2023年11月30日木曜日

天宗高紹天皇:光仁天皇(4) 〔655〕

天宗高紹天皇:光仁天皇(4)


寶龜二(西暦771年)三月の記事からである。原文(青字)はこちらのサイトから入手、訓読続日本紀(今泉忠義著)、続日本紀3(直木考次郎他著)を参照。

三月戊午朔。大宰府献白雉。辛酉。遠江國磐田郡主帳无位若湯坐部龍麻呂。蓁原郡主帳无位赤染造長濱。城飼郡主帳无位玉作部廣公。桧前舍人部諸國。讃岐國三野郡人丸部臣豊捄。各以私物養窮民廿人已上。賜爵人二級。壬戌。令天下諸國祭疫神。戊辰。停隼人帶劔。庚午。詔以大納言正三位大中臣朝臣清麻呂爲右大臣。授從二位。正三位藤原朝臣良繼爲内臣。正三位文室眞人大市。藤原朝臣魚名並爲大納言。正三位石川朝臣豊成。從三位藤原朝臣繩麻呂爲中納言。四品諱爲中務卿。從三位石上朝臣宅嗣爲式部卿。正四位下藤原朝臣百川〈本名雄田麻呂〉爲大宰帥。右大弁内豎大輔右兵衛督越前守並如故。壬申。勅。内臣職掌。官位。祿賜。職分。雜物者。宜皆同大納言。但食封者賜一千戸。丙戌。復和氣公清麻呂本位從五位下。

三月一日に大宰府が「白雉」(閏三月十八日の記事参照)を献上している。四日に遠江國磐田郡の主帳(地方の第四等官)の「若湯坐部龍麻呂」、蓁原郡の主帳の「赤染造長濱」、「城飼郡」の主帳の「玉作部廣公・桧前舎人部諸國」、「讃岐國三野郡」の人である「丸部臣豊捄」は、各々私物をもって貧窮の民二十人以上を養った。そこで位を二階与えている。五日に天下の諸國に疫病の神を祭らせている。十一日に隼人が剣を帯びることを止めさせている。

十三日に詔されて、大納言の大中臣朝臣清麻呂(東人に併記)に従二位を授けて右大臣、藤原朝臣良繼(宿奈麻呂)を”内臣”(本文下記参照)、文室眞人大市藤原朝臣魚名(鳥養に併記)を大納言、石川朝臣豊成藤原朝臣繩麻呂を中納言、諱(山部親王)を中務卿、石上朝臣宅嗣を式部卿、右大弁・内豎大輔・右兵衛督・越前守をそのままとして藤原朝臣百川(本名雄田麻呂)を大宰帥に任じている。

十五日に以下のように勅されている・・・”内臣”の職掌・官位・俸禄・職分の雑物は、みな大納言と同じにせよ。但し、食封は一千戸を賜う・・・。二十九日に和氣公清麻呂を本位の従五位下に復している。

<若湯坐部龍麻呂>
● 若湯坐部龍麻呂

「遠江國磐田郡」については、既に幾つかの郡と共にそれらの配置を求めることができた(こちら参照)。現地名では中間市の東端に当たる場所である。

この郡に関する記述は、麁玉河の氾濫で「敷智郡・長下郡・石田(磐)郡」に甚大な被害があったと伝えたことが唯一で、ここを居処とする人物などは全く登場していなかった。

後の時代では國府が置かれたようであるが、些か續紀が語る雰囲気とは異なるように感じられる。それは兎も角として、貴重な人材である本人物の出自場所を求めてみよう。

若湯坐部に含まれる「若湯坐」の氏名は、飛鳥近傍に住まう若湯坐連家主等に用いられた文字列である。とても同祖の一族とは思えない状況であろう。勿論、「若湯坐」の地形を表しているものと思われる。若湯坐=多くの山稜が延び出ている地で水が飛び散るような川が流れる谷間が二つ並んでいるところと解釈すると、図に示した場所にその地形を見出せる。

名前の龍麻呂=[龍]の形に山稜が畝って延びているところと解釈して、「若湯坐」の南側の近傍()に、その地形を確認することができる。少々地形変形が見られるが、辛うじて当時を偲ぶことが叶いそうである。

<赤染造長濱>
● 赤染造長濱

上記と同様にして既に蓁原郡の郡域を求めた。現在の中間市の北部に位置し、水巻町の一部を含む境と推定した(こちら参照)。この郡については、聖武天皇紀に「遠江國蓁原郡」の君子部眞鹽女が三つ子を産んだと記載されていた。

「君子部」の地は、”高尾山”(国土地理院に記載されているが、現在は消滅)の北~西麓辺りと思われる。その他にも幾人かの登場人物が記載され、他の郡とは大きく異なっている(こちら参照)。

今回登場の人物名の赤染造に含まれる「赤染」も既出の文字列である。赤染=平らな頂の谷間に[火]のような山稜が延びている地の傍らに水辺で[く]の字形に曲がっているところと解釈した。書紀の天武天皇紀に初見であるが、續紀の聖武天皇紀に子孫が常世連の氏姓を賜ったと記載されていた。上記の「若生坐」と同じような背景となっている。

高尾山の南方にある図に示した場所に、その地形を確認できる。長濱=長く続く浜があるところと読むと、多分、現在の中間北小学校辺りが出自と推定される。地形変形が見られるが、何とか当時を偲ぶことができたように思われる。

<玉作部廣公・桧前舎人部諸國>
● 玉作部廣公・桧前舎人部諸國

「城飼郡」は初見であるが、上記したように既にその郡域を推定した。城飼=狭い谷間の前に平らに整えられた地が延び広がっているところと解釈したが、地形変形が少なく、明瞭にその場所を特定することが可能であった(こちら参照)。

蓁原郡・長上郡の東側に当たる場所である。尚、この郡の北側は、隋書俀國伝の使者がまるで中国のようだと驚いた秦王國の場所と推定した。未だ日本の史書には登場しないが、その地を含めない領域と推測される。

玉作部玉作=玉のような山稜の傍らにある谷間がギザギザとしているところと解釈すると。図に示した谷間を表していると思われる。その「玉」の一つが廣公=谷間にある小高い地が広がっているところが出自と推定される。

桧前舎人部の既出の桧(檜)前舎人=山稜が出会う地(檜)が谷間に延びた山稜の端が盛り上がって広がっている地(舎人)の前にあるところと解釈される。図に示した場所にその地形を見出せる。諸國=耕地が交差するように延びている取り囲まれたところと解釈すると、出自の場所を求めることができる。

<讃岐國三野郡:丸部臣豊捄-須治女>
讃岐國三野郡

「讃岐國」については、既に那賀郡等の幾つかの郡が記載されて来たが、直近では「香川郡」の住人に賜姓したと記載されていた(こちら参照)。

残り僅かな地域なのであるが、果たして今回登場の三野郡が示す三野=野が三つ並んでいるところの地形を満足するであろうか?…勿論、そのズバリの地形が見出せたようである。

「香川郡」の北側、讃岐國の東北の隅に当たる場所、現地名では北九州市若松区原町・深町辺りと推定される。西側は「那賀郡」が延びているとした配置である。

● 丸部臣豊捄 丸部臣丸部=丸く盛り上がった地の近隣のところと読み解ける。珍しく「臣」姓が付加されている。名前の豊捄の「捄」=「手+求」と分解する。「求」=「引き寄せる様」を表すと解説される。地形象形的には、「手のような山稜が引き寄せられている様」を解釈する。纏めると豐捄=段差のある高台が手のような山稜を引き寄せているようなところと読み解ける。図に示した場所が出自と推定される。

後に丸部臣須治女が外従五位下を叙爵されて登場する。須治=州が水辺にある耜のような形をしているところと解釈される。図に示した場所の地形を表していると思われる。その後の消息は不明のようである。

閏三月戊子朔。授正五位下佐伯宿祢三野從四位下。以從五位下紀朝臣廣純爲左少弁。從五位下大中臣朝臣繼麻呂爲勅旨少輔。從四位下神王爲左大舍人頭。從五位下布勢王爲内匠頭。外從五位下吉田連斐太麻呂爲内藥正。從五位下廣川王爲内礼正。從四位上藤原朝臣家依爲式部大輔。從五位下多治比眞人豊濱爲大學助。從五位下巨勢朝臣馬主爲雅樂頭。從五位上船井王爲玄蕃頭。從五位下石川朝臣眞永爲民部少輔。從五位下阿倍朝臣許智爲主税頭。正五位上石川朝臣名足爲兵部大輔。從五位下紀朝臣古佐美爲少輔。從四位下藤原朝臣濱足爲刑部卿。從五位下多治比眞人名負爲少輔。正五位下豊野眞人奄智爲大判事。從五位下伊刀王爲木工頭。外從五位下日置造道形爲助。從五位下三關王爲正親正。從五位上佐伯宿祢麻毛流爲右京亮。從五位下文室眞人眞老爲造宮少輔。從五位下淨原眞人淨眞爲攝津亮。從五位下阿倍朝臣常嶋爲河内介。左衛士督正四位下藤原朝臣田麻呂爲兼參河守。正五位下石川朝臣垣守爲安房守。式部大輔從四位上藤原朝臣家依爲兼近江守。從五位下宍人朝臣繼麻呂爲員外介。中衛少將正五位下藤原朝臣小黒麻呂爲兼美濃守。中衛中將從四位上佐伯宿祢伊多智爲兼下野守。從四位下佐伯宿祢美濃爲陸奥守兼鎭守將軍。從五位下巨勢朝臣池長爲越前介。正五位上石上朝臣息繼爲丹波守。從五位下田中王爲丹後守。外衛大將正四位上藤原朝臣繼繩爲兼但馬守。近衛將監從五位下紀朝臣船守爲兼介。衛門佐從五位下粟田朝臣鷹守爲兼因幡守。正五位下奈癸王爲伯耆守。内廐頭正五位下藤原朝臣雄依爲兼備前守。正四位下坂上大忌寸苅田麻呂爲中衛中將兼安藝守。近衛少將從五位下藤原朝臣種繼爲兼紀伊守。從五位下當麻眞人永嗣爲土左守。己丑。授无位橘宿祢御笠從五位下。甲午。授正六位上藤原朝臣鷹取從五位下。壬寅。始免陸奥國司戸内雜徭。是日。僧綱請置威儀法師六員。許之。甲辰。授從五位下神服宿祢毛人女從五位上。乙巳。壹伎嶋獻白雉。授守外從五位下田部直息麻呂外從五位上。賜絁十疋。綿廿屯。布卌端。稻一千束。目從七位下笠朝臣猪養從七位上。賞賜半之。除當嶋田租三分之一。己酉。授外從五位下伊豆國造伊豆直乎美奈從五位下。乙夘。无位清原王。乙訓王。並復本位從五位下。无位安倍朝臣息道從四位下。无位多治比眞人木人。大原眞人今城並從五位上。 

閏三月一日に佐伯宿祢三野(今毛人に併記)に從四位下を授けている。紀朝臣廣純を左少弁、大中臣朝臣繼麻呂(子老に併記)を勅旨少輔、神王()を左大舍人頭、布勢王(布施王)を内匠頭、吉田連斐太麻呂を内藥正、廣川王(廣河王。)を内礼正、藤原朝臣家依を式部大輔、多治比眞人豊濱(乙安に併記)を大學助、巨勢朝臣馬主を雅樂頭、船井王を玄蕃頭、石川朝臣眞永を民部少輔、阿倍朝臣許智(許知。駿河に併記)を主税頭、石川朝臣名足を兵部大輔、紀朝臣古佐美を少輔、藤原朝臣濱足を刑部卿、多治比眞人名負を少輔、豊野眞人奄智(奄智王)を大判事、伊刀王(道守王に併記)を木工頭、日置造道形(通形)を助、三關王()を正親正、佐伯宿祢麻毛流(眞守)を右京亮、文室眞人眞老(長嶋王に併記)を造宮少輔、淨原眞人淨眞(大原眞人都良麻呂)を攝津亮、阿倍朝臣常嶋を河内介、左衛士督の藤原朝臣田麻呂(廣嗣に併記)を兼務で參河守、石川朝臣垣守を安房守、式部大輔の藤原朝臣家依を兼務で近江守、宍人朝臣繼麻呂(倭麻呂に併記)を員外介、中衛少將の藤原朝臣小黒麻呂を兼務で美濃守、中衛中將の佐伯宿祢伊多智(治)を兼務で下野守、佐伯宿祢美濃を兼務で陸奥守兼鎭守將軍、巨勢朝臣池長(巨勢野に併記)を越前介、石上朝臣息繼(奥繼。宅嗣に併記)を丹波守、田中王()を丹後守、外衛大將の藤原朝臣繼繩(繩麻呂に併記)を兼務で但馬守、近衛將監の紀朝臣船守を兼務で介、衛門佐の粟田朝臣鷹守を兼務で因幡守、奈癸王(奈貴王。石津王に併記)を伯耆守、内廐頭の藤原朝臣雄依(小依。家依に併記)を兼務で備前守、坂上大忌寸苅田麻呂(犬養に併記)を中衛中將兼安藝守、近衛少將の藤原朝臣種繼(藥子に併記)を兼務で紀伊守、當麻眞人永嗣(得足に併記)を土左守に任じている。

二日に橘宿祢御笠に從五位下(復位か?)を、七日に藤原朝臣鷹取()に從五位下を授けている。十五日に初めて陸奥國司の戸内の人にかかる雑徭を免除している。この日、僧綱が威儀の法師(法会などの時に僧の作法を指示する役)六員を置くことを申請し、許可されている。十七日に神服宿祢毛人女(神服連)に従五位上を授けている。

十八日に壹伎嶋が「白雉」を献じている。壹伎守の田部直息麻呂に外従五位上を授け、絁十疋・真綿二十屯・麻布四十端・稲一千束を与えている。壹伎目の笠朝臣猪養(兄の賀古に併記)に従七位上を授け、褒美は守の半分としている。この嶋の田租の三分の一を免除している。

二十に日に「伊豆國造伊豆直乎美奈」に従五位下を授けている。二十八日に清原王(長嶋王に併記)乙訓王をそれぞれ本位の従五位下に復している。安倍朝臣息道に従四位下、多治比眞人木人大原眞人今城(今木)に従五位上を授けている。

<壹伎嶋:白雉>
壹伎嶋:白雉

前月に大宰府が献上した「白雉」に関連する記述であろう。少し前の大宰府管内の肥後國の白雀献上の記述に類すると思われる。

壹伎嶋は、勿論大宰府が管轄する地であり、大宰府を通して献上したことを述べている。それにしても壹伎嶋からの献上は、全くの初見である。既に開拓し尽されていた筈であり・・・ではなく、おそらく現在の壱岐嶋の南部へ向かう進展だったのではなかろうか。

上記の肥後國と同様に、地形判別が極めて難しい地域である。いや、溶岩台地であって、更に困難度が高いように思われる。そんな状況の中で、図に示した場所を白雉=雉のような尾の長い鳥が二つ並んでくっ付いているところの場所と推定した。現在の壱岐氏勝本町・芦辺町・郷ノ浦町の端境の場所である。

郷ノ浦町以南の地は、今の天皇家の『天神族』に先んじて、中国江南地方から渡来した一族が蔓延っていたと推測した。長い年月を経て、徐々に相互の交流が進捗したのであろう。また、その端境へと開拓が行われたものと思われる。

<伊豆直乎美奈・日下部直安提麻呂>
● 伊豆直乎美奈

「伊豆直」は、聖武天皇紀に「賜外從七位下日下部直益人伊豆國造伊豆直姓」と記載された記事に見られる氏姓である(こちら参照)。

配流先の伊豆三嶋の北側、伊豆嶋のほぼ中央に位置する場所が居処と推定した。現地名は北九州市小倉北区藍島である。

あらためて見ると、「伊豆直」の氏姓と言うよりは「伊豆國造伊豆直」の氏姓(複姓)のような感じである。多分、今回登場の「乎美奈」は采女であろう。

乎美奈=口を開いて呼気を吐き出すような地に谷間にある平らな高台が広がっているところと読み解ける。図に示した場所が出自と推定される。この「乎」の地は、「日下部直」の「日(炎)」の地形と見做したところである。

”炎”が消えて”呼気”となったようである。「日下部」の表記も各地で用いられていたことを伝えている。「(伊豆國造)伊豆直」の氏姓を持つ人物は、この後に續紀に登場されることはないようである。

直後に日下部直安提麻呂が外従五位下を叙爵されて登場する。伊豆直を賜姓された「乎美奈」とは同祖なのだが系列が異なっていたのであろう。近隣を居処としていたのには違いないとして、出自の場所を求めると、図に示したように推定される。安提=谷間で嫋やかに曲がる山稜が匙のような形をしているところと読み解ける。

夏四月壬午。復无位紀朝臣犬養本位從五位下。又正六位上大伴宿祢村上。紀朝臣勝雄並授從五位下。

<紀朝臣勝雄>
四月二十六日に紀朝臣犬養(父親の馬主に併記)を本位の従五位下に復している。また大伴宿祢村上(形見に併記)・「紀朝臣勝雄」に従五位下を授けている。

● 紀朝臣勝雄

系譜が知られていて、鯖麻呂の子であったようである。鯖麻呂は「麻路」の子であり、記紀・續紀における紀朝臣の奔流に属する人物であったことが分かる(こちら参照)。

この背景からすると、この人物の出自場所を鯖麻呂の近隣として求めてみよう。既出の文字列である勝雄=鳥が羽を広げたような地が盛り上がっているところと解釈すると、鯖麻呂の南隣の地にその地形を見出せる。

「勝雄」の子に「南麻呂」がいたようであるが、續紀に登場されることはない。いずれにしても、この系列についてはかなり情報豊かなように思われる。各々の昇進は少なく、鯖麻呂の正五位上を越えることはなかったようである。

五月戊子。外從五位下柴原勝乙妹女。勳十等柴原勝淨足賜姓宿祢。並止其身。己亥。授從五位上佐伯宿祢國益正五位下。正六位上賀祢公雄津麻呂外從五位下。」從四位上阿倍朝臣毛人爲伊勢守。從五位下大中臣朝臣子老爲介。從五位下藤原朝臣鷲取爲員外介。從四位下田中朝臣多太麻呂爲美濃守。從五位下紀朝臣廣純爲介。從五位下藤原朝臣長道爲員外介。正五位下藤原朝臣小黒麻呂爲上野守。右衛士督從四位上藤原朝臣楓麻呂爲兼讃岐守。從三位藤原朝臣藏下麻呂爲大宰帥。壬寅。授正六位上小野朝臣小野虫賣從五位下。甲辰。復无位若狹遠敷朝臣長女本位正五位上。戊申。近衛勳六等藥師寺奴百足賜姓三嶋部。己酉。右京人白原連三成獻蚕産成字。賜若狹國稻五百束。甲寅。始設田原天皇八月九日忌齋於川原寺。

五月三日に「柴原勝乙妹女」(栗原勝乙女)と勲十等の「柴原勝淨足」に宿祢姓を与えている(こちら参照)。但し、これは各人限りとする。

十四日に佐伯宿祢國益(美濃麻呂に併記)に正五位下、「賀祢公雄津麻呂」に外從五位下を授けている。また、阿倍朝臣毛人(粳虫に併記)を伊勢守、大中臣朝臣子老を介、藤原朝臣鷲取()を員外介、田中朝臣多太麻呂を美濃守、紀朝臣廣純を介、藤原朝臣長道を員外介、藤原朝臣小黒麻呂を上野守、右衛士督の藤原朝臣楓麻呂(千尋に併記)を兼務で讃岐守、藤原朝臣藏下麻呂(廣嗣に併記)を大宰帥に任じている。

十七日に「小野朝臣小野虫賣」に従五位下を授けている。十九日に若狭遠敷朝臣長女を本位の正五位上に復している。二十三日に近衛勲六等の「藥師寺奴百足」に「三嶋部」の氏姓を賜っている。

二十四日に右京の人である「白原連三成」が蚕の産んだ卵が字の形に成ったものを献上している。若狹國の稲五百束を与えている。二十九日に初めて田原天皇(施基皇子)の八月九日の忌日の斎会を川原寺(弘福寺)で催している。

六月乙丑。奉黒毛馬於丹生川上神。旱也。」參議治部卿從四位上多治比眞人土作卒。壬午。渤海國使青綬大夫壹萬福等三百廿五人。駕船十七隻。着出羽國賊地野代湊。於常陸國安置供給。

六月十日に黒毛の馬を丹生川上神(芳野水分峰神)に奉っている。日照りのためである。また、参議・治部卿の多治比眞人土作(家主に併記)が亡くなっている。二十七日に渤海國の使節で青綬大夫の壹萬福等三百二十五人が船十七隻に乗って、「出羽國賊地野代湊」に着いた。そこで彼等を常陸國に安置して食料などを給わっている。

<賀祢公雄津麻呂>
● 賀祢公雄津麻呂

「賀祢公」は、勿論記紀・續紀を通じて初見の氏姓であろう。おそらく渡来系の人物で和風の名称を名乗っていたと推測される。

関連する情報は限られているが、越後國魚沼郡に「賀祢郷」の地名があったと伝えられている(こちら参照)。

「魚沼郡」は、文武天皇紀に越中國四郡を越後國に転属したという記述があり、その四郡の中の一郡であった(四郡配置を参照)。これらの情報に基づいて賀祢公雄津麻呂の出自場所を求めることにする。

頻出の文字列である賀祢(禰)=谷間を押し拡げるように高台が広がっているところと解釈される。既出だが、些か珍しい組合せの名前である雄津=羽を広げた鳥のような山稜の麓に水辺で筆のように延びている地があるところと読み解ける。後に小津麻呂の名前で幾度か登場されるが、小津=水辺で三角に尖った筆のような山稜が延びているところとなり、適切な別名表記と思われる。

現在は高速道路が通じているが、地形変形の少ない地域であり、名称が示す地形を満足する場所が容易に見出すことができる。図では省略しているが、聖武天皇紀に記載された蝦夷討伐隊の遠征行程上の男勝村があった近辺と推測される。

<小野朝臣小野虫賣-滋野-澤守>
● 小野朝臣小野虫賣

「小野朝臣」一族も途切れることなく登用されているのだが、高位者の出現が極めて限られて来たようである。直近では小贄・竹良、また女孺として初見であった田刀自が登場していた。

前記したように「小野」の谷間一つ一つに人物が配置されて行く様相であろう。ある意味、至極当然のことなのだが、その谷間の地形を名前に反映することが難しくなって来ているようにも感じられる。

今回登場の小野虫賣の「小野」は「小野朝臣」の発祥の地形を表しているものと思われる。即ち、山稜の端の”三角州”を捩った表記なのである(図参照)。「小」=「三角の形」であり、決して”小さい”の意味で用いられているのではない。

その「小野」に地に虫(蟲)=山稜が細かく三つに岐れて延びている様の地形を確認することができる。正に「小野朝臣」を代表するような場所であるが、續紀中この後に登場されることはないようである。

後に小野朝臣滋野遣唐使判官として帰朝報告を行って登場する。調べると竹良の息子と知られているようである。滋野=水辺で野に細かい山稜が延びているところと解釈すると、図に示した場所が出自と推定される。その後に従五位下に叙爵され、豊前守を任じられたと記載されている。

更に後(桓武天皇紀)に小野朝臣澤守が従五位下を叙爵されて登場する。系譜不詳であるが、澤守=水辺で小高く丸い地が並んでいる麓で両肘を張り出したような山稜に取り囲まれたところと解釈すると、図に示した場所が出自と推定される。

<藥師寺奴百足(三嶋部)・高田公刀自女>
● 藥師寺奴百足

藥師寺の奴婢であるが、『仲麻呂の乱』で何らかの武勲を成したのであろうか、勲六等を授けられている。そのお陰で今回の賜姓となったのであろう。

勿論、身分に拘わらず、名前は地形象形表記の筈であり、(平城)藥師寺近隣の地に出自の場所を求めることになるものと思われる。

賜った三嶋部三嶋=三つの鳥のような山稜が並んでいるところであり、図に示した山稜の端の地形を表してるように思われる。「藥師寺」を取り囲むような配置となっている。

すっかりご無沙汰になっているが、一時は頻出した百足=丸く小高く連なっている山稜に足のような地があるところと解釈すると、図に示した場所が、この人物の出自と推定される。残念ながら二度と登場されることはなく、その後は不明のようである。

直ぐ後に高田公刀自女が外従五位下を叙爵されて登場する。「高田公」は記紀・續紀を通じて初見の氏姓であろう。『壬申の乱』の功臣である高田首新家等、また霊龜を献上した左京人の高田首久比麻呂が登場していたが、彼等は「首」姓である。また、「新家」の孫が事件を起こして封戸を没収されたとも記されていた。

一方、霊龜献上の「久比麻呂」への褒賞として爵位と物が与えられ、續紀中に記載されてはいないが、一族が蔓延っていたのであろう。今回の人物がそれに連なる出自を持つとして図に示したように、刀自=山稜が刀のように延びた端を居処とする女と解釈される。「公」は「首」の地形から離れて、公=八+ム=山稜に挟まれた谷間に小高い地がある様を採用したのではなかろうか。

<白原連三成・白鳥村主元麻呂>
● 白原連三成

「白原連」の氏姓は、少し前に白鳥村主馬人・白鳥椋人廣等に賜姓したと記載されていた。併記することも可能であったが、図が混み入るので、別途掲載することにした。

現地名の行橋市二塚であり、古事記の倭建命の白鳥御陵の北側に当たる地域に蔓延った一族と推定した。多くの渡来系の人々が開拓した地である。

名前の三成=平らに整えられた地が三つ並んでいるところと解釈すると、図に示した場所が見出せる。「白鳥御陵」を含めて三つの小高く盛り上がった地を表していると思われる。續紀を検索すると、この後に「白原連」の記載はヒットすることはなく、登場した「馬人・椋人廣」及び「三成」の三名を主とする一族だったようである。

後(桓武天皇紀)に白鳥村主元麻呂が外従五位下を叙爵されて登場する。改姓されずに元の氏姓を名乗っているようである。元=〇+儿=丸く小高い地から谷間が長く延びている様であり、図に示した場所が出自と推定される。確かに「白原」の地形ではなく、改姓は受け入れ難かったのであろう。この後も二度ばかり「白鳥村主」で登場している。

<出羽國賊地:野代湊>
出羽國賊地:野代湊

渤海國からの使者が着岸した場所が「野代湊」であったと記載されている。かつて、着岸した場所は佐利翼津(現地名:北九州市門司区大里東一辺りと推定)とされていて、おそらく今回の大船団が着岸するのが困難だったのであろう。

いずれにせよ淡海(現在の関門海峡)に面する場所には違いなかろう・・・がしかし、上記本文の解釈が怪しくなって来るのである。既出の出羽國は、淡海に面せず、峠を越えて辿り着く場所である。

わざわざ「賊地」と付加されていることから、どうやら通常の「出羽國」とするのではなく、「出羽國」=「生え出た羽のような山稜に取り囲まれたところ」の地形象形表記と思われる。すると出羽國賊地=生え出た羽のような山稜に取り囲まれた地に賊(蝦夷)が住まっているところと読み解ける。その地形を図に示した場所に見出せる。現地名は北九州市門司区清滝辺りである。

野代湊野代=杙のような山稜が延びている谷間の前で野が広がっているところと読み解ける。「湊」は、多分、図に示した辺りと推定される。現在の門司港に該当する場所である。通説では、現在の「能代」とされ、出羽國に属する場所となるが、”賊地”の解釈に難渋されているようである。勿論、例によって意味不明なら誤記とするか、及び/又は、黙殺である。

上記で越後國魚沼郡の賀祢公雄津麻呂が外従五位下を叙爵されて登場していた。「野代湊」から内陸に向かうと「佐渡國」を経て「越後國」に入ることになる(こちら参照)。渤海使の安置先である「常陸國」までへの行程において、何らかの寄与があったのではなかろうか(こちら参照)。

尚、「湊」を用いたのは、湊=氵+奏=水辺で山稜が寄り集まっている様であり、上図から分かるようにその地形を示している。単に「ミナト」と読んでは、野代湊が表す場所を突止めることは叶わないのである。







































2023年11月22日水曜日

天宗高紹天皇:光仁天皇(3) 〔654〕

天宗高紹天皇:光仁天皇(3)


寶龜二(西暦771年)正月の記事からである。原文(青字)はこちらのサイトから入手、訓読続日本紀(今泉忠義著)、続日本紀3(直木考次郎他著)を参照。

二年春正月己未朔。御大極殿受朝。庚申。授正四位上藤原朝臣家子從三位。外從五位上上毛野佐位朝臣老刀自。正六位下國造淨成女並從五位下。壬戌。自天平神護元年以來。僧尼度縁。一切用道鏡印。印之。至是復用治部省印。辛未。停天下諸國吉祥悔過。癸酉。從五位上橘朝臣麻都我。從五位下藤原朝臣蔭並授正五位下。甲戌。饗主典已上於朝堂。賜祿有差。辛巳。立他戸親王爲皇太子。詔曰。明神御大八洲養徳根子天皇詔旨勅命〈乎〉親王諸王諸臣百官人等天下公民衆聞食宣。隨法〈尓〉皇后御子他戸親王立爲皇太子。故此状悟〈弖〉百官人等仕奉詔天皇御命諸聞食〈止〉宣。故是以大赦天下罪人。又一二人等冠位上賜治賜。又官人等〈尓〉大御手物賜。高年窮乏孝義人等養給治賜〈牟止〉勅天皇命〈乎〉衆聞食宣。」授從五位上藤原朝臣小黒麻呂正五位下。正六位上藤原朝臣鷲取。多治比眞人公子。巨勢朝臣馬主。阿倍朝臣常嶋。石川朝臣諸足。紀朝臣家守並從五位下。正六位上長尾忌寸金村外從五位下。」以式部大輔從四位上藤原朝臣家依爲兼皇后宮大夫。中衛員外中將從四位上伊勢朝臣老人爲兼亮。大納言正三位大中臣朝臣清麻呂爲兼東宮傅。兵部卿從三位藤原朝臣藏下麻呂爲兼春宮大夫。右中弁從四位下大伴宿祢伯麻呂爲兼亮。勅旨少輔從五位上石上朝臣家成爲兼員外亮。癸未。授正六位上多治比眞人名負從五位下。丙戌。授從四位上藤原朝臣繼繩正四位上。无位紀朝臣敏久。紀朝臣奈良並從五位下。

正月一日に大極殿に出御されて朝賀を受けている。二日に藤原朝臣家子(百能に併記)に従三位、上毛野佐位朝臣老刀自・「國造淨成女」に従五位下を授けている。四日に天平神護元年より以来、僧尼の度縁(出家得度の際に授けられる証明書)には、全て道鏡の印を押していた、ここに至って、また治部省の印を用いている。

十三日に天下諸國の吉祥悔過の法会を停止している。十五日に橘朝臣麻都我(麻都賀。古那可智に併記)・藤原朝臣蔭(影)に正五位下を授けている。十六日に主典以上の官人を朝堂に集めて饗宴し、身分に応じて禄を賜っている。

二十三日に他戸親王を立てて皇太子とし、次のように詔されている(以下宣命体)・・・現つ御神として大八洲を統治する「養德根子天皇」(光仁天皇)の詔旨として宣べ聞かせられる御言葉を、親王・諸王・諸臣・百官達、天下の公民は、皆承れと申し渡す。法に従って皇后の子の他戸親王を立てて皇太子とする。そこで、このことをよく知って、百官達は仕え申せと仰せになる天皇の御言葉を、皆承れと申し渡す。

そこで大赦して天下の罪人を許すことにする。また、一人二人の冠位を上げて優遇する。また、官人達に天皇の御手元の物を与える。年老いた者・貧しい者・孝行で正しい道を歩む者達を養い、優遇すると仰せになる天皇の御言葉を、皆承れと申し渡す。

藤原朝臣小黒麻呂に正五位下、「藤原朝臣鷲取」・多治比眞人公子(乙安に併記)・「巨勢朝臣馬主・阿倍朝臣常嶋・石川朝臣諸足・紀朝臣家守」に從五位下、「長尾忌寸金村」に外從五位下を授けている。また、式部大輔の藤原朝臣家依を兼務で皇后宮大夫、中衛員外中將の伊勢朝臣老人(中臣伊勢朝臣)を兼務で亮、大納言の大中臣朝臣清麻呂(中臣朝臣。東人に併記)を兼務で東宮傅、兵部卿の藤原朝臣藏下麻呂(廣嗣に併記)を兼務で春宮大夫、右中弁の大伴宿祢伯麻呂(小室に併記)を兼務で亮、勅旨少輔の石上朝臣家成(宅嗣に併記)を兼務で員外亮に任じている。

二十五日に多治比眞人名負(三宅麻呂の子)に從五位下、二十八日に藤原朝臣繼繩(繩麻呂に併記)に正四位上、「紀朝臣敏久・紀朝臣奈良」に從五位下を授けている。

<因幡國高草郡:國造淨成女>
<伊福部宿祢毛人>
因幡國高草郡

直後の二月に「因幡國高草采女從五位下國造淨成女等七人賜姓因幡國造」と記載されている。この人物の出自は「因幡國高草郡」だったようである。

「因幡國」は、書紀では因播(國)、古事記では稻羽(國)と表記された地である。現地名の宗像市上八・鐘崎と推定した。その地で高草郡高草=皺が寄ったような山稜が草のように延び出ているところと読み解ける。

全てが別名表記のようなのであるが、草=艸+皁(白+十)=山稜の端が丸く小高くなっている様と解釈される。地図上では省略しているが、因幡の一部(北部)を表わしていることが解る。

● 國造淨成女 上記したように因幡國造の氏姓を賜ることになったのであるが、漸く因幡國を統治する体制が整えられたのであろう。名前の淨成=水辺で両腕のような山稜が取り囲んでいる地の背後で平らに整えられているところと読み解ける。図に示した場所が出自と推定される。

少し後に伊福部宿祢毛人が外従五位下を叙爵されて登場する。前出の伊福部宿祢紫女と同族の人物であろう。毛人=谷間にある鱗のような形をしたところと解釈すると図に示した場所が出自と推定される。ご登場はこの場限りのようである。

<藤原朝臣鷲取-兄弟等>
<藤原朝臣内麻呂-鷹子>
● 藤原朝臣鷲取

藤原朝臣北家の「魚名」の子と知られているようである。調べると主な兄弟達が鷹取末茂眞鷲藤成であったことが分かった。最後の「藤成」を除いて他は後に續紀に登場する。

と言うことで、纏めて各々の出自の場所を求めることにする。がしかし、何とも狭い谷間に果たして名前が示す地形を見出せるのであろうか?…いつもことながら、全くの杞憂であった。

❶鷹取=二羽の鳥が並んでいるような地にある[耳]の形をしたところ
❷鷲取=鳥の地形の前にある[疣]のように小高くなった地が[耳]の形をしているところ 初見の「鷲」=「就(京+尤)+鳥」と分解して解釈する。「尤」は「疣」の原字と知られている。
❸末茂=山稜の端が先の広がった矛のような形をしているところ
❹眞鷲=[鷲]の形をした地が窪んだ地に寄り集まっているところ
❺藤成=川が[藤]の木を伝わるように流る畔で平らに整えられたところ

[耳]の形以外の地形を確認し、上図に示した場所をそれぞれの出自場所を推定することができる。父親「魚名」の北側、谷間の東側に並んだ配置となったいる。思い起こせば「魚名」の場所に些か不安なところがあったのだが、息子達の出現で確からしくなったようである。

後に「眞楯」の子の藤原朝臣内麻呂❻が従五位下を叙爵されて登場する。内=門のようになっている地に入って行く様であり、図に示した場所が出自と推定される。その後従二位・右大臣となり、北家隆盛の礎となったようである。

桓武天皇紀に藤原朝臣鷹子が従五位下を叙爵されて登場する。系譜不詳のようであるが、鷹子=「鷹」の地から生え出たところと解釈すると、「鷹取」の麓辺りと推定される。兄妹のようであるが、定かではない。その後の登場は見られない。

<巨勢朝臣馬主-廣山-総成-道成>
● 巨勢朝臣馬主

「巨勢朝臣」一族は連綿と途切れることなく人材登用されている。ただ、系譜不詳の人物が大半であって、この人物も同様のようである。やはり大臣クラスにならないと、伝承されないのかもしれない。

そんな背景で名前が示す地形から出自の場所を求めることになろう。「馬主」の名称も幾度か登場していて、例えば紀朝臣馬主等が登場していた。

馬主=山稜が[馬]の古文字形になった地にある真っ直ぐに延びる山稜があるところと解釈した。その地形を「巨勢朝臣」一族が住まう地域、現地名では直方市頓野辺りで探すと、図に示した場所が見出せる。

書紀で記載された近江将壹伎史韓國の居処とした場所であり、續紀では巨勢朝臣度守の出自が、その一部であったと推定した。書紀の記述は「有人曰、近江將壹伎史韓國之師也」であり、実に「有人曰」として、単なる噂で人物特定なのである。大納言巨勢朝臣人の一族だったわけである。書紀を日本紀への還元も行いたいが、些か時間切れかな?・・・。

「馬主」はこの後も幾度か登場され、瑞祥の馬を献上するのだが、真っ赤な偽物だったとか、それが発覚して罪に問われるなど、最後は関与しなかったことが認められて復帰されるようだが、波乱の人生だったとのことである。

後に巨勢朝臣廣山が従五位下を叙爵されて登場する。例の通りに系譜不詳であり、名前の廣山=[山]の形に延びた山稜が広がっているところを頼りとして、図に示した場所が出自と推定される。昇進はないが、その後地方官・京官を任じられたと記載されている。

更に後(桓武天皇紀)に従五位下の巨勢朝臣総成が遠江介に任じられている(叙位は未記載)。總成=総のように細かく岐れた山稜が延びた麓が平らな高台になっているところと解釈すると、図に示した場所が出自と推定される。「廣山」同様に、その後地方官・京官を任じられている。

また後に巨勢朝臣道成が従五位下を叙爵されて登場する。道成=首の付けのように窪んだ地に平らに整えられた高台があるところと解釈すると、図に示した場所が出自と推定される。横一列に並んだ様相であるが、兄弟だったのかもしれない。その後に登場されることはないようである。

<阿倍朝臣常嶋-土作>
<安倍朝臣諸上>
● 阿倍朝臣常嶋

上記の「巨勢朝臣」と同様に途切れることがない「阿倍朝臣」であるが、また同じく系譜不詳が続いている有様である。従って名前が示す地形を頼りにして出自場所を探してみよう。

常嶋に含まれる頻出の「常」=「向+八+巾」=「北向きに山稜が延び広がっているところ」と解釈した。山稜を山頂から延び出る様ではなく、麓から見上げた様を象形しているのである。

この特徴的な地形から、それらしき場所を容易に見出せる。直近で登場した豆余理の北側に位置するところである。おそらく現在の大久保貯水池は存在せず、狭い谷間であったと推測される。

常嶋=鳥の形をした山稜が北向きに延び広がっているところと読み解ける。推定される出自の場所を図に示した。元明天皇紀に宿奈麻呂の言上によって阿倍一族が大同団結の様相となった地でもある。今回の人物も、おそらく奔流ではない系統だったのであろう。

直後に安倍朝臣諸上が従五位下を叙爵されて登場する。系譜も関連する情報も見当たらず、上記と同様の状況のようであり、名前が示す地形から出自の場所を求めることになる。諸上=盛り上がっている地の前で耕地が交差するように延びているところと解釈する。河内國石川郡の人である山背忌寸諸上に含まれていた「諸上」の地形である。

更に少し後に阿倍朝臣土作が従五位下を叙爵されて登場する。上記と同様に関連情報が皆無の人物であり、土作=谷間で大地がギザギザとしているところと解釈して、図に示した辺りと推定した。尚、現在は宅地開発されて当時の地形は、国土地理院航空写真1961~9年を参照した(こちら)。

<石川朝臣諸足-奴女>
● 石川朝臣諸足

「巨勢朝臣・阿倍朝臣」に引続き、絶えることなく登用されている「石川朝臣」一族であり、また同様に系譜不詳の人物のようである。

現地名の京都郡苅田町谷の地形に名前が示す地形から出自の場所を求めることになる。頻出の文字列である諸足=交差するように連なっている耕地の先にある足の形のようなところと解釈する。

この地では、意外に「諸」の地形に該当する場所は少なく、図に示したところを見出せる。この近辺では、既に登場した人物名に「足」が多用されていることが解る。この後、幾度か續紀に登場されているが、備後介や讃岐介の地方官を歴任されたが、爵位も従五位下のまま、その後については詳らかではないようである。

後に石川朝臣奴女が従五位下を叙爵されて登場する。頻出の奴=女+又=手のような山稜が嫋やかに曲がって延びている様として、図に示した場所が出自のように思われる。配置からすると「豊成」に関わる女官だったようだが、系譜不詳である。前出の毛比とは異なり、續紀中、その後に登場されることはない。

<紀朝臣家守-家繼>
● 紀朝臣家守

重臣輩出の「紀朝臣」一族であり、今回登場の人物も列記とした系譜の持主だったようである。「大人」の子、「麻呂」の孫であり、父親が「男人」であったと知られている(こちら参照)。

「男人」の兄弟である「麻路」の系統は既に幾人かが登場していたのだが(こちら参照)、「男人」系列では初見と思われる。

頻出の文字列である家守=山稜の端が豚の口のようになっている地の背後に両腕を張り出して囲んだようなところと読み解ける。その地形を「男人」の西側、谷間を挟んだ地に見出せる。出自の場所は、「家」と「守」に挟まれたところと推定される。

有能な人物だったようで、この後も多数登場され、最終従四位上・参議にまで昇進されている。尚、Wikipediaによると、称徳天皇紀に登場した紀朝臣門守は「家守」の兄弟とされているが、「男人」の子供には含まれておらず、些か混乱気味である。「守」が共通することからの妄言ではなかろうか。

少し後に紀朝臣家繼が従五位下を叙爵されて登場する。「家守」の弟と知られている。家繼=[家]に連なるところと解釈して、図に示した場所が出自と推定される。續紀中では従五位上までの昇進が記載されている。

<長尾忌寸金村>
● 長尾忌寸金村

「長尾忌寸」は記紀・續紀を通じて初見である。「忌寸」の前は「直・首」すると、書紀の天武天皇紀の『壬申の乱』で活躍した長尾直眞墨が記載されている。

調べると、やはりこの一族であったことが分かった。そもそも東漢の一派かとも思われたが、そうではなく大和國葛下郡、古事記の葛城長江曾都毘古の後裔達が蔓延った玉手岡の一隅に渡来した一族と推定した。

既出の文字列である金村=手を開いたように延びる山稜の前が[金]の文字形になっているところと解釈すると、図に示した「眞墨」の西側に当たる場所が出自と推定される。「眞墨」は功臣の筈だが、その後に登場することはなかったようである。

「金村」は、後に大学博士に任じられて、更に後になるが爵位は内位の従五位下を叙されている。「直」から「忌寸」の賜姓は、史書に記載されていないが、上図の配置からも「眞墨」と同族であったことに違いないようである。

<紀朝臣敏久-奈良>
● 紀朝臣敏久・紀朝臣奈良

関連する情報も、皆無の人物達のようである。本文の記載も他の「紀朝臣」とは別途に最後に二人並べている。おそらく兄弟なのかもしれない。

そんな背景で、例によって名前が示す地形から出自場所を求めるのであるが、二つの地形が近接していることも重要な情報であろう。

また「敏久」の「敏」の文字は敏達天皇に用いられているが、これは地形象形ではない。また、僧良敏の名前があり、それが示す地形を求めることができた。

敏=毎+攴=山稜が枝分かれした地に母が子を抱くように山稜が取り囲んでいる様と解釈される。頻出の久=[く]の字形に曲がっている様である。即ち敏久=[久]の形の山稜の前に[敏]の形の山稜が延びているところと読み解ける。その地形を図に示した場所に見出せる。

その山稜の先に奈良=小高くなった地がなだらかに広がっているところを確認できる。前出の猪養・僧麻呂の南側に位置する場所であり、前出の門守の北隣に当たる場所である。何らかの血縁関係があったのではなかろうか。

二月庚寅。復錦部連河内賣本位從五位上。丙申。因幡國高草采女從五位下國造淨成女等七人賜姓因幡國造。」石見國飢。賑給之。戊戌。以從五位下下毛野朝臣足麻呂爲外衛少將。外從五位下物部礒波爲左兵衛大尉。庚子。車駕幸交野。辛丑。進到難波宮。癸夘。左大臣暴病。詔大納言正三位大中臣朝臣清麻呂攝行大臣事。丙午。授莫牟師正六位上村上造大寳外從五位下。優高年也。戊申。車駕取龍田道。還到竹原井行宮。節幡之竿無故自折。時人皆謂執政亡沒之徴也。己酉。左大臣正一位藤原朝臣永手薨。時年五十八。奈良朝贈太政大臣房前之第二子也。母曰正二位牟漏女王。以累世相門起家。授從五位下。勝寳九歳至從三位中納言兼式部卿。寳字八年九月轉大納言。授從二位。神護二年拜右大臣。授從一位。居二歳。轉左大臣。寳龜元年。高野天皇不豫時。道鏡因以藉恩私。勢振内外。自廢帝黜。宗室有重望者。多羅非辜。日嗣之位。遂且絶矣。道鏡自以寵愛隆渥。日夜僥倖非望。泪于宮車晏駕。定策遂安社稷者。大臣之力居多焉。及薨。天皇甚痛惜之。詔遣正三位中納言兼中務卿文室眞人大市。正三位員外中納言兼宮内卿右京大夫石川朝臣豊成。弔賻之曰。藤原左大臣〈尓〉詔大命〈乎〉宣。大命坐詔〈久〉。大臣明日者參出來仕〈牟止〉待〈比〉賜間〈尓〉休息安〈麻利弖〉參出〈末須〉事〈波〉無〈之帝〉天皇朝〈乎〉置而罷退〈止〉聞看而於母富〈佐久〉。於与豆礼〈加母〉多波許止〈乎加母〉云。信〈尓之〉有者仕奉〈之〉太政官之政〈乎波〉誰任〈之加母〉罷伊麻〈須〉。孰授〈加母〉罷伊麻〈須〉。恨〈加母〉悲〈加母〉朕大臣誰〈尓加母〉我語〈比〉佐氣〈牟〉。孰〈尓加母〉我問〈比〉佐氣〈牟止〉悔〈弥〉惜〈弥〉痛〈弥〉酸〈弥〉大御泣哭〈之〉坐〈止〉詔大命〈乎〉宣。悔〈加母〉惜〈加母〉自今日者大臣之奏〈之〉政者不聞看〈夜〉成〈牟〉。自明日者大臣之仕奉儀者不看行〈夜〉成〈牟。〉日月累往〈麻尓麻尓〉悲事〈乃未之〉弥可起〈加母〉。歳時積往〈麻尓麻尓〉佐夫之〈岐〉事〈乃未之〉弥可益〈加母〉。朕大臣春秋麗色〈乎波〉誰倶〈加母〉見行弄賜〈牟〉。山川淨所者孰倶〈加母〉見行阿加良〈閇〉賜〈牟止〉歎賜〈比〉憂賜〈比〉大坐坐〈止〉詔大命〈乎〉宣。美麻之大臣〈乃〉万政惣以无怠緩事無曲傾事〈久〉王臣等〈乎母〉彼此別心无普平奏〈比〉公民之上〈乎母〉廣厚慈而奏事此耳不在。天皇朝〈乎〉暫之間〈母〉罷出而休息安〈母布〉事无食國之政〈乃〉平善可在状天下公民之息安〈麻流倍伎〉事〈乎〉旦夕夜日不云思議奏〈比〉仕奉者款〈美〉明〈美〉意太比之〈美〉多能母志〈美〉思〈保之ツツ〉大坐坐間〈尓〉忽朕朝〈乎〉離而罷〈止富良之奴礼婆〉言〈牟〉須部〈母〉無爲〈牟〉須倍〈母〉不知〈尓〉悔〈備〉賜〈比〉和備賜〈比〉大坐坐〈止〉詔大命〈乎〉宣。又事別詔〈久。〉仕奉〈志〉事廣〈美〉厚〈美〉弥麻之大臣之家内子等〈乎母〉波布理不賜失不賜慈賜〈波牟〉起賜〈波牟〉温賜〈波牟〉人目賜〈波牟〉美麻之大臣〈乃〉罷道〈母〉宇之呂輕〈久〉心〈母〉意太比〈尓〉念而平〈久〉幸〈久〉罷〈止富良須倍之止〉詔大命〈乎〉宣。」石川朝臣豊成宣曰。大命坐詔〈久〉。美麻志大臣〈乃〉仕奉來状〈波〉不今耳。挂〈母〉畏近江大津宮御宇天皇御世〈尓八〉大臣之曾祖藤原朝臣内大臣明淨心以〈弖〉天皇朝〈乎〉助奉仕奉〈岐〉。藤原宮御宇天皇御世〈尓八〉祖父太政大臣又明淨心以天皇朝〈乎〉助奉仕奉〈岐〉。今大臣者鈍朕〈乎〉扶奉仕奉〈麻之都〉。賢臣等〈乃〉累世而仕奉〈麻佐部流〉事〈乎奈母〉加多自氣奈〈美〉伊蘇志〈美〉思坐〈須〉。故是以祖等〈乃〉仕奉〈之〉次〈仁母〉有。又朕大臣〈乃〉仕奉状〈母〉勞〈美〉重〈美〉太政大臣之位〈尓〉上賜〈比〉授賜時〈尓〉固辞申而不受賜成〈尓岐〉。然後〈母〉將賜〈止〉思〈富之〉坐〈之奈何良〉太政大臣之位〈尓〉上賜〈比〉治賜〈久止〉詔大命〈乎〉宣。」遣正四位下田中朝臣多太麻呂。從四位上佐伯宿祢今毛人。從四位下大伴宿祢伯麻呂等。監護喪事。甲寅。授正六位上和氣公細目外從五位下。 

二月三日に錦部連河内賣(吉美に併記)を元の位の従五位上に戻している。九日に因「幡國高草(郡)」の采女である従五位下「國造淨成女」等七人に「因幡國造」の氏姓を賜っている(こちら参照)。また石見國に飢饉があったので物を恵み与えている。

十一日に下毛野朝臣足麻呂を外衛少將、物部礒波(浪)を左兵衛大尉に任じている。十三日に「交野」に行幸されている。十四日、進んで難波宮に到っている。十六日に左大臣(藤原永手)が急に病気になった。そこで、大納言の大中臣朝臣清麻呂(東人に併記)に詔して、大臣の仕事を執り行わせている。

十九日に莫牟師(三韓系の管楽器奏者。滅んで伝わっていない)の「村上造大寶」に外従五位下を授けている。高齢を労わったことによる。二十一日に天皇は龍田道を取ったが、回って竹原井行宮(頓宮)に至っている。旗印の竿が理由なく自然に折れ、時の人は皆、執政が死亡する徴であると思った。

二十に日に左大臣の藤原朝臣永手が亡くなっている。時に年は五十八歳であった。奈良朝(聖武天皇)に太政大臣を贈られた「房前」の第二子である。母は牟漏女王という。代々、大臣・宰相を出す家柄であることにより朝廷に仕えて、従五位下を授けられた。天平勝寶九歳(757年)に従三位・中納言兼式部卿に至った。天平字八(763)年九月に大納言に転任し従二位を授けられた。天平神護二(766)年に右大臣に任命され從一位を授けられ、在位二年で、左大臣に転任した。

寶龜元(770)年、高野天皇が病気になった時、道鏡が天皇の恩を自分のために利用して内外に勢を振るった。廃帝(淳仁天皇)が退けられて以来、天皇の身内で人望の高い人々の多くは無実の罪を被せられ、日嗣の位はついに絶えようとした。そこで道鏡は、自分が寵愛を深く受けていたので、日夜とんでもない望みを抱き求めた。天皇が崩御するにおよんで、方策(白壁王の即位)を定めて國を安定させたについては、大臣の力は非情に大きく、薨じるにおよんで、天皇は大変いたみ悲しんでいる。

そこで詔して、中納言兼中務卿の文室眞人大市と員外中納言兼宮内卿・右京大夫の石川朝臣豊成を遣わして、物を贈って弔わせ、次のように述べている(以下宣命体)・・・藤原左大臣に仰せになる御言葉を申し渡す。御言葉として仰せになるには、大臣は明日は参内して来て仕えるであろうと待っている間に、治って出仕することはなく、天皇の朝廷を置いて黄泉の國へ罷り退いた、と聞いて思うには、偽りの言葉か、戯言を言っているのか、真実ならば、仕えていた太政官の政務を一体誰に任せて退いて行ったのか、誰に授けて退いて行ったのか、悔しいことだ、悲しいことだ。---≪続≫---

朕の大臣よ、誰に私は語って我が心を晴らそうか、誰に私は問うて晴らそうか。悔しく、惜しく、痛ましく思い、悲しく思って、声をあげて泣いている、と仰せになる御言葉を申し渡す。悔しいことだ、惜しいことだ、今日からは、大臣が奏上していた政務は、聞くことがなくなるのか、明日からは大臣が仕えていた姿は、見ることがなくなるのか、日月が重なっていくにつれて、悲しいことばかりがいよいよ起きて来ることよ、歳月が積り行くにつれて、寂しいことばかりがいよいよ増して来ることよ。朕の大臣よ、春秋の麗しい風景を誰と共に見に行って楽しもうか、山川の浄い所を誰と共に見に行って心を晴らそうかと、歎き、憂えているのである、と仰せになる御言葉を申し渡す。---≪続≫---

大臣の貴方は、万の政務を総括し、怠り弛むことなく、曲げ傾けることなく、皇族や臣下を彼此と差別することなく、全てに公平に奏上し、公民の身の上についても、広く慈しんで奏上した。こうしたことだけでなく、天皇の朝廷を暫くの間も退出して休息することなく、國を治める政治が平安であるべきさまや、天下の公民が平安であるべきことを、朝も夕も夜も昼も区別なく、思い議って奏上し仕え申し上げるので、朕は勤勉なことよ、心の明らかなことよ、安心なことよ、頼もしいことよ、と思いながら過ごしていた間に、忽ちに朕の朝廷より離れ退いてしまわれたので、どのように言って良いかもわからず、どうしたら良いのかもわからず、悔しく心細く思っている、と仰せになる御言葉を申し渡す。---≪続≫---

また、言葉を改めて仰せられるには、仕えて来たことは広く厚いので、大臣の貴方の家の中の子達をも、放ちやらず、見捨てることはせず、慈しもう、官人に取り立ててやろう、世話をしてやろう、注意してやろう。大臣の貴方が退いて行く道も、後の事に心を残すことなく、心中も穏やかに思って、平安に、差し障りなく退いて行くように、と仰せになる御言葉を申し渡す・・・。

石川朝臣豊成は命を受けて次のように述べている(以下宣命体)・・・御言葉として仰せになるには、大臣の貴方が仕えて来た様子は、今だけに限ったことではない。口に出すのも恐れ多い近江大津宮で天下をお治めになった天皇(天智天皇)の御世には、大臣の曽祖父である藤原内大臣(鎌足)が明るく浄い心をもって天皇の朝廷を助けお仕え申し上げた。藤原宮で天下をお治めになった天皇(持統・文武天皇)の御世には、祖父である太政大臣(不比等)がまた明るく浄い心をもって天皇の朝廷を助けお仕え申し上げた。---≪続≫---

今、大臣は愚かな朕を扶けて仕えて来た。このように賢い臣下達が代々お仕え申し上げて来たことを、かたじけないことよ、よく勤めたことよ、と思っている。その故に、祖先達がお仕え申し上げて来た後継ぎでもあり、また、朕の、大臣の仕えたさまもご苦労に思い、重大に思って、太政大臣の位に上げ、授けようとしたが、その時、固く辞退して受けずに終わった。その後も与えようと思っていたので、太政大臣の地位に上げて、優遇しようと仰せになる御言葉を申し渡す・・・。

田中朝臣多太麻呂佐伯宿祢今毛人大伴宿祢伯麻呂(小室に併記)等を遣わして葬儀を監督・護衛させている。

二十七日に「和氣公細目」に外従五位下を授けている。

<交野>
交野

「交野」の文字列は、河内國交野郡で用いられたのが初見である。通説はここで記載される「交野」は、その郡を示すと解釈されているようである。

續紀本文を眺めると、「交野郡」は元明天皇紀に一度記載された以降に登場することはない。一方「交野」の表記は、この場を含め数回登場する。

勿論、國名やら郡名などの修飾はなく、単に「交野」と記述されている。と言うことは、紛うことなく「交野郡」ではなく、類似の地形…交野=野が交差するところ…を持つ別の場所であることが導き出される。

「交野」が示すように、この地は交通の要所であったと推測される。東西南北に谷間の野が広がっている地形であろう。それを図に示した場所に、容易に見出すことができる。そして四方の谷間に多くの氏族が蔓延っていた地である。実は、書紀・續紀が語る多くの戦闘場面で既に登場していたが、特記されることがなかっただけなのである。

一例として『壬申の乱』における大海人皇子(天武天皇)側の坂本臣財隊の行程を思い起こすことができる。「龍田道」を防げとの命を受けたが、敵方の動向を知って、急遽進軍の方向を変えた、と記載されている。その転回場所「平石野」が「交野」の近傍と推定した(こちら参照)。

上記本文で光仁天皇も難波宮からの帰途で、一旦は「龍田道」に向かったが、”還”して竹原井行宮に到ったと述べている。『壬申の乱』における大坂道に向かったことになる。古事記の河内之美努村は、重要な拠点だったのである。

通説では「竹原井行宮」は「龍田道」沿いにあるため、”還”の文字の解釈は省略であろう。上記本文の記述に従うと”進”となる筈である。斉明天皇が伊豫熟田津から”還”して朝倉橘廣庭宮へ向かった記述に酷似する(こちら参照)。そのまま先に”進”むのか、”還”するのか、決して些細なことではないのである。

<村上造大寶>
● 村上造大寶

「村上造」については全く情報がなく氏名の「村上」そのものも用いられた形跡が見当たらなかった。勿論、もう少し後代になれば水軍一族で登場するのであるが・・・。

そんな背景で、辛うじて高麗系渡来人が「村上」を名乗ったとする記事が見つかり、それを頼りに探索を続けることにした。高麗系人達は各所に散らばっていたのだが、武藏國高麗郡に集約して住まわせたと記載されていた。

そして淳仁天皇紀に本来の高麗風の「前部」と名乗っていたが、和風の氏姓を賜っている(こちらこちら参照。図に一部記載)。勿論、その中には「村上造」の氏姓は含まれていない。

また、聖武天皇紀に篤農家として前部寶公が登場し、外従五位下を授けられているが、何故か淳仁天皇紀の賜姓には含まれていない。憶測するに、既に「村上造」を賜姓されていたのではなかろうか。これで今回登場の人物の出自場所を求めることができる。

あらためて村上造の地形を表すと村上=手を開いて延ばしたような山稜の先が盛り上がっているところと解釈される。「上」は「寶」に含まれる”玉”を表現していると思われる。名前の大寶=[寶]の地の上に平らな頂の山稜が広がっているところと読み解ける。図に示した場所が出自と推定される。

<和氣公細目>
● 和氣公細目

「和氣公」は、称徳天皇紀に別公薗守が吉備石成別宿祢の氏姓を賜ったと記載されていた。備前國藤野郡の「和氣」一族ではなく、美作國に属する地である「石成」、古事記の吉備之石无別を居処とする一族と思われる。

勿論、多分だが、この「石无別」から派生して藤野郡の一族と推測される。清麻呂等の父親である「磐梨別乎麻呂」は、その名前が表す地形から、図に示した場所が出自と推定された。

この近隣の地で名前、細目=[目]の形をした山稜の前で細く窪んだところと解釈すると、図に図に示した場所が見出せる。「薗守」とは同族であるが異なる系列だったのであろう、宿祢姓を賜っていないようである。