2022年9月1日木曜日

寳字稱徳孝謙皇帝:孝謙天皇(16) 〔603〕

寳字稱徳孝謙皇帝:孝謙天皇(16)


天平字二年(西暦758年)正月の記事からである。原文(青字)はこちらのサイトから入手、訓読続日本紀(今泉忠義著)、続日本紀2(直木考次郎他著)を参照。

二年春正月戊寅。詔曰。朕以庸虚。忝承大位。母臨區宇。子育黎元。思与賢良。共清風化。長固寳暦。久安兆民。豈意很戻近臣。潜懷不軌。同惡相濟。終起乱階。頼宗社威靈。遽從殲殄。既是逆人親黨。私懷並不自安。雖犯深愆。尚加微貶。使其坦然無懼。息其反側之心。如聞。百僚在位。仍有憂惶。宜悉朕懷。不勞疑慮。昔者。張敞負釁。更致朱軒。安國免徒。重紆青組。咸能洗心勵節。輸款盡忠。事美一時。譽流千載。今之志士。豈謝前賢。改滌過咎。勉己自新。方冀瑕不掩徳。要待良治。用靡弃材。以成大廈。凡百列位。宜鏡斯言。夙夜無怠。務脩尓職。」又詔曰。朕聞。則天施化。聖主遺章。順月宣風。先王嘉令。故能二儀無愆。四時和協。休氣布於率土。仁壽致於群生。今者三陽既建。万物初萠。和景惟新。人宜納慶。是以別使八道。巡問民苦。務恤貧病。矜救飢寒。所冀撫字之道。將神合仁。亭育之慈。与天通事。疾疫咸却。年穀必成。家無寒窶之憂。國有來蘇之樂。所司宜知差清平使。勉加賑恤。稱朕意焉。」以從五位下石川朝臣豊成爲京畿内使。録事一人。正六位下藤原朝臣淨弁爲東海。東山道使。判官一人。録事二人。正六位上紀朝臣廣純爲北陸道使。正六位上大伴宿祢潔足爲山陰道使。正六位上藤原朝臣倉下麻呂爲山陽道使。從六位下阿倍朝臣廣人爲南海道使。正六位上藤原朝臣楓麻呂爲西海道使。道別録事一人。

正月五日に以下のように詔されている・・・朕は愚かで体も弱いのも拘わらず、忝いことに皇位に就き、この世界に母のように君臨し、民を子のように養っている。思うことは、賢良の臣と共に、風俗を清め、長く天皇の地位を固め、久しく民の生活を安らかにすることである。心の捩じけ偏った近臣が、密かに道ならぬことを心に懐き、同悪の者どもが助け合って、とうとう反乱を起こそうとは、思いもよらなかった。---≪続≫---

宗廟の威霊のおかげで、忽ちに悉く滅ぼされた。既に逆賊やその親しい仲間が、密かに思い巡らし、それぞれ不安な気持ちでいる。重い過ちを犯したが、僅かの罰を下すに止め、彼等に平然として恐れることなく、夜もゆっくり休めるようにさせた。聞くところによれば、百官の者は官吏の地位にある時は、常に憂い恐れる気持ちをもつものである。汝等は朕の思いをくみ、疑惑を抱いて心を労してはならない。---≪続≫---

昔、漢の張敞(こちら参照)は罪を負って亡命し、後に召されて朱塗りの車に乗る身分になり、また、安國(韓安國、こちら参照)は法に触れて徒刑に処せられたが、後に青い組紐の印綬を持つ身分になった。皆、よく改心して節操を磨き、真心を以って仕え忠を尽くした。このことは、ある時期の立派なことであって、その名誉は千載の後に伝わっている。今の世の志ある者は、どうして前代の賢者の例に感謝しないことがあろうか。---≪続≫---

過誤を犯した者は、それを改めて洗い清め、自分から努めて我が身を新しくせよ。朕は、今願っている。玉を磨く良工があれば、磨いて美玉とすることができる。用途に応じて用いれば、捨てるような材木ではない。良工はうまく用いて大家屋を作り上げる。およそ百官の人等は、この古言を鏡として、日夜に怠らず、勉めてその職務を完遂せよ・・・。

また、次のように詔されている・・・朕は[天の法に従い徳化の政治を行うことは、聖主の遺した憲章であり、月の運行に従い、教化を広めることは、先王の遺したよい掟である。このように陰陽の気が違うことなく、四季は調和して、安らかな気風は国土に満ち、民は恵みを受け長寿を保つことができるようになる]と聞いている。---≪続≫---

今は春の初め、万物の萌える時、和やかな光景は日々に新しく、人も慶事を受けるによい時期である。そこで、使者を八道に遣わし、各地を巡って民の苦しみを尋ね問い、貧乏と疾病の徒をいつくしみ、飢寒に苦しむ人々を哀れみ、救わせることいした。---≪続≫---

朕の願いは、民を撫育するについて、神の心と仁慈の心を合わせ、養育する慈しみが、天が覆うように物事にゆきわたるならば、疾病疫病は悉くなくなり、五穀は必ず豊かに稔り、民の家に寒さ貧しさの憂いがなく、國にはよい君に巡り合って民が蘇生する楽しみが生じるであろう、ということである。官司は恵みを加え、朕の意にそうようにせよ・・・。

石川朝臣豊成を京・畿内への使者に任じ、録事一人をつけ、藤原朝臣淨弁(京家、濱足に併記)を東海・東山両道への使者に任じ、判官一人・録事二人をつけ、「紀朝臣廣純」を北陸道への使者に任じ、大伴宿祢潔足(兄麻呂の子。池主に併記)を山陰道の使者に任じ、藤原朝臣倉下麻呂(式家、藏下麻呂。廣嗣に併記)を山陽道の使者に任じ、「阿倍朝臣廣人」を南海道の使者に任じ、藤原朝臣楓麻呂(北家、千尋に併記)を西海道の使者に任じ、道ごとに録事一人をつけている。

<紀朝臣廣純>
● 紀朝臣廣純

既に東山道巡察使に任じられたりしている石川朝臣豊成以外は、正六位上以下の若手の登用のようである。藤原朝臣三名と紀朝臣、阿倍朝臣各一人という布陣であったと記載している。

藤原朝臣の中でも、倉下麻呂(式家)と楓麻呂(北家)であり、いずれも男子の末子である。そんな流れからも淨弁は、系譜不詳であるが、京家の出自と推察した。

よく知られているように紀氏の系譜は、しっかりと伝えられていて(こちら参照)、勿論、当人物も宇美の子であった、と資料に残っている。同族の中でも、その多くの子孫の系譜が知られている系列だったようである。

廣純の「純」もあまり名前に用いられていない文字であるが、「純」=「糸+屯」と分解すると、地形象形的には「純」=「山稜が延び出た様」と解釈すると、廣純=山稜が延び出た前で広がっているいるところと読み解ける。図に示した「宇美」の北側に位置する場所が出自と推定される。

<阿倍朝臣廣人-乙加志-東人-名繼>
● 阿倍朝臣廣人

「阿倍朝臣」一族は、「布勢朝臣」、「引田朝臣」など様々に分派した一族の総称のようになった時期があった。一時権勢を振るった少麻呂(宿奈麻呂)が成せるところだったのだが、その影響で出雲の北部の各地を居処する一族となった、と思われる。

勿論、中央で重用される人物を、途切れることがあっても、輩出している一族に変わりはないようである。直近では、沙弥麻呂(佐美麻呂)が傑出し、参議に任じられている(天平字元[757]年八月任命)。この系列の元は布勢朝臣系列と推測される。

本人物の系譜は、全く不詳であるが、時代の流れに寄り添えば、おそらく「沙弥麻呂」系列に属する人物だったかと思われる。些かありふれた名称、廣人=谷間が広がっているところと解釈すると、図に示した場所が出自と思われる。

後に阿倍朝臣乙加志が従五位下を叙爵されて登場する。系譜など出自の情報は皆無のようなのだが、上記同じような背景で登用されたのではなかろうか。既出の文字列である乙加志=[乙]の形に川が蛇行させられているところと読み解けば、「廣人」の西側の場所が出自と思われる。

後(淳仁天皇紀)に阿倍朝臣東人が従五位下を叙爵されて登場する。参議であった故佐美麻呂の子と知られている。東人=谷間を突き通すようなところと解釈されるが、その地形を父親の北側に、辛うじて見出せるようである。

後(桓武天皇紀)に阿倍朝臣名繼が従五位下を叙爵されて登場する。系譜不詳のようであるが、名繼=[名]に連なるところと解釈すると、図に示した場所が出自と推定される。續紀中では、その後に登場することはないようである。

二月辛亥。左大舍人廣野王賜池上眞人姓。壬戌。詔曰。隨時立制。有國通規。議代行權。昔王彜訓。頃者。民間宴集。動有違愆。或同惡相聚。濫非聖化。或醉乱無節。便致鬪爭。據理論之。甚乖道理。自今已後。王公已下。除供祭療患以外。不得飮酒。其朋友寮属。内外親情。至於暇景。應相追訪者。先申官司。然後聽集。如有犯者。五位已上停一年封祿。六位已下解見任。已外决杖八十。冀將淳風俗。能成人善。習礼於未識。防乱於未然也。己巳。勅曰。得大和國守從四位下大伴宿祢稻公等奏稱。部下城下郡大和神山生奇藤。其根虫彫成文十六字。王大則并天下人此内任大平臣守昊命。即下博士議之。咸云。臣守天下。王大則并。内任此人。昊命大平。此知。群臣盡忠。共守天下。王大覆載。無不兼并。聖上擧賢。内任此人。昊天報徳。命其大平者也。加以。地即大和神山。藤此當今宰輔。事已有効。更亦何疑。朕恭受天貺。還恐不徳。吁哉卿士。戒之。愼之。敬順神教。各修尓職。勤存撫育。共致良治。其大和國者宜免今年調。當郡司者加位一級。貢瑞人大和雜物者特叙從六位下。賜絁廿疋。綿卌屯。布六十端。正税二千束。

二月九日に左大舎人の「廣野王」に「池上眞人」の氏姓を与えている。二十日に次のように詔されている・・・時節に従って制度を定めるのは、国家を維持する昔からの法則であり、時代を考えて時宜に応じた制法を立て行うのは、昔の王の遺した大きな教えである。近頃、民間の宴会に集まる者は、ややもすると常軌を失い、あるいは同悪の者が集まり、みだりに聖王の政治をそしり、または酔い乱れて節度を失い、あげくに喧嘩沙汰に及ぶことがある。筋道を立てて考えると、これははなはだ道理に背いている。---≪続≫---

今より後は、皇族・貴族以下の者は、祭祀に供える時と病気の治療をする時以外は飲酒してはならない。友人や同僚の者たち、遠近の親戚・知人等が、暇がある日に互いに訪問する時は、まずは所属の官司に申告し、その後に集会を許すこととする。もし違反者があれば、五位以上は、一年間封禄を与えることを止め、六位以下は、現職を解任する。これ以外の者は、杖罪八十に処する。朕の願いは、風俗を清らかにし、よく人が善行を成し、知らないうちに礼を身に付け、混乱を未然に防ぐことにある・・・。

二十七日に以下のように勅されている・・・大和國の國守大伴宿祢稻公(稻君。宿奈麻呂に併記)等が奏状を奉ったが、それには[部内の「城下郡」の「大和神山」に奇妙な藤の木が生じて、その根本に虫が十六文字を彫り出した。その文字は、”王大則并天下人此内任大平臣守昊命”であった。そこで博士らにその意味を論じさせたところ、皆が<臣下が天下を守り、王の大きな法則に心を合わせている。内政をこの人に任せれば、天命は太平である>と言っている]。---≪続≫---

これで次のことが分かる。[群臣が忠節を尽くして、共に天下を守り、王は大いに君臨して、全てを兼ね併せ支配する。聖君は賢臣を抜きんでて、内政をこの人に任せれば、天帝は報いるに德を以ってし、天命によって世は太平である]。これのみではない。この地は大和の神山であり、藤の木は、只今の宰相にゆかりがある。ゆえにこのことは事実と一致して既に効果が顕れている。なんで疑えようか。---≪続≫---

朕は、忝くも天の賜物を得て皇位に就き、省みて徳のないことを恐れている。ああ、卿等諸臣よ、よく自らを戒め、かつ、よくよく慎みなさい。神の教えを敬って従い、それぞれの職務を全うし、努めて民に恵みを施して育てるように努め、共に良政を施そうではないか。

<廣野王(池上眞人)・忍坂王(大原眞人)>
さて、大和國には、今年の調を免除する。当郡の郡司等には、位階を一級進める。祥瑞を貢上した「大和雜物」には、特に従六位下を授け、更に絁二十疋・真綿四十屯・麻布六十端・正税稲二千束を与える・・・。

● 廣野王

唐突に登場されるのだが、調べると百濟王の子孫であったことが知られているようである。既に大原眞人・海上眞人に臣籍降下した人物が多く登場している系列に属すると思われる。

そんな背景で、百濟王周辺の地で廣野王の出自を求めてみよう。大原・海上の地形とは異なる場所である。すると、図に示した百濟王の西南に当たる窪んで広がった場所が見出せる。

現在の地図からでは判別が難しいが、山稜の形から、水辺で曲がって流れる川が存在していたのであろう。それが池上眞人の由来と思われる。「池上眞人」氏姓を持つ人物の登場は見られないようである。

後(淳仁天皇紀)に忍坂王が従五位下に叙爵されて登場する。系譜は不詳だが、後に大原眞人赤麻呂の氏姓名を賜って臣籍降下したと伝えられている。忍坂=一見では坂に見えないところと解釈するが、それでは出自場所を特定し辛く、名前も改めた、のであろう。

赤=大+火=平らな頂から[火]の形の山稜が延びている様であり、その地形を高安の奥の谷間に見出すことができる。但し、續紀にはこれ以後「忍坂王」、「大原眞人赤麻呂」としても登場されることはないようである。

<大和神山:大和雜物>
大和神山

天平勝寶三(751)年十月に大倭國城下郡に住まう大倭連田⾧等に宿祢姓を賜っていた(こちら参照)。同じ”城下郡”であるが、今回は「大和國」の表記を用いている。

大和國の住人では、元正天皇紀の養老三(719)年十月に「大和國人腹太得麻呂姓改爲葛」が記載されていた(こちら参照)。その時にも少し述べたが、”大倭”と”大和”が表す地形に、より忠実に使い分けているのである。

更に続ければ、「大倭神山」と「大和神山」を同一と見做さないように續紀編者が伝えているのであって、罷り間違っても「神の山」=「大神の山」=「三輪山」では、決してない。

勿論、「三輪山」(桜井市[磯城郡])とすれば「城下郡」そのものが全く当て嵌まらないのだから、見当違いと断じれるところであろう。「三輪山」は、そもそも古事記の「美和山」(大物主大神。出雲近辺)に由来すると解釈するのだから、支離滅裂な状態なのだが、黙して語らぬ日本の古代史学である。

前置きが長くなったが、神山=長く延びた高台のような山と解釈する。頻出の「神」は立派な地形象形表記であって、「神様」と読んでは、記紀・續紀は、解読不能に陥るのである。そして、その地形の山が、現在の今任小学校を中心とした高台の場所にあることが解る。

● 大和雜物 今回は、國・郡司を通じて報告されたのだから、関わった人物が昇進やらその地の租税が免除されている。中でも当該の発見者である「雜物」には、叙爵に加えて大そうな褒賞がなされた、と記載されている。

雜物の名称は、既出であって、紀朝臣雜物に用いられていた。雜物=山稜の端の三角州(衣)が寄り集まった地で谷間に多くの山稜が延び出ているところと解釈した。その地形を図に示した場所に見出すことができる。葛得麻呂の北側の谷間である。

三月辛巳。詔曰。朕聞。孝子思親。終身罔極。言編竹帛。千古不刊。去天平勝寳八歳五月。先帝登遐。朕自遘凶閔。雖懷感傷。爲礼所防。俯從吉事。但毎臨端五。風樹驚心。設席行觴。所不忍爲也。自今已後。率土公私。一准重陽。永停此節焉。壬午。伊豫國神野郡人少初位上賀茂直馬主等賜賀茂伊豫朝臣姓。丁亥。舶名播磨。速鳥並叙從五位下。其冠者。各以錦造。入唐使所乘者也。

三月十日に次のように詔されている・・・朕の聞くところによると、孝行の子は親のことを死ぬまで思い続けて忘れることはない。この言葉は、竹帛(書物)に記されて、永遠に記録に残るのである。さて、去る天平勝寶八歳五月に、先帝は崩御なされた。朕は、このまがまがしい愁いの出来事に出会って以来、哀傷の心を抱いているが、礼の要求するところにより、心ならずも慶事の儀式をも実行して来た。ただ、端午の節句が来るたびに、樹々を吹く風にも心が痛み、宴席に加わり酒好きごとをなすにしのびない。そこで今より後、国中の公私にわたり、重陽(九月九日の節句。天武天皇の忌日)と同じく、この節句を停止せよ。

十一日に「伊豫國神野郡」の人、「賀茂直馬主」等に「賀茂伊豫朝臣」姓を賜っている。十六日に播磨と速鳥の名を持つ船に、それぞれ従五位下を授けている。その冠は、それぞれ錦で作っている。入唐使が乗る船である。

<伊豫國神野郡:賀茂直馬主・伊曾乃神>
伊豫國神野郡

伊豫國の郡には、書紀・續紀を通じて、「風速郡・宇和郡」などが登場し、各々の地を出自とする人物も記載されていた(こちら参照)。現地名は北九州市若松区小竹と推定した。

ここで登場した「神野郡」の名称が示す地形は、神(神)野=長く延びる高台の麓に野があるところであるが、この表記では一に特定することが叶わないようである。

續紀の天平神護二(766)年四月に「伊豫國神野郡伊曾乃神。越智郡大山積神並授從四位下。充神戸各五烟。久米郡伊豫神。野間郡野間神並授從五位下。神戸各二烟」と記載されている。

「神野郡」には伊曾乃神が鎮座していたと伝えている。既出の文字列である伊曾乃=谷間に区切られた山稜が積み重なって小高くなった地から[乃]の形に山稜が延びているところと読み解ける。現在の白山、そしてその麓にある白山神社辺りに座してい居た神と推定される。

即ち、「神野郡」は、図に示したように山稜の西麓一帯を表していることが解る。現地名では小竹・頓田の境となっている。多分、当時は、頓田貯水池周辺で山稜の端が複雑に入り組んだ地形となっていたのであろう。

● 賀茂直馬主 賀茂=谷間を押し拡げるように山稜が広がり延びているところと解釈したが、その地形を図に示した場所に見出せる。更に馬主=馬のような地に真っ直ぐに延びる山稜があるところと読み解け、出自の場所を求めることができる。賀茂伊豫朝臣氏姓を賜っているが、「朝臣」姓とする確かな系譜が知られていたのであろう。古事記の品陀和氣命(応神天皇)の子、木之荒田郎女など、その子孫が蔓延っていたのかもしれない。

夏四月乙夘。從五位上藤原朝臣魚名爲備中守。庚申。初尾張連馬身以壬申年功。先朝叙小錦下。未被賜姓。其身早亡。於是。馬身子孫並賜宿祢姓。辛酉。中務卿正四位下阿倍朝臣佐美麻呂卒。己巳。内藥司佑兼出雲國員外掾正六位上難波藥師奈良等一十一人言。奈良等遠祖徳來。本高麗人。歸百濟國。昔泊瀬朝倉朝廷詔百濟國。訪求才人。爰以徳來貢進聖朝。徳來五世孫惠日。小治田朝廷御世。被遣大唐。學得醫術。因号藥師。遂以爲姓。今愚闇子孫。不論男女。共蒙藥師之姓。竊恐名實錯乱。伏願。改藥師字。蒙難波連。許之。

四月十四日に藤原朝臣魚名(鳥養に併記)を備中守に任じている。十九日、初め「尾張連馬身」は、壬申の年の功績により、先朝に小錦下に叙位されたが(書紀には記載されず)、より高い姓を賜らぬうちに亡くなってしまった。よってこの日に馬身の子孫等にそれぞれ宿祢姓を賜っている。

二十日に中務卿の阿倍朝臣佐美麻呂が亡くなっている。二十八日に内薬司佑で出雲國の員外掾を兼ねる「難波藥師奈良」等十一人が以下のように申し上げている・・・「奈良」等の先祖は「德來」は、もと高麗人であったが、百濟國に移住した。昔、泊瀬朝倉の朝廷(雄略天皇)が百濟國に詔して、才(芸)ある人を尋ね求めた。そこで百濟國は「德來」を日本の朝廷に勧め献じた。---≪続≫---

その「德來」の五代目の孫の「惠日」は、小治田の朝廷(推古天皇)の御世に、大唐國に派遣されて、医術を習得した。それで薬師となり、遂に姓ともなった。今、愚かな子孫達は、男女とも医者でもないのに薬師の姓を名乗っている。これでは姓と実体が錯乱するのではないかと恐れている。そこで薬師の姓を改めて、難波連の氏姓を賜ることを願う・・・。これを許可している。

<尾張連馬身・尾張宿祢若刀自-東人>
● 尾張連馬身

天武天皇紀の『八色之姓』に尾張連に宿祢姓を賜ったと記載され、尾張宿祢大隅が壬申の功臣として登場していた。伊勢桑名から美濃不破へ抜ける中間地点として重要な場所だったのである。

更に前記で功績の格付けで”上功”とされ、褒賞の功田を三代まで相続すると述べられていた。”大功”には及ばないが、極めて高い評価を下されたことを伝えている。

その功臣の中で抜け落ちていた人物の具体的な名前が、ここで明らかにされている。あらためてこの人物の出自の場所を求めてみよう。既出の文字列である馬身=馬のように山稜が延びている地でその腹がふっくらと膨らんでいるところと解釈される。「馬」の古文字が見事に再現され、「大隅」の東側の山稜を表している。

正に伊勢桑名から美濃不破へのルート上に位置する場所であることが解り、天武天皇が不破で戦陣を整えるまでの最難関の一つであった尾張の地における支援を行ったのである。古事記で唐突に記載される尾張連之祖意阿麻比賣の出自を中心に広がっている様が伺える。

後(淳仁天皇紀)に尾張宿祢若刀自が従五位下を叙爵されて登場する。若刀自=山稜が幾つかに岐れて延び出ている端で[刀]の形をした地があるところと読み解ける。図に示した場所が出自と推定される。

更に後に尾張宿祢東人が外従五位下を叙爵されて登場する。頻出の東人=谷間を突き通すようなところとすると、図に示した場所が見出せる。”外”が付いているのは、おそらく系譜が定かではなかったのであろう。他の情報もなく、續紀での登場もこれが最後である。

余談ぽくなるが、通説の伊勢桑名・尾張・美濃不破の配置は全くあり得ないものであろう。「尾張」は、中間地点ではなく、七里の渡(約28km)の海で隔てられた地である。現在の濃尾平野が巨大な入江(湾)であったことを無視した解釈をいつまで続けるのであろうか。

<難波薬師惠日-奈良・難破連足人>
● 難波薬師惠日・奈良(難波連)

「薬師惠日」は、これまでに幾度か登場していた。Wikipediaを抜粋すると・・・推古16(608)年第三回遣隋使で小野妹子に随行して医術を修得する。留学中の618年に随の滅亡、唐が建国された。推古31(623)年に帰国する。その後、恵日は薬師となり、ついには薬師を姓とした。舒明2(630)年第一次遣唐使にて、犬上三田耜に従って再び大陸に渡り、舒明4(632)年に学問僧の霊雲・旻等を連れて帰国する・・・。

と言う訳で、お目に掛かれていたのだが、残念ながら出自の場所を特定できず今日に至った。ここで貴重な情報である「難波」が冠されている。

「惠日」は、百濟國に移住した高麗人德來の子孫であるが、その名前は倭風、即ち地形象形表記と思われる。既出の文字列ではあるが、珍しい表記であろう。

惠日=山稜に囲まれた丸く小高い地が[炎]のように延びた山稜の前にあるところと読み解ける。難波の味經宮の北側に当たる場所と推定される。奈良=高台のような山稜がなだらかに延びているところであるから、その子孫は西側の谷間に蔓延ったのであろう。残念ながら傑出した人物の後を継げなかったようである。「奈良」本人は薬師に多少は関わっていたようだが・・・。

後(称徳天皇紀)に難破連足人が外従五位下を叙爵されて登場する。足人=谷間が足のような形をしているところと解釈すると図に示した場所が出自と推定される。「難波」を「難破」と書き換えているが、「惠日」の”惠”と”日”との間が途切れたようになっている様を表してものであろう。参考にしている資料では、間違いとしているが、そうではなくて谷那庚受(難波連)との区別を地形象形的に表したものと思われる。