2018年10月19日金曜日

沼名倉太玉敷命:伊勢大鹿首と息長眞手王の比賣 〔272〕

沼名倉太玉敷命:伊勢大鹿首と息長眞手王の比賣


沼名倉太玉敷命(敏達天皇)の娶りの続きである。これも概略は述べて来たのだが、少々加筆・訂正を余儀なくされるようで、改めて整理してみようかと思う。沼名倉太玉敷命の出自はこちらを参照。該当箇所の古事記原文は…、

又娶伊勢大鹿首之女・小熊子郎女、生御子、布斗比賣命、次寶王・亦名糠代比賣王。二柱。又娶息長眞手王之女・比呂比賣命、生御子、忍坂日子人太子・亦名麻呂古王、次坂騰王、次宇遲王。三柱。

…である。

伊勢大鹿首之女・小熊子郎女

伊勢からの娶りは極めて珍しい。この時代になって伊勢の地にも御子を育てられる財力が蓄えられて来たのであろう。大河の紫川の下流域に属する地であるが、稀有な出来事と思われる。現在に至っては広大な耕地(寧ろ団地開発が進んでいる)を有する中流域となっているが、未だ治水が及んでいなかったのであろう。遠賀川と同じく下流域の開拓はずっと後代になってからと推測される。

<伊勢大鹿首の比賣と御子>
大鹿首
 
「大鹿」は大きな鹿の生息地ではなかろう。ひょっとすると鹿もいたのかもしれないが…上記の如く伊勢がある福智山山麓を示していると思われる。

既出に従って「大」=「平らな頂の山陵」、「首」=「囲まれた凹の地」と解釈する。今に残る下関市彦島の「田の首」の表現に類似する地形とすると…、
 
大鹿(平らな頂の山陵)|首(囲まれた凹地)

…「平らな頂の山稜の麓にある囲まれた凹の地」と紐解ける。この特異な地形を求めると、現在の北九州市小倉南区蒲生にある虹山と蒲生八幡神社に挟まれたところと推定できる。

採石場が近接し、かなり地形は変化していて、山頂の地形は不確かだが、決して尖った山形とは思われない。また、その麓は「首」の形を留めていると思われる(俯瞰図参照)。当時の地形を推定する上でかなり際どい状態となっているところの一つであろう。
 
<伊勢大鹿首俯瞰図>
「小熊子郎女」は紫川の蛇行の「熊=隅」、それが「小」=「小さく」、「子」=「突き出たところ」と解釈される。

八幡神社の近傍であろう。御子に「布斗比賣命、次寶王・亦名糠代比賣王」が誕生する。
 
布斗=布を拡げたような柄杓の地

…「首」の中を示すと読み解ける。次いで「寶」=「宀+玉+缶+貝」と分解すれば…、
 
寶=宀(山麓)|玉・缶(高台)+貝(谷間の田)

…「山麓の高台にある谷間の田」があるところに座している王と読み解ける。別名の「糠代」の「糠」の意味は既に登場した丸邇・春日之日爪の「糠若子郎女」「糠子郎女」で、「糠」=「崖が引っ付くような地形」と紐解いた。虹山と鷲峯山の麓の崖が作る地形と推定される。

ここでも「細かな田」の意味も含まれているであろう。丸邇・春日之日爪の場合と同様に決して広い場所ではない。纏めて示すと上下図のようになる。
 
息長眞手王之女・比呂比賣命

<比呂比賣命>
継体天皇紀で旦波国に居たと推定した息長眞手王が再度登場する。麻組郎女以外に比呂比賣が居たと記される。

その比呂比賣命を娶って忍坂日子人太子・亦名麻呂古王、次坂騰王、次宇遲王」が誕生したと伝える。
 
比(並ぶ)|呂(棚田)

…「呂」は見たまんまの象形表現と紐解いた。「眞手」の西側に当たるところである。

それにしても覗山山塊及びその周辺は、すっかり埋まった様相である。

「玖賀耳之御笠」「丹波之遠津」から始まった「息長」の比定、これにて一件落着、と言ったところであろうか。文字通り…息長く…皇統に関わる地域(一族)であったと伝えている。

現地名行橋市馬場辺りの棚田を示していると思われる。多くの貯水池が現存しているところである。御子達はそれぞれが地形象形として命名されているとするのだが・・・。
 
<忍坂日子人太子・坂騰王・宇遲王>
御子達は何処に散らばったのであろうか?…長男に「忍坂」と修飾される。勿論「息長」の地ではなく、「長谷」にあるところと思われる。

「人」に着目すれば、図に示したような地形象形ではなかろうか。幾度か登場の「麻呂古」=「細かい積重なる田を定める」と解釈した。

「人」の足元と金辺川との間の狭い地を表しているのであろう。坐したところは現在二つの寺が並ぶところではなかろうか。

「坂騰」=「坂上がり」と読める。下る坂の途中に一段高くなったところではなかろうか。現在の清祀殿がある場所と思われる。

山稜の端が寄り集まり、それが交差して坂の途中が高くなるという複雑な地形を示している場所ではなかろうか。

「宇遲」=「山麓の治水されたところ」幾度も登場した文字列である。「丸邇」に関連して表記された「宇遲」も固有の名称ではなく、その地の様子を表す表現と読み解ける。

考えれば古事記の時代に「固有」という概念はなかったかもしれない。仮にあったとしても例外的であろう。何をもって固有と言うのか、従来よりそう言われていることのみが根拠?…従来が希薄である。

不思議と言えばそうなのだが、現地名の香春町採銅所近隣は既に幾度か登場した。が、御子の住まいとした場所は空白のところであった。古事記の徹底した几帳面さに恐れ入る次第である。これで「長谷」の地も、ほぼ古事記の地名で敷き詰められたようである。

「日子人」は太子であった。その皇位継承の予定がそうはならなかった。理由は不明だが後に彼の御子が即位することになる。またもや皇位継承の捻れが生じていたのであろう。息長一族であって宗賀一族ではなかったことが要因であろうが、古事記は、益々無口である。