古事記の『遠津』
古事記の中で「津」を表わすのに、邊津ー(中津)ー奥津シリーズの「奥津」と表題の「遠津」が見られる。前者は海辺から近い方を邊津、内陸部に入った、所謂奥にある津を「奥津」と表記していると読み解いた。胸形の三女神の例がある。また伊邪那岐・伊邪那美の神生みの中でも用いられる表記である。
これに対して「遠津」はシリーズでは用いられることはなく、即ち「邊」、「近」などが対になって登場することはなく、単独で「遠」と記されるようである。「津」を表す場合以外でも同様であり、対比されることはなく単独である。このことから「遠」そのものが地形を象った文字として使用していると思われる。
そんな背景で「遠津」が登場する場面を纏めてみることにした。古事記中では三回出現する。年代の早いものから順に・・・。
1. 天狹霧神之女・遠津待根神
大国主命の子孫が「天」及び「比比羅木」を彷徨う記述に登場する。「比比羅木」の地から「天」に舞い戻った段である(詳細はこちらを参照)。日腹大科度美神が天狹霧神之女・遠津待根神を娶る。「天」の「遠津」とは?…古事記中初出の津である。多比理岐志麻流美神が坐した近隣の現在の芦辺港に対しての「遠津」は勝本浦もしくはタンス浦であろう。
<天狭霧・神遠津待根神・遠津山岬多良斯神> |
「天狹霧神」(「天」の狭い切通があるところの神)の居場所は現在の国道382号線が通り勝本港に降りる「切通」の近隣と推定できる。
伊邪那岐・伊邪那美が生んだ三十五神の一人、実体のある「天」に住まう神であった。現地名は勝本町西戸触である。
遠津の「遠」を「辶+袁」と分解すると、「袁」=「ゆったりとした衣(山麓の三角州)」と紐解ける。
「衣」は幾度となく登場する文字で、襟元の三角形を模したものと思われる。「辶」=「進む、延びる」とすると…、
遠(ゆったりとした山麓の三角州が延びる)|津(入江)
「待」の文字解釈を如何にするか?・・・。「待」=「彳(交わる)+寺」と分解すると「寺」が現れて来る。「寺(時)」=「蛇行する川」と紐解いた。
伊邪那岐の禊祓で誕生した時量師神で解釈した。「時」=「之」=「蛇行する川」と同様と思われる。「遠津待根神」は…「遠津」を簡略に表して…、
遠津(ゆったりと延びた三角州がある津)|待(交わり蛇行する川)|根(根元)
…「ゆったりと延びた三角州がある津で交わりながら蛇行する川の根元」と紐解ける。勝本浦には見出せないが、タンス浦に注ぐ幾本かの合流しながら蛇行する川が見られる。その根元(源流)を示していると思われる。父親天狭霧神に隣接する地である。
上記したように「遠津」は神岳を中心とした距離並びに表の津(芦辺)に対して奥にあるという意味も重ねているように思われる。勝本浦は後代には朝鮮通信使の接待所などがあったとか、よく知られているように対馬と渡海の要所であったところである。大国主命の後裔とは直接関連するところではなかったのかもしれない。
御子の「遠津山岬多良斯神」については、<須佐之男命・大国主命>を参照願う。「山岬」が付加されていることから、坐していたのは小高いところ、現在の平神社辺りではなかろうか。
2. 丹波之遠津臣之女・名高材比賣
開化天皇の御子、日子坐王が日子国の袁祁都比賣命を娶って誕生した山代之大筒木眞若王の後裔に登場する。その中に高材比賣の親の名前が「丹波之遠津臣」と記述される。丹波にある「遠津」を求めることになる。山代之大筒木眞若王までの系譜の詳細はこちらを参照願う。
古事記原文…、
山代之大筒木眞若王、娶同母弟伊理泥王之女・丹波能阿治佐波毘賣、生子、迦邇米雷王。此王、娶丹波之遠津臣之女・名高材比賣、生子、息長宿禰王。
山代之大筒木眞若王の御子、迦邇米雷王が娶った相手が「丹波之遠津臣之女・名高材比賣」と記される。御子の息長宿禰王が誕生して、「息長」の名前が本格的に現れ始めるのである。丹波の遠津に居た比賣は間違いなく息長の血統を有していた、と告げている。
そこに含まれる「丹波之遠津」は何処であろうか?…「中津」を中心とする旦波国における「遠津」とは?…考えてみれば「中津」が単独であったと考える方が誤りであろう。
例によって「上・中・下」の三つを揃えていた筈であろう。あるいは「遠・中・近」か・・・。
例によって「上・中・下」の三つを揃えていた筈であろう。あるいは「遠・中・近」か・・・。
現在の稲童に、上記の氷羽州比賣命の時にも見受けられたが「稲童上・稲童中・稲童下」という地名が記載されている。
「遠津」は、大国主命の段で登場した遠津待根神に含まれていた。「遠」=「辶+袁」と分解して…、
…であった。下記の「息長」(端が長い)の表記と重なる。「端」=「三角州」である。丹波比古多多須美知能宇斯王の「多多須」のことを示していることが解る。
「丹波之遠津臣」の居場所は美知能宇斯王の近隣、現在の奥津神社辺りと推定される。
古事記の表記に従えば、「奥」は海辺から内陸に入り込んだところを示す。海進の後退に伴った言い換え、かもしれない。
「遠津」は、大国主命の段で登場した遠津待根神に含まれていた。「遠」=「辶+袁」と分解して…、
ゆったりと延びた三角州がある入江
<山代之大筒木眞若王系譜> |
古事記の表記に従えば、「奥」は海辺から内陸に入り込んだところを示す。海進の後退に伴った言い換え、かもしれない。
難波津があり、仲津がありって後に名付けられた地名からの類推で考えがちであるが、地形象形そのものの表現であった。
この国の西境等々これまでに随分とわかって来ていたような錯覚に陥っていたが、中心の「中津」周辺が漸くにして見えてきた、と思える。読み解いてみるものである。
この国の西境等々これまでに随分とわかって来ていたような錯覚に陥っていたが、中心の「中津」周辺が漸くにして見えてきた、と思える。読み解いてみるものである。
高材比賣の「高材」は何を意味しているのであろうか?…当初は後ろにある覗山の木材を示し、海辺にありながら「木」の匂いを表す命名、山が接近する地形であってこその場所であろう…と、纏めた。
が、古事記はそんな叙情的な記述はしない、というかそれもありだが、地形を示すことも忘れない、であろう。
「材」=「木+才」と分解すると…、
…「山稜を僅かに高くなったところ」と紐解ける。
「才」は名詞としては「才能」などに使われるが副詞として「僅かに、やっと」という意味を持つとある。日常は余り使用されないようでもある。木を細かく切り分けたのが「材」である。
字源として「川の堰の材料の象形」いずれにしても日常的に使われている意味とは些か離れているように感じるが、調べて真に適した場所が見つかり、一安心、というところであろうか・・・。
上図<山代之大筒木眞若王系譜>に系譜を示した。「息長」一族が広がって行く様を伺うことができる。息長帶比賣命(後の神功皇后)の名前も見える。応神天皇~仁徳天皇と天皇家の隆盛に関わる繋がりの始りとなる。
3. 木國造荒河刀辨之女:遠津年魚目目微比賣
御眞木入日子印惠命(崇神天皇)の娶りに登場する。木国にも「遠津」があったことを知らされる。
古事記原文…、
御眞木入日子印惠命、坐師木水垣宮、治天下也。此天皇、娶木國造・名荒河刀辨之女遠津年魚目目微比賣、生御子、豐木入日子命、次豐鉏入日賣命。二柱。
何だか「沈魚落雁閉月羞花」の類かも?…上記に従って…、
…「ゆったりと延びた三角州がある津(川の合流するところ)の鮎のように目が何とも言えないほど美しい比賣」となる。中国四大美人に勝るとも劣らない、とでも言えるかな?・・・。
木国に流れる現在の山国川(福岡県と大分県の県境)に耶馬渓・青の洞門という秘境がある。
その少し下流で屋形川(図の右下)との合流点があり、更に少し下流に「鮎帰」という地名がある。
回遊する鮎の住処であろうか。この比賣の美しさは尋常ではなかったようである。
おっと、美人に見とれて肝心の「荒河」…説明するまでもなく…「荒河」=「山国川」である。
が、古事記はそんな叙情的な記述はしない、というかそれもありだが、地形を示すことも忘れない、であろう。
「材」=「木+才」と分解すると…、
高(高い)|材(山稜を僅かに)
…「山稜を僅かに高くなったところ」と紐解ける。
「才」は名詞としては「才能」などに使われるが副詞として「僅かに、やっと」という意味を持つとある。日常は余り使用されないようでもある。木を細かく切り分けたのが「材」である。
字源として「川の堰の材料の象形」いずれにしても日常的に使われている意味とは些か離れているように感じるが、調べて真に適した場所が見つかり、一安心、というところであろうか・・・。
上図<山代之大筒木眞若王系譜>に系譜を示した。「息長」一族が広がって行く様を伺うことができる。息長帶比賣命(後の神功皇后)の名前も見える。応神天皇~仁徳天皇と天皇家の隆盛に関わる繋がりの始りとなる。
3. 木國造荒河刀辨之女:遠津年魚目目微比賣
御眞木入日子印惠命(崇神天皇)の娶りに登場する。木国にも「遠津」があったことを知らされる。
古事記原文…、
御眞木入日子印惠命、坐師木水垣宮、治天下也。此天皇、娶木國造・名荒河刀辨之女遠津年魚目目微比賣、生御子、豐木入日子命、次豐鉏入日賣命。二柱。
何だか「沈魚落雁閉月羞花」の類かも?…上記に従って…、
遠津(ゆったりと延びた三角州がある津)|年魚(鮎)
目目(両目)|微(何とも言えないほど美しい)
目目(両目)|微(何とも言えないほど美しい)
…「ゆったりと延びた三角州がある津(川の合流するところ)の鮎のように目が何とも言えないほど美しい比賣」となる。中国四大美人に勝るとも劣らない、とでも言えるかな?・・・。
<遠津年魚目目微比賣> |
その少し下流で屋形川(図の右下)との合流点があり、更に少し下流に「鮎帰」という地名がある。
回遊する鮎の住処であろうか。この比賣の美しさは尋常ではなかったようである。
おっと、美人に見とれて肝心の「荒河」…説明するまでもなく…「荒河」=「山国川」である。
木國造荒河刀辨の「刀辨」は何と紐解くか?…、
…「刀の形の地」と読み解ける。「辨」=「別」と同義と解釈する。
図中の上部、荒河に接するところを指し示していると思われる。沖積の進行が未熟な時代、大河に突き出た崖のような場所、後に登場する「淵」と表記される場所であろう。
因みに類似の「戸辨」=「[戸]の形の地」(山稜に囲まれた凹の地形)と解釈するのであるが、Wikipediaによると・・・、
「ヤマト王権以前の称号(原始的カバネ)の一つで、4世紀以前の女性首長の名称に使われた。後に一般的姓や地名として使われる。トベはトメ(戸賣、斗女、刀咩)の語源でもある」
・・・十把一絡げでは勿体無い、地形を示しているのに・・・。
現在の河口、大分県豊津市辺りの氾濫は絶え間なく、河流も大きく変化した経緯があるという。この大河の畔を豊かな地にするには多くの時間が必要であったと推測される。
遠賀川、紫川、長峡川、犀川、小波瀬川等の古事記に登場すると比定した大河と全く変わりがない、いや荒河と名付けるならもっと人々に驚異を示す状態であったと思われる。
刀([刀]の形)|辨(別:地)
図中の上部、荒河に接するところを指し示していると思われる。沖積の進行が未熟な時代、大河に突き出た崖のような場所、後に登場する「淵」と表記される場所であろう。
因みに類似の「戸辨」=「[戸]の形の地」(山稜に囲まれた凹の地形)と解釈するのであるが、Wikipediaによると・・・、
<遠津> |
・・・十把一絡げでは勿体無い、地形を示しているのに・・・。
遠賀川、紫川、長峡川、犀川、小波瀬川等の古事記に登場すると比定した大河と全く変わりがない、いや荒河と名付けるならもっと人々に驚異を示す状態であったと思われる。
比賣の在処も大河荒川沿いではなく、少し西側の英彦山山系が作る多くの谷間の一つに位置していたのであろう。図に示されているように有田川と東友枝川とが作る「津」これを「遠津」と表現したと推定される。
御子は「豐木入日子命、次豐鉏入日賣命。二柱」と記述される。豐鉏比賣命は「拜祭伊勢大神之宮也」と書かれているが、現在の斎宮との関係は不詳のようである。詳細はこちらを参照願う。
上記の三つの「遠津」の地形的特徴は明らかであろう。三角州が作るゆったりと延びる様を「遠」と表記したと解釈される。因みにその長さは、0.7~1.5kmであることが解った。古事記編者の地形的掌握は、実に素晴らしいものであることをあらためて知ることになった。
また「津」以外の用いられている場合も同様の地形を象形していると思われる。「邊」「近」と無関係に使用されることと全く矛盾しないことも再確認できたようである。
御子は「豐木入日子命、次豐鉏入日賣命。二柱」と記述される。豐鉏比賣命は「拜祭伊勢大神之宮也」と書かれているが、現在の斎宮との関係は不詳のようである。詳細はこちらを参照願う。
上記の三つの「遠津」の地形的特徴は明らかであろう。三角州が作るゆったりと延びる様を「遠」と表記したと解釈される。因みにその長さは、0.7~1.5kmであることが解った。古事記編者の地形的掌握は、実に素晴らしいものであることをあらためて知ることになった。
また「津」以外の用いられている場合も同様の地形を象形していると思われる。「邊」「近」と無関係に使用されることと全く矛盾しないことも再確認できたようである。