天渟中原瀛眞人天皇:天武天皇(19)
十年春正月辛未朔壬申、頒幣帛於諸神祗。癸酉、百寮諸人拜朝庭。丁丑、天皇、御向小殿而宴之。是日、親王諸王引入內安殿、諸臣皆侍于外安殿、共置酒以賜樂。則大山上草香部吉士大形授小錦下位、仍賜姓曰難波連。辛巳、勅境部連石積、封六十戸、因以給絁卅匹・綿百五十斤・布百五十端・钁一百口。丁亥、親王以下小建以上、射于朝庭。己丑、詔畿內及諸國修理天社地社神宮。
正月二日、「幣帛」(供物)を諸神祗に分け与えている。三日に百寮諸人が朝廷で拝謁。七日に恒例の饗宴。「草香部吉士大形」に小錦下を授け、「難波連」の姓を賜っている。十一日、「境部連石積」に六十戸、また種々の品物を与えている。孝徳天皇紀に坂合部連磐積として登場し、遣唐使、送迎使も務めた人物であり、長年の功績であろう。本著としては、境(竟)=坂合を示唆してくれた貴重な人物である。もう四十戸ほど追加させて・・・。
十七日、恒例の射会を行っている。十九日に畿内及び諸国の天社・地社・神宮の修理を命じている。
● 草香部吉士大形
「草香部」は前出の「草壁」であろう。草壁吉士は、現在の田川郡香春町採銅所の長光辺りと推定した。その近傍の地として、「大形」の地形を求めると、障子ヶ岳の尾根及び山稜が作る地形を表していることが解る。
四角く取り囲まれた谷間である。古事記の忍坂大室の地形に酷似する山稜の形である。その谷間が出自の場所と推定される。ところで、確かに「草壁吉士」の近辺ではあるが、そもそも草壁=日下部であり、厳密にはその地から少し離れた場所となる。
「草」=「艸+皁」=「山稜の端が丸く小高くなって並んでいる様」、「香」=「禾+甘」=「窪んだところからしなやかに山稜が延びている様」よ読み解いて来た。即ち草香部=山稜の端が丸く小高くなって並び窪んだところからしなやかに山稜が延びている地の近隣のところと読み解ける。「草壁=日下部」ではなく、山稜の形を象形した表記であることが解る。
「難波連」の姓を賜ったと記述している。この谷間を流れる川は、名称は不明だが地図上でも記載されている。その川が急傾斜の地を大きく蛇行しているのが伺える。その川の流れから難波=川が大きく曲がりながら流れる様と見做して「連姓」としたのであろう。近隣は幾度も「記紀」の登場したが、この地は全くの初出であった。そう思えば、まだまだ香春の地が登場する余地はありそうである。
二月庚子朔甲子、天皇々后共居于大極殿、以喚親王諸王及諸臣、詔之曰「朕今更欲定律令改法式、故倶修是事。然頓就是務公事有闕、分人應行。」是日、立草壁皇子尊爲皇太子、因以令攝萬機。戊辰、阿倍夫人薨。己巳、小紫位當摩公豐濱薨。
二月二十五日に天皇は大極殿で皇后同席の下、親王、諸王、諸臣に律令を定めて法式を改めると言われ、これだけに関わると公事(一般的な業務)が滞ってしまう。故に手分けをして臨むように諭されている。この日、草壁皇子を皇太子とし、摂政として万事取り仕切るようにと述べている。
二十九日に阿倍夫人(天智天皇の妃、阿倍倉梯麻呂大臣の橘娘)が亡くなった。また三十日には當摩公豐濱(吉備大宰の當摩公廣嶋に併記、兄弟の系譜あり)が逝っている。「豐濱」の解釈の補足をすると、「豐」=「丰+丰+山+豆」に分解される。豐=段差のある山麓の高台と読み解ける。古代の地名に頻出の文字である。「豊」の略体字とは、そもそも別字である。「濱」=「水+賓」と分解される。濱=水辺にくっ付いた様と読み解ける。「豊かな浜辺」と読んではあらぬところを彷徨うことになる。
さて本論に戻って、皇后同席で草壁皇子の摂政時代の幕開けを宣言されている。「吉野の盟約」はこれの布石であり、皇子が述べた通りの「断絶」の結末になるのである。
三月庚午朔癸酉、葬阿倍夫人。丙戌、天皇御于大極殿、以詔川嶋皇子・忍壁皇子・廣瀬王・竹田王・桑田王・三野王・大錦下上毛野君三千・小錦中忌部連首・小錦下阿曇連稻敷・難波連大形・大山上中臣連大嶋・大山下平群臣子首、令記定帝紀及上古諸事。大嶋・子首、親執筆以錄焉。庚寅、地震。甲午、天皇居新宮井上而試發鼓吹之聲、仍令調習。
三月四日に阿倍夫人を葬っている(場所は不明)。十七日に大極殿で、川嶋皇子・忍壁皇子・「廣瀬王」・「竹田王」・「桑田王」・三野王・「上毛野君三千」・忌部連首・阿曇連稻敷・難波連大形・「中臣連大嶋」・「平群臣子首」に帝紀及び上古の諸事を書き定めることを命じている。「大嶋」と「子首」が執筆担当で、「日本書紀」編纂の始まりと解釈されている。
二十一日に地震、二十五日に天皇が「新宮」の井戸の上で鼓と笛を吹いて、それを習得するように命じた、とある。この動作が何を意味するのか定かではないようである。尚、既出の人物の出自場所については、各リンクを参照。
廣瀬王の出自を調べると、古事記の沼名倉太玉敷命(敏達天皇)が春日の老女子郎女を娶って誕生した春日王(兄が難波王、書紀では難波皇子)の子と分かった。
すると「廣瀬」は若倭根子日子大毘毘命(開化天皇)が坐した伊邪河宮(現在の大祖神社辺り)の傍らの川辺を表していると推測される。
類似する地形をそのまま表現したのであろう。”地名”は”固有”ではないことを如実に示している。後に冠位「淨廣肆」とされる。諸王十二階の最下位(前出の四位?)。
竹田王は敏達天皇の曾孫、父親が「百濟王」と知られているようである。「百濟王」については殆ど情報がなく、幾つかの推論がなされているのみである。
名前からおそらく百濟宮があった近隣を出自としていたのではなかろうか。大きく地形が変わっている地であるが、引用した地図の神社の南側が当時は竹のような田になっていたように思われる。
後に續紀の記述に高安王が登場する。竹田王の子とすると、高安=皺が寄ったような山稜の傍らで谷間で嫋やかに延びている様と解釈される。その地形は百濟宮の西側の谷間を示していると思われる。
何となく無難な配置に収まったようであるが、果たして・・・?
桑田王も「記紀」に同一名の「王」(男女を含め)が登場するが、年代が異なるようで、やはり出自は不明のようである。
また書紀に「桑田」が地名として異なる国で幾度か登場し、錯綜とした名称となっている。唯一のヒントは前記の桑内王ではなかろうか。「桑田」は「桑」の外側辺りを示す表記と解釈して、「桑」の葉の先が出自の場所と推定した。「桑内王」のように「私家」のような情報がなく、やや漠然とした場所となるが、原資料にも特定できるような記述がなかったのかもしれない。
● 上毛野君三千
既出の「上毛野」は、現在の築上郡築上町上毛町と解釈して来た。この「鱗」が寄り集まったような地で「三千」が示す場所を求めることになる。
「千」=「人+一」と分解される。人の集団を束ねた様を表す文字である。地形象形的には、「人」=「谷間」と解釈すると、三千=三つの谷間のを束ねる様と読み解ける。
現在の上毛中学校の南側で、三つの谷間が寄り集まっている地形が見出せる。この地が出自の場所と推定される。
「上毛野」中心の地のように思われるが、今までは縁の地の登場が多く、若干不思議な感覚に陥るが、表に現れないだけでしっかりと古から人材が育まれていたのであろう。
● 中臣連大嶋
中臣一族の代表であった中臣金連大臣が、乱後の処罰で一族諸共に島流しとなった。さりとて、中臣一族を外すわけにもいかず、登場となったのであろう。
兄の学問僧安達は遣唐使節団に加わっていた。後には政祭両面での活躍されたとのことである。藤原一族の氏上的存在であった。
既出の「大」、「嶋」から読み解けるが、些か「鳥」の地形は判別し辛くなっている。父親の麓と言うことで推定された場所である。それにしても「金連」の勢いが一気に削がれた後の地は如何なものだったのか、諸行無常であろう。
● 平群臣子首
「平群臣」に関する書紀の記述は、極めて曖昧である。と言うか、古事記の建内宿禰(書紀では武内宿禰)全般に関して大きく異なっている。該当する書紀の箇所は後日として、読み解いた古事記の「平群臣」に基づいて考察してみよう。
平群都久宿禰及び祖となった平群臣・佐和良臣・馬御樴連についてはこちらを参照。当時の「平群」の地は、現在では一層平群になっていて、少々特徴のない地形になってはいるが、「子首」の地形を見出すことができる。
子首=首の付け根のような地が生え出ているところと読み解ける。山稜の分れ目に大きく窪んだ場所が見える。前出の倭國飽波郡に隣接するところである。古事記が記述する「平群臣」の中心の地であろう。書紀の記述に誤りはない。がしかし「倭國」の表記は、何ともわざとらしい暈し方であろう。
ざっと見ても広範囲に及ぶ人材を投入した国家プロジェクトの様相である。書紀そのもののついての考察ができるほど本著に知識がなく、控えることにするが、「阿曇連稻敷」が加わっているが、如何程の情報提供を行ったのであろうか?…極めて興味あるところである。
後(續紀元正天皇紀)に息子の平群朝臣豐麻呂が登場する。「萬呂」と言われたと知られている。豐=多くの段差がある様と併せて、萬=蠍の地形を頼りに出自の場所を探すと、父親の北側に隣接するところと推定される。
更に後(聖武天皇紀)に「豐麻呂」の子である平群朝臣廣成が登場する。おそらく父親の東側の広がった台地(廣成)と思われる。Wikipediaに・・・遣唐使の判官として唐に渡るが、帰国の途中難船。はるか崑崙国(チャンパ王国、現在のベトナム中部沿海地方)にまで漂流したが、無事日本へ帰りついた。古代の日本人の中で最も広い世界を見たとされる人物である・・・と記載されている。
夏四月己亥朔庚子、祭廣瀬龍田神。辛丑、立禁式九十二條、因以詔之曰「親王以下至于庶民諸所服用、金銀珠玉・紫錦繡綾・及氈褥冠帶・幷種々雜色之類、服用各有差。」辭具有詔書。
庚戌、錦織造小分・田井直吉摩呂・次田倉人椹足(椹此云武規)石勝・川內直縣・忍海造鏡・荒田・能麻呂・大狛造百枝・足坏・倭直龍麻呂・門部直大嶋・宍人造老・山背狛烏賊麻呂、幷十四人賜姓曰連。乙卯、饗高麗客卯問等於筑紫、賜祿有差。
四月二日に恒例の「廣瀬龍田神」を祭祀している。三日に禁式九十二条を定めたと述べている。但し、不詳。身分に応じた物を着用するように詳細な取り決めを示したのであろう。身分が多くなれば用いる金銀、色など、実に煌びやかで多彩な世界が浮かぶが、事実そうであったのかもしれない。
四月十二日に、「錦織造小分」・「田井直吉摩呂」・「次田倉人椹足」・「次田倉人石勝」・「川內直縣」・「忍海造鏡」・「忍海造荒田」・忍海造能麻呂・「大狛造百枝」・「大狛造足坏」・「倭直龍麻呂」・「門部直大嶋」・宍人造老・「山背狛烏賊麻呂」計十四人に「連」姓を与えている。十七日に高麗の客を筑紫で饗応し、禄を与えたと記載している。
● 錦織造小分・田井直吉摩呂・大狛造百枝・大狛造足杯
調べると彼らは「河内」に関係することが分かった。とは言っても些か…であって、それぞれの名前が示す場所を探索することになる。
錦織造小分の「錦織」は何処かで聞いたような名前なのであるが、初耳で一体どんな地形を表しているのであろうか?・・・。
先ずは例によって「錦」=「金+帛」と分解する。地形を表す文字要素の組合せが見えて来た。「金」=「谷間(八)の高台」と解釈した。
「錦」=「谷間の高台が長く延びた様」と解釈される。「織」=「糸+戠」と分解され、「糸が縦横に交わる様」を表すと解説される。
纏めると錦織=谷間の高台が長く延びた地と山稜が縦横に交わるところと読み解ける。
図に示した極めて特徴的な場所であることが解る。小分=小さな山稜が分ける様と読める。名前と地形との合致は申し分なしであろう。現地名は京都郡みやこ町勝山長川である。田井直吉摩呂の田井=田が四角くなっている様であり、吉摩呂=近接する盛り上がった地が一杯ある様と読める。「小分」の東側にその地形が見出せる。実に素直な表記と思われる。現地名は同郡勝山池田である。
大狛造百枝に含まれる既出の狛=犬+白=平らな山稜の端がくっ付いて並ぶ様、百=白+一=小高い地が連なる様、枝=木+支=山稜が岐れている様と解釈した。文字要素に「白」が含まれる。一方は「くっ付く」、他方は「団栗の形」と解釈する。「白」が示す多様な意味を使い分けている。そもそもは後者の象形であるが、それから派生展開した意味と解説されている。
この人物もこれらの地形要素をぐちゃっと寄せ集めた表記となっている。足杯=山稜の端が「不」の形になっている様と読み解ける。「百枝」とは親子か兄弟なのかもしれない。現在もかなり広い水田耕作地になっている。現在の地図から「吉摩呂」は山稜の端辺りと推定されるのに対して、「小分」と同様に、その居場所を特定するのは叶わないが、「狛」の間だったのかもしれない。現地名は同郡勝山長川である。
近隣の三名を、隔たり無く「連」姓とした、のであろう。二人の「造」と一人の「直」が「連」なるのだが、図表示の邪魔にならないように薄く示した所が「造」と「直」…これは「井」そのもの…を表している。出自場所の詳細を示す表記が置き換えられていくことになる。重要な変曲点であることに留意しよう。
● 次田倉人椹足・次田倉人石勝
「次田」は既出で次田生磐が登場していた。大海人皇子が暇乞いをして去った後に天智天皇が袈裟を届ける使いとなった人物である。
この地の特定は殆ど情報がないことから、確度は決して高くないと思われたが、今回の登場人物によって確からしさが得られるかもしれない。
「倉人」は如何に解釈されるか?…倉人=大きな谷間にある小ぶりな谷間と読んでみる。すると「次田」の地に山稜の分岐に従って複数の谷間が見出せる。
「椹」=「木+甚」と分解される。大型のヒノキ科の針葉樹と読んではあらぬ方向となってしまうようである。「甚」=「甚だしい、深い、分厚い」などの意味とされている。地形象形的には椹足=山稜の端(足)が分厚く大きい様と読み解ける。訓が付けられて「武規」と記されている。既出の文字であり、武規=矛のような山稜の端が丸く小高くなっている様と読める。
既出の石勝=山麓にある盛り上がったところと読む。「椹足」の東側にその地形を見出すことができる。如何なる功績があっての「連」姓付与かは定かではないが、初代川上~中流域の開拓を行ったのかもしれない。現在の勝山松田の地は、神武天皇以来、重要な穀倉地帯であったことは違いないようである。
● 川内直縣
前出の河内直鯨の場所と思われる。山稜の端がぶら下がったような地形を捉えて表現したのであろう。隣接する「田邊小隅」が乱で敗北し、行方知れずになったことから、統治域を拡大したのかもしれない。
● 忍海造鏡・忍海造荒田・忍海造能麻呂
忍海造能麻(摩)呂は既に読み解いた。「獻瑞稻五莖」の付加された記述は彼の居場所を確かにするものであった。それより以前に登場した忍海造小龍も含めてこの地が忍海、即ち海と川が合流する地点であることを表している。
<忍海造鏡・忍海造荒田・忍海造能麻呂> |
幾度か示したこちら参照(松木洋忠氏、九大博士論文2012年の結果と極めて良い一致が見られる)。
古事記で記載された「忍海」、例えば葛城忍海之高木角刺宮などがあるが、今回の様に纏まって登場する機会はなく、「忍海」の場所を確定する上において重要な位置付けにあると思われる。
忍海造鏡の「鏡」は前出の鏡王に含まれていた。繰り返すと鏡=金+竟=[八]の形の高台の傍で坂が出合う様と読み解いた。地形の規模に大差があるが、その通りの場所が見出せる。現在の田川郡福智町山崎辺りである。忍海造荒田の「荒」も既出の文字で、「荒」=「艸+亡+川」=「山稜の端が川で尽きる様」と読み解いた。荒田=山稜の端が川で尽きる傍にある田と読み解ける。現地名は同町大久保辺りと推定される。
図に示した通り、「忍海」を三者で取り囲むように配置されていることが解る。この地域の作付け面積が大幅に向上したことを受けた「連」姓の付与だったのであろう。加えて、「忍海」の場所が大きく確度を増したと言えるであろう。
忍海=海を忍ばせているところ(一見では海に見えない海)と解釈して来たが、地形象形表記では如何なる解釈となるのであろうか?…「忍」=「刃+心」、「海」=「氵+每」と分解すると、忍海=山稜が刃のように並んだ地が真ん中にあって水辺で両手で抱えるように延びているところと読み解ける。古事記の忍坂と全く同様に解釈される。
● 倭直龍摩呂
書紀が語る「倭直」は何処の場所を示すのかを調べてみよう。この文字が最初に登場するのは、神武天皇が倭国に向かう時に海上案内してくれた「椎根津彥」が後に「倭直部始祖」となった、とと言う記述である。
対応する古事記の記述は「槁根津日子」が「倭國造」の祖となった、である。即ち、倭直部⇒倭國造となっていることが解る。
言い換えると「直」と「造(牛)」の地形を併せ持つ場所であることを示している。すると香春岳の麓にそれらを満足する地を見出すことができる。
法興寺の麓、辛うじてではあるが龍の角のような地形も示していることが判る。麓と金辺川に挟まれた狭い土地ではあるが、倭國の中心に位置する場所である。善龍寺に残存地名を見るのは、少々早とちりかもしれない。
後に神服部連が登場する。『八色之姓』で「宿禰」を与えられる。神=示+申=延びた高台であり、服=箙の形と解釈すると、図に示した場所と推定される。香春岳山麓の狭いところに古くから渡来した人々が住まっていたのであろう。
<門部直大嶋> |
● 門部直大嶋
この地で「直」と「大嶋」が示す地形が見出せるか、となる。がしかし、全く杞憂することなく、最奥の谷間にあることが解った。
「直」の谷間の傍らで平らな頂の麓に嶋=山+鳥が、上記の「中臣連大嶋」とは異なり、かなり鮮明にその姿を認めることができるようである。
現在は呉ダムが造られていて、当時の川の流れを推測することは難しいとは思われるが、谷奥の地を開拓した実績が「連」姓を賜ることになったのではなかろうか。後に闕名ではあるが、鏡作造にも「連」姓が与えられる。「作」=「人+乍」=「谷間が切れ目を入れたような狭い様」を表すと解釈する。鏡作=鏡の傍の狭い谷間と読み解ける。併せて図に示した。
宍人造老は、「宍人臣大麻呂・木穀(カヂ)媛娘」に併記した。こちらを参照。
<山背狛烏賊麻呂> |
● 山背狛烏賊麻呂
「山背」の地で「烏賊」の地形、即ち特徴的な二本の長く延びた足(山稜)を探すと、現在の京都郡みやこ町犀川花熊にその地形を見出せる。
以上計十四名の新しく「連」姓を賜った人物の出自場所を求めることができたが、多くはそれぞれの地域の開拓に努めた「直」、「造」の姓を持つ者、あるいは無姓の者を対象としたように思われる。
「倭直龍麻呂」は、由緒ある「倭國」の中心地に住まった一族、いつまでも「直」ではなかろう、との考えかもしれない。「忍海造能麻呂」で読み解いたように「獻瑞稻五莖」は「珍しい稲」ではない。「公地公民」制の徹底は、各豪族が自分勝手に開拓するやり方から、国が管理する方向へと転換して行ったことを告げているように思われる。孝徳天皇から始まった本制度の浸透が徐々にではあるが、進捗したことが伺える。それにしても、些か戯れの記述ではある。
五月己巳朔己卯、祭皇祖御魂。是日詔曰、凡百寮諸人、恭敬宮人過之甚也。或詣其門謁己之訟、或捧幣以媚於其家。自今以後、若有如此者隨事共罪之。甲午、高麗卯問、歸之。六月己亥朔癸卯、饗新羅客若弼於築紫、賜祿各有差。乙卯、雩之。壬戌、地震。
五月十一日に皇祖の御魂を祭祀している。現在の「ご先祖様」の捉え方であろうか。この日に百寮に対して、所謂賄賂に繋がる行為を禁じている。二十六日に高麗の使者が帰国。六月五日、新羅の客を筑紫にて饗応し、禄を与えている。十七日に雨乞い、二十四日に地震があったと伝えている。この頻度、どう考えても奈良大和の出来事ではないようだが・・・。
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流石に天武天皇紀である。なかなか進まない・・・今回はこれくらいで・・・。