2022年9月7日水曜日

寳字稱徳孝謙皇帝:孝謙天皇(17) 〔604〕

寳字稱徳孝謙皇帝:孝謙天皇(17)


天平字二年(西暦758年)五月の記事からである。原文(青字)はこちらのサイトから入手、訓読続日本紀(今泉忠義著)、続日本紀2(直木考次郎他著)を参照。

夏五月丙戌。大宰府言。承前公廨稻合一百萬束。然中間官人任意費用。今但遺一十餘萬束。官人數多。所給甚少。離家既遠。生活尚難。於是以所遺公廨。悉合正税。更割諸國正税。國別遍置。不失其本。毎年出擧。以所得利。依式班給。其諸國地子稻者。一依先符。任爲公廨。以充府中雜事。乙未。正六位上大和宿祢弟守授從五位下。

五月十六日に大宰府が以下のように申し上げている・・・前から受け継いだ公廨稲は、合わせて百万束である。ところが、その後を受け継いだ官人等が心に任せて使ってしまい、今はただ十万束を残すのみである。官人は多いのに、給付額は極めて少額であり、家を離れて遠く赴任して来たのに、それでも生活は困難である。そこで残る公廨稲を全て正税稲に混入し、更に諸國の正税を割いて國ごとにもれなく公廨稲を設け、元本をなくさないようにして年ごとに出挙し、得るところの利稲を、式に従い配分したいと思う。諸國から送られて来る地子稲は、先の符の言うように、公廨として府中の雑事の費用に充てたいと思う・・・。

二十五日に「大和宿祢弟守」に従五位下を授けている。

<大和宿祢弟守-斐大麻呂-西麻呂>
● 大和宿祢弟守

「大和宿祢」は、前記で登場した表記であり、大倭忌寸から大養徳忌寸を経て、宿祢姓を賜った大和宿祢長岡(小東人)等の一族であった。

また、聖武天皇紀に大養德宿祢麻呂女が従五位下を叙爵されていた。元来は”外”が付いていたのが、内位で初見となっている。「小東人」も遣唐使の一員になるなど、活躍は目覚ましく内位へと昇進していた。

何らかの血縁関係があったと推測されるが、定かではないようで、今回の弟守についても同様に系譜は不詳である。既出の文字列である弟守=両肘を張ったような山稜に囲まれた地の前がギザギザとした谷間になっているところと読み解くと、図に示した場所が出自と推定される。

後に大和宿祢斐大麻呂大和宿祢西麻呂が外従五位下を叙爵されて登場する。”外”が付く爵位であり、「弟守」とは異なる系列だったのであろう。既出の文字列である斐大=平らな頂の山稜の前にある狭い谷間が交差するようなところと読み解ける。図に示した場所が出自と推定される。

西麻呂の「西」の文字が名前に用いられているのは、初見である。所謂方角の”西”を表す文字であるが、そもそもこの文字が”西”を表すことの解釈が難解なようで、他の三つの方角のようにはスッキリとした解釈になっていない。残り一つの方角に当て嵌める文字を選んだ結果が「西」だったのかもしれない。

この文字の地形象形表記としての解釈は、後の称徳天皇紀に登場する西大寺の場所を突止める際に達成されることになる。概略を述べると、「西」は「笊(ザル)」の象形とされていることに着目し、西=[笊]のような形をした様と解釈する。その地形を、図に示した「斐大麻呂」の西側の谷間の出口辺りに見出せる。奇跡的に千数百年を経て残存している地形であろう(こちら参照)。

六月甲辰。大宰陰陽師從六位下余益人。造法華寺判官從六位下余東人等四人賜百濟朝臣姓。越後目正七位上高麗使主馬養。内侍典侍從五位下高麗使主淨日等五人多可連。散位大属正六位上狛廣足。散位正八位下狛淨成等四人長背連。辛亥。陸奥國言。去年八月以來。歸降夷俘。男女惣一千六百九十餘人。或去離本土。歸慕皇化。或身渉戰塲。与賊結怨。惣是新來。良未安堵。亦夷性狼心。猶豫多疑。望請。准天平十年閏七月十四日勅。量給種子。令得佃田。永爲王民。以充邊軍。許之。丙辰。以從四位上佐伯宿祢毛人爲常陸守。參議從三位文室眞人智努爲出雲守。從五位上大伴宿祢家持爲因幡守。乙丑。大和國葛上郡人從八位上桑原史年足等男女九十六人。近江國神埼郡人正八位下桑原史人勝等男女一千一百五十五人同言曰。伏奉去天平勝寳九歳五月廿六日勅書稱。内大臣。太政大臣之名不得稱者。今年足人勝等先祖後漢苗裔鄧言興并帝利等。於難波高津宮御宇天皇之世。轉自高麗。歸化聖境。本是同祖。今分數姓。望請。依勅一改史字。因蒙同姓。於是。桑原史。大友桑原史。大友史。大友部史。桑原史戸。史戸六氏同賜桑原直姓。船史船直姓。

六月四日に大宰府陰陽師の「余益人」と造法華寺(隅院近隣)判官の「余東人」等四人に百濟朝臣の氏姓を、越後國目の「高麗使主馬養」と内侍典侍の「高麗使主淨日」等五人に多可連の氏姓を、散位大属の「狛連廣足」と散位の「狛淨成」等四人に長背連の氏姓を賜っている。

十一日に陸奥國が以下のように申し上げている・・・去年八月以来、帰順した夷俘の男女は、合計千六百九十余人である。彼等は、或いは故郷を遠く離れ去って、天皇の教化に浴することを願い、或いは戦場で経験を積んで、賊と怨恨を生じた者たちである。これらすべては新たに帰順したのであって、その心は安定していない。また蝦夷の性質は、狼のような心であって、ためらいがちで、疑心の多いものである。そこで、天平十年閏七月十四日の勅(現存せず)を準用して、種籾を給付し、水田を耕作できるようにさせて永遠に王民となし、辺境の軍にも充当しようと思う・・・。これを許可している。

十六日に佐伯宿祢毛人を常陸守、参議の文室眞人智努(智努王。珍努)を出雲守、大伴宿祢家持を因幡守(在任中に作った歌が最後で万葉集は閉じられている)に任じている。

二十五日に大和國葛上郡の人、「桑原史年足」等男女九十六人と、「近江國神崎郡」(神前郡)の人、「桑原史人勝」等男女千百五十五人が、同じように言上している・・・去る天平勝寶九歳五月二十六日の勅によると、内大臣(藤原鎌足)・太政大臣(藤原不比等)の名を名乗ってはいけない、とある。今、「年足」や「人勝」等の先祖である後漢の子孫の鄧言興と帝利等は、難波高津宮に天下を始めた天皇(仁徳)の世に、高句麗から転じて聖朝に帰化した。もと同祖の人々で、今は数姓に分かれている。そこで勅令により、史の姓は不比等と同音であるので、これを改めて皆が同姓を賜りたいと思う・・・。

そこで「桑原史・大友桑原史・大友史・大友部史・桑原史戸・史戸」の六氏に、同じく桑原直の氏姓を、「船史」には船直の氏姓を賜っている。

<余益人-余東人>
● 余益人・余東人(百濟朝臣)

「余」一族の出自は、書紀の天智天皇紀(669年)に「餘自信・佐平鬼室集斯等男女七百餘人、遷居近江國蒲生郡」に始ったと記載されている。

その後、續紀に余眞眞人・余秦勝・余仁軍余義仁・足人が登場している。陰陽に卓越した一族であったと伝えられている。ここでも陰陽師として、各地に派遣されていたことが伺える。

益人=谷間に挟まれた平らな台地が広がっている地の麓に谷間があるところと読み解けば、「秦勝」(元正天皇紀に優れた陰陽師として褒賞)の西側の場所が出自と推定される。より当時の地形を想起するために国土地理院航空写真1961~9年を用いた。この二人は親子関係であったと伝えられているが、申し分のない配置であろう。

頻出の東人=谷間を突き通すようなところと解釈すると、図に示した場所が出自と思われる。百濟からの亡命一族が子孫に高い教育水準を維持していたのであろう。百濟滅亡は、貴重な人的財産を日本にもたらしたように思われる。

そして、彼等に百濟朝臣の氏姓を与えている。百濟の「齋」=「三つの稲穂を台の上に乗せる様」と解説されている。齋宮齋=三つの高台が並び揃っている様と解釈した。纏めると百濟=丸く小高い地が連なった三つの高台が並び揃っているところと読み解ける。これが本来の「百濟」が示す地形なのである(古事記の百濟池、朝鮮半島の百濟も、おそらく)。見事に重ねられた表記であることが解る。

<高麗使主馬養-淨日>
● 高麗使主馬養・淨日(多可連)

天平勝寶二(750)年正月に背奈王福信等に高麗朝臣の氏姓を賜ったと記載されていた。武藏國高麗郡に居処を与えられた高麗系渡来人一族である。他に王仲文・高金藏・高麥太等もこの近隣に住まっていたと思われる。

元明天皇紀に武藏國秩父郡が和銅(自然銅)を献上し、それが元号の由来となったのだが、具体的な人物名は記載されていなかった。「高麗郡」の西側に位置する郡と推定した。

今回の人物は、「使主」姓であり、同じ高麗系であるが、また異なる一族であったと推測される。おそらく、この「秩父郡」を居処とする一族と推測されるが、地形象形表記として読み解いてみよう。

使主は、姓であるが、これも地形に基づく表現であろう。「使」=「人+中+又」=「谷間の真ん中を突き通す山稜の脇に手のような山稜がある様」であり、「主」=「山稜が真っ直ぐに延びている様」であるから、使主=谷間の真ん中を真っ直ぐに突き通す山稜の脇に手のような山稜があるところと解釈される。図に示したように秩父郡の山稜の一部を表していることが解る。

馬養は些か変形しているが、図に示した山稜を[馬](古文字)の形と見做し、その西側の谷間()を示していると思われる。淨日淨=水+爪+ノ+又=水辺で両腕のような山稜が取り囲んでいる様日=太陽のように丸く小高くなっている様と解釈したが、図に示した場所が出自と推定される。

多可連多可=山稜の端の三角州が谷間の出口になっているところと読み解ける。「秩父」=「手のような山稜の端が並ぶ麓で延びた山稜が交差しているところ」と解釈したが、その地形を表している。「多可=高」を重ねた表記であろう。「多可淨日」は、典侍として従四位下まで昇進されたようである。

<狛連廣足・狛淨成>
● 狛連廣足・狛淨成(長背連)

この人物も高麗系渡来人を祖とする一族と推測されるが、元明天皇紀に「授刀舍人狛造千金。改賜大狛連」と記載されていた。”大”が省略されたとすると、近隣が出自と思われる(こちら参照)。

廣足は、現在の天疫神社がある平らな高台の麓を表した名前と思われる。「千金」の北隣である。淨成は上記の「淨」と同じくとすると、淨成=水辺で両腕のような山稜が取り囲んでいる平らな台地のところと読み解ける。「千金」の南隣である。

賜った氏姓は長背=背後に長い山稜が延びているところと読み解けば、図に示したような地形をそのまま表現したものであろう。上記の「高麗」、そして「狛」と高麗系渡来人が各地に広がって居処としていたことを伝えている。改められた氏姓によって、日本に定着して行った様子を伺うことができる。

● 桑原史年足・桑原史人勝:桑原史・大友桑原史・大友史・大友部史・桑原史戸・史戸(桑原直)/船史(船直)

「桑原」の初見は、書紀の神功皇后紀に葛城襲津彥が新羅遠征時に捕虜とした漢人を住まわせた地の一つが「桑原」であったと記載されているが、それよりずっと以前に後漢人が渡来していたと上記で述べている。天武天皇紀に登場する「桑原連人足」や侍医の「桑原村主訶都」(こちら参照)は、捕虜であったかどうか別として、後に入植した人々だったようである。

いずれにせよ、大和(倭)國葛上郡に属する地である。申告者の桑原史年足の出自の場所を下図(左)に示した。既出の文字列である年足=谷間に稲穂のように延びる山稜の端が足のようになっているところと読み解ける。一方の申告者である近江國神埼郡(神前郡)の人、桑原史人勝人勝=谷間に盛り上がった地があるところと解釈すると、下図(右)に示した場所が出自と思われる。


更に、分派した氏名が「桑原史。大友桑原史。大友史。大友部史。桑原史戸。史戸六氏同賜桑原直姓。船史船直姓」と詳細に列挙されている。「桑原史」は、元々の氏名として葛上郡及び神埼郡に存在していたのであろうが、他の氏名は一体どちらに属していたのか?…少々悩ましいところである。

續紀編者の戯れのようで、”お分かりになりますか?”と・・・大友=平らな頂の山稜が仲良く並んで延びているところである。「神崎郡」の二つの山稜を表していると思われる。二つの史戸に「桑原」が付いてる方は、「葛上郡」であろう。即ち単に史戸となっている場所は「桑原」の地形ではないことを示している。掛け離れた氏名である船史は、「葛上郡」にある地形を表していると思われる。上図にそれぞれの氏名が示す場所を示した。

天智天皇紀に百濟からの亡命者達を近江國神前(埼)郡に一旦移住させるのであるが、間もなく近江國蒲生郡に配転させている。種々の理由があったかと思われるが、「桑原直」一族が思いの外に蔓延っていたのではなかろうか。なかなかに面白い読み解き結果となったようである。尚、国土地理院1961~9年航空写真を参照。

<桑原史年足-人勝(桑原直)>

秋七月癸酉。勅。東海。東山道問民苦使正六位下藤原朝臣淨弁等奏稱。兩道百姓盡頭言曰。依去天平勝寳九歳四月四日恩詔。中男正丁並加一歳。老丁耆老倶脱恩私。望請。一准中男正丁。欲霑非常洪澤者。所請當理。仍須憫矜。宜告天下諸國。自今以後。以六十爲老丁。以六十五爲耆老。甲戌。勅。比來皇太后寢膳不安。稍經旬曰。朕思。延年濟疾。莫若仁慈。宜令天下諸國。始自今日。迄今年十二月卅日。禁斷殺生。又以猪鹿之類。永不得進御。又勅。縁有所思。免官奴婢并紫微中臺奴婢。皆悉從良。」從七位上葛井連惠文。正六位上味淳龍丘。難波連奈良並授外從五位下。丙子。正六位上阿倍朝臣乙加志授從五位下。正六位上額田部宿祢三富。戸憶志。根連靺鞨。生江臣智麻呂。調連牛養。山田史銀並外從五位下。三富本姓額田部川田連也。是日。以額田部宿祢姓便書位記賜之。戊戌。勅。爲令朝廷安寧天下太平。國別奉冩金剛般若經卅卷。安置國分僧寺廿卷。尼寺十卷。恒副金光明最勝王經。並令轉讀焉。

七月三日に次のように勅されている・・・東海・東山両道の問民苦使の藤原朝臣淨弁(濱足に併記)等が[両道の人民等が口を揃えて申すのに、去る天平勝寶九歳四月四日の恩詔によって中男と正丁は、それぞれ年齢を一歳増し加えたが、老丁と老耆は共に恩恵から漏れた。非常の恩恵に浴することを望む]と奏して申した。申し請うことは、道理に叶っている。これは哀れんでやるべきである。そこで天下の國々に布告して、今より後は、六十歳は老丁とし、六十五歳は老耆とせよ・・・(調・庸の負担半減を一歳早めた)。

四日に次のように勅されている・・・この頃皇太后の健康が損なわれ、およそ十余日を経ている。朕が考えるに、寿命を延ばし、疾病を癒すには、仁慈の行いに勝るものはない。そこで天下の諸國に布告して、今日から今年の十二月三十日に至るまで、あらゆる殺生を禁断させよ。また、猪や鹿の類の肉を供御として貢進することを永久に禁じる・・・。

また次のように勅されている・・・思うところがあるので、官奴婢と紫微中台のもつ奴婢を解放し、全て良民とせよ・・・。「葛井連惠文」・「味淳龍丘」・難波連奈良(難波藥師)に外従五位下を授けている。

六日に阿倍朝臣乙加志(廣人に併記)に従五位下、「額田部宿祢三富」・「戸憶志」・「根連靺鞨」・生江臣智麻呂(安久多に併記)・調連牛養(馬養に併記)・「山田史銀」に外従五位下を授けている。「三富」の本姓は「額田部川田連」である。この日、額田部宿祢の氏姓を位記に書いて与えている。

二十八日に次のように勅されている・・・朝廷は安寧に、天下は太平になるように、國ごとに金剛般若経を三十巻書き写し奉り、その二十巻を國分僧寺に、十巻を尼寺に安置し、常に金光明最勝王経にそえて、それぞれ転読せよ・・・。

<葛井連惠文-根主-根道>
● 葛井連惠文

「葛井連」は、元は「白猪史」であり、養老四(720)年に「葛井連」姓を賜っている。寶然(骨)、その後阿麻留が遣唐使、廣成は遣新羅使と大陸との繋がりが深い一族と記載されていた。

”外”が付く叙爵であるが、途切れることなく人材輩出の地と思われる。備前・備中・備後國とされた、その備中國からは殆ど葛井連の氏姓を持つ人物のみが登場している。

直近では大成・諸會が外従五位下を叙爵されている。おそらく、その近傍が出自と思われるが、惠文が示す地形を読み解いてみよう。

既出の文字列である惠文=丸く小高い地を取り囲む山稜が交差するように延びているところと読み解ける。「寶然(骨)」の東側、「諸會」の北側に当たる場所と推定される。この後續紀に記載されることはなく、祖先のような役割を担うことはなかったようである。

後(淳仁天皇紀)に葛井連根主が外従五位下を叙爵されて登場する。既出の文字列である根主=山稜が根のように広がった先に真っ直ぐに延びた山稜があるところと読み解ける。「惠文」の北側に接する場所を表していると思われる。

また葛井連根道が罪を犯して隠岐國に配流されたと記載されている。後に赦免されるようだが、密告は恐ろしい、ようである。頻出の道=辶+首=首の付け根のように窪んだ様から、図に示した場所が出自と推定される。

<味淳龍丘>
● 味淳龍丘

この人物に関しては情報が全く欠落しているようである。勿論、名前からして渡来系であるが、それだけでは居場所を絞れる筈もなく、過去の関連する記述を思い起こすしか方法はない、と思われる。

そして、正六位上から外従五位下の叙位であり、それなりの実績も持ち合わせていた人物であることも伺える。

養老二(718)年四月に道君首名(道公首名)が亡くなり、事績が詳細に記載されていた。筑後守として赴任し、肥後守も兼ねていたのだが、これらの地域の民の生業を奨励し、多くの灌漑事業を行い(肥後國味生池など)、官人等も褒め称え、民は祠を造って偲んだと、と伝えている。

ここに「味」が示す地形があることを述べているのである。後に葦北郡とも呼ばれた地域でもある。味=山稜が途切れたところに通じる谷間の出入口と解釈した。現在の見坂峠に通じる谷間を表している。「峠」は漢語にはなく、「味(未)」が代用されている。史書が「峠」を如何に表現しているかを、未だかつて誰も考えなかった。峠だらけの日本列島なのだが・・・。

それは兎も角も、味淳龍丘の「淳」=「氵+享」と分解する。通常の文字解釈は、決して単純ではないようだが、地形象形的には、「享」は「郭」の原字として解釈する。すると「淳」=「水辺で取り囲まれた様」と解釈される。

纏めると味淳=山稜が途切れたところに通じる谷間の出入口にある水辺で取り囲まれたところと読み解ける。図に示した場所を表していると思われる。龍丘は、その山稜の端が盛り上がった()形を捩ったものであろう。「道君首名」に協力した、及び/又は、その後の開拓を促したのを認められたのであろう。この地域からの初登場の人物であった、と思われる。

<額田部宿祢三富>
● 額田部宿祢三富

「額田部宿祢」は『八色之姓』で「額田部連」が賜った氏姓であり、この人物は、本姓は「額田部川田連」であったと付記されている。

古事記で天照大御神と速須佐之男命の宇氣比で誕生した天津日子根命が祖となった額田部湯坐連の近隣と推定される。正に古い、と言うか由緒ある一族であるが、人材登用がなく、姓も改められなかったのであろう。

三富=三つの酒樽のような山稜が並んでいるところと解釈すると、図に示した場所が出自と思われる。川田は、三つの谷間からから流れる川に沿って田が並んでいたことを表している。現在の地図から川の様子を伺うのは難しいのであるが・・・。

續紀中に「額田部宿祢」の氏姓を持つ人物は、初見であり、また今後にも登場することがないようである。最新の文化・技術を携えた渡来人及びその後裔等の活用が目立つ時代だったと思われる。

<戸憶志・百濟安宿公奈登麻呂>
● 戸憶志

調べると百濟の昆支王の子孫が河内國安宿郡に住み着いて「飛鳥戸」の氏名を名乗ったと知られているようである。「安宿(ashuku)」と「飛鳥(asuka)」が類似する発音のようにも思われる。

それは兎も角、関連する名称が地形を表しているとして読み解いてみよう。すると、飛鳥(飛ぶ鳥)の地形を容易に見出すことができる。そのの部分が「戸」の役割を担っていると見做せる場所である。

憶志の「憶」=「心+意」=「閉じ込められたような地の中央にある様」と解釈される。「志」=「川が蛇行して流れる様」であり、纏めると憶志=閉じ込められたような地の中央を川が蛇行して流れているところと読み解ける。

国土地理院航空写真1961~9を参照すると、谷間の広がった奥に多くの棚田が作られていたことが伺える。多くの人々が住まっていたのであろう。尚、天平勝寶元(749)年閏五月に陸奥國小田郡産の金を冶金した左京人の戸淨山に叙位したと記載されていた。冶金に長けた渡来人と推測した。「戸憶志」とは全くの別系列と思われる。

後(称徳天皇紀)に百濟安宿公奈登麻呂が外従五位下を叙爵されて登場する。調べる、この人物の別名が数多くあったようである。幾つか例示すると、安宿公・飛鳥戸造・安宿戸造などがあり、「安宿」と「飛鳥」が繋がっていた、即ち安宿郡に飛鳥の地形があったことを示唆していることが分かった。

頻出の文字列である奈登=岐れて広がった二つの山稜の谷間の前が平らな高台になっているところと読み解ける。図に示した場所が出自と推定される。別名に奈止麻呂奈杼麻呂などが知られている。いずれも、その場所の地形を表しているように思われる。

<根連靺鞨・山田史銀-廣名>
● 根連靺鞨

「根連」は、『壬申の乱』において天武天皇が吉野脱出して桑名・不破に向かう途中で合流した大津皇子に従った者の一人(金身)が登場していた。

古事記の若倭根子日子大毘毘命(開化天皇)に含まれる「根」の地を居処とする一族と推定した。現地名は田川郡赤村内田門前辺りである。

靺鞨の文字列は既出であり、靺鞨=角ののような山稜の端で閉じ込められたところと解釈した。幾つかの例があるが、元正天皇紀に記載された靺鞨國を挙げておこう(現地名は北九州市門司区田野浦)。その地形を「金身」の西側に見出すことができる。

● 山田史銀 橘奈良麻呂の謀反に関わって、折角賜った「山田三井宿祢」の氏姓を剥奪され、元の「山田史女嶋」に戻されたと記載されていた。とは言え、謀反の中心人物であったわけでもなく、その一族からの登用だった、些か温情も加味されていたのかもしれない。「銀」を名前に用いるのは珍しいのであるが、古事記に登場する銀王に用いられている。大帶日子淤斯呂和氣命(景行天皇)の子、大江王が娶った庶妹と記載されている。

あらためて文字解釈を行うと、「銀」=「金+艮」と分解される。「艮」は「眼」に含まれる文字要素である。地形象形表記として、銀=三角に尖った山稜が谷間に埋め込まれたように延びている様と読み解ける。「眼」の地形象形である。図に示した場所がこの人物の出自と推定される。

後(淳仁天皇紀)に別名白金と記載され、「連」姓を賜っている。白金=三角に尖った山稜がくっ付いているところと読み解けるが、どうやら二段重ねなっている様を表現していると思われる。なかなかに巧みな表記を行ったようである。

それと同時に山田史廣名が「造姓」を賜っている。同祖の一族なのだが、時が経って系譜は大きく異なっていたのであろう。廣名=山稜の端の三角州が広がっているところであり、図に示し辺りが出自と思われる。

――――✯――――✯――――✯――――
『續日本紀』巻廿巻尾