2019年2月3日日曜日

若倭根子日子大毘毘命:葛城之垂見宿禰・鸇比賣・建豐波豆羅和氣 〔313〕

若倭根子日子大毘毘命(開化天皇):建豐波豆羅和氣


若倭根子日子大毘毘命(開化天皇)が最後に娶った比賣は、葛城之垂見宿禰の鸇比賣であったと伝える。干からびた土地の葛城を豊かな水田に変えた宿禰だったのであろう。「垂見(水)」の解釈は、連なる池を作った治水方法ではないかと解読した。急傾斜の土地を開拓するには欠かせない技術であろう。

天皇はこの技術の伝播を目論んだ、のであろうか?…旦波の地を手中に収めるには是非とも獲得したいものであったと推測される。歯向かう者が居れば、大将軍の派遣、そうでなければ姻戚を通じ、その地の開拓に必要な技術を持ち込んで行く、真に戦略的である。

誕生した御子の名前に刷り込まれた場所を求めて、その意図を探ってみよう。因みに、日本書紀には関連する人物は一切登場しない。葛城、豐、旦波など、書紀の編者達にとって繋がっては困る地名の羅列だから、であろうか・・・。

古事記原文…、

若倭根子日子大毘毘命、坐春日之伊邪河宮、治天下也。此天皇、娶旦波之大縣主・名由碁理之女・竹野比賣、生御子、比古由牟須美命。一柱。又娶庶母・伊迦賀色許賣命、生御子、御眞木入日子印惠命、次御眞津比賣命。二柱。又娶丸邇臣之祖日子國意祁都命之妹・意祁都比賣命、生御子、日子坐王。一柱。又娶葛城之垂見宿禰之女・鸇比賣、生御子、建豐波豆羅和氣。一柱。此天皇之御子等、幷五柱。男王四、女王一。故、御眞木入日子印惠命者、治天下也。

上記でも引用したが、祖父の葛城之垂見宿禰、母親の鸇比賣についてはこちらを参照願う。

建豐波豆羅和氣王

御子の建豐波豆羅和氣王は「道守臣、忍海部造、御名部造、稻羽忍海部、丹波之竹野別、依網之阿毘古等之祖也」と書かれている。

豐波豆羅和氣」は…、
 
([豐])|(端)|豆(高台)|羅(連なる)和(しなやかに曲がる)|氣(様子)

…と紐解ける。「豐」=「多くの段差がある高台」であり、豐国の由縁であった。現在の御所ヶ岳・馬ヶ岳山系の地形を示している。
 
<建豐波豆羅和氣王>
その端(ハタ)に連なる高台が広がり、しなやかに曲がっている様を述べていると解釈される。

「和氣」=「別(地)」なのだが、更に地形的な情報を付加した表記であろう。

現地名の京都郡みやこ町豊津が中心となっている地域と思われる。

王が坐した場所の特定は難しいが、後代に国分寺などがあった豊津神社辺りだったのではなかろうか。

秡川の対岸には旦波之竹野がある。この近隣は古代の早期に開かれた土地であったと思われる。その後も交通の要所として重要な位置付けであったと推測される。

「道守臣」は道の守をする人のようであるが…その意味もあるかも?…やはり地形象形の表記であろう。「道」=「首」、「守」=「宀+寸」で「寸」=「時」と変換する。全て既出の文字解釈である。
 
道([首]の形)|守(山麓に蛇行する川があるところ)

…と紐解ける。これだけの条件を満たすところは少なく、現在の行橋市矢留、豊津駅の近隣を示していると思われる。文字解釈の詳細は、伊邪那岐の神生みの段を参照。
 
<建豐波豆羅和氣王:祖>
「忍海部造」は、母親の実家の葛城にも登場するところであるが(彦山川沿い)、何も付加されないことからこの地の近隣と思われる。

「忍海」=「海を忍ばせている」とすると、矢留山の西麓、犀川(今川)の「忍海」場所と推定される。

「御名部造」の「御名」は建御名方神に含まれる。同様に解釈をすると…、
 
御(臨む)|名(山麓の三角州)

…「山麓の三角州を目の当たりにするところ」と読み解ける。山稜の端にある典型的な三角州の場所であることが判る。現地名は矢留に含まれているようである。

「丹波之竹野」は上図<建豐波豆羅和氣王>に示した通り、この王の子孫が旦波へと侵出したことを告げている。旦波の大縣主・由碁理の土地への入り込んで行ったのであろう。大縣主解体を目論んだ結果を表していると思われる。

依網之阿毘古」の「依網」の詳細は後の崇神天皇紀で述べるが、図に示した現地名行橋市矢留辺りである。興味深いのが、「阿毘古」で、これは景行天皇の御子神櫛王が祖となった木國之酒部阿比古」の表現に類似する。

二つの台地に挟まれたところに居たのであろう、と思われた。全く同じような地形を示す。現在の名称矢留山と八景山である。この二つの山に挟まれた池(松田池、裏ノ谷池)の近傍にいたと思われる。

最後の「稻羽忍海部」は、下流域に近付き凹凸が見え辛くなって「稲羽」(稲のように嫋やかに曲がって羽のように広がったところ:大国主命の段)の羽の判別が難しくなっているが、辛うじて現在の池の周辺に台地が見出せる。図に示した場所、現在は行橋市東流末という地名となっている。

全体を眺めると建豐波豆羅和氣王の子孫が犀川(今川)下流域の東岸を埋め尽くしたような配置となる。葛城之垂見宿禰の治水技術が伝播されて行ったことを告げているのであろう。「池及び水路」作りに基づき、中でも海水と河川が混じる近辺の水田作りの技術の重要性を浮かび上がらせているように受け取れる。

御子達の度重なる移動は保有する技術の拡散を狙った、極めて戦略的な施策であった受止められる。真に素晴らしいことを古事記は伝ている。感動である。