2018年10月23日火曜日

古事記の『小治田』 〔273〕

古事記の『小治田』


古事記最後の天皇、豐御食炊屋比賣命(推古天皇)が坐したのが小治田宮であったと伝える。「小治田」が登場するのは建内宿禰の御子、蘇賀石河宿禰が祖となった小治田臣が最初であって、その後小治田宮も含めて計四回登場する。同名の場所が、表記も変わらず複数回登場することは、そんなに多くはない。


<蘇賀・蘇我>
何らか重要な地域であったとも思われる。またこの文字列に含まれる「小」の文字に潜められた意味も古事記全般を通じて大切な事柄、特に境の地形、を示していると推測される。

小治田宮の場所を求めつつ「小」の意味も併せて読み解いてみようかと思う。

「蘇賀」の示すところは既報で述べたように現在の京都郡苅田町稲光辺り、白川の流れる大きな谷間であると比定した。「蘇」の意味も併せて紐解いた結果である。

そこに石河宿禰が「蘇我臣、川邊臣、田中臣、高向臣、小治田臣、櫻井臣、岸田臣等之祖」となった記述される。

詳細はこちらを参照願うが、この入江に隈なく散りばめられた配置であることが判る。「小治田臣」はこの地の東端にあり、仁徳天皇紀の「墨江」に面するところと推定した。


<小治田臣・岸田臣>
山稜の端で小高くなったところが三角形の頂点を示すことから、その近傍を「小治田」と比定した。

現在は様々に開発されて当時の地形そのものは残されていないようであるが、基本的な地勢を推測することは可能と思われる。

山間の谷間よりは遥かに広く傾斜も都合良くあって、早期に治水された田を作ることができた場所と思われる。

また「岸田臣」の「岸」=「山+厂+干」と分解される。「山+厂」=「山麓の崖」であり、「干」の甲骨文字は「先が二股に分かれた武器」と解説される。

これもその文字の形通りに伸びた山稜の端が二股に分かれた地形を示す場所が見出だせる。標高は8-10mであり、縄文海進を考慮しても何とか水田にできたところであろう。まさに文字通りの岸にある田であったと推測される。「干」の類似の用法はこちら参照願う。


<橘小門>
そもそも「小」が登場するのは、あの竺紫日向の「橘小門」には伊邪那岐が禊祓を行った阿波岐原がある。図に示すように当時の海面から汽水湖となっていた水辺に面するところと推定した。

ここに三つの小高い丘が三角形に並んでいる場所を「橘小門」に比定した。この地点が定まることによって一気に竺紫日向の詳細が浮かび上がって来たのである。

「小」に潜められた意味は重要なランドマークを表していることが判る。竺紫日向の地に置いて海に絡む主要な地点の一つであろう。古事記の説話に幾つか登場するが、後日に譲る。

「橘」=「多くの支流が寄り集まる谷間」現在の汐入川の畔に当たる。孔大寺山系から流れ出る川を集めて流れる川である。そして当時の汽水湖に注ぐ。

豊かな自然に恵まれてはいるが、広大な水田となるには多くの時間を要したところでもある。


「小」は、また、筑紫のランドマークでもある。現在の「小倉」に含まれる。これも全く同様の地形象形なのである。古事記の「小」に潜められた意味は果てしなく奥深いものであることが読み取れる。


<小>
仲哀天皇紀の「小河」、また垂仁天皇紀の落別王が祖となった「小月之山」に含まれる「小」である。

これらは出雲国と伯伎国(筑紫国)との端境に存在する場所として記述されている。まさに重要な地域であろう。

根之堅洲国の「堅洲」を「小」の点の一つと見做していると思われる。黄泉国のランドマークと重なる。幾重にも重ねて主要な地形を表現しているのである。

同様の谷の地形を「小」とした例に神倭伊波禮毘古命が娶った阿比良比賣の父親「阿多之小椅君」が居た。

上記と比較すると、小ぶりな谷に類似する地形を見出すことができる。この地も熊曾国との端境に当たる主要地点であろう。


<阿多之小椅君・阿比良比賣>

豐御食炊屋比賣命の御子に「小治田王」そして自らが天皇となって「小治田宮」に坐したと告げられる。

上記の蘇賀石河宿禰が祖となった「小治田臣」の地を示すものと思われる。残念ながら彼らが坐した場所の詳細を求めるわけにはいかないが、宮は台地の上にあったと推測される。

近淡海国の難波津の入り口を望む高台、仁徳天皇紀の墨江之中津王の時代とは大きく異なっていたであろう。

がしかし、現在の地形とは掛け離れた入江の様相であったとも思われる。千数百年の時の重みを感じさせられるところである。

最後に上記とは些か趣の異なる「小」の用法の例を示す。蘇賀石河宿禰の兄弟「許勢小柄宿禰」に含まれる「小」の文字である。

「許」は「許(モト)」=「下、元」として「山の下(麓)」とする。「勢」=「二つの山陵に挟まれた丸く小高いところ」と紐解いた。神倭伊波禮毘古命が娶った比賣の母親勢夜陀多良比賣などで登場した文字である。


<許勢小柄宿禰>
難解なのが「小柄」であろう。困った時には、文字合わせ、勿論地形(山稜)である。

期待通りに安萬侶くん達は埋め込んであったようである。「柄」=「木(山稜)+丙」である。尺岳、金剛山(佐佐紀山)及び雲取山が作る山陵に見事に当て嵌ることが判る。

ドンピシャリ過ぎて日本書紀はこの宿禰をスルーした、のであろう。追い打ちをかけるように「小」の地形を示す台地となった山稜の端が、これもピッタリ収まるのである。

遠賀川及び彦山川が合流する、その最下流域に属する。重要な地点であり、佐佐紀山は幾度となく登場するランドマークである。「許勢小柄」は…、
 
[丙]字形の山稜の麓が丸く小高くなって
[小]字形に延びた山稜があるところ

…と紐解ける。

何とも自在な文字使い、であろう・・・が、これが読めなければ古事記は伝わらないのである。勿論、「小」の用法は古事記中大半が「小さい」であることは間違いないが・・・。


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以下に豐御食炊屋比賣命の段の全文を掲載する。


<小治田宮>
古事記原文…、

妹、豐御食炊屋比賣命、坐小治田宮、治天下參拾漆戊子年三月十五日癸丑日崩。御陵在大野岡上、後遷科長大陵也。

「小治田」は宗賀にある。「小治田王」が坐したところに重なると思われる(前記の地図を参照)。

三十年以上も君臨したらしいのであるが、古事記は語ることを辞めた、ということであろう。

陵墓は初め「大野岡上」とある。おそらく香春町高野の岡の上と思われる。移して科長大陵」にあると言う。上図の行橋市入覚であろう。最後に纏めて御陵は図<科長の陵墓>示す。