淳仁天皇即位前紀:廃帝の諱は大炊王、天渟中原瀛眞人天皇(天武)の孫で、舎人親王の第七子である。母は「當麻」氏で、名は「山背」、上総守の「老」の娘である(こちら参照)。帝が譲位された日、正三位を授け、後には尊んで大夫人(オオミオヤ)と称することとした。天平勝寶八歳(756年)、皇太子の道祖王は、喪に服する期間中、哀悼の心がなかった。そのため九歳(757年)三月二十九日に、高野天皇(孝謙:「高野」は阿倍の別表記)と光明皇太后は、右大臣の藤原朝臣豊成、大納言の藤原朝臣仲麻呂、中納言の紀朝臣麻路(古麻呂に併記)・多治比眞人廣足(廣成に併記)、攝津大夫の文屋眞人智努(文室)等と共に、宮中で策を練り、皇太子を止めさせ、王の身分として私邸に返した。これより先、大納言の藤原朝臣仲麻呂は、大炊王に亡き息子眞從の妻であった粟田諸姉(馬養に併記)を娶せ、私邸(田村第)に居住させていた。そして四月四日になって遂に大炊王を田村第から迎えて皇太子とした。時に二十五歳であった。
天平寳字二年八月庚子朔。高野天皇禪位於皇太子。詔曰。現神御宇天皇詔旨〈良麻止〉詔勅〈乎〉親王諸王諸臣百官人等衆聞食宣。高天原神積坐皇親神魯弃神魯美命吾孫知食國天下〈止〉事依奉〈乃〉任〈尓〉遠皇祖御世始〈氐〉天皇御世御世聞看來天日嗣高御座〈乃〉業〈止奈母〉隨神所念行〈久止〉宣天皇勅衆聞食宣。加久聞看來天日嗣高御座〈乃〉業〈波〉天坐神地坐祇〈乃〉相字豆奈〈比〉奉相扶奉事〈尓〉依〈氐之〉此座平安御座〈氐〉天下者所知物〈尓〉在〈良自止奈母〉隨神所念行〈須〉。然皇〈止〉坐〈氐〉天下政〈乎〉聞看事者勞〈岐〉重〈弃〉事〈尓〉在〈家利〉。年長〈久〉日多〈久〉此座坐〈波〉荷重力弱〈之氐〉不堪負荷。加以掛畏朕婆婆皇太后朝〈尓母〉人子之理〈尓〉不得定省〈波〉朕情〈母〉日夜不安。是以此位避〈氐〉間〈乃〉人〈尓〉在〈氐之〉如理婆婆〈尓波〉仕奉〈倍自止〉所念行〈氐奈母〉日嗣〈止〉定賜〈弊流〉皇太子〈尓〉授賜〈久止〉宣天皇御命衆聞食宣。是日。皇太子受禪即天皇位於大極殿。詔曰。明神大八洲所知天皇詔旨〈良麻止〉宣勅親王諸王諸臣百官人等天下公民衆聞食宣。掛畏現神坐倭根子天皇我皇此天日嗣高御座之業〈乎〉拙劣朕〈尓〉被賜〈氐〉仕奉〈止〉仰賜〈比〉授賜〈閇波〉頂〈尓〉受賜〈利〉恐〈美〉受賜〈利〉懼進〈母〉不知〈尓〉退〈母〉不知〈尓〉恐〈美〉坐〈久止〉宣天皇勅衆聞食宣。然皇坐〈氐〉天下治賜君者賢人〈乃〉能臣〈乎〉得〈氐之〉天下〈乎婆〉平〈久〉安〈久〉治物〈尓〉在〈良之止奈母〉聞行〈須〉。故是以大命坐宣〈久〉。朕雖拙弱。親王始〈氐〉王臣等〈乃〉相穴〈奈比〉奉〈利〉相扶奉〈牟〉事依〈氐之〉此之仰賜〈比〉授賜〈夫〉食國天下之政者平〈久〉安〈久〉仕奉〈倍之止奈母〉所念行〈須〉。是以無謟欺之心以忠赤之誠食國天下之政者衆助仕奉〈止〉宣天皇勅衆聞食宣。辞別〈氐〉宣〈久〉。仕奉人等中〈尓〉自〈何〉仕奉状隨〈氐〉一二人等冠位上賜〈比〉治賜〈夫〉。百官職事已上及太神宮〈乎〉始〈氐〉諸社祢宜祝〈尓〉大御物賜〈夫〉。僧綱始〈氐〉諸寺師位僧尼等〈尓〉物布施賜〈夫〉。又百官司〈乃〉人等諸國兵士鎭兵傳驛戸等今年田租免賜〈久止〉宣天皇勅衆聞食宣。」授從三位石川朝臣年足正三位。正四位上船王。他田王。氷上眞人鹽燒並從三位。正四位下諱〈平城宮御宇高紹天皇〉正四位上。无位菅生王從五位下。從四位下藤原朝臣巨勢麻呂。佐伯宿祢毛人並從四位上。正五位上藤原朝臣御楯從四位下。正五位下粟田朝臣奈世麻呂正五位上。從五位下阿倍朝臣子嶋。紀朝臣伊保。石川朝臣豊成。藤原朝臣眞光。當麻眞人淨成並從五位上。外從五位上文忌寸馬養。正六位下菅生朝臣嶋足。佐伯宿祢御方。笠朝臣眞足。穂積朝臣小東人。阿倍朝臣意宇麻呂。中臣朝臣毛人。縣犬養宿祢吉男。紀朝臣牛養。大伴宿祢東人。藤原朝臣楓麻呂。大野朝臣廣言。正六位下藤原朝臣久須麻呂。從六位上石川朝臣廣成並從五位下。正六位上山邊縣主男笠。宍人朝臣倭麻呂。辛小床。大和宿祢斐大麻呂。宇自賀臣山道。忌部首黒麻呂並外從五位下。」又授正四位上河内女王從三位。正五位上當麻眞人山背正三位。无位奈貴女王從四位下。无位伊刀女王。垂水女王。正六位上内眞人絲井。无位粟田朝臣諸姉。藤原朝臣影並從五位下。外大初位上黄文連眞白女。上道臣廣羽女。從六位上爪工宿祢飯足並外從五位下。是日。百官及僧綱詣朝堂上表。上上臺中臺尊號。其百官表曰。臣仲麻呂等言。臣聞。星廻日薄。懸象著明。之謂天。出震登乾。乘時首出。之謂聖。天以不言爲徳。非言無以暢其神。聖以無名體道。非名安可詮其用。冬穴夏巣之世。猶昧典章。雲官火紀之君。方崇徽號。寔乃發揮功業。闡揚尊名。名之爲義。其來尚矣。伏惟。皇帝陛下。臨馭天下。十有餘年。海内清平。朝廷无事。祥瑞頻至。寳字荐臻。乃聖乃神。允文允武。諒無得而稱焉。曁乎國絶皇嗣。人懷彼此。降天尊於人願。鳴謙克光。損乾徳於坤儀。鴻基遂固。展誠敬而追遠。攀慕惟深。勤温清以承顏。因心懇至。故有九服宅心。咸荷望雲之慶。萬方傾首。倶承就日之輝。皇太后叡徳上昇。善穆儷天之位。深仁下濟。爰昭法地之猷。日月於是貞明。乾坤以之交泰。遂乃欽承顧命。議定皇儲。弃親擧踈。心在公正。實在志於天下。永無私於一己。既而遊神惠苑。體三空之玄宗。降迹禪林。開一眞之妙覺。大慈至深。建藥院而普濟。弘願潜運。設悲田而廣救。是以煙浮震幄。寳籙呈祥。蟲彫藤枝。禎文告徳。遂使百神恊賛。天平之化不窮。黎元樂推。地成之徳逾遠。臣等入參帷扆。出廁周行。鳴珮曳綸。綿積年祀觀斯盛徳。戴斯昌化。臣子之義。何無稱賛。人欲而天必從。狂言而聖尚擇。謹據典策。敢上尊號。伏乞。奉稱上臺寳字稱徳孝謙皇帝。奉稱中臺天平應眞仁正皇太后。上恊天休。傳鴻名於萬歳。下從人望。揚雅稱於千秋。不勝至懇踊躍之甚。謹詣朝堂。奉表以聞。」僧綱表曰。沙門菩提等言。菩提聞。乾坤高大覆載。以之顯功。日月貞明照臨。由其甄用。至於混群有而饒益。撫萬物而曲成。獨標十号之尊。式崇四大之極。故能徽猷歴前古以不朽。妙迹流後葉而恒新。然則表徳稱功。莫不由於名號。伏惟。皇帝陛下乃聖繼聖。括六合而承基。乃神襲神。環四溟而光宅。期政道於刑措。駈懷生於仁宜。追遠之孝尤重。錫類之徳弥厚。不以逸遊爲念。俯以。謙卑在懷。瑞蚕藻文。薦聖壽之遐祉。寳字結象。開皇基之永昌。皇太后遊心五乘。棲襟八正。化侔應供。道双至眞。發揮神化之丹青。抑揚陶甄之鎔範。正慮獨斷。搜離明於舜濱。深仁幽覃。浮赤文於尭渚。故能遠安近。至治美於成康。治定功成。無爲盛於軒昊。固足以垂顯號建嘉名。軼三五而飛英。超八九而騰茂者也。陛下謙讓。推而不居。菩提等竊疑焉。菩提等逖察前徽。緬鏡遐載。隨時立制。權代適宜。皇王雖殊。其揆一也。菩提等不勝丹款之誠。謹上尊號。陛下稱曰寳字稱徳孝謙皇帝。皇太后稱曰天平應眞仁正皇太后。伏願。陛下皇太后。抑謙光之小節。從梵侶之讜言。庶使蟠木之郷。燭龍之地。問號仰澤。聽聲傾光。凡厥在生。誰不幸甚。沙門菩提等不任下情。謹奉表以聞。」詔報曰。朕覽卿等所請。鴻業良峻。祗畏允深。忝以寡薄。何當休名。而上天降祐。帳字開平。厚地薦祥。蚕文表徳。竊惟此事。天意難違。俯從衆願。敬膺典礼。号曰寳字稱徳孝謙皇帝。又見上皇太后之尊号。感喜交懷。日興忘倦。任公卿之所表。從耆緇之所乞。策曰天平應眞仁正皇太后。受此推新之号。何无洗舊之令。宜改百官之名。載施寛大之澤。其天下見禁囚徒。罪無輕重咸從放免。其依先格。放却本土。无故不上之徒。悉還本司。又自天平寳字元年已前監臨自盜。盜所監臨。及官物欠負未納悉免。天下諸國隱於山林清行逸士十年已上。皆令得度。其中臣忌部。元預神宮常祀。不闕供奉久年。宜兩氏六位已下加位一級。其大學生。醫針生。暦算生。天文生。陰陽生。年廿五已上授位一階。其依犯擯出僧等戒律無闕。移近一國。」其大僧都鑒眞和上、戒行轉潔、白頭不變。遠渉滄波、歸我聖朝。号曰大和上。恭敬供養。政事躁煩。不敢勞老。宜停僧綱之任。集諸寺僧尼。欲學戒律者。皆属令習。」又勅曰。内相於國。功勳已高。然猶報効未行。名字未加。宜下參議八省卿博士等。准古正議奏聞。不得空言所。無濫汗聽覽。辛丑。外從五位下僧延慶。以形異於俗。辞其爵位。詔許之。其位祿位田者有勅不收。」授外從五位下山口忌寸佐美麻呂從五位下。正六位上茨田宿祢牧野外從五位下。癸夘。以從五位下笠朝臣眞足爲伊勢介。正五位下大伴宿祢犬養爲右衛士督。丙午。増宮人職員。事在別式。
八月一日に高野天皇(阿倍内親王)は皇位を皇太子(大炊王)に譲り、次のように詔されている(以下宣命体)・・・現つ御神として天下を統治されている天皇の詔旨として宣べ聞かせられるお言葉を、親王・諸王・諸臣・百官の人達、皆承れと申し渡す。高天原に神としておられた、天皇の遠祖である男神・女神が、我が子孫の統治すべき天下であると御委任になった通りに、遠い皇祖の御世から始まり天皇が代々統治されて来た天つ日嗣高御座の業(皇位)であると、神の身として思うと宣べられる天皇のお言葉を皆承れと申し渡す。---≪続≫---
このようにお治めになってきた天つ日嗣高御座の業は、天におられる神、地におられる神が尊いものとして扶けられたことによって、その位には平らかに安らかにいることができ、天下は納められるものであるらしいと、神の身として思う。ところで天皇として天下の政治をみることは、ほんとうに労苦の多いことである。年長く日数多くこの位にいることは、荷が重く力も弱く、堪えかねることである。それだけではなく、口に出すのも畏れ多い、朕の母上である皇太后に対しても、人の子の当然すべき孝養を尽くせないので、朕の心情は日夜安まることがない。そこでこの位を退いて暇ある身となり、母上へ子として当然のお仕えをしたいと思い、日嗣と定めた皇太子に皇位を授ける、と宣べられる天皇のお言葉を、皆承れと申し渡す・・・。
この日、皇太子は皇位を譲られて、大極殿において天皇の位に即き、次のように詔されている(以下宣命体)・・・現つ御神として大八州を統治されている天皇の詔旨として宣べ聞かせられるお言葉を、親王・諸王・諸臣・百官の人達、天下の公民達、皆承れと申し渡す。---≪続≫---
口に出すのも畏れ多い、現つ御神であられる倭根子天皇、我が大君が、この天つ日嗣高御座の業を拙く劣っている朕に授けられ、天下の政治に当たるようにと仰せられ、皇位を授けられたので、頭上に頂いてお受けいたし、恐懼し、進むことも退くこともできずに恐れ入っている、と宣べられる天皇のお言葉を、皆承れと申し渡す。---≪続≫---
さて、天皇として天下を統治する君主は、賢明で能力のある臣下の補佐を得て。天下を平らかに安らかに統治できるものであるらしい、と聞いている。故に、これは天皇の命令として申し渡すのであるが、朕は拙く劣っているけれども、親王達を初め、諸王・諸臣の補佐と援助によってこそ、命じられ授けられた天下の統治ということに、平らかに安らかに仕えることができると思う。そこで諂ったり欺く心なく、忠誠心をもって、天下の統治を、皆が助け仕えてくれるように、と宣べられる天皇のお言葉を、皆承れと申し渡す。---≪続≫---
言葉を改めて宣べられるには、仕え申し上げる人達のなかで、その勤務態様に従って、一人、二人の位階を上げるよう取り計らいをする。百官のうち定まった官職をもつ者以上と、伊勢大神宮を初めとして諸神社の禰宜・祝に天皇の物を与える。僧綱を初めとして諸寺の師位の僧尼達には布施の物を与える。また、全官司の人達、諸國の兵士、鎮兵、伝駅戸などには、今年の田租を免除する、と宣べられる天皇のお言葉を、皆承れと申し渡す・・・。
この日、百官と僧綱が朝堂に参内して上表文を奉り、孝謙天皇に上台、光明皇太后に中台の尊号を奉っている。その百官の上表文で以下のように述べている・・・臣仲麻呂等が言上する。臣が聞くところによると、星が回り太陽が近付き、天体の様子が明白であるのを「天」といい、初めは萌芽状態でありながら、やがて天に登り、時運に乗じて首座に出るのを「聖」という。天は物言わぬことを以って徳とするが、言葉によらなければその精神を述べることはできない。聖は名も無いままに道を体現するが、名前がなければどうしてその動きを明らかにすることができようか。---≪続≫---
冬は穴ぐらにいて、夏は樹上に住んだ上古の時代には、まだ制度文物が発達していなかったが、雲官や火紀の君(黄帝・炎帝)の時代には、尊号を崇ぶようになった。まことにこれは、功績を明らかにし尊名を宣揚するものであり、名前の意義たるや、その来歴は久しいものである。---≪続≫---
謹んで考えるに、皇帝陛下は君主として天下に臨まれ十有余年になるが、国内は清らかに治まり、朝廷には大事もなく、祥瑞が頻りに現れ、吉祥の文字も度々現れている。これこそまさに聖、まさに神であり、文武の徳を兼ね備えているというべきであろう。本当にお称えするのに言葉がない。---≪続≫---
ところで国家に皇位の継承者が途絶えると、人々はあれこれと思い巡らすものである。尊い地位にありながら人民の願いを容れて皇嗣を決め、よく謙譲の德を発揮され、天の德の一部を施して、大いなる国家の基をついに固められた。真心と慎みをもって、祖先を追慕され、その心は深いものがあり、母の身辺に気を配り、その意に添うようにして親愛の情をよく表されている。それ故天下の人々は心を寄せ、みな立派な君主を戴く喜びをもち、全国の民が慕いよって、天子の輝きに浴している。---≪続≫---
また、皇太后は、その大いなる德が上に昇っては、天と並ぶべき皇后の位とよく調和し、深い仁愛を下に成就されて地に則る道を明らかにされている。そのため日月の運行は常に正しく、天地はお互いに通じあって安泰である。遂には謹んで聖武太上天皇の遺詔を承り皇位の継承者を定められるのに、近親を捨て、疎遠な者を取り立てて、公正な心を示された。まことに天下の事を思われたのであって、将来とも自分一人のことを考える方ではない。---≪続≫---
また、これまでも精神を仏教の世界に遊ばせて三空の奥深い道理を体現され、仏の教えを学ばれて唯一究極の悟りを開かれた。広大な慈悲心はとても深く、施薬院を建てて普く救済され、人民を救おうという弘い願いを潜にめぐらし、悲田院を設けて広く救済された。太上天皇、皇太后がこのようであるため、煙が宮の帷に浮かんで、尊い予言がめでたい印を現し、虫が藤の枝を彫ってできた吉祥の文字はお二人の德を告げた。ついには全ての神が力を合せて助け、天をも平らかにする徳化は窮まることなく、人民も楽しみ推挙し、大地を安定させる徳化はいよいよ永遠のものとなるであろう。---≪続≫---
臣等は、宮に入っては帝座に参り、退出しては朝臣の位に列し、腰には佩玉を下げ綬を帯び、遥かに年月を重ねて来た。このように盛んな德を見、昌んな教化を受けると、臣下の努めとしてどうして称賛せずにおられであろうか。人の欲むところに天は必ず従い、たとえ狂人の言であっても聖人はそれを採用される。謹んで古典に基づいて、あえて尊号を奉る。孝謙太上天皇を上台寶字称徳孝謙皇帝と申し上げ、光明皇太后を中台天平応眞仁正皇太后ろ申し上げるよう、伏してお願いする。---≪続≫---
上は天の称賛するところに叶って大いなる名を永劫に伝え、下は人望に従ってよい称号を永遠に賞揚したいと思う。真心が躍り上がりたいほどであるのを押さえかね、謹んで朝堂に参上し上表文を申し上げる・・・。
僧綱の上表文は以下のようである・・・沙門菩提等が言上する。菩提が聞くところによると、天地は高大にして万物を覆い載せることによって、その働きをあらわしており、日月は正しく明らかに照らすことによって、その働きを明らかにしている。あらゆる生き物を混在させて豊饒にし、万物を慈しんで全てを成長させる。このような中で一人十種の尊号で表現され、四大(地水火風)の極致として尊崇されている。そのために、うるわしい計りごとは歴史を経て朽ちることなく、よき事績は後世に伝えられて常に新しくあることができる。故に徳化を表し功績を称えるのに、名号によらないということはない。---≪続≫---
伏して考えるに、皇帝陛下は聖人として古の聖賢のあとを継ぎ、天地四方を統轄して基を受け継がれ、また神として神格を相承し、四海を巡って天下を治められている。政治の方法は刑罰が執行されないことを目指し、全ての生物に仁や正義を及ぼそうとされている。先祖を慕う孝の心はもっと重く、孝行な子孫を残す德はいよいよ厚くて、安逸を求めようとは考えておられない。---≪続≫---
伏して考えるに、謙虚さを心に持っておられるからこそ、めでたい蚕によって表れた美しい文字が、聖上の寿命の永遠であることを示し、めでたい文字の形が、皇室の基礎の永久に栄えることを表したのである。皇太后は、衆生を彼岸へ運ぶ五つの教えに思いを致し、仏道修行の八つの方法を心掛けている。その指導は応供(釈迦の別号の一つ)に等しく、道とするところは至眞(阿羅漢)に並んでいる。麗しい立派な感化を発揮され、秩序正しく人民を導かれた。正しい思慮と独自の決断は、舜帝が河浜で賢人を捜されたのに匹敵し、大いなる愛が深く及ぶ様は、堯帝が渚に河図を見出されたようなものである。---≪続≫---
それ故に、遠方に働きかけ近辺を安んじて、この上なく天下のよく治まることは、周の成王や康王よりも優れ、政治安定の功成って、無為にして治まることは、黄帝軒轅氏や少昊金天氏よりもさかんである。まことに顕かな称号をおくり嘉い名をたててこそ、三皇五帝(こちら参照)を超えて英声を広め、七十二弟子(釈迦の)を超えて立派な人を推挙するに十分と申すことができる。---≪続≫---
ただ、陛下は謙虚であられ、尊号を推めても受け入れられない。菩提等は内心で次のように思いを巡らせた…[菩提等が遠きよき前例を調べ、はるかに過ぎた年月に鑑みて、時世に従って制度を立て、時代を測って時宜にかなおうとすることは、皇帝が異なっても変わらない事実である]…。菩提等は忠誠の心を押さえることができず、謹んで尊号を奏呈する。陛下を称して寶字称徳孝謙皇帝と申し上げ、光明皇太后を称して天平応眞仁正皇太后を申し上げる。---≪続≫---
伏して願うところは、陛下と皇太后が謙譲という小さな節操を抑えられ、僧侶の直言を聞き入れられることを。曲がりくねった木の生える郷や 竜の住む地が、尊号を尋ねきいて恩沢に浴し、名声を聞いて、その光に心を寄せるよう冀う。実現すればおよそ生命のあるもので、誰が幸いでないであろうか。沙門菩提等は、その思いに堪えず、謹んで上表文を奉って申し上げる・・・。
上皇が応えて次のように詔されている・・・朕は卿等の請うところをみて感ずるのであるが、大いなる統治はまことにけわしく、謹み畏れる心はまことに深い。勿体なくもこの德の薄い身で、どうしてめでたい称号に相応するだろうか。けれども天は佑助を下し、帳に表れた文字は平安の世を開き、大地は祥瑞を出し、蚕の文字は德を表現している。---≪続≫---
密かにこの事を考えてみると、天の意志を無視することはできない。皆の願いを聞き入れ、敬んで典礼に従おう。朕を寶字称徳孝謙皇帝と号せよ。また皇太后に奉る尊号をみると、感動と喜びがこもごも至り、日ごとに新たで倦むことはない。公卿等の上表するところにまかせ、宿德の僧等の請うところに従って、策命して天平応眞仁正皇太后と称しよう。---≪続≫---
さて、このような新たにすすめられた尊号を受けながら、どうして旧習を一新する法令がなくてよかろうか。宜しく百官の名称を改めて寛大な恩沢を施すべきである。天下の現在禁獄されている囚徒は、罪の軽重を問わず、悉くみな放免せよ。先の格によって本國に返され、理由なくして勤務していない者は、皆本司に帰すようにせよ。また、天平寶字元年より以前に、監督者でありながら盗みをした者、管理下の官物を盗んだ者、更に官物の不足分を納めていない者についても、皆許すようにせよ。---≪続≫---
天下諸國の山林に隠れて清浄な修行に励む隠者で十年以上を経た者は、皆得度させよ。中臣・忌部氏は、元来伊勢太神宮の恒例の祭祀に関わって奉仕を重ね長年になる。そこで両氏の六位以下の者に位一階を加えよ。大学生・医生・針生・暦生・算生・天文生・陰陽生で二十五歳以上の者には位一階を授けよ。罪を犯して僻遠の地に配流された僧侶であっても、戒律を守ることを怠らない者については、一國だけ都に近い國に移すようにせよ。---≪続≫---
大僧綱の鑒眞(鑑眞)和上は、戒律を持することがとても潔癖で、白髪の老境になっても変わることがない。遠く海を渡って我が朝に帰化した。そこで大和上と号して恭しく供養し、政治の煩雑さで老躯を労することのないように僧綱の任を解くべきである。また、諸寺の僧尼を集め、戒律を学ぼうと望む者は、大和上に就いて学習させるようにせよ・・・。
また、次のように勅されている・・・紫微内相(藤原朝臣仲麻呂)は、国家に対する勲功が立派である。しかしなお、それに報いる処遇は行われていないし、勲功にみあう姓名も未だ加えられていない。そこで参議・八省の卿・博士等に命じて、古例に準じて正しく議論させ、相応しい姓名を奏上するようにせよ。勅の言うところを空しくすることのないように、天皇の叡慮を乱すことのないようにせよ・・・。
二日に僧延慶は出家の身であるため形貌が俗人とは異なるので、その位階を辞退している。詔されて許されたが、その位禄・位田は勅があって収公しなかった。山口忌寸佐美麻呂(父親田主に併記)に従五位下を、茨田宿祢牧野に外従五位下を授けている。四日に「笠朝臣眞足」を伊勢介に、大伴宿祢犬養(三中に併記)を右衛士督に任じている。七日に後宮の女官の員数を増やしている。詳細は別式に記されている。
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<菅生朝臣嶋足-忍人-恩日> |
● 菅生朝臣嶋足
「菅生朝臣」一族は既に幾人かが登場しているが、聖武天皇紀に古麻呂が外従五位上から内位の従五位下に叙爵されていた。現在の田川郡福智町伊方の伊方川の東岸に沿った地域を出自と推定した。
今回登場の嶋足は初見で内位の従五位下と記載され、神祇に関わる一族として認知度が高まって来たのであろう。
嶋足=山稜が鳥の足のような形をしているところと解釈すると、図に示した場所が出自と思われる。「古麻呂」の南側に当たる場所である。
少し後に菅生朝臣忍人が、同じく従五位下を叙爵されて登場するが、忍人=谷間の山稜がギザギザと突き出ているところと解釈すると、「嶋足」の東側が出自と推定される。その後に登場されることはないようである。
更に後(桓武天皇紀)に菅生朝臣恩日が従五位下を叙爵されて登場する。恩日=太陽のような丸く小高い地が覆い重なるようなところと解釈される。図に示した場所が出自と推定される。その後の消息は不明である。
彼等が蔓延る山稜の端は久米連の居処と推定した。猛接近中であるが、果たして如何なる配置になることやら・・・である。
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<佐伯宿祢御方> |
● 佐伯宿祢御方
初見で内位の従五位下を叙爵されているのだが、系譜は不詳のようである。また、續紀での登場も唯一この場面のみであって、情報が極めて少ない人物でもある。
名前が頼りの出自場所探索になるのだが、この狭い谷間も随分と配置済みとなって、些か戸惑うところである。
既出の文字列である御方=耜のような山稜を束ねたところと解釈すると、図に示した場所が見出せる。「佐伯宿祢」一族は、「大伴」の谷間の西側の斜面に広がったのであるが、唯一大目の出自を東側の斜面に推定した。その並びの地、今までに全く登場することのなかった地である。
續紀の叙位は、それぞれの地の空白部を居処とする多くの人物を登場させている。地形象形表記としての地名・人名の再確認に極めて有用な記述と思われる。可能な限りに各々のピースを埋めて行こうかと思う。
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<笠朝臣眞足-江人> |
● 笠朝臣眞足
「笠朝臣」は途切れることなく登場しているが、孝謙天皇紀には初見の人物はなく、聖武天皇紀に三助・蓑麻呂が外従五位下を叙爵されている。
当時の外位は、例の叱咤激励の意味合いがあり、当時に系譜が不詳であったのではないようである。いずれにしても、極めて狭い地域からの人材登用だったと推測される。
眞足=足の形をした山稜の端が寄せ集められた窪んだところと解釈すると、図に示した場所が出自と推定される。三助の北側に位置する。
息子に笠朝臣江人がいたと知られている。江人=谷間の水辺で窪んだところと解釈すると父親の北側の場所が出自と思われる。「眞足」の情報は皆無であるが、續紀によると「江人」は、地方官の任官など今後幾度か登場されるようである。
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<紀朝臣牛養> |
● 紀朝臣牛養
最初に気付かされるのが、頻出の名前である「牛養」を持つ人物が「紀朝臣」には登場していなかったことである。長く延びた山稜及び枝分かれした山稜が作る多くの谷間があり、「牛養」と命名しても何ら不思議ではない地形の地域であろう。
また、一方で「紀」の由来は、古事記では「木」であり、その最も特徴的な場所に木國之大屋毘古神が坐していたと推定した。その地を出自とする具体的な人名は、舒明天皇紀に紀臣鹽手が登場して以後、皆無であった。
「紀朝臣」の遠祖の地に、牛養=牛の頭部のように延びた山稜に囲まれて谷間がなだらかに延びているところの地形を見出せる。調べると別名として牛甘=牛の頭部が[舌]のような形をしているところと称していたようである。別名によって、より確実な場所になったように思われる。
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<大伴宿祢東人> |
● 大伴宿祢東人
漸くにして素性の知られた人物の登場のようである。祖父が「咋」(咋子。「金村」の子)、大臣「長德」、『壬申の乱』の功臣である「馬來田・吹負」が兄達であった「眞廣」の子であった(こちら参照)。
正に「大伴宿祢」一族の奔流に位置することになる。父親の「眞廣」の事績が記紀・續紀を通じて記載されることがなく、年が離れた末っ子であって、兄達の子等の登場より、大幅に遅れたのではなかろうか。
眞廣=広がった地が寄り集まった窪んだところと読むと、図に示した辺りが出自と推定される。他の兄弟とは、全く異なる方に向かったようである。現在はダムの湖底に沈んでいるのだが。頻出の東人=谷間を突き通すようなところであるから、図に示した辺りが出自と思われる。「大伴」の谷間と同様に多くの棚田が開拓されていたことが伺える。
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<大野朝臣廣言(立)-仲仟> |
● 大野朝臣廣言
「大野朝臣」一族は、「果安」の子、「東人」が多くの武勲を立てて、續紀での登場も多い(最終従三位/参議、出自はこちら参照)。「果安」は、壬申の乱において吹負を打ち負かした相手として記載されていた。有能な武将の血筋だったのであろう。
既に「横刀」が登場しているが、その兄弟に「廣立・葦足・仲仟」がいたと知られているいるが、廣言の表記は見当たらない。
「言」を人名に用いた例は極めて限られていて、思い出されるのが古事記の葛城之一言主大神であり、「一言」=「総ての耕地」と紐解いた。「言」=「辛+囗」=「大地を耕地にする様」と解釈する。廣言は、この解釈では、極めて曖昧な意味となり、元に戻って、廣言(辛+囗)=広がった大地が刃物のような形をしているところを表すとしたのであろう。
すると「東人」の東側で谷間が岐れた場所に、その地形が見出せる。地形象形表記としては問題がないのであるが、「言」は記紀・續紀を通じて「耕地」を表す文字とされている。即ち、別名として廣立=広がった地(谷間)が並んでいるところと称するようになったのではなかろうか。
後に左大臣藤原朝臣永手の室となる大野朝臣仲仟(最終正三位)が登場する。仲=人+中=谷間を突き通す様、仟=人+人+一=二つの谷間を束ねる様と解釈すると、図に示した場所が出自と推定される。
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<山邊縣主男笠> |
● 山邊縣主男笠
「山邊」の初見は、古事記の御眞木入日子印惠命(崇神天皇)の山邊道勾之岡上陵であろう。通説では、”山辺の道”とされている地である。勿論、見当違いの場所である。
それは兎も角も、同じく伊久米伊理毘古伊佐知命(垂仁天皇)紀に山邉之大鶙なる人物が登場する。更に書紀では天武天皇紀に山邊君安麻呂が登場している。
即ち、古くから開かれた地ではあるが、人材の登用は決して多くはなかったようである。大坂山・愛宕山山稜の南麓に位置する地域と推定した。
男笠=[男]の地形の先が[笠]のようになっているところと解釈される。図に示した山稜の麓が出自と思われる。「縣主」は、その山稜が広がって長く延びている様子を表していると思われる。上記でも述べたように、空白部を埋める叙位であろう。
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<宍人朝臣倭麻呂-繼麻呂> |
● 宍人朝臣倭麻呂
「宍人朝臣」は、天武天皇紀の『八色之姓』で朝臣姓を賜っている。具体的な人名は、忍壁皇子等を産んだ木殻(カヂ)媛娘の父親が大麻呂であったと記載されていた(こちら参照)。
「膳臣(高橋朝臣)」の東側に位置する地域であり、同祖の一族(古事記の大毘古命の後裔)であったと推定したが、この地からの人材の登用は皆無であった。
あらためて宍人=谷間に小高く盛り上がった地があるところと解釈しすると、その特徴的な地形を戸城山の北麓に見出すことができる。「鳥獣の肉を料理する職業部(品部)」に関わる一族と解釈していては、混迷から抜け出すことは叶わないであろう。
頻出の倭=人+禾+女=谷間の傍らを山稜が嫋やかに曲がって延びているところであり、図に示した場所が倭麻呂の出自と推定される。續紀に再度登場されることはないようである。その東側に宍人造老は、後に連姓を賜っており、また別の一族であったようである。「宍人連」は、記紀・續紀を通じて記載されることはない。
ずっと後(光仁天皇紀)になるが、宍人朝臣繼麻呂が従五位下を叙爵されて登場する。宍人朝臣一族を纏めた図として掲載した。繼=途切れかかった山稜が繋がれたように延びている様と解釈すると、図に示した場所が出自と推定される。
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<辛小床> |
● 辛小床
関連する情報が全く見当たらず、朝鮮半島において現在でも多くの人々が名乗る氏名であり、渡来系の人物であることには間違いないと思われる。名前が小床と倭風となっていて、すっかり倭國に定着したのであろう。
續紀を調べると、後に辛男床の名称で後に登場し、「廣田連」の氏姓を賜ったと記載されている。「小」と「男」とは頻繁に共用される文字である。更に、右京人であったことも追記されている。これで出自場所を求めることが可能となったようである。
小床=寝台のような地が三角形に尖っているところと解釈すると、図に示した場所が見出せる。右京人の上部乙麻呂の妻、大辛刀自が多産で登場し、また同じように、右京職が多産を報告して褒賞された素性仁斯の近隣の地である。この地に多くの渡来系の男女が住み着いていたことを伝えているのである。廣田連は、見たまんまの表記であろう。
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<宇自賀臣山道> |
● 宇自賀臣山道
「宇自賀」の文字列は初見であるが、調べると「牛鹿」、即ち古事記の大倭根子日子賦斗邇命(孝霊天皇)の子、日子寤間命が祖となった針間牛鹿臣と伝えられている。
記紀・續紀を通じて極めて登場人物が少ない地であったようである。今回の叙爵の流れからも、頷けるところでもある。現地名は築上郡築上町小山田、小山田川と岩丸川に挟まれた地域である。
古事記では針間國、書紀・續紀では播磨國と記載される。”針のような隙間の地”が元来の地形象形表記であろう。
既出の文字列である宇自賀=谷間に延びた山稜の端が押し開かれたような谷間があるところと読み解ける。「牛鹿」で表された山稜の別表記であることが解る。更に、その山稜の端の地形を示しているのである。
名前も、同じく既出の文字列である山道=山にある首の付け根のようなところと解釈される。図に示した場所が、この人物の出自と推定される。續紀には、二度と登場されることはないようである。
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<忌部首黑麻呂-蟲麻呂・忌部毘登隅> |
● 忌部首黒麻呂
未だに「首」姓の一族が居たのであろう。書紀の孝徳天皇紀に上記の「忌部首」に併記した忌部木菓なる人物が登場し、奔流の周辺に配置した。
すると今回登場の黒麻呂は、その周辺に居処を持っていたのではなかろうか。黑=囗+米+灬=谷間に炎のような山稜が延びている様と解釈した。少々見辛くなっているが、図に示した場所が出自と思われる。
暫くの後に忌部首虫麻呂が「造」姓を賜ったと記載される(「黒麻呂」は「連」姓)。虫(蟲)=山稜の端が三つに岐れて延び出ている様であり、図に示した場所が見出せる。「忌部」には、宿祢・連・造の三つの姓を授けたようである。彼等は同根ではなかったのかもしれない。
更に後に女孺の忌部毘登隅が事変での功績で従五位上を叙爵されて登場する。「首」は、すっかり「毘登」の表記に代わってしまったようである。隅は、その通りに解釈として、図に示した場所が出自であったと推定される。
● 奈貴女王・ 伊刀女王・ 垂水女王 例によって三女王の系譜は不詳のようであるが、既にそれぞれ対応する奈貴王・伊刀王・垂水王の三王が登場していた。おそらくそれぞれの王の近隣を三女王が出自としていたのではなかろうか。
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<藤原朝臣影(蔭)> |
最初の奈貴女王は初見で従四位下を叙爵され、皇孫の待遇と思われる。出自場所から推察すると、舎人親王に関わる女王だったのかもしれない。
● 藤原朝臣影
立派な「藤原朝臣」の氏姓を持っているのだが、前出の駿河古(北家:千尋・袁比良女に併記)と同じく系譜不詳のようである。
藤原朝臣影の別名として藤原朝臣蔭が知られている。「蔭」=「艸+陰」と分解すると、既出の山陰(道)に含まれた文字となる。「山陰」=「山稜の北側の日当たりのよくないところ」と解釈した。
蔭=艸+陰=二つ並んだ山稜(艸)の北側の日当たりのよくないところと読み解ける。藤原朝臣一族が住まった地にでは、「北家」がその地形を示す場所と思われる。「影」では、一に特定することが難しいのであるが、別名によって求めることができる。この後の活躍は、あまり知られていないようである。
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<黃文連眞白女> |
● 黄文連眞白女
「黃文連」は、当初黃書造本實・大伴等が登場し、後に連姓を賜り、頻度は高くはないが、途切れることなく登場している一族である。
系譜が伝わっているのは、希少であって、粳麻呂(備に併記)が『壬申の乱』の功臣「大伴」の子として褒賞されたと記載されていた。
既出の文字列である眞白=丸く小高い地が寄せ集められて窪んだところと解釈すると、図に示した場所が見出せる。「粳麻呂」の南側となる。
「大伴・本實」の谷間の人材への叙位は殆どなく、今回が初めてのようである。上記で述べた通り、正に空白の地への叙位と思われる。この後に續紀に登場されることはないようである。
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<爪工宿祢飯足> |
● 爪工宿祢飯足
天武天皇紀の『八色之姓』で爪工連に宿祢姓を賜ったと記載されていた。その後に具体的な人物が登場することがなかった。聖武天皇紀になって、紀伊國の國造に紀直摩祖に任じ、暫くして紀直豊嶋を任じている。
そもそも「紀伊國」の表記は書紀に基づく名称であり、古事記は「紀國」である。書紀の「紀臣」(後の紀朝臣)の居処は、古事記では「木國」である。
既に述べたように書紀の捻くれた表記に惑わされたまま今日に至っているわけである。續紀は、古事記の表記に従い、「紀直」の氏姓を記載している。勿論、續紀もあからさまに記述しているわけではないが・・・書紀を正史とする歴史学が續紀を”蔑ろ”にするところであろう。
話しが横道に逸れそうなので、飯足=なだらかに延びる山稜が足ようになっているところと解釈すると、図に示した場所がこの人物の出自と推定される。「豊嶋」の西側の谷間となる。