2018年10月1日月曜日

檜坰之廬入野宮 〔265〕

檜坰之廬入野宮


兄の廣國押建金日命(安閑天皇)に御子もなく亡くなって、弟の建小廣國押楯命(宣化天皇)が即位したと告げる。娶りの地域の趣が違って来るようで、偶々なのか、戦略的なのか全く語られることはないのだが、同一地域からの娶りは、様々な弊害を生じることになる、かもしれない。

古事記原文…、

、建小廣國押楯命、坐檜坰之廬入野宮、治天下也。天皇、娶意祁天皇之御子・橘之中比賣命、生御子、石比賣命訓石如石、下效此、次小石比賣命、次倉之若江王。又娶川之若子比賣、生御子、火穗王、次惠波王。此天皇之御子等、幷五王。男三、女二。故、火穗王者、志比陀君之祖。惠波王者、韋那君、多治比君之祖也。


建小廣國押楯命(宣化天皇)が坐した「檜坰之廬入野宮」と記される。難解な文字が並ぶ名前なのであるが・・・檜」「入」は、先が尖がった地形象形、「坰」は「境」である。「輕の境」彦山川と遠賀川の合流地点を思い出させるのだが、ならばそうと記述されるとも思われる。

同じく品陀和氣命(応神天皇)が坐した「輕嶋之明宮」も候補に上がるかもしれない。色々と推測されて来るのだが、文字そのものには繋がらないようである。頻度は高くないが既出の「廬」は大倭根子日子賦斗邇命(孝霊天皇)が坐した「黑田廬戸宮」で出現した文字である。

おさらいになるが、廬」=「广+虍+田+皿」と分解し、「广」=「山麓」、「虍」=「虎」=「縞状の山稜」と紐解けると、結果は…、
 
 廬=縞状の山稜の麓に並べた田

…と読み解いた。まだ皆目見当も付かないが、そんな地形が「檜坰」の近くにあると告げているのであろう。「輕の境」に代わる「檜の境」…「檜」は一体何を示そうとしているのか?…地形象形していることには間違いなかろう。
 
<檜坰之廬入野宮>
「檜」=「木+人+田+日」と分解できそうである。すると「木(山陵)」但し、この場合は山稜の端であろう。それが「人」「田」「日」の地形に連なっている、と言っているのではなかろうか。

図に示した通り彦山川と中元寺川が作る三角州に「田」が並び、その後方に「輕嶋之明宮」が鎮座する配置を表したものと思われる。

「日」は「明」に含まれる。応神天皇紀にて「明宮」は「日と月の地形」のところにあった宮と紐解いた。

「檜坰」は…彦山川と遠賀川が作る州ではなく…、
 
彦山川と中元寺川が作る州の境

…と伝えていることが解った。その近傍に「廬入野宮」があったと言う。
 
縞状の山稜の麓に並べた田がある谷の入口の野

<輕嶋之明宮>
…これが宣化天皇が坐した「檜坰之廬入野宮」の場所である。現地名田川郡福智町弁城迫辺りと思われる。貴船神社があるが、その近隣であったのではなかろうか。

大倭日子鉏友命(懿徳天皇)が坐した「輕之境岡宮」の配置に酷似する。大河の合流点を臨む小高いところである。

この地は葛城の「玉手」の指先に当たるところ。葛城は大きく変貌したのであろう。

そう言えば、背中合わせの場所は、雄略天皇が都夫良意富美から貰い受けた「五處之屯宅」としたところである(處=虍+処)。

共に「虍」の地形を示す。山稜の端の地形を見事なまでに描写した表記と思われる。

建小廣國押楯命は初めて近淡海国から比賣を娶る。漸く難波の津に面した場所に繁栄がもたらされて来たのであろう。まだまだ墓所の地であることには変わりはないのだが・・・詳細はこちらを参照願う。