清寧天皇・顕宗天皇

雄略天皇                      仁賢天皇・武烈天皇

清寧天皇・顕宗天皇


1. 白髮大倭根子命(清寧天皇)

雄略天皇が逝って、争いが起こる数の御子も無く、白髮大倭根子命が即位する。名前の通りに病弱な天皇であったようである(見事に地形象形の表記でもあるが…前記参照)。后も娶らず、当然御子も無く崩御されたと記述される。

古事記原文[武田祐吉訳](以下同様)…、

御子、白髮大倭根子命、坐伊波禮之甕栗宮、治天下也。此天皇、無皇后、亦無御子、故御名代定白髮部。故、天皇崩後、無可治天下之王也。於是、問日繼所知之王、市邊忍齒別王之妹・忍海郎女・亦名飯豐王、坐葛城忍海之高木角刺宮也。
[御子のシラガノオホヤマトネコの命、大和の磐余の甕栗の宮においでになつて天下をお治めなさいました。この天皇は皇后がおありでなく、御子もございませんでした。それで御名の記念として白髮部をお定めになりました。そこで天皇がお隱れになりました後に、天下をお治めなさるべき御子がありませんので、帝位につくべき御子を尋ねて、イチノベノオシハワケの王の妹のオシヌミの郎女、またの名はイヒトヨの王が、葛城のオシヌミの高木のツノサシの宮においでになりました]

<白髮大倭根子命>
大長谷若建命(雄略天皇)が都夫良意富美之女・韓比賣を娶って生まれた御子の白髮命が即位したと記される。

天皇となって和風諡号が付加されるのであるが、「大倭」が含まれている。勿論「大和」ではない。

速須佐之男命が降臨した鳥髪の頂及びそれから伸びる山稜を表したものと思われる。

そしてその山稜の端にくっ付いた「白髪」を「子」と見做したのである。

和風諡号に含まれた文字列が示す地形と現在の地形が極めて明瞭に解読される例の一つであろう。当たり前のことだが、標高差が大きくなれば地図上の読み取りが容易になる。

古事記中「大倭」の登場は、これが最後である。葛城に坐した天皇に集中した名称であり、それからのみ推論すると「大倭=葛城」と勘違いされそうだが、「白髮大倭根子命」は「大倭」が固有の名称ではないことを明かしてくれている。「大倭」=「平らな頂の山稜がしなやかに曲がってところ」であると確信する。
 
伊波禮之甕栗宮

<伊波禮の宮>
「伊邪本和氣命(履中天皇)、坐伊波禮之若櫻宮」

「白髮大倭根子命(清寧天皇)、坐伊波禮之甕栗宮」

「品太王五世孫・袁本杼命(継体天皇)、坐伊波禮之玉穗宮」

…の三つの宮がある。

前記履中天皇紀で紐解いたように「甕栗宮」は香春一ノ岳の南、JR日田彦山線香春駅近隣にあったと推定した。

倭国を統治したと宣言した雄略天皇の御子は畝火山の麓、倭国の中心の地に宮を構えたのである。

堂々たる大国を築き、そこに君臨し、永遠の支配を継続する心算であったろう。

が、古事記も呆気なくお隠れになったと記述する。倭国は日嗣の問題で混迷の時期に突入したと伝えている。

葛城忍海之高木角刺宮

急遽、市邊忍齒別王之妹・忍海郎女(亦名飯豐王)が「葛城忍海之高木角刺宮」で執政した。他の人選もあったのであろうが、不明である。葛城氏がしっかり国政に関わっていたことが伺える。

「葛城忍海之高木角刺宮」の場所について紐解いてみよう。「忍海」=「海を忍ばせている」または「山稜が延びて刃のようになっている」ところである。市邊忍齒別王が居た「市辺」は現在の福岡県田川郡福智町市場辺りとしたが、その近辺であろう。
 
高(皺の筋のような)|木(山稜)|角(突き出る)|刺(棘)

…「皺の筋目のような山稜にある棘のような地形」と紐解ける。現地名は福智町上野上里の福智下宮神社辺りと推定される。伊邪那岐・伊邪那美が生んだ佐度嶋にあり、大国主命の生誕の地、刺国を棘の地形象形として紐解いた。類似する表現と思われる。
 
<葛城忍海之高木角刺宮>
葛城の地名については、海と川との混在の場所との表記が再現よく繰り返される。

決して内陸にある地ではない。況やその地に忍海なんていう地はあり得ない。

また、この地が「欠史八代」の天皇達によって開拓された地であること、当然それを実行した葛城氏の権勢は揺るぎ難いものであったろう。

加えて建内宿禰の子孫達の倭国に羽ばたいた活躍も見逃せないものであろう。

「亦名飯豐王」は履中天皇紀で紐解いたように「豐」=「多くの段差がある高台」として…、
 
なだらかな山麓で多くの段差がある高台

…に坐していた王と解釈される。あらためて地形を眺めると「豐」の文字解釈は慎重に行う必要があることが判る。それだけ多様な意味を持たせて使われているのであろう。「青」→「忍」の置換えが可能なことが確認できたのは貴重である。

「角刺」の場所が一に特定できることから、この宮は現在の福智下宮神社である可能性が極めて高いものと思われる。福智上宮、中宮、下宮の三宮の一つであると解説されている。創立707年とも。
 
急遽のことで自分の住まう地に宮を設置したことは実に現実的で、尤もらしく映る出来事である。緊急事態を包み隠さず記述しているように伺える。天皇暗殺という前代未聞の出来事の後始末には多くの時間を要したのであろう。
 
――――✯――――✯――――✯――――

日嗣が途切れて、針間に逃げた市邊忍齒別王の御子達の説話に入る。事の真偽は別としても皇統存続の危機的状況には変わりはない。継続するには大変な力が要る、ということである。志毘臣を排除する説話もこれまでの古事記の記述とは、少々感じが異なる。が、今は先に進めよう。

意祁命・袁祁命

爾山部連小楯、任針間國之宰時、到其國之人民・名志自牟之新室樂。於是、盛樂酒酣、以次第皆儛。故燒火少子二口、居竈傍、令儛其少子等。爾其一少子曰「汝兄先儛。」其兄亦曰「汝弟先儛。」如此相讓之時、其會人等、咲其相讓之狀。爾遂兄儛訖、次弟將儛時、爲詠曰、
物部之、我夫子之、取佩、於大刀之手上、丹畫著、其緖者、載赤幡、立赤幡、見者五十隱、山三尾之、竹矣訶岐此二字以音苅、末押縻魚簀、如調八絃琴、所治賜天下、伊邪本和氣、天皇之御子、市邊之、押齒王之、奴末。
爾卽小楯連聞驚而、自床墮轉而、追出其室人等、其二柱王子、坐左右膝上、泣悲而、集人民作假宮、坐置其假宮而、貢上驛使。於是、其姨飯豐王、聞歡而、令上於宮。
故、將治天下之間、平群臣之祖・名志毘臣、立于歌垣、取其袁祁命將婚之美人手。其孃子者、菟田首等之女・名大魚也。爾袁祁命亦立歌垣。於是志毘臣歌曰、
意富美夜能 袁登都波多傳 須美加多夫祁理
如此歌而、乞其歌末之時、袁祁命歌曰、
意富多久美 袁遲那美許曾 須美加多夫祁禮
爾志毘臣、亦歌曰、
意富岐美能 許許呂袁由良美 淤美能古能 夜幣能斯婆加岐 伊理多多受阿理
於是王子、亦歌曰、
斯本勢能 那袁理袁美禮婆 阿蘇毘久流 志毘賀波多傳爾 都麻多弖理美由
爾志毘臣愈忿、歌曰、
意富岐美能 美古能志婆加岐 夜布士麻理 斯麻理母登本斯 岐禮牟志婆加岐 夜氣牟志婆加岐
爾王子、亦歌曰、
意布袁余志 斯毘都久阿麻余 斯賀阿禮婆 宇良胡本斯祁牟 志毘都久志毘
如此歌而、鬪明各退。明旦之時、意祁命・袁祁命二柱議云「凡朝廷人等者、旦參赴於朝廷、晝集於志毘門。亦今者志毘必寢、亦其門無人。故、非今者難可謀。」卽興軍圍志毘臣之家、乃殺也。
於是、二柱王子等、各相讓天下。意祁命讓其弟袁祁命曰「住於針間志自牟家時、汝命不顯名者、更非臨天下之君。是既汝命之功。故吾雖兄、猶汝命先治天下。」而、堅讓。故不得辭而、袁祁命先治天下也。
[ここに山部の連小楯が播磨の國の長官に任命されました時に、この國の人民のシジムの家の新築祝いに參りました。そこで盛んに遊んで、酒酣たけなわな時に順次に皆舞いました。その時に火焚きの少年が二人竈の傍におりました。依つてその少年たちに舞わしめますに、一人の少年が「兄上、まずお舞いなさい」というと、兄も「お前がまず舞いなさい」と言いました。かように讓り合つているので、その集まつている人たちが讓り合う有樣を笑いました。遂に兄がまず舞い、次に弟が舞おうとする時に詠じました言葉は、武士であるわが君のお佩きになつている大刀の柄に、赤い模樣を畫き、その大刀の緒には赤い織物を裁つて附け、立つて見やれば、向うに隱れる山の尾の上の竹を刈り取つて、その竹の末を押し靡かせるように、八絃の琴を調べたように、天下をお治めなされたイザホワケの天皇の皇子のイチノベノオシハの王の御子です。わたくしは。と述べましたから、小楯が聞いて驚いて座席から落ちころんで、その家にいる人たちを追い出して、そのお二人の御子を左右の膝の上にお据え申し上げ、泣き悲しんで民どもを集めて假宮を作つて、その假宮にお住ませ申し上げて急使を奉りました。そこでその伯母樣のイヒトヨの王がお喜びになつて、宮に上らしめなさいました。そこで天下をお治めなされようとしたほどに、平群の臣の祖先のシビの臣が、歌垣の場で、そのヲケの命の結婚なされようとする孃子の手を取りました。その孃子は菟田の長の女のオホヲという者です。そこでヲケの命も歌垣にお立ちになりました。ここにシビが歌いますには、
御殿のちいさい方の出張りは、隅が曲つている。
かく歌つて、その歌の末句を乞う時に、ヲケの命のお歌いになりますには、
大工が下手だつたので隅が曲つているのだ。
シビがまた歌いますには、
王子樣の御心がのんびりしていて、臣下の幾重にも圍つた柴垣に入り立たずにおられます。
ここに王子がまた歌いますには、
潮の寄る瀬の浪の碎けるところを見れば遊んでいるシビ魚の傍に妻が立つているのが見える。
シビがいよいよ怒つて歌いますには、
王子樣の作つた柴垣は、節だらけに結びしてあつて、切れる柴垣の燒ける柴垣です。
ここに王子がまた歌いますには、
大きい魚の鮪を突く海人よ、その魚が荒れたら心戀しいだろう。 鮪を突く鮪の臣よ。
かように歌つて歌を掛け合い、夜をあかして別れました。翌朝、オケの命・ヲケの命お二方が御相談なさいますには、「すべて朝廷の人たちは、朝は朝廷に參り、晝はシビの家に集まります。そこで今はシビがきつと寢ているでしよう。その門には人もいないでしよう。今でなくては謀り難いでしよう」と相談されて、軍を興してシビの家を圍んでお撃ちになりました。
ここでお二方の御子たちが互に天下をお讓りになつて、オケの命が、その弟ヲケの命にお讓り遊ばされましたには、「播磨の國のシジムの家に住んでおつた時に、あなたが名を顯わさなかつたなら天下を治める君主とはならなかつたでしよう。これはあなた樣のお手柄であります。ですから、わたくしは兄ではありますが、あなたがまず天下をお治めなさい」と言つて、堅くお讓りなさいました。それでやむことを得ないで、ヲケの命がまず天下をお治めなさいました]

意祁命と袁祁命が身を隠した…と言うかしっかりこき使われて苦労をしていた記述であるが…志自牟の新居に新しく針間国に赴任した小楯長官が訪れ、運命の出会いがあったと告げる。それを知った葛城の叔母は大喜び、即決で迎え入れた、と一気に次期天皇の話に飛ぶ。

袁祁命が娶ろうとする比賣も参加した歌垣での出来事が述べられる。平群臣之祖となる志毘臣との遣り取りが続くのであるが「凡朝廷人等者、旦參赴於朝廷、晝集於志毘門」の背景が全てであろう。雄略天皇紀に述べられた志幾にあった宮のような立派な鰹木の家、葛城の一言主の出現も倭国の繁栄は各地の豪族の繁栄の上に成り立っていたのである。

中央集権的な統治体制が未熟な時代におこる歴史的過程であろう。「言向和」戦略の転換期と言える。最も手っ取り早い解決方法はモグラ叩きであろう。出る杭を一つ一つ打つことである。二人の命は早いうちに打て、と判断した。いずれにしても天皇家の歴史は取巻く豪族達の影響を抜きにしては語られないと言われる所以であろう。

話し合いの結果弟の袁祁命が即位する。空位だった皇位が埋まったのである。何とも危いところであった。急激な少子化が招いた皇位継続の危機であったことが伺える。この説話に登場した人物の居所を探ってみよう。
 
平群の志毘

平群は建内宿禰の子、平群都久宿禰が切り開いた地であり、現在の福岡県田川市~田川郡に横たわる丘陵地帯であると比定した。「志毘」は地形象形として紐解けるであろうか?・・・「志」=「之:蛇行する川」と思われるが、「毘」は波多毘の「臍(ヘソ)」あるいは開化天皇の諡号である毘毘命の「坑道の前に並ぶ人々を助ける(増やす)」では平群の丘陵地帯に合致する場所はなさそうである。

「毘古」の場合と同様に「毘」=「田+比」と分解して、「田を並べる」と読むと、「志毘」は…、
 
志(蛇行する川)|毘(田を並べる)

…「蛇行する川の傍らで田を並べたところ」と解釈される。現在の田川郡川崎町田原辺り(現在は西・中・東田原と細分化されているようだが…)と推定される。中元寺川と櫛毛川が合流する地点であり、川崎町の中心の地と思われる。山間の場所ではあるが、真に豊かな川の水源とその流域の開拓によって繁栄してきたものと推察される。
 
<志毘・菟田>
茨田(松田)は谷間を利用した水田である。給水と排水が自然に行われ初期の水田開発には最も適したところであったが、その耕地面積の拡大には限りがある。

一方、平地が沖積によって急激に拡大し河川の築堤、排水の手段が講じられるようになると圧倒的に耕地面積が増加していったものと推察される。

生産量の増大が生んだ豪族間格差の広がりを示しているようである。


平群は内陸にあり、都から遠く離れたところであり、決して先進の地ではなかったであろう。この地理的条件が天皇不在時に志毘という人物を登場させる要因であったと思われる。
 
結果的には叩き潰されてしまうのであるが、彼以外にも登場して何ら不思議ではない人物も居たことであろう。時の流れ、地形の変化、水田耕作の進化等々、それらを記述していると読み取ることができる説話と思われる。
 
では娶ろうとした美人の「菟田首等之女・名大魚」は何処に住まっていたのであろうか?・・・。
 
菟田首等

まかり間違っても「菟田」は「ウダ」ではない。「菟田」=「斗田(トダ)」である。高山の「斗」ではなく丘陵地帯の「斗」で少々判別が難しく感じるが、上記の「志毘」の近隣にあった。
 
<菟田首等・大魚>
「首等」は「斗」が作る「首」の形を捩ったものであろう。下関市彦島田の首町に類似する。

更に「等」の文字は初登場である。古事記が記述する範囲外では重要人物に用いられたようであるが、「等(ラ)」で読み飛ばすところであった。固有名詞ならば地形を表している筈であろう。

「等」=「竹(小ぶりな山稜)+寺」と分解すると、「寺」=「之:蛇行する川」と紐解ける。伊邪那岐の禊祓で誕生の時量師神など。

「等」=「小ぶりな山稜の谷間を蛇行して流れる川」を表していると読み解ける。この「斗」の地に全て揃っていることが解る。

美人と聞けば、どうしてもその謂れが知りたくなる…という訳で求めた結果は、やはりそのままズバリの地形象形のようである。お蔭で、少々「菟=斗」の形が崩れかかっている地ではあったが、比定確度が一気に高まった、と思われる。それにしても魚の真ん中の「田」と下の「灬」の部分を上手く捉えたものである。

加えて二人の御子と志毘臣との遣り取りの歌、何となく分かりそうではあるが、原文の直接的な解釈が今一でもある。案の定、志毘臣及び大魚の居場所が潜められていた。再度抜き出すと「斯本勢能 那袁理袁美禮婆 阿蘇毘久流 志毘賀波多傳爾 都麻多弖理美由[潮の寄る瀬の浪の碎けるところを見れば遊んでいるシビ魚の傍に妻が立つているのが見える]」。

①斯本勢能

「斯」=「切り分ける」、「本」=「山麓」、「勢」=「山稜に挟まれた小高いところ」、「能」=「熊:隅」とすれば…、
 
山麓を切り分けた小高いところの隅

…と紐解ける。

②那袁理袁美禮婆

「那」=「整った」、「袁」=「ゆったりとした山麓の三角州」、「理」=「区分けされた田」、「美」=「谷間に広がる地」、「禮」=「高台」、「婆」=「端」とすれば…、
 
整ったゆったりとした山麓の三角州に区分けされた田があり
その三角州の谷間に広がる地の高台の端

…と紐解ける。

③阿蘇毘久流

「阿」=「台地」、「蘇」=「山稜が寄り集まる」、「毘」=「田を並べる」、「久」=「[く]の形」、「流」=「広がる」とすれば…、
 
山稜が寄り集まった台地に田が並べられて[く]の形に広がる

…と紐解ける。


<志毘臣>
④志毘賀波多傳爾

「波多」=「端」、「傳」=「続く」とすれば…、
 
志毘の端に続くところで

…と紐解ける。

⑤都麻多弖理美由

「都麻」=「妻」とすれば…上記の武田氏の訳通り「妻が立っているのが見える」となるが・・・。

「都(集まる)」、「麻(近接する)」、「多(山稜の端の三角州)」、「弖([弓]の形)」、「理(区分けされた田)」、「美(谷間に広がる地)」、「由(如し)」とすると…、


近接する山稜の端の三角州が集まり谷間に広がる地で
曲りくねって区分けされた田がある様子

…と紐解ける。回りくどいようだが「大魚」(とりわけ尾の部分)の地形をそのまま述べていると思われる。「弖」=「[弓]の形:曲りくねる様」と読み解く。安康天皇紀に登場する目弱王の「弱」の解釈に類似する。

「妻(大魚)」と志毘臣の場所を見事に表している歌であることが解る。初見では志毘臣の場所をもう少し南側と推定したが、「志毘」の情報からだけでは何とも特定し辛いところであった。上記の歌は極めて詳細である。これこそ「古事記の暗号」と言えるのではなかろうか。

「斯」、「勢」、「袁」、「阿」、「蘇」、「久」、「麻」、「多」、「美」など地形を表す文字が盛り沢山に使われている。そして重要なことは「志毘」と「大魚」の位置関係、正に両者は目と鼻の先、しっかり見張れる位置なのである。だから志毘臣が”切れた”。

最後の歌、「意布袁余志 斯毘都久阿麻余 斯賀阿禮婆 宇良胡本斯祁牟 志毘都久志毘[大きい魚の鮪を突く海人よ、その魚が荒れたら心戀しいだろう。 鮪を突く鮪の臣よ]」は、お前の傍にいる大魚(鮪:シビ)は私の妻になる…と止めをさしているのである。

「志毘」=「鴟尾(シビ)」も掛けられているのかもしれない。宮殿の大棟に取り付けられる鳥の尾の形とのこと…それを突いてはいけません。兄弟の謀議は必然的に行われた、と伝えている。

「志毘」の出自は語られないが、平群臣の祖となった平群都久宿禰を遠祖に持つのであろう。天皇家の混乱に乗じて新興勢力として力を示していた様子が伺える。彼らは葛城一族なのであるが、時を経るに従って同じ一族間でも主導権争いは生じるものである。その一面を説話が伝えたものと推察される。
 
2. 袁祁之石巢別命(顯宗天皇)

幼い時に父親を惨殺された記憶は決して消し去ることはできない。また決死の逃亡をの途中で降りかかった災難も同じこと、二人の命にとってこれらの清算が課題となったのである。

伊弉本別王御子、市邊忍齒王御子・袁祁之石巢別命、坐近飛鳥宮治天下、捌也。天皇、娶石木王之女・難波王、无子也。此天皇、求其父王市邊王之御骨時、在淡海國賤老媼、參出白「王子御骨所埋者、專吾能知。亦以其御齒可知。」御齒者、如三技押齒坐也。爾起民掘土、求其御骨、卽獲其御骨而、於其蚊屋野之東山、作御陵葬、以韓帒之子等、令守其陵。然後持上其御骨也。
故還上坐而、召其老媼、譽其不失見置・知其地、以賜名號置目老媼、仍召入宮、敦廣慈賜。故其老媼所住屋者、近作宮邊、毎日必召。故鐸懸大殿戸、欲召其老媼之時、必引鳴其鐸。爾作御歌、其歌曰、
阿佐遲波良 袁陀爾袁須疑弖 毛毛豆多布 奴弖由良久母 淤岐米久良斯母
於是、置目老媼白「僕甚耆老、欲退本國。」故隨白退時、天皇見送、歌曰、
意岐米母夜 阿布美能於岐米 阿須用理波 美夜麻賀久理弖 美延受加母阿良牟
初天皇、逢難逃時、求奪其御粮猪甘老人。是得求、喚上而、斬於飛鳥河之河原、皆斷其族之膝筋。是以、至今其子孫、上於倭之日、必自跛也。故能見志米岐其老所在志米岐三字以音、故其地謂志米須也。
天皇、深怨殺其父王之大長谷天皇、欲報其靈。故、欲毀其大長谷天皇之御陵而、遣人之時、其伊呂兄意祁命奏言「破壞是御陵、不可遣他人、專僕自行、如天皇之御心、破壞以參出。」爾天皇詔「然隨命宜幸行。」是以意祁命、自下幸而、少掘其御陵之傍、還上復奏言「既掘壞也。」
爾天皇、異其早還上而詔「如何破壞。」答白「少掘其陵之傍土。」天皇詔之「欲報父王之仇、必悉破壞其陵、何少掘乎。」答曰「所以爲然者、父王之怨、欲報其靈、是誠理也。然、其大長谷天皇者、雖爲父之怨、還爲我之從父、亦治天下之天皇。是今單取父仇之志、悉破治天下之天皇陵者、後人必誹謗。唯父王之仇、不可非報、故、少掘其陵邊。既以是恥、足示後世。」如此奏者、天皇答詔之「是亦大理、如命可也。」
故、天皇崩、卽意祁命、知天津日繼。天皇御年、參拾捌、治天下八。御陵在片岡之石坏岡上也
[イザホワケの天皇の御子、イチノベノオシハの王の御子のヲケノイハスワケの命、河内の國の飛鳥の宮においで遊ばされて、八年天下をお治めなさいました。この天皇は、イハキの王の女のナニハの王と結婚しましたが、御子はありませんでした。この天皇、父君イチノベの王の御骨をお求めになりました時に、近江の國の賤しい老婆が參つて申しますには、「王子の御骨を埋めました所は、わたくしがよく知つております。またそのお齒でも知られましよう」と申しました。オシハの王子のお齒は三つの枝の出た大きい齒でございました。そこで人民を催して、土を掘つて、その御骨を求めて、これを得てカヤ野の東の山に御陵を作つてお葬り申し上げて、かのカラフクロの子どもにこれを守らしめました。後にはその御骨を持ち上りなさいました。かくて還り上られて、その老婆を召して、場所を忘れずに見ておいたことを譽めて、置目の老媼という名をくださいました。かくて宮の内に召し入れて敦くお惠みなさいました。その老婆の住む家を宮の邊近くに作つて、毎日きまつてお召しになりました。そこで宮殿の戸に鈴を掛けて、その老婆を召そうとする時はきつとその鈴をお引き鳴らしなさいました。そこでお歌をお詠みなさいました。その御歌は、
茅草の低い原や小谷を過ぎて鈴のゆれて鳴る音がする。置目がやつて來るのだな。
ここに置目が「わたくしは大變年をとりましたから本國に歸りたいと思います」と申しました。依つて申す通りにお遣わしになる時に、天皇がお見送りになつて、お歌いなさいました歌は、
置目よ、あの近江の置目よ、明日からは山に隱れてしまつて見えなくなるだろうかね。
初め天皇が災難に逢つて逃げておいでになつた時に、その乾飯を奪つた豚飼の老人をお求めになりました。そこで求め得ましたのを喚び出して飛鳥河の河原で斬つて、またその一族どもの膝の筋をお切りになりました。それで今に至るまでその子孫が大和に上る日にはきつとびつこになるのです。その老人の所在をよく御覽になりましたから、其處をシメスといいます。
天皇、その父君をお殺しになつたオホハツセの天皇を深くお怨み申し上げて、天皇の御靈に仇を報いようとお思いになりました。依つてそのオホハツセの天皇の御陵を毀ろうとお思いになつて人を遣わしました時に、兄君のオケの命の申されますには、「この御陵を破壞するには他の人を遣つてはいけません。わたくしが自分で行つて陛下の御心の通りに毀して參りましよう」と申し上げました。そこで天皇は、「それならば、お言葉通りに行つていらつしやい」と仰せられました。そこでオケの命が御自身で下つておいでになつて、御陵の傍を少し掘つて還つてお上りになつて、「すつかり掘り壞りました」と申されました。そこで天皇がその早く還つてお上りになつたことを怪しんで、「どのようにお壞りなさいましたか」と仰せられましたから、「御陵の傍の土を少し掘りました」と申しました。天皇の仰せられますには、「父上の仇を報ずるようにと思いますので、かならずあの御陵を悉くこわすべきであるのを、どうして少しお掘りになつたのですか」と仰せられましたから、申されますには「かようにしましたわけは、父上の仇をその御靈に報いようとお思いになるのは誠に道理であります。しかしオホハツセの天皇は、父上の仇ではありますけれども、一面は叔父でもあり、また天下をお治めなさつた天皇でありますのを、今もつぱら父の仇という事ばかりを取つて、天下をお治めなさいました天皇の御陵を悉く壞しましたなら、後の世の人がきつとお誹り申し上げるでしよう。しかし父上の仇は報いないではいられません。それであの御陵の邊を少し掘りましたから、これで後の世に示すにも足りましよう」とかように申しましたから、天皇は「それも道理です。お言葉の通りでよろしい」と仰せられました。
かくて天皇がお隱れになつてから、オケの命が、帝位にお即きになりました。御年三十八歳、八年間天下をお治めなさいました。御陵は片岡の石坏の岡の上にあります]

近飛鳥宮

歴代の天皇はその宮の場所を倭国繁栄の目的に合せ選択してきたように思われる。またそのように紐解いて来た。この近飛鳥宮の「意図」はなかなか読み辛い。逃亡中に通過した地であり、ひどい目に遭った場所でもある。山代国に隣接し、交通の要所ではあるが、拠点とするには倭国中心からは離れているところでもある。

倭国の北方は叔母の飯豐王葛城忍海之高木角刺宮に居て睨みを利かしてくれているから、南方に…でもないであろうし、安萬侶くんが無口な故にあらぬ方向に思いが飛んでしまうのである。とにかく、そう伝えられている以上それを信じて説話を読み解いてみよう。場所は、現地名京都郡みやこ町犀川大坂、その山口に近接するところである。
 
石巢・石木

「石巣別」が名前に付加される。「石巣」の地が分け与えられたと思われるが、何処であろうか?…戸城山の南方、英彦山の北陵が延びた尾根に「岩石山」という岩だらけの山がある。花崗岩の塊のような山で、かつては難攻不落の岩石城として有名な場所であったと伝えられる。

この山の西麓を彦山川が流れるのであるが、固い岩に挟まれて大きく蛇行しながら北に流れている。また幾つかの川が合流する地点でもあるが、不動川と呼ばれる川と大きな「州」を形成していることも判る。現在の田川郡添田町添田辺りである。ということは…「石巢」は…、
 
石(山麓の小高いところ)|巣(集まる)
 
<石巢・石木>
…と解釈できる。「岩が集まったところ」と読んでも通じるようでもあるが、古事記のルールに従おう。

袁祁命はこの地の別となった、即ち直轄の領地を保有したのである。

坐したところは図に示した「石巢」を別ける中心と推定した(現地名添田町大字庄)。

父親が雄略天皇に亡き者にされたのだから地領は何もなかったのであろう。

現在は広大な耕地となっているように見受けられる場所である。

がしかし、当時はまだまだ岩だらけで、沖積の進行に伴って次第に耕地としての広がりを示し始めていたのであろう。配下の者が移り住み開拓していったと推測される。「石木」は図に示した彦山川が大きく曲がる近隣、添田町大字添田辺りではなかろうか。

倭国の南部…大河の中流域に該当する…の開拓を行ったと見ることもできる。この地の西北は、上記の「志毘」などが居た中元寺川流域の平群の地である。支流の谷間の開拓ではなく、大河そのものの中流域での、より広大な耕地の確保に目を付けていたのではなかろうか。遅々ではあるが、稲作の広がりを伺わせる記述と思われる。

比賣の名前が「難波王」とある。蛇行する、またほぼ直角に曲がる川が「難波」を作っていたと推測される。古事記は「難波」を…、
 
難(安楽には進めない)|波(水面の起伏運動)

…として記述していることが明らかである。氾濫を繰り返し、蛇行する川の流れと切り離して解釈することは到底不可能と思われる(図を参照)。

僅か八年という短期の在位で、かつ残念ながら御子も誕生しなかった。兄弟で皇位を引継ぐことになる。相続争いは発生しなかったが、争えるだけに皇位継承がなされていくのであるが、危機的状況は更に深刻化する羽目になる。
 
<淡海国>
老媼置目
 
「淡海國賤老媼」の説話に進む。その老婆が語るには、事件の発端に絡んだ韓帒の子が「市邊王之御骨」を「蚊屋野之東山」に埋めて御陵を守ってきた、という耳よりな情報を得た、と始まる。

「淡海國」実はこれが初出である。上記の武田氏訳は、さらりと「近江」となっているが・・・。
 
「淡海國」≠「近淡海國」(近淡海に面する國)である。古事記がこれらを明確に区別して記述していることを指摘した例を見出せない。
 
<置目老媼>
それはともかく、既に「蚊屋野」は、
淡海之久多綿之蚊屋野として登場した。この地を含めて「國」となったのであろう。

「東山」=「この地の東方にある山」と解釈される。現在の皿倉山山塊であろう。陵はその麓とすると現在の北九州市八幡西区市瀬辺りにあったのではなかろうか。

置目老媼」と名前を授けて報いたとのことである。不失見置・知其地」からの命名とあり、そのままの通りかと思われるが、古事記の読み解きでは、要注意の表現である。

「置目」とは?…「目」=「筋、区切り」とすると、福智山山塊が北に延びた先で大きな谷を作るところ、皿倉山・権現山の南麓の谷筋を示すと思われる。
 
「置」は何と解釈するか?…「置」=「网+直」と分解される。「网」=「閉じ込められた」様を表し、「直」=「真っすぐに区切られた」様とすると…、
 
<蚊屋野~佐佐紀山>
置(閉じ込められた真っすぐな地)|目(谷間)

…と紐解ける。「老媼」は”老婆”を表しているのであろが、ならば”老女”と表記すれば済む。やはり地形象形であろう。「老媼」は…、
 
老(海老のように曲がった)|媼(取り囲まれた窪んだ地)

…谷間の出口の北側の山稜の地形を示していることが解る。「媼」=「女+𥁕」と分解され、更に「𥁕」=「囚+皿」から成る文字と知られる。しいて訳せば「平らな地で取り囲まれた」様を表す文字と解釈される。

御陵はこの谷間に造ったのであろう。「置」=「留める」から、その後移したことも重ねた表記のように思われる。図に蚊屋野から佐佐紀山までを示した。「置目」と「韓帒」との距離は直線で7km弱、関係して登場することに無理はなさそうである。登場人物も少なく、この地の詳細が語られることはないが、竺紫日向の古遠賀湾対岸の地にも人々の生業があったことが伺える記述であろう。

繰り返し述べて来たように古事記の世界に「住所」は無いのである。いや、その概念さえもなかったであろう。それを為そうとした勇気と根気に敬意を表したい。これが読めていない現状では、総ての古事記解釈は妄想の域を脱していないと言える。
 
<飛鳥河①>
「伊豫之二名嶋」の呼称が消えるのと同様、河口付近の地形、古遠賀湾の変化が大きく影響したものと思われる。

地形の変化及びその年代の特定、この研究は重要であるが、実施されているのだろうか・・・。
 
飛鳥河
 
また、針間逃亡の際に食料を奪われた「猪甘老人」を見つけ出して「飛鳥河之河原」で成敗をする。

「飛鳥河」とは光栄な命名であるが、「近飛鳥」の近く、現在の同県京都郡みやこ町犀川大坂を流れる「大坂川」と思われる。
 
犀川(現今川)に合流する。その河原を「志米須」と命名したそうだが…、
 
<飛鳥河②>
志(蛇行する川)|米([米]の字のように集まる)|須(州)

…「蛇行する川が[米]の字のように集まってできる州」と紐解ける。大坂山の山稜から多くの小川が集まっている様子を表現しているのであろう。

現在の状況が当時を再現しているかは不確かであるが、複数の小川が寄り集まっている場所が見出だせる。

大坂山から流れ出す川は、現在よりももっと多く、また蛇行の程度も激しかったのではなかろうか。

古事記に一時期頻繁に登場する「大坂山口」、当時を偲ぶには、余りに静寂な環境となっているようである。千数百年の歴史の重みを感じるところである。

御陵が「片岡之石坏岡上」とある。「片岡」=「低く平らな丘稜」、「石」=「山麓の小高いところ」と読めるが、「坏」は何と解釈するか?・・・。
 
<片岡之石坏岡上>
坏」=「土+不」と分解すると、「不」=「花の雌蕊」を象った文字と解説される。

「蕾」説もあるが、どうやら古事記は「雌蕊、子房」説を採用しているようである。

既に登場した「咅」と同じ象形であることが判る。「片岡之石坏岡」は…、


山麓の低く平らな丘稜にある雌蕊のような岡

…と紐解ける。

「岡」が二つも記されるのは、雌蕊を包むところが逆様にした「岡」の形をしているからであろう。現在の同町犀川大村の北側、犀川大坂笹原・松坂と犀川谷口に挟まれたところである。尚、後の武烈天皇も同じところと記載される。

説話は雄略天皇の「之多治比高鸇」にあった墓に「少掘其陵邊」を施して恨みを晴らしたと結ぶ。意祁命の知恵が冴えた、というところであろうか。がしかし、皇位継承の暗雲が晴れたわけではない。


――――✯――――✯――――✯――――

上記で「伊邪本和氣命」を「伊弉本別王」と別表記している。「邪」→「弉」に置き換えているのであるが、「邪(曲がりくねった)」意味と読み解いた。弉(ザゥ:呉音)」=「何度も続けさまに繰り返すこと」と解説される。

どうやら、「邪」の解釈は妥当なものであることが解る。谷川が幾度も曲がり下る、その麓に坐していた命であったことが確定したと思われる。


雄略天皇                        仁賢天皇・武烈天皇
目 次