高野天皇:称徳天皇(4)
天平神護元年(西暦765年)九月の記事からである。原文(青字)はこちらのサイトから入手、訓読続日本紀(今泉忠義著)、続日本紀3(直木考次郎他著)を参照。
九月壬辰。授正四位下石川朝臣豊成從三位。丁酉。更鑄新錢。文曰神功開寳。与前新錢。並行於世。丁未。河内國古市郡人正七位下馬毘登夷人。右京人正八位下馬毘登中成等賜姓厚見連。戊申。從五位上藤原朝臣是公〈本名黒麻呂〉爲左衛士督。庚戌。遣使造行宮於大和。河内。和泉等國。以欲幸紀伊國也。癸丑。以從二位藤原朝臣永手。正三位吉備朝臣眞備。爲御裝束司長官。從四位下高丘連比良麻呂。從五位上豊野眞人出雲。大伴宿祢伯麻呂爲次官。判官四人。主典四人。
九月三日に石川朝臣豊成に従三位を授けている。八日に改めて新銭を鋳造している。銭の文は神功開寶と言い、前回の新銭(万年通寶)と並行して流通させている。十八日に河内國古市郡の人である「馬毘登夷人」と右京の人である「馬毘登中成」等に「厚見連」姓を賜っている。
十九日に藤原朝臣是公<分注。本名は黒麻呂>を左衛士督に任じている。二十一日に使者を大和・河内・和泉などの諸國に派遣して、行宮を造営させている。紀伊國へ行幸されるためである。二十四日に藤原朝臣永手と吉備朝臣眞備を御装束司の長官に、高丘連比良麻呂(比枝麻呂)・豊野眞人出雲(出雲王)・大伴宿祢伯麻呂(小室に併記)を次官に、他に判官四人、主典四人を任じている。
● 馬毘登夷人・馬毘登中成
「馬」を献上したから「馬」の氏名とした、とは記載されてはなく、やはり「馬」は地形象形表記と解釈した。献上は事実としても、編者等の洒落であろう。
「比奈麻呂」の別名に「夷麻呂」があって、夷人は、ひょっとすると同一人物かと錯覚するのであるが、別人である。夷=大+弓=平らな山稜が弓ような形をしている様と解釈される。その地形を、「比奈麻呂」の東側に見出せる。纏めると夷人=平らな山稜が弓ような形をしている地に[人]の形の谷間があるところと読み解ける。
もう一人の中成=谷間を突き通すように山稜が延びた地で平らに整えられたところと解釈される。図に示した場所が出自と推定される。賜った厚見連の「厚見」は既出であり、厚見=大きく広がっている山稜がある谷間が長く延びているところと読み解いた。厚見王などで用いられていた。
冬十月己未朔。日有蝕之。庚申。遣使固守三關。辛未。行幸紀伊國。以正三位諱爲御前次第司長官。從五位下多治比眞人乙麻呂爲次官。正四位下中臣朝臣清麻呂爲御後次第司長官。從五位下藤原朝臣小黒麻呂爲次官。各判官二人。主典二人。正四位下藤原朝臣繩麻呂爲御前騎兵將軍。正五位上阿陪朝臣毛人爲副將軍。從三位百濟王敬福爲御後騎兵將軍。從五位下大藏忌寸麻呂爲副將軍。各軍監三人。軍曹三人。是日。到大和國高市郡小治田宮。壬申。車駕巡歴大原長岡。臨明日香川而還。癸酉。過檀山陵。詔陪從百官。悉令下馬。儀衛卷其旗幟。是日。到宇智郡。甲戌。進到紀伊國伊都郡。乙亥。到那賀郡鎌垣行宮。通夜雨墮。丙子。天晴。進到玉津嶋。丁丑。御南濱望海樓。奏雅樂及雜伎。權置市廛。令陪從及當國百姓等任爲交關。散位正八位上民忌寸礒麻呂獻錢百万。稻一万束。授從五位下。己夘。前名草郡少領榎本連千嶋獻稻二万束。庚辰。淡路公不勝幽憤。踰垣而逃。守佐伯宿祢助。掾高屋連並木等率兵邀之。公還明日薨於院中。」詔曰。紀伊國今年調庸。皆從原免。其名草。海部二郡者。調庸田租並免。又行宮側近高年七十以上者賜物。犯死罪以下皆赦除。但十惡及盜人不在赦限。又國司。國造。郡領及供奉人等。賜爵并物有差。」授守從五位上小野朝臣小贄正五位下。掾正六位上佐伯宿祢國守。散位正六位上大伴宿祢人成並從五位下。騎兵出雲大目正六位上坂上忌寸子老外從五位下。名草郡大領正七位上紀直國栖等五人。賜爵人四級。自餘五十三人各有差。叙牟婁采女正正五位上熊野直廣濱從四位下。女嬬酒部公家刀自等五人各有差。是日。從三位廣瀬女王薨。二品那我親王之女也。癸未。還到海部郡岸村行宮。甲申。到和泉國日根郡深日行宮。于時西方暗暝。異常風雨。紀伊國守小野朝臣小贄從此而還。詔賜絁卅疋。綿二百屯。乙酉。到同郡新治行宮。丙戌。到河内國丹比郡。丁亥。到弓削行宮。賜五位已上御衣。戊子。幸弓削寺礼佛。奏唐高麗樂於庭。刑部卿從三位百濟王敬福等亦奏本國舞。
十月一日に日蝕があったと記している。二日に使者を派遣して三關(鈴鹿・不破・愛發)を固守させている。十三日に紀伊國に行幸されている。行幸に際して諱(白壁王、後の光仁天皇)を御前の次第司の長官に、多治比眞人乙麻呂を次官に、中臣朝臣清麻呂(東人に併記)を御後の次第司の長官に、藤原朝臣小黒麻呂を次官に、それぞれ判官二人、主典二人を任じている。藤原朝臣縄麻呂を御前の騎兵将軍に、阿倍朝臣毛人(粳虫に併記)を副将軍に、百濟王敬福(①-❽)を御後の騎兵将軍に、大藏忌寸麻呂を副将軍に、それぞれに軍監三人、軍曹三人を任じている。この日、「大和國高市郡小治田宮」に到っている。
十四日に「大原・長岡」を巡り、「明日香川」に臨んだ後、「小治田宮」に帰還されている。十五日に一行が「檀山陵」を通過するとき、付き添っている官人達に詔を下して、悉く下馬させ、儀伏兵にはその旗や幟を巻かせている。この日、一行は「宇智郡」に到っている。十六日、進んで「紀伊國伊都郡」に到っている。十七日に一行は「那賀郡」の「鎌垣行宮」に到っている。夜通し雨が降り続いていた。十八日、進んで「玉津嶋」に到っている。
十九日に南浜の望海楼に出後され、雅楽や様々の遊戯が演奏されている。臨時に市を開設させて、天皇に付き従っている者達や紀伊國の一般の人々に自由に交易させている。この日、散位の民忌寸磯麻呂(礒麻呂。眞楫に併記)が銭百万文と稲を二万束献上したので従五位下を授けている。二十一日に前の名草郡少領の「榎木連千嶋」が稲を二万束献上している。
二十二日に淡路公(淳仁天皇)は幽閉された憤りに耐え切れず、垣根を越えて逃走している。淡路守の佐伯宿祢助と掾の「高屋連並木」等は兵士を率いて待ち受け、淡路公は引き戻された翌日一郭の中で薨じている。
次のように詔されている・・・紀伊國の今年の調・庸はみな免除する。その内、名草・海部の二郡は調・庸並びに田租を免除する。また、行宮付近に住まう七十歳以上の高齢者に物を賜り、死罪以下の罪を犯した者は皆赦免する。但し、十悪及び強盗・窃盗は赦免の範囲に入れない。また、國司・國造・郡領及び供奉した人々には、それぞれ位と物を賜う・・・。
紀伊國守の小野朝臣小贄に正五位下、掾の佐伯宿祢國守(眞守に併記)と散位の「大伴宿祢人成」に従五位下、騎兵で出雲大目の「坂上忌寸子老」に外従五位下を授けている。名草郡大領の「紀直國栖」等五人には、それぞれ位を四級昇進させ、その他の五十三人には、それぞれ位階を授けている。牟婁郡出身の采女の「熊野直廣濱」を従四位下に叙し、女孺の「酒部公家刀自」等五人には、それぞれ位階を授けている。この日、廣瀬女王(廣背女王)が亡くなっている。那我親王(天武天皇の長皇子)の娘であった。
二十五日に一行は帰路に就いて、海部郡の「岸村行宮」に到っている。二十六日に和泉國日根郡の「深日行宮」に到っている。その時に西方の空が闇のように暗くなり、異常な風雨にみまわれている。紀伊國守の小野朝臣小贄はここから帰っている。詔を下されて、「小贄」に絁三十疋と真綿二百屯を賜っている。二十七日に一行は同郡の「新治行宮」に到っている。二十八日に河内國丹比郡に到っている。二十九日に「弓削行宮」に到っている。五位以上の者に御衣を賜っている。三十日に「弓削寺」に行幸され、仏像を礼拝し、寺の庭で唐や高麗の音楽を奏している。また、刑部卿の百濟王敬福(①-❽)等も百濟の舞を奏している。
大和國高市郡小治田宮
「小治田宮」とくれば古事記の豐御食炊屋比賣命(推古天皇)が坐した宮(こちら参照)と同名なのだが、大和國高市郡にあったと付記されている。
「高市郡」は、書紀の天武天皇紀に高市郡大領、高市縣主許梅(高市皇子に併記)が登場し、現在の田川郡福智町金田辺りと推定した。
小治田=水辺で三角に尖った耜のように山稜が延びている麓で平らに広がった地があるところと解釈すると、図に示した場所が見出せる。古事記の輕嶋之明宮の「月」の先端部を表している。
大原・長岡を巡って、明日香川に臨んで帰還されている。「長岡」は、図に示した民忌寸一族の居処である長く延びた山稜を表していると思われる。「大原」は些か曖昧な表記であるが、図に示した川辺の台地を表していると思われる。
「明日香(アスカ)」=「飛鳥」と読むことに慣れている身では、何も考えることなく”飛鳥の地を流れる川”とするのであろう。「明日香」の文字列は、續紀中の初見である。そして出現する全て地名・人名は、地形象形表記であると信じるならば、これも例外ではなかろう。
明=日+月=三日月の地で[炎]の形に山稜が延び出ている様と解釈した。もう一つ日=太陽のような様の地形があることを示している。香=禾+曰=窪んだ地から稲穂のように山稜が延び出ている様と解釈した。
纏めると、明日香=「明」の背後に「日」の地がある山稜が「香」のように延びているところと読み解ける。輕嶋之明宮の地形を別表記していることが解る。現在の彦山川を示しているのである。
行幸の行程は、いよいよ「小治田宮」を発って「紀伊國伊都郡」に向かうのであるが、その途中に登場するのが、「檀山陵」と「宇智郡」と記載されている。「小治田宮」から明日香川(彦山川)を下って北方に向かって、現在の遠賀川河口付近に至ることはあり得ないであろう。当然ながら、南方に向かって遡り、山背國葛野に抜けて、犀川(現今川)沿いを下り難波津に至ったのではなかろうか。
「葛野」や「檀山陵・宇智郡」は、”国譲り”後の國別配置とは大きく異なることになる。編者等の苦心が発生するのである。それは省略するか、もしくは別名表記(地形象形表記を満足しながら)となる。それを念頭にして読み解いてみよう。
類似する名称として、天智天皇・天武天皇の祖母である吉備嶋皇祖母命の御陵「檀弓岡陵」が思い浮かぶが、小治田宮の北方にあって矛盾する。また、通説では、孝謙天皇紀に記載された眞弓山陵(草壁親王陵)とされている。「檀」は「マユミ」と訓される。ならば”檀弓”は、何と訓するのであろうか・・・記紀・續紀を通じて、一貫性のない記述を行ってはいない。
先帝の陵墓であり、その傍らを陸路で通行している。犀川を水路で下ってはいないことが解る。この周辺における陵墓には、古事記の兄弟である袁祁命(顕宗天皇)及び意祁命(仁賢天皇)の片岡之石坏岡(上)陵があったと推定した。
「檀」=「木+亶」=「山稜が積み上げられた様」と解釈し、檀山=積み上げられた山稜が[山]の字形に延びているところと解釈される。「石坏」の別表記であることが解る。
宇智郡 次に向かった場所である。「小治田」宮から一日の行程と記載されている。國名が冠していない。勝手に考えろ、と言うことである。通説は、固有の地名とする以上、必然的に”大和國宇智郡”とされる(本著では「高市郡」の南側に位置すると郡である。こちら参照)。勿論、この郡は山背國宇治郡であろう。「治」と「智」とを置換えた表記である。
この地から岬をぐるっと回れば、難波津に至る。通説の平城宮と紀伊國との配置からして、續紀編者等にしてみれば、なかなかに記述し辛いところではある。
聖武天皇が四十年余り前の神龜元(724)年十月に紀伊國に行幸されていた。往路での記述は省略されているが、帰路では和泉國に戻ったとされる。
今回の行幸も後に和泉國に帰還したと記載されている。即ち、詳細な場所は別としても、ほぼ同じ行程を辿ったのであろう。
續紀編者としては、あからさまな記述を避けて、省略することで虚偽の記述ではないことにしたのである。書紀は無記名の書であるから、大胆な改竄が行えたのだが、續紀では、記名した以上嘘は書けなかった、のである。
紀伊國伊都郡
「宇智郡」から翌日に「紀伊國伊都郡」に到ったと記載されている。聖武天皇は名草郡だったから、少々異なる港に着岸した様子である。「伊都郡」は、勿論、初見である(過去の各郡はこちら参照)。
罷り間違っても伊刀(イト)郡と混同することはない筈だが・・・やはり伊都(イツ)郡の読みであろう。これも努々魏志倭人伝の伊都國に絡めることはあり得ないであろう。
さて、その場所は?…文武天皇紀に「分遷伊太祁曾。大屋都比賣。都麻都比賣三神社」と記載され、都麻都比賣の鎮座された地を示していると思われる。伊都=谷間で区切られた山稜の麓で枝分かれした山稜が交差するように寄り集まっているところと解釈される。
● 榎木連千嶋・紀直國栖 物語の流れでは前後するが、この地を出自とする人物二名が登場している。前の名草郡少領の榎木連千嶋が稲を献上している。「榎木連」は初見ではあるが、榎木=山稜が平らに大きく広がっているところと解釈すると、図に示した伊都郡から牟婁郡へ向かう谷間辺りの地形を表していると思われる。
既出の文字列である千嶋=鳥のような形の山稜(嶋)を谷間が束ねている(千)ところと読み解ける。この人物の出自を図に示した場所と推定される。名草郡大領の紀直國栖の栖=木+西=笊のような形に山稜が囲んでいる様(鳥の巣)と解釈すると、図に示した場所が出自と思われる。
紀伊國那賀郡鎌垣行宮
聖武天皇行幸の際に記載された郡名・宮名を左図に再掲した。那賀郡は、文武天皇紀では奈我郡と表記されていた。
高台に着目して、そのギザギザとした地形を表している。一方那賀郡の那賀=谷間が押し開かれてしなやかに曲がって延びるところと谷間に焦点を合わせた表記であろう。
玉垣勾頓宮は、山稜の端の形状を勾玉と見做した名称であるが、全体を「鎌」の形とした表現が鎌垣行宮となったと思われる。
玉津嶋には「頓宮」があった場所であるが、今回は特に利用した気配が伺われない。海辺の厳しい環境で朽ち果てていたのかもしれない。現在の標高9.3mであり、当時の海面すれすれの高さのように思われる。持統天皇の行幸の際には近隣の阿胡行宮が記載されていた。
天皇一行は、海部郡を巡った後に和泉國に向けて出立されている。その場所が岸本行宮近隣であったと思われる。即ち、その港から和泉國に船路で直行されたようである。
「岸本」の「岸」=「山+厂+干」=「山麓で[干]の古文字形に延び出ている様」と読み解いた。数は多くはないが、既に用いられた文字である。「本」=「木+一」=「山稜が途切れている様」であり、纏めると、岸本=山稜が途切れた前の山麓に[干]の形に延び出ているところと読み解ける。
実に分り易い地形が地図上で確認される。「玉津嶋」の東側の山稜である。港を出て、現在の鳶ヶ巣山の北麓から東麓を回って和泉國に向かったと推測される。地図を現在の標高8.5m以下で青く色付けすると、この地は大きな入江、湾とも言える状態であったと思われる。「玉津嶋」の「玉」が確認されるのも興味深いところであろう。
● 熊野直廣濱・酒部公家刀自
「熊野直廣濱」は、高位の従四位下を叙爵されている。実はこの人物は聖武天皇紀に多くの女官の叙位で登場していて、外従五位下を授かっていたのである。
実を申せば、てっきり熊野村の出身かと錯覚したのであるが、そうではなかったことが分かった。紀伊國牟婁郡で熊野とくれば、何とも現在の地名との都合の良い関係のように思われるのだが・・・。
それは後程述べるとして、熊野=隅にある炎のような山稜が延びた麓に野が広がっているところと解釈される。勿論、古事記の熊野村の解釈と異なることはない。図に示した牟婁郡と那賀郡の端境にある場所と推定される。廣濱=水辺で広がっているところであり、出自の場所を求めることができる。
「酒部公(君)」に関する情報は全く得られず、牟婁郡内及び周辺で、それが表す地形を探索すると、酒部=水辺で酒樽のようになっている地の近隣にあるところと読み解いて、図に示した場所、現在は地形が大きく変形しているが、を見出せる。既出の文字列である家刀自=端が豚の口のような山稜の先が刀の形になっているところと読み解ける。図に示した場所が出自と推定される。
後(光仁天皇紀)に酒部造上麻呂・酒部造家刀自が、それぞれ外従五位下を叙爵されて登場する。上記の「酒部公」の谷奥を居処とする一族と推定して、出自の場所を求めた。「家刀自」は、全く同様であり、「上麻呂」の上=盛り上がった様と解釈する。
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牟婁郡に関わる彼女達への褒賞は、伊都郡から牟婁郡を経て那賀郡鎌垣行宮に辿り着いたことを示しているのである。通説における古代の牟婁郡の場所は、極めて曖昧であるが(明治期の再編はこちら参照)、現在の和歌山県東部・三重県南西部(熊野)一帯とする解釈は、本行幸の行程上あり得ないことになる。ここでも現在の古代史学は目を瞑ったままである。
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紀伊國海部郡の「岸本行宮」を発って、向かった先が和泉國日根郡の深日行宮であったと記載されている。実に丁寧な記述であり、異なる地形象形表記によって、求める場所の確からしさが増すであろう。
「深日行宮」の「深」=「氵+穴+火+又」=「水辺で山稜に囲まれた谷間に[火]のように山稜が延びている様」と解釈した。「日」=「炎」とすると、深日=水辺で山稜に囲まれた谷間に[火]のように山稜延びている地で[炎]のような山稜が延び出ているところと読み解ける。
図に示した場所、直近では、この度の事変で勲六等を授かった田邊公吉女の出自場所と推定した山稜の端に造られた行宮と思われる。帰還して旅の疲れを癒そうと思う間もなく、天候が怪しくなって、「于時西方暗暝。異常風雨」と述べている。おそらく、もう少し先にある新治行宮で風雨を避けたのであろう。
既出の文字列ではあるが、「新治」は記紀・續紀を通じて初見である。新治=切り分けられた山稜が水辺で耜のような形をしているところと読み解ける。これだけの地形象形では、一に特定することは難しいが、同じ「日根郡」内にあった場所と記されている。すると、図に示した場所が見出せる。「上毛野公(田邊史)」一族の地である。地図上では約500m程度の距離であり、天皇一行は殆ど足止め状態であったと推測される。
河内國丹比郡 天候の回復を待って、次に向かった先である。ここでも一泊しているのであるが、宿泊場所名は記載されていない。新治行宮から南に向かい、所石頓宮の脇を抜けると、現在の長峡川に突き当たる。その川沿いを遡れば、「弓削一族」の居処に届くのだが、異常風雨で歩行困難な状況だったのではなかろうか。
『壬申の乱』で大戦があった安河濱辺りで渡渉して、「河内國丹比郡」に向かったと推測される。急遽の宿泊に際して過去に上げられていた場所があるのか?…書紀の斉明天皇紀に有間皇子が謀議したとされた市經家を思い出せる。今は、大原連家主等が居処とする場所である。「弓削一族」の地に向かうには、もう一度長峡川を越える必要があり、川の流れが鎮まるのを待ったのであろう。
弓削行宮・弓削寺 残念ながらこれだけの表記では、場所を特定することは叶わずである。弓削連一族の地にあった、としておこう。
● 高屋連並木
「高屋連」は、文武天皇紀に藥の娘が三つ子を産んで物を与えたと記載されていた。それ以外での登場はなく、何とも心許ない有様だったのであるが、その一族が漸く官人として任務に就いていたことが分かった。
上司と共に前天皇の最後を看取ったのであろう。淡路公として静かな余生かと・・・道鏡が差配するなら、陰湿な企みがなされていたのかもしれない。
並木の並=立+立=立ち並ぶ様であるが、木=木の枝が円錐形に広がったような様と解釈するべきであろう。図上では円錐形を三角形で表しているが、その地形を見出せる。簡明な文字使いと言えるであろう。”三つ子”からは何世代も後の人物だったようである。後に外従五位下で遠江大掾に任じられている。
少し後に高屋連赤麻呂が外従五位下を叙爵されて登場する。赤=火+大=[火]のような谷間が広がっている様であるが、[火]の頭部が”三つの峰”を表すと解釈される。「並木」の西側の谷間の地形を示している。その谷間の出口辺り(麻呂=萬呂)が出自と推定される。
● 大伴宿祢人成
相変わらず人材輩出の大伴宿祢一族ではあるが、一時ほどの勢いは失せているように感じられる。また、登場しても系譜が伝わっている場合も殆どなく、やはり大臣の誕生がないと記録に残されないのかもしれない。
そんな背景で、”奔流大伴(長德一家)”の東側、現在の山口ダム近辺を出自に持つ人物だったと推察される。とは言え、この地も既に大勢が配置されていて、果たして名前が示す地形を求めることができるのか?・・・。
人成=[人]の文字形のように延びた山稜が平らに整えられているところと解釈すると、図に示した場所が見出せる。同祖の佐伯宿祢(同じく従五位下を叙爵された行幸随伴者國守など)ほどではないが、山腹の谷間の地形である。
後(光仁天皇紀)に大伴宿祢人足が従五位下を叙爵されて登場する。人足=人の足のように山稜が延びているところと読むと、図に示した、「人成」の東隣が出自と推定される。この人物はもう一度登場し、地方官を任じられたと記載されている。
引き続いて大伴宿祢中主が従五位下を叙爵されて登場する。中主=真っ直ぐな山稜が真ん中を突き通すように延びているところと解釈される。図に示した場所が出自と推定される。續紀中に見られるのは、この場限りのようである。
上記の「大伴宿祢」一族と同様に連綿と人材輩出の「坂上忌寸」一族であろう。直近では苅田麻呂が事変での功績で勲二等、更に「大忌寸」姓を賜っている。『壬申の乱』以来武術に長けた一族として重用されて来ている。
残念ながら「子老」の系譜は不詳であり、名前が示す地形より出自を求めてみよう。それにしても「老」が名前が多く出現しているようである。
子老=生え出た山稜が海老のように曲がっているところと読める。すると図に示した場所がその地形を示しているように思われる。續紀中に再度登場されることはなく、その後の消息は不明である。