天國押波流岐廣庭天皇の比賣:豐御氣炊屋比賣命
沼名倉太玉敷命(敏達天皇)が天國押波流岐廣庭天皇(欽明天皇)の比賣:豐御氣炊屋比賣命(後の推古天皇)を娶って「靜貝王・亦名貝鮹王、次竹田王・亦名小貝王、次小治田王、次葛城王、次宇毛理王、次小張王、次多米王、次櫻井玄王。八柱」もの御子が誕生する。
豐御氣炊屋比賣命は宗賀之稻目宿禰大臣之女・岐多斯比賣の御子であり、当然のことながら「宗賀」に坐した御子達となる。比賣の兄弟姉妹が十三人、それに「宗賀之倉王」を加えると総勢二十二人もの御子が一気に散らばることになる。前代未聞の出来事があった時代と伝える。
まるで天皇家草創期のような状況であるが、「宗賀」の豊かさを表している。そして同時にそれを背景にした皇統への関わりが増幅されて行くことを述べていると思われる。既にその概略は記したが詳細を含め纏め直してみようかと思う。
庶妹豐御食炊屋比賣命
欽明天皇紀には豐御氣炊屋比賣命の表記であったが、「氣→食」に置き換えられている。敏達天皇は異母の妹を娶った。母親には負けるものの八名の御子を授けられたのである。宗賀の地に収まるのか、御子の名前を紐解いてみよう。御食炊屋比賣命の坐したところの紐解きはこちら。
靜貝王・竹田王
<静貝王・竹田王・葛城王・小治田王> |
本来の名前に含まれる「静」は何と解釈されるか?…「静」=「青+争」であって、「青」=「押し沈める」(「忍」と類似)の意味を持つ。
これから通常の「静か」の意味が発生するのだが、地形象形的には「争うことを押し沈める」とは…、
川の蛇行に逆らわない様
全く同じ蛇行の状況とは思えないが、基本的な様子を現在にまで残していることに驚きを感じざるを得ない。古事記が示す地形は、河口付近を除けばかなりの確度で現存していることをあらてめて知ることになったようである。
両者共に現地名の京都郡苅田町稲光に含まれる。二人の王の居場所は稲光の丘陵であろう。
小治田王・葛城王
大長谷王が八瓜之白日子王を生き埋めにした場所として登場した。「八瓜」の比定場所、現地名苅田町葛川の南側とした。小治田王は西工大グラウンド南端辺りに居たのではなかろうか。
葛城王は既出の解釈「ゴツゴツした渇いた土地」に居たと思われる。山麓と推定される。現地名は稲光と葛川に跨るところと思われる。葛川の由来ではなかろうか。葛城、葛原、葛川の地名は「葛」の地形象形に基づく表現で統一されていることが判る。
宇毛理王・小張王
文字解釈の応用問題、である。「宇毛理」を一字一字解くと…、
宇(山麓)|毛(鱗)|理(整った筋)
…山麓にあるうろこ状の小高いところが畑地に区画整理されているところと紐解ける。現地名、苅田町黒添と推定される。宇毛理王はこの丘の上に居たのであろう。
…上図の黒添の少し北側にそのものズバリの小高い張り出しが見える。
現地名は苅田町法正寺である。小張王はこの小さな丘の上、であろう。「尾張」が解ければ「小張」は解ける、これも余談だが・・・。
多米王・櫻井玄王
「多米」の解釈は簡単なようで少し紐解きパターンが異なった。「米」は何を模しているのであろうか?…田の向きが異なっている様を示しているようである。
<豐御食炊屋比賣命と御子> |
多(田)|米(田が斜めになっている様)
1,300年以上も前の田んぼの形が残っているのか?…と不安を抱えながら探索すると、宗賀の北側、谷に近付いた場所で田が斜めになっているところが見つかる。
現地名は苅田町山口にある。山の斜面に逆らわずに棚田を作ると宗賀全体の南北に区画された田とは異なった配置になっている。
王はそこにある諏賀神社(⛩)辺りに居たのであろう。
櫻井玄王は前出の櫻井之玄王を引継いだのだろう。八咫烏の末裔が住む地である。王は八田山稲荷神社(⛩)辺りに居たと思われる。全員を纏めた図をあらためて見ると、宗賀の主要地域がグンと詰まって来た感じである。
些か奥まったところにある入江と雖も川の上流域から河口域までを棚田にした実に稀有な場所であったと思われる。その出自もさることながら宗賀之稲目が宿禰大臣になり、所有する土地の財力で皇統を引き寄せた感じである。
古事記が記述する範囲においてこれだけの財力を持ち得たのは蘇我一族以外には出現しなかったようである。出雲(北部)、阿多、旦波、多遲麻、息長、春日、丸邇等々、そして天皇自らが切り開いた葛城(蘇我氏の祖)、これらは谷間あるいは治水に工夫がいる台地の地形である。見渡す限り一面の田にするには至っていなかったのであろう。
その頂点に居た豐御食炊屋比賣命、古事記は推古天皇で記述を終える・・・。