2020年9月29日火曜日

天渟中原瀛眞人天皇:天武天皇(19) 〔456〕

天渟中原瀛眞人天皇:天武天皇(19) 


年が明けて即位十年(西暦681年)正月の記事からである。引用は青字で示す。日本語訳は、こちらこちらどを参照。

十年春正月辛未朔壬申、頒幣帛於諸神祗。癸酉、百寮諸人拜朝庭。丁丑、天皇、御向小殿而宴之。是日、親王諸王引入內安殿、諸臣皆侍于外安殿、共置酒以賜樂。則大山上草香部吉士大形授小錦下位、仍賜姓曰難波連。辛巳、勅境部連石積、封六十戸、因以給絁卅匹・綿百五十斤・布百五十端・钁一百口。丁亥、親王以下小建以上、射于朝庭。己丑、詔畿內及諸國修理天社地社神宮。

正月二日、「幣帛」(供物)を諸神祗に分け与えている。三日に百寮諸人が朝廷で拝謁。七日に恒例の饗宴。「草香部吉士大形」に小錦下を授け、「難波連」の姓を賜っている。十一日、「境部連石積」に六十戸、また種々の品物を与えている。孝徳天皇紀に坂合部連磐積として登場し、遣唐使、送迎使も務めた人物であり、長年の功績であろう。本著としては、境(竟)=坂合を示唆してくれた貴重な人物である。もう四十戸ほど追加させて・・・。

十七日、恒例の射会を行っている。十九日に畿内及び諸国の天社・地社・神宮の修理を命じている。

<草香部吉士大形>
● 草香部吉士大形

「草香部」は前出の「草壁」であろう。草壁吉士は、現在の田川郡香春町採銅所の長光辺りと推定した。その近傍の地として、「大形」の地形を求めると、障子ヶ岳の尾根及び山稜が作る地形を表していることが解る。

四角く取り囲まれた谷間である。古事記の忍坂大室の地形に酷似する山稜の形である。その谷間が出自の場所と推定される。ところで、確かに「草壁吉士」の近辺ではあるが、そもそも草壁=日下部であり、厳密にはその地から少し離れた場所となる。

「草」=「艸+皁」=「山稜の端が丸く小高くなって並んでいる様」、「香」=「禾+甘」=「窪んだところからしなやかに山稜が延びている様」よ読み解いて来た。即ち草香部=山稜の端が丸く小高くなって並び窪んだところからしなやかに山稜が延びている地の近隣のところと読み解ける。「草壁=日下部」ではなく、山稜の形を象形した表記であることが解る。

「難波連」の姓を賜ったと記述している。この谷間を流れる川は、名称は不明だが地図上でも記載されている。その川が急傾斜の地を大きく蛇行しているのが伺える。その川の流れから難波=川が大きく曲がりながら流れる様と見做して「連姓」としたのであろう。近隣は幾度も「記紀」の登場したが、この地は全くの初出であった。そう思えば、まだまだ香春の地が登場する余地はありそうである。

二月庚子朔甲子、天皇々后共居于大極殿、以喚親王諸王及諸臣、詔之曰「朕今更欲定律令改法式、故倶修是事。然頓就是務公事有闕、分人應行。」是日、立草壁皇子尊爲皇太子、因以令攝萬機。戊辰、阿倍夫人薨。己巳、小紫位當摩公豐濱薨。

二月二十五日に天皇は大極殿で皇后同席の下、親王、諸王、諸臣に律令を定めて法式を改めると言われ、これだけに関わると公事(一般的な業務)が滞ってしまう。故に手分けをして臨むように諭されている。この日、草壁皇子を皇太子とし、摂政として万事取り仕切るようにと述べている。

二十九日に阿倍夫人(天智天皇の妃、阿倍倉梯麻呂大臣の橘娘)が亡くなった。また三十日には當摩公豐濱(吉備大宰の當摩公廣嶋に併記、兄弟の系譜あり)が逝っている。「豐濱」の解釈の補足をすると、「豐」=「丰+丰+山+豆」に分解される。豐=段差のある山麓の高台と読み解ける。古代の地名に頻出の文字である。「豊」の略体字とは、そもそも別字である。「濱」=「水+賓」と分解される。濱=水辺にくっ付いた様と読み解ける。「豊かな浜辺」と読んではあらぬところを彷徨うことになる。

さて本論に戻って、皇后同席で草壁皇子の摂政時代の幕開けを宣言されている。「吉野の盟約」はこれの布石であり、皇子が述べた通りの「断絶」の結末になるのである。

三月庚午朔癸酉、葬阿倍夫人。丙戌、天皇御于大極殿、以詔川嶋皇子・忍壁皇子・廣瀬王・竹田王・桑田王・三野王・大錦下上毛野君三千・小錦中忌部連首・小錦下阿曇連稻敷・難波連大形・大山上中臣連大嶋・大山下平群臣子首、令記定帝紀及上古諸事。大嶋・子首、親執筆以錄焉。庚寅、地震。甲午、天皇居新宮井上而試發鼓吹之聲、仍令調習。

三月四日に阿倍夫人を葬っている(場所は不明)。十七日に大極殿で、川嶋皇子忍壁皇子・「廣瀬王」・「竹田王」・「桑田王」・三野王・「上毛野君三千」・忌部連首阿曇連稻敷難波連大形・「中臣連大嶋」・「平群臣子首」に帝紀及び上古の諸事を書き定めることを命じている。「大嶋」と「子首」が執筆担当で、「日本書紀」編纂の始まりと解釈されている。

二十一日に地震、二十五日に天皇が「新宮」の井戸の上で鼓と笛を吹いて、それを習得するように命じた、とある。この動作が何を意味するのか定かではないようである。尚、既出の人物の出自場所については、各リンクを参照。
 
<廣瀬王・桑田王>
● 廣瀬王・竹田王・桑田王
 
廣瀬王の出自を調べると、古事記の沼名倉太玉敷命(敏達天皇)が春日の老女子郎女を娶って誕生した春日王(兄が難波王、書紀では難波皇子)の子と分かった。

すると「廣瀬」は若倭根子日子大毘毘命(開化天皇)が坐した伊邪河宮(現在の大祖神社辺り)の傍らの川辺を表していると推測される。

類似する地形をそのまま表現したのであろう。”地名”は”固有”ではないことを如実に示している。後に冠位「淨廣肆」とされる。諸王十二階の最下位(前出の四位?)。

竹田王は敏達天皇の曾孫、父親が「百濟王」と知られているようである。「百濟王」については殆ど情報がなく、幾つかの推論がなされているのみである。

<竹田王・高安王>
名前からおそらく百濟宮があった近隣を出自としていたのではなかろうか。大きく地形が変わっている地であるが、引用した地図の神社の南側が当時は竹のような田になっていたように思われる。

後に續紀の記述に高安王が登場する。竹田王の子とすると、高安=皺が寄ったような山稜の傍らで谷間で嫋やかに延びている様と解釈される。その地形は百濟宮の西側の谷間を示していると思われる。

何となく無難な配置に収まったようであるが、果たして・・・?

桑田王も「記紀」に同一名の「王」(男女を含め)が登場するが、年代が異なるようで、やはり出自は不明のようである。

また書紀に「桑田」が地名として異なる国で幾度か登場し、錯綜とした名称となっている。唯一のヒントは前記の桑内王ではなかろうか。「桑田」は「桑」の外側辺りを示す表記と解釈して、「桑」の葉の先が出自の場所と推定した。「桑内王」のように「私家」のような情報がなく、やや漠然とした場所となるが、原資料にも特定できるような記述がなかったのかもしれない。

<上毛野君三千>
● 上毛野君三千

既出の「上毛野」は、現在の築上郡築上町上毛町と解釈して来た。この「鱗」が寄り集まったような地で「三千」が示す場所を求めることになる。

「千」=「人+一」と分解される。人の集団を束ねた様を表す文字である。地形象形的には、「人」=「谷間」と解釈すると、三千=三つの谷間のを束ねる様と読み解ける。

現在の上毛中学校の南側で、三つの谷間が寄り集まっている地形が見出せる。この地が出自の場所と推定される。

「上毛野」中心の地のように思われるが、今までは縁の地の登場が多く、若干不思議な感覚に陥るが、表に現れないだけでしっかりと古から人材が育まれていたのであろう。

<中臣連大嶋>
● 中臣連大嶋

中臣一族の代表であった中臣金連大臣が、乱後の処罰で一族諸共に島流しとなった。さりとて、中臣一族を外すわけにもいかず、登場となったのであろう。

兄の学問僧安達は遣唐使節団に加わっていた。後には政祭両面での活躍されたとのことである。藤原一族の氏上的存在であった。

既出の「大」、「嶋」から読み解けるが、些か「鳥」の地形は判別し辛くなっている。父親の麓と言うことで推定された場所である。それにしても「金連」の勢いが一気に削がれた後の地は如何なものだったのか、諸行無常であろう。

<平群臣子首・平群朝臣豐麻呂-豐成>
● 平群臣子首

「平群臣」に関する書紀の記述は、極めて曖昧である。と言うか、古事記の建内宿禰(書紀では武内宿禰)全般に関して大きく異なっている。該当する書紀の箇所は後日として、読み解いた古事記の「平群臣」に基づいて考察してみよう。

平群都久宿禰及び祖となった平群臣・佐和良臣・馬御樴連についてはこちらを参照。当時の「平群」の地は、現在では一層平群になっていて、少々特徴のない地形になってはいるが、「子首」の地形を見出すことができる。

子首=首の付け根のような地が生え出ているところと読み解ける。山稜の分れ目に大きく窪んだ場所が見える。前出の倭國飽波郡に隣接するところである。古事記が記述する「平群臣」の中心の地であろう。書紀の記述に誤りはない。がしかし「倭國」の表記は、何ともわざとらしい暈し方であろう。

ざっと見ても広範囲に及ぶ人材を投入した国家プロジェクトの様相である。書紀そのもののついての考察ができるほど本著に知識がなく、控えることにするが、「阿曇連稻敷」が加わっているが、如何程の情報提供を行ったのであろうか?…極めて興味あるところである。

後(續紀元正天皇紀)に息子の平群朝臣豐麻呂が登場する。「萬呂」と言われたと知られている。豐=多くの段差がある様と併せて、萬=蠍の地形を頼りに出自の場所を探すと、父親の北側に隣接するところと推定される。

更に後(聖武天皇紀)に「豐麻呂」の子である平群朝臣廣成が登場する。おそらく父親の東側の広がった台地(廣成)と思われる。Wikipediaに・・・遣唐使の判官として唐に渡るが、帰国の途中難船。はるか崑崙国(チャンパ王国、現在のベトナム中部沿海地方)にまで漂流したが、無事日本へ帰りついた。古代の日本人の中で最も広い世界を見たとされる人物である・・・と記載されている。

夏四月己亥朔庚子、祭廣瀬龍田神。辛丑、立禁式九十二條、因以詔之曰「親王以下至于庶民諸所服用、金銀珠玉・紫錦繡綾・及氈褥冠帶・幷種々雜色之類、服用各有差。」辭具有詔書。

庚戌、錦織造小分・田井直吉摩呂・次田倉人椹足(椹此云武規)石勝・川內直縣・忍海造鏡・荒田・能麻呂・大狛造百枝・足坏・倭直龍麻呂・門部直大嶋・宍人造老・山背狛烏賊麻呂、幷十四人賜姓曰連。乙卯、饗高麗客卯問等於筑紫、賜祿有差。

四月二日に恒例の「廣瀬龍田神」を祭祀している。三日に禁式九十二条を定めたと述べている。但し、不詳。身分に応じた物を着用するように詳細な取り決めを示したのであろう。身分が多くなれば用いる金銀、色など、実に煌びやかで多彩な世界が浮かぶが、事実そうであったのかもしれない。

四月十二日に、「錦織造小分」・「田井直吉摩呂」・「次田倉人椹足」・「次田倉人石勝」・「川內直縣」・「忍海造鏡」・「忍海造荒田」・忍海造能麻呂・「大狛造百枝」・「大狛造足坏」・「倭直龍麻呂」・「門部直大嶋」・宍人造老・「山背狛烏賊麻呂」計十四人に「連」姓を与えている。十七日に高麗の客を筑紫で饗応し、禄を与えたと記載している。

● 錦織造小分・田井直吉摩呂・大狛造百枝・大狛造足杯

調べると彼らは「河内」に関係することが分かった。とは言っても些か…であって、それぞれの名前が示す場所を探索することになる。

<錦織造小分・田井直吉摩呂・大狛造百枝-足杯>
錦織造小分の「錦織」は何処かで聞いたような名前なのであるが、初耳で一体どんな地形を表しているのであろうか?・・・。

先ずは例によって「錦」=「金+帛」と分解する。地形を表す文字要素の組合せが見えて来た。「金」=「谷間(八)の高台」と解釈した。

「錦」=「谷間の高台が長く延びた様」と解釈される。「織」=「糸+戠」と分解され、「糸が縦横に交わる様」を表すと解説される。

纏めると錦織=谷間の高台が長く延びた地と山稜が縦横に交わるところと読み解ける。

図に示した極めて特徴的な場所であることが解る。小分=小さな山稜が分ける様と読める。名前と地形との合致は申し分なしであろう。現地名は京都郡みやこ町勝山長川である。田井直吉摩呂田井=田が四角くなっている様であり、吉摩呂=近接する盛り上がった地が一杯ある様と読める。「小分」の東側にその地形が見出せる。実に素直な表記と思われる。現地名は同郡勝山池田である。

大狛造百枝に含まれる既出の狛=犬+白=平らな山稜の端がくっ付いて並ぶ様百=白+一=小高い地が連なる様枝=木+支=山稜が岐れている様と解釈した。文字要素に「白」が含まれる。一方は「くっ付く」、他方は「団栗の形」と解釈する。「白」が示す多様な意味を使い分けている。そもそもは後者の象形であるが、それから派生展開した意味と解説されている。

この人物もこれらの地形要素をぐちゃっと寄せ集めた表記となっている。足杯=山稜の端が「不」の形になっている様と読み解ける。「百枝」とは親子か兄弟なのかもしれない。現在もかなり広い水田耕作地になっている。現在の地図から「吉摩呂」は山稜の端辺りと推定されるのに対して、「小分」と同様に、その居場所を特定するのは叶わないが、「狛」の間だったのかもしれない。現地名は同郡勝山長川である。

近隣の三名を、隔たり無く「連」姓とした、のであろう。二人の「造」と一人の「直」が「連」なるのだが、図表示の邪魔にならないように薄く示した所が「造」と「直」…これは「井」そのもの…を表している。出自場所の詳細を示す表記が置き換えられていくことになる。重要な変曲点であることに留意しよう。

<次田倉人椹足・次田倉人石勝>
● 次田倉人椹足・次田倉人石勝

「次田」は既出で次田生磐が登場していた。大海人皇子が暇乞いをして去った後に天智天皇が袈裟を届ける使いとなった人物である。

この地の特定は殆ど情報がないことから、確度は決して高くないと思われたが、今回の登場人物によって確からしさが得られるかもしれない。

「倉人」は如何に解釈されるか?…倉人=大きな谷間にある小ぶりな谷間と読んでみる。すると「次田」の地に山稜の分岐に従って複数の谷間が見出せる。

「椹」=「木+甚」と分解される。大型のヒノキ科の針葉樹と読んではあらぬ方向となってしまうようである。「甚」=「甚だしい、深い、分厚い」などの意味とされている。地形象形的には椹足=山稜の端(足)が分厚く大きい様と読み解ける。訓が付けられて「武規」と記されている。既出の文字であり、武規=矛のような山稜の端が丸く小高くなっている様と読める。

既出の石勝=山麓にある盛り上がったところと読む。「椹足」の東側にその地形を見出すことができる。如何なる功績があっての「連」姓付与かは定かではないが、初代川上~中流域の開拓を行ったのかもしれない。現在の勝山松田の地は、神武天皇以来、重要な穀倉地帯であったことは違いないようである。

● 川内直縣

前出の河内直鯨の場所と思われる。山稜の端がぶら下がったような地形を捉えて表現したのであろう。隣接する「田邊小隅」が乱で敗北し、行方知れずになったことから、統治域を拡大したのかもしれない。

● 忍海造鏡・忍海造荒田・忍海造能麻呂

忍海造能麻(摩)呂は既に読み解いた。「獻瑞稻五莖」の付加された記述は彼の居場所を確かにするものであった。それより以前に登場した忍海造小龍も含めてこの地が忍海、即ち海と川が合流する地点であることを表している。

<忍海造鏡・忍海造荒田・忍海造能麻呂>
「記紀」の記述は、沖積が盛んに起こった場所では、現在の標高約13mまで汽水の状態であったことを示している。
これに基づいた考察をしない限り古代の有様を理解することは叶わないようである。

幾度か示したこちら参照(松木洋忠氏、九大博士論文2012年の結果と極めて良い一致が見られる)。

古事記で記載された「忍海」、例えば葛城忍海之高木角刺宮などがあるが、今回の様に纏まって登場する機会はなく、「忍海」の場所を確定する上において重要な位置付けにあると思われる。

忍海造鏡の「鏡」は前出の鏡王に含まれていた。繰り返すと鏡=金+竟=[八]の形の高台の傍で坂が出合う様と読み解いた。地形の規模に大差があるが、その通りの場所が見出せる。現在の田川郡福智町山崎辺りである。忍海造荒田の「荒」も既出の文字で、「荒」=「艸+亡+川」=「山稜の端が川で尽きる様」と読み解いた。荒田=山稜の端が川で尽きる傍にある田と読み解ける。現地名は同町大久保辺りと推定される。

図に示した通り、「忍海」を三者で取り囲むように配置されていることが解る。この地域の作付け面積が大幅に向上したことを受けた「連」姓の付与だったのであろう。加えて、「忍海」の場所が大きく確度を増したと言えるであろう。

忍海=海を忍ばせているところ(一見では海に見えない海)と解釈して来たが、地形象形表記では如何なる解釈となるのであろうか?…「忍」=「刃+心」、「海」=「氵+每」と分解すると、忍海=山稜が刃のように並んだ地が真ん中にあって水辺で両手で抱えるように延びているところと読み解ける。古事記の忍坂と全く同様に解釈される。

<倭直龍摩呂・神服部連>
● 倭直龍摩呂

書紀が語る「倭直」は何処の場所を示すのかを調べてみよう。この文字が最初に登場するのは、神武天皇が倭国に向かう時に海上案内してくれた「椎根津彥」が後に「倭直部始祖」となった、とと言う記述である。

対応する古事記の記述は「槁根津日子」が「倭國造」の祖となった、である。即ち、倭直部⇒倭國造となっていることが解る。

言い換えると「直」と「造(牛)」の地形を併せ持つ場所であることを示している。すると香春岳の麓にそれらを満足する地を見出すことができる。

法興寺の麓、辛うじてではあるが龍の角のような地形も示していることが判る。麓と金辺川に挟まれた狭い土地ではあるが、倭國の中心に位置する場所である。善龍寺に残存地名を見るのは、少々早とちりかもしれない。

後に神服部連が登場する。『八色之姓』で「宿禰」を与えられる。神=示+申=延びた高台であり、服=箙の形と解釈すると、図に示した場所と推定される。香春岳山麓の狭いところに古くから渡来した人々が住まっていたのであろう。

<門部直大嶋>
● 門部直大嶋

「門部」は既出で、門部金が孝徳天皇紀に登場していた。この「門」は、古事記の帶中津日子命(仲哀天皇)が坐した穴門之豐浦宮に含まれていたと解釈した。

この地で「直」と「大嶋」が示す地形が見出せるか、となる。がしかし、全く杞憂することなく、最奥の谷間にあることが解った。

「直」の谷間の傍らで平らな頂の麓嶋=山+鳥が、上記の「中臣連大嶋」とは異なり、かなり鮮明にその姿を認めることができるようである。

現在は呉ダムが造られていて、当時の川の流れを推測することは難しいとは思われるが、谷奥の地を開拓した実績が「連」姓を賜ることになったのではなかろうか。後に闕名ではあるが、鏡作造にも「連」姓が与えられる。「作」=「人+乍」=「谷間が切れ目を入れたような狭い様」を表すと解釈する。鏡作=鏡の傍の狭い谷間と読み解ける。併せて図に示した。

宍人造老は、「宍人臣大麻呂・木穀(カヂ)媛娘」に併記した。こちらを参照。

<山背狛烏賊麻呂>
● 山背狛烏賊麻呂

「山背」の地で「烏賊」の地形、即ち特徴的な二本の長く延びた足(山稜)を探すと、現在の京都郡みやこ町犀川花熊にその地形を見出せる。

山科野の西側、前出の秦大藏造萬里の東側である。この地も古くから開けた場所ではあるが、大きく耕地を拡げたのではなかろか。

以上計十四名の新しく「連」姓を賜った人物の出自場所を求めることができたが、多くはそれぞれの地域の開拓に努めた「直」、「造」の姓を持つ者、あるいは無姓の者を対象としたように思われる。

「倭直龍麻呂」は、由緒ある「倭國」の中心地に住まった一族、いつまでも「直」ではなかろう、との考えかもしれない。「忍海造能麻呂」で読み解いたように「獻瑞稻五莖」は「珍しい稲」ではない。「公地公民」制の徹底は、各豪族が自分勝手に開拓するやり方から、国が管理する方向へと転換して行ったことを告げているように思われる。孝徳天皇から始まった本制度の浸透が徐々にではあるが、進捗したことが伺える。それにしても、些か戯れの記述ではある。

五月己巳朔己卯、祭皇祖御魂。是日詔曰、凡百寮諸人、恭敬宮人過之甚也。或詣其門謁己之訟、或捧幣以媚於其家。自今以後、若有如此者隨事共罪之。甲午、高麗卯問、歸之。六月己亥朔癸卯、饗新羅客若弼於築紫、賜祿各有差。乙卯、雩之。壬戌、地震。

五月十一日に皇祖の御魂を祭祀している。現在の「ご先祖様」の捉え方であろうか。この日に百寮に対して、所謂賄賂に繋がる行為を禁じている。二十六日に高麗の使者が帰国。六月五日、新羅の客を筑紫にて饗応し、禄を与えている。十七日に雨乞い、二十四日に地震があったと伝えている。この頻度、どう考えても奈良大和の出来事ではないようだが・・・。

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流石に天武天皇紀である。なかなか進まない・・・今回はこれくらいで・・・。

2020年9月26日土曜日

天渟中原瀛眞人天皇:天武天皇(18) 〔455〕

天渟中原瀛眞人天皇:天武天皇(18)


年が明けて即位九年(西暦680年)の記述である。引用は青字で示す。日本語訳は、こちらこちらどを参照。

九年春正月丁丑朔甲申、天皇、御于向小殿而宴王卿於大殿之庭。是日、忌部首首賜姓曰連、則與弟色弗共悅拜。癸巳、親王以下至于小建、射南門。丙申、攝津國言、活田村桃李實也。

一月八日に王卿等と饗宴し、この日「忌部首首」が「連」姓を賜り、弟の「色弗」共々大喜びしている。「首」はやはり心地よくない姓であったか、地形に基づいた「姓」が消えて行った記述であろう。後に大量の改姓が実施されることになる。逆に言えば、この改姓のフィルターを通して古代を解釈することは間違い、である。

十七日に親王から小建に至るまで参加した射会が催されている。二十日、攝津國活田村で桃李の実がなったと告げている。難波津海辺の微妙な地形、開拓地の献上か否かは判別し辛いところであろう。

<忌部首(宿禰)首(子人)-色夫知(色弗)>
● 忌部首首・色弗

「連」姓を賜って歓喜した兄弟の出自の場所を求めてみよう。「忌部首」の「首」の表記は、既出の忌部首子人の場所と思われる。即ち、同一人物の別名表記であろう。

大将軍大伴連吹負が東へ北へと徘徊する中、「倭京」の守備を固めたと記載されていた。書紀編纂の中心執筆者であったと知られるが、死後一年して書紀が完成する。

既出の色=渦巻くように小高くなった様である。「弗」=「弓+八」と分解され、「飛び出て広がり延びる様」と解釈される。

合わせると色弗=渦巻くように小高くなった地から飛び出て広がり延びたところと読み解ける。この人物には別名があって後の持統天皇紀に忌部宿禰色夫知と記載される。姓が「首」→「連」→「宿禰」と変わっている。「忌部」の地を教えてくれた「首」とはお別れの時代となったようである。それはともかくとして、「色」は上記と同じ解釈、と言うか同じ小高い場所であろう。

それなりの頻度で用いられる「夫」及び「知」は、夫=寄り合ってくっ付く様知=矢+口=鏃のような様と読み解いた。「首」の谷間の出口で山稜が寄り集まっているところと推定される。現在は広い住宅地に開発されているのだが、何とかその地形を読み取ることができたと思われる。現地名は北九州市小倉南区葉山町である。

二月丙午朔癸亥、如鼓音聞于東方。辛未、有人云「得鹿角於葛城山。其角、本二枝而末合有宍、宍上有毛、毛長一寸。則異以獻之。」蓋驎角歟。壬申、新羅仕丁八人返于本土、仍垂恩以賜祿有差。三月丙子朔乙酉、攝津國貢白巫鳥。(巫鳥、此云芝苔々。)戊戌、幸于菟田吾城。

二月半ば、鼓のような音が東方から聞こえた。火山、雷鳴なのか、何かを暗示する記述なのかも不明のようである。二十六日に葛城山で鹿角を得たのだが、何とも珍しい形をしているので献上したと記載している。何とも戯れた内容なのだが、献上したとなると、やはり特異な地かもしれない。

二十七日に新羅の仕丁八人を禄を与えて本国に帰している。三月十日、今度は攝津國が白巫鳥を献上したと述べている。これは、間違いなく開拓地であろう。二十三日に菟田吾城に行幸されている。吉野脱出して程なくして休息した場所である。

<葛城山・鹿角>
葛城山・鹿角

「葛城山」は前記で登場した葛城嶺の中心の山であろう。現在の福智山と推定される。その山麓を探すと二つに岐れた鹿の角のような山稜の端が見出せる。

この二つの山稜に囲まれた谷間に更に小高いところがある。既出の宍=宀+六=山稜に囲まれた谷間にある盛り上がった様と解釈した。

更にこの「宍」が尾根と微かに繋がっているような山稜=毛が見える。「毛」の長さは…一寸=ごく短い…洒落であろう。まるで、地形の細部までを表すかのような記述であることが解る。

深い谷間の崖淵ではあるが(現在はダムとなっている)、小ぶりな耕地とされたのではなかろうか。この地は畿内北限(赤石櫛淵)に入っている場所である。畿内の隅々まで開拓されつつあることを述べたかったのか?…褒賞は記載されていない。

<攝津國白巫鳥(芝苔々)>
攝津國白巫鳥(芝苔々)

「白巫鳥」を調べると、簡単に鳥の古名と切り捨てられているようだが、それもその筈、異説多しの不明なのである。「白いもの」は吉兆だと・・・。

頻出の白=くっ付いて並ぶ様と解釈する。何かがくっ付いていると珍しいように見えるから「白」を用いる。「巫」=「工+人+人」と分解すると、巫=二つの谷間に挟まれた台地と読み解ける。

纏めると白巫鳥=くっ付いて並ぶ谷間の挟まれた台地が鳥の形をしているところと解釈される。

攝津國は、残念ながら海辺の近隣の国であって、標高差の少ない地形を眺めることになるが、注意深く見ると、図に示した場所が山稜の端が二つ並んだ地形を示していることが見出せる。

この地は、古事記の帶中津日子命(仲哀天皇)紀に記述されている忍熊王・香坂王の謀反の事件に登場する「伊佐比宿禰」将軍の出自の場所と推定した。その図を再掲すると、標高線に従って当時の海水面を推測することができ、くっ付いて並ぶ地形が伺える。

<伊佐比宿禰>
更に、「鳥」の全体の姿は不鮮明だが、この突き出た二つの山稜を空飛ぶ「鳥」の脚に見立てたのではなかろうか。

古事記の読み解きの際には、些か疑心暗鬼な面もあった場所であるが、ここで、当時の地形を推定し得ることが解った。

加えて、「芝苔々」の訓は如何に読めるであろうか?…既出の芝=艸+之=山稜に挟まれた蛇行する川である。

「苔」=「艸+台」と分解されるが、「台」は「臺」の略字ではなく「始」の原字である。

即ち、苔=並んでいる山稜が始まるところを意味している。海辺の地で水田稲作を可能にした報告であり、それを献上した記録である。驚異の文字使いであろう。見事に上記の地形を表現していることが解る。鳥の古名とするしか残された道はなかったのであろう。

夏四月乙巳朔甲寅、祭廣瀬龍田神。乙卯、橘寺尼房失火、以焚十房。己巳、饗新羅使人項那等於筑紫、賜祿各有差。是月、勅「凡諸寺者自今以後、除爲國大寺二三以外、官司莫治。唯、其有食封者先後限卅年、若數年滿卅則除之。且以爲飛鳥寺不可關于司治、然元爲大寺而官司恆治、復嘗有功、是以猶入官治之例。」

四月十日に恒例の「廣瀬龍田神」を祭祀している。翌日「橘寺」の尼房から失火、十房が焼失したと述べている。本寺は廐戸皇子(聖徳太子)建立の七大寺の一つであり、皇子の出自の近隣とも言われているようである(推定した場所はこちら参照)。

この月に二、三の「國大寺」(官寺)を除いて官司が治めてはならないとし、「食封」はこの先三十年間に限る。一方、飛鳥寺には官司が治めるようにしろ、と命じられている。仏教流布のための寺・僧尼の数もある程度充足した感があったのかもしれない。

五月乙亥朔、勅、絁綿絲布以施于京內廿四寺各有差。是日、始說金光明經于宮中及諸寺。丁亥、高麗遣南部大使卯問・西部大兄俊德等朝貢、仍新羅遣大奈末考那、送高麗使人卯問等於筑紫。乙未、小錦下秦造綱手卒、由壬申年之功贈大錦上位。辛丑、小錦中星川臣摩呂卒、以壬申年之功贈大紫位。六月甲辰朔戊申、新羅客項那等歸國。辛亥、灰零。丁巳、雷電之甚也。

五月初めに京内の二十四寺に綿布を個別に与え、初めて金光明経を宮中及び諸寺で説かせたと記載している。護国に対する心構えは欠かせないが、平時にどっぷり浸かった状況だったのであろう。十三日、高麗が使者を派遣、この度も新羅が送迎する手筈となっていたようである(新羅は六月五日に帰国)。

二十一日、秦造綱手(秦造熊に併記、兄弟?)が亡くなって、乱の功績より大錦上位を贈られている。また二十七日には「星川臣摩呂」も亡くなり、同じくその功績で大紫位を贈っている。六月八日に灰が降り、十四日には雷が凄かったと述べている。火山の噴火があったのであろう。

<星川臣摩呂・黑麻呂>
● 星川臣摩呂

この人物も乱の場面では登場することはなった。古事記の波多八代宿禰の一族の一人に違いはないと思われる。今一度出自を確認しておこう。

「星」=「日+生」と分解される。地形象形的には、星=山稜が[炎]のように生え出た様と読み解いた。矢筈山の南西麓の地形を表していることが解る。

前出の羽田公矢國は、西麓であり、図に示したような位置関係にある。波多八代宿禰の同族であり、「矢國」が寝返った時に随伴したのであろう。死後贈られた大紫は極めて高位である。寝返りの効果の大きさを物語っているように伺える。

近江朝側の将軍であった韋那公磐鍬とは対岸の位置でもある。勿論当初は同じ側に立っていたのである。「矢國」と同様に、歴史の表舞台に立つ役柄とは遠く離れていた建内宿禰の子「波多八代」の後裔が舞台の袖から飛び出た感じであろう。

後(續紀の元正天皇紀)に黑麻呂が『壬申の乱』功臣達の子の一人として、褒賞を賜っている。黑=谷間で炎のような山稜が延びている様と解釈した。地図上ではその地形が確認し辛いところではあるが、図に示した辺りと思われる。「黑」は今に残る地名なのであろう。四十年以上の後でも敵の将軍の足元を抄った効果は、高く評価されたようである。

秋七月甲戌朔、飛鳥寺西槻枝、自折而落之。戊寅、天皇幸犬養連大伴家以臨病、卽降大恩、云々。是日、雩之。辛巳、祭廣瀬龍田神。癸未、朱雀、有南門。庚寅、朴井連子麻呂、授小錦下位。癸巳、飛鳥寺弘聰僧終、遣大津皇子・高市皇子而弔之。丙申、小錦下三宅連石床卒、由壬申年功贈大錦下位。戊戌、納言兼宮內卿五位舍人王病之臨死、則遣高市皇子而訊之。明日卒、天皇大驚、乃遣高市皇子・川嶋皇子、因以臨殯哭之、百寮者從而發哀。

七月初め、飛鳥寺の西槻の枝が自然に折れて落ちたと述べている。盛り上がった山稜の端が崩落したのかもしれないが、真偽は不明。何かの予兆か?…。五日に犬養連大伴(縣犬養連大伴)の家に行き病を見舞っている。吉野脱出時に最初から随行していた。この日に雨乞いを行った。八日に恒例の廣瀬龍田神」を祭祀。十日に南門に「朱雀」が現れたとか。

十七日に朴井連子麻呂(雄君の弟)に小錦下を授けている。二十日、飛鳥寺の弘聰僧が亡くなり、大津皇子・高市皇子を弔問させたと述べている。二十三日に三宅連石床が亡くなり、大錦下を贈っている。二十五日、「舎人王」が危篤になり、高市皇子を訊ねさせている。翌日逝ったようである。皆哀しんだ様子である。

「舎人王」は「納言兼宮内卿五位」の立派な肩書が付加されている。宮中の舎人を束ねる要職にあったと思われる。にもかかわらず出自は殆ど伝えれておらず、不明である。「王」である以上皇族であってしかるべき素性を持っていた筈であろう。混同し易いのが舎人皇子(親王)であるが、こちらは天智天皇の娘、新井田部皇女を天武天皇が娶って誕生していた。

この時も出自場所は曖昧で、舎人の発祥の地、古事記の大長谷若建命(雄略天皇)紀に記載された長谷部舍人・河瀬舍人から「河瀨舎人」の場所と推定した。まるで消去法のようになるが、「舎人王」は「長谷部舎人」の地を出自とするのではなかろうか。舎人に「左右」があったようで、「長谷朝倉宮」を中心とした表記と推測される。

八月發卯朔丁未、法官人、貢嘉禾。是日始之三日雨、大水。丙辰、大風折木破屋。九月癸酉朔辛巳、幸于朝嬬、因以看大山位以下之馬於長柄杜、乃俾馬的射之。乙未、地震。己亥、桑內王卒於私家。

八月五日に法官の人が「嘉禾」(穗が多くある稲)を献上している。この日から三日間雨となって洪水になったと伝えている。十四日には強風、激しい気候になっていたようである。九月九日に「朝嬬」に行幸されている。大山位以下の者の馬を見て、「長柄杜」で馬的を行ったと述べている。二十三日、地震。二十七日に「桑内王」が逝去したと記している。

<朝嬬・長柄杜>
朝嬬・長柄杜

書紀では、允恭天皇を「雄朝津間稚子宿禰天皇」、または「雄朝嬬稚子宿禰天皇」と記載している。古事記は、勿論、異なる表記であって「男淺津間若子宿禰命」である。

「朝津間・朝嬬・淺津間」は、同一場所の別名であることが解る。古事記で求めた場所は、現地名行橋市前田、長峡川の川辺の地であった。別名で読み解いてみよう。

「朝」=「𠦝+月」と分解され、「朝」=「盛り上がった山稜の端にある三角州」である。「嬬」=「女+需」と分解され、「需」=「しなやかに延びる様」とすると、「嬬」=「嫋やかにしなやかに延びる谷間」と読み解ける。

纏めると、朝嬬=盛り上がった山稜の端にある三角州の傍らに嫋やかにしなやかに延びる谷間があるところと解釈される。申し分なく允恭天皇の近傍の地形を表現していることが解る。

「長柄」はその北側の、山稜が長く延びて二股になっている場所を示し、その中心にある「杜」を表していると思われる。現在は広大な団地開発が行われていて、「杜」の実態を伺うことは叶わないようである。「長柄」は孝徳天皇の難波長柄豐碕宮でも用いられた表記である。

<桑内王>
● 桑内王

この王の出自は、全く不詳であり、系譜も含めて、いまだかつて手掛かりらしきものは得られていないようである。

「桑」に関連する表記は、古事記の沼名倉太玉敷命(敏達天皇)が春日の老女子郎女を娶って誕生させた御子が「難波王、次桑田王、次春日王、次大俣王」と記載されている。

最初の「難波王」=「難波皇子」であり、その子供達が何人も登場している(栗隈王、石川王、高坂王など)。しかしながら桑田王の系譜の人物は未だ登場せず、暗闇状態である。

この「桑」を頼りにするのであるが、それらしき場所は、現在の田川郡赤村内田山の内、かつては壹比韋と言われたところではなかろうか。

そこまで探索が進んだところで、「卒於私家」の文字列に目が留まった。何故わざとらしく「私家」の文字を書き足したのか?…「私」=「禾+ム」と分解される。「ム」は「公」などに含まれ、「地面より凸または凹になって区切られた様」を表す文字要素と解説されている。

すると、「禾」=「しなやかに曲がる山稜の端」として簡略に表現すると、私=山稜に囲まれた様と読み解ける。即ち「壹比韋」の別名表記と解る。ここまで来ると頻出の家=宀+豕=山麓にある豚の口のような様から居場所に辿り着く。「桑内王」の「私家」は図に示した場所を表していたのである。

冬十月壬寅朔乙巳、恤京內諸寺貧乏僧尼及百姓而賑給之、一毎僧尼各絁四匹・綿四屯・布六端、沙彌及白衣各絁二匹・綿二屯・布四端。十一月壬申朔、日蝕之。甲戌、自戌至子、東方明焉。乙亥、高麗人十九人返于本土、是當後岡本天皇之喪而弔使留之未還者也。戊寅、詔百官曰、若有利國家寛百姓之術者、詣闕親申、則詞合於理立爲法則。辛巳、雷於西方。癸未、皇后體不豫。則爲皇后誓願之、初興藥師寺、仍度一百僧。由是、得安平。是日、赦罪。丁亥、月蝕。遣草壁皇子、訊惠妙僧之病。明日、惠妙僧終、乃遣三皇子而弔之。乙未、新羅遣沙飡金若弼・大奈末金原升進調、則習言者三人從若弼至。丁酉、天皇病之。因以度一百僧、俄而愈之。辛丑、臘子鳥蔽天自東南飛以度西北。

十月京内の貧乏な僧尼及び百姓に施したと記している。僧尼には綿・布など、沙彌(修行者)及び白衣(俗人)にも同様なものを、量は少ないが、与えている。十一月初めに日蝕が見られた。三日の午後十一時から十二時にかけて東方が明るかったと述べている。

四日に高麗十九人が帰国、後岡本天皇の喪に訪れていた者達とのこと。この時期、送迎は新羅が行っている。何らかの理由で新羅の船に乗らなかった、あるいは、乗れなかったのであろう。七日に「国家」に利する百姓の術があるなら申し出でよ、と命じている。記述の共有化、必須であろう。

十日、西の方で雷がなった。十二日に皇后が体調を崩して、初めて「藥師寺」を建立し、百人の僧を出家させ、結果無事に平安になったと伝えている。十六日に月蝕があり、草壁皇子に惠妙僧の見舞いに行かせたが、翌日亡くなっている。二十四日に新羅が進調。二十六日に天皇が病気になったが、百人の僧を出家させると癒えたと述べている。三十日、臘子鳥が東南から西北に向かって飛んだと記している。また大地震が来る前兆なのであろうか。

<藥師寺・藤原宮・輕市>
藥師寺・藤原京

正直に申せば、まさか藥師寺を福岡の田川に求めることになるとは、想定外であって、本寺の場所となると「藤原宮(京)」を探すことになる。さて、如何なる結果になったか、図を参照。

藥師寺、藤原宮共に申し分のない地形象形表記であった。既出の「藥」、「師」そして「藤」(池が連なって上がっていく様)これらが表す地形がきちんと揃った場所である。詳細な解説は、後日としよう。

調べると現在の藥師寺に対して、「本藥師寺」があると言う。差し詰め、ここは「元藥師寺」となるかも、である。

後に「輕市」の地名が登場する。頻出の文字の組合せより、輕市=三角州が寄り集まったところと読んで図に記載した場所と推定した。まだ、「天神族」は動かないようである。

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見え隠れしていた「藤原京」が「藥師寺」から見えた。今回は、実に捻じれた、と言うか巧みな表記の連続であった。解けると、また半歩前進した気分である。






2020年9月23日水曜日

天渟中原瀛眞人天皇:天武天皇(17) 〔454〕

天渟中原瀛眞人天皇:天武天皇(17)


引き続き即位七年(西暦678年)の出来事である。引用は青字で示す。日本語訳は、こちらこちらどを参照。

七年春正月戊午朔甲戌、射于南門。己卯、耽羅人向京。是春、將祠天神地祗而天下悉祓禊之、竪齋宮於倉梯河上。夏四月丁亥朔、欲幸齋宮卜之、癸巳食卜。仍取平旦時、警蹕既動・百寮成列・乘輿命蓋、以未及出行、十市皇女、卒然病發、薨於宮中。由此、鹵簿既停、不得幸行、遂不祭神祗矣。己亥、霹靂新宮西廳柱。庚子、葬十市皇女於赤穗。天皇臨之、降恩以發哀。秋九月、忍海造能摩呂、獻瑞稻五莖。毎莖有枝。由是、徒罪以下悉赦之。三位稚狹王薨之。

一月半ば射会を催している。二十二日、耽羅人が京に向かったと述べている。天神地祗を祠るために隈なく祓禊を行ったと記載している。神仏の両方だから、なかなかに忙しい。それで「倉梯河上」に「齋宮」を建てたそうである。占いで四月七日が吉とのことで行幸の準備万端のところで十市皇女が突然宮中で発病して逝ってしまったと述べている。当然、行幸は中止となったようである。

四月十三日、新宮(淨御原宮:山稜を切り裂いた場所、前記の新城参照)の西廳柱に霹靂(落雷)があったとか。度々の出来事、荘厳な宮を造るなど、もっての外であったろう。翌十四日に十市皇女を「赤穂」に葬っている。天皇は甚く悲しまれた様子である。大友皇子の正妃と言う、複雑な状況にあった。近親の骨肉関係が生んだ悲哀であろう。

九月に「忍海造能摩呂」が「瑞稻五莖」を献上し、軽い罪の者を赦したと記載している。これも単なる瑞稻ではないように思われるが、後に調べてみよう。三位の稚狹王(父親難波皇子)が亡くなっている。

<齋宮於倉梯河上>
齋宮於倉梯河上

「倉梯」の文字は、阿倍倉梯麻呂(内麻呂)大臣で登場している。では、「阿倍」の地か!?…と決め付けるわけには行かないようである。

もう一つ関連する記述は、書紀の崇峻天皇の宮が「倉梯」にあったことであり、対応する古事記の長谷部若雀天皇(崇峻天皇)の宮は倉椅柴垣宮であったと記載されている。

また大雀命(仁徳天皇)紀の速總別王・女鳥王の逃避行に登場する倉椅山の記述もあった。即ち、古事記の「倉椅」の地を「倉梯」と記述していると解る。「椅」と「梯」とは似て非なる文字であって、地形的には全く異なる表記である。

図に示したように谷間全体を表した「倉椅」に対して、その麓にある「梯」の地形を表すと文字であると思われる。阿倍倉梯麻呂で読み解いたように「梯」=「木+弟」と分解され、梯=山稜が段々(ギザギザ)になった様である。その傍らの谷間()を流れる川を「倉梯河」と名付けられていたのであろう。

その「河上」にあった齋宮の場所は、前記の泊瀬齋宮と同様に齋=齊+示=高台に同じような地形が等しく揃っている様から、図に示した高台に求められるであろう。何故この地に齋宮を造られたのかは記されていないが、崇峻天皇の最後に関わることも一つの理由ではなかろうか。即位五年以降飢饉が頻発、それに対して様々な祈願を行ったが決して有効ではなかったようである。上記の「天下悉祓禊之」の象徴としてこの地が選ばれたと推察される。

<赤穗>
赤穗

「赤穗」=「[赤]の地形から穗のように延び出たところ」と読める。では「赤」は何処を示すのであろうか?…古事記の大長谷若建命(雄略天皇)紀の引田部赤猪子ではあり得ない。

「赤」を含む名前を持っていたのは、袁本杼命(継体天皇)の御子、赤比賣郎女がいた。「三尾」の山稜が作る谷間を「赤」で表記したと解釈した場所である。

「赤」=「大+火」と分解して、それぞれの要素が示す地形が組合わさったところである。現地名は田川郡京都郡みやこ町吉岡と推定した。そしてこの谷間を作る山稜が延びて稲穂のようになった場所を赤穗と呼んだと思われる。後に氷上夫人もこの地に埋葬されることになる。

余談になるが、Wikipediaによると…「旧赤穂郡(現在の赤穂市・相生市・上郡町域)は古代の令制国における播磨国に属したことが平城宮・京跡出土木簡から判明している」…と記されている。赤穗の地は丹波國・但馬國・播磨國に取り巻かれている。これも実に生真面目な国譲りの結果であろう。ところが、この赤穂は、通説では奈良市高畑にある”赤穂神社”とされている。赤穂の地があることは知っていながらの苦肉の場所であろう。

<忍海造能摩呂>
● 忍海造能摩呂

前出の忍海造小龍(色夫古娘)の近隣であろう。しなしながらこの地は忍海状態で山稜の端が突き出た場所であり、能=隅を定め難い有様である。「摩呂」は頼りにならず、さて・・・やはり「獻瑞稻五莖」は貴重な情報提供であった。

そもそも珍しい稲と言えども、それを「五茎」とは、分かったようですっきりとは理解し難い表現である。

「莖」=「艸+坙」と分解される。「坙」=「真っ直ぐに延びる様」であり、「輕」、「經」などで用いられている文字要素である。要するに真っ直ぐに延びる山稜が五つ寄り集まった場所を表していることが解る。

「忍海造能摩呂」の出自の場所は、それらの隅に当たり、この地を開拓し、献上したことを示しているのである。お喜びになって恩赦となったと記述している(他の献上品の記述は今一度見直す必要があるかもしれないが、後日としよう)。

冬十月甲申朔、有物如綿、零於難波、長五六尺廣七八寸、則隨風以飄于松林及葦原、時人曰甘露也。己酉、詔曰「凡內外文武官、毎年、史以上其屬官人等公平而恪懃者、議其優劣則定應進階。正月上旬以前、具記送法官。則法官校定、申送大辨官。然、緣公事以出使之日、其非眞病及重服、輕緣小故而辭者、不在進階之例。」

十月初め、難波に大きな綿のようなものが降り、松林、葦原で風で漂い舞ったと記載している。それを見た人が「甘露」と言ったとか。天武の治世を褒めた表現なのであろうか。二十六日に文部官の勤務評定について述べられている。出張するのに仮病を使ったり、どうでもよいようなことを理由にして断わる輩は進級させるな!と命じられている。ま、今に通じる話であろう。

十二月癸丑朔己卯、臘子鳥、弊天、自西南飛東北。是月、筑紫國大地動之、地裂廣二丈長三千餘丈、百姓舍屋毎村多仆壞。是時、百姓一家有岡上、當于地動夕以岡崩處遷、然家既全而無破壞、家人不知岡崩家避、但會明後知以大驚焉。是年、新羅送使奈末加良井山・奈末金紅世、到于筑紫曰「新羅王、遣汲飡金消勿・大奈末金世々等、貢上當年之調。仍遣臣井山、送消勿等。倶逢暴風於海中、以消勿等皆散之、不知所如。唯井山僅得着岸。」然、消勿等遂不來焉。

十二月も過ぎようとしている時、「臘子鳥」(スズメ目アトリ、冬鳥)として知られる。京の西南方角で地変を感じたのかもしれない。筑紫で大地震が発生して、被害の状況が詳細に記載されている。日本における具体的な記録が残された最古の地震だとか。凄まじい地滑りが起こったのであろう。そもそも自然に逆らわない住居ではある。

この年と記されて期日が不明だが、新羅の使者が暴風に遭って難破したことを漂着した送使の一人が告げている。記録に残っていない遭難事例は多くあった筈だと思われるが。

八年春正月壬午朔丙戌、新羅送使加良井山・金紅世等、向京。戊子、詔曰「凡當正月之節、諸王諸臣及百寮者、除兄姉以上親及己氏長以外、莫拜焉。其諸王者、雖母非王姓者、莫拜。凡諸臣亦莫拜卑母。雖非正月節、復准此。若有犯者、隨事罪之。」己亥、射于西門。

即位八年(西暦679年)正月五日、新羅が使者を送り、京に向かったと記載している。七日、百寮以上の者は、「兄姉以上親及己氏長」以外を礼拝してはいけないと述べている。また「王」は母と言えども「王姓」でなければ礼拝してはいけないとしている。

天皇が采女などに産ませた「王」が対象となるようで、大友皇子の出自を思い出させる記述であろう。「王」が付くのは天皇の五世までのようだから、かなりの人数になる。本紀に出自不詳の「王」が多く登場するが、この「詔」に関係するのかもしれない。

十八日に射会を催したと記載している。

二月壬子朔、高麗、遣上部大相桓父・下部大相師需婁等、朝貢。因以、新羅遣奈末甘勿那、送桓父等於筑紫。甲寅、紀臣堅摩呂、卒。以壬申年之功、贈大錦上位。乙卯、詔曰「及于辛巳年、檢校親王諸臣及百寮人之兵及馬。故、豫貯焉。」是月、降大恩恤貧乏、以給其飢寒。

二月初め、高麗が朝貢し、新羅が使者を筑紫に送っている。三日に紀臣堅摩呂(紀臣訶多麻呂)が亡くなり、大錦上の冠位を贈った。四日に百寮以上の者の兵器・馬を調べるよと命じている。この月に貧しく、また飢えているの者に恵んだと記載してる。

三月辛巳朔丙戌、兵衞大分君稚見、死。當壬申年大役、爲先鋒之、破瀬田營。由是功、贈外小錦上位。丁亥、天皇幸於越智、拜後岡本天皇陵。己丑、吉備大宰石川王、病之薨於吉備。天皇聞之大哀、則降大恩、云々。贈諸王二位。壬寅、貧乏僧尼、施絁綿布。

三月六日に兵衞(舎人)大分君稚見が死んでいる。『壬申大役』で瀬田橋の決戦の先鋒として大活躍したと記されていたが、その功績で外小錦上を贈っている。薨→卒→死と冠位順に表記が変わる。この時点で決まっていたかは不明。いずれにせよ、大役後の位は決して高くはなかったのであろう。

翌日、「越智」にある「後岡本天皇陵」(斉明天皇陵)に出向き、拝礼している。天武天皇の母親、勿論「拝礼」の「詔」に背いてはいない。前記で小市岡上陵と記載されていた場所であり、確度高く比定された、と述べたところである。

九日に吉備大宰の石川王(難波皇子の子)が病で亡くなっている。それで大恩赦をしたと記載している。二十二日には貧乏な僧尼に綿布を施している。

<越智・後岡本天皇陵>
越智

「小市」を「越智」と表記しているのであるが、別名として通じるのであろうか・・・。

「越」=「止(足)+戉(鉞)」と分解する。地形象形としての越=山稜の端が鉞の様に広がった様と読み解ける。頻出の智=矢+口+日=鏃のような山稜の傍で炎のように山稜が延びる様と読み解いた。

図に示したように「越智」のこれら三つの山稜の端が寄り集まった場所を表していることが解る。即ち「小市」の別表記であることが確かめられたと思われる。益々確度が高まったようである。

吉備大宰の場所は情報少なく、筑紫大宰(平らな頂の麓の山稜が断ち切られたような様)と同様の地形を表しているとすると、現在の下関市吉見下にある光善寺辺りではなかろうか。後日に機会があったら詳細に求めてみようかと思う。

夏四月辛亥朔乙卯、詔曰、商量諸有食封寺所由、而可加々之、可除々之。是日、定諸寺名也。己未、祭廣瀬龍田神。

四月初めの頃、寺の食封を調べ、加えるべきところは加え、また減らすべきところは減らすように、と命じられている。また諸々の寺の名前を定めている。九日に恒例の「廣瀬龍田神」を祭祀している。

五月庚辰朔甲申、幸于吉野宮。乙酉、天皇、詔皇后及草壁皇子尊・大津皇子・高市皇子・河嶋皇子・忍壁皇子・芝基皇子曰「朕、今日與汝等倶盟于庭而千歲之後欲無事、奈之何。」皇子等共對曰、理實灼然。則草壁皇子尊、先進盟曰「天神地祗及天皇、證也。吾兄弟長幼幷十餘王、各出于異腹、然不別同異、倶隨天皇勅而相扶無忤。若自今以後、不如此盟者、身命亡之子孫絶之。非忘非失矣。」五皇子、以次相盟如先。然後、天皇曰「朕男等各異腹而生、然今如一母同産慈之。」則披襟抱其六皇子。因以盟曰「若違茲盟、忽亡朕身。」皇后之盟、且如天皇。丙戌、車駕還宮。己丑、六皇子共拜天皇於大殿前。

五月五日に天皇は吉野に行かれ、翌日、草壁皇子尊・大津皇子・高市皇子・河嶋皇子(川嶋皇子)・忍壁皇子・芝基皇子(施基皇子)に向かって「千年経っても無事を願いたいのだが、如何なものか?」と問うと、草壁皇子が先んじて「我が兄弟は長幼合せて十余王、母親は異なるが、変わらぬことはなく、天皇に従って、助け合います。もしこれが果たせぬなら子孫は絶えてしまうことになるでしょう」と述べた。残りの皇子も誓い合ったと記載してる。皆で誓い合って吉野を去っている。

五月十日には大殿で六皇子が天皇に拝礼している。今に伝わる「吉野の盟約(誓い)」と呼ばれる段である。しかしながら、時を経ずして、この誓いは破られることになる。そしてこの誓い通りに子孫は絶えてしまう。皇統、危うしの時期を迎えることになる。

尚、河嶋皇子(川嶋皇子)と芝基皇子(施基皇子)は天智天皇の御子である。河=水+可=谷間から川が流れ出るところを表すと解釈した。例えば『壬申の乱』の最終場面で登場した河南などがある。「川」とすれば幾つかの川が流れる場所を示し、それが谷間の出口であることを別表記で表したと思われる。

後者の施=㫃+也=旗が畝ってなびいているようなところと解釈した。それを芝=艸+之=山稜が並んでいる地に蛇行する川があるところと読み解ける。全くの別表記として受け入れられる置換えであろう。そして各々の推定した場所の確からしさが高められたように思われる。

六月庚戌朔、氷零、大如桃子。壬申、雩。乙亥、大錦上大伴杜屋連、卒。秋七月己卯朔甲申、雩。壬辰、祭廣瀬龍田神。乙未、四位葛城王卒。八月己酉朔、詔曰、諸氏貢女人。己未、幸泊瀬、以宴迹驚淵上。先是、詔王卿曰「乘馬之外、更設細馬、以隨召出之。」卽自泊瀬還宮之日、看群卿儲細馬於迹見驛家道頭、皆令馳走。庚午、縵造忍勝、獻嘉禾、異畝同頴。癸酉、大宅王卒。

六月初めに桃の大きさの雹が降っている。二十三日に「雩(アマヒキ)」(雨乞い)をしたようである。二十六日に「大伴杜屋連」が亡くなっている(大伴長德の子と言われているが…)。七月十四日に恒例の「廣瀬龍田神」を祭祀。十七日に葛城王(不詳で敏達天皇の子の葛城王の子孫ではないかと言われる)が逝ったと伝えている。

八月初めに諸々の氏族は娘を献上しろと命じている。采女の採用であろう。十一日に「泊瀬」に行幸、「迹驚淵上」で宴会を行っている。これに先立って、「乗馬」の外に「細馬」(細身の馬、競走馬か?)を提出すように、と命じられている。「泊瀬」より帰る時に、郡卿が備えた「細馬」を「迹見驛家」の道で走らせたと記載している。

八月二十二日に「縵造忍勝」が畝が異なっているが穗が一緒の稲を献上している。またもや、その地形を示しているようであるが、後程読み解いてみよう。二十五日に大宅王が(難波皇子の子、栗前王他に併記)亡くなったと記載している。

迹驚淵上・迹見驛家道頭

「女人」の話に続く「泊瀬」は前出の泊瀬齋宮の場所を示すのであろう。「齋宮」に仕える人手を主として意味していたと思われる。

<迹驚淵上・迹見驛家道頭>
宴会をした場所を「迹驚(トドロキ)淵上」と記している。水が飛び跳ねる音を感じさせる表現であるが、「迹驚」は何を示しているのであろうか?…淵を流れる川は迹太川と解釈した。

桑名への逃亡時に、その川岸で天照大御神を望拝したと記述されていた。その迹=川中の州を使い、驚=敬+馬=馬が何かに驚いて身を引き締める様と繋げている。

川が蛇行する内側(低流速側)で州が広がらずに盛り上がった様を表していると読み解ける。現在は堰が設けられて当時を偲ぶことは叶わないようである。

「迹驚淵上」は図に示した辺りと推定される。視覚に加えて聴覚による自然の営みを感じながらの宴会だったようである。「細馬」は脚がほっそりした現在のサラブレッドを伺わせる表現であろう。それを集めさせて走らせた場所を「迹見驛家道頭」と記載している。文字が示す意味が読み取れず、頭を並べて走らせた、のような珍訳まで見受けられる。

迹見驛家=[迹]が見える驛家であろう。前出の朝明郡家と思われる。その傍らの道頭=[首]の形に繋がる[頭]の地と読み解ける。図に示したように山稜の端にある平らな小高い場所を表していると思われる。現在のパドックでの下見を行ったと述べている。齋宮周辺を「迹」をキーワードに見事に再現しているのである。

<大伴杜屋連>
● 大伴杜屋連

「大錦上」の爵位を有するわけだからかなりの大物と推測されるのだが、書紀での登場はこの記述のみである。大伴連長徳の子と言われるが、定かではないようである。

「大伴」の谷間の地で「杜屋」の文字を読み解くことにする。頻出の屋=尸+至=山稜が延び至る様と読み解いて来た。すると谷間の出口から延びる山稜の示していると思われる。

「杜」=「木+土」と分解される。単純な文字要素ほど解釈に注意が必要である。「土」=「大地が盛り上がった様」を示すことから「杜」=「山稜が盛り上がった様」と解釈する。纏めると杜屋=山稜が延び至ったところが盛り上がっている様と読み解ける。

僅かではあるが、端が盛り上がっている様子が伺える。杜屋の出自の場所はこの山稜の西側の谷間と推定される。別名で守屋と称していたとのことであるが、守屋=山稜が延び至ったところが肘を曲げたような山稜に囲まれたと読むと上流域の地形に注目した表記となる。妥当な別名であろう。物部守屋大連の例を挙げておこう。

<縵造忍勝・嘉禾:異畝同頴>
● 縵造忍勝

目出度い稲を献上したと告げている。いきなりの登場であるが、調べると百濟系渡来人の子孫のようである。と言うことで、「百濟」の近辺を探索すると、適当な場所が見出せる。

「縵」=「蔓性の植物」と辞書に記載されていることから、地形象形的には、縵=細い山稜が長く延びた様と読み解く。

古事記の師木津日子玉手見命(安寧天皇)が娶った阿久斗比賣の場所の特徴的な山稜を表していることが解る。名前の忍勝は、既出の文字の組合せであり、忍勝=谷間の真ん中にギザギザとした山稜がのびて盛り上がっているところと読み解ける。現在の菅原神社の西側に当たる場所が出自と推定される。

「異畝同頴」の稲も、前記と同様に地形を示す表現と思われる。即ち、「縵」が途切れて「異畝」となり、「同頴」は「畝」から延びた穗のような地がくっ付くように繋がり延びた様を表していると思われる。紛うことなく、この地を開拓し献上したことを述べているのである。

九月戊寅朔癸巳、遣新羅使人等、返之、拜朝。庚子、遣高麗使人・遣耽羅使人等、返之、共拜朝庭。冬十月戊申朔己酉、詔曰「朕聞之、近日暴惡者多在巷里。是則王卿等之過也。或聞暴惡者也煩之忍而不治、或見惡人也倦之匿以不正。其隨見聞以糺彈者、豈有暴惡乎。是以、自今以後、無煩倦而上責下過・下諫上暴、乃國家治焉。」
戊午、地震。庚申、勅制僧尼等威儀及法服之色・幷馬從者往來巷閭之狀。甲子、新羅、遣阿飡金項那・沙飡薩虆生、朝貢也。調物、金銀鐵鼎錦絹布皮馬狗騾駱駝之類、十餘種。亦別獻物、天皇・皇后・太子、貢金銀刀旗之類、各有數。是月、勅曰「凡諸僧尼者、常住寺內以護三寶。然、或及老・或患病、其永臥狹房久苦老疾者、進止不便・淨地亦穢。是以自今以後、各就親族及篤信者而立一二舍屋于間處、老者養身・病者服藥。」

九月十六、二十三日と新羅、高麗及び耽羅から使者が帰還、朝廷にて拝礼している。十月二日、天皇が「巷間に悪者が多くいると知ったが、王卿の怠慢だ」と述べてられる。「上責下過・下諫上暴」のように皆で悪しきところを直すべし、と命じられている。

十一日に地震があったと記している。十三日に僧尼の「威儀」(立ち振る舞いの作法)と法服の色、馬と従者が寺と里との往復する形式を定めたと述べている。十七日に新羅が金銀など様々なものを大量に朝貢したと伝えている。この月に僧尼に対して「常時寺に在して三宝を守れ」と命じられている。また穢れの無いようにしろとも言われている。

十一月丁丑朔庚寅、地震。己亥、大乙下倭馬飼部造連爲大使・小乙下上寸主光父爲小使、遣多禰嶋、仍賜爵一級。是月、初置關於龍田山・大坂山、仍難波築羅城。十二月丁未朔戊申、由嘉禾、以親王諸王諸臣及百官人等給祿各有差、大辟罪以下悉赦之。是年、紀伊國伊刀郡貢芝草、其狀似菌、莖長一尺、其蓋二圍。亦、因播國貢瑞稻、毎莖有枝。

十一月十四日、またもや地震があった。二十三日に倭馬飼部造連・「上寸主光父」を多禰嶋(詳細はこちら)へ遣わしている。爵位を一級進めている。この月に龍田山・大坂山に「關」(関)を設置し(こちら参照)、難波に「羅城」を築いている(「羅城」は初出の表記、後日に求めてみよう)。国防に関しても手抜かりなく、であろう。

十二月二日、「嘉禾」(8/22 縵造忍勝が献上)に由って、親王・諸王・諸臣・百官に個別に禄を給し、死罪以下へ恩赦したと述べている。「忍勝」の地で、この年の収穫が豊かだったのかもしれない。この年「紀伊國伊刀郡」が巨大な「芝草」(万年茸)を、「因播國」が「瑞稲」(茎ごとに枝がある?)朝貢したと記載している。

<上寸主光父・上村主百濟>
● 上寸主光父

この人物も情報が極めて少なく、ほぼ皆無と言える。「寸」の文字を頼りに関連するところを引っ張り出すと、古事記の橘豐日命(用明天皇)の陵墓、石寸掖上がある。「寸」=「又(手)+一」=「肘を曲げた腕のような山稜」と読んだ。

上寸主=上(流部)の肘を曲げた腕のような山稜の傍にある真っ直ぐに延びた様と読み解ける。

幾度か登場する「光」=「火+人」=「谷間のある炎のような山稜」と読む。即ち、光父=谷間にある炎のような山稜が交差する様となる。纏めると、上寸主光父=[上寸主]の麓で[炎]のような山稜が交差するところと読み解ける。現地名は田川郡香春町五徳、その谷間の奥の場所と推定される。

後の持統天皇紀に上村主百濟が登場する。「寸」が「村」に置き換えられているが、「村」=「木+寸」から成る文字と分れば、全く同様の地形象形表現である。父親が光缺と知られている。「光父」とは一文字違いで、兄弟のようにも思われるが、定かではない。

」の最も西側の谷間の出口が「コ」の字形に欠けている()ところが出自と推定される。頻出の百濟=小高いところが並び揃っている様と読み解いたが、現在は見事な棚田が並んでいる地となっていて、些か当時を偲ぶのが難しいようではあるが、おそらく香春一ノ岳・二ノ岳の間の谷間に幾つかの山稜が延びた端辺りと思われる。

天武天皇紀の人材の出自は、実に多彩である。有能な者を身分に関わりなく受け入れよ、と言う指示が浸透していたのであろう。故に、名前からのみでその地を求めるのが困難な状況追い込まれてしまうようである。

<紀伊國伊刀郡>
紀伊國伊刀郡

書紀の「紀伊國」は、古事記の「紀國」に該当する。因みに書紀の「紀國」は、古事記の「木國」である。どちらが正しいと言うことではなく、地形象形表記が異なるだけである。

紀伊=紀(己に曲がった山稜)が伊(谷間で区切られた)様である。古事記には「伊」の認識はない。

その地でこれも「刀」の地形を探すと、難なく現在の北九州市門司区上吉田に見出すことができる。「伊」が付加されるのは「刀」の上部で山稜が区切られたようになっているからであろう。

ひょっとすると、郡の大きさはもっと小さいかったかもしれない。更に、やはりこの段の記述も開拓地の献上であった。刀の足の部分が大きな傘のキノコの形状を示していることが解る。耕地面積増大は、国力充実に大きな寄与をなしたものと推察される。

最後の因播國は、前出で示した通りであるが、ここでも「瑞稻、毎莖有枝」と記されている。正に多くの山稜が延びて広がった様を表している。特定の「莖」ではなく全体を表している(前掲の図を参照)。