2022年9月28日水曜日

廢帝:淳仁天皇(2) 〔606〕

廢帝:淳仁天皇(2)


天平字二年(西暦758年)八月(後半)の記事である。原文(青字)はこちらのサイトから入手、訓読続日本紀(今泉忠義著)、続日本紀3(直木考次郎他著)を参照。

戊申。勅曰。子尊其考。礼家所稱。策書鴻名。古人所貴。昔者。先帝敬發洪誓。奉造盧舍那金銅大像。若有朕時不得造了。願於來世。改身猶作。既而鎔銅已成。塗金不足。天感至心之信終出勝寳之金。我國家於是初有奇珍。開闢已來。未聞若斯盛徳者也。加以。賊臣懷惡。潜結逆徒。謀危社稷。良日久矣。而畏威武。欽仰仁風。不敢競鋒。咸自馴服。可謂聖武之徳。比古有餘也。其不奉揚洪業。何以示於後世。敬依舊典。追上尊号。策稱勝寳感神聖武皇帝。謚稱天璽國押開豊櫻彦尊。欲使傳休名於萬代。与乾坤而長施。揚茂實於千秋。共日月而久照。普告遐邇。知朕意焉。」又勅。日並知皇子命。天下未稱天皇。追崇尊号。古今恒典。自今以後。宜奉稱岡宮御宇天皇。乙夘。遣使大秡天下諸國。欲行大甞故也。丁巳。勅。大史奏云。案九宮經。來年己亥。當會三合。其經云。三合之歳。有水旱疾疫之災。如聞。摩訶般若波羅密多者。是諸佛之母也。四句偈等受持讀誦。得福徳聚不可思量。是以。天子念。則兵革災害不入國裏。庶人念。則疾疫癘鬼不入家中。斷惡獲祥莫過於此。宜告天下諸國。莫論男女老少。起坐行歩口閑。皆盡念誦摩訶般若波羅密。其文武百官人等。向朝赴司。道路之上。毎日常念。勿空往來。庶使風雨隨時。咸無水旱之厄。寒温調氣。悉免疾疫之災。普告遐邇。知朕意焉。戊午。遣攝津大夫從三位池田王。告齋王事于伊勢太神宮。」又遣左大舍人頭從五位下河内王。散位從八位下中臣朝臣池守。大初位上忌部宿祢人成等。奉幣帛於同太神宮。及天下諸國神社等。遣使奉幣。以皇太子即位故也。癸亥。歸化新羅僧卅二人。尼二人。男十九人。女廿一人。移武藏國閑地。於是。始置新羅郡焉。甲子。以紫微内相藤原朝臣仲麻呂任大保。勅曰。褒善懲惡。聖主格言。賞績酬勞。明主彜則。其藤原朝臣仲麻呂者晨昏不怠。恪勤守職。事君忠赤。施務無私。愚拙則降其親。賢良則擧其怨。殄逆徒於未戰。黎元獲安。固危基於未然。聖暦終長。國家无乱。略由若人。平章其勞。良可嘉賞。其伊尹有莘之勝臣。一佐成湯。遂荷阿衡之号。呂尚渭濱之遺老。且弼文王。終得營丘之封。况自乃祖近江大津宮内大臣已來。世有明徳。翼輔皇室。君歴十帝。年殆一百。朝廷無事。海内清平者哉。因此論之。准古無匹。汎惠之美。莫美於斯。自今以後。宜姓中加惠美二字。禁暴勝強。止戈靜乱。故名曰押勝。朕舅之中。汝卿良尚。故字稱尚舅。更給功封三千戸。功田一百町。永爲傳世之賜。以表不常之勳。別聽鑄錢擧稻及用惠美家印。是日。大保從二位兼中衛大將藤原惠美朝臣押勝。正三位中納言兼式部卿神祇伯石川朝臣年足。參議從三位出雲守文室眞人智努。參議從三位紫微大弼兼兵部卿侍從下総守巨勢朝臣關麻呂。參議紫微大弼正四位下兼左大弁紀朝臣飯麻呂。參議正四位下中務卿藤原朝臣眞楯等。奉勅改易官号。太政官惣持綱紀。掌治邦國。如天施徳生育萬物。故改爲乾政官。太政大臣曰大師。左大臣曰大傅。右大臣曰大保。大納言曰御史大夫。紫微中臺。居中奉勅。頒行諸司。如地承天亭毒庶物。故改爲坤宮官。中務省。宣傳勅語。必可有信。故改爲信部省。式部省。惣掌文官考賜。故改爲文部省。治部省。僧尼賓客。誠應尚礼。故改爲礼部省。民部省施政於民。惟仁爲貴。故改爲仁部省。兵部省。惣掌武官考賜。故改爲武部省。刑部省。窮鞫定罪。要須用義。故改爲義部省。大藏省。出納財物。應有節制。故改爲節部省。宮内省。催諸産業。廻聚供御。智水周流。生物相似。故改爲智部省。彈正臺。糺正内外。肅清風俗。故改爲糺政臺。圖書寮。掌持典籍。供奉内裏。故改爲内史局。陰陽寮。陰陽暦數。國家所重。記此大事。故改爲大史局。中衛府。鎭國之衛。但此爲先。故改爲鎭國衛。官重位卑。故大將爲正三位官。改曰大尉。少將爲從四位上官。曰驍騎將軍。員外少將爲正五位下官。曰次將。衛門府。禁衛諸門。監察出入。故改爲司門衛。左右衛士府。率諸國勇士。分衛宮掖。故改爲左右勇士衛。左右兵衛府。折衝禁暴。虎奔宣威。故改爲左右虎賁衛。丙寅。外從五位下津史秋主等卅四人言。船。葛井。津。本是一祖。別爲三氏。其二氏者蒙連姓訖。唯秋主等未霑改姓。請改史字。於是賜姓津連。

八月九日に次のように勅されている・・・子が父を尊ぶことは儒家の称賛するところであり、史書に令名の書かれることは古人の貴ぶところである。昔、先帝(聖武天皇)は敬んで大いなる誓願を立て、廬舎那仏の金銅の大像を造立された。もし朕の治世に造立し終えることができなければ、来世において生まれ変わってでも造立したい。既に像の鋳造は終って塗金が不足していたが、天は心からの信仰に感じて、ついに優れた宝としての黄金を出現させられた。我が国家においては、ここに初めて珍しい財宝がでてきたことになる。---≪続≫---

開闢以来、未だこのように盛んな德のあったことを聞かない。それのみならず。賊臣(藤原廣嗣)が悪心を懐いて逆徒を結集し、国家を危うくしようと謀ることがあったが、情勢が変わり聖武天皇の勢威を畏れ、つつしんで仁徳を仰いで、敢えて武力を競うような行動に出ず、皆自ら屈服してしまった。その神聖なる武威の德は、過去の帝王に比べてもなお余りあると言うべきである。---≪続≫---

その大いなる業を顕彰しなければ、どうして後世に伝え示すことができようか。敬んで古典に則り、尊号を追贈したいと思う。策命して勝寶感神聖武皇帝と称し、諡して天璽國押開豐櫻彦尊と申し上げる。大いなる尊名を万代に伝え、天地と共に長く使用させ、優れた業績を永遠に称揚し、日月と共に久しく明らかにしたいと思う。広く遠近の諸方に告知して朕の意向を知らせるようにせよ・・・。

また、次のように勅されている・・・日並知皇子命(草壁皇子)は世間では未だ天皇と称されていない。しかし皇子のような人に対して、天皇の尊号を追贈して崇めることは古今の恒例である。今後、岡宮御宇天皇と称し奉るべきである・・・。

十六日に使者を遣わして天下の諸國に大祓をさせている。大嘗祭を執行するためである。十八日に次のように勅されている・・・大史局(陰陽寮を改称、下記参照)が奏上して、[『九宮経』(占いの書)を調べてみると、来年己亥の年は三合(陰陽道の厄年)に当たる。その『九宮経』には、三合の歳は洪水・日照りや疫病の災難が起こると言われている。聞くところによると、『摩訶般若波羅密多経』は、諸仏の母である。四句の偈(経典中の詩句)などを覚えて読誦すれば、福徳が集まって来て、その効果は判断を越えるほどと言われている。そこで天子がこれを念じたならば、病気や疫病神は家中に侵入して来ない。悪を断ち幸福を得るにはこれ以上の手段はない]と言っている。---≪続≫---

そこで天下の諸國に布告して、男女老若の区別なく、起居動作にあたって口が閑な時は、みな『摩訶般若波羅密多経』を念誦させるようにせよ。文武百官の人達も、朝廷に出仕し官庁に赴く時、その途中の道路においても常に念じて、往来の時間を無駄にすることのないようにせよ。願うところは、風雨が時節通りとなって全く洪水や日照りの災厄がなく、寒さ暖かさが順調で病気の災いを逃れるように、ということである。広く遠近の諸方に告知して朕の意向を知らせるようにせよ・・・。

十九日に攝津大夫の池田王を遣わして、齋王を選定したことを伊勢太神宮に報告させている。また、左大舎人頭の「河内王」(河内女王近隣)、散位の「中臣朝臣池守」、忌部宿祢人成(呰麻呂に併記)等を遣わして、幣帛を太神宮に奉らせている。更に天下諸國の神社にも使者を派遣して幣を奉らせている。皇太子(大炊王)の即位を報告するためである。二十四日に帰化した新羅僧三十二人、尼二人、男十九人、女二十一人を武藏國の「閑地」に移住させている。ここに初めて「新羅郡」を設置している。

二十五日に紫微内相の藤原朝臣仲麻呂を大保(右大臣)に任命している。次のように勅されている・・・善を褒め悪を懲らすのは聖人たる君主の格言であり、功績を賞し功労に酬いるのは賢明な君主の常則である。ところで大保の藤原仲麻呂は、朝夕怠ることなく精勤に職責を守り、君主に事えるのに忠誠であって職務に私心がない。部下が愚拙であれば一族のものでも降格し、賢良であれば怨敵でも推挙した。反逆の徒を戦う前に鎮圧したので、人民は安泰を得、国家の基を危うくする事態を未然に防止したので、皇室の統治は永久に続くことになった。国家が乱れることのないのはこのような人物がいるためである。その功労を評価してみると、本当に賞賛すべきである。---≪続≫---

いったい伊尹(殷初期の賢臣)は有莘氏の側近の臣であったけれども、ひとたび湯王を補佐するや、ついに阿衡(宰相)の号を帯びるようになった。呂尚(太公望)は渭水の辺に住む世間から取り残された老人であったけれども、しばらく周の文王を補佐し、ついに斉の営丘に所領を与えられた。ましてや藤原氏は祖先である近江大津宮の内大臣(藤原鎌足)以来、代々、公明な德があって皇室をたすけ、天皇は十帝を経、その期間はほとんど百年、その間朝廷に大事がなく、国内は平穏である。---≪続≫---

このことからすれば、過去においても匹敵するものはなく、ひろく恵みを施す美徳もこれに過ぎるものはない。今より以降、藤原の姓に惠美の二字を加えよ。また、暴逆の徒を禁圧し、強敵に勝ち、兵乱を鎮圧した。故に押勝と名付けよう。朕の重臣のうちでは、卿よ、あなたはまことに尚い。それで字を尚舅(舅は中国の諸侯)と言おう。更に功封三千戸・功田百町を給付して、永く代々に伝える賜物とし、特例の勲功であることを表す。また別に銭を鋳造すること、稲を出挙すること、惠美家の印を用いることを許す・・・。

この日、大保兼中衛大将の「藤原恵美朝臣押勝」(藤原朝臣仲麻呂)、中納言兼式部卿・神祇伯の石川朝臣年足、参議・出雲守の文室眞人智努、参議・紫微大弼兼兵部卿・侍従・下総守の巨勢朝臣關麻呂(堺麻呂)、参議・紫微大弼兼左大弁の紀朝臣飯麻呂、参議・中務卿の藤原朝臣眞楯(鳥養に併記)等が勅を奉じて、官職名を次のように改めている・・・太政官は法令や規則を総轄して国家を統治することを司る。天が德を施して万物を成長させるようなものである。故に太政官を乾政官(乾は天を意味する)と改める。太政大臣を大師、左大臣を大傳、右大臣を大保、大納言を御史大夫とする。---≪続≫---

紫微中台は宮中にあって勅を奉じ、それを諸官司に頒布・施行する。大地が天から委ねられて万物を育成するようなものである。故に紫微中台を坤宮官(坤は地を意味する)を改める。中務省は勅語を宣べ伝えるのに、必ず信用がなければならない。故に信部省を改める。式部省は文官の考課と禄賜を司る。故に文部省と改める。治部省は僧尼・外国の賓客のことを司るが、それには誠に礼を尚ぶべきである。故に礼部省と改める。---≪続≫---

民部省は人民に政治を施すのに、仁の心を貴ぶ。故に仁部省と改める。兵部省は武官の考課・禄賜を司る。故に武部省と改める。刑部省は罪人を取締まって罪状を決定するが、必ず正義をもって行うべきである。故に義部省を改める。大蔵省は財物を出納するに際して節制が必要である。故に節部省と改める。宮内省は諸々の生業を催し勧めて天皇に供する品々を集めて回る。それは智者の楽しみする水が流れ巡って物を生かすのに似ている。故に智部省と改める。---≪続≫---

弾正台は内外の悪行を糺して風俗を整え清くする。故に糺政台と改める。図書寮は典籍を管理して内裏に奉仕することを職掌とする。故に内史局と改める。陰陽寮にういては、陰陽・暦・天文など国家の重視するところであり、この大事を記録する。故に大史局と改める。中衛府は国を鎮め守ることを第一の任務とする。故に鎮国衛と改める。---≪続≫---

また、その任務は重大でありながら位が低いので、大将を正三位相当官とし、大尉を改め、少将は従四位上の官として驍騎将軍とし、定員外の少将は正五位下の官として次将とする。衛門府は諸門を護衛して出入りを監督する。故に司門衛と改める。左右の衛士府は諸國の勇士(軍団兵士)を率いて宮殿を分担して守衛する。故に左右の勇士衛と改める。左右の兵衛府は、敵勢を斥き暴徒を禁圧し、虎のように奔走して威力を示す。故に左右の虎賁衛と改める・・・。

二十七日に津史秋主(馬人に併記)三十四人が[船・葛井・津氏は、本来は同一の祖先であったが、分かれて三氏となっている。その内二氏は連姓を賜っているが、ただ「秋主」等のみはまだ改姓の恩恵に浴していない。どうか「史」の字を改めて頂きたい]と言上している。そこで「津連」の氏姓を与えている。

<中臣朝臣池守>
● 中臣朝臣池守

系譜が知られている意美麻呂系列垂目系列には含まれていない人物のようである。既出の名前である池守=川が蛇行する畔に両肘を張り出したようなところを表す場所が出自と推定した。

おそらく前出の中臣朝臣眞敷の周辺…意美麻呂の西側…と思われるが、「池守」の地形が一見では見出せなかった。とりわけこの地は、現在では深い谷間に樹木が成長して、元の地形を確認し辛い状況になっている。

そんな訳で、地図を拡大して眺めると、どうやらそれらしき場所を突き止めることができたように思われる。図に示した、「石木」の近隣を示していることが解る。後に従五位下を叙爵され、また地方官に任じられたようである。

<武藏國新羅郡>
武藏國新羅郡

武藏國には、既に秩父郡・高麗郡埼玉郡の三郡が記載されていた。なかでも、元正天皇紀に新たに設置された「高麗郡」は、高麗出身の人々を集めて移住させ、その地を開拓させたようである。

それと同じように今度は帰化した新羅人を武藏國の「閑地」に住まわせたと記している。参考にしている資料では”閑地=未開の地”と訳されているが、これは重要な地形象形表記であろう。

「閑」=「門+木」から成る文字で「遮って止める」意味を表す文字と知られている。地形象形表現とすると閑=谷間が山稜で遮られた様と解釈される。図に示した場所、「埼玉郡」の北側に当たる谷間と推定される。

現在は衣料田池となっているが、当時は崖に挟まれた深い谷間であったと推察される。武藏國の郡割が漸く揃って来たように思われる。ここに登場した名称は、後の武藏國周辺に用いられているのである。

<藤原恵美朝臣押勝>
● 藤原恵美朝臣押勝(藤原朝臣仲麻呂)

天皇の勅により、藤原朝臣仲麻呂の功績に報いて名に残すために贈られた名前が、その謂れから述べられている。
 
「恵美」=「恵みを施す美徳」、「押勝」=「強敵に勝ち、兵乱を鎮圧」に基づくようである。勿論、これは地形象形表記と重ねられた文言であろう。久々に万葉の世界に浸っているのである。

あらためて「仲麻呂」の出自場所を眺めてみよう。仲=人+中=谷間を突き通すように山稜が延びている様であり、その地形を「豊成」の地から延び出た山稜が示していると解釈した。

その延び出た山稜の端を詳細に見ると、丸く小高くなっていることが解る。既出の文字列である惠美=山稜に囲まれた中心に丸く小高い地があるところと解釈される。更に押勝=押し上げられて盛り上がったところと読むと、まさに「仲麻呂」の出自場所の地形を詳細に述べていることになる。天皇及び皇族に贈られる尊号と同じように尊称しているのである。

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上記本文に「外從五位下津史秋主等卅四人言。船。葛井。津。本是一祖。別爲三氏。其二氏者蒙連姓訖。唯秋主等未霑改姓。請改史字。於是賜姓津連」と記載されている。

「津史」一族は、「船連・葛井連」と同祖なのだが、未だ「連」姓を賜っていないと訴えている。ここに登場する葛井連は、元正天皇紀に白猪史一族が賜った「葛井連」と重なった氏姓となっている。彼等は吉備國を居処としていたと推定した。現地名では下関市吉見下である。

一方の「津史」及び「船連」は、河内國丹比郡、現地名では京都郡みやこ町勝山大久保であり、同祖と言うには、些か離れた場所となっている。書紀によると、吉備國の「白猪屯倉」に「胆津」が派遣されて、功績により「白猪史」の祖となったと記載されている。即ち、本貫の地が「津史・船史」の近辺であったのではなかろうか。

孝謙天皇紀に律師「慶俊」が登場していた。調べると、河内國丹比郡が出自と分かった。この情報に基づいて求めた「葛井連」の場所をこちらに示した。「葛井」の名称は、吉備國吉見下の地形に基づくと思われたが、それは彼等の本貫の地である河内國丹比郡の地形を表しているのである。

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2022年9月21日水曜日

廢帝:淳仁天皇(1) 〔605〕

廢帝:淳仁天皇(1)


天平字二年(西暦758年)八月(前半)の記事である。原文(青字)はこちらのサイトから入手、訓読続日本紀(今泉忠義著)、続日本紀3(直木考次郎他著)を参照。

淳仁天皇即位前紀:廢帝。諱大炊王。天渟中原瀛眞人天皇之孫。一品舍人親王之第七子也。母當麻氏。名曰山背。上総守從五位上老之女也。帝受禪之日。授正三位。後尊曰大夫人。天平勝寳八歳。皇太子道祖王。諒闇之中。心不在慼。九歳三月廿九日辛丑。高野天皇。皇太后与右大臣從二位藤原朝臣豊成。大納言從二位藤原朝臣仲麻呂。中納言從三位紀朝臣麻路。多治比眞人廣足。攝津大夫從三位文屋眞人智努等。定策禁中。廢皇太子。以王還第。先是。大納言藤原仲麻呂。妻大炊王。以亡男眞從婦粟田諸姉。居於私第。四月四日乙巳。遂迎大炊王於仲麻呂田村第。立爲皇太子。時年廿五。

淳仁天皇即位前紀:廃帝の諱は大炊王天渟中原瀛眞人天皇(天武)の孫で、舎人親王の第七子である。母は「當麻」氏で、名は「山背」、上総守の「老」の娘である(こちら参照)。帝が譲位された日、正三位を授け、後には尊んで大夫人(オオミオヤ)と称することとした。天平勝寶八歳(756年)、皇太子の道祖王は、喪に服する期間中、哀悼の心がなかった。そのため九歳(757年)三月二十九日に、高野天皇(孝謙:「高野」は阿倍の別表記)と光明皇太后は、右大臣の藤原朝臣豊成、大納言の藤原朝臣仲麻呂、中納言の紀朝臣麻路(古麻呂に併記)多治比眞人廣足(廣成に併記)、攝津大夫の文屋眞人智努(文室)等と共に、宮中で策を練り、皇太子を止めさせ、王の身分として私邸に返した。これより先、大納言の藤原朝臣仲麻呂は、大炊王に亡き息子眞從の妻であった粟田諸姉(馬養に併記)を娶せ、私邸(田村第)に居住させていた。そして四月四日になって遂に大炊王田村第から迎えて皇太子とした。時に二十五歳であった。

天平寳字二年八月庚子朔。高野天皇禪位於皇太子。詔曰。現神御宇天皇詔旨〈良麻止〉詔勅〈乎〉親王諸王諸臣百官人等衆聞食宣。高天原神積坐皇親神魯弃神魯美命吾孫知食國天下〈止〉事依奉〈乃〉任〈尓〉遠皇祖御世始〈氐〉天皇御世御世聞看來天日嗣高御座〈乃〉業〈止奈母〉隨神所念行〈久止〉宣天皇勅衆聞食宣。加久聞看來天日嗣高御座〈乃〉業〈波〉天坐神地坐祇〈乃〉相字豆奈〈比〉奉相扶奉事〈尓〉依〈氐之〉此座平安御座〈氐〉天下者所知物〈尓〉在〈良自止奈母〉隨神所念行〈須〉。然皇〈止〉坐〈氐〉天下政〈乎〉聞看事者勞〈岐〉重〈弃〉事〈尓〉在〈家利〉。年長〈久〉日多〈久〉此座坐〈波〉荷重力弱〈之氐〉不堪負荷。加以掛畏朕婆婆皇太后朝〈尓母〉人子之理〈尓〉不得定省〈波〉朕情〈母〉日夜不安。是以此位避〈氐〉間〈乃〉人〈尓〉在〈氐之〉如理婆婆〈尓波〉仕奉〈倍自止〉所念行〈氐奈母〉日嗣〈止〉定賜〈弊流〉皇太子〈尓〉授賜〈久止〉宣天皇御命衆聞食宣。是日。皇太子受禪即天皇位於大極殿。詔曰。明神大八洲所知天皇詔旨〈良麻止〉宣勅親王諸王諸臣百官人等天下公民衆聞食宣。掛畏現神坐倭根子天皇我皇此天日嗣高御座之業〈乎〉拙劣朕〈尓〉被賜〈氐〉仕奉〈止〉仰賜〈比〉授賜〈閇波〉頂〈尓〉受賜〈利〉恐〈美〉受賜〈利〉懼進〈母〉不知〈尓〉退〈母〉不知〈尓〉恐〈美〉坐〈久止〉宣天皇勅衆聞食宣。然皇坐〈氐〉天下治賜君者賢人〈乃〉能臣〈乎〉得〈氐之〉天下〈乎婆〉平〈久〉安〈久〉治物〈尓〉在〈良之止奈母〉聞行〈須〉。故是以大命坐宣〈久〉。朕雖拙弱。親王始〈氐〉王臣等〈乃〉相穴〈奈比〉奉〈利〉相扶奉〈牟〉事依〈氐之〉此之仰賜〈比〉授賜〈夫〉食國天下之政者平〈久〉安〈久〉仕奉〈倍之止奈母〉所念行〈須〉。是以無謟欺之心以忠赤之誠食國天下之政者衆助仕奉〈止〉宣天皇勅衆聞食宣。辞別〈氐〉宣〈久〉。仕奉人等中〈尓〉自〈何〉仕奉状隨〈氐〉一二人等冠位上賜〈比〉治賜〈夫〉。百官職事已上及太神宮〈乎〉始〈氐〉諸社祢宜祝〈尓〉大御物賜〈夫〉。僧綱始〈氐〉諸寺師位僧尼等〈尓〉物布施賜〈夫〉。又百官司〈乃〉人等諸國兵士鎭兵傳驛戸等今年田租免賜〈久止〉宣天皇勅衆聞食宣。」授從三位石川朝臣年足正三位。正四位上船王。他田王。氷上眞人鹽燒並從三位。正四位下諱〈平城宮御宇高紹天皇〉正四位上。无位菅生王從五位下。從四位下藤原朝臣巨勢麻呂。佐伯宿祢毛人並從四位上。正五位上藤原朝臣御楯從四位下。正五位下粟田朝臣奈世麻呂正五位上。從五位下阿倍朝臣子嶋。紀朝臣伊保。石川朝臣豊成。藤原朝臣眞光。當麻眞人淨成並從五位上。外從五位上文忌寸馬養。正六位下菅生朝臣嶋足。佐伯宿祢御方。笠朝臣眞足。穂積朝臣小東人。阿倍朝臣意宇麻呂。中臣朝臣毛人。縣犬養宿祢吉男。紀朝臣牛養。大伴宿祢東人。藤原朝臣楓麻呂。大野朝臣廣言。正六位下藤原朝臣久須麻呂。從六位上石川朝臣廣成並從五位下。正六位上山邊縣主男笠。宍人朝臣倭麻呂。辛小床。大和宿祢斐大麻呂。宇自賀臣山道。忌部首黒麻呂並外從五位下。」又授正四位上河内女王從三位。正五位上當麻眞人山背正三位。无位奈貴女王從四位下。无位伊刀女王。垂水女王。正六位上内眞人絲井。无位粟田朝臣諸姉。藤原朝臣影並從五位下。外大初位上黄文連眞白女。上道臣廣羽女。從六位上爪工宿祢飯足並外從五位下。是日。百官及僧綱詣朝堂上表。上上臺中臺尊號。其百官表曰。臣仲麻呂等言。臣聞。星廻日薄。懸象著明。之謂天。出震登乾。乘時首出。之謂聖。天以不言爲徳。非言無以暢其神。聖以無名體道。非名安可詮其用。冬穴夏巣之世。猶昧典章。雲官火紀之君。方崇徽號。寔乃發揮功業。闡揚尊名。名之爲義。其來尚矣。伏惟。皇帝陛下。臨馭天下。十有餘年。海内清平。朝廷无事。祥瑞頻至。寳字荐臻。乃聖乃神。允文允武。諒無得而稱焉。曁乎國絶皇嗣。人懷彼此。降天尊於人願。鳴謙克光。損乾徳於坤儀。鴻基遂固。展誠敬而追遠。攀慕惟深。勤温清以承顏。因心懇至。故有九服宅心。咸荷望雲之慶。萬方傾首。倶承就日之輝。皇太后叡徳上昇。善穆儷天之位。深仁下濟。爰昭法地之猷。日月於是貞明。乾坤以之交泰。遂乃欽承顧命。議定皇儲。弃親擧踈。心在公正。實在志於天下。永無私於一己。既而遊神惠苑。體三空之玄宗。降迹禪林。開一眞之妙覺。大慈至深。建藥院而普濟。弘願潜運。設悲田而廣救。是以煙浮震幄。寳籙呈祥。蟲彫藤枝。禎文告徳。遂使百神恊賛。天平之化不窮。黎元樂推。地成之徳逾遠。臣等入參帷扆。出廁周行。鳴珮曳綸。綿積年祀觀斯盛徳。戴斯昌化。臣子之義。何無稱賛。人欲而天必從。狂言而聖尚擇。謹據典策。敢上尊號。伏乞。奉稱上臺寳字稱徳孝謙皇帝。奉稱中臺天平應眞仁正皇太后。上恊天休。傳鴻名於萬歳。下從人望。揚雅稱於千秋。不勝至懇踊躍之甚。謹詣朝堂。奉表以聞。」僧綱表曰。沙門菩提等言。菩提聞。乾坤高大覆載。以之顯功。日月貞明照臨。由其甄用。至於混群有而饒益。撫萬物而曲成。獨標十号之尊。式崇四大之極。故能徽猷歴前古以不朽。妙迹流後葉而恒新。然則表徳稱功。莫不由於名號。伏惟。皇帝陛下乃聖繼聖。括六合而承基。乃神襲神。環四溟而光宅。期政道於刑措。駈懷生於仁宜。追遠之孝尤重。錫類之徳弥厚。不以逸遊爲念。俯以。謙卑在懷。瑞蚕藻文。薦聖壽之遐祉。寳字結象。開皇基之永昌。皇太后遊心五乘。棲襟八正。化侔應供。道双至眞。發揮神化之丹青。抑揚陶甄之鎔範。正慮獨斷。搜離明於舜濱。深仁幽覃。浮赤文於尭渚。故能遠安近。至治美於成康。治定功成。無爲盛於軒昊。固足以垂顯號建嘉名。軼三五而飛英。超八九而騰茂者也。陛下謙讓。推而不居。菩提等竊疑焉。菩提等逖察前徽。緬鏡遐載。隨時立制。權代適宜。皇王雖殊。其揆一也。菩提等不勝丹款之誠。謹上尊號。陛下稱曰寳字稱徳孝謙皇帝。皇太后稱曰天平應眞仁正皇太后。伏願。陛下皇太后。抑謙光之小節。從梵侶之讜言。庶使蟠木之郷。燭龍之地。問號仰澤。聽聲傾光。凡厥在生。誰不幸甚。沙門菩提等不任下情。謹奉表以聞。」詔報曰。朕覽卿等所請。鴻業良峻。祗畏允深。忝以寡薄。何當休名。而上天降祐。帳字開平。厚地薦祥。蚕文表徳。竊惟此事。天意難違。俯從衆願。敬膺典礼。号曰寳字稱徳孝謙皇帝。又見上皇太后之尊号。感喜交懷。日興忘倦。任公卿之所表。從耆緇之所乞。策曰天平應眞仁正皇太后。受此推新之号。何无洗舊之令。宜改百官之名。載施寛大之澤。其天下見禁囚徒。罪無輕重咸從放免。其依先格。放却本土。无故不上之徒。悉還本司。又自天平寳字元年已前監臨自盜。盜所監臨。及官物欠負未納悉免。天下諸國隱於山林清行逸士十年已上。皆令得度。其中臣忌部。元預神宮常祀。不闕供奉久年。宜兩氏六位已下加位一級。其大學生。醫針生。暦算生。天文生。陰陽生。年廿五已上授位一階。其依犯擯出僧等戒律無闕。移近一國。」其大僧都鑒眞和上、戒行轉潔、白頭不變。遠渉滄波、歸我聖朝。号曰大和上。恭敬供養。政事躁煩。不敢勞老。宜停僧綱之任。集諸寺僧尼。欲學戒律者。皆属令習。」又勅曰。内相於國。功勳已高。然猶報効未行。名字未加。宜下參議八省卿博士等。准古正議奏聞。不得空言所。無濫汗聽覽。辛丑。外從五位下僧延慶。以形異於俗。辞其爵位。詔許之。其位祿位田者有勅不收。」授外從五位下山口忌寸佐美麻呂從五位下。正六位上茨田宿祢牧野外從五位下。癸夘。以從五位下笠朝臣眞足爲伊勢介。正五位下大伴宿祢犬養爲右衛士督。丙午。増宮人職員。事在別式。

八月一日に高野天皇(阿倍内親王)は皇位を皇太子(大炊王)に譲り、次のように詔されている(以下宣命体)・・・現つ御神として天下を統治されている天皇の詔旨として宣べ聞かせられるお言葉を、親王・諸王・諸臣・百官の人達、皆承れと申し渡す。高天原に神としておられた、天皇の遠祖である男神・女神が、我が子孫の統治すべき天下であると御委任になった通りに、遠い皇祖の御世から始まり天皇が代々統治されて来た天つ日嗣高御座の業(皇位)であると、神の身として思うと宣べられる天皇のお言葉を皆承れと申し渡す。---≪続≫---

このようにお治めになってきた天つ日嗣高御座の業は、天におられる神、地におられる神が尊いものとして扶けられたことによって、その位には平らかに安らかにいることができ、天下は納められるものであるらしいと、神の身として思う。ところで天皇として天下の政治をみることは、ほんとうに労苦の多いことである。年長く日数多くこの位にいることは、荷が重く力も弱く、堪えかねることである。それだけではなく、口に出すのも畏れ多い、朕の母上である皇太后に対しても、人の子の当然すべき孝養を尽くせないので、朕の心情は日夜安まることがない。そこでこの位を退いて暇ある身となり、母上へ子として当然のお仕えをしたいと思い、日嗣と定めた皇太子に皇位を授ける、と宣べられる天皇のお言葉を、皆承れと申し渡す・・・。

この日、皇太子は皇位を譲られて、大極殿において天皇の位に即き、次のように詔されている(以下宣命体)・・・現つ御神として大八州を統治されている天皇の詔旨として宣べ聞かせられるお言葉を、親王・諸王・諸臣・百官の人達、天下の公民達、皆承れと申し渡す。---≪続≫---

口に出すのも畏れ多い、現つ御神であられる倭根子天皇、我が大君が、この天つ日嗣高御座の業を拙く劣っている朕に授けられ、天下の政治に当たるようにと仰せられ、皇位を授けられたので、頭上に頂いてお受けいたし、恐懼し、進むことも退くこともできずに恐れ入っている、と宣べられる天皇のお言葉を、皆承れと申し渡す。---≪続≫---

さて、天皇として天下を統治する君主は、賢明で能力のある臣下の補佐を得て。天下を平らかに安らかに統治できるものであるらしい、と聞いている。故に、これは天皇の命令として申し渡すのであるが、朕は拙く劣っているけれども、親王達を初め、諸王・諸臣の補佐と援助によってこそ、命じられ授けられた天下の統治ということに、平らかに安らかに仕えることができると思う。そこで諂ったり欺く心なく、忠誠心をもって、天下の統治を、皆が助け仕えてくれるように、と宣べられる天皇のお言葉を、皆承れと申し渡す。---≪続≫---

言葉を改めて宣べられるには、仕え申し上げる人達のなかで、その勤務態様に従って、一人、二人の位階を上げるよう取り計らいをする。百官のうち定まった官職をもつ者以上と、伊勢大神宮を初めとして諸神社の禰宜・祝に天皇の物を与える。僧綱を初めとして諸寺の師位の僧尼達には布施の物を与える。また、全官司の人達、諸國の兵士、鎮兵、伝駅戸などには、今年の田租を免除する、と宣べられる天皇のお言葉を、皆承れと申し渡す・・・。

以下の叙位を行っている。石川朝臣年足に正三位、船王・「他田王」(池田王の別名、もしくは誤記)・氷上眞人鹽燒(鹽燒王、臣籍降下)に從三位、諱〈平城宮御宇高紹天皇〉(白壁王)に正四位上、菅生王(真弓山の北側が出自)に從五位下、藤原朝臣巨勢麻呂(仲麻呂に併記)佐伯宿祢毛人に從四位上、藤原朝臣御楯(千尋)に四位下、粟田朝臣奈世麻呂(奈勢麻呂)に正五位上、阿倍朝臣子嶋(駿河に併記)紀朝臣伊保石川朝臣豊成藤原朝臣眞光(眞從に併記)・當麻眞人淨成(比礼に併記)に從五位上、文忌寸馬養・「菅生朝臣嶋足・佐伯宿祢御方・笠朝臣眞足」・穂積朝臣小東人(老人に併記)・阿倍朝臣意宇麻呂(綱麻呂に併記)・中臣朝臣毛人(麻呂に併記)・縣犬養宿祢吉男(須奈保に併記)・「紀朝臣牛養・大伴宿祢東人」・藤原朝臣楓麻呂(千尋に併記)・「大野朝臣廣言」・藤原朝臣久須麻呂(眞從に併記)・石川朝臣廣成(母親の刀子娘に併記。母は文武天皇の嬪、後に剥奪)に從五位下、「山邊縣主男笠・宍人朝臣倭麻呂・辛小床」・大和宿祢斐大麻呂(弟守に併記)・「宇自賀臣山道・忌部首黒麻呂」に外從五位下を授けている。又、河内女王に從三位、當麻眞人山背(子老に併記)に正三位、「奈貴女王」に從四位下、「伊刀女王・垂水女王」・内眞人絲井(等美王に併記)・粟田朝臣諸姉(馬養に併記)・「藤原朝臣影」に從五位下、「黄文連眞白女」・上道臣廣羽女(斐太都に併記)・「爪工宿祢飯足」に外從五位下を授けている。

この日、百官と僧綱が朝堂に参内して上表文を奉り、孝謙天皇に上台、光明皇太后に中台の尊号を奉っている。その百官の上表文で以下のように述べている・・・臣仲麻呂等が言上する。臣が聞くところによると、星が回り太陽が近付き、天体の様子が明白であるのを「天」といい、初めは萌芽状態でありながら、やがて天に登り、時運に乗じて首座に出るのを「聖」という。天は物言わぬことを以って徳とするが、言葉によらなければその精神を述べることはできない。聖は名も無いままに道を体現するが、名前がなければどうしてその動きを明らかにすることができようか。---≪続≫---

冬は穴ぐらにいて、夏は樹上に住んだ上古の時代には、まだ制度文物が発達していなかったが、雲官や火紀の君(黄帝・炎帝)の時代には、尊号を崇ぶようになった。まことにこれは、功績を明らかにし尊名を宣揚するものであり、名前の意義たるや、その来歴は久しいものである。---≪続≫---

謹んで考えるに、皇帝陛下は君主として天下に臨まれ十有余年になるが、国内は清らかに治まり、朝廷には大事もなく、祥瑞が頻りに現れ、吉祥の文字も度々現れている。これこそまさに聖、まさに神であり、文武の徳を兼ね備えているというべきであろう。本当にお称えするのに言葉がない。---≪続≫---

ところで国家に皇位の継承者が途絶えると、人々はあれこれと思い巡らすものである。尊い地位にありながら人民の願いを容れて皇嗣を決め、よく謙譲の德を発揮され、天の德の一部を施して、大いなる国家の基をついに固められた。真心と慎みをもって、祖先を追慕され、その心は深いものがあり、母の身辺に気を配り、その意に添うようにして親愛の情をよく表されている。それ故天下の人々は心を寄せ、みな立派な君主を戴く喜びをもち、全国の民が慕いよって、天子の輝きに浴している。---≪続≫---

また、皇太后は、その大いなる德が上に昇っては、天と並ぶべき皇后の位とよく調和し、深い仁愛を下に成就されて地に則る道を明らかにされている。そのため日月の運行は常に正しく、天地はお互いに通じあって安泰である。遂には謹んで聖武太上天皇の遺詔を承り皇位の継承者を定められるのに、近親を捨て、疎遠な者を取り立てて、公正な心を示された。まことに天下の事を思われたのであって、将来とも自分一人のことを考える方ではない。---≪続≫---

また、これまでも精神を仏教の世界に遊ばせて三空の奥深い道理を体現され、仏の教えを学ばれて唯一究極の悟りを開かれた。広大な慈悲心はとても深く、施薬院を建てて普く救済され、人民を救おうという弘い願いを潜にめぐらし、悲田院を設けて広く救済された。太上天皇、皇太后がこのようであるため、煙が宮の帷に浮かんで、尊い予言がめでたい印を現し、虫が藤の枝を彫ってできた吉祥の文字はお二人の德を告げた。ついには全ての神が力を合せて助け、天をも平らかにする徳化は窮まることなく、人民も楽しみ推挙し、大地を安定させる徳化はいよいよ永遠のものとなるであろう。---≪続≫---

臣等は、宮に入っては帝座に参り、退出しては朝臣の位に列し、腰には佩玉を下げ綬を帯び、遥かに年月を重ねて来た。このように盛んな德を見、昌んな教化を受けると、臣下の努めとしてどうして称賛せずにおられであろうか。人の欲むところに天は必ず従い、たとえ狂人の言であっても聖人はそれを採用される。謹んで古典に基づいて、あえて尊号を奉る。孝謙太上天皇を上台寶字称徳孝謙皇帝と申し上げ、光明皇太后を中台天平応眞仁正皇太后ろ申し上げるよう、伏してお願いする。---≪続≫---

上は天の称賛するところに叶って大いなる名を永劫に伝え、下は人望に従ってよい称号を永遠に賞揚したいと思う。真心が躍り上がりたいほどであるのを押さえかね、謹んで朝堂に参上し上表文を申し上げる・・・。

僧綱の上表文は以下のようである・・・沙門菩提等が言上する。菩提が聞くところによると、天地は高大にして万物を覆い載せることによって、その働きをあらわしており、日月は正しく明らかに照らすことによって、その働きを明らかにしている。あらゆる生き物を混在させて豊饒にし、万物を慈しんで全てを成長させる。このような中で一人十種の尊号で表現され、四大(地水火風)の極致として尊崇されている。そのために、うるわしい計りごとは歴史を経て朽ちることなく、よき事績は後世に伝えられて常に新しくあることができる。故に徳化を表し功績を称えるのに、名号によらないということはない。---≪続≫---

伏して考えるに、皇帝陛下は聖人として古の聖賢のあとを継ぎ、天地四方を統轄して基を受け継がれ、また神として神格を相承し、四海を巡って天下を治められている。政治の方法は刑罰が執行されないことを目指し、全ての生物に仁や正義を及ぼそうとされている。先祖を慕う孝の心はもっと重く、孝行な子孫を残す德はいよいよ厚くて、安逸を求めようとは考えておられない。---≪続≫---

伏して考えるに、謙虚さを心に持っておられるからこそ、めでたい蚕によって表れた美しい文字が、聖上の寿命の永遠であることを示し、めでたい文字の形が、皇室の基礎の永久に栄えることを表したのである。皇太后は、衆生を彼岸へ運ぶ五つの教えに思いを致し、仏道修行の八つの方法を心掛けている。その指導は応供(釈迦の別号の一つ)に等しく、道とするところは至眞(阿羅漢)に並んでいる。麗しい立派な感化を発揮され、秩序正しく人民を導かれた。正しい思慮と独自の決断は、舜帝が河浜で賢人を捜されたのに匹敵し、大いなる愛が深く及ぶ様は、堯帝が渚に河図を見出されたようなものである。---≪続≫---

それ故に、遠方に働きかけ近辺を安んじて、この上なく天下のよく治まることは、周の成王や康王よりも優れ、政治安定の功成って、無為にして治まることは、黄帝軒轅氏や少昊金天氏よりもさかんである。まことに顕かな称号をおくり嘉い名をたててこそ、三皇五帝(こちら参照)を超えて英声を広め、七十二弟子(釈迦の)を超えて立派な人を推挙するに十分と申すことができる。---≪続≫---

ただ、陛下は謙虚であられ、尊号を推めても受け入れられない。菩提等は内心で次のように思いを巡らせた…[菩提等が遠きよき前例を調べ、はるかに過ぎた年月に鑑みて、時世に従って制度を立て、時代を測って時宜にかなおうとすることは、皇帝が異なっても変わらない事実である]…。菩提等は忠誠の心を押さえることができず、謹んで尊号を奏呈する。陛下を称して寶字称徳孝謙皇帝と申し上げ、光明皇太后を称して天平応眞仁正皇太后を申し上げる。---≪続≫---

伏して願うところは、陛下と皇太后が謙譲という小さな節操を抑えられ、僧侶の直言を聞き入れられることを。曲がりくねった木の生える郷や 竜の住む地が、尊号を尋ねきいて恩沢に浴し、名声を聞いて、その光に心を寄せるよう冀う。実現すればおよそ生命のあるもので、誰が幸いでないであろうか。沙門菩提等は、その思いに堪えず、謹んで上表文を奉って申し上げる・・・。

上皇が応えて次のように詔されている・・・朕は卿等の請うところをみて感ずるのであるが、大いなる統治はまことにけわしく、謹み畏れる心はまことに深い。勿体なくもこの德の薄い身で、どうしてめでたい称号に相応するだろうか。けれども天は佑助を下し、帳に表れた文字は平安の世を開き、大地は祥瑞を出し、蚕の文字は德を表現している。---≪続≫---

密かにこの事を考えてみると、天の意志を無視することはできない。皆の願いを聞き入れ、敬んで典礼に従おう。朕を寶字称徳孝謙皇帝と号せよ。また皇太后に奉る尊号をみると、感動と喜びがこもごも至り、日ごとに新たで倦むことはない。公卿等の上表するところにまかせ、宿德の僧等の請うところに従って、策命して天平応眞仁正皇太后と称しよう。---≪続≫---

さて、このような新たにすすめられた尊号を受けながら、どうして旧習を一新する法令がなくてよかろうか。宜しく百官の名称を改めて寛大な恩沢を施すべきである。天下の現在禁獄されている囚徒は、罪の軽重を問わず、悉くみな放免せよ。先の格によって本國に返され、理由なくして勤務していない者は、皆本司に帰すようにせよ。また、天平字元年より以前に、監督者でありながら盗みをした者、管理下の官物を盗んだ者、更に官物の不足分を納めていない者についても、皆許すようにせよ。---≪続≫---

天下諸國の山林に隠れて清浄な修行に励む隠者で十年以上を経た者は、皆得度させよ。中臣・忌部氏は、元来伊勢太神宮の恒例の祭祀に関わって奉仕を重ね長年になる。そこで両氏の六位以下の者に位一階を加えよ。大学生・医生・針生・暦生・算生・天文生・陰陽生で二十五歳以上の者には位一階を授けよ。罪を犯して僻遠の地に配流された僧侶であっても、戒律を守ることを怠らない者については、一國だけ都に近い國に移すようにせよ。---≪続≫---

大僧綱の鑒眞(鑑眞)和上は、戒律を持することがとても潔癖で、白髪の老境になっても変わることがない。遠く海を渡って我が朝に帰化した。そこで大和上と号して恭しく供養し、政治の煩雑さで老躯を労することのないように僧綱の任を解くべきである。また、諸寺の僧尼を集め、戒律を学ぼうと望む者は、大和上に就いて学習させるようにせよ・・・。

また、次のように勅されている・・・紫微内相(藤原朝臣仲麻呂)は、国家に対する勲功が立派である。しかしなお、それに報いる処遇は行われていないし、勲功にみあう姓名も未だ加えられていない。そこで参議・八省の卿・博士等に命じて、古例に準じて正しく議論させ、相応しい姓名を奏上するようにせよ。勅の言うところを空しくすることのないように、天皇の叡慮を乱すことのないようにせよ・・・。

二日に僧延慶は出家の身であるため形貌が俗人とは異なるので、その位階を辞退している。詔されて許されたが、その位禄・位田は勅があって収公しなかった。山口忌寸佐美麻呂(父親田主に併記)に従五位下を、茨田宿祢牧野に外従五位下を授けている。四日に「笠朝臣眞足」を伊勢介に、大伴宿祢犬養(三中に併記)を右衛士督に任じている。七日に後宮の女官の員数を増やしている。詳細は別式に記されている。

<菅生朝臣嶋足-忍人-恩日>
菅生朝臣嶋足

「菅生朝臣」一族は既に幾人かが登場しているが、聖武天皇紀に古麻呂が外従五位上から内位の従五位下に叙爵されていた。現在の田川郡福智町伊方の伊方川の東岸に沿った地域を出自と推定した。

今回登場の嶋足は初見で内位の従五位下と記載され、神祇に関わる一族として認知度が高まって来たのであろう。

嶋足=山稜が鳥の足のような形をしているところと解釈すると、図に示した場所が出自と思われる。「古麻呂」の南側に当たる場所である。

少し後に菅生朝臣忍人が、同じく従五位下を叙爵されて登場するが、忍人=谷間の山稜がギザギザと突き出ているところと解釈すると、「嶋足」の東側が出自と推定される。その後に登場されることはないようである。

更に後(桓武天皇紀)に菅生朝臣恩日が従五位下を叙爵されて登場する。恩日=太陽のような丸く小高い地が覆い重なるようなところと解釈される。図に示した場所が出自と推定される。その後の消息は不明である。

彼等が蔓延る山稜の端は久米連の居処と推定した。猛接近中であるが、果たして如何なる配置になることやら・・・である。

<佐伯宿祢御方>
● 佐伯宿祢御方

初見で内位の従五位下を叙爵されているのだが、系譜は不詳のようである。また、續紀での登場も唯一この場面のみであって、情報が極めて少ない人物でもある。

名前が頼りの出自場所探索になるのだが、この狭い谷間も随分と配置済みとなって、些か戸惑うところである。

既出の文字列である御方=耜のような山稜を束ねたところと解釈すると、図に示した場所が見出せる。「佐伯宿祢」一族は、「大伴」の谷間の西側の斜面に広がったのであるが、唯一大目の出自を東側の斜面に推定した。その並びの地、今までに全く登場することのなかった地である。

續紀の叙位は、それぞれの地の空白部を居処とする多くの人物を登場させている。地形象形表記としての地名・人名の再確認に極めて有用な記述と思われる。可能な限りに各々のピースを埋めて行こうかと思う。

<笠朝臣眞足-江人>
● 笠朝臣眞足

「笠朝臣」は途切れることなく登場しているが、孝謙天皇紀には初見の人物はなく、聖武天皇紀に三助蓑麻呂が外従五位下を叙爵されている。

当時の外位は、例の叱咤激励の意味合いがあり、当時に系譜が不詳であったのではないようである。いずれにしても、極めて狭い地域からの人材登用だったと推測される。

眞足=足の形をした山稜の端が寄せ集められた窪んだところと解釈すると、図に示した場所が出自と推定される。三助の北側に位置する。

息子に笠朝臣江人がいたと知られている。江人=谷間の水辺で窪んだところと解釈すると父親の北側の場所が出自と思われる。「眞足」の情報は皆無であるが、續紀によると「江人」は、地方官の任官など今後幾度か登場されるようである。

<紀朝臣牛養>
● 紀朝臣牛養

最初に気付かされるのが、頻出の名前である「牛養」を持つ人物が「紀朝臣」には登場していなかったことである。長く延びた山稜及び枝分かれした山稜が作る多くの谷間があり、「牛養」と命名しても何ら不思議ではない地形の地域であろう。

また、一方で「紀」の由来は、古事記では「木」であり、その最も特徴的な場所に木國之大屋毘古神が坐していたと推定した。その地を出自とする具体的な人名は、舒明天皇紀に紀臣鹽手が登場して以後、皆無であった。

「紀朝臣」の遠祖の地に、牛養=牛の頭部のように延びた山稜に囲まれて谷間がなだらかに延びているところの地形を見出せる。調べると別名として牛甘=牛の頭部が[舌]のような形をしているところと称していたようである。別名によって、より確実な場所になったように思われる。

<大伴宿祢東人>
● 大伴宿祢東人

漸くにして素性の知られた人物の登場のようである。祖父が「咋」(咋子。「金村」の子)、大臣「長德」、『壬申の乱』の功臣である「馬來田・吹負」が兄達であった「眞廣」の子であった(こちら参照)。

正に「大伴宿祢」一族の奔流に位置することになる。父親の「眞廣」の事績が記紀・續紀を通じて記載されることがなく、年が離れた末っ子であって、兄達の子等の登場より、大幅に遅れたのではなかろうか。

眞廣=広がった地が寄り集まった窪んだところと読むと、図に示した辺りが出自と推定される。他の兄弟とは、全く異なる方に向かったようである。現在はダムの湖底に沈んでいるのだが。頻出の東人=谷間を突き通すようなところであるから、図に示した辺りが出自と思われる。「大伴」の谷間と同様に多くの棚田が開拓されていたことが伺える。

<大野朝臣廣言(立)-仲仟>
● 大野朝臣廣言

「大野朝臣」一族は、「果安」の子、「東人」が多くの武勲を立てて、續紀での登場も多い(最終従三位/参議、出自はこちら参照)。「果安」は、壬申の乱において吹負を打ち負かした相手として記載されていた。有能な武将の血筋だったのであろう。

既に「横刀」が登場しているが、その兄弟に「廣立・葦足・仲仟」がいたと知られているいるが、廣言の表記は見当たらない。

「言」を人名に用いた例は極めて限られていて、思い出されるのが古事記の葛城之一言主大神であり、「一言」=「総ての耕地」と紐解いた。「言」=「辛+囗」=「大地を耕地にする様」と解釈する。廣言は、この解釈では、極めて曖昧な意味となり、元に戻って、廣言(辛+囗)=広がった大地が刃物のような形をしているところを表すとしたのであろう。

すると「東人」の東側で谷間が岐れた場所に、その地形が見出せる。地形象形表記としては問題がないのであるが、「言」は記紀・續紀を通じて「耕地」を表す文字とされている。即ち、別名として廣立=広がった地(谷間)が並んでいるところと称するようになったのではなかろうか。

後に左大臣藤原朝臣永手の室となる大野朝臣仲仟(最終正三位)が登場する。仲=人+中=谷間を突き通す様仟=人+人+一=二つの谷間を束ねる様と解釈すると、図に示した場所が出自と推定される。

<山邊縣主男笠>
● 山邊縣主男笠

「山邊」の初見は、古事記の御眞木入日子印惠命(崇神天皇)の山邊道勾之岡上陵であろう。通説では、”山辺の道”とされている地である。勿論、見当違いの場所である。

それは兎も角も、同じく伊久米伊理毘古伊佐知命(垂仁天皇)紀に山邉之大鶙なる人物が登場する。更に書紀では天武天皇紀に山邊君安麻呂が登場している。

即ち、古くから開かれた地ではあるが、人材の登用は決して多くはなかったようである。大坂山・愛宕山山稜の南麓に位置する地域と推定した。

男笠=[男]の地形の先が[笠]のようになっているところと解釈される。図に示した山稜の麓が出自と思われる。「縣主」は、その山稜が広がって長く延びている様子を表していると思われる。上記でも述べたように、空白部を埋める叙位であろう。

<宍人朝臣倭麻呂-繼麻呂>
● 宍人朝臣倭麻呂

「宍人朝臣」は、天武天皇紀の『八色之姓』で朝臣姓を賜っている。具体的な人名は、忍壁皇子等を産んだ木殻(カヂ)媛娘の父親が大麻呂であったと記載されていた(こちら参照)。

「膳臣(高橋朝臣)」の東側に位置する地域であり、同祖の一族(古事記の大毘古命の後裔)であったと推定したが、この地からの人材の登用は皆無であった。

あらためて宍人=谷間に小高く盛り上がった地があるところと解釈しすると、その特徴的な地形を戸城山の北麓に見出すことができる。「鳥獣の肉を料理する職業部(品部)」に関わる一族と解釈していては、混迷から抜け出すことは叶わないであろう。

頻出の倭=人+禾+女=谷間の傍らを山稜が嫋やかに曲がって延びているところであり、図に示した場所が倭麻呂の出自と推定される。續紀に再度登場されることはないようである。その東側に宍人造老は、後に連姓を賜っており、また別の一族であったようである。「宍人連」は、記紀・續紀を通じて記載されることはない。

ずっと後(光仁天皇紀)になるが、宍人朝臣繼麻呂が従五位下を叙爵されて登場する。宍人朝臣一族を纏めた図として掲載した。繼=途切れかかった山稜が繋がれたように延びている様と解釈すると、図に示した場所が出自と推定される。

<辛小床>
● 辛小床

関連する情報が全く見当たらず、朝鮮半島において現在でも多くの人々が名乗る氏名であり、渡来系の人物であることには間違いないと思われる。名前が小床と倭風となっていて、すっかり倭國に定着したのであろう。

續紀を調べると、後に辛男床の名称で後に登場し、「廣田連」の氏姓を賜ったと記載されている。「小」と「男」とは頻繁に共用される文字である。更に、右京人であったことも追記されている。これで出自場所を求めることが可能となったようである。

小床=寝台のような地が三角形に尖っているところと解釈すると、図に示した場所が見出せる。右京人の上部乙麻呂の妻、大辛刀自が多産で登場し、また同じように、右京職が多産を報告して褒賞された素性仁斯の近隣の地である。この地に多くの渡来系の男女が住み着いていたことを伝えているのである。廣田連は、見たまんまの表記であろう。

<宇自賀臣山道>
● 宇自賀臣山道

「宇自賀」の文字列は初見であるが、調べると「牛鹿」、即ち古事記の大倭根子日子賦斗邇命(孝霊天皇)の子、日子寤間命が祖となった針間牛鹿臣と伝えられている。

記紀・續紀を通じて極めて登場人物が少ない地であったようである。今回の叙爵の流れからも、頷けるところでもある。現地名は築上郡築上町小山田、小山田川と岩丸川に挟まれた地域である。

古事記では針間國、書紀・續紀では播磨國と記載される。”針のような隙間の地”が元来の地形象形表記であろう。

既出の文字列である宇自賀=谷間に延びた山稜の端が押し開かれたような谷間があるところと読み解ける。「牛鹿」で表された山稜の別表記であることが解る。更に、その山稜の端の地形を示しているのである。

名前も、同じく既出の文字列である山道=山にある首の付け根のようなところと解釈される。図に示した場所が、この人物の出自と推定される。續紀には、二度と登場されることはないようである。

<忌部首黑麻呂-蟲麻呂・忌部毘登隅>
● 忌部首黒麻呂

本来の忌部首は、些か変遷を経て宿祢姓となったと記載されている。直近の系列では、子人・狛麻呂・鳥麻呂、系譜は定かではないようだが砦麻呂等が登場していた。

未だに「首」姓の一族が居たのであろう。書紀の孝徳天皇紀に上記の「忌部首」に併記した忌部木菓なる人物が登場し、奔流の周辺に配置した。

すると今回登場の黒麻呂は、その周辺に居処を持っていたのではなかろうか。黑=囗+米+灬=谷間に炎のような山稜が延びている様と解釈した。少々見辛くなっているが、図に示した場所が出自と思われる。

暫くの後に忌部首虫麻呂が「造」姓を賜ったと記載される(「黒麻呂」は「連」姓)。虫(蟲)=山稜の端が三つに岐れて延び出ている様であり、図に示した場所が見出せる。「忌部」には、宿祢・連・造の三つの姓を授けたようである。彼等は同根ではなかったのかもしれない。

更に後に女孺の忌部毘登隅が事変での功績で従五位上を叙爵されて登場する。「首」は、すっかり「毘登」の表記に代わってしまったようである。は、その通りに解釈として、図に示した場所が出自であったと推定される。

● 奈貴女王・ 伊刀女王・ 垂水女王 例によって三女王の系譜は不詳のようであるが、既にそれぞれ対応する奈貴王伊刀王垂水王の三王が登場していた。おそらくそれぞれの王の近隣を三女王が出自としていたのではなかろうか。

<藤原朝臣影(蔭)>
最初の奈貴女王は初見で従四位下を叙爵され、皇孫の待遇と思われる。出自場所から推察すると、舎人親王に関わる女王だったのかもしれない。

藤原朝臣影

立派な「藤原朝臣」の氏姓を持っているのだが、前出の駿河古(北家:千尋・袁比良女に併記)と同じく系譜不詳のようである。

藤原朝臣影の別名として藤原朝臣蔭が知られている。「蔭」=「艸+陰」と分解すると、既出の山陰(道)に含まれた文字となる。「山陰」=「山稜の北側の日当たりのよくないところ」と解釈した。

蔭=艸+陰=二つ並んだ山稜(艸)の北側の日当たりのよくないところと読み解ける。藤原朝臣一族が住まった地にでは、「北家」がその地形を示す場所と思われる。「影」では、一に特定することが難しいのであるが、別名によって求めることができる。この後の活躍は、あまり知られていないようである。

<黃文連眞白女>
● 黄文連眞白女

「黃文連」は、当初黃書造本實・大伴等が登場し、後に連姓を賜り、頻度は高くはないが、途切れることなく登場している一族である。

系譜が伝わっているのは、希少であって、粳麻呂(備に併記)が『壬申の乱』の功臣「大伴」の子として褒賞されたと記載されていた。

既出の文字列である眞白=丸く小高い地が寄せ集められて窪んだところと解釈すると、図に示した場所が見出せる。「粳麻呂」の南側となる。

「大伴・本實」の谷間の人材への叙位は殆どなく、今回が初めてのようである。上記で述べた通り、正に空白の地への叙位と思われる。この後に續紀に登場されることはないようである。

<爪工宿祢飯足>
● 爪工宿祢飯足

天武天皇紀の『八色之姓』で爪工連に宿祢姓を賜ったと記載されていた。その後に具体的な人物が登場することがなかった。聖武天皇紀になって、紀伊國の國造に紀直摩祖に任じ、暫くして紀直豊嶋を任じている。

そもそも「紀伊國」の表記は書紀に基づく名称であり、古事記は「紀國」である。書紀の「紀臣」(後の紀朝臣)の居処は、古事記では「木國」である。

既に述べたように書紀の捻くれた表記に惑わされたまま今日に至っているわけである。續紀は、古事記の表記に従い、「紀直」の氏姓を記載している。勿論、續紀もあからさまに記述しているわけではないが・・・書紀を正史とする歴史学が續紀を”蔑ろ”にするところであろう。

話しが横道に逸れそうなので、飯足=なだらかに延びる山稜が足ようになっているところと解釈すると、図に示した場所がこの人物の出自と推定される。「豊嶋」の西側の谷間となる。




2022年9月7日水曜日

寳字稱徳孝謙皇帝:孝謙天皇(17) 〔604〕

寳字稱徳孝謙皇帝:孝謙天皇(17)


天平字二年(西暦758年)五月の記事からである。原文(青字)はこちらのサイトから入手、訓読続日本紀(今泉忠義著)、続日本紀2(直木考次郎他著)を参照。

夏五月丙戌。大宰府言。承前公廨稻合一百萬束。然中間官人任意費用。今但遺一十餘萬束。官人數多。所給甚少。離家既遠。生活尚難。於是以所遺公廨。悉合正税。更割諸國正税。國別遍置。不失其本。毎年出擧。以所得利。依式班給。其諸國地子稻者。一依先符。任爲公廨。以充府中雜事。乙未。正六位上大和宿祢弟守授從五位下。

五月十六日に大宰府が以下のように申し上げている・・・前から受け継いだ公廨稲は、合わせて百万束である。ところが、その後を受け継いだ官人等が心に任せて使ってしまい、今はただ十万束を残すのみである。官人は多いのに、給付額は極めて少額であり、家を離れて遠く赴任して来たのに、それでも生活は困難である。そこで残る公廨稲を全て正税稲に混入し、更に諸國の正税を割いて國ごとにもれなく公廨稲を設け、元本をなくさないようにして年ごとに出挙し、得るところの利稲を、式に従い配分したいと思う。諸國から送られて来る地子稲は、先の符の言うように、公廨として府中の雑事の費用に充てたいと思う・・・。

二十五日に「大和宿祢弟守」に従五位下を授けている。

<大和宿祢弟守-斐大麻呂-西麻呂>
● 大和宿祢弟守

「大和宿祢」は、前記で登場した表記であり、大倭忌寸から大養徳忌寸を経て、宿祢姓を賜った大和宿祢長岡(小東人)等の一族であった。

また、聖武天皇紀に大養德宿祢麻呂女が従五位下を叙爵されていた。元来は”外”が付いていたのが、内位で初見となっている。「小東人」も遣唐使の一員になるなど、活躍は目覚ましく内位へと昇進していた。

何らかの血縁関係があったと推測されるが、定かではないようで、今回の弟守についても同様に系譜は不詳である。既出の文字列である弟守=両肘を張ったような山稜に囲まれた地の前がギザギザとした谷間になっているところと読み解くと、図に示した場所が出自と推定される。

後に大和宿祢斐大麻呂大和宿祢西麻呂が外従五位下を叙爵されて登場する。”外”が付く爵位であり、「弟守」とは異なる系列だったのであろう。既出の文字列である斐大=平らな頂の山稜の前にある狭い谷間が交差するようなところと読み解ける。図に示した場所が出自と推定される。

西麻呂の「西」の文字が名前に用いられているのは、初見である。所謂方角の”西”を表す文字であるが、そもそもこの文字が”西”を表すことの解釈が難解なようで、他の三つの方角のようにはスッキリとした解釈になっていない。残り一つの方角に当て嵌める文字を選んだ結果が「西」だったのかもしれない。

この文字の地形象形表記としての解釈は、後の称徳天皇紀に登場する西大寺の場所を突止める際に達成されることになる。概略を述べると、「西」は「笊(ザル)」の象形とされていることに着目し、西=[笊]のような形をした様と解釈する。その地形を、図に示した「斐大麻呂」の西側の谷間の出口辺りに見出せる。奇跡的に千数百年を経て残存している地形であろう(こちら参照)。

六月甲辰。大宰陰陽師從六位下余益人。造法華寺判官從六位下余東人等四人賜百濟朝臣姓。越後目正七位上高麗使主馬養。内侍典侍從五位下高麗使主淨日等五人多可連。散位大属正六位上狛廣足。散位正八位下狛淨成等四人長背連。辛亥。陸奥國言。去年八月以來。歸降夷俘。男女惣一千六百九十餘人。或去離本土。歸慕皇化。或身渉戰塲。与賊結怨。惣是新來。良未安堵。亦夷性狼心。猶豫多疑。望請。准天平十年閏七月十四日勅。量給種子。令得佃田。永爲王民。以充邊軍。許之。丙辰。以從四位上佐伯宿祢毛人爲常陸守。參議從三位文室眞人智努爲出雲守。從五位上大伴宿祢家持爲因幡守。乙丑。大和國葛上郡人從八位上桑原史年足等男女九十六人。近江國神埼郡人正八位下桑原史人勝等男女一千一百五十五人同言曰。伏奉去天平勝寳九歳五月廿六日勅書稱。内大臣。太政大臣之名不得稱者。今年足人勝等先祖後漢苗裔鄧言興并帝利等。於難波高津宮御宇天皇之世。轉自高麗。歸化聖境。本是同祖。今分數姓。望請。依勅一改史字。因蒙同姓。於是。桑原史。大友桑原史。大友史。大友部史。桑原史戸。史戸六氏同賜桑原直姓。船史船直姓。

六月四日に大宰府陰陽師の「余益人」と造法華寺(隅院近隣)判官の「余東人」等四人に百濟朝臣の氏姓を、越後國目の「高麗使主馬養」と内侍典侍の「高麗使主淨日」等五人に多可連の氏姓を、散位大属の「狛連廣足」と散位の「狛淨成」等四人に長背連の氏姓を賜っている。

十一日に陸奥國が以下のように申し上げている・・・去年八月以来、帰順した夷俘の男女は、合計千六百九十余人である。彼等は、或いは故郷を遠く離れ去って、天皇の教化に浴することを願い、或いは戦場で経験を積んで、賊と怨恨を生じた者たちである。これらすべては新たに帰順したのであって、その心は安定していない。また蝦夷の性質は、狼のような心であって、ためらいがちで、疑心の多いものである。そこで、天平十年閏七月十四日の勅(現存せず)を準用して、種籾を給付し、水田を耕作できるようにさせて永遠に王民となし、辺境の軍にも充当しようと思う・・・。これを許可している。

十六日に佐伯宿祢毛人を常陸守、参議の文室眞人智努(智努王。珍努)を出雲守、大伴宿祢家持を因幡守(在任中に作った歌が最後で万葉集は閉じられている)に任じている。

二十五日に大和國葛上郡の人、「桑原史年足」等男女九十六人と、「近江國神崎郡」(神前郡)の人、「桑原史人勝」等男女千百五十五人が、同じように言上している・・・去る天平勝寶九歳五月二十六日の勅によると、内大臣(藤原鎌足)・太政大臣(藤原不比等)の名を名乗ってはいけない、とある。今、「年足」や「人勝」等の先祖である後漢の子孫の鄧言興と帝利等は、難波高津宮に天下を始めた天皇(仁徳)の世に、高句麗から転じて聖朝に帰化した。もと同祖の人々で、今は数姓に分かれている。そこで勅令により、史の姓は不比等と同音であるので、これを改めて皆が同姓を賜りたいと思う・・・。

そこで「桑原史・大友桑原史・大友史・大友部史・桑原史戸・史戸」の六氏に、同じく桑原直の氏姓を、「船史」には船直の氏姓を賜っている。

<余益人-余東人>
● 余益人・余東人(百濟朝臣)

「余」一族の出自は、書紀の天智天皇紀(669年)に「餘自信・佐平鬼室集斯等男女七百餘人、遷居近江國蒲生郡」に始ったと記載されている。

その後、續紀に余眞眞人・余秦勝・余仁軍余義仁・足人が登場している。陰陽に卓越した一族であったと伝えられている。ここでも陰陽師として、各地に派遣されていたことが伺える。

益人=谷間に挟まれた平らな台地が広がっている地の麓に谷間があるところと読み解けば、「秦勝」(元正天皇紀に優れた陰陽師として褒賞)の西側の場所が出自と推定される。より当時の地形を想起するために国土地理院航空写真1961~9年を用いた。この二人は親子関係であったと伝えられているが、申し分のない配置であろう。

頻出の東人=谷間を突き通すようなところと解釈すると、図に示した場所が出自と思われる。百濟からの亡命一族が子孫に高い教育水準を維持していたのであろう。百濟滅亡は、貴重な人的財産を日本にもたらしたように思われる。

そして、彼等に百濟朝臣の氏姓を与えている。百濟の「齋」=「三つの稲穂を台の上に乗せる様」と解説されている。齋宮齋=三つの高台が並び揃っている様と解釈した。纏めると百濟=丸く小高い地が連なった三つの高台が並び揃っているところと読み解ける。これが本来の「百濟」が示す地形なのである(古事記の百濟池、朝鮮半島の百濟も、おそらく)。見事に重ねられた表記であることが解る。

<高麗使主馬養-淨日>
● 高麗使主馬養・淨日(多可連)

天平勝寶二(750)年正月に背奈王福信等に高麗朝臣の氏姓を賜ったと記載されていた。武藏國高麗郡に居処を与えられた高麗系渡来人一族である。他に王仲文・高金藏・高麥太等もこの近隣に住まっていたと思われる。

元明天皇紀に武藏國秩父郡が和銅(自然銅)を献上し、それが元号の由来となったのだが、具体的な人物名は記載されていなかった。「高麗郡」の西側に位置する郡と推定した。

今回の人物は、「使主」姓であり、同じ高麗系であるが、また異なる一族であったと推測される。おそらく、この「秩父郡」を居処とする一族と推測されるが、地形象形表記として読み解いてみよう。

使主は、姓であるが、これも地形に基づく表現であろう。「使」=「人+中+又」=「谷間の真ん中を突き通す山稜の脇に手のような山稜がある様」であり、「主」=「山稜が真っ直ぐに延びている様」であるから、使主=谷間の真ん中を真っ直ぐに突き通す山稜の脇に手のような山稜があるところと解釈される。図に示したように秩父郡の山稜の一部を表していることが解る。

馬養は些か変形しているが、図に示した山稜を[馬](古文字)の形と見做し、その西側の谷間()を示していると思われる。淨日淨=水+爪+ノ+又=水辺で両腕のような山稜が取り囲んでいる様日=太陽のように丸く小高くなっている様と解釈したが、図に示した場所が出自と推定される。

多可連多可=山稜の端の三角州が谷間の出口になっているところと読み解ける。「秩父」=「手のような山稜の端が並ぶ麓で延びた山稜が交差しているところ」と解釈したが、その地形を表している。「多可=高」を重ねた表記であろう。「多可淨日」は、典侍として従四位下まで昇進されたようである。

<狛連廣足・狛淨成>
● 狛連廣足・狛淨成(長背連)

この人物も高麗系渡来人を祖とする一族と推測されるが、元明天皇紀に「授刀舍人狛造千金。改賜大狛連」と記載されていた。”大”が省略されたとすると、近隣が出自と思われる(こちら参照)。

廣足は、現在の天疫神社がある平らな高台の麓を表した名前と思われる。「千金」の北隣である。淨成は上記の「淨」と同じくとすると、淨成=水辺で両腕のような山稜が取り囲んでいる平らな台地のところと読み解ける。「千金」の南隣である。

賜った氏姓は長背=背後に長い山稜が延びているところと読み解けば、図に示したような地形をそのまま表現したものであろう。上記の「高麗」、そして「狛」と高麗系渡来人が各地に広がって居処としていたことを伝えている。改められた氏姓によって、日本に定着して行った様子を伺うことができる。

● 桑原史年足・桑原史人勝:桑原史・大友桑原史・大友史・大友部史・桑原史戸・史戸(桑原直)/船史(船直)

「桑原」の初見は、書紀の神功皇后紀に葛城襲津彥が新羅遠征時に捕虜とした漢人を住まわせた地の一つが「桑原」であったと記載されているが、それよりずっと以前に後漢人が渡来していたと上記で述べている。天武天皇紀に登場する「桑原連人足」や侍医の「桑原村主訶都」(こちら参照)は、捕虜であったかどうか別として、後に入植した人々だったようである。

いずれにせよ、大和(倭)國葛上郡に属する地である。申告者の桑原史年足の出自の場所を下図(左)に示した。既出の文字列である年足=谷間に稲穂のように延びる山稜の端が足のようになっているところと読み解ける。一方の申告者である近江國神埼郡(神前郡)の人、桑原史人勝人勝=谷間に盛り上がった地があるところと解釈すると、下図(右)に示した場所が出自と思われる。


更に、分派した氏名が「桑原史。大友桑原史。大友史。大友部史。桑原史戸。史戸六氏同賜桑原直姓。船史船直姓」と詳細に列挙されている。「桑原史」は、元々の氏名として葛上郡及び神埼郡に存在していたのであろうが、他の氏名は一体どちらに属していたのか?…少々悩ましいところである。

續紀編者の戯れのようで、”お分かりになりますか?”と・・・大友=平らな頂の山稜が仲良く並んで延びているところである。「神崎郡」の二つの山稜を表していると思われる。二つの史戸に「桑原」が付いてる方は、「葛上郡」であろう。即ち単に史戸となっている場所は「桑原」の地形ではないことを示している。掛け離れた氏名である船史は、「葛上郡」にある地形を表していると思われる。上図にそれぞれの氏名が示す場所を示した。

天智天皇紀に百濟からの亡命者達を近江國神前(埼)郡に一旦移住させるのであるが、間もなく近江國蒲生郡に配転させている。種々の理由があったかと思われるが、「桑原直」一族が思いの外に蔓延っていたのではなかろうか。なかなかに面白い読み解き結果となったようである。尚、国土地理院1961~9年航空写真を参照。

<桑原史年足-人勝(桑原直)>

秋七月癸酉。勅。東海。東山道問民苦使正六位下藤原朝臣淨弁等奏稱。兩道百姓盡頭言曰。依去天平勝寳九歳四月四日恩詔。中男正丁並加一歳。老丁耆老倶脱恩私。望請。一准中男正丁。欲霑非常洪澤者。所請當理。仍須憫矜。宜告天下諸國。自今以後。以六十爲老丁。以六十五爲耆老。甲戌。勅。比來皇太后寢膳不安。稍經旬曰。朕思。延年濟疾。莫若仁慈。宜令天下諸國。始自今日。迄今年十二月卅日。禁斷殺生。又以猪鹿之類。永不得進御。又勅。縁有所思。免官奴婢并紫微中臺奴婢。皆悉從良。」從七位上葛井連惠文。正六位上味淳龍丘。難波連奈良並授外從五位下。丙子。正六位上阿倍朝臣乙加志授從五位下。正六位上額田部宿祢三富。戸憶志。根連靺鞨。生江臣智麻呂。調連牛養。山田史銀並外從五位下。三富本姓額田部川田連也。是日。以額田部宿祢姓便書位記賜之。戊戌。勅。爲令朝廷安寧天下太平。國別奉冩金剛般若經卅卷。安置國分僧寺廿卷。尼寺十卷。恒副金光明最勝王經。並令轉讀焉。

七月三日に次のように勅されている・・・東海・東山両道の問民苦使の藤原朝臣淨弁(濱足に併記)等が[両道の人民等が口を揃えて申すのに、去る天平勝寶九歳四月四日の恩詔によって中男と正丁は、それぞれ年齢を一歳増し加えたが、老丁と老耆は共に恩恵から漏れた。非常の恩恵に浴することを望む]と奏して申した。申し請うことは、道理に叶っている。これは哀れんでやるべきである。そこで天下の國々に布告して、今より後は、六十歳は老丁とし、六十五歳は老耆とせよ・・・(調・庸の負担半減を一歳早めた)。

四日に次のように勅されている・・・この頃皇太后の健康が損なわれ、およそ十余日を経ている。朕が考えるに、寿命を延ばし、疾病を癒すには、仁慈の行いに勝るものはない。そこで天下の諸國に布告して、今日から今年の十二月三十日に至るまで、あらゆる殺生を禁断させよ。また、猪や鹿の類の肉を供御として貢進することを永久に禁じる・・・。

また次のように勅されている・・・思うところがあるので、官奴婢と紫微中台のもつ奴婢を解放し、全て良民とせよ・・・。「葛井連惠文」・「味淳龍丘」・難波連奈良(難波藥師)に外従五位下を授けている。

六日に阿倍朝臣乙加志(廣人に併記)に従五位下、「額田部宿祢三富」・「戸憶志」・「根連靺鞨」・生江臣智麻呂(安久多に併記)・調連牛養(馬養に併記)・「山田史銀」に外従五位下を授けている。「三富」の本姓は「額田部川田連」である。この日、額田部宿祢の氏姓を位記に書いて与えている。

二十八日に次のように勅されている・・・朝廷は安寧に、天下は太平になるように、國ごとに金剛般若経を三十巻書き写し奉り、その二十巻を國分僧寺に、十巻を尼寺に安置し、常に金光明最勝王経にそえて、それぞれ転読せよ・・・。

<葛井連惠文-根主-根道>
● 葛井連惠文

「葛井連」は、元は「白猪史」であり、養老四(720)年に「葛井連」姓を賜っている。寶然(骨)、その後阿麻留が遣唐使、廣成は遣新羅使と大陸との繋がりが深い一族と記載されていた。

”外”が付く叙爵であるが、途切れることなく人材輩出の地と思われる。備前・備中・備後國とされた、その備中國からは殆ど葛井連の氏姓を持つ人物のみが登場している。

直近では大成・諸會が外従五位下を叙爵されている。おそらく、その近傍が出自と思われるが、惠文が示す地形を読み解いてみよう。

既出の文字列である惠文=丸く小高い地を取り囲む山稜が交差するように延びているところと読み解ける。「寶然(骨)」の東側、「諸會」の北側に当たる場所と推定される。この後續紀に記載されることはなく、祖先のような役割を担うことはなかったようである。

後(淳仁天皇紀)に葛井連根主が外従五位下を叙爵されて登場する。既出の文字列である根主=山稜が根のように広がった先に真っ直ぐに延びた山稜があるところと読み解ける。「惠文」の北側に接する場所を表していると思われる。

また葛井連根道が罪を犯して隠岐國に配流されたと記載されている。後に赦免されるようだが、密告は恐ろしい、ようである。頻出の道=辶+首=首の付け根のように窪んだ様から、図に示した場所が出自と推定される。

<味淳龍丘>
● 味淳龍丘

この人物に関しては情報が全く欠落しているようである。勿論、名前からして渡来系であるが、それだけでは居場所を絞れる筈もなく、過去の関連する記述を思い起こすしか方法はない、と思われる。

そして、正六位上から外従五位下の叙位であり、それなりの実績も持ち合わせていた人物であることも伺える。

養老二(718)年四月に道君首名(道公首名)が亡くなり、事績が詳細に記載されていた。筑後守として赴任し、肥後守も兼ねていたのだが、これらの地域の民の生業を奨励し、多くの灌漑事業を行い(肥後國味生池など)、官人等も褒め称え、民は祠を造って偲んだと、と伝えている。

ここに「味」が示す地形があることを述べているのである。後に葦北郡とも呼ばれた地域でもある。味=山稜が途切れたところに通じる谷間の出入口と解釈した。現在の見坂峠に通じる谷間を表している。「峠」は漢語にはなく、「味(未)」が代用されている。史書が「峠」を如何に表現しているかを、未だかつて誰も考えなかった。峠だらけの日本列島なのだが・・・。

それは兎も角も、味淳龍丘の「淳」=「氵+享」と分解する。通常の文字解釈は、決して単純ではないようだが、地形象形的には、「享」は「郭」の原字として解釈する。すると「淳」=「水辺で取り囲まれた様」と解釈される。

纏めると味淳=山稜が途切れたところに通じる谷間の出入口にある水辺で取り囲まれたところと読み解ける。図に示した場所を表していると思われる。龍丘は、その山稜の端が盛り上がった()形を捩ったものであろう。「道君首名」に協力した、及び/又は、その後の開拓を促したのを認められたのであろう。この地域からの初登場の人物であった、と思われる。

<額田部宿祢三富>
● 額田部宿祢三富

「額田部宿祢」は『八色之姓』で「額田部連」が賜った氏姓であり、この人物は、本姓は「額田部川田連」であったと付記されている。

古事記で天照大御神と速須佐之男命の宇氣比で誕生した天津日子根命が祖となった額田部湯坐連の近隣と推定される。正に古い、と言うか由緒ある一族であるが、人材登用がなく、姓も改められなかったのであろう。

三富=三つの酒樽のような山稜が並んでいるところと解釈すると、図に示した場所が出自と思われる。川田は、三つの谷間からから流れる川に沿って田が並んでいたことを表している。現在の地図から川の様子を伺うのは難しいのであるが・・・。

續紀中に「額田部宿祢」の氏姓を持つ人物は、初見であり、また今後にも登場することがないようである。最新の文化・技術を携えた渡来人及びその後裔等の活用が目立つ時代だったと思われる。

<戸憶志・百濟安宿公奈登麻呂>
● 戸憶志

調べると百濟の昆支王の子孫が河内國安宿郡に住み着いて「飛鳥戸」の氏名を名乗ったと知られているようである。「安宿(ashuku)」と「飛鳥(asuka)」が類似する発音のようにも思われる。

それは兎も角、関連する名称が地形を表しているとして読み解いてみよう。すると、飛鳥(飛ぶ鳥)の地形を容易に見出すことができる。そのの部分が「戸」の役割を担っていると見做せる場所である。

憶志の「憶」=「心+意」=「閉じ込められたような地の中央にある様」と解釈される。「志」=「川が蛇行して流れる様」であり、纏めると憶志=閉じ込められたような地の中央を川が蛇行して流れているところと読み解ける。

国土地理院航空写真1961~9を参照すると、谷間の広がった奥に多くの棚田が作られていたことが伺える。多くの人々が住まっていたのであろう。尚、天平勝寶元(749)年閏五月に陸奥國小田郡産の金を冶金した左京人の戸淨山に叙位したと記載されていた。冶金に長けた渡来人と推測した。「戸憶志」とは全くの別系列と思われる。

後(称徳天皇紀)に百濟安宿公奈登麻呂が外従五位下を叙爵されて登場する。調べる、この人物の別名が数多くあったようである。幾つか例示すると、安宿公・飛鳥戸造・安宿戸造などがあり、「安宿」と「飛鳥」が繋がっていた、即ち安宿郡に飛鳥の地形があったことを示唆していることが分かった。

頻出の文字列である奈登=岐れて広がった二つの山稜の谷間の前が平らな高台になっているところと読み解ける。図に示した場所が出自と推定される。別名に奈止麻呂奈杼麻呂などが知られている。いずれも、その場所の地形を表しているように思われる。

<根連靺鞨・山田史銀-廣名>
● 根連靺鞨

「根連」は、『壬申の乱』において天武天皇が吉野脱出して桑名・不破に向かう途中で合流した大津皇子に従った者の一人(金身)が登場していた。

古事記の若倭根子日子大毘毘命(開化天皇)に含まれる「根」の地を居処とする一族と推定した。現地名は田川郡赤村内田門前辺りである。

靺鞨の文字列は既出であり、靺鞨=角ののような山稜の端で閉じ込められたところと解釈した。幾つかの例があるが、元正天皇紀に記載された靺鞨國を挙げておこう(現地名は北九州市門司区田野浦)。その地形を「金身」の西側に見出すことができる。

● 山田史銀 橘奈良麻呂の謀反に関わって、折角賜った「山田三井宿祢」の氏姓を剥奪され、元の「山田史女嶋」に戻されたと記載されていた。とは言え、謀反の中心人物であったわけでもなく、その一族からの登用だった、些か温情も加味されていたのかもしれない。「銀」を名前に用いるのは珍しいのであるが、古事記に登場する銀王に用いられている。大帶日子淤斯呂和氣命(景行天皇)の子、大江王が娶った庶妹と記載されている。

あらためて文字解釈を行うと、「銀」=「金+艮」と分解される。「艮」は「眼」に含まれる文字要素である。地形象形表記として、銀=三角に尖った山稜が谷間に埋め込まれたように延びている様と読み解ける。「眼」の地形象形である。図に示した場所がこの人物の出自と推定される。

後(淳仁天皇紀)に別名白金と記載され、「連」姓を賜っている。白金=三角に尖った山稜がくっ付いているところと読み解けるが、どうやら二段重ねなっている様を表現していると思われる。なかなかに巧みな表記を行ったようである。

それと同時に山田史廣名が「造姓」を賜っている。同祖の一族なのだが、時が経って系譜は大きく異なっていたのであろう。廣名=山稜の端の三角州が広がっているところであり、図に示し辺りが出自と思われる。

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『續日本紀』巻廿巻尾