㉖葛城之高額比賣、生子、息長帶比賣命、次虛空津比賣命、次息長日子王。三柱。此王者、㉗吉備品遲君、㉘針間阿宗君之祖。又息長宿禰王、娶河俣稻依毘賣、生子、大多牟坂王。多牟二字以音。此者㉙多遲摩國造之祖也。上所謂建豐波豆羅和氣王者、道守臣、忍海部造、御名部造、㉚稻羽忍海部、㉛丹波之竹野別、㉜依網之阿毘古等之祖也[その山代のオホツツキマワカの王は弟君イリネの王の女の丹波のアヂサハ姫と結婚して生んだ御子は、カニメイカヅチの王です。この王が丹波の遠津の臣の女のタカキ姫と結婚して生んだ御子はオキナガの宿禰の王です。この王が葛城のタカヌカ姫と結婚して生んだ御子がオキナガタラシ姫の命・ソラツ姫の命・オキナガ彦の王の三人です。このオキナガ彦の王は、吉備の品遲の君・播磨の阿宗の君の祖先です。またオキナガの宿禰の王が、カハマタノイナヨリ姫と結婚して生んだ子がオホタムサカの王で、この方は但馬の國の造の祖先です。上に出たタケトヨハヅラワケの王は、道守の臣・忍海部の造・御名部の造・稻羽の忍海部・丹波の竹野の別・依網の阿毘古等の祖先です]

㉔㉕㉛丹波 ㉖葛城 ㉗吉備 ㉘針間 ㉙多遅摩 ㉚稲羽 ㉜依網が記載されている。「丹波」、「葛城」は上記の通り。「吉備」=「山口県下関市吉見辺り」、「針間」=「福岡県築上郡築上町椎田辺り」、「多遅摩」=「同県行橋市松原辺り」、「稲羽」=「同県築上郡築上町八田辺り」と思われる。これらは既に比定したところである。「依網」は不明(後日に解釈)。川と海が混じり合うところなのであろうが…。相関図(母系)として示すと…


例示すると、母方①丹波(竹野比賣)→御子(比古由牟須美王)→御子(⑤大筒木垂根王:山代、⑥讚岐垂根王:讃岐)の場合、春日と丹波、丹波と山代、丹波と讃岐の3本の相関線を引く。比古由牟須美王に后の記述があれば、そちらにシフトする。古事記が全ての婚姻関係を記述するわけではないので、簡易の母系となる。

そうしてみると春日を中心とした図になるが、母方からの相関線も多数発生し、山代、丹波、近淡海、葛城からの相関も重要となっている。姻戚関係からの「言向和」領域の拡大状況を知るには都合の良い図になるかもしれず、今後の各天皇の有様について纏めることにする。

開化天皇は上記のごとくの閨閥を作られて「伊邪河之坂上(赤村内田山の内)」に葬られた。三世代に係る相関図であれば納得できるところではあるが、急速に発展していることには違いがないであろう。次の崇神天皇に期待しよう。

…と、まぁ、今日のところはこの辺で・・・。